35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
四連休四日目。
最終日の朝。
午前八時半。
境界島、玄関区の認可ホテル。
前日の午後八時過ぎには泥のように眠りに落ちたため、三人とも昨日より遥かに早く、自然と目を覚ましていた。
久我陽介はベッドの上で、ゆっくりと瞼を開いた。
右腕を覆う重い固定具は、まだ外せない。
ただし、吸血鬼の再生能力によって、昨日まで骨の髄へ響いていた激しい鈍痛は、かなり軽いものへ変わっている。
左腕も、日常動作程度なら問題なく動かせる。
それでも、重い荷物を持つことは厳重に禁止されていた。
久我は左手だけで端末を開き、本日の予定を確認した。
午前九時――境界島医療班による再診。
午前十時――ホテルをチェックアウト。
午前十時半以降――帰路まで自由行動。
午後四時半――境界島連絡船で出発。
午後六時頃――東京側へ到着。
その下には、旅行が終わった後の予定まで表示されている。
翌日午前八時――東京側専門医療施設で再診。
翌日午前十時――地下事件に関する詳細報告書提出。
「……病院と報告書の締め切りだけが、平和な旅行の予定表の中で悪目立ちしていますね」
久我が一人でぼやいていると、隣の共有ラウンジから話し声が聞こえてきた。
澪が、前日の空中遊泳体験で購入した記念写真のデータを見ているらしい。
千鶴もすでに、同じ写真を自分の端末へ保存していた。
「久我さんが空中で横回転している写真、何回見ても面白いです」
「ほかにも、普通に三人で並んで飛んでいる写真があったでしょう。そちらを主に見てくださいよ」
ラウンジへ顔を出した久我へ、千鶴が真面目な表情で答える。
「ですが、こちらの方が、今回の旅行の思い出として強く印象に残ります」
「俺の失敗が、一番の思い出になっていませんか?」
*
ホテルの明るい朝食ラウンジ。
三人は、境界島での最後の朝食を取った。
久我はトースト、スクランブルエッグ、コーヒー、そして吸血鬼用の小型血液パック。
東京での普段の生活に近い組み合わせだ。
澪は、昨日消耗した分を補うように、朝から大量の肉料理と炭水化物を皿へ盛っている。
千鶴は焼き魚と味噌汁を中心とした、落ち着いた和食だった。
「今日で帰るんですね」
澪が、少しだけ名残惜しそうに言う。
「四日間しかいなかったとは、とても思えませんね。体感では一か月くらいいた気分です」
「地下区画へ降りていた時間が、あまりにも濃かったからでしょう」
「次は、どうか地上だけで過ごしたいものです」
久我が心の底から同意を求めると、澪と千鶴が食事の手を止め、同時に久我を見た。
「俺が、どうしても地下の違法闘技場へ行きたいと、二人を誘ったわけではありませんよ」
「それでも、怪しい招待状を受け取った時点で、断ることはできました」
「……そこを論理的に指摘されると弱いですね」
三十五歳の会社員は、二人の正論の前に沈黙するしかなかった。
*
午前九時。
境界島側の医療班による、帰還前の最終再診。
最初は久我。
「右腕の固定具は、東京へ戻るまで必ず継続してください。深部の筋肉損傷は再生中ですが、《血装》は最低でも数日間使用禁止です。戦闘訓練も禁止。血液パックを多めに摂取し、明日の午前八時、東京側の専門医療施設で再検査を受けてください」
医師が続けて釘を刺す。
「異常な速度で再生していますが、再生が速いからといって、途中で無茶をしてよいという意味ではありません」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっていません」
「分かっていませんね」
澪と千鶴が、横から即座に答えた。
「……先生。二対一は卑怯だと思います」
次は澪。
「左膝の炎症は、かなり軽減しています。日常の歩行は問題ありませんが、吸血鬼の身体能力を使った高速移動は、あと二日禁止です。壁走り、天井走り、急停止も避けてください。水中での軽い運動は、リハビリとして継続を推奨します」
「二日も走れないんですか?」
澪が絶望したような声を出す。
「普通に歩いてください」
「歩くのは、走るよりすごく遅いです」
「一般人は、その速度で平和に生活しています」
最後に千鶴。
「右手の疲労は、順調に回復しています。《神鏡返し》の連続使用など、高負荷の反射を数日間控えてください。合気の軽い型稽古は可能ですが、実戦形式は禁止。分鏡も、必要時以外は収納しておいてください」
「承知しました」
千鶴の迷いのない返答に、医師が深く頷いた。
「三人の中で、あなたが一番話が早くて助かりますね」
久我と澪が、少しだけ傷ついた顔をした。
*
午前十時。
ホテルをチェックアウトする。
三人の着替えなどが入った大きな荷物は、境界島の配送サービスを利用し、東京側の指定先へ直接送る手続きを済ませていた。
久我は両腕を満足に使えず、澪と千鶴も負傷や疲労を抱えている。
そのため、島内で持ち歩くのは、
通信端末。
財布。
小さな手荷物。
必要最低限の医療用品。
緊急用の血液パック。
それだけだった。
久我は配送伝票の料金欄を見て、少しだけ顔をしかめる。
「手ぶらで帰れるのは便利ですが、海を渡るせいか結構な金額ですね」
「久我さんが無理に荷物を持ち、東京へ着いた直後に再受診するよりは安いでしょう」
「治療費まで考えれば、絶対にこちらの方が安上がりです」
「……費用対効果で説得されると、反論できませんね」
二人の完璧な連携に、久我は財布の紐を緩めるしかなかった。
*
最終日の目的地は、境界島中央部にある大型商業区。
正式名称は、《境界共生産業市場》。
通称、《境界市場》。
能力者向けの専門道具。
特殊体質者のための日用品。
観光客向けの土産物。
能力を利用して作られた工芸品。
それらを扱う巨大な商業施設だ。
二日目に訪れた能力産業展示館が、技術や産業の未来を見せるための施設だったのに対し、こちらは島の住民が日常的に買い物をする市場だった。
地下闘技場の事件の影響で、巡回する警備員の数は明らかに増えている。
しかし、多くの店は営業を続けていた。
家族連れ。
一般の観光客。
特徴的な外見を持つ特殊体質者。
能力者向けの装具を真剣に選ぶ若者。
三人はようやく、事件の証拠を探すためではなく、純粋に自分たちの欲しいものを探すために市場を歩き始めた。
*
澪の目的は明確だった。
最初に向かったのは、能力者向けの運動装具を扱う専門店。
《ランナーズ・ギア境界島店》。
地下で澪が使用した壁面走行対応シューズは、八咫烏と特区保安局から借りた試験用装備だった。
今回は、自分の足に合わせた訓練用シューズを見るために来ている。
店内には、高速移動能力者用、跳躍能力者用、重量変化能力者用、脚部変形型特殊体質者用、獣人系の足形対応、壁面移動能力者用など、一般のスポーツ店にはないシューズが並んでいた。
澪は、宝石店へ来たように目を輝かせる。
「靴屋で、そこまで嬉しそうな顔をする人を初めて見ましたよ」
「普通の靴屋じゃないですから!」
店員が専用機器を使い、澪の足型、重心のかけ方、動作の癖を測定する。
ただし、医師から走ることを禁止されているため、試走は歩行と軽い踏み込みだけだ。
「七瀬さんは、加速する時に右足へ力を集めすぎる傾向がありますね。左足の送りが間に合う前に、右側だけで身体を前へ押し出しています」
「分かるんですか?」
「歩行時の重心移動と、以前使った試験装備に残っている圧力分布を見れば。急旋回する時も、少し右側へ軸が崩れています」
店員は測定結果を画面へ表示した。
「最近、以前より初速を上げようと意識していませんか?」
そう尋ねられ、澪は地下での戦闘を思い出した。
久我が、自分の代わりに鉄片の濁流を右腕で受け止めた光景。
次は自分がもっと早く動かなければならないと、何度も考えていた。
「……久我さんより先に動かなきゃって、少し焦っていたかもしれません」
「速く動こうとすること自体は悪くありません。ただ、初速だけを上げれば、身体のほかの部分が追いつかなくなります」
店員が勧めたのは、出力を上げる靴ではなかった。
現在の能力と身体を壊さず、安全に長く使うための靴。
足裏全体へ衝撃を分散する多層ソール。
壁面へ接触した際、足首の角度を支える側面補強。
急停止時に踵だけへ負担が集中しない構造。
路面の状態に合わせて摩擦特性を切り替えられる交換式ソール。
天井走行や急旋回でも脱落しにくい、多点式の固定具。
能力による加速そのものを補助する機能はない。
動力や身体強化の仕組みもついていない。
「速くなる靴じゃないんですね」
「はい。速く走るのは、あなた自身の能力です。この靴は、あなたの足がその速度へ安全についていくためのものです」
店員の言葉は、出力だけを強引に引き上げる《オーバークロック》とは正反対だった。
薬は、能力者の身体を無理やり出力へ合わせた。
この靴は、能力者本人が身体を壊さず、自分の力を使うための補助をする。
ただし、価格は高校生が簡単に買えるものではない。
久我が値札を見て固まった。
「……これ、靴一足の金額ですか?」
「登録能力者向けの安全装備ですので、一般の競技靴より高価になります」
しかし澪は、八咫烏に登録された未成年の能力協力者だ。
能力事故の防止を目的とする、未成年登録能力者向け安全装備制度を利用できる。
八咫烏が審査後、訓練用の組織備品として購入し、澪専用の装備として長期貸与する仕組みだ。
澪本人の足型に合わせて作られるため、実質的には澪以外に使用できない。
それでも所有と点検の責任は八咫烏側にあり、定期的な整備と使用記録の提出が必要になる。
「個人の足に合わせて作るのに、組織の備品扱いなんですね」
「本人以外が使えない装備でも、能力事故を防ぐための安全備品ですから」
店員が答える。
「そういう制度があるなら、最初から教えてほしかったですね」
「久我さんに教えると、必要のない装備まで申請しようとしませんか?」
「否定できませんね」
千鶴が静かに頷いた。
澪は、自分の足型に合わせた一足を正式に注文した。
八咫烏側の審査が通れば製作が始まり、数週間後、東京側の施設へ配送される予定だ。
「靴が届いたら、また壁を走ってもいいですか?」
「担当医師から完全な許可が出てからです」
「鏡宮さん、もう完全に指導者側ですね……」
*
次は工芸・雑貨区画。
千鶴の目的だ。
千鶴は最初、鏡宮家の関係者や八咫烏へ渡せそうな、格式のある品ばかりを見ていた。
能力者が時間をかけて作った伝統工芸品。
微弱な異能反応を利用して色を変えるガラス細工。
魔除け用ではない、普通の鏡。
境界島限定の高級な茶器や菓子。
「鏡宮さん自身のものは、買わないんですか?」
「私自身のものですか?」
千鶴は、少し考え込んだ。
これまで京都で買い物をする時は、家に必要なもの、儀式に使うもの、当主として持つべきもの、誰かへの贈答品を選ぶことが多かった。
自分がただ欲しいから買う。
その、ごく普通の基準に慣れていない。
澪が店内の一角で、小さな写真立てを見つけた。
透明な青いガラスで作られた、境界島のマスコットである空飛ぶクジラをあしらった写真立て。
前日の空中遊泳で撮影した、三人の写真にちょうど合う大きさだ。
「これ、昨日の写真にぴったりじゃないですか?」
千鶴は、その写真立てを手に取った。
高価な品ではない。
特別な霊的効果もない。
魔除けにもならない。
能力者向けの便利な道具ですらない。
ただ境界島の景色と、空飛ぶクジラをかたどった、普通の観光土産だ。
「……これにします」
「ご自分の部屋に飾るんですか?」
「はい」
短い返事だった。
だが、それは千鶴にとって、誰かに命じられたのではなく、自分が欲しいから選んだものだった。
「私も同じものを買おうかな」
澪が、隣の写真立てを手に取る。
「……俺も買う流れですか?」
久我が尋ねると、二人が無言で久我を見た。
「分かりました。三人で同じものにしましょう」
三人は、同じ写真立てを一つずつ購入した。
それぞれ別の場所に住んでいても、同じ写真を飾れるように。
*
最後は、食品・土産区画。
久我の目的だ。
久我は、土産を買う相手を端末のメモへ列挙し、一つずつ確認していた。
表の会社の部署。
普段から世話になっている同僚。
八咫烏の教育担当者。
剣持。
杖原。
皇かれん。
境界島の医療班。
念のため、吸血鬼協会関係者。
「配る相手、多くないですか?」
「会社には、四連休で旅行へ行くと知られていますから。会社用の無難な土産は必要です」
「お土産を渡す方の一覧が、業務上の配布先リストのようになっていますね」
「人数の漏れがあると、後々面倒なので」
選んだのは、境界島限定商品。
『空飛ぶクジラまんじゅう』。
個包装。
常温保存可能。
一般的なアレルギー表示に加え、境界島で多い特殊代謝体質に関する成分表示まで細かく記載されている。
「これなら、職場のデスクで配りやすいですね」
「味で選ばないんですか?」
「配布効率と日持ちも、土産には重要です」
試食すると、味も普通においしい。
久我は会社用の大箱、八咫烏用の大箱、個人用の小箱を複数購入した。
当然、現在の腕では持ち運べない。
すべて東京側へ配送を依頼する。
「配送先は、一か所でよろしいですか?」
「会社と、八咫烏の施設と、自宅の三か所へ分けてください」
「クジラまんじゅうの代金より、送料の方が高くなりそうですよ」
澪の指摘に、久我の動きが止まった。
「……必要経費です」
千鶴が助け舟を出す。
「その言葉を信じて、カードを切ります」
久我は、かれんには空飛ぶクジラまんじゅうとは別に、小さな紅茶缶を買った。
境界島の夜行性住民向けに作られた、深い香りのノンカフェインブレンド。
夕方以降の仕事中にも飲みやすく、眠りを妨げにくいという。
「かれんさんだけ、別のお土産なんですね」
「今回、一番大きな迷惑と心配をかけましたから」
「お土産を渡しても、報告書の評価や内容が軽くなることはありませんよ」
「……そこまでは期待していません」
少しだけ期待している顔で、久我は答えた。
*
午後一時頃。
境界市場の屋上テラス。
三人は穏やかな海を眺めながら、最後の昼食を取った。
派手な能力を使った料理ではなく、境界島の住民が普段から食べている普通の料理だ。
久我はサンドイッチとコーヒー。
澪は大きなハンバーガー。
千鶴は温かいうどん。
食事をしながら、この四日間を振り返る。
「最初は、能力者ばかりが集まる街って、もっと怖くて殺伐とした場所なのかなと思っていました」
澪がハンバーガーを頬張りながら言う。
「実際、かなり怖い場所へも行きましたけどね」
「ですが、それだけではありませんでした」
能力産業展示館。
カフェ。
合法的な競技場。
能力者向けの専門店。
療養プール。
空中遊泳。
そして、普通に暮らしている多くの住民たち。
三人は、境界島の明るい面と暗い面の両方を見た。
「一つの事件だけで、この街の全部を決めつけるべきではないんでしょうね」
久我の言葉に、二人が頷いた。
*
帰りの連絡船ターミナルへ向かう途中。
三人は、地上の第七リング前を通った。
施設は捜査と現場検証のため、地上区画を含めて一時閉鎖されている。
入口には規制線が張られ、特区保安局の職員が立っていた。
しかし、その隣の広場では、予定されていた子供向け能力競技教室が、別施設の指導員によって小規模に行われていた。
第七リングへ入れなくなった子供たちのため、急遽場所を移して開催したらしい。
小さな風を起こす子。
数センチだけ跳躍を補助できる子。
柔らかい障壁を作る子。
弱い発光能力を持つ子。
皆が安全装備を身につけ、楽しそうに競技のルールを学んでいる。
「なくならなかったんですね」
「地下で行われていたことと、ここで能力競技を楽しんでいた方々は別ですから」
「正しい場所まで消してしまえば、また別の人が行き場を失いますからね」
三人は中へ入らず、広場で競技を続ける子供たちを遠くから眺めた。
薬で出力を引き上げ、本人の意思まで奪う地下のやり方とは違う。
自分の力を知る。
安全に使う。
誰かと一緒に楽しむ。
そのための場所が、そこには残っていた。
*
第七リングの前で、黒瀬真琴と再会した。
黒瀬は昨夜からほとんど眠っておらず、目の下には薄い隈ができている。
それでも現場の指揮を続けていた。
「本当に、最後の日は平和な買い物だけで終えられたのね」
「まだ信用されていませんね」
「この四日間の行動実績を踏まえた、正当な評価よ」
黒瀬は事件の続報を簡潔に伝えた。
B2とB4で保護された薬物被害者は、全員生存。
六人の共鳴後遺症は、現在も専門施設で治療中。
火炎能力者は、短時間ながら意識を回復した。
薬物依存の治療と事情聴取を並行している。
地下区画の全容解明と捜査は、長期化する見込み。
第七リング地上施設の責任者も調査対象。
合法競技の再開可否は、運営体制を刷新した上で判断される。
「助けた六人のうち一人が、あなたたち三人の状態を気にしていたわよ」
「誰ですか?」
「名前は、まだ教えられない。あなたたちが無事だとだけ伝えておいたわ」
「それで十分です」
久我は穏やかに答えた。
黒瀬は、境界島での一時活動証と、潜入時に使用した機材の返却手続きを終わらせる。
「次に来る時は、面倒な事件抜きの正式な観光客として来て」
「こちらも、そのつもりです」
「あなたのその言葉、信用していいのかしら」
「私と七瀬さんが監視します」
「今度こそ、最初から最後まで平和な観光だけにします!」
「……俺が一番、信用されていませんね」
*
境界島連絡船の出発ターミナル。
かれんが見送りに来ていた。
ただし、かれん自身は事件の連絡調整が残っているため、もう一日ほど島へ残る予定だ。
「かれんさんは、一緒に帰らないんですか?」
「特区保安局と八咫烏側の情報整理が残っていますので」
「ちゃんと寝ていますか?」
「少しは」
「少しでは足りません」
千鶴が鋭く指摘する。
かれんは、三人を見渡した。
「今回は、皆さんをこの島へ連れてきた私の判断が本当に正しかったのか、まだ自信はありません」
「事件は解決しましたよ」
「結果だけで判断してはいけません。三人とも、一つ間違えれば命に関わる重傷を負う可能性があったのですから」
澪と千鶴も、その言葉には黙る。
「それでも、皆さんがいたからこそ、助かった方がいたことも事実です」
厳しい評価と、確かな感謝。
久我は、購入した紅茶缶を差し出した。
「お土産です」
「私だけ別ですか?」
「今回、一番心配と迷惑をかけた方なので」
「お土産で、報告書の評価が甘くなることはありませんよ」
「鏡宮さんにも、まったく同じことを言われました」
かれんは僅かに笑った。
「ですが、紅茶はありがたくいただきます」
*
出発ゲート。
境界島へ入った時と同じ、出入管理ゲートだ。
入島時には、吸血鬼、高速移動系能力者、高位の反射能力者として警戒と登録を受けた。
帰りは、滞在記録と一時活動証を返却するだけだった。
「四日間のご滞在、お疲れさまでした」
ゲートの職員が声をかける。
「色々ありました」
職員は詳しい事情を知らない。
一般の観光客に対する、通常の対応だ。
三人はゲートを抜ける。
その瞬間、久我が一度だけ振り返った。
境界島の街並み。
高層建築。
能力者向けの巨大な施設。
遠くに見える《スカイ・ラグーン》の透明なドーム。
規制中の第七リング。
濃密すぎた四日間が、一つの景色の中へ収まっていた。
*
海上連絡船が、ゆっくりと人工島を離れる。
三人は並んだ席に座った。
久我は窓側。
澪は中央。
千鶴は通路側。
手荷物は少ない。
大きな荷物と大量の土産は、すでに配送済みだった。
連絡船が進むにつれて、窓の外の境界島が少しずつ小さくなっていく。
「……また来たいです」
澪が呟いた。
「今度は、本当に観光だけで」
「地下へ続く怪しい扉を見つけても、絶対に開けないでください」
「見つけただけで疑われるんですか?」
「久我さんの場合は、見つけた後に入りますから」
「今度は、空中遊泳をもう一回したいです!」
「私も、もう少し自由に動けるようになりたいですね」
「俺は、次こそ空中で回らずに飛びたいです」
「そこからなんですね」
車内で、澪が自分の注文書を確認する。
八咫烏側の審査が通れば、数週間後、自分専用の高速能力者向けシューズが届く。
千鶴は、小さな紙袋に入った青いガラスの写真立てを確認した。
久我の手元には、長い配送伝票。
同じ旅でも、持ち帰るものはそれぞれ違っていた。
「靴が届いたら、今度は久我さんに鉄片を全部受けさせないような、速くて安全な走り方を覚えます」
「俺を耐久力の基準にしなくていいんですよ」
「明確な目標があるのは良いことです。ただし、焦ってはいけません」
「分かっています」
千鶴も写真立てを見つめる。
「昨日の写真を飾ったら、見るたびに久我さんが空中で回転していることになりますね」
「……別の写真にしませんか?」
「絶対にこれです」
澪が即答した。
*
午後六時頃。
連絡船が東京側のターミナルへ到着した。
境界島では、能力者が街を歩いていることが当たり前だった。
しかし東京側へ戻れば、街はいつもの景色へ戻る。
能力者や特殊体質者が存在していても、多くの一般人はそれに気づかず、日常を送っている。
ターミナルには、三人を送るための八咫烏の車が待っていた。
千鶴は現在の保護先へ。
澪は自宅へ。
久我は最後に、自宅マンションまで送られる。
車へ乗る前。
「久我さん。明日、ちゃんと病院へ行ってくださいね」
「午前八時の予約でしょう。行きますよ」
「報告書より先に病院です」
「病院の後、午前十時までに報告書を提出する予定です」
「今夜のうちに、書ける範囲だけ進めておいた方がよいのでは?」
「旅行の最後に正論を突きつけないでください」
澪と千鶴の意見は、最後まで一致していた。
*
千鶴が先に送迎車を降りる。
小さな写真立ての入った紙袋を、大切そうに持っていた。
「旅行、楽しめましたか?」
久我が尋ねる。
千鶴は少し考えてから答えた。
「はい。大変なことも多くありましたが、それを含めても、来てよかったと思います」
「次は、もっと普通の旅行にしましょう」
「ぜひ」
千鶴は、自分から次の旅行へ参加する意思を示した。
鏡宮家の役目としてではない。
千鶴個人の選択だった。
「お二人とも、ありがとうございました」
車を降りる前に、千鶴は頭を下げた。
「こちらこそ」
「また訓練、よろしくお願いします!」
「脚が完全に治ってからです」
*
次に澪が降りる。
澪は車を降りる直前、久我の固定された右腕を見た。
「本当に、次は私がもっと上手く走りますから」
「俺も、全部を一人で受けようとはしないようにします」
「約束ですよ」
「約束です」
澪は満足そうに笑って車を降りた。
だが、閉まりかけた窓の向こうから、
「病院、絶対に忘れないでくださいね!」
と、もう一度念を押された。
*
午後七時過ぎ。
久我が自宅マンションへ帰った。
四日ぶりの自室。
静かな部屋。
使い慣れた冷蔵庫。
仕事用の机。
きちんとハンガーにかけられたスーツ。
境界島の非日常から、いつもの三十五歳の生活へ戻ってきた。
両腕が使いにくいため、玄関で靴を脱ぐだけでも一苦労だった。
「……空中で回るより、靴を脱ぐ方が大変ですね」
冷蔵庫を開く。
留守中に届くよう設定していた血液パックが、行儀よく並んでいる。
夕食は宅配を頼むことにした。
左手だけでも食べやすいものを注文する。
端末には、
明日午前八時の病院予約。
午前十時の報告書締め切り。
会社からの未読連絡。
境界島から発送された荷物の配送予定。
現実が、まとめて戻ってきていた。
久我は、空飛ぶクジラの青い写真立てを机の上へ置いた。
まだ写真は入っていない。
端末から、昨日の空中遊泳の写真を表示する。
久我が空中で横回転し、澪と千鶴が左右から支えている写真。
「……やっぱり、俺だけ助けられてるな」
それでも削除はしなかった。
写真を注文し、この写真立てへ入れることにする。
最後に、境界島から届いた黒瀬のメッセージを開いた。
『無事に東京へ着いたことを確認しました。次回は、本当に観光だけで来てください』
久我は片手で返信する。
『次回こそ、そのつもりです』
少し考えてから、
『三人とも、また行きたいと言っています』
と付け加えた。
窓の外には、いつもの東京の夜景が広がっている。
境界島は、もう見えない。
それでも、そこで出会った人々と、自分で選んだものと、得た経験は残っていた。
四日前、三人は本名も能力も隠さず、調査目的だけを伏せた旅行者として、能力者の街へ足を踏み入れた。
そこで弱い力を笑われた者と出会い、強さを売る薬の闇を知り、人を縛る繋がりを断ち切った。
そして最後には、プールで流され、空を泳ぎ、土産を選んで帰ってきた。
境界島は、理想だけでできた街ではなかった。
だが、地下に隠されていた悪意だけが、あの島のすべてでもなかった。
強くなりたいと願う者もいる。
今の力を自分なりに使うことを選ぶ者もいる。
誰かに守られる者も、誰かを守る者もいる。
そのどれか一つだけを、正しい生き方として他人へ押しつけることはできない。
三人が境界島から持ち帰ったものは、それぞれ違っていた。
それでも、また三人で訪れたいと思った気持ちだけは同じだった。
四連休最終日の夜。
久我陽介の、長すぎる異能者都市への旅行は、ようやく終わりを告げた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!