35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第35話 吸血鬼、違法能力試合へ招待される

 境界島への潜入旅行、二日目の朝。

 

 午前十時。

 

 玄関区の認可ホテルの一室で、久我陽介はゆっくりと目を開けた。

 

 寝返りを打とうとした直後、右腕に鈍い痛みが走る。

 

 昨夜、中央商業区の路地裏で《鉄片操作》の能力者が放った数百枚の金属片の濁流を、右腕の《血装》だけで正面から受け止めた代償だ。

 

 吸血鬼特有の驚異的な再生能力によって、表面の裂傷や細い血管の損傷、そして小さな筋繊維の断裂は、一晩でかなり回復している。

 

 しかし、骨の芯まで響いた衝撃と、奥深くの筋肉へのダメージは完全には抜けきっていない。

 

 試しにシーツの上で拳を強く握り込むと、ズキリと嫌な痛みが走る。

 

 肘を深く曲げれば、筋肉が不自然に引きつるのが分かった。

 

 右腕全体を覆うような分厚い《血装》を再び強引に展開すれば、せっかく塞がった傷が内側から裂ける可能性が高い。

 

「……これを『治っている』と考えていいのが、吸血鬼の身体の怖いところだな」

 

 久我は苦笑して、右腕をさすった。

 

 普通の人間なら、救急車で運ばれて数週間は絶対安静を言い渡されるレベルの負傷だ。

 

 しかし久我の場合は、一晩休んで血液を補給すれば、痛みは残るが問題なく歩けるし、腕も動く。

 

 能力者としてはこれ以上なく便利だが、人間としての三十五年の常識とはあまりにも乖離している。

 

 サイドテーブルの上には、昨夜飲んだ血液パックの空容器が二本転がっていた。

 

 通常より多めに血を補給したにもかかわらず、《血装》の展開と修復でごっそりと失われた血液資源を、完全には補い切れていない感覚がある。

 

 洗面所へ向かい、鏡を覗き込むと、顔色が僅かに悪い。

 

「……完全に社畜の顔だな。旅行二日目だというのに」

 

       *

 

 着替えを済ませ、隣室との間にある共有ラウンジへ出ると、すでに澪と千鶴がソファでくつろいでいた。

 

 澪はホテルの朝食バイキングをしっかりと平らげたのか、上機嫌で境界島の観光パンフレットを広げている。

 

 千鶴はホテル備え付けの安っぽいティーセットを使いながらも、所作だけは完璧に美しくお茶を淹れていた。

 

 ラウンジへ入ってきた久我の姿を見るなり、澪が心配そうに立ち上がった。

 

「久我さん、もう普通に動けるんですか?」

 

「昨日よりはね。まだ重い物はあまり持ちたくないけど」

 

「見せてください」

 

 千鶴がすっと近づき、久我の右腕の包帯の状態を確認する。

 

 昨夜、ホテルへ戻った後に、千鶴が手際よく応急処置をしてくれていたのだ。

 

 千鶴は慎重に包帯を外し、傷がすでに薄い痕になっていることに小さく息を呑んだ。

 

「これほど深かった傷が、一晩でここまで塞がるなんて……吸血鬼の再生能力は、本当に強力なのですね」

 

「ただ、完全に治ってはいませんよ。右腕を使った投げ技や、昨日のような盾になる防御は、今日は絶対にやめてください」

 

「はい」

 

 久我が素直に返事をすると、澪がジト目で疑いの視線を向けてきた。

 

「本当に守りますか?」

 

「守りますよ。いい大人なんだから」

 

「昨日も、『俺が受けるしかない』って言って、一人で全部の鉄片を受けましたよね?」

 

「昨日は昨日。今日は今日だから」

 

「その回答は、絶対に守らない人の回答にしか聞こえません」

 

 千鶴にまで冷たく指摘され、久我は女子高生の保護者二人に完全に包囲されているような居心地の悪さを感じた。

 

       *

 

 午前十時半。

 

 三人は共有ラウンジのテーブルを囲み、小型通信端末を使って皇かれんとの暗号化された通信会議を開始した。

 

 話題は当然、昨夜の戦闘直後に久我の端末へ届いた、送信者不明の招待状についてだ。

 

『昨夜届いたメッセージは、八咫烏の情報班がすでに解析を終えています』

 

 かれんの声が、端末のスピーカーから淡々と響く。

 

『しかし、発信元の特定には至っていません。メッセージは境界島内の複数の民間通信網と、能力者向けの匿名掲示網を複雑に経由して送られていました。単なる高度なハッキングによるものか、あるいは通信系の能力者が関与しているのかも不明です』

 

「俺の端末の中身、写真や連絡先まで全部見られているわけではないんですね?」

 

『現時点では、その可能性は低いです。久我さんの端末の個別識別番号を何らかの手段で取得し、外部からメッセージだけを送り込んだ形と推測されます。ただし念のため、本日の午後、安全な新しい端末へ交換します』

 

「どうやって久我さんの識別番号を知ったんでしょうね?」

 

 澪が不思議そうに首を傾げる。

 

 可能性は複数ある。

 

 入島手続きの際のデータ。

 

 ホテルの宿泊登録。

 

 昨夜の戦闘後、警備組織へ身分証を提示した際の記録。

 

 あるいは戦闘現場に隠れていた監視役がいたか、通信系能力による特定か。

 

 鉄片使いの男が捕まる直前に、仲間へ何らかの情報を送信していた可能性もある。

 

 ただし、どれも確証はない。

 

 かれんはこの段階で、境界島の警備隊や特区管理局に内通者がいると断定するような、不用意な発言は避けた。

 

『久我さん。医療データを確認しました』

 

 かれんが、話題を久我の体調へ切り替えた。

 

 昨夜、境界島の医師に診察されており、その記録が八咫烏側にも共有されている。

 

『次の戦闘で、右腕を盾にすることは禁止します』

 

「俺だって、好きで盾になっているわけではありませんよ」

 

『昨日は、数百枚の金属片を一切避けずに、右腕一本で正面から受け止めました』

 

「七瀬さんを相手の懐へ通すためには、俺が囮になる必要があったので」

 

『今日は必要になっても、絶対に別の方法を考えてください』

 

 澪が力強く頷く。

 

「次は、久我さんが一人で受けなくてもいい道を、私が走りますから」

 

「そもそも、戦闘を避けることも十分に検討してください」

 

 千鶴の極めて常識的な意見に、久我は苦笑した。

 

「鏡宮さんが一番正しいことを言ってるよ」

 

 今回、久我が安全に使用できる《血装》は、左前腕、肩や胴体の局所的な防御、足元の瞬間的な補強、そして止血程度に限られる。

 

 右腕全体を覆う厚い防御や、それを用いた強い打撃は厳禁だ。

 

 これにより、昨日と同じ正面から受けて耐えるという盾戦法は使えなくなった。

 

       *

 

「それで、本題ですが。あの招待状、受けるべきでしょうか」

 

 久我は、当然ながら罠だと判断している。

 

「こっちが調査していると分かっている相手から、わざわざ指定された場所と時間に来いと言われている。普通なら、絶対に行かないですよね」

 

「でも、行かないと第七リングの地下へは入れませんよ」

 

 澪が反論する。

 

「第七リングの入口が分かったとしても、その場所で待ち伏せされている可能性が高いです」

 

 千鶴が慎重な見方を示す。

 

 かれんも、三人だけで勝手に罠へ飛び込むことは認めない。

 

 境界島側の治安維持組織との協議結果を待つ必要があるという。

 

 そこへ、ホテルの部屋の固定電話が鳴った。

 

 フロントからの、訪問者の連絡だった。

 

 数分後、共有ラウンジへ現れたのは、昨夜の戦闘現場で指揮を執っていた特区保安局の女性隊長だった。

 

 黒瀬真琴。

 

 三十代後半。

 

 昨夜の黒と青の装甲制服ではなく、今日は私服に近い濃紺のジャケット姿だ。

 

 ただし腰には、能力者用の拘束具と小型端末をしっかりと装備している。

 

 八咫烏への警戒心を隠さないが、島内で起きている薬物事件の解決を望んでいる実務家だ。

 

 黒瀬は三人を見るなり、最初に久我の右腕を確認した。

 

「昨日あれだけ血まみれだったのに、もう普通に歩いているのね」

 

「吸血鬼なので、一応」

 

「便利ね。自分も真似したいとは一切思わないけど」

 

 黒瀬は澪へ視線を移す。

 

「あなたも、昨日は随分と派手に走り回っていたわね」

 

「一般の人を助けただけです」

 

 そして千鶴に対しては、少しだけ慎重な態度を見せた。

 

 昨夜、千鶴が巨大な火球の軌道をどうやって逸らしたのか、その能力の詳細を保安局はまだ把握できていない。

 

 ただし、黒瀬は不用意に踏み込んで聞くようなことはしなかった。

 

「それで、招待状が来たそうね。確認させて」

 

 黒瀬は端末のメッセージを確認した上で、なぜ特区保安局が第七リングを正面から捜査できないのかを説明した。

 

 第七リングは、境界島の正式な認可を受けた合法施設だ。

 

 運営法人も登録されている。

 

 表の競技では、能力使用許可、医療班の常駐、観客用防壁の設置、選手の事前検査、賭博の禁止、未成年の保護規定など、すべてがルール通りに守られている。

 

 過去にも多少の違反はあったが、施設全体を閉鎖するほどの重大な問題は起きていない。

 

「昨日のあの男の端末に残っていたメッセージだけでは、第七リングを強制捜査する法的な根拠には足りないの」

 

「暴走した能力者が、第七リングでもっと強い薬をもらえると言っていましたよ?」

 

「薬物で意識が混濁している最中の、短い曖昧な証言だけでは証拠として弱すぎる。端末のメッセージだって、誰かが第七リングへ疑いを向けるために意図的に仕込んだ可能性も捨てきれない」

 

「でも、本当にそこで配っている可能性もあります」

 

 澪が食い下がる。

 

「だから、調べるのよ。ただし、保安局が正面から堂々と乗り込めば、確実に証拠を消される」

 

 特区保安局が大人数で動けば、裏試合の中止、薬物の廃棄、参加者の逃亡、地下区画の物理的、霊的な封鎖、そして端末やデータの遠隔消去が瞬時に行われる。

 

 さらに、第七リングを健全に利用している無関係な能力者たちから、行政が若者の競技場を弾圧したと強い反発を受ける可能性もある。

 

       *

 

「あなたたちに届いた招待状は、今のところ、地下へ入れる唯一の入口よ」

 

 黒瀬は、ひどく不本意そうに言った。

 

『つまり、三人を第七リングの地下へ入れたいということですか』

 

 通信越しに、かれんが確認する。

 

「私たちが入れたいんじゃない。招待状を送った側が、すでに三人を呼んでいるのよ」

 

「言い方を変えても、俺たちを都合のいい囮にするのは同じでは?」

 

 久我の皮肉に、黒瀬は肩をすくめた。

 

「嫌なら断っていい。その場合は、時間がかかっても別の方法を探すだけ」

 

 黒瀬は決して強制しなかった。

 

 境界島側の立場としても、本土から来た八咫烏の協力者を、勝手に危険な場所へ送り込むような責任は負えない。

 

 かれんも、久我、澪、千鶴の三人へ改めて意思確認を行った。

 

 久我は少し考えた。

 

 罠だと分かっている。

 

 右腕も完全には治っていない。

 

 しかし、すでに組織から存在を認識されている以上、何もしなくても安全だという保証はない。

 

 さらに、昨日の発火能力者の悲痛な叫びが、耳の奥に残っていた。

 

 強くなれば、もう誰にも笑われない。

 

「……行きます。ただし、相手の言う通りに薬を使ったり、無制限に戦ったりはしません」

 

 澪も強く頷く。

 

「私も行きます。昨日みたいに、危険をろくに知らないまま薬を使っている人が、まだたくさんいるかもしれないんですよね」

 

 千鶴は静かに、しかし断固として言った。

 

「二人だけで行かせる選択肢はありません」

 

「本当に保護者なのね」

 

 黒瀬が呆れたように言うと、久我がぼやいた。

 

「最近、誰もその設定を否定してくれなくなりました」

 

       *

 

 内偵作戦の基本方針が、三者間で決定された。

 

 八咫烏は通信支援と情報解析。

 

 境界島特区保安局は、施設外部の監視と、緊急時の突入準備。

 

 そして久我たちは、招待客として内部へ入り、状況を確認する。

 

 ただし、これは正式な共同捜査ではない。

 

 お互いに、必要以上の情報を共有しないという危うい協力関係だ。

 

 第一目的は、証拠の確認。

 

《オーバークロック》が実際に地下で配られているか。

 

 違法試合が行われているか。

 

 使用者のデータを収集しているか。

 

 暴走者や敗者をどう扱っているか。

 

 薬物の保管場所はどこか。

 

 運営関係者は誰か。

 

 これらを可能な限り確認する。

 

 そして、厳重な禁止事項。

 

 薬物の服用。

 

 自発的な薬物購入。

 

 無関係な参加者への攻撃。

 

 地下区画への無制限な侵入。

 

 調査目的の公表。

 

 相手を無駄に挑発して、大規模戦闘を起こすこと。

 

 これらはすべて禁止だ。

 

 通信が妨害された場合に備え、三段階の緊急合図が決められた。

 

 黄色。

 

 調査継続可能だが警戒。

 

 赤色。

 

 撤退準備。

 

 黒色。

 

 保安局が突入。

 

 久我たちは、腕に巻いたリストバンドを特定の順番で触ることで、外部へ合図を送ることができる。

 

「でも、どうして俺と七瀬さんが、試合へ出ることになっているんですか?」

 

 招待状には、三人分の席を用意しているとあるだけで、試合参加までは明記されていない。

 

 しかし黒瀬の過去の調査によれば、第七リングの地下区画へ深く入るには、高額な観戦料を払うか、信頼できる紹介者を持つか、あるいは選手として実力を見せるかのいずれかが必要になる。

 

 久我たちは紹介者を持たない。

 

 大金を払えば資金の流れを追われ、偽装が難しい。

 

 最も自然なのは、昨日の戦闘を見た運営側が、久我と澪を魅力的な参加者候補として招いたと考えることだ。

 

 千鶴は昨夜、《神鏡返し》の詳細をほぼ見せていない。

 

 外から見れば、落下物を防ぎ、発火能力者を投げて拘束した程度だ。

 

 一方、久我と澪は鉄片使いを二人で倒している。

 

 運営が能力データに興味を持つなら、二人の方が自然だ。

 

 そこで、久我と澪が選手候補、千鶴が同行者兼観客として入ることになった。

 

「久我は、自分の能力がどこまで通用するか試したい中年能力者。澪は、公式の能力競技へ出る前に実戦形式の試合を経験したい若い能力者。そういう設定でいくわよ」

 

 黒瀬の指示に、久我は顔をしかめた。

 

「三十五歳の会社員が、今さら力を求めて地下試合へ来るのは無理がありません?」

 

「薬物を調べに来た正義の味方みたいな顔をしないで。ここへ来る奴は、金、力、承認、刺激のどれかを求めているの」

 

「それでも中年会社員の地下試合参加は……」

 

「昨日、鉄の嵐を正面から腕一本で受け止めた男が言っても、何の説得力もないわ」

 

       *

 

 第七リングへの指定時刻は、午前零時。

 

 まだ半日以上ある。

 

 相手から監視されている可能性を考え、不自然にホテルへ籠もることはしない。

 

 三人は本来の観光客として行動することになった。

 

 昼食は、昨日とは別の吸血鬼対応カフェ。

 

 久我は血液入りの栄養飲料と普通のサンドイッチ。

 

 澪は甘い血液製剤入りのドリンク。

 

 千鶴は和菓子とお茶。

 

「地下試合へ行く前に、こうして普通に観光していていいんでしょうか」

 

 澪がストローを噛みながら尋ねる。

 

「観光客のふりをするんじゃなくて、実際に観光してる方が自然だからね」

 

「久我さんは、先ほどからずっと右腕を庇っています」

 

 千鶴が鋭く指摘する。

 

「鏡宮さん、観光客として観察するところが違ってません?」

 

 午後は、能力産業展示館へ足を運んだ。

 

 念動力による精密な部品組み立て。

 

 火炎能力者用の耐熱作業服。

 

 水中能力者の海底点検。

 

 再生能力から発展した医療研究。

 

 高速移動者向けの衝撃吸収靴。

 

 能力を社会産業へ利用する展示が並んでいる。

 

 澪は高速移動者用のシューズに興味を持ったが、販売価格のゼロの多さを見て驚愕していた。

 

 久我も値段を見て、会社員の給料で気軽に買う物ではないと引いた。

 

 能力は、戦闘だけではなく、社会や仕事へも平和に活用できる。

 

《オーバークロック》を配る者たちが掲げる、強くなければ価値がないという考えとは、明確に異なる世界だった。

 

 展示館で、千鶴は能力を使った日用品のコーナーを見ていた。

 

 温度調節できる布。

 

 精神安定用の香。

 

 弱い結界を張る室内灯。

 

 落としても割れにくい能力者用の手鏡。

 

「このような小さな力でも、商品として世の役に立つのですね」

 

「戦いで強い能力だけが、役立つわけじゃないってことですね」

 

「私も配達員なら、すごく稼げそうです!」

 

「事故を起こさない速度で走れるようになってからね」

 

       *

 

 夕方、ホテルへ戻ると、八咫烏と特区保安局から、今回の内偵に使用する小型装備一式が届けられていた。

 

 久我には、新しい通信端末、左腕用の薄型サポーター、心拍監視パッチ、緊急止血剤。

 

 澪には、高速移動に耐える専用の靴、足首と膝の補助装具、位置追跡用発信機、そして緊急減速用の靴底展開機構。

 

 ただし減速装置は足を傷める可能性があるため、最後の手段だ。

 

 千鶴には、観客席側から映像と音声を記録するイヤリング型端末、簡易救急用品、そして久我と澪の生命反応を表示する小型端末。

 

《真澄鏡》の分鏡も、そのまま携行する。

 

 千鶴は小さなイヤリングを指先で摘まみ、慎重に眺めた。

 

「この小さな物で、映像と音声の両方を記録できるのですね」

 

『はい。ただし、不自然に触れると監視役に疑われます。録画の開始や緊急信号は、リストバンドから操作してください』

 

 通信越しに、かれんが説明する。

 

「承知しました」

 

 午後十一時。

 

 三人はホテルの共有ラウンジへ集まった。

 

 服装は観光客より少し動きやすいものへ変更している。

 

 久我は黒い長袖シャツで右腕の包帯を隠し、血液パック二本を携行している。

 

 出発直前、千鶴が二人へ念を押した。

 

「勝つことより、無事に戻ることを優先してください」

 

「はい」

 

「もちろんです」

 

 千鶴は久我だけをじっと見つめる。

 

「久我さん」

 

「俺だけ信用されてない?」

 

「昨日の実績がありますので」

 

       *

 

 午後十一時半。

 

 中央商業区から少し離れた競技地区。

 

 第七リングは、円形の巨大な建築物だった。

 

 外観は現代的なスポーツアリーナそのもの。

 

 入口には大きなホログラム看板が浮かんでいる。

 

『第七リング 本日の公式競技』

 

『若手能力者二対二トーナメント』

 

『精密能力チャレンジ』

 

『初心者向け体験訓練』

 

 境界島には、吸血鬼をはじめとする夜行性の住民や、夜間に活動する特殊体質者も多い。

 

 そのため第七リングの公式競技や体験施設は、一般的な東京の施設よりも遥かに遅い時間まで営業している。

 

 午後十一時を過ぎているにもかかわらず、周囲には家族連れや若い能力者の姿が残っていた。

 

 館内も明るく、公式グッズ店、飲食店、能力者用スポーツ用品店、医務室、登録選手受付、子供向けの能力体験コーナーまである。

 

「普通の競技場ですね」

 

『表側は本当に普通よ。施設職員の大半も、地下の違法試合のことなんて知らない可能性が高いわ』

 

 黒瀬からの通信に、久我は頷く。

 

「働いている人全員を疑わない方がいいわけですね」

 

『ええ。勝手に敵を増やさないで』

 

 指定時刻まで少し時間がある。

 

 三人は一般観客席から公式試合を見た。

 

 若い能力者同士が、安全規定の中で競技している。

 

《水球操作》対《風圧》の試合では、水の球を相手のゴールへ運ぶ。

 

 相手を直接攻撃するのではなく、能力の精度と判断を競っている。

 

 澪は純粋に試合を楽しんでいた。

 

 千鶴も、能力を優劣や殺傷力ではなく、技術として評価する競技に興味を示している。

 

 久我は、昨日の発火能力者も、こういう場所で普通に能力を磨けていれば、薬へ手を出さなかったのではないかと考えた。

 

 もちろん、それだけで救えたと断定することはできない。

 

 それでも、身体を壊す薬以外の道が、目の前に存在していることだけは確かだった。

 

 午前零時の五分前。

 

 久我の新しい端末へ、短いメッセージが届いた。

 

『東側通路。赤い七番扉』

 

 指定された場所は、一般観客が少ない区域だった。

 

 赤い七番扉には、関係者以外立入禁止と書かれている。

 

 久我が端末の招待状を扉脇の読取機へかざすと、ロックが解除された。

 

 三人は内部へ入る。

 

 扉の先には薄暗い通路。

 

 表側の明るい競技場とは雰囲気が一変する。

 

 壁の案内表示も消え、防犯カメラはあるが、どこへ映像が送られているか分からない。

 

 通路の先に、黒いベストを着た若い男が立っていた。

 

 表情は愛想がよい。

 

「招待客三名ですね。昨日は随分派手にやったそうで」

 

「見ていたんですか?」

 

「この島では、面白い戦いはすぐ映像で広まりますから」

 

 実際、昨日の戦闘は複数の観客に撮影されていた。

 

 案内人は三人へ、仮面を差し出した。

 

 地下試合では、観客と選手の身元を隠すために仮面をつける文化があるという。

 

 久我には簡素な黒い半面。

 

 澪には白い半面。

 

 千鶴には銀色の小さな目元の仮面。

 

「顔を隠すのに、能力は見せるんですか」

 

「ここで価値があるのは名前ではなく、力ですから」

 

 その先には、簡易的な持ち物検査場が設けられていた。

 

 一般の携帯端末や撮影機器、外部通信機能を持つ装置は、鍵付きの保管箱へ預けさせられる。

 

 刃物や銃器などの武器も持ち込み禁止。

 

 久我たちも、観光用に所持していた普通の端末は預けた。

 

 一方、八咫烏と特区保安局から支給された通信装備は、リストバンドやイヤリング、衣服の留め具へ偽装されている。

 

 能力遮蔽材で覆われ、一般的な検査では通信機器と判別されない専用品だった。

 

 検査担当者は千鶴の化粧用コンパクトも確認したが、正式な祭具携行許可が登録されているため、内部までは開けなかった。

 

       *

 

 専用エレベーターで地下へ降りる。

 

 階数表示はない。

 

 体感では地下五階から七階程度だ。

 

 久我の魔眼でも、厚い能力遮蔽材のため周囲の人間を遠くまで把握できない。

 

 エレベーターが下降するにつれて、外部通信へ強いノイズが入り始めた。

 

『音声は……まだ届いています』

 

 かれんの声が、僅かに途切れる。

 

『地下では施設独自の通信妨害が行われています。こちらの専用回線も完全には安定しません。途切れた場合は、事前の合図を使用してください』

 

『正式な設計図に、この深さの地下区画は存在しないわ』

 

 黒瀬の声も続いた。

 

『第七リングの建設時に作られた保守区画を、後から違法に拡張した可能性が高い』

 

「東京都の人工島なのに、設計図へ存在しない地下があるのですね」

 

 千鶴が小声で言う。

 

「境界島へ来てから、その手の話に驚かなくなってきました」

 

 久我が答えたところで、エレベーターが停止した。

 

 扉が開く。

 

 そこには、表の競技場とは異なる小型アリーナがあった。

 

 中央に直径三十メートルほどの円形リング。

 

 周囲には三百人程度の観客席。

 

 照明は暗く、リングだけが強く照らされている。

 

 観客の多くが仮面やフードで顔を隠していた。

 

 裏社会の用心棒。

 

 能力者専門のスカウト。

 

 金持ちの観客。

 

 若い能力者。

 

 武器商人らしい者。

 

 薬物使用者らしい震えを持つ者。

 

 様々な人間が入り交じっている。

 

 三人が入った時、すでに一試合が行われていた。

 

 若い男性能力者と、大柄な女性能力者の一対一。

 

 男性の能力は、掌から弱い衝撃波を出すもの。

 

 通常なら人を少しよろめかせる程度だ。

 

 試合中、係員から赤い錠剤を渡される。

 

 男性が飲むと、衝撃波の出力が急上昇し、リングの防壁が揺れるほどになった。

 

 観客が歓声を上げる。

 

 久我の魔眼には、心拍の急上昇、肺への負担、腕の神経異常、異能反応の不規則な増幅がはっきりと見えた。

 

 対戦相手の女性も、赤いパッチを二枚貼る。

 

 皮膚が石のように硬化し、衝撃波を正面から耐えている。

 

 地下試合では、《オーバークロック》が隠されてもいない。

 

 ただし薬物とは呼ばれず、能力補助剤、出力支援、選手用ブースターと説明されている。

 

 千鶴は、観客が薬物使用へ歓声を上げていることに嫌悪を示した。

 

「身体を壊しているのが、見て分からないのでしょうか」

 

「分かっていて見ている人もいると思います」

 

「使っている本人は、危険だと知ってるんでしょうか」

 

 澪が疑問を口にする。

 

 そこが重要な点だ。

 

 副作用を正確に説明されている者。

 

 軽い疲労程度だと騙されている者。

 

 何も知らない者。

 

 すでに依存し、自分から薬を求めている者。

 

 同じリングの上にも、異なる事情を持つ人間が混在している可能性がある。

 

       *

 

 案内人が久我と澪を選手受付へ案内する。

 

 千鶴は観客席へ。

 

 離れる前に、三人で目線を合わせる。

 

 千鶴は、危険なら即座に割って入るという意思を示し、久我は小さく頷いた。

 

 受付担当者は、白衣に似た灰色の制服を着た女性だった。

 

 本名は不要で、仮名で登録可能。

 

 久我は《ブラッド》。

 

 澪は《ランナー》。

 

 安直なリングネームを、その場でつけられる。

 

「もう少し捻りません?」

 

「名前を考えに来たのではないでしょう」

 

 能力申告。

 

 久我は身体能力強化、再生、視覚強化、血液を用いた防御。

 

 澪は身体能力強化と高速移動。

 

 秘密の能力や、千鶴の《神鏡返し》は当然伏せた。

 

 同意書には、重傷の可能性、能力後遺症、自己責任などが並ぶ。

 

 だが、違法薬物や死亡時の責任については曖昧な表現だ。

 

 久我は会社員らしく、規約を最初から最後まで読む。

 

「全部読む方は珍しいですね」

 

「仕事で契約書を確認することがあるので」

 

「久我さん、こういう時だけ会社員能力が高いですね」

 

 規約の途中には、主催者が試合中に取得した能力反応、生体情報、血液情報などを、選手の育成や研究のために利用できるという条項も紛れ込んでいた。

 

 研究機関の名称も、データの保管期限も、第三者への提供範囲も明記されていない。

 

 久我は表情を変えず、その条項を記録端末へ残した。

 

 受付担当者が、久我と澪へ一枚ずつ赤いパッチを差し出す。

 

「初参加者には、無料の能力補助剤を提供しています」

 

「使わないと参加できませんか?」

 

「任意です」

 

「副作用は?」

 

「一時的な動悸や疲労が出る場合があります」

 

 明らかに説明が不十分だ。

 

「昨日、これを使って暴走した人を見ました」

 

 澪が言うと、受付担当者の表情が一瞬止まった。

 

 しかし、すぐに笑顔へ戻る。

 

「用法を守らなかったのでしょう。どんな薬にも適量があります」

 

 久我も澪も、パッチの受け取りを拒否した。

 

「後悔しないでくださいね。ここでは、努力や根性より出力が評価されますから」

 

 久我は、受付担当者の視線から気づいた。

 

 運営は二人を単に招待したのではない。

 

 昨夜、《オーバークロック》使用者を薬なしで制圧した二人が、薬なしでどこまで戦えるか。

 

 薬を渡せば使用するか。

 

 地下側へ取り込める人材か。

 

 あるいは、今後の商売にとって邪魔になる存在か。

 

 これからの試合そのものが、選別と観察なのだ。

 

 ただし、この時点で運営側が久我たちを八咫烏の内偵だと断定している様子はない。

 

 昨夜の事件へ首を突っ込んだ、正体不明の在野能力者三人。

 

 今は、その程度の認識で様子を見ているらしい。

 

 だからこそ、運営側も二人の能力と欲望を試そうとしている。

 

       *

 

 一方、観客席へ移動した千鶴は、リング全体が見渡せる中段の席へ腰を下ろしていた。

 

 久我と澪の生命反応を表示する小型端末は、鞄の内側に隠してある。

 

 イヤリング型記録端末はすでに作動中。

 

 表情を変えずに周囲を観察していると、右隣へ二人の若い能力者が座った。

 

 二人とも二十歳前後。

 

 片方の青年の手首には、赤い三角形の印が描かれている。

 

「次に勝てば、俺も上位版をもらえる」

 

「普通のパッチでも身体がやばいのに、本気かよ」

 

「上位版なら、能力そのものが一段階変わるって話だ。今のまま一生雑魚でいるよりましだろ」

 

 千鶴は視線をリングへ向けたまま、会話を聞き続ける。

 

「お前、前回負けた奴を覚えてるか?」

 

「ああ。医療区画へ運ばれた奴だろ」

 

「あいつ、まだ地上へ戻ってないらしいぞ」

 

「データが良ければ、下で正式に雇われることもあるって聞いた」

 

「だったら成功じゃねえか。負けても価値があったってことだろ」

 

 二人は笑った。

 

 その前列に座っていた仮面の男が、振り返りもせずに口を挟む。

 

「弱い能力だって、壊れるまで回せば良い記録くらいは残せる。何も残せずに消えるより、よほどましだ」

 

 千鶴の指が、膝の上で僅かに強く握られた。

 

 能力の価値だけで人間の扱いまで決める言葉。

 

 鏡宮家で、自分自身より《神鏡返し》の継承者としての役割ばかりを求められてきた千鶴には、聞き流せない言葉だった。

 

 問い詰めたい。

 

 今すぐ、医療区画へ運ばれた者がどこにいるのか聞き出したい。

 

 だが、ここで一人を拘束しても、奥にいる者たちが証拠を消して逃げるだけだ。

 

 感情のままに動くことが、必ずしも人を救うことには繋がらない。

 

 今は聞く。

 

 記録する。

 

 久我と澪が試合を終えるまで、観客側から情報を集め続ける。

 

 千鶴は握っていた手を静かに開き、何も知らない観客のようにリングへ視線を戻した。

 

       *

 

 選手用の控室で、澪が小声で聞く。

 

「久我さん、本当に戦えますか?」

 

「右腕で殴らなければ、何とか」

 

「昨日みたいに、私の前へ出るのは禁止です」

 

「今日は、七瀬さんを盾にします」

 

「それも駄目です!」

 

 対戦形式は二対二。

 

 勝利条件は、相手二人を十秒以上戦闘不能にする。

 

 相手が降参する。

 

 相手をリング外へ二人とも落とす。

 

 審判による続行不能判定。

 

 以上のいずれか。

 

 殺害は禁止だが、安全管理は信用できない。

 

 今回のリングには、平坦な中央床、四本の柱、高さ三メートルの壁、上部に金属製の梁、両端に低い高台がある。

 

 対戦相手は二人組。

 

 リングネームは《スリップ》と《グルー》。

 

《スリップ》は二十代前半の男性で、能力は《摩擦消去》。

 

 触れた物体や、半径数メートル以内の指定した表面から摩擦を消す。

 

 自分自身は滑らない。

 

《グルー》は二十代半ばの大柄な女性で、能力は《粘着空間》。

 

 指定した空間へ、見えない粘着性を与える。

 

 高速で動くほど強く拘束される。

 

 二人は薬物を使っていない。

 

 第七リングの常連であり、賞金目当ての一般参加者だ。

 

 試合前、スリップが久我たちを見る。

 

「昨日、鉄片使いを倒した二人だって?」

 

「映像が回ってるんですね」

 

「この島じゃ、強い奴の噂はすぐ広がる」

 

 グルーが澪を見る。

 

「速いだけの子は嫌いじゃないよ。止めるのが楽しいから」

 

 澪は挑発に乗らない。

 

 相手に能力条件を推測されるような言動は避ける。

 

       *

 

 リングへ入場。

 

 観客席から歓声が上がる。

 

 久我は千鶴を探す。

 

 千鶴は目立たない位置に座り、右手でコンパクトを軽く持っている。

 

 異常があればすぐ動けるという合図。

 

 久我は左手を軽く上げ、こちらは問題ないと返した。

 

 派手な衣装を着た司会者が、久我たちを紹介する。

 

「血の鎧を纏う、正体不明の中年能力者! 《ブラッド》!」

 

「正体不明の中年って紹介、やめてほしいな……」

 

「そして、境界島を駆ける白い閃光! 《ランナー》!」

 

「私の方は格好いいですね!」

 

「年齢差別を感じる」

 

 開始のブザーが鳴る。

 

 澪が先手を取る。

 

 昨日の戦闘で学んだため、最初から全速力にはしない。

 

 短い加速でスリップの側面へ回り込もうとする。

 

 その瞬間。

 

 スリップが靴底で床へ触れた。

 

 リング中央部の摩擦が消える。

 

 澪の踏み込み足が完全に滑り、力を地面へ伝えられない。

 

 身体が想定外の方向へ流れる。

 

 澪は転倒を避けようと姿勢を変える。

 

 しかし、進行先にはグルーが《粘着空間》を展開している。

 

 澪の身体が、見えない泥へ突っ込んだように急停止する。

 

 高速移動の勢いがそのまま身体へ返り、肺から空気が押し出された。

 

 澪の身体が、空中で拘束される。

 

 久我が澪を助けようと踏み込む。

 

 しかし、足元の摩擦がない。

 

 踏ん張れず、右腕を庇ったまま横へ滑る。

 

 スリップは自分だけ自由に動き、久我の脇へ回り込む。

 

 久我は左前腕へ《血装》を展開し、蹴りを防ぐ。

 

 だが反撃しようとしても、床を踏めないため力が入らない。

 

 グルーは粘着空間に澪を固定しながら、別の粘着領域を久我の周囲へ作る。

 

 久我が速く動こうとすれば拘束され、ゆっくり動けばスリップに一方的に攻撃される。

 

 二人の能力は、澪への完全な対策になっていた。

 

 観客席から笑いと歓声が上がる。

 

「高速型は床を消せば終わりだ!」

 

「薬なしじゃ、その程度か!」

 

 リング脇の係員が、赤いパッチを見せつけるように掲げる。

 

 苦戦するなら薬を使え。

 

 そう誘っている。

 

 久我も澪も無視した。

 

 千鶴は澪が拘束されたのを見て、立ち上がりかける。

 

 しかし久我の生命反応は安定しており、澪にも重大な負傷はない。

 

 まだ緊急事態ではない。

 

 ここで乱入すれば、集め始めた証拠も、地下の奥へ繋がる手がかりも失われる。

 

 千鶴は分鏡へ伸びかけた手を止め、再び椅子へ座り直した。

 

       *

 

 久我は攻撃を受けながら、魔眼で二人を観察する。

 

 スリップは摩擦を消す前に、対象となる表面を視認している。

 

 床全体ではなく、一部の区画だけだ。

 

 自分の足元には摩擦が残っており、壁や柱にはまだ効果がない。

 

 効果範囲を変える時、一瞬だけ床の摩擦が戻る。

 

 グルーの粘着空間には、魔眼で見れば薄い境界が存在する。

 

 同時に三か所まで。

 

 高速物体への抵抗が強く、ゆっくり動く物には弱い。

 

 久我はさらにリング全体を見る。

 

 床は使えない。

 

 しかし、柱、壁、高台、天井の梁には、まだ摩擦消去も粘着空間も展開されていない。

 

 相手は、地上を走る高速移動だけを対策している。

 

 澪は粘着空間の中で、力任せに抜けようともがく。

 

「七瀬さん! 無理に動かないでください!」

 

 久我の叫びに、澪が動きを止める。

 

 抵抗が弱まる。

 

「力を抜いて、ゆっくり身体を引いて!」

 

 澪が指示どおりに動くと、少しずつ粘着空間から抜け始めた。

 

 その間にもスリップは久我へ蹴りを繰り出す。

 

 久我は左前腕の《血装》で受け止めるのではなく、滑る床の上で自分の身体を流し、攻撃の勢いを横へ逃がす。

 

 右腕は使わない。

 

 昨日のように、すべてを正面から受けることもしない。

 

 スリップが久我を嘲笑する。

 

「床に立てない。走れない。踏ん張れない。お前たちの負けだ」

 

 グルーも言う。

 

「その子は速すぎる。だから一度捕まれば、自分の勢いで抜けられなくなる」

 

 澪は粘着空間から半身を抜くが、床に着地しても摩擦がない。

 

 再び走れば、同じことになる。

 

「久我さん。床を蹴れません」

 

 久我はリング上部を見上げる。

 

 天井を支える梁。

 

 四本の柱。

 

 高さ三メートルの壁。

 

 相手の能力が、まだ届いていない場所。

 

「七瀬さん」

 

「はい」

 

「走るのは、床の上だけじゃありません」

 

 澪が久我の視線を追う。

 

 壁。

 

 柱。

 

 天井。

 

 観客席がざわめく。

 

 スリップも久我の意図に気づき、表情を変えた。

 

 久我は左腕へ薄い《血装》を展開しながら、リングの構造と能力範囲を見据えた。

 

 地面の摩擦を奪われ、進む先の空間まで粘着質へ変えられた。

 

 高速移動を封じるためだけに組み上げられた、二重の能力。

 

 だが、澪が走るために必要なのは、必ずしも平らな地面ではない。

 

 壁がある。

 

 柱がある。

 

 そして、頭上には天井がある。

 

 久我が見つけた新しい道を、澪が静かに見上げた。

 




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