35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
四連休三日目、午前一時過ぎ。
第七リングの地下深層、B4実験アリーナ。
直径五十メートルほどの、無機質な円形空間だった。
中央に据えられた制御台には、黒いジャケットを着た獅堂将馬が静かに立っている。
その周囲を、六人の能力者が六角形の陣形で囲んでいた。
アリーナの壁沿いには複雑な実験機材が並び、天井には能力測定用のセンサーや金属レールが張り巡らされている。
六人の被験者たちは、それぞれ異なる表情を浮かべていた。
火炎能力者は、薬物による過剰な興奮で不自然な笑みを浮かべている。
冷却能力者は、自分の力に怯えるように震えていた。
皮膚硬化能力者は歯を食いしばり、全身を襲う苦痛へ耐えている。
念動力能力者は、焦点の合わない虚ろな目で宙を見つめていた。
音響能力者は耳を塞ぎたい衝動を必死に抑え込んでいるように、両手を下ろしたまま動かない。
影移動能力者は、逃げ道を探すように落ち着きなく周囲へ視線を走らせていた。
正常な判断ができる状態の者は、一人もいないように見えた。
しかし、中央にいる獅堂が右手を上げると、六人全員が糸で操られた人形のように、寸分違わぬタイミングで臨戦態勢を取った。
「薬を使わない能力者三人。薬と共鳴で繋がった能力者七人。どちらが本当に強いのか、最後の試合を始めよう」
獅堂の唇が、楽しげに弧を描く。
「こちらは試合をしに来たわけではありません」
久我陽介は、包帯に覆われた右腕を庇いながら冷たく返した。
「知っている。だからこそ、お前たちが敗北を認めるまで、この試合は終わらない」
獅堂が、上げた右手を力強く振り下ろした。
その瞬間。
七人の能力反応が、同じ周期で一斉に脈動した。
*
最初に動いたのは、冷却能力者だった。
両手を床へ触れさせる。
久我たちの足元へ向けて、凍てつくような白い霜が一気に広がった。
同時に、対角線上にいる火炎能力者が両手から激しい炎を放ち、正面の退路を完全に塞ぐ。
急激に床を凍らせる冷気と、荒々しい熱気が衝突した。
アリーナ中央へ、大量の水蒸気が発生する。
一瞬にして、視界が真っ白に覆われた。
普通なら、ここで敵味方ともに互いの位置が分からなくなり、動きが止まる。
だが、音響能力者が喉の奥から短い音波を放った。
反響音の変化から、久我、澪、千鶴の位置を立体的に捉える。
その知覚情報が、《能力共鳴》を介して七人全員へ共有された。
蒸気の向こうから、念動力で持ち上げられた鋭い金属片の群れが、見えないはずの久我たちへ正確に飛来する。
千鶴が滑るように前へ出た。
偽装用コンパクトから取り出された《真澄鏡》の分鏡が、淡い光を放つ。
千鶴は《神鏡返し》で金属片を能力者本人へ返さず、無人の天井方向へ軌道だけを変更した。
金属片が、天井の衝撃吸収材へ深く突き刺さる。
その直後。
火炎によって床へ生まれた影の中から、影移動能力者が音もなく出現した。
狙いは、防御へ集中している千鶴の死角。
「鏡宮さん、右後ろ!」
久我の叫びに、千鶴は振り向くことなく半歩だけ前へ出た。
影移動能力者の鋭い手刀が、千鶴の髪を掠めて空を切る。
反撃に移る隙もなく、今度は皮膚硬化能力者が正面から突進してきた。
全身を灰色の硬質な皮膚に覆った、生きた盾。
獅堂本人へ近づかせないための前衛だった。
*
澪が吸血鬼の脚力で床を蹴り、皮膚硬化能力者の側面へ高速で回り込んだ。
攻撃するためではない。
首元に取り付けられた投薬装置の位置と構造を確認するため、極限まで近づいただけだ。
だが、澪が動いた瞬間。
火炎能力者が澪の進路を先読みし、炎の壁を置いた。
澪が炎を避けて軌道を変えれば、冷却能力者がその着地点を凍らせる。
念動力能力者が、空中の澪へ横向きの力を加えた。
音響能力者が、平衡感覚を狂わせる不快な周波数を叩き込む。
影移動能力者は、澪が落下する地点へすでに先回りしていた。
澪は攻撃を受ける寸前で、空中に固定された金属機材を蹴る。
無理やり進路を変え、久我たちの近くへ戻ってきた。
「全部、私が行く場所を最初から分かってました!」
「七人全員が、七人分の目と耳を使っていますからね」
久我は、魔眼の視界を研ぎ澄ませた。
一人の視界へ入れば、全員に見つかる。
一人の死角へ回ったつもりでも、別の誰かが見ている。
ただ背後へ回るだけの戦術は通用しない。
「……攻撃を、ご本人たちへ直接返すことはできません」
分鏡を構えたまま、千鶴が言った。
火炎と氷と金属片が、息をつかせぬ連携で飛んでくる。
しかし、すべてを《神鏡返し》で本人たちへ反射すれば、負傷の痛みと恐怖が接続された六人全員へ共有される。
一人が負傷すれば、六人の異能反応が一斉に乱れる。
薬物によって神経が極端に興奮した状態では、その乱れが連鎖的な暴走を引き起こす可能性が高い。
「安全な方向へ逸らすだけでお願いします」
「分かりました」
千鶴は《神鏡返し》を攻撃手段として使うことを封印した。
火炎を天井へ。
氷結を無人の外周へ。
金属片を衝撃吸収壁へ。
音響波を吸音材へ。
相手へ返すのではなく、安全な方向へ流す純粋な防御へ限定する。
その分、能力制御に必要な集中力と精神的な負担は大きくなる。
*
久我は、七人を繋ぐ異能反応を観察していた。
共鳴は、七人全員へ常に均一に働いているわけではない。
獅堂から発せられた命令と感覚情報は、火炎、冷却、硬化、念動力、音響、影移動、そして獅堂へと巡っている。
ただし、順番は固定されていない。
獅堂が次に使おうとする能力へ、最初に強い共鳴が流される。
炎を使うなら、火炎能力者から。
視界外を探るなら、音響能力者から。
死角へ回り込むなら、影移動能力者から。
命令が一周する僅かな時間の中で、反応が強くなる者と、反対に弱くなる者が順番に生まれていた。
「完全な同時ではありません」
久我の言葉に、澪が息を弾ませながら応じる。
「少しずつ、順番に繋がってるってことですか?」
「はい。獅堂さんが必要な能力から順に、命令を回しています」
「その反応が弱くなる瞬間を狙えば、近づけるのですね」
千鶴が答えへ辿り着く。
「ただし、順番は攻撃のたびに変わります」
暗記では攻略できない。
久我が一周期ごとの変化を読み続け、その場で指示を出す必要がある。
『六人の投薬装置の構造を確認しました。獅堂が個別制御をロックしています』
通信用イヤホンから、B3の制御室にいる榊原の声が届く。
「そこから薬を止められませんか?」
『中央制御だけでは止まりません。一台だけ停止命令を送ると、残り五台へ投与量を自動で再分配する設定になっています』
「一人分を止めたら、ほかの人の薬が増えちゃうんですか?」
澪が青ざめる。
『獅堂が、戦闘中に一人が脱落しても全体出力を維持できるよう、システムを変更しています』
「最悪の仕様変更ですね」
『装置の左側面に、黄色い安全ロックがあります。それを手動で待機位置へ移してください。六台すべてが待機状態になった瞬間だけ、私が中央から薬剤供給を停止できます』
一台目のロックを操作してから、三秒以内に残り五台も待機状態へ移さなければならない。
間に合わなければ最初の装置が自動復帰し、残りへ薬剤が追加投与される。
三秒以内に六人へ触れる。
澪の速度なら不可能ではない。
だが、七人が視界と攻撃を共有している現状では、近づく前に阻止される。
『もう一つ。中央制御台には、共鳴試験が暴走した場合に備えた緊急隔離機構があります』
榊原が続ける。
『遠隔操作は獅堂に封じられていますが、現地の手動レバーだけは、安全規則上無効化できません。中央制御台の右端にある黒い《共鳴隔離》レバーを引けば、能力遮蔽壁が展開され、獅堂を隔離できます』
「獅堂さんの目の前まで行く必要があるんですね」
『そうなります』
「簡単な作業が一つもありませんね」
*
「七瀬さん。まず影移動、次に音響、念動力の順です」
久我が、魔眼で読み取った最初の経路を指示する。
「三人だけですか?」
「最初は安全ロックの位置と、相手の反応を確認します。無理なら、すぐに戻ってください」
「分かりました!」
千鶴が火炎と氷結を左右へ逸らし、一瞬だけアリーナ中央へ細い道を作った。
澪が疾走する。
獅堂の共鳴が火炎能力者へ強く流れている間に、影移動能力者へ肉薄。
左側面の安全ロックを指先で滑らせる。
小さな音とともに、装置の表示が赤から黄色へ変わった。
次に、音響能力者。
音波が放たれる直前、久我が叫ぶ。
「今です!」
澪が音響能力者の懐へ潜り込む。
至近距離では、味方を巻き込む広範囲音波は使いにくい。
二台目のロックを黄色へ。
そして三台目、念動力能力者。
だが、獅堂が澪の狙いを理解した。
六人の共鳴順序を強引に変更し、念動力能力者へ大量の共鳴を流し込む。
周囲の金属機材が一斉に浮き上がり、澪を球状に包囲する。
さらに影移動能力者が、澪の背後の影から手刀を突き出した。
澪は、攻撃して二人を排除することができない。
金属の包囲が完全に閉じるまで、もう時間がない。
「中止! 上へ!」
久我の指示。
澪は、念動力の檻が閉じられる直前の隙間を抜け、天井近くの測定レールへ跳躍した。
壁を蹴り、久我たちの元へ戻る。
直後。
一台目と二台目の安全ロックが自動復帰し、表示が黄色から赤へ戻った。
装置が追加の薬剤を投与する。
六人の異能反応が、先ほどよりもさらに上昇した。
着地した澪の左膝が、僅かに沈み込む。
壁、柱、天井を走り続け、真壁との戦闘でも撹乱役を務めた疲労。
専用靴と補助具に守られているとはいえ、脚そのものの消耗は消えていない。
「七瀬さん。脚は大丈夫ですか?」
「……まだ走れます」
「それは聞きました。走って大丈夫な状態ですか?」
澪は一瞬だけ答えに詰まり、前を見た。
「あと一回なら、全力で行けます」
何度も失敗はできない。
次が最後の解除作戦になる。
*
薬剤の追加投与により、共鳴の繋がりはさらに強くなった。
「弱い個人が勝手に動こうとするから失敗する」
獅堂が冷たく言い放つ。
「俺に従えば、自分で考える必要も、迷う必要もない」
火炎能力者が、笑いながら炎を増幅させる。
しかし、その笑顔のまま、目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
冷却能力者が、震える声で呟く。
「もう……やめたい……」
その言葉が発せられた瞬間。
ほかの五人の表情にも、同じ恐怖が広がった。
冷却能力者のやめたいという感情が、六人全員へ共有されたのだ。
獅堂の表情が険しくなる。
「余計なことを考えるな」
《能力共鳴》を通じて、獅堂の強い命令が六人へ流れ込む。
六人の身体が、本人たちの拒絶に反して痙攣し、再び戦闘姿勢を取らされた。
千鶴が、その異能の流れを見据える。
「獅堂さんは、感覚を共有しているだけではありません」
「命令で、本人たちの意思を押さえ込んでいる」
「はい。あれは連携ではありません。精神の拘束です」
千鶴の持つ分鏡が、小さく振動する。
《神鏡返し》は、物理的な攻撃だけを返す能力ではない。
本人の意思を押し潰し、行動を強制する拘束も、反射の対象になり得る。
ただし、共鳴全体を反射すれば、六人へ流れている感覚や苦痛まで獅堂へ返すことになる。
どのような反動が起こるか分からない。
千鶴が狙えるのは、獅堂から六人へ送られる強制命令だけ。
しかも、それが発せられるごく短い瞬間だけだった。
*
「俺と鏡宮さんで、獅堂さんの注意を二つへ分けます」
久我は攻撃を避けながら、作戦を伝える。
「その間に七瀬さんが、六台の安全ロックを操作してください」
『六台が待機状態へ入った瞬間、私が薬剤供給を停止します』
榊原が通信の向こうから続ける。
「薬が止まれば、六人は獅堂さんの命令へ抵抗しやすくなる。その時、獅堂さんは強制命令をさらに強めるはずです」
「私は、その命令だけを本人へ返します」
千鶴が頷く。
「獅堂さんの集中が崩れたら、俺が中央制御台へ行って《共鳴隔離》を作動させます」
「久我さんが一番危険な役目ではありませんか?」
澪が問う。
「中央制御台へ行くには、それしかありません」
「右腕は?」
「使いません」
「左腕も痛めていますよね?」
「なるべく使いません」
澪と千鶴が、揃って疑わしそうな視線を向ける。
「……今は作戦へ集中しましょう」
*
久我が、負傷した右腕を庇いながら、獅堂へ向かって正面から歩き出した。
左腕にも真壁戦の衝撃が残り、血液も減っている。
それでも足取りに迷いはない。
「今度はお前が来るのか、中年」
「ずっと後ろから指示しているだけでしたからね。たまには少し前へ出ようかと思いまして」
「その壊れた腕で、何ができる」
「殴る以外のことなら、多少は」
獅堂が硬化能力者を久我へ向かわせた。
同時に、火炎能力者が久我の退路へ炎の壁を作る。
念動力が左右の空間を金属で塞ぐ。
獅堂の情報処理が、久我の制圧へ集中する。
千鶴は別方向から、中央制御台へ近づくように動いた。
獅堂は《神鏡返し》を警戒し、音響能力者と影移動能力者を千鶴の牽制へ回す。
六人の役割が、久我側と千鶴側へ分散された。
澪への警戒が、一瞬だけ薄くなる。
皮膚硬化能力者が、岩のような拳を久我へ振るう。
久我は受け止めない。
拳が届く直前に身体を半歩だけ外へ滑らせ、左手を相手の肘へ軽く添える。
勢いの方向を僅かにずらされた拳が空を切り、床を砕いた。
久我は、その太い腕の下を潜り抜ける。
火炎が迫る。
千鶴が遠隔から火炎を久我の横へ逸らした。
念動力で久我の身体が持ち上げられかける。
久我は近くの固定レールを左手で掴み、浮かされるのを防いだ。
無理に前へ進む必要はない。
攻撃を避ける。
敵を獅堂から引き離す。
獅堂の注意を自分へ固定する。
それだけでいい。
久我の魔眼に、共鳴の巡回順が映る。
最初は硬化。
次に火炎。
念動力。
音響。
影移動。
冷却。
一周期が終われば、獅堂はすぐに順番を変える。
「七瀬さん、行ってください!」
澪が、残された力を振り絞って疾走した。
一台目、冷却能力者。
共鳴が反対側の硬化能力者へ流れている間に、安全ロックを黄色へ。
二台目、影移動能力者。
影へ沈もうとする直前、装置へ触れてロックを操作する。
三台目、音響能力者。
音波が発生する前に脇を通り抜け、安全ロックを待機位置へ。
獅堂が澪の動きに気づいた。
「止めろ!」
共鳴順序が変わる。
久我はその変化を即座に読む。
「次は念動力! その後、火炎です!」
澪は最初に決めた順番へ固執しない。
久我の声に合わせ、空中の機材を蹴って進路を変えた。
念動力能力者の周囲へ、鋭利な金属片が浮く。
澪は床を走らず、壁へ移る。
第七リングの試合で身につけた立体機動。
金属片の包囲を上から越え、四台目の安全ロックを黄色へ変える。
火炎能力者が炎の壁を作った。
千鶴が炎を真上へ逸らす。
炎が天井の散水設備へ当たり、大量の水蒸気が生まれた。
視界が白く覆われる。
音響能力者は、すでに安全ロックが待機状態へ入っている。
異能反応が僅かに不安定になり、反響による位置把握が一瞬遅れた。
澪が蒸気を抜ける。
五台目。
火炎能力者の装置を黄色へ。
残りは、皮膚硬化能力者一人。
だが、硬化能力者は獅堂の目の前で盾となっている。
獅堂は硬化能力者へ共鳴を集中させた。
皮膚だけでなく、顔面を含む全身が分厚い灰色の装甲に覆われる。
投薬装置は、硬化した肩と首の間へ隠れていた。
残り時間は一秒に満たない。
久我が、獅堂へ向けてさらに一歩踏み込んだ。
獅堂が反射的に、目の前の盾へ命じる。
「そいつを止めろ!」
硬化能力者が久我へ向かって踏み出す。
獅堂の前から、盾が離れた。
久我は迫る拳を避けた。
倒さない。
掴まない。
硬化能力者の身体を、自分の横へ通過させるだけ。
その背後を、限界の速度で澪が走り抜ける。
久我とすれ違う瞬間、二人の視線が交わった。
久我は、硬化能力者の左肩を見る。
澪は意図を理解した。
硬化能力者の背後へ回り込み、肩の内側に隠れていた安全ロックへ指を滑り込ませる。
六台目の表示が、赤から黄色へ変わった。
「榊原さん、今です!」
*
B3の制御室。
榊原の指が、停止命令の実行キーの上で止まった。
画面には、無機質な警告が表示されている。
『最終試験データの一部が失われます。本当に停止しますか?』
人生を賭けて積み上げてきた研究。
犠牲者から得た記録。
完成へ近づいたと思っていた負荷分散試験。
それらを、自分の手で止める命令。
モニターの隅では、冷却能力者が涙を流しながら震えていた。
榊原は警告画面を閉じる。
「……停止する」
実行キーを押した。
六台の投薬装置のランプが、同時に青へ変わる。
薬剤の供給が停止した。
*
投薬が止まった直後。
六人の能力出力が僅かに低下した。
薬物による異常な興奮も、少しずつ弱まり始める。
完全に正常へ戻ったわけではない。
だが、本人たちのやめたいという意思が、表面へ浮かび上がる。
冷却能力者が膝をついた。
「もう……動けない……」
音響能力者が、苦しそうに耳を押さえる。
「頭の中に……入ってこないで……」
影移動能力者が、獅堂から離れようと後ずさる。
獅堂が焦りを浮かべた。
「動け!」
《能力共鳴》を最大出力へ引き上げる。
六人へ、個別の命令が送り込まれる。
火炎能力者へ、正面を焼け。
冷却能力者へ、右側を凍らせろ。
硬化能力者へ、久我を止めろ。
念動力能力者へ、澪を拘束しろ。
音響能力者へ、千鶴を探知しろ。
影移動能力者へ、背後へ回れ。
本人たちの意思を押し潰す、六つの強制命令。
千鶴が、分鏡を真っ直ぐに掲げた。
共鳴全体を反射しない。
感覚共有も、能力反応も、六人の苦痛も返さない。
獅堂から六人へ流れ込む、強制命令だけへ照準を絞る。
「人を繋いでいるのではありません」
千鶴の澄んだ声が響く。
「あなたは、ただ彼らを縛っているだけです」
《神鏡返し》が発動した。
六人へ向かっていた強制命令が、発信元である獅堂へ返る。
獅堂の身体が、不自然に硬直した。
正面へ炎を放とうとする命令。
右側を凍らせようとする命令。
久我へ突進しようとする命令。
澪を拘束しようと両腕を伸ばす命令。
千鶴へ顔を向け、位置を探ろうとする命令。
背後へ回ろうとする命令。
六人へ別々に送っていた動作が、獅堂一人の身体へ重なった。
上半身は正面へ向かおうとしながら、首は千鶴の方角へ捻られる。
両腕は澪を捕らえようと左右へ伸び、脚は久我へ向かう動きと、背後へ回る動きを同時に始める。
互いに両立しない命令が衝突し、獅堂の動作と集中が乱れた。
ただし、千鶴も無傷では済まない。
七人を繋ぐ強い異能の一部へ触れた反動で、分鏡を持つ手が震えている。
長時間は維持できない。
「久我さん、今です!」
久我が、中央制御台へ走る。
影移動能力者が、最後に受けた命令の残滓へ引かれ、久我の前へ現れかけた。
しかし薬剤は止まり、共鳴も乱れている。
完全には影から出られない。
久我は攻撃せず、その横を抜けた。
中央制御台。
榊原に教えられていた、右端の黒いレバー。
『共鳴隔離』
久我は左手でレバーを引いた。
重い作動音が、アリーナへ響く。
獅堂が立つ中央制御台の周囲から、分厚い透明な隔離壁がせり上がった。
内部には、高密度の能力遮蔽材が埋め込まれている。
千鶴の反射から立ち直りかけた獅堂が叫ぶ。
「待て!」
隔離壁が閉じた。
獅堂と六人の間を流れていた異能反応が、次々と途切れていく。
火炎。
冷却。
硬化。
念動力。
音響。
影移動。
最後に獅堂へ戻るはずだった流れまで、能力遮蔽壁によって遮断された。
《能力共鳴》が切れた。
*
隔離壁の内側で、獅堂が能力を再発動しようとする。
しかし、接続できる能力者は一人もいない。
「弱い奴らは、一人では何もできない! 俺が繋いだからこそ、あいつらは強くなれたんだ!」
「繋がることと、縛ることは別です」
久我は壁の外から静かに返した。
「同じことだ! 一人で弱くて何もできないなら、強い意思へ従えばいい!」
「それなら、どうして全員がやめたいと言っているんですか?」
獅堂は答えない。
「あなたが作ったのは仲間じゃありません。自分の命令に逆らえない、都合のいい道具です」
久我は、床へ崩れかけている六人を見る。
「一人で戦えないのは、あの人たちじゃない。最後まで六人を盾にして、自分は安全な場所から命令していた、あなたの方でしょう」
獅堂が隔離壁を殴りつける。
しかし、共鳴させる相手を失った獅堂は、自分の能力が持つ最大の強みを失っていた。
*
接続が切れた瞬間。
六人全員が、糸を切られた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
共鳴によって分散されていた過剰な負荷が、個々の身体へ戻ろうとする。
ただし、薬剤の供給はすでに停止している。
新たな負荷が増えることはない。
問題は、すでに発動している能力だった。
火炎能力者の両手から、制御を失った炎が噴き出す。
冷却能力者の周囲から、無差別に氷が広がる。
念動力で浮いていた重い機材が落下する。
音響能力者から、無意識の高音波が漏れ続ける。
三人は、即座に戦闘から救助へ切り替えた。
千鶴が《神鏡返し》を使い、炎を無人の耐熱壁へ、氷結を外周へ、落下する金属を衝撃吸収床へ、高音波を天井の吸音設備へ逸らす。
能力者本人たちへは決して返さない。
影へ半分沈んだまま意識を失った影移動能力者には、周囲の照明を均等に反射させ、濃い影を薄くした。
身体が、ゆっくりと床の上へ戻ってくる。
呼吸困難に陥りかけている皮膚硬化能力者は、気道が確保できるよう横向きへ体勢を変えた。
澪の脚は、すでに限界に近い。
それでも、一人ずつ安全地帯へ運んでいく。
高速では走らない。
衰弱した能力者へ衝撃を与えないよう、短い距離だけ加速し、すぐに減速する。
衝撃吸収マットへ静かに下ろし、次の人へ向かう。
一人目。
二人目。
三人目。
左膝へ鋭い痛みが走った。
澪の身体が僅かに傾く。
「七瀬さん、無理をしないで!」
「久我さんにだけは、絶対に言われたくありません!」
怒ったような声で返し、澪は再び動く。
今回は、澪一人へすべてを背負わせるわけではない。
久我も左肩と身体全体を使い、硬化能力者の重い身体を支える。
千鶴も念動力能力者を運ぶ。
三人で分担し、六人全員を安全地帯へ移した。
久我は、魔眼で確認できる範囲の異常を榊原へ伝える。
「火炎能力者の心拍が上がっています」
『身体を冷やしてください。ただし急激に体温を下げないで』
「硬化能力者の胸郭が動いていません」
『首元の硬化が弱まるまで酸素マスクを当ててください。投薬装置は外さないで』
「影移動能力者の異能反応が不安定です」
『照明を維持してください。再び影へ沈ませないように』
榊原はB3の制御室から、医療職員へ伝えるべき処置を指示する。
六台の投薬装置は青色表示のまま。
久我たちは装置の外部接続端子だけを解除する。
身体に食い込んだ注入針や薬剤カートリッジには触れず、医療班が到着するまで固定したままにした。
*
アリーナ上部の防火扉が開いた。
榊原が制御を取り戻し、B1からB3までの防火扉を順番に解除していたのだ。
特区保安局の黒瀬と、八咫烏の医療・制圧班がアリーナへ流れ込んでくる。
黒瀬は、現場を素早く見回した。
中央の隔離区画に閉じ込められた獅堂。
マットの上へ寝かされた六人の薬物使用者。
投薬装置は停止済み。
能力の暴走も、すでに収まりつつある。
久我は血の滲んだ包帯を巻き、澪は左脚を庇い、千鶴も分鏡を持つ手を震わせていた。
それでも、死者は一人もいない。
「……本当に、あなたたち三人で止めたの?」
「榊原さんの遠隔支援もありました」
「そこを正直に報告するのね」
「事実なので」
八咫烏の医療班が、六人の処置を引き継ぐ。
制圧班が隔離区画のロックを開け、能力抑制装備を装着した上で獅堂を拘束した。
獅堂は手錠をかけられながらも、最後まで叫び続ける。
「俺がいなければ、あいつらは一生何者にもなれないんだぞ!」
処置を受けていた火炎能力者が僅かに意識を取り戻した。
掠れた声で答える。
「……お前がいない方が……俺は、自分で考えられる……」
獅堂は、それ以上何も言えなかった。
*
B3の制御室では、榊原が逃げずに保安局の到着を待っていた。
研究データのロックを解除し、防火扉の制御を返し、投薬停止の記録も残している。
しかし、最後に協力したからといって、それまでの罪が消えるわけではない。
黒瀬が榊原の前へ立ち、告げる。
「榊原宗一。違法薬物の製造、無許可の人体投与、危険性の隠蔽、違法試合への薬物提供、死亡記録偽装への関与。そのほか複数の容疑で身柄を拘束します」
「分かっています」
榊原は抵抗せず、両手を差し出した。
手錠をかけられる前に、久我へ振り返る。
「最後に一つだけ。あなたのあの運用の方法は、誰にでも再現できますか?」
久我が答えられなかった問い。
久我は少しだけ考える。
「俺とまったく同じことを、誰にでもできるとは思いません」
「やはり、あなた一人の特異な才能ですか。それなら――」
「俺一人では、絶対に無理だったという意味です」
久我は、隣に立つ澪と千鶴を見る。
さらに、六人の処置を続ける八咫烏の医療班、現場を指揮する黒瀬、B2で患者の治療を続けている医療職員たちを見た。
「敵の動きを見る人。戦い方を教える人。傷を治療する人。安全に訓練できる場所を作る人。能力に合った道具を作る人。そして、行き過ぎた時に危険だと止める人」
久我は、榊原の目を見返した。
「一人の天才が、全部を解決する必要はないんじゃないですか」
榊原は黙って聞いている。
「あなたは、誰にでも使える一つの薬で、全部を解決しようとした。その結果、助けるはずだった人を、薬の都合へ合わせ始めた」
久我の声に、責め立てるような強さはなかった。
「低出力の能力者をどう支えるのが正しいか、俺にも答えは分かりません。でも、答えが分からないからといって、目の前の人を材料にしていいことにはならないでしょう」
榊原は反論しなかった。
「……そうですか」
それだけを答え、黒瀬たちに連行されていった。
*
夜明けまでに、第七リングの地下違法区画は特区保安局の管理下へ置かれた。
獅堂、榊原、真壁をはじめ、地下試合運営者、薬物販売担当者、原料横流しに関与した職員などが逮捕、確保されていく。
保護された薬物使用者や参加者たちは、一律に犯罪者扱いされなかった。
自発的な参加だったのか。
他者への加害があったのか。
薬物への依存はどの程度か。
危険性を知らされていたのか。
運営から脅迫を受けていたのか。
一人ずつ事情を調べ、犯罪への責任と、薬物被害者としての治療を分けて扱うことになった。
第七リングの地下違法区画は封鎖され、長期の現場検証と捜査が始まる。
地上にある認可競技場にも、一時的な立入制限がかけられた。
ただし、地下事件との関係を確認した後も、合法的な能力競技そのものを廃止する方針は取られなかった。
「表側の施設まで全部悪だったことにすると、真面目に競技を楽しんでいた能力者たちまで居場所を失うからね」
黒瀬の判断だった。
境界島全体も、腐敗した実験都市として切り捨てられることはない。
正規の医療機関や能力者支援団体が、被害者の治療と制度改善へ動き始める。
榊原が指摘した、制度からこぼれ落ちる低出力能力者の問題も、事件を理由に無かったことにはせず、今後も議論されることになる。
*
午前五時過ぎ。
地上へ続くエレベーターの中に、久我、澪、千鶴の三人が乗っていた。
久我の右腕は再び固定され、左腕にも新しい包帯が巻かれている。
疲労回復のため、血液パックのストローを咥えたままだ。
澪は両脚に冷却材とテーピングを巻かれ、千鶴も分鏡を持ち続けた手に包帯を巻いている。
三人とも、立っているのがやっとというほど疲れていた。
「四連休の旅行って、普通はもっと色々な観光地を回るものですよね」
澪が小さくこぼす。
「昨日の昼間、展示館とカフェには行ったでしょう」
「たったそれだけじゃないですか」
「本日は、何があっても休養日にするべきでしょう」
千鶴の提案に、久我は深く頷く。
「大賛成です」
「久我さんが、あんなに素直に休むって言った……」
「右腕だけでなく、左腕まで痛めましたからね」
「私への心配より、腕への心配の方が強くないですか?」
地上の保安局臨時本部では、夜間活動用の服装に着替えたかれんが待っていた。
エレベーターから出てきた三人を見る。
最初に、足を庇って歩く澪。
次に、手へ包帯を巻いた千鶴。
最後に、両腕を傷めた久我。
かれんは柔らかく微笑む。
「お疲れさまでした」
「勝手に地下深くまで進んだこと、怒らないんですか?」
「それについては、詳細な報告書をすべて提出していただいてからにします」
「後から来るんですね」
「ええ。逃げないでくださいね」
久我は血液パックを吸いながら、そっと目を逸らした。
*
簡単な医療処置を受けながら、澪が言った。
「私、やっぱりもっと強くなりたいです」
久我と千鶴が澪を見る。
「今回のことで、強くなるのが怖くなったわけじゃありません。もっと速くなりたいし、もっと上手く戦えるようになりたい」
澪は、包帯を巻かれた自分の脚へ触れた。
「でも、怪しい薬で急に強くなるんじゃなくて、自分で選んで、自分の身体で覚えていきたいです」
「それでいいと思います」
久我は穏やかに答える。
「強くなりたいという気持ちを、変える必要はありません」
「私も、お手伝いします」
千鶴が微笑むと、澪は少しだけ顔を引きつらせた。
「また、延々とマットへ投げられる訓練ですか?」
「必要であれば」
「できれば、壁走りの方の訓練でお願いします」
千鶴は、境界島へ来た目的を思い返していた。
強い能力を継ぐ者として、鏡宮家の狭い世界の中で育てられた自分。
しかし、この数日で多くのものを見た。
弱い能力で働く人。
強さを求め、薬へ手を出した人。
能力を日用品へ変える人。
能力を競技として楽しむ人。
能力を医療で支えようとする人。
「……来てよかったと思います」
「地下の薬物流通網へ潜って戦ったことがですか?」
「それは余計でした」
「ですよね」
「ですが、鏡宮の屋敷の中だけでは知ることができなかったものを、たくさん見られましたから」
祖母の死後、予定より早く当主と能力を継承することになった千鶴は、外の世界へ確かに一歩を踏み出していた。
*
保安局の大きな窓から、境界島の朝日が差し込んでいた。
昨夜まで赤い警告灯に照らされていた街は、今は穏やかな朝の顔を見せている。
夜行性の住民が帰宅し、昼間に活動する人々が目を覚まし始めていた。
地上の第七リングには立入規制が敷かれている。
それでも、島全体の日常が止まったわけではない。
久我の端末へ、通知が届いた。
『特区内事件解決協力に伴う臨時特別手当について。詳細は後日通知します』
「おっ。臨時手当が出るそうです!」
久我の声が、一段階明るくなる。
「久我さん、急に元気になりました?」
「先ほどまで、休養日にすると賛成していたはずですが」
「休養するためにも、お金は必要ですからね」
「詳細な報告書も必要ですよ」
かれんの一言で、久我の顔から元気が消えた。
「……現実へ戻された」
三人は並び、窓の外を見た。
この人工島には、弱い能力者も、強い能力者もいる。
能力を使わずに生きる者も、もっと強くなりたいと願う者もいる。
誰か一人が考えた、たった一つの答えだけで、すべてを救うことはできない。
それでも、強くなりたいという願いを利用し、その人の選択肢を奪う行為は止めることができた。
七人を縛っていた薬と共鳴は、朝を迎える前に断ち切られた。
しかし、人が誰かと繋がることまで否定されたわけではない。
久我が見つける。
澪が走る。
千鶴が守る。
誰か一人の命令へ従うのではなく、それぞれが自分で選びながら、互いの力を重ねていく。
少なくとも三人は、その方がずっと強いことを知っていた。
境界島で迎える三日目の朝が、窓の向こうで静かに始まっていた。
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