35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第40話 吸血鬼、プールの上で空を泳ぐ

 深い眠りから目を覚ますと、遮光カーテンの僅かな隙間から、午後の強い日差しが白いシーツの上へ細い線を引いていた。

 

 第七リングの地下違法闘技場での事件解決から、約十時間後。

 

 四連休三日目、午後三時。

 

 境界島の玄関区にある認可ホテルの一室。

 

 久我陽介は、ベッドの中でゆっくりと目を開けた。

 

 無意識に身体を動かそうとした直後、

 

「痛っ」

 

 小さく声が漏れた。

 

 右腕は、分厚い医療用素材で固定されたまま。

 

 左腕にも、真壁戦から続く打撲と筋肉の損傷を保護するため、防水対応のサポーターが巻かれている。

 

 吸血鬼特有の再生能力によって、表面的な傷はすでに塞がっていた。

 

 しかし、鉄片の濁流を正面から受け止めた右腕の深部には、骨の奥まで響く重い損傷が、低い振動のような鈍痛となって残っている。

 

 枕元に置いていた通信端末へ、左手を伸ばした。

 

 画面には未読通知が山のように溜まっている。

 

『皇かれん:全員が無事にホテルへ戻ったことを確認しました。本日はゆっくり休養してください』

 

『黒瀬真琴・特区保安局:地下区画の証拠保全と関係者の確保は、おおむね終了。事情聴取は延期するから、今日は島内をうろつかないで』

 

『八咫烏医療班:久我氏および七瀬氏の再診案内。必ず受診すること』

 

『八咫烏総務:特区内事件協力に伴う臨時特別手当の事前通知』

 

『皇かれん:昨夜の行動に関する詳細報告書の提出期限について』

 

 久我は、臨時手当の通知だけを真っ先に開いた。

 

 しかし、肝心の金額はどこにも記載されていない。

 

「……詳細は後日って、一番大事なところが書いてないじゃないか」

 

 その下の、

 

『報告書提出期限・明後日午前十時』

 

 という文字だけが、やけにはっきりと明記されていた。

 

 久我はため息をつき、端末をベッドの横へ伏せた。

 

       *

 

 隣室との間にある共有ラウンジへ出ると、澪の眠そうな声が聞こえてきた。

 

「……久我さん。今、何時ですか?」

 

 ソファの上で毛布に包まったまま、澪が目を擦る。

 

「午後三時過ぎです」

 

「午前三時じゃなくて?」

 

「午後です」

 

「一日、半分以上なくなってる……」

 

 澪もようやく身体を起こした。

 

 その両脚には、昨夜の立体機動と救助活動による疲労を抜くため、医療用のテーピングが幾重にも巻かれている。

 

 普通に歩くことはできるが、全速力で走ることは医師から固く禁じられていた。

 

 千鶴はすでに起きていた。

 

 しかし、起床したのは十分ほど前らしい。

 

 椅子に静かに座り、ホテル備え付けの境界島観光案内冊子を読んでいる。

 

《神鏡返し》を限界近くまで使用した右手には、包帯が巻かれていた。

 

「三人とも、身体が強制的な休息を必要としていたのでしょう」

 

「鏡宮さんは、もっと早く起きて身支度をしてそうな印象でした」

 

「……私も、先ほど目を覚ましたばかりです」

 

「鏡宮さんまで寝坊したなら、仕方ないですね!」

 

 澪が、なぜか嬉しそうに笑った。

 

       *

 

 三人の共通端末へ、かれんから暗号化された映像通話が入った。

 

 かれんは特区保安局の臨時本部にいるらしく、背景では制服姿の職員たちが忙しなく行き交い、事件の事後処理が続いていた。

 

『皆さん、起きましたか?』

 

「ちょうど今、三人とも起きたところです」

 

『本日は、事件への協力を一切禁止します』

 

「……禁止?」

 

『禁止です。事情聴取も報告書の作成も明日以降。地下区画へ近づくことも禁止。独自調査も禁止。街で怪しい人物を見つけても、追跡は禁止です』

 

「最後のは、今のところ予定していませんけど」

 

『予定がなくても、目の前で何か起きれば勝手に首を突っ込み始める方なので、念のため言っています』

 

 澪と千鶴が、画面の横で深く頷いた。

 

「そこは否定してくれないんだな」

 

『医療班の担当医から、軽い水中運動ならリハビリとして許可が出ています。境界島中央部にある公共レジャー施設《スカイ・ラグーン》の利用券を、電子チケットで送っておきました』

 

「プールですか?」

 

『温水療養プールもあります。水中なら浮力がありますから、七瀬さんの脚や、久我さんの関節への負担も減ります。心身の緊張を解くにはちょうどいいでしょう』

 

 澪の表情が明るくなる。

 

「プール!」

 

 千鶴も、手元の観光案内冊子の該当ページを開いた。

 

 そこには、

 

 大型温水プール。

 

 流水プール。

 

 波のプール。

 

 ウォータースライダー。

 

 特殊体質者対応区画。

 

 そして、

 

『能力者による《空中遊泳体験》』

 

 という文字が躍っている。

 

「空中遊泳?」

 

『境界島の公認レジャー能力者が、利用者へ一時的な《空中浮遊》を授与してくれるアトラクションです』

 

「空を飛べるんですか!?」

 

『正確には、安全なドーム空間の中で空中を泳ぐ体験ですね』

 

 千鶴の視線も、少しだけ案内冊子へ引き寄せられていた。

 

 久我は二人の反応を見て、すぐに決めた。

 

「行きましょうか。完全な休養日ですし」

 

       *

 

 ホテルを出る前に、三人は施設内の診療所で医師による再確認を受けた。

 

 最初は久我。

 

「右腕は必ず防水固定具で保護すること。右腕を使った水泳は禁止。左腕も強く回さない。深い潜水は禁止。《血装》の使用禁止。プール内で他人の身体を力任せに支えようとしないこと」

 

 医師が厳しい表情で注意事項を読み上げる。

 

「では、俺はどうやってプールに入ればいいんですか?」

 

「浮き輪の中へ入って、大人しく水に流されていてください」

 

「三十五歳で浮き輪ですか」

 

「両腕を負傷している三十五歳なので、大人しく浮き輪です」

 

 次は澪。

 

「全力疾走禁止。飛び込み禁止。強いキック禁止。水中での歩行と軽い遊泳は許可します。空中遊泳でも急加速は禁止。左膝に少しでも痛みが出たら即座に終了すること」

 

「プールで速く泳ぐのも駄目ですか?」

 

「競争は禁止です」

 

 澪が残念そうに唇を尖らせた。

 

 最後に千鶴。

 

「分鏡の使用を極力控えること。右手へ強い負荷をかけない。軽い水泳は可能。ウォータースライダーは、医師から許可された低速のものだけ。《神鏡返し》を使った水遊びは禁止です」

 

「使う予定はありません」

 

 千鶴が真顔で答える。

 

「絶対に誰かが水をかけてきますよ。反射でやり返さないように」

 

 久我が言うと、澪が静かに目を逸らした。

 

       *

 

 午後四時半。

 

 境界島中央部にある大型公共レジャー施設、《スカイ・ラグーン》。

 

 全面ガラス張りの巨大なドーム状建築。

 

 内部には南国風の植栽が配され、複数の広大なプールと人工の滝が作られている。

 

 天井付近には、空中遊泳体験用の透明なドーム空間まで設けられていた。

 

 事件現場から離れた《スカイ・ラグーン》は、警備員を増員しながらも一般営業を続けていた。

 

 家族連れ。

 

 若い能力者のグループ。

 

 特殊体質を持つ住民。

 

 夜行性住民向けの、夕方からの利用者。

 

 境界島の穏やかな日常が、そこにはあった。

 

 三人は受付を済ませる。

 

 久我は防水固定具をつけたまま、長袖のラッシュガードを着用。

 

 澪と千鶴は、それぞれ動きやすい一般的な水着姿だった。

 

 久我は二人より先に、プールサイドへ出た。

 

 受付係のスタッフから、大きな丸い浮き輪を丁寧に渡される。

 

「お客様、こちらをご利用ください」

 

「……もう少し、大人向けのデザインはありませんか?」

 

 渡された浮き輪には、境界島のご当地マスコットである『丸い空飛ぶクジラ』が大きく描かれていた。

 

「大人用の最大サイズです」

 

「大きさではなく、絵柄の問題なんですけどね……」

 

 更衣室から、澪と千鶴がプールサイドへ出てくる。

 

 久我はすでに、クジラの浮き輪の中央へすっぽりと収まり、水面へ浮かんでいた。

 

 両腕がほとんど使えないため、自力では方向転換も難しい。

 

「久我さん、すごく似合ってます」

 

「褒められている気がしません」

 

「安全性は非常に高そうですね」

 

「安全性しか評価されていませんね」

 

 澪が浮き輪の後ろへ手をかけ、久我をゆっくりと押した。

 

「出発します!」

 

「急に押さないでくださいよ。俺、本当に何もできないんですから」

 

 医師から強いキックは禁止されているため、澪はゆっくり水中を歩く。

 

 久我の浮き輪を押しながら、緩やかな流れの流水プールへ入っていった。

 

 千鶴も静かに後ろからついてくる。

 

       *

 

 流水プールの穏やかな流れに乗る。

 

 久我はクジラの浮き輪に入ったまま、完全に水流へ身を任せていた。

 

 澪と千鶴は、水の抵抗を受けながら歩く。

 

 浮力のおかげで脚への負担が少なく、澪にとっては軽いリハビリにもなっている。

 

「これは楽ですね」

 

「久我さんだけ、本当に何もしてないじゃないですか」

 

「医療上の指示に忠実に従っているだけです」

 

「会社員としては、珍しく正しい対応です」

 

「その会社員という部分は必要ですか?」

 

 途中、流れが少しだけ速くなる場所があった。

 

 久我の浮き輪が、水流に押されて回転する。

 

 正面を向いていたはずが、完全に後ろ向きになったまま流されていく。

 

「すみません。誰か俺の向きを直してください」

 

「自分で直せませんか?」

 

「両腕が使えないので無理です」

 

 千鶴が浮き輪の縁へ手を添え、静かに正面へ戻してくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 数秒後。

 

 浮き輪が再び回転し、後ろ向きになる。

 

「……流れに対して、久我さんの座る位置が偏っています」

 

「右腕を庇って座っているので、どうしてもバランスが崩れるんです」

 

「じゃあ、ずっと回ってますね!」

 

「そんな冷静に結論を出さないでください」

 

       *

 

 次に、波のプールへ移動した。

 

 医療用の浅い区画に限定して入る。

 

 大きな危険のある波ではなく、穏やかな人工波だ。

 

 澪は腰まで水に入り、波のタイミングに合わせて小さく跳ねる。

 

 走ることはできないが、浮力のおかげで脚への負担は少ない。

 

 久我は、浮き輪ごと波へ持ち上げられた。

 

 一度目。

 

 少し揺れる。

 

 二度目。

 

 浮き輪が大きく傾く。

 

 三度目。

 

 久我だけがバランスを崩し、浮き輪ごと一回転しかける。

 

「……これ、本当に療養ですよね?」

 

「とっても楽しい療養です!」

 

 千鶴も、波が来るたびに身体を僅かに浮かせ、水に揺られていた。

 

 表情は平静。

 

 しかし次の波を待つ位置が、少しずつ前へ移動している。

 

 久我が気づいた。

 

「鏡宮さん、結構楽しんでませんか?」

 

「水中で身体を動かし、不安定な状態で体軸を保つのは、良い重心の訓練になります」

 

「遊びではなく、訓練扱いなんですね」

 

 その直後。

 

 千鶴が、最も大きな波が来る場所へ自分から進んでいった。

 

「絶対、心から楽しんでますよね」

 

 澪が笑う。

 

       *

 

 施設内には、三人用の大型浮き輪で滑る低速ウォータースライダーがあった。

 

 負傷者でも、医師の許可がある範囲で利用できる家族向けコースだ。

 

「俺は下で見ていますよ」

 

「三人用です」

 

「受付の方も、医師から許可された範囲なら問題ないと仰っていました」

 

「二人とも、俺も一緒に行くことは確定なんですね」

 

 三人で大型のゴムボートへ乗る。

 

 久我が中央。

 

 澪と千鶴が前後に座る。

 

 ゆっくり進む安全なコースだと聞いていたが、途中には緩やかな落下地点が何度かあった。

 

「……思ったより速くないですか?」

 

「全然速くないです!」

 

「安全な速度の範囲内です」

 

「二人の速度の基準が、絶対におかしいんですよ!」

 

 最後に、大きなプールへ着水する。

 

 派手な水しぶきが上がった。

 

 なぜか久我だけが、顔面へ大量の水を浴びている。

 

 前後にいる澪と千鶴は、ほとんど濡れていなかった。

 

「……座る位置の問題でしょうか」

 

 千鶴が、真剣な顔で水の流れを観察する。

 

「次は、久我さんの位置を変えて確認しましょう」

 

「次も乗る前提なんですか!?」

 

       *

 

 一通り遊んだ後、三人は温水療養プールへ移動した。

 

 身体を支える浮力が強く調整され、怪我人や高齢者でも利用しやすい区画だ。

 

 久我は、ようやくクジラの浮き輪から解放された。

 

 浅い場所の段差へ背中を預け、温かい水へ身体を任せる。

 

 澪は水中で脚をゆっくりと曲げ伸ばしし、筋肉の疲労をほぐしている。

 

 千鶴も、痛む手首を湯の中で静かに動かしていた。

 

 しばらく、三人とも何も話さなかった。

 

 地下の事件後、初めて完全に警戒を解き、身体を休めるだけの時間。

 

「……静かですね」

 

「昨日までは、ずっと誰かに追いかけられてましたからね」

 

「今は、警戒する必要のある異能反応も周囲にはありません」

 

「鏡宮さん、ここでも警戒自体はしていたんですね」

 

「習慣ですので」

 

 誰も、地下で起きた事件の話を深く掘り返さなかった。

 

 三人はただ温かい水へ浸かり、流れる時間を楽しんだ。

 

       *

 

 十分な休憩を取った後、三人は天井付近に設けられた空中遊泳エリアへ向かった。

 

 施設名は、《スカイ・スイムドーム》。

 

 プールの上部に設けられた、高さ約八メートルの巨大な透明ドーム空間。

 

 床面はすべて深いプールか、厚い衝撃吸収マットで覆われている。

 

 壁と天井には、安全用の柔らかいネットも張られていた。

 

 利用者は、公認能力者から一時的な《空中浮遊》を授与され、何もない空間を泳ぐことができる。

 

 担当スタッフは、二十代後半の女性能力者だった。

 

 飛田真帆。

 

 境界島公認レジャー能力者。

 

 能力は《浮遊付与》。

 

 触れた相手へ、一定時間だけ《空中浮遊》という能力を授与する、人による一時授与型能力である。

 

 授与された者は、効果が続いている間、自分の意思で浮遊と移動を操作できる。

 

 ただし、能力は約八分で消失する。

 

 飛田本人が途中で解除することも可能だった。

 

「空を飛ぶというより、水のない場所をゆっくり泳ぐ感覚に近いです」

 

 飛田が安全説明を始める。

 

「高度は最大六メートルまで。壁や天井へ近づくと、授与された《空中浮遊》へ設定された安全制限によって自動的に減速します。体調が悪くなった場合は、すぐに手を上げてください。私が能力を解除すれば、ゆっくり床へ降りられます」

 

「速く動けますか?」

 

「駄目です」

 

 澪の問いに、飛田は即答した。

 

「急加速、ほかの利用者を押す行為、ご自身の能力との併用は、すべて禁止です」

 

「分かりました……」

 

 澪が肩を落とす。

 

 飛田は、久我の固定された両腕を見た。

 

「お客様は、右腕を絶対に動かさないでください。左腕も小さく動かす程度にしてください。脚の動きと、身体の傾きだけでも進めます」

 

「進めますか?」

 

「慣れれば」

 

「慣れなければ?」

 

「その場でクルクル回ります」

 

「今日、回ってばかりですね」

 

       *

 

 最初に澪が体験する。

 

 飛田が澪の肩へ触れた。

 

 淡い異能反応が澪の身体全体を包み、《空中浮遊》が一時的に授与される。

 

 澪の足が、床からゆっくり離れていった。

 

「わっ……!」

 

 身体が完全に空中へ浮き上がる。

 

 反射的に床を蹴ろうとするが、すでに足場はない。

 

 そのまま前方へ向かって、くるりと一回転した。

 

 安全制限が働いているため、速度は上がらない。

 

「足場がないです!」

 

「空を飛ぶ体験なので、当然ですよ」

 

 飛田が笑う。

 

 澪は身体を真っ直ぐに伸ばし、平泳ぎのように手足を動かしてみた。

 

 少しだけ、前へ進む。

 

 すぐに感覚を掴み、空中を器用に泳ぎ始めた。

 

 ただし、圧倒的に遅い。

 

 普段の吸血鬼の脚力なら一瞬で通過する距離を、何秒もかけて進んでいく。

 

 それでも本人は、心から楽しそうだった。

 

「遅いのに、すごく楽しいです!」

 

 次は千鶴。

 

 飛田が肩へ触れ、《空中浮遊》を授与する。

 

 千鶴の身体が、静かに浮き上がった。

 

 最初は、背筋を伸ばしたまま完全に固まっている。

 

「鏡宮さん、大丈夫ですか?」

 

「……足元に何もない感覚に、少し慣れていません」

 

 普段の千鶴は、合気でも戦闘でも、確かな足場と重心を重要視する。

 

 その足場が、完全に存在しない。

 

 しかし数秒後。

 

 千鶴は手足を必要最小限だけ動かし始めた。

 

 身体の中心軸を意識し、傾きを繊細に調節する。

 

 澪よりもさらに遅いが、驚くほど滑らかで、ぶれのない直線軌道で進んでいく。

 

 方向転換にも無駄がない。

 

「初めてとは思えないくらい、お上手ですね」

 

 飛田が感心したように言う。

 

「相手へ力を伝えるのではなく、自分自身の重心だけを調整すればいいのですね」

 

「空中でも、合気の訓練に変換してる……」

 

「でも、すごく綺麗です!」

 

 千鶴は少しだけ嬉しそうに、ドームの中をもう一度ゆっくり旋回してみせた。

 

       *

 

 最後は久我。

 

 飛田が、防水固定具のない左肩へ触れる。

 

《空中浮遊》が一時的に授与された。

 

 久我の身体が、ゆっくりと床から離れる。

 

 最初は順調だった。

 

 三十センチ。

 

 一メートル。

 

 二メートル。

 

 そこで身体が僅かに右へ傾き始める。

 

 右腕を重い素材で固定しているため、身体の重量バランスが偏っていた。

 

 久我は左手と脚の動きで調整しようとする。

 

 その結果。

 

 身体がゆっくりと横回転を始めた。

 

「……止まりませんね」

 

 澪が空中を泳いで近づいてくる。

 

「久我さん、身体を真っ直ぐにしてください!」

 

「しているつもりです!」

 

 千鶴も反対側へ回り込む。

 

「左脚を、少し下げてください」

 

「空中で回っているので、どちらが下か分からなくなってきました!」

 

 一回転。

 

 二回転。

 

 速度は遅く、危険性はない。

 

 ただし止まれない。

 

「一度、完全に力を抜いてください」

 

 飛田の助言で、久我が全身の力を抜く。

 

 回転が少しずつ弱まっていく。

 

 澪と千鶴が左右から久我の肩と腰を支え、姿勢を真っ直ぐに戻した。

 

 結果として、三人が横一列に繋がった状態で、空中を漂うことになる。

 

「俺だけ、空中介護体験になってませんか?」

 

「三人で一緒に飛べて、楽しいじゃないですか」

 

「久我さんが勝手に回転しなければ、必要のなかった連携です」

 

       *

 

 飛田が、柔らかい大型のビーチボールを空中へ放った。

 

 空中遊泳体験の初心者向けゲームだ。

 

 浮かんだまま、ボールを床へ落とさず、三人でパスを繋ぐ。

 

 久我は両腕が使えない。

 

「久我さん、どうやって打つんですか?」

 

「頭しかありませんね」

 

 ボールが飛んでくる。

 

 久我が額で軽く返した。

 

 反動で、自分の身体が後ろへ流される。

 

「打った本人も動くんですね!」

 

 澪が笑いながら、ボールへ向かって進もうとした。

 

 しかし地面を蹴ることができない。

 

 普段の感覚で強く足を動かした結果、空振りしてボールの下を通り過ぎる。

 

 千鶴が静かに位置を調節し、左手の甲でボールを返した。

 

「鏡宮さん、上手すぎません?」

 

「ボールが進む方向と、自分が反作用で流れる方向を同時に考えれば、それほど難しくありません」

 

「また簡単なことのように言ってますね」

 

 三人で何度かパスを続ける。

 

 久我は頭。

 

 澪は脚。

 

 千鶴は左手。

 

 三人の動きは、徐々に合っていった。

 

 昨夜の戦闘のような、命を削る緊張はない。

 

 失敗しても、ただボールが下へ落ちるだけ。

 

 それが三人には、とても新鮮だった。

 

       *

 

 ゲーム終了後、残り時間は自由に飛ぶ。

 

 澪はドーム上部まで、ゆっくり上昇した。

 

 透明な壁の向こうに、夕日に染まる境界島の街と、広い海が見える。

 

 空中を泳ぐ速度は、自分の足で走るより遥かに遅い。

 

 それでも、地面から完全に離れ、自分の脚力では届かない場所へ浮かんでいる。

 

「……私、走るのは誰かを助けたり、戦ったりする時が多かったんです」

 

 澪が、夕日を見ながら言った。

 

「でも、こうやって何の目的もなく、ただ動くのも楽しいですね」

 

「遊ぶことが目的でいいんですよ」

 

 久我が下から声をかける。

 

 千鶴も二人の隣へ浮かんできた。

 

「能力を使う理由が、誰かの期待や、果たすべき役目である必要はないのですね」

 

「飛田さんの場合は仕事ですけど、お客さんを楽しませる仕事ですからね」

 

 少し離れた場所で、飛田が子供たちへ《空中浮遊》を授与している。

 

 子供たちが歓声を上げながら空中を泳ぎ、飛田自身もそれを見て笑っていた。

 

       *

 

 体験時間が終わる。

 

 飛田が三人へ授与していた《空中浮遊》を順番に解除し、ゆっくりと床へ降ろした。

 

「この能力、すごく素敵ですね」

 

 澪の言葉に、飛田ははにかむ。

 

「ありがとうございます」

 

「空を飛べるなら、救助や物資の輸送にも使えるんですか?」

 

「軽い物や、動けない人へ短時間だけ授与し、移動を助けることはできます。でも、私の授与できる《空中浮遊》は効果時間が短いですし、風が強い屋外では流されて危険です。本格的な輸送や戦闘には向いていません」

 

 飛田は軽く笑った。

 

「昔は、人を少し浮かせるだけの、半端で使い道のない能力だと言われたこともあります」

 

 三人が、少しだけ黙る。

 

 昨夜、地下で目にした、能力の価値は出力で決まるという考えと重なったからだ。

 

 しかし、飛田は暗い顔をしなかった。

 

「私は、誰かを高く速く飛ばしたいわけではないんです。こうやって、初めて空へ浮いた人が笑うのを見るのが、一番好きなので」

 

 飛田の言葉には迷いがない。

 

「もっと強くなりたい人を否定するつもりもありません。私は、この使い方が好きというだけです」

 

 千鶴は、その言葉を静かに受け止めた。

 

 弱い能力者は現在の使い方へ満足するべきだと、誰かが押しつけたのではない。

 

 飛田自身が、自分の能力をどう使うか選び、その結果に満足している。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

「……いい仕事ですね」

 

 久我が言う。

 

「はい。結構気に入っています」

 

       *

 

 空中遊泳体験を終え、三人はプールサイドのカフェで休憩した。

 

 澪は大きなフルーツパフェ。

 

 千鶴は小さな和風アイス。

 

 久我は、吸血鬼向けの鉄分強化ベリードリンク。

 

 久我が料金表を見る。

 

「空中遊泳、本来なら結構な料金がしますね」

 

「利用券で無料じゃないですか」

 

「無料でも、元の価格と体験内容の費用対効果は気になりますからね」

 

「久我さんは、旅行中でも費用対効果を確認するのですね」

 

「染みついた会社員の習性です」

 

 久我は端末を取り出した。

 

 この施設利用を、八咫烏側の療養費として処理できないか確認しようとする。

 

 直後。

 

 かれんからメッセージが届いた。

 

『《スカイ・ラグーン》の利用料は観光費扱いです。活動経費や療養費として申請することはできません』

 

「……まだ申請してないのに、先回りされた」

 

「普段の行動を完全に読まれてますね」

 

「今回の行程を管理している方として、当然の対応です」

 

 休憩中、黒瀬から簡潔な連絡が届いた。

 

『B2およびB4で保護された薬物使用者は全員生存。現在、正規医療機関へ移送中。一部は重症だけど、直ちに生命の危険がある者はいないわ』

 

 三人の表情が緩んだ。

 

「全員、助かったんですね」

 

「よかった」

 

「これで、ようやく本当に休めます」

 

 事件の話は、それ以上続けなかった。

 

 三人は、目の前のパフェと飲み物へ戻った。

 

       *

 

 午後六時過ぎ。

 

 施設の最後に、屋外の温水プールへ入った。

 

 境界島の広い海と、オレンジ色の夕焼けが目の前に広がっている。

 

 三人は、温かい水へ肩まで浸かった。

 

 久我は防水固定具を水面へ出し、動かさない。

 

 澪は脚を伸ばす。

 

 千鶴は、夕日を静かに見つめていた。

 

「……明日は何をしますか?」

 

 澪が尋ねる。

 

 四連休は、翌日の四日目まで残っている。

 

「今日行けなかった場所を少し見て、夕方には東京へ帰る予定でどうでしょう」

 

「賛成です。ですが、危険な場所への立ち入りは禁止です」

 

「怪しい招待状についていくのも禁止ですね」

 

「俺が送ったわけじゃないんですけどね」

 

「受け取っても、行かないでください」

 

「分かりましたよ」

 

 澪と千鶴が、無言で久我を見る。

 

「……本当に分かっていますから」

 

       *

 

 午後八時。

 

 三人はホテルへ戻った。

 

 澪は歩きながら舟を漕ぐほど眠そうで、千鶴も普段より動きが遅い。

 

 久我は両腕が使えず、澪と千鶴も負傷しているため、《スカイ・ラグーン》で使用した水着や施設から受け取った荷物は、館内配送サービスを通じてホテルまで運んでもらった。

 

「こういう時に、アイテムボックス系の便利な能力が欲しくなりますね」

 

「知らない能力者へ頼まないでくださいね」

 

「今日はもう頼みませんよ」

 

 部屋へ戻ると、三人ともすぐに限界を迎えた。

 

 久我は報告書を少しだけ書こうと、端末を開く。

 

 五分後。

 

 澪が久我の部屋へ入り、端末を閉じた。

 

「休養命令です」

 

「報告書の作成は明日です」

 

 千鶴も後ろに立っている。

 

「二人とも、すっかりかれんさん側になってませんか?」

 

「正しい側です」

 

       *

 

 ベッドへ入る前。

 

 久我は、施設でもらった『空飛ぶクジラ』の小さな記念ステッカーを眺めた。

 

 澪は、空中遊泳中にスタッフが撮影してくれた写真を確認している。

 

 三人が横一列に繋がり、久我だけが斜めに傾いて回っている写真だ。

 

「この写真、欲しいです」

 

「俺だけ、空中で救助されてるみたいなんですけど」

 

「実際に姿勢を支えていました」

 

「……否定できない」

 

 千鶴も、その写真を一枚注文した。

 

 鏡宮の重い屋敷へ持ち帰る、最初の旅行らしい、平和な記念品になるだろう。

 

 地下で人の命を繋いだ翌日。

 

 三人はプールで流され、空中で回り、柔らかいボールを追いかけた。

 

 誰かを救うためでも、敵を倒すためでもない。

 

 ただ楽しいから、能力の力を借りて空を泳いだ。

 

 境界島には、強さを求めて傷ついた人々がいた。

 

 それと同時に、自分の能力で誰かを少しだけ浮かせ、その笑顔を心から喜ぶ人もいた。

 

 どちらか一つだけが、この島のすべてではない。

 

 四連休三日目。

 

 久我たちはようやく、旅行らしい穏やかな一日を終えた。

 




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