35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第38話 吸血鬼、弱い能力者を強くする薬の正体を知る

 四連休の三日目。

 

 午前一時過ぎ。

 

 第七リングの地下三階、B3へと続く白い通路を、久我、澪、千鶴の三人が慎重な足取りで進んでいた。

 

 背後にあるB2の第三医療区画では、救出された薬物使用者の治療、拘束した真壁の監視、そして医療データという動かぬ証拠の保全が、現場の医療職員たちの手を借りながら続いているはずだ。

 

 通信用のイヤホンから、特区保安局の黒瀬真琴の声が、強いノイズ混じりで届く。

 

『こちらは地下入口を確保したわ。現在、B1へ降下中。ただ、表にいる一般の参加者を巻き込まないよう、一層ずつ慎重に制圧と確認を繰り返している。あなたたち三人とも、それ以上は勝手に奥へ進まないで』

 

 黒瀬たち外部の部隊が、すぐには合流できない理由は明白だった。

 

 第七リングの表側にいる一般客の避難誘導。

 

 地下試合参加者の拘束と違法薬物の回収。

 

 正式な設計図には存在しない地下構造の把握。

 

 遠隔操作で閉じられた防火扉の解除。

 

 そして、能力遮蔽材による通信障害。

 

 正規の手順を踏めば、どれも相応の時間を必要とする作業だった。

 

「すでにB3へ続く連絡通路に入っていますけど、今から戻った方がいいですか?」

 

 久我が歩きながら尋ねる。

 

『戻れるなら、今すぐ戻って』

 

 久我が背後を振り返った。

 

 B2との間にあった分厚い防火扉は、彼らが通過した直後に遠隔操作で閉鎖され、ロックされている。

 

「……無理ですね。もう戻れません」

 

『あなたはどうして毎回、事後報告と確認する順番が逆なの?』

 

 黒瀬の苛立った声に、千鶴が静かに同意した。

 

「その点については、私も同意します」

 

「私もです」

 

 澪まで頷く。

 

「あれ? 俺、全員から責められてる?」

 

 久我は苦笑した。

 

 そんな軽いやり取りを挟みつつも、三人は警戒を解かなかった。

 

 先ほどの真壁のような人間が、どこに潜んでいるか分からない。

 

       *

 

 通路の先にある電子ロックの扉が、音もなく開いた。

 

 B3の研究区画は、B2の医療区画とは明らかに雰囲気が違っていた。

 

 血や汚れにまみれた地下工場ではない。

 

 むしろ、境界島の地上にある正規の能力者研究所に近い、極めて清潔な空間だった。

 

 真っ白な壁。

 

 広大なガラス張りの実験室。

 

 最新型の能力反応測定装置。

 

 厳重に温度管理された薬剤保管庫。

 

 被験者の脳波を記録する神経反応解析装置。

 

 壁一面に並ぶ過去の研究資料。

 

 医療用安定剤の試作品と、能力者用のリハビリ訓練器具。

 

 それらが、神経質なほど整然と並べられている。

 

「……ここが、人を壊す薬を作った場所だとは思えませんね」

 

 久我は正直な感想を漏らした。

 

 目に入る設備の大半は、本来なら能力の暴走に苦しむ能力者を治療するためのものだったのだろう。

 

 その設備が現在は、能力出力の増幅と、危険な臨床外試験へ転用されている。

 

 正しい目的で作られた道具が、正しくない使われ方をしている。

 

 その事実が、派手な血痕よりも不気味だった。

 

 中央研究室。

 

 ガラス張りの広い部屋の奥に、一人の男が待っていた。

 

 榊原宗一。

 

 モニター越しに見たのと同じ、四十代後半の痩せた男性だ。

 

 白衣を着て、眼鏡をかけている。

 

 顔には深い疲労が刻まれているが、表情は驚くほど落ち着いていた。

 

 手には武器を持っていない。

 

 久我の魔眼で見ても、榊原自身に固有の異能反応はない。

 

 能力者ではなく、一般人の研究者だ。

 

「来ていただけましたか」

 

 榊原が、客人を迎えるように静かに言った。

 

「退路の扉を閉められて、こちらへの道だけ開けられたら、来いと言われているのと同じでしょう」

 

「その点については、謝罪します」

 

「謝るくらいなら、あの扉を開けてください」

 

「現在、この地下全体の封鎖権限は私だけのものではありません」

 

 榊原は僅かに視線を伏せた。

 

「薬を作ったのは私です。被験者を集め、地下試合を運営したのは獅堂たちです。原料を横流しした職員もいれば、記録を偽装した者もいる。ですが、その全員が何をしているのか知りながら、私は研究を続けました」

 

「つまり、自分は研究だけしていたから関係ない、という話ではないんですね」

 

「そのような言い逃れをするつもりはありません」

 

 榊原もまた、この地下で行われていることを知りながら研究を続けてきた、中心的な責任者の一人だった。

 

       *

 

 久我は、勧められた椅子へ座らなかった。

 

 最初に、最も重要なことを確認する。

 

「B2にいる患者の状態を、ここから見られますか?」

 

 榊原は黙って手元の端末を操作した。

 

 大型モニターに、救助された衝撃波能力者の生命反応が表示される。

 

 心拍は安定し始めている。

 

 ほかの三名の患者も、医療職員による治療を受けていた。

 

「あなたたちが点滴を止めたことで、彼の出力反応は測定不能になりました」

 

 榊原の呟きに、澪が険しい顔をする。

 

「……命が助かったことより、データが取れなかったことの方が先なんですか?」

 

 榊原は少し沈黙した。

 

「救命していただいたことには感謝しています。あの方々も、死なせたくはなかった」

 

「その方を、患者として見ているのですか。それとも被験者として見ているのですか?」

 

 千鶴の冷たい問いに、榊原は隠さず答えた。

 

「両方です」

 

 自分の抱える矛盾を、榊原は誤魔化そうとはしなかった。

 

       *

 

 榊原がキーボードを叩き、三人へ過去の研究記録を表示した。

 

 現在行われている臨床外試験の記録ではない。

 

 彼がかつて境界島能力者医療研究所に在籍していた頃の、正式な医療研究の資料だ。

 

「能力者の中には、発動時に神経が焼けるような激痛を感じる者や、出力に自分の身体が耐えられない者がいます。感情が高ぶると無意識に能力が暴発する者。能力を一度使うだけで、反動で数日寝込む者。出力が極端に不安定な者。そして、周囲を傷つけることを恐れ、自分の能力を一生使わずに生きようとする者」

 

 榊原が開発していた医療用安定剤は、そうした異能反応を抑制し、神経や肉体への負担を減らすための薬だった。

 

「能力を強くするのではなく、安全に制御できる状態へ近づける。それが本来の目的でした。実際に、この薬で多くの能力者が救われたのです」

 

 榊原がモニターへ、過去の患者記録を表示する。

 

 能力を発動するたびに激痛で倒れていた少年。

 

 感情が高ぶると周囲の電化製品を壊してしまい、家族と離れて生活していた女性。

 

 身体の再生が止まらず、正常な細胞まで傷つけていた能力者。

 

 安定剤の投与と訓練によって、彼らの多くが日常生活へ戻っている。

 

「能力を持っているのに、使えば自分が壊れる。感情を乱せば家族を傷つける。そういう方々へ、能力を使わずに生きろと告げるだけでは、医療にはなりません」

 

 久我は、その言葉を否定しなかった。

 

 この研究そのものは、能力者社会に必要なものだった。

 

「ですが、安定剤の投与量や成分配合を調整する過程で、一部の被験者に逆の反応が起きました」

 

 異能反応を抑えるのではない。

 

 不安定な部分だけが抑えられ、能力の出力そのものが大きく上昇する現象。

 

 最初は、ただの投薬事故だった。

 

「ですが、一人の被験者が、その副作用を心から喜んだのです」

 

 榊原が一つの記録映像を再生した。

 

 若い男性が、研究室の机に置かれた紙を念動力で浮かせている。

 

 最初は一枚。

 

 次の映像では、金属製の椅子が床から持ち上がっていた。

 

 その人物は、紙一枚を浮かせるのが限界という、低出力の念動力能力者だった。

 

 それが試験中、一時的に数十キロの物体を動かせるようになった。

 

 記録映像の男性は、泣いていた。

 

『生まれて初めて、自分の能力が役に立った』

 

 そう繰り返しながら。

 

「私は、そこから考え始めました。能力を抑える薬が作れるなら、能力を安全に強くする薬も作れるのではないか、と」

 

       *

 

「境界島の制度で救われた能力者は、確かに大勢います」

 

 榊原は静かに続けた。

 

「弱い能力にも価値がある。能力は戦闘だけのものではない。特殊体質者にも仕事や居場所がある。それらは嘘ではありません」

 

 モニターには、境界島の能力者向け就労支援や、訓練施設、医療制度の資料が映し出される。

 

「ですが、その制度からこぼれ落ちる者もいます」

 

 高出力の能力者は、防衛、救助、研究機関からスカウトされ、高額な仕事を得やすい。

 

 強い能力者には訓練施設や奨学金が用意される。

 

 一方、出力が低い者は、日常生活で使わなくても支障がないと判断され、能力者向け支援の優先順位から外されることがある。

 

 能力を持つことで期待だけされ、結果を出せなければ失望される者もいる。

 

「小さな火を出せる者へ、ライターの代わりになると言う。弱い念動力を持つ者へ、机の上を片づける仕事に使えると言う。それだけで、本当にその人の可能性を認めたことになるのでしょうか」

 

 榊原の声が、少しだけ熱を帯びる。

 

「強い者には、国を守れ、災害現場へ行け、研究へ協力しろと言う。弱い者には、そのままで十分だと言う。それは優しさではなく、弱いままでいろという命令になってしまうこともあるのではありませんか」

 

 久我は、昨日見た能力産業展示館を思い出した。

 

 弱い能力を活用する日用品。

 

 特殊体質者に合わせた仕事。

 

「昨日、能力産業展示館へ行きました」

 

「ええ」

 

「あそこで実際に救われ、働いて、生活している人もいるでしょう」

 

「います。ですが、それで満足できない者もいます」

 

「その通りでしょうね。だからといって、救われている人たちの仕事や生活まで、偽物になるわけではありません」

 

「もちろんです。私はあの制度を否定したいのではない。あれだけでは届かない者がいると言っているのです」

 

 久我が単純に言葉を否定しなかったことに、榊原は僅かに驚いたようだった。

 

「弱いままで満足しろとは、俺も言えません」

 

 久我が言うと、澪と千鶴がその横顔を見る。

 

「俺は三十五歳になって、偶然、吸血鬼になりました。その後も、皇さんや剣持さん、鏡宮さんに能力との向き合い方を教えてもらった。血液パックや、安全な訓練場所まで用意してもらっている」

 

 久我は、自分が置かれている環境が恵まれていることを自覚していた。

 

「俺が今こうして戦えているのは、自分一人の努力だけじゃありません。もし誰にも拾われず、戦い方を何も教えられなかったら、力を持っていることにも気づかず、会社で身体を壊していたかもしれない」

 

 その立場から、他人に弱いままでいろとは言えない。

 

「だから、強くなりたいと思うこと自体は、何も間違っていないと思います」

 

「なら、私の研究を否定する理由はないはずです」

 

 榊原が身を乗り出す。

 

「あります」

 

 久我は即答した。

 

「あなたが作っている薬を使う人たちには、正確な危険性が説明されていない」

 

 説明されているのは、動悸、疲労、一時的な発熱程度。

 

 実際には、能力暴走、心筋異常、神経損傷、能力変質、依存、そして死亡の危険がある。

 

「薬を使わなければ地下試合で評価されない。勝てば上位版を与えられる。負けてもデータが良ければ勧誘される。依存状態にして組織から離れにくくする。暴走したら失敗品として処分する」

 

 久我は榊原を真っ直ぐに見据えた。

 

「あなたは、強くなれる選択肢を与えたと言う。でも、実際には薬を使い続ける道しか残していない。それは選択肢を増やしたんじゃない。減らしたんです」

 

 榊原は黙った。

 

「強くするというのは、その人ができることを増やすことじゃないんですか。薬を使わなければ元に戻る。使い続ければ身体が壊れる。失敗すれば処分される。それで増えたのは、本当にその人の選択肢ですか?」

 

       *

 

 久我の言葉に続き、澪も口を開いた。

 

「私も、もっと強くなりたいです」

 

 榊原が澪を見る。

 

「久我さんや皇さんに、守られてばかりなのは嫌です。ただ誰かを抱えて逃げるだけじゃなくて、敵もちゃんと倒せるようになりたいと思います」

 

 澪は、疲労の残る自分の脚へ視線を落とした。

 

「昨日だって、私がもっと上手く走れれば、久我さんが右腕で何百枚もの鉄片を全部受けなくてもよかった」

 

「七瀬さん、それは――」

 

「今は私の番です」

 

 久我が口を挟もうとすると、澪がぴしゃりと制した。

 

 久我は黙る。

 

「でも、薬を使って急に速くなるより、今日みたいに壁や天井を走れるようになった方が、ずっと嬉しいです」

 

 澪は榊原を見る。

 

「久我さんの視線を見て、自分の判断で進路を変えられたことの方が、ただ能力の出力が上がるよりずっと嬉しかった。私は強くなりたいです。でも、誰かの実験データになるために強くなりたいわけじゃありません」

 

 千鶴も静かに前へ出る。

 

「私は、生まれた時から、いつか強い能力を継ぐ者として扱われてきました」

 

 榊原が千鶴を見る。

 

「実際に《神鏡返し》を継承したのは、祖母が亡くなった数週間前です。ですが、それよりずっと以前から、私の人生はその力を受け継ぐことを前提に決められていました」

 

 強い力を継ぐのだから、家のために生きろ。

 

 力があるのだから、役目を果たせ。

 

 力があるのだから、普通の生活を望むな。

 

 千鶴は、幼い頃からそう教えられてきた。

 

「弱い力しか持たない方へ、弱いままでいろと命じることも。強い力を持つ者へ、力のために生きろと命じることも。どちらも、その人自身の選択を奪っている点では、何も変わりません」

 

「私は、その選ぶための力を与えようとしているのです」

 

「危険を隠し、失敗すれば処分する者が、選択を語るべきではありません」

 

 千鶴の冷たい言葉に、榊原は奥歯を噛み締めた。

 

       *

 

 榊原も簡単には折れない。

 

「……あなたたちは、恵まれている」

 

 久我には八咫烏の支援。

 

 澪には吸血鬼としての身体能力と指導者。

 

 千鶴には継承された強力な能力と、幼い頃から受けてきた技術訓練。

 

「訓練で強くなれる者は、訓練を勧めればいい。優れた指導者に会える者は、技術を学べばいい。時間と費用をかけられる者は、安全な補助器具を買えばいい。では、そのどれも持たない者は、一体どうすればいいのです?」

 

 榊原の声が研究室に響く。

 

「十年間訓練しても、出力が変わらない者へ、まだ努力を続けろと言うのですか。災害で家族が瓦礫の下にいる時、力の制御を学ぶまで待てと言うのですか。力が必要な瞬間は、人間が成長するまで待ってはくれない」

 

 榊原の主張には、簡単には切り捨てられない現実が含まれていた。

 

 榊原は《オーバークロック》を完成品だとは思っていない。

 

 現行版は不完全な試作品。

 

 彼の目的は、薬で一時的に能力を強化することではない。

 

 能力発動時の神経経路を安定させる。

 

 身体が高出力へ耐えられるよう適応させる。

 

 最終的には、薬を使わなくても強化状態を維持できるようにする。

 

 能力出力の生まれつきの格差を縮める、治療法を作ること。

 

「今は依存性がある。今は身体を壊す。今は死者も出る」

 

 榊原は、モニターの向こうにいる患者を見た。

 

「ですが、研究が完成すれば、能力の強弱は生まれつきの運命ではなくなる。今ここで研究を止めれば、これまでの犠牲から得られた記録も失われ、未来の数万人は救えなくなる」

 

「未来の数万人のために、今生きている人を勝手に材料として使っていい理由にはなりません」

 

「彼らは、自分から強さを求めてここへ来た」

 

「正しい危険性を、事前にすべて説明しましたか?」

 

 榊原は答えない。

 

「死亡する可能性まで説明して、いつでもやめられる状態にしましたか?」

 

 沈黙。

 

「薬を拒否した人へ、別の安全な支援を紹介しましたか。暴走した人を治療し、元の生活へ戻しましたか?」

 

「……全員を救うことはできない」

 

「救えなかったことと、救おうとしなかったことは違います」

 

 久我は、B2で見つけた分類の記録を表示した。

 

 サンプル。

 

 低適性。

 

 廃棄予定。

 

「この分類を許した時点で、あなたは人間を材料として扱う側へ移ったんです」

 

 榊原の表情が、初めて僅かに歪んだ。

 

       *

 

「その分類を作ったのは、第七リングの運営者たちです」

 

「止めましたか?」

 

「……止めませんでした」

 

「なぜです?」

 

「研究を続けるためです」

 

 運営側の勧誘方法。

 

 危険性の隠蔽。

 

 依存者の囲い込み。

 

 失敗者の処分。

 

 死亡記録の偽装。

 

 榊原は、それらを知っていた。

 

 すべてを直接指示したわけではない。

 

 だが、研究データを得るために止めなかった。

 

「私は一線を越えた。それは理解しています。しかし、ここで研究を止めれば、死んだ者たちの流した血とデータまで、すべてが無駄になる」

 

「死んだ人を、あなたの研究を続けるための言い訳に使わないでください」

 

 久我の静かな一言に、榊原は言葉を失った。

 

 榊原は視線を逸らし、研究室の隅にある別のモニターを見た。

 

 そこには、地下四階を示す表示が出ている。

 

 久我は、榊原が会話の途中から、何度もそのモニターを気にしていたことに気づいていた。

 

「あなたは、能力出力そのものは飛び抜けていない」

 

 榊原が話を戻す。

 

「褒められている気がしませんね」

 

「ですが、あなたは異なる能力者たちの特性を見抜き、短時間で適切な使い方を組み立てる。強い能力を人工的に作るのではなく、現在ある力を活かしている。あなたの方法は、私の研究を否定する可能性がある」

 

「だから話がしたかったんですか」

 

「ええ。あなたの方法が誰にでも再現可能なら、私の薬は不要になるかもしれない。しかし、それがあなた一人にしかできない特異な才能なら、それは弱者全体の救済にはなりません」

 

 この指摘には、久我も即答できなかった。

 

 魔眼と観察力を使った久我の運用は、確かに誰にでも真似できるものではない。

 

 榊原が提起した問題そのものは、まだ残っている。

 

 しかし、その答えが今行われている人体実験ではないことだけは確かだった。

 

「研究を止めて、特区保安局へ投降してください」

 

「できません」

 

「なぜです?」

 

 榊原は、先ほどから気にしていたモニターを見る。

 

「最後の試験が、すでに始まっています」

 

       *

 

 研究室の大型モニターが切り替わった。

 

 映し出されたのは、さらに一つ下の地下四階。

 

 広大な実験用アリーナ。

 

 中央に、一人の男性が立っている。

 

 三十代。

 

 黒い試合用ジャケットを着て、落ち着いた笑みを浮かべている。

 

 その周囲には、六名の能力者が配置されていた。

 

 全員の首元、腕、背中には、赤いパッチや投薬装置が取り付けられている。

 

「獅堂将馬。第七リング地下試合の運営を担っている能力者です」

 

 榊原が説明する。

 

「彼の能力は《能力共鳴》。周囲の能力者同士で、感覚の一部と能力発動のタイミングを共有させます。私が必要としていたのは、その作用を利用した身体負荷の分散です」

 

 現行の増幅剤が危険なのは、一人の身体へ負荷が集中するから。

 

 獅堂の《能力共鳴》を介すれば、一人の神経負荷を複数人へ分散できる可能性がある。

 

 一人が倒れても、接続全体で能力発動を維持できる。

 

 必要な薬量を減らしながら、集団としての能力出力を上げる。

 

「一人へ十の負荷がかかるから壊れる。ならば、十人へ一ずつ負荷を分ければいい」

 

「本当に分けられるんですか?」

 

「理論上は」

 

「実際には?」

 

「これから確認する予定でした」

 

 久我の表情が険しくなる。

 

 モニターには、六人の能力者の登録情報が表示されていた。

 

 火炎能力者。

 

 冷却能力者。

 

 皮膚硬化能力者。

 

 念動力能力者。

 

 音響能力者。

 

 影移動能力者。

 

 個々の能力出力は突出していない。

 

 だが、《能力共鳴》によって感覚と発動のタイミングを共有すれば、単純な六人組とは別物になる。

 

「全員、自分からこの最終試験を望みました」

 

「薬に依存させられた状態での同意を、自由な選択とは呼べません」

 

 千鶴が言う。

 

 澪もモニターを見つめる。

 

「あの人たち、震えています。怯えている人もいる。正常な状態じゃありません」

 

 六人の表情はそれぞれ違っていた。

 

 異常に興奮して笑っている者。

 

 震えながら周囲を見ている者。

 

 痛みに顔を歪めている者。

 

「途中でやめたいと言ったら、止められますか?」

 

 久我の問いに、榊原は答えない。

 

「……止められないんですね」

 

 モニター内の獅堂がカメラを見た。

 

 久我たちの会話を聞いている。

 

『榊原先生。もう、その連中への説明は十分でしょう』

 

「獅堂。まだ開始命令は出していない」

 

『上は保安局に踏み込まれました。B2の記録も押さえられた。このまま待てば、全員逮捕されて終わりです』

 

『先生は、研究が成功すれば彼らを救えると言った。なら、今ここで証明しましょう』

 

「負荷分散の数値が安定していない。まだ早い」

 

『安定するまで待てる時間はありません』

 

 榊原が初めて明確な動揺を見せた。

 

「止めてください」

 

 久我の言葉に、榊原は制御端末へ手を伸ばす。

 

 だが、画面には権限拒否の警告が表示された。

 

「獅堂側へ、現場制御の権限が移されています」

 

「その権限を渡したのは誰ですか?」

 

「……私です。最終試験のために必要だと判断しました」

 

 榊原が計画し、獅堂へ与えた権限だった。

 

       *

 

 獅堂が両手を広げる。

 

『接続開始』

 

 六人の首元にある投薬装置が同時に作動し、《オーバークロック》が注入される。

 

 六人の異能反応が急上昇した。

 

 その直後。

 

 獅堂を中心に、七人の異能反応が同じ周期へ近づいていく。

 

 呼吸の間隔が揃う。

 

 一人が獅堂へ視線を向けると、ほかの者まで同じ方向へ顔を動かす。

 

 一人の能力が立ち上がる瞬間に合わせ、別の能力者も発動準備へ入る。

 

 獅堂の異能反応が、六人を繋ぐ中継点になっていた。

 

 最初の数秒は、成功しているように見えた。

 

 一人へ集中するはずだった過剰な負荷が、六人の間へ分散していく。

 

 能力出力も安定して上昇している。

 

「負荷分散率、六十三パーセント……前回より高い」

 

 榊原が思わずモニターへ近づく。

 

 その横顔には、危険を忘れて結果へ引き寄せられる研究者の表情が浮かんでいた。

 

 だが、成功の直後に異常が現れる。

 

 火炎能力者が痛みに呻く。

 

 その直後、ほかの五人まで同時に顔を歪めた。

 

 冷却能力者の集中が乱れる。

 

 念動力が暴発し、実験室内の器具が宙へ浮いた。

 

『集中しろ。負荷は分散されている』

 

 獅堂が命令する。

 

 しかし共有され始めたのは、身体負荷だけではなかった。

 

 一人の恐怖に反応して、全員の心拍が跳ね上がる。

 

 一人の興奮が、ほかの者へ伝わる。

 

 誰かの攻撃衝動に引きずられ、全員の異能出力が再び上昇する。

 

「獅堂、接続を切れ!」

 

『まだ安定させられる』

 

「感情反応まで共鳴している! このままでは集団暴走する!」

 

『ならば、力で制御できることを証明します』

 

 獅堂は接続を解除しない。

 

「これが、あなたの完成させたかった研究ですか?」

 

 久我が榊原へ問う。

 

 榊原は答えられない。

 

 負荷を分けて救うはずの仕組みが、苦痛と恐怖まで広げている。

 

 人間同士を繋ぐ以上、肉体の負荷だけを都合よく切り離すことはできなかった。

 

「……接続を止めなければならない」

 

 榊原が蒼白な顔で言う。

 

「止める方法は?」

 

「獅堂本人の集中を失わせるか、接続対象全員を能力範囲の外へ離す必要があります」

 

「遠隔停止は?」

 

「獅堂が現場権限を奪っています。ここから接続そのものを止めることはできない」

 

「つまり、俺たちが行くしかないと」

 

「またですか」

 

 千鶴がため息をつく。

 

「でも、あの人たちを放っておけません!」

 

 澪が拳を握った。

 

 通信を入れる。

 

 黒瀬たちは、まだB1からB2へ進行中。

 

 地下参加者の一部が抵抗しているため、時間がかかっている。

 

『第七リング地下の能力反応が急上昇しました。B4で何が起きていますか』

 

 かれんの声。

 

 久我が状況を簡潔に説明する。

 

『獅堂将馬の制圧と、薬物使用者の保護を最優先にしてください』

 

『可能なら、接続だけを切って。被験者は犯罪に関与している可能性もあるけれど、現在は薬物被害者でもあるわ』

 

「分かっています」

 

       *

 

「榊原さんも一緒に来てください。薬を止める方法が分かるんですよね?」

 

 澪が言うと、榊原は首を横に振った。

 

「私は、この制御室に残ります。投薬装置の強制停止を試み、被験者の生命反応を監視し、外部部隊へ研究データを開放する。さらに、彼らがここへ到達できるよう、防火扉を順番に解除しなければならない」

 

「……逃げませんよね?」

 

 久我が鋭く問う。

 

「逃げるつもりなら、最初からあなたたちをここへ呼んでいません」

 

「それは信用できる理由になりません」

 

「当然でしょう」

 

 榊原は自分の職員証と、B4実験区画の物理ロック解除コードを久我へ渡した。

 

「獅堂の《能力共鳴》は、本人の周囲二十メートル以内で最も強く働きます。接続された能力者を無理に遠ざけると、反動が一人へ集中する可能性がある」

 

「どうすればいいんですか?」

 

「私が遠隔から投薬を停止します。その後、全員の異能出力をなるべく同時に下げてください」

 

「投薬装置は?」

 

「破壊しないでください。薬剤カートリッジや注入管を壊せば、残量が一気に投与される恐れがあります。停止を確認した後、側面の安全ロックを解除し、注入針を抜かずに装置本体だけを固定してください。医療班が到着するまで完全には外さない方がいい」

 

「戦闘しながら六台同時ですか」

 

「簡単ではありません」

 

 三人は、最終戦の勝利条件を確認する。

 

 六人を殺さない。

 

 強い攻撃で意識を失わせない。

 

 榊原が投薬を停止するまで、装置を破壊しない。

 

 停止後は、外部接続端子を解除し、再作動を防ぐ。

 

 獅堂の集中を崩す。

 

 全員の異能出力を、なるべく同時に下げる。

 

 難しい理由は山ほどある。

 

 感覚の一部が共有されているため、死角を作りにくい。

 

 一人を狙えば、ほかの者が反応する。

 

 六人の能力が互いの隙を補う。

 

 誰か一人を傷つけると、その恐怖と苦痛が全体へ広がり、暴走を悪化させる可能性がある。

 

「六人を相手にするんじゃない」

 

 久我が言う。

 

「薬と共鳴で繋がった七人が、一人みたいに動くんですよね」

 

 澪がモニターを見る。

 

「ならば、その一人を構成している繋がりを切るしかありません」

 

 千鶴が分鏡を握り直した。

 

       *

 

 榊原がB4への隔壁を開く。

 

 赤い警告灯が回る。

 

 地下から、複数の能力が発動する音が響く。

 

 炎が燃える音。

 

 氷が床を這う音。

 

 金属が念動力で歪む音。

 

 三人はエレベーターではなく、非常用階段を使って降りていく。

 

 澪の脚には疲労が残っている。

 

 久我の右腕は再び出血している。

 

 千鶴も真壁戦で消耗している。

 

 三人とも万全ではない。

 

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 

 B4実験アリーナの扉が開く。

 

 広い円形空間。

 

 中央に獅堂将馬。

 

 その周囲に六人の能力者。

 

 全員の目が、まったく同じ瞬間に久我たちへ向いた。

 

 表情はそれぞれ違う。

 

 興奮に笑っている者。

 

 恐怖に震えている者。

 

 苦痛に顔を歪めている者。

 

 それでも身体だけは、一人の命令を受けたように同時に動いた。

 

 七人が同じ間隔で息を吸う。

 

 火炎能力者の両手に炎。

 

 冷却能力者の足元から氷。

 

 念動力によって金属片が浮かぶ。

 

 音響能力者の周囲で空気が震える。

 

 影移動能力者の身体が床の影へ沈む。

 

 硬化能力者が獅堂の前へ立つ。

 

 獅堂が笑った。

 

「薬を使わない能力者三人。薬と共鳴で繋がった能力者七人。どちらが本当に強いのか、最後の試合を始めよう」

 

「こっちは試合をしに来たわけじゃありません」

 

「知っている。だから面白い」

 

 獅堂が片手を上げる。

 

 七人の能力が同時に発動した。

 

 久我の魔眼に、七つの異能反応を繋ぐ共鳴の流れが映る。

 

 ただし、その繋がりは完全に均等ではない。

 

 獅堂を中心として六人の間を巡る反応には、一瞬だけ弱くなる順番が存在していた。

 

 久我は、それを見逃さなかった。

 

 弱い能力者を救うために作られた薬は、七人を一つの戦闘集団へ変えていた。

 

 感覚も、攻撃も、苦痛さえも共有する異能の群れ。

 

 正面から倒せば、繋がれた全員が傷つく。

 

 ならば、倒すべきものは人間ではない。

 

 七人を縛っている、その繋がりそのものだ。

 




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