35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第34話 吸血鬼、高速少女に鉄の雨を走らせる

 突如として路上で火柱が上がり、爆発音が響き渡った瞬間。

 

 中央商業区に整備されていた非常システムが、一切の遅滞なく作動した。

 

 無数の街灯の光が白い色から真っ赤な警戒色へと一斉に切り替わり、路面には避難誘導のための矢印を象った光が浮き上がる。

 

 店舗の軒先からは、対能力者用の特殊な防護シャッターが重々しい音を立てて降下し始めた。

 

 道路のあちこちに設置されたスプリンクラーから、火炎能力者への対策としての消火泡が猛烈な勢いで噴出し始める。

 

 能力の事故や暴走が起こることを、最初から前提として設計された街。

 

 普通の東京のど真ん中であれば大惨事となる規模の火柱だというのに、逃げ惑う人々の足取りに致命的なパニックはない。

 

 皆が非常警報を聞いた瞬間に、手慣れた動きで避難経路へと散っていく。

 

「……これが、能力者のために作られた都市の自浄作用なのか」

 

 久我陽介は一瞬だけ、そのシステムの洗練された挙動に感心した。

 

 だが、現実はそれほど甘くなかった。

 

 今回の炎は《オーバークロック》と呼ばれる違法な能力強化ドラッグによって、男の通常出力を遥かに超えて暴走している。

 

 噴き出した消火泡は炎に触れた端からジュワッと音を立てて蒸発し、分厚い防護シャッターの一部でさえ赤熱し始めていた。

 

 街の自動設備だけでは、この熱量を完全に抑え込むことはできない。

 

 通信用のイヤホンから、皇かれんの冷静な声が響いた。

 

『境界島の警備組織へ通報しました。到着まで、最短で三分です。人命保護を最優先してください』

 

 三分。

 

 日常の時間感覚で言えば、カップ麺を待つだけの短い時間だ。

 

 しかし、能力者同士の実戦において、人間が死ぬには十分すぎるほど長い。

 

 久我は即座に、自分の脳内で状況を整理し、三人の役割を割り振った。

 

「七瀬さんは、逃げ遅れた人を全員安全な場所へ運び出してください。炎の能力者には近づかないで!」

 

「はい!」

 

「鏡宮さんは火炎と、落下物から人を守るのをお願いします。できる限り《神鏡返し》は見せない方向で」

 

「承知しました」

 

「俺は、あの屋上にいる鉄片使いを止めます」

 

 千鶴が、少しだけ不安そうに久我を見た。

 

「久我さん、一人で大丈夫ですか?」

 

「三分だけなら、なんとかします」

 

 本当のところ、大丈夫だという確信は一ミリもない。

 

 だが、あの証拠隠滅役の鉄片使いを屋上に放置すれば、一般人を救助して無防備になっている澪の背中に、致命的な凶器が撃ち込まれることになる。

 

 久我が前に出て引き受けるしかないのだ。

 

       *

 

 屋上の縁に立つ男の能力は、おそらく《鉄片操作》。

 

 周囲の屋台、看板、手すり、防護シャッター、放置された自転車などから、薄い金属片を力任せに剥ぎ取り、空中で操作する能力だ。

 

 数百個の破片を同時に浮かせて動かすことができるが、久我はこれまでの戦訓から、相手の制約を冷静に推測していた。

 

 数を増やすほど、一枚ごとの狙いの精度は下がるはずだ。

 

 高速で動かすには、指や腕で方向を物理的に指定する必要がある。

 

 大きく重い金属は操作しにくい。

 

 破片の加速と急旋回を同時に行うのは難しい。

 

 まだ完全な確証はない。

 

 だが、戦いながら見抜いていくしかない。

 

 鉄片使いが、屋上から久我へ向けて指を勢いよく振り下ろした。

 

 数十枚の金属片が、弾丸のような速度で飛来する。

 

 久我は、右腕の前腕部だけへ厚く《血装》を瞬間展開した。

 

 ガガガガガッ!

 

 血の装甲の表面に、無数の金属の破片が突き刺さり、火花が散る。

 

 完全には貫通しない。

 

 黒コートの女が放った斬撃ほどの絶対的な威力はないが、数が圧倒的に多い。

 

 同じ箇所へ連続して直撃すれば、《血装》も容易く砕かれるだろう。

 

 久我は正面からすべての金属片を防ごうとはしなかった。

 

 魔眼の焦点を絞り、敵の指先と金属片の飛来軌道を事前に読む。

 

 右腕。

 

 左肩。

 

 脇腹。

 

 攻撃が当たるであろう必要な場所へだけ、瞬間的に《血装》を移動させて弾く。

 

 鳥カゴの訓練で千鶴に投げられながら覚えた部分硬化の技術が、早速実戦で役に立っていた。

 

「防御系か。面倒な能力だな、おっさん」

 

 屋上の男が忌々しげに舌打ちをする。

 

「そちらほど派手ではありませんけどね」

 

 久我は軽口を返しつつ、男の視線を観察していた。

 

 鉄片使いの目は、久我だけを見ていない。

 

 暴走している火炎能力者。

 

 路上に落ちている赤いパッチ。

 

 破壊された店舗の惨状。

 

 そして救助活動中の澪。

 

 それらを順番に忙しなく確認している。

 

 こいつは、俺を倒すことより、パッチと暴走者を回収して証拠を消すことを優先している。

 

 目的を理解すれば、対処のしようはある。

 

       *

 

 一方、澪は火炎の波が途切れる一瞬を狙い、逃げ遅れた一般人を一人ずつ抱えて運び出していた。

 

 最初は怯えて泣く子供。

 

 次に瓦礫で足を負傷した男性。

 

 そして、転倒して動けなくなった人外の老人。

 

 吸血鬼の脚力で全速力で移動すれば、助ける相手の首の骨を折り、内臓に致命的なダメージを与えてしまう。

 

 澪は、鳥カゴで久我や剣持から習った、

 

 首を固定する。

 

 身体を密着させる。

 

 最初の加速を意図的に抑える。

 

 停止前にゆっくりと減速する。

 

 という搬送方法を忠実に守っていた。

 

 自分の強大な高速能力を、敵を殴るためではなく、一般人を安全に救助するために使っているのだ。

 

 しかし、その目立つ救助活動が、鉄片使いにとって最大の脅威と見なされた。

 

 男が指の角度を変え、数枚の金属片を澪の背中へ向けて射出した。

 

「七瀬さん、左!」

 

 久我の叫びに、澪は反射的に左へ大きく跳んだ。

 

 直前まで彼女の頭があった空間を、鋭い金属片が空気を裂いて通過していく。

 

 久我は鉄片の軌道を読みながら、同時に澪の安全も確認しなければならなくなった。

 

 視界へ流れ込む情報量が一気に限界近くまで跳ね上がる。

 

 だが、久我は《内在時間》のスイッチには手を伸ばさなかった。

 

 使えば、処理は格段に楽になる。

 

 それでも、この境界島には能力解析に長けた未知の者が多数いる。

 

 時間干渉という切り札を感知される危険は、今は冒せない。

 

 久我は通常の魔眼の情報処理能力だけで、この修羅場を乗り切ろうと必死に足掻いていた。

 

       *

 

 火炎能力者は、完全に理性を失っていた。

 

 目の前に敵がいるから攻撃しているのではない。

 

《オーバークロック》の副作用による幻覚と、過去に植え付けられた恐怖と劣等感に反応して、無差別に炎を撒き散らしているだけだ。

 

「俺は弱くない! 誰も俺を馬鹿にできない!」

 

 男の叫びとともに、赤い熱波が周囲へ渦を巻いて広がる。

 

 千鶴は、逃げ遅れた人々の前へ立ち塞がり、懐の《真澄鏡》の分鏡を開くべきか一瞬だけ迷った。

 

《神鏡返し》を使えば、この圧倒的な火炎をそのまま本人へ跳ね返すことができる。

 

 しかし、薬物で肉体の限界に達している男へこの規模の炎を返せば、彼は確実に焼け死んでしまう。

 

 さらに周囲には建物や一般人が多く、反射する方向を少しでも誤れば、被害が甚大に拡大する。

 

 千鶴は、分鏡から手を離した。

 

《神鏡返し》は使わない。

 

 彼女は身体能力強化と合気だけを用いて、落下してくる燃えた看板を蹴り飛ばし、倒れた屋台を力任せに押し出して炎の進路を塞いだ。

 

 そして、逃げ遅れた人間を抱えて安全な場所へ移動し、途中で止まっていた防護シャッターを手動で強引に引き下ろした。

 

 強力な異能があるからといって、安易に使うのではない。

 

 状況によっては、使わない方が安全だと判断する。

 

 それこそが、彼女が幼い頃から叩き込まれてきた当主としての判断力だった。

 

       *

 

 久我は魔眼で、発火能力者の身体を詳細に観察していた。

 

 手首に貼られた赤いパッチは、単に薬を一度投与しただけのシールではない。

 

 皮膚から毛細血管を通じて、少量ずつ薬剤を強制的に送り込み続けているのだ。

 

 あの三枚のパッチを剥がせば、少なくとも薬物の追加投与だけは止められる。

 

「鏡宮さん! 手首の赤いパッチです! あれが薬を入れ続けています!」

 

「分かりました。私が剥がします」

 

「待ってください。今の炎へ正面から近づくのは危険です」

 

 久我は視線を走らせた。

 

 残る一般人はあと二人。

 

「七瀬さん。あの二人を運び出したら、今度はあの人のパッチを剥がしてください」

 

「私がですか?」

 

「一度に全部取ろうとしなくていいです。炎が弱まった瞬間に、一枚ずつ確実に。近づく場所とタイミングは、俺が指示します」

 

「私が、炎の軌道を逸らします」

 

 千鶴が頷いた。

 

 三人の連携が、音もなく始まった。

 

【一枚目】

 

 千鶴が、道路脇に設置されていた分厚い耐熱防護板を軽々と持ち上げた。

 

 発火能力者が千鶴へ向けて巨大な炎を放つ。

 

 千鶴は真正面から受け止めるのではなく、防護板を斜めに構え、合気の要領で炎の奔流を上空へと滑らせて逸らした。

 

 その瞬間。

 

「七瀬さん、右から! 今!」

 

 澪が走った。

 

 炎と煙の僅かな隙間を縫うように抜け、発火能力者の右手首へと接近する。

 

 赤いパッチを一枚、指先で器用に剥がし取る。

 

 男が反射的に炎を纏った腕を振り回すが、澪はすでに安全圏へと離脱していた。

 

 一枚目の投与が停止し、発火能力者の炎の勢いが、僅かに弱まった。

 

       *

 

 鉄片使いの男が舌打ちをした。

 

 彼の目的は、あくまで薬物の回収だ。

 

 あの高速の少女がパッチを剥がして破壊してしまえば、証拠も商品もすべて失われる。

 

 男は久我への攻撃を一時的にやめ、空中に浮かべた金属片の大半を澪へと向けた。

 

 久我の魔眼が、その変化を見逃さなかった。

 

「七瀬さん、止まって!」

 

 澪が吸血鬼の脚力で急停止する。

 

 その鼻先を、数十枚の金属片が一直線に通過していった。

 

 久我は気づいた。

 

 鉄片使いは、澪の現在位置を狙ったのではない。

 

 彼女の高速移動の方向を予測して、未来の位置へ向けて偏差射撃を行っているのだ。

 

 澪が速ければ速いほど、進路は限定され、予測されやすくなる。

 

 一直線に加速するだけでは、いずれ確実に読まれて撃たれる。

 

「七瀬さん! 全速力で真っ直ぐ走らないでください! 俺が言う方向へ、細かく短く動いて!」

 

「分かりました!」

 

 ここで久我が、澪の目となりナビゲーターとなった。

 

【二枚目、三枚目】

 

 久我は鉄片使いの攻撃を捌きながら、澪へ大声で指示を飛ばす。

 

「二歩右!」

 

「低く!」

 

「止まって!」

 

「今、左へ!」

 

 澪は自分の判断だけで走らず、久我の声の通りに動いた。

 

 短い加速と急停止。

 

 壁への蹴り返しによる軌道変更。

 

 極端に低い姿勢での滑り込み。

 

 敵の予測を完全に外し続けながら、再び火炎能力者へと肉薄する。

 

 千鶴が防護板で炎を一瞬だけ上へ逸らす。

 

 澪が二枚目を剥がす。

 

 一度離脱し、久我の指示で回り込み、三枚目を剥がす。

 

 すべてのパッチが外された。

 

 しかし、すでに体内へ入り込んだ薬剤の成分が消えたわけではない。

 

 炎はすぐには収まらなかった。

 

 発火能力者は、最後の力を振り絞るようにして、巨大な火球を両手の間に作り出した。

 

 その火球は、薬を奪われたことへの怒りから、久我や澪ではなく、防護シャッターの奥で震えている無関係な群衆へ向けて放たれようとしていた。

 

 ここで初めて、千鶴が懐から分鏡を取り出し、その蓋を開いた。

 

 だが、火球を男自身へ返すことはしない。

 

《神鏡返し》を発動し、火球の軌道だけを上方向へと反射させた。

 

 巨大な火球は夜空へ向かって打ち上げられ、空中で派手に爆発し、花火のように散った。

 

 周囲にいる人々には、何かの防御能力で炎が逸れた程度にしか見えなかっただろう。

 

 その直後、千鶴が一気に発火能力者の懐へ飛び込んだ。

 

 男の腕を取り、手首を返し、重心を崩す。

 

 炎を出す方向を地面へ向けたまま、綺麗に背負い投げを決めた。

 

 男をうつ伏せに押さえ込む。

 

 千鶴が強固な身体能力強化を使っているため、男がいくら暴れても逃げられない。

 

「もう力を使わないでください。このままでは、あなたの身体が耐えきれずに本当に死にます」

 

「離せ……俺は、まだ……」

 

「あなたが弱いなどとは言っていません。ですが、今は戦うべきではありません」

 

 薬物使用者をただ力で屈服させるだけでなく、千鶴の落ち着いた声が、男の昂った神経を少しずつ鎮めていく。

 

 男の手から噴き出していた炎が、徐々に弱まっていった。

 

 これで千鶴は、火炎能力者の生命維持と拘束に完全に専念できる。

 

 久我と澪は、残る鉄片使いへ集中することが可能になった。

 

       *

 

 鉄片使いの男は、状況が最悪の方向へ転がったと判断した。

 

 発火能力者の回収はすでに困難だ。

 

 重要なパッチも三枚とも失われた。

 

 おまけに、島の警備組織の到着まで、あと一分を切っているはずだ。

 

 男は回収を諦め、逃走へ切り替えた。

 

 近くの建物の屋上から、隣のビルの屋上へと飛び移ろうとする。

 

「追います!」

 

「一人で行かないで!」

 

 澪が、久我の索敵範囲内を保ちながら、建物の外壁を蹴って垂直に駆け上がっていく。

 

 鉄片使いは屋上の縁や放置された室外機から金属の破片を剥がし、空中に階段状に配置した。

 

 それを足場として利用し、まるで空を歩くように別の屋上へと移動していく。

 

 この能力は、単なる遠距離攻撃だけではない。

 

 自分の移動経路を立体的に作ることもできるのだ。

 

 逃走を阻まれた鉄片使いは、忌々しげに懐から赤い錠剤を取り出した。

 

 証拠隠滅役である彼自身も、いざという時のために《オーバークロック》を所持していたのだ。

 

「飲むな!」

 

 久我の警告を無視し、男は錠剤を噛み砕き、飲み込んだ。

 

 直後。

 

 周囲の金属製品が一斉に不気味な震えを始めた。

 

 数十枚だった鉄片が、一気に数百枚へと増加する。

 

 道路の側溝の蓋、看板のフレーム、屋台の調理器具、シャッターの破片、放棄された車両の表面から、薄い金属片が次々と剥がれ、宙へ舞い上がる。

 

 圧倒的な質量を持った鉄の嵐が形成された。

 

 ただし、久我の魔眼には、その能力強化の代償がはっきりと見えていた。

 

 男の心拍の異常な急上昇。

 

 金属を操作する手指の毛細血管が破裂し、血が滲んでいる。

 

 神経の異常な発火。

 

 視線の焦点が定まらない。

 

 出力は確かに跳ね上がった。

 

 だが、精密な制御は明らかに失われ、粗くなっている。

 

 鉄片使いが両腕を大きく広げた。

 

 数百枚の金属の破片が、久我と澪をまとめて切り刻もうと殺到する。

 

 澪が速度で範囲外へ逃げようとするが、攻撃範囲が広すぎた。

 

 どこへ走っても鉄片の雨が降ってくる。

 

 このまま高速で走り回れば、低速で飛んでいる破片に自分から衝突し、自滅する危険すらあった。

 

 久我は、澪の前へ立ち塞がった。

 

《血装》を右腕、左肩、胸部へと、次々に瞬間移動させながら、飛来する鉄片を強引に受け流す。

 

 だが、すべてを防ぎきることはできない。

 

 数枚の破片が久我の頬や脇腹を切り裂き、血が流れる。

 

 久我は痛みに顔を歪めながらも、その流れた血すら《血装》へ加え、損傷した装甲部分を即座に補修していく。

 

「観光客が、随分頑丈だな」

 

 屋上の男が嘲笑う。

 

「せっかくの旅行なので、怪我はなるべく少なく済ませたいんですけどね」

 

 久我は軽口を叩きながら、鉄片使いの動きを冷徹に観察し続けていた。

 

 薬で数百枚を同時に操作しているが、すべてがバラバラに意志を持って動いているわけではない。

 

 金属片は大きく四つの群れに分かれている。

 

 久我を狙う群れ。

 

 澪を狙う群れ。

 

 男自身の防御に使う群れ。

 

 そして、空中の足場として使う群れ。

 

 さらに、一つの群れの方向を大きく変える瞬間、別の群れの動きが僅かに鈍っている。

 

 同時に数百枚すべてを完璧に精密操作できるわけではないのだ。

 

「七瀬さん」

 

 久我は背後の澪へ、静かに伝えた。

 

「あの人が、俺へ一番大きな攻撃を出した瞬間。その時だけ、身体の周りの鉄片の防御が止まります」

 

「その瞬間に、近づけばいいんですね」

 

「はい。ただし、チャンスは一度だけです。失敗したら、迷わず距離を取って逃げてください」

 

 久我は、鉄片使いへ向かって正面からゆっくりと歩き出した。

 

「久我さん?」

 

「俺に攻撃を集中させます」

 

 鉄片使いは、久我が無謀にも正面から近づいてきたのを見て、確実に息の根を止める決意をした。

 

 周囲に散らばっていた金属片を、一つの巨大な群れへとまとめ上げる。

 

 数百枚の破片が、一本の濁流となって久我へ向いた。

 

 久我は魔眼でその濁流の軌道を見る。

 

《内在時間》を使えば、もっと簡単に避けられる。

 

 だが、使わない。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 ぎりぎりまで引きつける。

 

 鉄片使いが、腕を力強く振り下ろした。

 

「今です!」

 

 鉄片の大半が久我へ集中し、鉄片使いの周囲を守っていた破片が、一瞬だけぴたりと止まった。

 

 澪が走る。

 

 一直線ではない。

 

 久我が事前に指示した、屋台の側面、壁際、防護シャッターの影、路上へ倒れた看板の下を繋ぐ、極めて複雑な経路。

 

 敵から見れば、死角に入り込み、一度姿が完全に消えたように見えるはずだ。

 

 久我は右腕へ、《血装》を最大限厚く展開した。

 

 鉄の濁流を、右腕一本で受け止める。

 

 ガキンッ!

 

 という破壊音とともに、分厚い血装が次々と砕け散る。

 

 腕の骨まで届きそうな激痛が走る。

 

 それでも久我は一歩も引かず、澪が敵へ届くまでの一秒を稼ぎ出した。

 

 澪が、鉄片使いの死角から屋上へ到達した。

 

 鉄片使いが彼女の気配に気づき、防御用の鉄片を戻そうとする。

 

 だが、久我へ向けて全開で加速させた金属片の群れは、すぐには方向を反転できない。

 

 澪が男の右腕をしっかりと掴んだ。

 

 そのまま全速力で引っ張れば、男の肩の関節を完全に外してしまう。

 

 澪は訓練どおり、接触の瞬間に速度を落とし、相手の身体に密着し、重心だけを横へ強く引いた。

 

 鉄片使いの姿勢が、大きく崩れる。

 

 久我も、鉄片の濁流を強引に抜けて踏み込んでいた。

 

 千鶴から教わった、相手の腕を硬く掴むのではなく、力の向きへ合わせて崩す合気の動き。

 

 久我が左手で男の肘を押さえ、澪が手首を引く。

 

 二人が別方向へ絶妙な力をかけることで、鉄片使いは為す術もなく地面へと倒された。

 

 久我が、《血装》した重い右腕で男の背中をがっちりと押さえ込む。

 

「終わりです。もう能力を使わないでください」

 

 男はまだ抵抗しようとした。

 

 しかし、《オーバークロック》の激しい副作用によって両手が小刻みに痙攣し、操作を失った大量の金属片が、周囲の道路へばらばらと無害な音を立てて落下した。

 

       *

 

 戦闘開始から、約三分後。

 

 黒と青の装甲服を着た境界島の認可警備員たちが、ようやく現場へ到着した。

 

 彼らは強力な能力者用の拘束具と、暴走抑制剤の注射器を装備している。

 

 到着した隊長格の女性が、現場の惨状を見回した。

 

 火炎で破壊された店舗。

 

 千鶴に静かに押さえ込まれている発火能力者。

 

 久我と澪に完全に拘束された鉄片使い。

 

 周囲の道路へ散らばった赤いパッチと金属片。

 

 そして、血まみれになっている久我。

 

 女性隊長は、呆れたような声を上げた。

 

「……本土から来た観光客三人が、薬物の暴走者一名と、回収役の護衛一名を制圧したってわけ?」

 

「俺たちも、こんな物騒な旅行になるとは聞いていませんでしたよ」

 

 久我が肩で息をしながら答える。

 

 警備員たちが手際よく発火能力者へ緊急の医療処置を施し、鉄片使いには能力封じの重い拘束具を装着した。

 

 久我たちも身分証の提示を求められる。

 

 三人が八咫烏の登録協力者だと判明した瞬間、現場の空気が微妙に変わった。

 

「本土の八咫烏が、観光客を装ってこの島を探っていたということ?」

 

 隊長が鋭い視線を向ける。

 

 かれんが通信越しに落ち着いて対応した。

 

『正式な捜査ではありません。薬物事件について、非公式な情報収集を行っていただけです』

 

「この島では、それを内偵と呼ぶのよ」

 

『否定はしません』

 

 境界島側と八咫烏の間に存在する、政治的な緊張の糸が見えた。

 

 ただし、目の前で人命を救い、被害を最小限に抑えているため、即座に敵対的な態度を取られることはなかった。

 

 鉄片使いの所持品から、決定的な証拠が発見された。

 

《オーバークロック》の錠剤が二錠。

 

 赤い三角形の刻印がある小型のピルケース。

 

 使い捨ての通信端末。

 

 そして、発火能力者の回収および、能力器具店の在庫回収指示が書かれたメモ。

 

 使い捨て端末には、削除しきれなかった短いメッセージが残されていた。

 

『失敗品を回収せよ』

 

『使用者が暴走した場合、商品と本人を速やかに処分すること』

 

『次回配布は第七リング』

 

『勝者には上位版の薬を提供』

 

「第七リング……」

 

 それは、境界島に複数存在する合法能力競技場の一つだ。

 

 表向きは、若手能力者向けの小規模な決闘会場。

 

 だが、その地下で《オーバークロック》を使用した違法な裏試合が行われている可能性が、このメッセージで一気に浮上した。

 

 医療処置を受けた発火能力者が、一瞬だけ意識を取り戻し、うわ言のように呟いた。

 

「試合に勝てば……仲間にしてくれるって……」

 

「強くなれば、もう誰にも笑われないって……言ったのに……」

 

「第七リングで……もっと強い薬を……」

 

 それだけ告げて、男は再び意識を失った。

 

 単なる路上の売人による小遣い稼ぎではない。

 

 若く、弱い能力者へ甘い言葉で薬を渡し、試合、勧誘、選別、強化、そして依存を繰り返す組織的な流通網が、この島の裏で動いている。

 

 だが、現時点で分かっているのはそこまでだ。

 

 どれほどの人数が関わっているのか。

 

 誰が薬を製造しているのか。

 

 第七リングのどこまでが汚染されているのか。

 

 島の外へ、どれほど広く薬が流れているのか。

 

 その全体像は、まだ何一つ見えていなかった。

 

       *

 

 戦闘の後処理が落ち着いた頃。

 

 澪が、久我の右腕からおびただしい血が流れていることに気づいた。

 

「久我さん、腕が!」

 

「血装でほとんど止まってるから、大丈夫だよ」

 

 実際には、鉄片の濁流を正面から受け止めた右腕には、何本もの深い裂傷がある。

 

 だが、吸血鬼の再生可能な範囲には収まっていた。

 

「私を通すために、全部受けてくれたんですよね」

 

「七瀬さんがちゃんと敵へ届くと分かってたからね」

 

 澪は少し嬉しそうにしながらも、悔しそうに強く頷いた。

 

「次は、久我さんが全部受けなくてもいいように、私がもっと上手く走りますから」

 

 この戦闘で、二人の基本的な連携の形が生まれた。

 

 久我が安全な道を見つける。

 

 澪がその道を走り抜ける。

 

 まだ完成したわけではない。

 

 それでも、これから二人が戦っていくための確かな型を、初めて手に入れたのだ。

 

 千鶴も、二人の戦闘を客観的に評価した。

 

「久我さんの指示は的確でした。七瀬さんも、ご自身の速度だけに頼らず、急停止と方向転換を状況に合わせて使えていましたね」

 

「俺は最後、ほとんど動く盾になっていただけですけどね」

 

「盾になる場所と時間を自分で選べることも、立派な戦闘技術です」

 

「それで、俺たちへの保護者としての評価は?」

 

 澪が尋ねると、千鶴は真面目な顔で答えた。

 

「二人とも、目を離すとすぐに危険なことをするという評価は変わりません」

 

「厳しいなぁ……」

 

       *

 

 境界島の警備隊長が、使い捨て端末を証拠袋へ入れながら言った。

 

「第七リングはこちらの管轄で調べる。あなたたちは、怪我もしてるしホテルへ戻って休みなさい」

 

「俺たちは、もうこの調査から外されるんですか?」

 

「本土から来た観光客に、これ以上島の厄介な事件へ首を突っ込まれても困るの」

 

 通信機越しに、かれんも同意した。

 

『今夜は、一度撤退してください。十分な情報が集まりました』

 

 久我たちは指示に従い、歩いてホテルへ戻ることにした。

 

 戦闘現場を離れ、中央商業区の明るい通りへ戻ったところで、久我の胸元から短い電子音が鳴った。

 

「久我さん、メッセージですか?」

 

 澪に尋ねられ、久我は上着の内側から小型通信端末を取り出す。

 

 画面には、送信者不明のメッセージが表示されていた。

 

『第七リングへようこそ』

 

『強くなりたいなら、明日の午前零時に来い』

 

『観光客三人分の席を、特別に用意している』

 

 三人が、その文面を無言で見つめる。

 

 最初に口を開いたのは千鶴だった。

 

「この端末は、八咫烏から支給されたものですよね?」

 

「はい。普通の人が、勝手に俺の連絡先を調べて送れる端末ではないはずです」

 

 久我は画面を操作し、送信経路を確認する。

 

 しかし、表示されるのは送信者不明という情報だけ。

 

 島内の通信網を複数回経由しており、発信元は特定できない。

 

 澪が周囲を見回す。

 

「さっきの戦いを、誰かが見ていたんでしょうか」

 

「それだけなら、俺たちが三人組だということは分かります。でも、八咫烏の通信端末へ直接メッセージを送れるのは別問題です」

 

 鉄片使いの仲間が現場に残っていたのか。

 

 島内の通信網を扱える能力者がいるのか。

 

 身分証を提示した際の情報が、どこかから漏れたのか。

 

 あるいは久我たちが入島した時点から、すでに目をつけられていたのか。

 

 今の段階では判断できない。

 

「……向こうには、俺たちが単なる観光客ではないと完全に把握されていますね」

 

 久我がため息をつく。

 

「それでも、行くのですか?」

 

 千鶴の問いに、久我は頭を掻いた。

 

「行かない方がいいとは思うんですけどね……」

 

「でも、行かないと何も分かりませんよね」

 

 澪が、やる気に満ちた顔で断言した。

 

 境界島へ来て、まだ一日目。

 

 久我たちは薬物使用者を二人捕らえ、違法な能力試合の存在を知り、そして調査対象から直接、挑戦状とも言える招待状を送られていた。

 

 四連休は、まだ三日も残っている。

 

 久我は今になって、最初から家で泥のように眠り、何もしない予定を全力で貫くべきだったと、心の底から後悔し始めていた。

 




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