35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
深い眠りから目を覚ますと、遮光カーテンの僅かな隙間から、午後の強い日差しが白いシーツの上へ細い線を引いていた。
第七リングの地下違法闘技場での事件解決から、約十時間後。
四連休三日目、午後三時。
境界島の玄関区にある認可ホテルの一室。
久我陽介は、ベッドの中でゆっくりと目を開けた。
無意識に身体を動かそうとした直後、
「痛っ」
小さく声が漏れた。
右腕は、分厚い医療用素材で固定されたまま。
左腕にも、真壁戦から続く打撲と筋肉の損傷を保護するため、防水対応のサポーターが巻かれている。
吸血鬼特有の再生能力によって、表面的な傷はすでに塞がっていた。
しかし、鉄片の濁流を正面から受け止めた右腕の深部には、骨の奥まで響く重い損傷が、低い振動のような鈍痛となって残っている。
枕元に置いていた通信端末へ、左手を伸ばした。
画面には未読通知が山のように溜まっている。
『皇かれん:全員が無事にホテルへ戻ったことを確認しました。本日はゆっくり休養してください』
『黒瀬真琴・特区保安局:地下区画の証拠保全と関係者の確保は、おおむね終了。事情聴取は延期するから、今日は島内をうろつかないで』
『八咫烏医療班:久我氏および七瀬氏の再診案内。必ず受診すること』
『八咫烏総務:特区内事件協力に伴う臨時特別手当の事前通知』
『皇かれん:昨夜の行動に関する詳細報告書の提出期限について』
久我は、臨時手当の通知だけを真っ先に開いた。
しかし、肝心の金額はどこにも記載されていない。
「……詳細は後日って、一番大事なところが書いてないじゃないか」
その下の、
『報告書提出期限・明後日午前十時』
という文字だけが、やけにはっきりと明記されていた。
久我はため息をつき、端末をベッドの横へ伏せた。
*
隣室との間にある共有ラウンジへ出ると、澪の眠そうな声が聞こえてきた。
「……久我さん。今、何時ですか?」
ソファの上で毛布に包まったまま、澪が目を擦る。
「午後三時過ぎです」
「午前三時じゃなくて?」
「午後です」
「一日、半分以上なくなってる……」
澪もようやく身体を起こした。
その両脚には、昨夜の立体機動と救助活動による疲労を抜くため、医療用のテーピングが幾重にも巻かれている。
普通に歩くことはできるが、全速力で走ることは医師から固く禁じられていた。
千鶴はすでに起きていた。
しかし、起床したのは十分ほど前らしい。
椅子に静かに座り、ホテル備え付けの境界島観光案内冊子を読んでいる。
《神鏡返し》を限界近くまで使用した右手には、包帯が巻かれていた。
「三人とも、身体が強制的な休息を必要としていたのでしょう」
「鏡宮さんは、もっと早く起きて身支度をしてそうな印象でした」
「……私も、先ほど目を覚ましたばかりです」
「鏡宮さんまで寝坊したなら、仕方ないですね!」
澪が、なぜか嬉しそうに笑った。
*
三人の共通端末へ、かれんから暗号化された映像通話が入った。
かれんは特区保安局の臨時本部にいるらしく、背景では制服姿の職員たちが忙しなく行き交い、事件の事後処理が続いていた。
『皆さん、起きましたか?』
「ちょうど今、三人とも起きたところです」
『本日は、事件への協力を一切禁止します』
「……禁止?」
『禁止です。事情聴取も報告書の作成も明日以降。地下区画へ近づくことも禁止。独自調査も禁止。街で怪しい人物を見つけても、追跡は禁止です』
「最後のは、今のところ予定していませんけど」
『予定がなくても、目の前で何か起きれば勝手に首を突っ込み始める方なので、念のため言っています』
澪と千鶴が、画面の横で深く頷いた。
「そこは否定してくれないんだな」
『医療班の担当医から、軽い水中運動ならリハビリとして許可が出ています。境界島中央部にある公共レジャー施設《スカイ・ラグーン》の利用券を、電子チケットで送っておきました』
「プールですか?」
『温水療養プールもあります。水中なら浮力がありますから、七瀬さんの脚や、久我さんの関節への負担も減ります。心身の緊張を解くにはちょうどいいでしょう』
澪の表情が明るくなる。
「プール!」
千鶴も、手元の観光案内冊子の該当ページを開いた。
そこには、
大型温水プール。
流水プール。
波のプール。
ウォータースライダー。
特殊体質者対応区画。
そして、
『能力者による《空中遊泳体験》』
という文字が躍っている。
「空中遊泳?」
『境界島の公認レジャー能力者が、利用者へ一時的な《空中浮遊》を授与してくれるアトラクションです』
「空を飛べるんですか!?」
『正確には、安全なドーム空間の中で空中を泳ぐ体験ですね』
千鶴の視線も、少しだけ案内冊子へ引き寄せられていた。
久我は二人の反応を見て、すぐに決めた。
「行きましょうか。完全な休養日ですし」
*
ホテルを出る前に、三人は施設内の診療所で医師による再確認を受けた。
最初は久我。
「右腕は必ず防水固定具で保護すること。右腕を使った水泳は禁止。左腕も強く回さない。深い潜水は禁止。《血装》の使用禁止。プール内で他人の身体を力任せに支えようとしないこと」
医師が厳しい表情で注意事項を読み上げる。
「では、俺はどうやってプールに入ればいいんですか?」
「浮き輪の中へ入って、大人しく水に流されていてください」
「三十五歳で浮き輪ですか」
「両腕を負傷している三十五歳なので、大人しく浮き輪です」
次は澪。
「全力疾走禁止。飛び込み禁止。強いキック禁止。水中での歩行と軽い遊泳は許可します。空中遊泳でも急加速は禁止。左膝に少しでも痛みが出たら即座に終了すること」
「プールで速く泳ぐのも駄目ですか?」
「競争は禁止です」
澪が残念そうに唇を尖らせた。
最後に千鶴。
「分鏡の使用を極力控えること。右手へ強い負荷をかけない。軽い水泳は可能。ウォータースライダーは、医師から許可された低速のものだけ。《神鏡返し》を使った水遊びは禁止です」
「使う予定はありません」
千鶴が真顔で答える。
「絶対に誰かが水をかけてきますよ。反射でやり返さないように」
久我が言うと、澪が静かに目を逸らした。
*
午後四時半。
境界島中央部にある大型公共レジャー施設、《スカイ・ラグーン》。
全面ガラス張りの巨大なドーム状建築。
内部には南国風の植栽が配され、複数の広大なプールと人工の滝が作られている。
天井付近には、空中遊泳体験用の透明なドーム空間まで設けられていた。
事件現場から離れた《スカイ・ラグーン》は、警備員を増員しながらも一般営業を続けていた。
家族連れ。
若い能力者のグループ。
特殊体質を持つ住民。
夜行性住民向けの、夕方からの利用者。
境界島の穏やかな日常が、そこにはあった。
三人は受付を済ませる。
久我は防水固定具をつけたまま、長袖のラッシュガードを着用。
澪と千鶴は、それぞれ動きやすい一般的な水着姿だった。
久我は二人より先に、プールサイドへ出た。
受付係のスタッフから、大きな丸い浮き輪を丁寧に渡される。
「お客様、こちらをご利用ください」
「……もう少し、大人向けのデザインはありませんか?」
渡された浮き輪には、境界島のご当地マスコットである『丸い空飛ぶクジラ』が大きく描かれていた。
「大人用の最大サイズです」
「大きさではなく、絵柄の問題なんですけどね……」
更衣室から、澪と千鶴がプールサイドへ出てくる。
久我はすでに、クジラの浮き輪の中央へすっぽりと収まり、水面へ浮かんでいた。
両腕がほとんど使えないため、自力では方向転換も難しい。
「久我さん、すごく似合ってます」
「褒められている気がしません」
「安全性は非常に高そうですね」
「安全性しか評価されていませんね」
澪が浮き輪の後ろへ手をかけ、久我をゆっくりと押した。
「出発します!」
「急に押さないでくださいよ。俺、本当に何もできないんですから」
医師から強いキックは禁止されているため、澪はゆっくり水中を歩く。
久我の浮き輪を押しながら、緩やかな流れの流水プールへ入っていった。
千鶴も静かに後ろからついてくる。
*
流水プールの穏やかな流れに乗る。
久我はクジラの浮き輪に入ったまま、完全に水流へ身を任せていた。
澪と千鶴は、水の抵抗を受けながら歩く。
浮力のおかげで脚への負担が少なく、澪にとっては軽いリハビリにもなっている。
「これは楽ですね」
「久我さんだけ、本当に何もしてないじゃないですか」
「医療上の指示に忠実に従っているだけです」
「会社員としては、珍しく正しい対応です」
「その会社員という部分は必要ですか?」
途中、流れが少しだけ速くなる場所があった。
久我の浮き輪が、水流に押されて回転する。
正面を向いていたはずが、完全に後ろ向きになったまま流されていく。
「すみません。誰か俺の向きを直してください」
「自分で直せませんか?」
「両腕が使えないので無理です」
千鶴が浮き輪の縁へ手を添え、静かに正面へ戻してくれた。
「ありがとうございます」
数秒後。
浮き輪が再び回転し、後ろ向きになる。
「……流れに対して、久我さんの座る位置が偏っています」
「右腕を庇って座っているので、どうしてもバランスが崩れるんです」
「じゃあ、ずっと回ってますね!」
「そんな冷静に結論を出さないでください」
*
次に、波のプールへ移動した。
医療用の浅い区画に限定して入る。
大きな危険のある波ではなく、穏やかな人工波だ。
澪は腰まで水に入り、波のタイミングに合わせて小さく跳ねる。
走ることはできないが、浮力のおかげで脚への負担は少ない。
久我は、浮き輪ごと波へ持ち上げられた。
一度目。
少し揺れる。
二度目。
浮き輪が大きく傾く。
三度目。
久我だけがバランスを崩し、浮き輪ごと一回転しかける。
「……これ、本当に療養ですよね?」
「とっても楽しい療養です!」
千鶴も、波が来るたびに身体を僅かに浮かせ、水に揺られていた。
表情は平静。
しかし次の波を待つ位置が、少しずつ前へ移動している。
久我が気づいた。
「鏡宮さん、結構楽しんでませんか?」
「水中で身体を動かし、不安定な状態で体軸を保つのは、良い重心の訓練になります」
「遊びではなく、訓練扱いなんですね」
その直後。
千鶴が、最も大きな波が来る場所へ自分から進んでいった。
「絶対、心から楽しんでますよね」
澪が笑う。
*
施設内には、三人用の大型浮き輪で滑る低速ウォータースライダーがあった。
負傷者でも、医師の許可がある範囲で利用できる家族向けコースだ。
「俺は下で見ていますよ」
「三人用です」
「受付の方も、医師から許可された範囲なら問題ないと仰っていました」
「二人とも、俺も一緒に行くことは確定なんですね」
三人で大型のゴムボートへ乗る。
久我が中央。
澪と千鶴が前後に座る。
ゆっくり進む安全なコースだと聞いていたが、途中には緩やかな落下地点が何度かあった。
「……思ったより速くないですか?」
「全然速くないです!」
「安全な速度の範囲内です」
「二人の速度の基準が、絶対におかしいんですよ!」
最後に、大きなプールへ着水する。
派手な水しぶきが上がった。
なぜか久我だけが、顔面へ大量の水を浴びている。
前後にいる澪と千鶴は、ほとんど濡れていなかった。
「……座る位置の問題でしょうか」
千鶴が、真剣な顔で水の流れを観察する。
「次は、久我さんの位置を変えて確認しましょう」
「次も乗る前提なんですか!?」
*
一通り遊んだ後、三人は温水療養プールへ移動した。
身体を支える浮力が強く調整され、怪我人や高齢者でも利用しやすい区画だ。
久我は、ようやくクジラの浮き輪から解放された。
浅い場所の段差へ背中を預け、温かい水へ身体を任せる。
澪は水中で脚をゆっくりと曲げ伸ばしし、筋肉の疲労をほぐしている。
千鶴も、痛む手首を湯の中で静かに動かしていた。
しばらく、三人とも何も話さなかった。
地下の事件後、初めて完全に警戒を解き、身体を休めるだけの時間。
「……静かですね」
「昨日までは、ずっと誰かに追いかけられてましたからね」
「今は、警戒する必要のある異能反応も周囲にはありません」
「鏡宮さん、ここでも警戒自体はしていたんですね」
「習慣ですので」
誰も、地下で起きた事件の話を深く掘り返さなかった。
三人はただ温かい水へ浸かり、流れる時間を楽しんだ。
*
十分な休憩を取った後、三人は天井付近に設けられた空中遊泳エリアへ向かった。
施設名は、《スカイ・スイムドーム》。
プールの上部に設けられた、高さ約八メートルの巨大な透明ドーム空間。
床面はすべて深いプールか、厚い衝撃吸収マットで覆われている。
壁と天井には、安全用の柔らかいネットも張られていた。
利用者は、公認能力者から一時的な《空中浮遊》を授与され、何もない空間を泳ぐことができる。
担当スタッフは、二十代後半の女性能力者だった。
飛田真帆。
境界島公認レジャー能力者。
能力は《浮遊付与》。
触れた相手へ、一定時間だけ《空中浮遊》という能力を授与する、人による一時授与型能力である。
授与された者は、効果が続いている間、自分の意思で浮遊と移動を操作できる。
ただし、能力は約八分で消失する。
飛田本人が途中で解除することも可能だった。
「空を飛ぶというより、水のない場所をゆっくり泳ぐ感覚に近いです」
飛田が安全説明を始める。
「高度は最大六メートルまで。壁や天井へ近づくと、授与された《空中浮遊》へ設定された安全制限によって自動的に減速します。体調が悪くなった場合は、すぐに手を上げてください。私が能力を解除すれば、ゆっくり床へ降りられます」
「速く動けますか?」
「駄目です」
澪の問いに、飛田は即答した。
「急加速、ほかの利用者を押す行為、ご自身の能力との併用は、すべて禁止です」
「分かりました……」
澪が肩を落とす。
飛田は、久我の固定された両腕を見た。
「お客様は、右腕を絶対に動かさないでください。左腕も小さく動かす程度にしてください。脚の動きと、身体の傾きだけでも進めます」
「進めますか?」
「慣れれば」
「慣れなければ?」
「その場でクルクル回ります」
「今日、回ってばかりですね」
*
最初に澪が体験する。
飛田が澪の肩へ触れた。
淡い異能反応が澪の身体全体を包み、《空中浮遊》が一時的に授与される。
澪の足が、床からゆっくり離れていった。
「わっ……!」
身体が完全に空中へ浮き上がる。
反射的に床を蹴ろうとするが、すでに足場はない。
そのまま前方へ向かって、くるりと一回転した。
安全制限が働いているため、速度は上がらない。
「足場がないです!」
「空を飛ぶ体験なので、当然ですよ」
飛田が笑う。
澪は身体を真っ直ぐに伸ばし、平泳ぎのように手足を動かしてみた。
少しだけ、前へ進む。
すぐに感覚を掴み、空中を器用に泳ぎ始めた。
ただし、圧倒的に遅い。
普段の吸血鬼の脚力なら一瞬で通過する距離を、何秒もかけて進んでいく。
それでも本人は、心から楽しそうだった。
「遅いのに、すごく楽しいです!」
次は千鶴。
飛田が肩へ触れ、《空中浮遊》を授与する。
千鶴の身体が、静かに浮き上がった。
最初は、背筋を伸ばしたまま完全に固まっている。
「鏡宮さん、大丈夫ですか?」
「……足元に何もない感覚に、少し慣れていません」
普段の千鶴は、合気でも戦闘でも、確かな足場と重心を重要視する。
その足場が、完全に存在しない。
しかし数秒後。
千鶴は手足を必要最小限だけ動かし始めた。
身体の中心軸を意識し、傾きを繊細に調節する。
澪よりもさらに遅いが、驚くほど滑らかで、ぶれのない直線軌道で進んでいく。
方向転換にも無駄がない。
「初めてとは思えないくらい、お上手ですね」
飛田が感心したように言う。
「相手へ力を伝えるのではなく、自分自身の重心だけを調整すればいいのですね」
「空中でも、合気の訓練に変換してる……」
「でも、すごく綺麗です!」
千鶴は少しだけ嬉しそうに、ドームの中をもう一度ゆっくり旋回してみせた。
*
最後は久我。
飛田が、防水固定具のない左肩へ触れる。
《空中浮遊》が一時的に授与された。
久我の身体が、ゆっくりと床から離れる。
最初は順調だった。
三十センチ。
一メートル。
二メートル。
そこで身体が僅かに右へ傾き始める。
右腕を重い素材で固定しているため、身体の重量バランスが偏っていた。
久我は左手と脚の動きで調整しようとする。
その結果。
身体がゆっくりと横回転を始めた。
「……止まりませんね」
澪が空中を泳いで近づいてくる。
「久我さん、身体を真っ直ぐにしてください!」
「しているつもりです!」
千鶴も反対側へ回り込む。
「左脚を、少し下げてください」
「空中で回っているので、どちらが下か分からなくなってきました!」
一回転。
二回転。
速度は遅く、危険性はない。
ただし止まれない。
「一度、完全に力を抜いてください」
飛田の助言で、久我が全身の力を抜く。
回転が少しずつ弱まっていく。
澪と千鶴が左右から久我の肩と腰を支え、姿勢を真っ直ぐに戻した。
結果として、三人が横一列に繋がった状態で、空中を漂うことになる。
「俺だけ、空中介護体験になってませんか?」
「三人で一緒に飛べて、楽しいじゃないですか」
「久我さんが勝手に回転しなければ、必要のなかった連携です」
*
飛田が、柔らかい大型のビーチボールを空中へ放った。
空中遊泳体験の初心者向けゲームだ。
浮かんだまま、ボールを床へ落とさず、三人でパスを繋ぐ。
久我は両腕が使えない。
「久我さん、どうやって打つんですか?」
「頭しかありませんね」
ボールが飛んでくる。
久我が額で軽く返した。
反動で、自分の身体が後ろへ流される。
「打った本人も動くんですね!」
澪が笑いながら、ボールへ向かって進もうとした。
しかし地面を蹴ることができない。
普段の感覚で強く足を動かした結果、空振りしてボールの下を通り過ぎる。
千鶴が静かに位置を調節し、左手の甲でボールを返した。
「鏡宮さん、上手すぎません?」
「ボールが進む方向と、自分が反作用で流れる方向を同時に考えれば、それほど難しくありません」
「また簡単なことのように言ってますね」
三人で何度かパスを続ける。
久我は頭。
澪は脚。
千鶴は左手。
三人の動きは、徐々に合っていった。
昨夜の戦闘のような、命を削る緊張はない。
失敗しても、ただボールが下へ落ちるだけ。
それが三人には、とても新鮮だった。
*
ゲーム終了後、残り時間は自由に飛ぶ。
澪はドーム上部まで、ゆっくり上昇した。
透明な壁の向こうに、夕日に染まる境界島の街と、広い海が見える。
空中を泳ぐ速度は、自分の足で走るより遥かに遅い。
それでも、地面から完全に離れ、自分の脚力では届かない場所へ浮かんでいる。
「……私、走るのは誰かを助けたり、戦ったりする時が多かったんです」
澪が、夕日を見ながら言った。
「でも、こうやって何の目的もなく、ただ動くのも楽しいですね」
「遊ぶことが目的でいいんですよ」
久我が下から声をかける。
千鶴も二人の隣へ浮かんできた。
「能力を使う理由が、誰かの期待や、果たすべき役目である必要はないのですね」
「飛田さんの場合は仕事ですけど、お客さんを楽しませる仕事ですからね」
少し離れた場所で、飛田が子供たちへ《空中浮遊》を授与している。
子供たちが歓声を上げながら空中を泳ぎ、飛田自身もそれを見て笑っていた。
*
体験時間が終わる。
飛田が三人へ授与していた《空中浮遊》を順番に解除し、ゆっくりと床へ降ろした。
「この能力、すごく素敵ですね」
澪の言葉に、飛田ははにかむ。
「ありがとうございます」
「空を飛べるなら、救助や物資の輸送にも使えるんですか?」
「軽い物や、動けない人へ短時間だけ授与し、移動を助けることはできます。でも、私の授与できる《空中浮遊》は効果時間が短いですし、風が強い屋外では流されて危険です。本格的な輸送や戦闘には向いていません」
飛田は軽く笑った。
「昔は、人を少し浮かせるだけの、半端で使い道のない能力だと言われたこともあります」
三人が、少しだけ黙る。
昨夜、地下で目にした、能力の価値は出力で決まるという考えと重なったからだ。
しかし、飛田は暗い顔をしなかった。
「私は、誰かを高く速く飛ばしたいわけではないんです。こうやって、初めて空へ浮いた人が笑うのを見るのが、一番好きなので」
飛田の言葉には迷いがない。
「もっと強くなりたい人を否定するつもりもありません。私は、この使い方が好きというだけです」
千鶴は、その言葉を静かに受け止めた。
弱い能力者は現在の使い方へ満足するべきだと、誰かが押しつけたのではない。
飛田自身が、自分の能力をどう使うか選び、その結果に満足している。
ただ、それだけのことだった。
「……いい仕事ですね」
久我が言う。
「はい。結構気に入っています」
*
空中遊泳体験を終え、三人はプールサイドのカフェで休憩した。
澪は大きなフルーツパフェ。
千鶴は小さな和風アイス。
久我は、吸血鬼向けの鉄分強化ベリードリンク。
久我が料金表を見る。
「空中遊泳、本来なら結構な料金がしますね」
「利用券で無料じゃないですか」
「無料でも、元の価格と体験内容の費用対効果は気になりますからね」
「久我さんは、旅行中でも費用対効果を確認するのですね」
「染みついた会社員の習性です」
久我は端末を取り出した。
この施設利用を、八咫烏側の療養費として処理できないか確認しようとする。
直後。
かれんからメッセージが届いた。
『《スカイ・ラグーン》の利用料は観光費扱いです。活動経費や療養費として申請することはできません』
「……まだ申請してないのに、先回りされた」
「普段の行動を完全に読まれてますね」
「今回の行程を管理している方として、当然の対応です」
休憩中、黒瀬から簡潔な連絡が届いた。
『B2およびB4で保護された薬物使用者は全員生存。現在、正規医療機関へ移送中。一部は重症だけど、直ちに生命の危険がある者はいないわ』
三人の表情が緩んだ。
「全員、助かったんですね」
「よかった」
「これで、ようやく本当に休めます」
事件の話は、それ以上続けなかった。
三人は、目の前のパフェと飲み物へ戻った。
*
午後六時過ぎ。
施設の最後に、屋外の温水プールへ入った。
境界島の広い海と、オレンジ色の夕焼けが目の前に広がっている。
三人は、温かい水へ肩まで浸かった。
久我は防水固定具を水面へ出し、動かさない。
澪は脚を伸ばす。
千鶴は、夕日を静かに見つめていた。
「……明日は何をしますか?」
澪が尋ねる。
四連休は、翌日の四日目まで残っている。
「今日行けなかった場所を少し見て、夕方には東京へ帰る予定でどうでしょう」
「賛成です。ですが、危険な場所への立ち入りは禁止です」
「怪しい招待状についていくのも禁止ですね」
「俺が送ったわけじゃないんですけどね」
「受け取っても、行かないでください」
「分かりましたよ」
澪と千鶴が、無言で久我を見る。
「……本当に分かっていますから」
*
午後八時。
三人はホテルへ戻った。
澪は歩きながら舟を漕ぐほど眠そうで、千鶴も普段より動きが遅い。
久我は両腕が使えず、澪と千鶴も負傷しているため、《スカイ・ラグーン》で使用した水着や施設から受け取った荷物は、館内配送サービスを通じてホテルまで運んでもらった。
「こういう時に、アイテムボックス系の便利な能力が欲しくなりますね」
「知らない能力者へ頼まないでくださいね」
「今日はもう頼みませんよ」
部屋へ戻ると、三人ともすぐに限界を迎えた。
久我は報告書を少しだけ書こうと、端末を開く。
五分後。
澪が久我の部屋へ入り、端末を閉じた。
「休養命令です」
「報告書の作成は明日です」
千鶴も後ろに立っている。
「二人とも、すっかりかれんさん側になってませんか?」
「正しい側です」
*
ベッドへ入る前。
久我は、施設でもらった『空飛ぶクジラ』の小さな記念ステッカーを眺めた。
澪は、空中遊泳中にスタッフが撮影してくれた写真を確認している。
三人が横一列に繋がり、久我だけが斜めに傾いて回っている写真だ。
「この写真、欲しいです」
「俺だけ、空中で救助されてるみたいなんですけど」
「実際に姿勢を支えていました」
「……否定できない」
千鶴も、その写真を一枚注文した。
鏡宮の重い屋敷へ持ち帰る、最初の旅行らしい、平和な記念品になるだろう。
地下で人の命を繋いだ翌日。
三人はプールで流され、空中で回り、柔らかいボールを追いかけた。
誰かを救うためでも、敵を倒すためでもない。
ただ楽しいから、能力の力を借りて空を泳いだ。
境界島には、強さを求めて傷ついた人々がいた。
それと同時に、自分の能力で誰かを少しだけ浮かせ、その笑顔を心から喜ぶ人もいた。
どちらか一つだけが、この島のすべてではない。
四連休三日目。
久我たちはようやく、旅行らしい穏やかな一日を終えた。
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