35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第4話 吸血鬼、初めての朝食を受け取る

 区役所の別館のようなグレーのビルを後にした久我陽介は、歩きながら自身の二つ折り財布を開き、中身をじっと見つめていた。

 

 擦り切れた革のカードポケット。そこには、自動車の運転免許証、健康保険証、そして『株式会社〇〇ソリューションズ』という社名と自身の顔写真がプリントされた社員証が収まっている。

 

 三十五年間、真っ当な――あるいは少しばかり要領の悪い――日本国民として、社会のルールに従って生きてきた証明のラインナップ。

 

 その一番手前のスロットに、先ほど木村という相談員から手渡された真新しいラミネートカードが、少しばかり異質な光沢を放って収まっていた。

 

『特殊体質者仮登録証(分類:吸血鬼型・要観察)』

 

 何度見返しても、印刷されたフォントは変わらない。

 

(……いい歳した大人の財布に、よりによって吸血鬼カードが仲間入りするとはな)

 

 ため息を吐いて財布を尻ポケットにしまい込む。身体は相変わらず鉛のように重く、三日連続の徹夜と急激な体質変化による疲労が、骨の髄まで浸透していた。

 

 そんな久我の感傷などお構いなしに、皇かれんは数歩先を歩き、振り返った。

 

「次は協力病院です」

 

「……今からですか?」

 

 久我は擦れた声で応じた。時刻は午前八時半を回っている。

 

「今からです」

 

「一度家に帰って、泥のように寝てから午後に伺うというのは……」

 

「駄目です。現在まで未摂血状態の吸血鬼を、これ以上一人で街中に歩かせるわけにはいきません」

 

 ピシャリと撥ね退けられる。

 

 反論しようとした久我だが、自身の喉の奥から「ゴクリ」と下品に唾液を呑み込む音が響き、口を閉ざした。

 

 腹は減っている。胃袋は間違いなく空っぽだ。しかし、脳が要求しているのはコンビニのチキンや牛丼ではない。通りを歩くサラリーマンのワイシャツの襟元、そこにうっすらと透けて見える首筋の皮膚の薄さや、早足で駅に向かうOLの手首で脈打つ血管の温かさに、無意識に意識が引き寄せられそうになる。

 

 そのたびに、自分の中の理性が「見るな、気持ち悪いぞ俺」と必死にブレーキをかける。

 

 この綱渡りのような感覚がいつまで保つか、久我自身にも自信がなかった。

 

 大通りへ出たかれんは、ふと視線を巡らせ、車道に向けて手を挙げた。

 

 流しのタクシーがスムーズに歩道側に寄ってくる。

 

「乗りましょう」

 

「えっ、あ、タクシー……?」

 

 久我は条件反射でメーター料金を計算しかけた。駅からここまで歩いた距離を考えれば、病院までそこそこの金額になるはずだ。今月のクレジットカードの引き落とし額が脳裏をよぎる。

 

 後部座席のドアを開けたかれんが、久我の躊躇を見透かしたように言った。

 

「初期支援の対象業務ですので、交通費は後日センター経由で全額精算できます。領収書だけ貰っておいてください」

 

「……吸血鬼になったら、交通費精算の概念までついてくるのか」

 

 日本の行政実務の徹底ぶりに変な感心をしながら、久我はシートに身を沈めた。

 

 冷房の効いたタクシーの車内からガラス越しに外を眺める。

 

 朝の街は、完全にいつもの見慣れた風景だった。

 

 横断歩道を急ぎ足で渡るスーツ姿の群れ。スマホを見ながら歩く大学生。コンビニの前に停車して荷物を下ろすトラックの運転手。誰もがそれぞれの日常というレールの上を、当たり前のように走っている。

 

 ほんの数時間前まで、自分も間違いなくあの群れの一員だった。

 

 それが今や、国家に『吸血鬼型(要観察)』として書類登録され、女子高生に監視されながら、公費のタクシーで血を飲みに行くところだ。

 

 車窓に映る自分の顔色が、幽霊のように青白い。圧倒的な疎外感が胸を締め付ける。

 

 隣に座るかれんは、膝の上に置いたバッグに視線を落とし、静かに座っていた。彼女が側にいなければ、自分は今頃、この理不尽な世界の断絶に耐えかねて完全に発狂していたかもしれない。

 

「……皇さん」

 

「なんですか?」

 

「いや……なんでもないです」

 

 命の恩人に対してどんな言葉をかければいいのか分からず、久我はただ視線を外に戻した。

 

       *

 

 タクシーが滑り込んだのは、駅から車で十分ほどの場所にある中規模の総合病院だった。

 

 外壁は清潔なクリーム色で、正面玄関には『〇〇記念病院』という文字が掲げられている。ガラス張りのロビーには多くの外来患者が診察券を手に座っており、どこにでもある地域の医療拠点の空気だ。

 

 しかし、かれんは正面のエントランスには向かわなかった。

 

 建物の側面、救急搬送用のスロープをさらに奥へと進んだ先にある、小さな裏口のようなドアに手をかける。

 

 ドアを抜けると、表のロビーの喧騒が嘘のように消え、ひどく静かで殺風景な廊下が続いていた。その突き当たりに、小さな受付ブースと待合用のベンチが三脚だけ置かれている。

 

 壁の案内板には、小さな明朝体でこう書かれていた。

 

『体質変化専門外来』

 

「……本当に、普通の病院の中に専用の部署があるんですね」

 

「登録者が一般の外来待合に並ぶと、血液検査の数値や光過敏の症状で余計なトラブルになりますから。導線から完全に分離されています」

 

 かれんの説明は常に合理的だった。

 

 受付の窓口には、白衣を着た三十代後半くらいの女性事務員が座っていた。かれんが顎で促すので、久我は財布からさっきの『仮登録証』を取り出し、そっとトレイに置いた。

 

「……あ、あの。久我です。八咫烏の窓口から言われて来ました」

 

 事務員はカードを手に取ると、手元のバーコードリーダーにピッと通した。モニターに何らかの情報が表示されたらしく、彼女は即座に穏やかな微笑みを浮かべる。

 

「久我陽介様ですね。確認いたしました。吸血鬼型の新規覚醒、本日が初回支給ですね。センターの方からデータはすべて共有されております」

 

 あまりにもスムーズな対応に、久我は目を丸くした。

 

「本当に、一瞬で話が通ってる……」

 

「だから便利だと言ったはずです」

 

「いや、便利なんですけど……その、もう少し声のボリュームをですね……」

 

 いくら裏の専用外来とはいえ、『吸血鬼型』という単語を普通の女性ににこやかに復唱されるのは、三十五歳の成人男性として非常に羞恥心が煽られる。

 

 事務員はクスりと小さく笑った。

 

「失礼いたしました。当外来では日常茶飯事なものですから、つい。……それでは久我様、本日は最優先枠でのご案内となりますので、そのまま一番診察室へお入りください」

 

「人生で病院の診察室に最優先で通されるの、これが初めてかもしれないな……」

 

 ぼやきながら重い扉を押した。

 

       *

 

 診察室の中は、表の病院にある普通の診察室と大差なかった。

 

 電子カルテ用のパソコン、血圧計、ベッド、そして手を洗うためのシンク。

 

 奥のデスクに座っていたのは、少し白髪の混じったベテラン男性医師だった。彼は久我が入室するなり、その顔色をじっと見つめ、立ち上がって目を細めた。

 

「初回の吸血鬼型因子発現ですね。……うむ、かなり消耗していらっしゃる」

 

「あの、顔を見ただけでそこまで分かるものなんですか?」

 

「顔色の蒼白さ、瞳孔の散大具合、皮膚の乾燥、それに呼吸の浅さを見れば大体推測がつきます。加えて、そちらの初期案内者様からの詳細なレポートも届いていますからね」

 

 医師は穏やかな手つきで聴診器を首にかけた。

 

「担当の早川です。本日は登録に伴う基本チェックと、今後の生活維持に不可欠な血液パックの初回適合検査を行います」

 

 早川医師による診察は、驚くほど事務的で手際が良かった。

 

 体温測定、脈拍と血圧の確認、ペンライトを使った瞳孔の収縮反応チェック。

 

「うん、典型的な光過敏の初期症状ですね。網膜の感度が通常人間の数倍に跳ね上がっている。これでは朝日は物理的な暴力でしょう」

 

 続いて、口腔内の粘膜状態の確認と、指先に小さなセンサーを挟んでの代謝率測定。

 

「さて、最後に少量の採血を行います。適合する血液製剤のタイプを割り出すために必要ですので」

 

 看護師が注射器を用意するのを見て、久我は思わず身構えた。

 

「……俺が今、血を喉から手が出るほど欲しがってる側なのに、逆に血を抜かれるんですか?」

 

「適合表を作るためには避けられませんので、少々我慢してください」

 

 針が腕に刺さる。

 

 自分の血管から赤い液体がシリンジに吸い上げられていくのを見て、久我の心臓が早鐘を打った。さっきのコンビニの記憶が蘇る。自分の血であっても、匂いに反応して頭がおかしくなるんじゃないか。

 

 だが、拍子抜けするほど何も起きなかった。

 

「あれ……匂いが、しない」

 

「この診察室は、新規覚醒者様のパニックを防止するために、特殊な空調フィルターで血液の気化臭を完全に脱臭・吸着する処理を施してあるんです」

 

 早川医師が注射針を片付けながら説明した。

 

「普通の部屋で未摂血の吸血鬼型の方の目の前に生血を晒せば、理性を吹き飛ばして暴れ出すリスクがありますからね。医療機関としての最低限の安全策ですよ」

 

 かれんが後ろの丸椅子から静かに補足する。

 

「初期覚醒者は、自分自身が思っている以上に脆くて危険なんです」

 

「……本当に、徹底管理されてるんだな」

 

 検査データの解析は、五分ほどで完了した。

 

 パソコンのモニターを確認した早川医師は、深く頷いて久我に向き直った。

 

「結果が出ました。吸血鬼型因子の活性化レベルは確定値。現在の身体は中等度から重度の一歩手前の飢餓状態です。……正直なところ、よく今朝の街中で一般人を襲わずに耐え抜きましたね」

 

「そんなにギリギリだったんですか、俺」

 

「ええ。脳の防衛本能が完全に麻痺してもおかしくないレベルでした。おそらく、三十代半ばまで社会人として培ってきた理性のタガが、最後の一線で機能したのでしょう」

 

 早川医師は立ち上がり、部屋の隅にある小さな保冷キャビネットのロックを解除した。

 

「これ以上の栄養欠乏は、脳細胞に不可逆的なダメージを与えます。理屈の確認はここまでにして、ただちに初回摂取を行いましょう」

 

 医師の手に握られていたのは、手のひらサイズの透明なパウチだった。

 

 一般的な病院で点滴に使うような大きな輸血バッグではない。ゼリー飲料のような注ぎ口とスクリューキャップがついた、特殊なパウチパック。

 

 表面の白いラベルには、はっきりとこう印字されている。

 

『特殊体質者生活支援用 経口血液製剤(タイプ:AB型改・濃縮)』

 

『管理番号:H―2026―〇〇〇〇』

 

『※本品は登録対象者以外の飲用及び第三者への譲渡を禁ず』

 

 久我は目の前に差し出されたパウチを見つめ、息を呑んだ。

 

 中身は、どす黒いほどの深紅。

 

 コンビニのレジで見た店員の指先の傷とは違う。工場で滅菌され、成分を調整され、パッキングされた「医療としての血液」。

 

 だからこそ、自分がこれからそれを口にするという現実の重みが、胃の腑にずしりとのしかかってきた。

 

「……これを、飲むんですか。俺が」

 

「はい。まずは身体に慣れさせるために、半分ほどゆっくり摂取してください」

 

 早川医師は穏やかに促した。

 

 久我の手が微かに震える。人間としての三十五年の記憶が、目の前の液体を「絶対に口にしてはいけない異物」だと叫んでいる。

 

「……頭では、これが今の俺に必要な栄養だって分かってるんです。でも……いざこれを飲むとなると、さすがに生物としての抵抗が……」

 

「躊躇されるのはごく正常な精神状態です。ただ、久我様」

 

 医師の声音に、少しだけ臨床現場の厳しさが混じった。

 

「貴方の身体はすでに限界を超えています。これ以上ためらえば、次に意識が遠のいた時、理性が戻ってくる保証はありません」

 

 背後で、かれんがそっと立ち上がる気配がした。

 

「久我さん。今の貴方は、ただ飢えているんです。見栄や常識で我慢をする方が、よほど周囲に対して不誠実ですよ」

 

 その一言で、迷いが断ち切られた。

 

 そうだ。ここで自分が綺麗事を言って飲むのを拒み、帰りの電車で誰かの首に噛みついたら、それこそ取り返しがつかない。

 

 久我は目を閉じ、パウチのスクリューキャップに指をかけて、ひねった。

 

 カチ、と小さな音がして封が切れる。

 

 脱臭フィルターの効いた部屋であっても、開封された注ぎ口から、あの独特の――生々しい鉄の匂いが微かに漏れ出した。

 

 途端に、全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。

 

 脳が理性をすり抜け、直接「それ」を求めて歓声をあげている。

 

 久我は震える両手でパウチを支え、注ぎ口をゆっくりと自身の口元に運んだ。

 

 そして、一口、嚥下した。

 

 ――瞬間。

 

 久我の思考が、完全に真っ白に染まった。

 

 最初に舌の上を滑ったのは、確かな鉄の味だった。しかし、それは決して不快なサビの味ではない。

 

 とろりとした濃厚な液体が喉の奥へと流れ込んだ刹那、胃袋に落ちるという感覚をすっ飛ばして、全身を巡る何万本もの毛細血管に、一斉に高純度のエネルギーが吹き込まれたような爆発的な感覚が走った。

 

 熱い。

 

 身体の奥底、凍りついていた細胞のひとつひとつが、歓喜の声をあげて息を吹き返していく。

 

(……なんだ、これ)

 

 美味い。

 

 脳髄を直接殴られたような圧倒的な快楽とともに、その二文字だけが頭の中を埋め尽くした。

 

 久我は必死に自身の過去の味覚データベースを検索した。

 

 炎上プロジェクトを徹夜で片付けたあとの朝に飲む、エナジードリンク。違う。あれはただ神経を麻痺させるだけの粗悪なガソリンだ。

 

 真夏の営業回りのあとに居酒屋で流し込む、最初の一杯の生ビール。違う。あれは喉越しの爽快感であって、命を直接補強する感覚ではない。

 

 じゃあ、ワインか?

 

 そうかもしれない。いつか会社の接待で口にした、名前も知らない高級な赤ワインの芳醇さに少しだけ似ている気がする。けれど、自分が普段家で飲んでいるコンビニのワンコインワインなんかとは、次元が三つくらい違う。

 

 滋味、コク、生命力そのものを凝縮したような圧倒的な旨味。

 

 美味い。どうしようもなく、美味い。

 

 人間だった頃の自分が知っているどんな高級食材も、今のこの一滴の前ではただの無味乾燥な段ボールに過ぎない。

 

 久我は無意識のうちにパウチを傾け、さらに大きな二口目を喉に流し込もうとした。理性のタガが外れ、この深紅の液体を最後の一滴まで吸い尽くさなければ気が済まないという原始的な欲求が暴走しかける。

 

「――そこまでにしておきましょう、久我様!」

 

 早川医師の強い声と同時に、手元のパウチをそっと押さえられた。

 

 ハッと目を見開く。

 

 自身の呼吸が「はあ、はあ」と獣のように荒くなっていることに気がついた。パウチを握る指先が白くなるほど力がこもっていた。

 

「……っ! あ、す、すみません……!」

 

「いえ、構いませんよ。新規覚醒者様は、初回摂取時に感覚が過敏になりすぎて、一種の多幸感や酩酊状態に陥りやすいんです。一気に全量を胃に流し込むと、急性アルコール中毒に似たショックを起こすことがありますからね」

 

 早川医師はパウチにキャップを戻し、机の上に置いた。

 

「まずはその量で数分、身体の適応を待ちましょう」

 

 言われて椅子に深くもたれかかる。

 

 数秒後、身体に劇的な変化が訪れた。

 

 さっきまで頭の中に立ち込めていた鉛のような倦怠感の霧が、嘘のようにスーッと消え去っていった。視界の端の滲みがなくなり、部屋の壁に貼られた小さなカレンダーの文字までがくっきりと結像する。

 

 ガクガクと笑いそうだった膝の関節にしっかりとした力が戻り、指先の冷たさが消え、心地よい微熱のような活力が全身に充満していた。

 

 何より、あれほど眼球を刺して苦しめていた窓の外の朝日の光が、ただの「少し明るい自然光」程度の刺激にまで減衰している。

 

「……嘘みたいに、身体が軽い」

 

 久我は自身の両手のひらを広げ、信じられない思いで見つめた。

 

「これが、吸血鬼としての正常なコンディションです」

 

 かれんが静かに言った。

 

「貴方は昨晩から今朝にかけて、本当に死の一歩手前まで消耗していたんですよ」

 

「……その言い方、俺が本物のゾンビだったみたいで少し傷つくんですけど」

 

「ゾンビの方がまだ管理が楽です。勝手に会社の残業をしたりしませんから」

 

 一切の容赦がないツッコミだったが、今の久我にはその言葉すら心地よく響いた。

 

 理性が完全にクリアになったことで、久我は急に猛烈な恥ずかしさに襲われた。

 

「……あの。すごくバカな感想を言っていいですか」

 

「今さらですね」

 

 かれんが返す。

 

「これ……めちゃくちゃ美味かったんですけど」

 

「吸血鬼型ですから、当然の生理反応です」

 

「いや、理屈ではそうなんでしょうけど! 感覚としてはなんていうか……仕事終わりの最初の一杯っていうか、いや違うな、高級なワイン? でも俺、安物のパックワインしか知識がないから、これが本当にワインっぽいのかって聞かれると自信がないっていうか……」

 

 早川医師がふっと口元をほころばせた。

 

「初回摂取の方のレポートは、本当に千差万別で興味深いですよ。ある方は『極上のコンソメスープのようだ』と言い、ある方は『熟成されたブランデーの味がする』と仰る。貴方のようにビジネスマンの日常記憶と照らし合わせて混乱されるのも、珍しいケースではありません」

 

(……血液パックのソムリエみたいな概念が存在するのか、この世界)

 

 身体が人間に戻った――いや、吸血鬼として安定したところで、久我はもっとも切実な疑問を医師にぶつけた。

 

「先生。俺……これから先、もう普通の飯は一生食べられないんでしょうか」

 

 これは死活問題だった。さっきコンビニでツナマヨおにぎりが紙粘土に見えた恐怖は、まだ記憶に新しい。

 

「ご安心ください、完全に食べられなくなるわけではありませんよ」

 

 早川医師は電子カルテに目を落としながら答えた。

 

「吸血鬼型能力者にとって、血液とは生命維持のベースラインを確定させるための『主燃料』です。これが欠乏している間は、脳が他の食物を異物と判断して強い拒絶反応を示します。しかし、今日のように定期的に血液製剤を摂取してコンディションを安定させていれば、人間の頃の味覚はある程度まで復帰します」

 

「じゃあ……普通に居酒屋で唐揚げとか食べても大丈夫なんですね?」

 

「ええ。あくまで補助的な嗜好品としての扱いになりますが、消化器官そのものが変質したわけではありませんから。ただ、にんにくの極端に強い料理などは少し胃がもたれるかもしれませんがね」

 

 久我は心底ほっと胸を撫で下ろした。

 

「よかった……! これからの人生、一生コンビニ弁当が湿った段ボールに見え続けるのかと思って、本当に絶望してたんで……!」

 

「そんな悲惨な能力者人生にはさせませんよ。我が国の福祉制度をナメないでください」

 

 早川医師は机の下から、黒い簡素な保冷バッグを取り出し、久我の前に置いた。

 

「本日の初回支給分として、パウチ型の製剤を五パックお渡ししておきます」

 

 医師による説明は、ここから完全に実務的なトーンに変わった。

 

「標準的な消費目安は、二日に一パックです。ただし、夜間に過度な能力行使や強いストレスを感じた場合は代謝が加速しますので、自身の飢餓感に合わせて調整してください。保管は必ず自宅の冷蔵庫のチルド室。冷凍は成分が変質するので厳禁です」

 

「はい」

 

「それから、もっとも重要な点です。支給されるパウチには、すべて個別のトレーサビリティ用シリアルコードが印字されています。万が一、空き容器をそのへんのゴミ箱に捨てて一般人に拾われたり、中身を第三者に転売・譲渡した事実が発覚した場合、即座に支給停止及びセンターによる事情聴取対象となります」

 

 医師はパウチの注意書きを指した。

 

「飲み終わった空きパウチは、必ず軽く水洗いして密閉し、次回受診時にこの専用の医療廃棄物回収袋に入れて外来までお持ちください。一般家庭の燃えるゴミには絶対に混入させないこと。いいですね?」

 

 久我は目の前の保冷バッグを見つめ、こめかみを抑えた。

 

「……吸血鬼の食事、ゴミの分別ルールまで厳格に決まってるのか」

 

「医療由来の特殊製剤ですから」

 

 早川医師。

 

「現代日本ですから」

 

 かれん。

 

「もうその二人のコンビネーション説明はお腹いっぱいなんだけどな……」

 

 ぼやきながらも、久我は保冷バッグの取っ手をしっかりと握りしめた。

 

 一通りの説明と検査が終わり、診察室を出る準備が整った。

 

 早川医師に深く頭を下げて退室した久我は、静かな専門外来の廊下で、歩みを止めて皇かれんに向き直った。

 

「……皇さん」

 

「なんですか?」

 

「いや……改めて、本当にありがとうございました」

 

 久我は真っ直ぐにかれんの目を見て言った。

 

「もし今朝、あのコンビニで君が声をかけてくれなかったら。俺、間違いなくあの店員さんに飛びかかってたか、あるいは帰りの電車でサラリーマンの首を噛んで、ニュースになってたと思います。ファミレスで話を聞いてくれたことも、役所に連れてきてくれたことも……君がいなかったら、俺の人生は今日で完全に終わってました。本当に、恩人です」

 

 三十五歳の男としての、何の飾り気もない素直な感謝だった。

 

 いつもは冷徹なほど表情を崩さないかれんが、その言葉を受けて、ほんの一瞬だけ――目元をわずかに瞬かせ、わずかに言葉を詰まらせた。

 

「……私は、発見者としての義務を果たしただけです」

 

「義務だけでここまで付き合ってくれる人はそういませんよ。少なくとも、俺の会社の人間には一人もいない」

 

 久我が苦笑すると、かれんは少しだけ視線を廊下の床へと逸らした。

 

「……一つ、訂正させてください」

 

「え?」

 

「さっき、事務員さんや先生の前で『手慣れている』ように見えたかもしれませんが……実際に新規覚醒の吸血鬼を発見して、窓口への同行から病院の初回支給までを担当したのは、今日が初めてです」

 

 久我はきょとんとした。

 

「……えっ。初めて? 君、あんなに完璧に手順を把握してたじゃないですか」

 

「マニュアルを読んでいたからです」

 

 かれんは少しだけ真顔に戻って言った。

 

「センターの事前講習を受け、初期対応のフローチャートを記憶していた。ただそれだけです。実際には、私の方こそ……貴方が途中でパニックを起こして暴れ出さないか、ずっと緊張していました」

 

 その告白を聞いて、久我は改めて目の前の少女を見つめ直した。

 

 この子は、修羅場を幾度も潜り抜けてきた冷酷な異能エージェントなんかではなかった。確かな知識と、強い責任感という名のマニュアルを武器に、自分と同じように「初めての非常事態」に必死に立ち向かってくれていた、ただの真面目な少女でもあったのだ。

 

「……そっか」

 

 久我の口元に、今日初めての自然な笑みが浮かんだ。

 

「じゃあ、お互いに『初めての吸血鬼イベント』を無事に乗り切った初心者同士ってことですね」

 

「……イベントという認識は改めた方がいいと思いますが」

 

 かれんの声音から、先ほどまでの壁のような冷たさが少しだけ薄れていた。

 

「それでも、久我さんは非常に理性的でした。血への渇望に晒されながらもコンビニで踏みとどまり、書類作成でも取り乱さなかった。初期覚醒者としては、十分に評価されるべき自制心です」

 

「女子高生にそこまで褒められると、おっさんとしては素直に照れるな」

 

 そんな穏やかな空気を引き裂くように、久我の尻ポケットでスマートフォンが「ブブブ、ブブブ!」と下品なバイブレーションを鳴らした。

 

 ハッとして画面を確認する。

 

 ロック画面に表示されていたのは、社内チャットアプリのプッシュ通知だった。

 

『高橋(総務部):久我さん! 今朝の帰り際の顔色が本当に心配です。今日は絶対に無理をしないで、そのままお休みを取ってください。課長には私から上手く伝えておきますから!』

 

 文字の羅列を見た瞬間、さっきまで脳内を占めていた異能や血液製剤のファンタジー感が一瞬で蒸発し、圧倒的な現実の重量が肩にのしかかってきた。

 

「……うわぁ。現実に戻ってきた」

 

「会社の労務の方ですね」

 

「ええ。高橋さんっていう、うちのブラック会社における唯一の良心みたいな人です。……これ、なんて返信すればいいんだろう。『吸血鬼に転職したので今日は休みます』じゃ絶対通らないよな」

 

 かれんは冷徹に即答した。

 

「普通の体調不良として処理してください。吸血鬼のことは一文字も書かないこと」

 

「そりゃそうでしょうけど……! 三十五歳にもなって、人生で初めて『吸血鬼になったから会社を休む』っていう言い訳を胸に秘めながらチャットを打つ羽目になるとは……」

 

 久我は頭を抱え、親指でフリック入力を始めた。

 

 病院の裏口を出ると、午前九時を回った太陽が、容赦なくジリジリとアスファルトを照らし出していた。

 

 久我は片手に血液パックの入った黒い保冷バッグを下げ、もう片方の手でスマホを握りしめる。

 

 さっきまでは物理的な光の矢だったはずの直射日光が、今は「少しばかり眩しい夏の朝」程度の熱として皮膚に感じられた。体内に取り込んだ深紅の血液が、確かな防壁となって自分をこの世界に繋ぎ止めてくれている。

 

 昨日までの自分は、みなし残業に夜の命を削られるだけの便利屋だった。

 

 今日の自分は、国家に仮登録された吸血鬼型能力者で、保冷バッグを提げて有給申請を送る会社員。

 

「……よし。帰るか」

 

 久我は歩き出し、隣のかれんに目を向けた。

 

「吸血鬼になって最初の朝食は病院支給の血液パックで、この後の予定は泥のような睡眠と役所の規約読み込み……か。なかなかハードな休日だな」

 

 かれんは涼しい顔で前を向き、歩調を合わせた。

 

「新人の能力者としては、極めて標準的なスケジュールですよ」

 

「……標準であってたまるかよ」

 

 久我は軽く悪態をつき、夏の陽光の下、自宅への家路へと足を進めた。

 




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