35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
金曜日、午後八時過ぎ。
久我陽介は、一週間の仕事を終えて会社から帰宅する途中だった。
境界島での旅行兼調査任務から、数日が経過している。
鉄片の嵐を受け止めた右腕の傷は完全に塞がり、日常生活にも夜の訓練にも全く支障はない。会社の同僚や八咫烏の関係者への土産も、すべて無事に配り終えた。
会社では新しいプロジェクトが動き始め、久我の生活は完全にいつもの『三十五歳の会社員』の日常へと戻っていた。
駅のホームで電車を待っていると、スマートフォンの端末が短く震えた。
皇かれんからの緊急連絡だった。
『今夜、夜間巡回へ参加できますか?』
久我は一瞬だけ、明日の土曜日の予定を頭の中で確認した。
溜まっている洗濯物を片付け、専用冷蔵庫の血液パックの在庫を整理し、あとは泥のように眠るだけ。
特別な予定は何もない。
『参加できます。何がありましたか?』
すぐに、かれんから一枚のスクリーンショットが送られてきた。
見覚えのある、簡素なデザインの画面。
ホテル月影の事件で発端となった、『有料怪異情報サイト』の新着記事のページだった。
ただし、肝心の本文にはぼかしがかかっており、画面の中央には『閲覧価格・五百円』とだけ表示されている。
『今回も五百円なんですね』
『はい。今回は原文の購入と保存をお願いします。もちろん、経費申請は可能です』
『記事を買うところからが任務なんですか?』
『無料の転載Wikiでは、文章が意図的に改変されている可能性があるため、元記事との正確な比較と保全が必要です』
久我は駅のベンチへ座り、八咫烏から指定された調査用の匿名アカウントを使って、その新しい記事を購入した。
決済額、五百円。
領収記録をスクリーンショットで保存する。
久我は記事を読むよりも先に、八咫烏の経費申請用アプリを開き、購入履歴の画像をアップロードした。
「たった五百円でも、これは業務上必要な支出ですからね」
自腹を切らないための素早い行動。
これもまた、三十五歳の会社員として培われた立派な生存技術だった。
*
経費申請を終え、久我は改めて購入した記事の本文に目を通した。
記事タイトル。
『午前零時十三分、使われていないホームへ最後の電車が来る』
記事の本文は、これまでと同様に極めて短く、簡素なものだった。
場所と、実行すべき手順だけが事務的に書かれている。
『一、金曜日の午後十一時五十分までに、東霞町駅の旧三番ホームへ入る』
『二、消灯した赤い出口案内板を、携帯電話で三回撮影する』
『三、午前零時十分になったら、黄色い線の線路側へ立つ』
『四、トンネルを向いて「まだ帰りたくない」と口にする』
『五、午前零時十三分に到着する電車の三両目、三番扉から乗車する』
そして、記事の末尾には、小さくこう付け加えられていた。
『帰宅する意思がある方には推奨しません。行先表示は確認しないでください』
久我は眉をひそめた。
電車に乗った後に、どうやって現実へ帰るのか。
その肝心な部分が、どこにも書かれていない。
記事の手順を読み、久我はすぐにその危険性へ気づいた。
まず、駅の閉鎖区画への無断侵入を明確に促している。
そして、安全対策のない黄色い線の線路側へ立たせる。
終電間際の暗い地下施設で、到着するはずのない電車へ乗れと書いてある。
さらに、帰還方法の保証がない。
仮に怪異が存在しなくても十分に危険だ。
ただの悪質ないたずらであったとしても、一般人が線路へ転落する事故が容易に起こり得る。
『これ、怪異が出なくても、普通に鉄道事故か転落事故になりますね』
久我がメッセージを送ると、かれんから即座に返信があった。
『そのため、管轄の鉄道会社と地元警察へは、すでに連絡を入れています』
ただし、警察や鉄道会社の一般職員全員へ、怪異が実在すると正直に説明しているわけではない。
表向きには、
『危険な都市探索情報がネットで拡散している』
『旧ホームへの侵入予告が多数ある』
『違法な動画配信者が深夜に集まる可能性がある』
という、現実的な警備対応として処理されている。
一部の秘密研修を受けた責任者だけが、これが八咫烏案件であることを知っているのだ。
*
午後九時前後。
久我は帰宅せず、そのまま指定された八咫烏の施設へと向かった。
ミーティングルームへ入ると、同行者である杖原つかさがすでに待機していた。
境界島編では千鶴と澪が中心だったため、杖原と組むのは久しぶりだ。
杖原の足元には、携帯結界具、強力な小型照明、簡易認識阻害用の札、救急用品一式、無線機、そして鉄道施設用の反射材つき作業服とヘルメットが準備されていた。
「お疲れ様です、久我さん!」
「準備が早いね」
「魔法少女ですから! いつでも出動可能です!」
久我もスーツの上着を脱ぎ、表向きには『鉄道会社から委託された地下設備安全調査員』として、用意された作業服へ着替えた。
打ち合わせには、久我、杖原、モニター越しのかれん、八咫烏の情報担当者、鉄道会社の秘密研修済み管理職一名、そして現地の警察と連携する八咫烏の担当者が参加した。
情報担当者が、現在の状況を説明する。
「現場となる『東霞町駅・旧三番ホーム』には、これまで正式な怪異の記録は一切存在しません」
東霞町駅の一番線と二番線は、現在も通常営業している。
だが旧三番ホームは、約十五年前の路線改修によって使用が停止されていた。
線路は途中で分厚いコンクリートによって封鎖され、現在は保守資材の一時置き場、非常用通路、電気設備の点検区画としてのみ使用されている。
当然、一般客が入れる場所ではない。
大きな鉄道事故の記録もない。
自殺が多発する駅でもない。
戦災の跡地でもなく、過去の失踪事件もなく、八咫烏の怪異記録もなく、都市センサーの継続的な反応もない。
つまり、現時点では『怪異が存在する理由に乏しい、ただの古い駅の施設』だ。
「都市センサーにも、記事が掲載される前の明確な異常反応はありませんでした」
情報担当者がモニターへグラフを表示する。
「ただし、記事が掲載されてから約十分後。現地周辺で、Tier4の最低基準にも届かない、ごく微弱な因果律改変反応が断続的に記録され始めています」
この時点では、原因は特定できない。
記事を読んだ何者かが能力を使ったのか。
もともと観測できないほどの小さな怪異が潜んでいたのか。
ネット上で同じ物語が共有されたことで、その場所へ何らかの影響が生じたのか。
あるいは、ただの観測誤差か。
都市センサーで分かるのは、位置と反応の強さだけ。
能力の具体的な内容や、使用者の特定まではできない。
*
次に、久我が購入した元記事と、情報担当者が保存した『無料Wiki版』の比較が行われた。
久我は二つの文章を並べて読み、すぐに違和感へ気づいた。
「……『七人から乗りたいという返信を集める』なんて手順、俺が買った元の有料記事にはありませんよ」
Wiki版には、元記事にはなかった項目が、しれっと追加されていたのだ。
『六、赤い案内板の写真をSNSへ投稿し、七人以上から「乗りたい」という返信をもらうこと』
『七人分の乗客希望が集まると、終電の到着率が上がる』
この追加手順を書いた編集者は匿名だった。
編集理由の欄には、
『海外の似た儀式と同じ。人数を揃えた方が成功しやすいはず』
とだけ書かれている。
確かな根拠はない。
元記事の運営者が意図的に追加した証拠もない。
単なる一般利用者の、悪ふざけの思いつきにしか見えない。
しかし、『七人』という具体的な数字と、『乗りたい』という明確な同意の言葉が、怪異へ新たな規則を与える可能性は否定できない。
さらに、記事の文章自体も、Wikiでは微妙に刺激的で、怖さを煽るように書き換えられていた。
元記事。
『午前零時十三分に到着する』
Wiki版。
『午前零時十三分、必ず到着する』
元記事。
『帰宅する意思がある方には推奨しません』
Wiki版。
『帰りたくない人間だけが、乗車資格を得られる』
元記事。
『行先表示は確認しないでください』
Wiki版。
『行先表示を見た人間は、現実の駅へ戻れない』
Wikiの利用者が、元の淡々とした情報を、読みやすく、怖く、ネットで拡散しやすい『完璧な都市伝説』へと無自覚に加工しているのだ。
「元の記事も十分に危険ですけど、Wikiの方は、完全に怪談として完成させようとしていますね」
杖原が顔をしかめる。
「曖昧なところを、閲覧者が勝手に自分たちの想像で埋めているんでしょうね」
「問題は、その想像の補足が、単なる創作で終わるとは限らないことです」
かれんが厳しい声で指摘する。
人々の共有認識が因果へ影響するこの世界では、大勢が同じ補足を信じ込めば、本来は存在しなかった規則が、怪異のルールとして新たに追加される可能性があるのだ。
*
「元の記事を書いた人は、このWikiの存在を知っているんでしょうか?」
久我が尋ねる。
「不明です」
情報担当者が答えた。
「Wiki側は過去の有料記事をほぼすべて無断で保存していますが、有料サイトの運営者側から抗議や削除要請が行われた形跡は一切ありません」
「同じ運営者が、両方をやっているという可能性は?」
「否定はできません。ただし、記事の文体、投稿に使用された経路、更新時間帯には明確な違いがあります」
現時点で分かっていることは少ない。
有料サイトの運営者とWiki管理人が同一人物であるとは限らない。
Wikiの編集者は複数存在する。
今回『七人』の手順を足した者も、管理人とは限らない。
有料サイトの運営者が、記事の変質を望んでいるのかも不明。
ここで、すべてを一つの巨大な陰謀としてまとめることはできなかった。
午後十時過ぎ。
久我と杖原は、鉄道会社の業務車両で東霞町駅へと移動を開始した。
かれんは八咫烏の施設に残り、遠隔からの情報支援を行う。
車内で、久我は手元の端末を開き、記事の購入者数の推移データを確認した。
午後八時三分、公開。
午後八時十五分、購入者二十三人。
午後八時三十分、購入者百人超。
そして、Wikiへの転載後、SNSで爆発的に拡散された。
午後十時時点で、元記事の購入者は三百人を超えている。
無料Wikiの閲覧数は、すでに数千に達していた。
SNSのタイムラインでは、
『本当に電車が来るのか』
『今夜、誰か現地で検証しろ』
『現地からのライブ配信希望』
『乗りたい』
『帰りたくない』
『どうせ宣伝だろ』
といった投稿が、滝のように流れている。
大多数の人間は、怪異の存在など信じていない。
それでも、何千人もの人間が、
『午前零時十三分に、東霞町駅の旧ホームへ、存在しない電車が来る』
という全く同じ光景を、同じ時刻に想像しているのだ。
「信じていない人の書き込みでも、怪異へ影響はあるんでしょうか?」
杖原が不安そうに尋ねる。
「完全に信じ切っている人ほどではないでしょうけど、これだけ同じ物語を具体的に想像させられれば、その場へ何らかの形を与える効果はありそうですね」
久我は、断定を避けながら慎重に答えた。
*
午後十時四十分頃。
東霞町駅。
通常営業中の駅構内では、一般客がいつもどおりに電車へ乗り降りしている。
駅の一部で『設備点検中』の黄色い看板が出ているだけだ。
旧三番ホームへ続く正規の通路は、鉄道会社の職員と警察官によって、すでに厳重に封鎖されていた。
しかし、駅に隣接する古い地下商店街側には、完全には塞ぎきれていない複数の非正規の侵入経路が存在している。
「昼間に一度、すべての封鎖を物理的に確認しました」
同行する鉄道会社の職員が、図面を見せながら説明する。
「しかし、SNSで情報が拡散された後、柵が再び人為的に動かされた形跡があります。すでに何人かが内部へ侵入している可能性が高いです」
「旧ホーム内の監視カメラは?」
「残念ながら、奥のものは一部が故障しています。ただ、電源を切っていたはずの案内板が、数回だけ不自然に点灯した記録が残っています」
最後の点灯記録が怪異の兆候なのか、単なる老朽化による漏電なのかは不明だ。
久我と杖原は、鉄道会社の職員二名とともに、暗い旧通路へと足を踏み入れた。
一般の職員には、あくまで『危険な侵入者の捜索と、設備確認の同行』として説明している。
久我は魔眼を使う。
ただし、《内在時間》は使わない。
確認できるのは、人が最近通った真新しい足跡、埃を払った壁の手の跡、切断された簡易チェーン、飲みかけのペットボトル、スマートフォン用の三脚を立てた跡、そして壁に目印として貼られた赤い矢印シール。
都市探索者たちが、後続の仲間のために侵入経路を意図的に残しているのだ。
途中で、一般の侵入者を二組発見した。
最初の二人は、高校生くらいの少年。
怪談を試すつもりではなく、SNSで旧ホームへ入れるらしいと知って、ただの肝試し感覚で見に来ただけだった。
久我たちは、老朽化による崩落の危険があると厳しく説明し、鉄道職員へ引き渡して退去させた。
次の三人は、大学生のグループ。
赤い案内板を撮影しようとしていた。
彼らも怪異など信じておらず、
「写真だけ撮って、すぐに帰るつもりだった」
と主張した。
杖原が冷静に対応し、外へと誘導した。
この時点で、五人を確保した。
しかし、現場の埃の中には、まだ新しい靴跡が残っている。
最低でも、あと三人がこの暗闇の中に潜んでいる。
*
旧資材室の奥。
今回の中心となる配信者グループの三人が、息を潜めて隠れていた。
須藤健太、二十歳。
小規模な都市探索系配信者。
有料記事を公開直後に五百円で購入し、今回の肝試し企画を立てた張本人だ。
目的は純粋に動画の再生数であり、怪異の存在など微塵も信じていない。
大庭湊、十九歳。
須藤の友人であり、撮影・配信担当。
専門学校を辞めたことを家族へまだ言えず、毎晩、意味もなく帰宅を遅らせている。
表向きは須藤と軽口を叩いているが、『家へ帰りたくない』という重い感情だけは本物だった。
佐倉美月、二十歳。
二人の友人。
都市伝説企画への同行者だが、鉄道会社と警察が動いているのを見て、途中から本気で危険を感じ、
「もう帰ろう」
と提案している。
三人とも、ごく普通の一般人だ。
能力者でもなければ、裏社会の存在も知らない。
久我たちがほかの侵入者を退去させている間、須藤はスマートフォンでのライブ配信を止めなかった。
視聴者は最初、二百人程度だった。
しかし、鉄道会社と警察が動いて封鎖しているという情報がSNSへ流れ、
「公式が必死に止めるということは、本当に何かあるのではないか」
と注目が集まり、視聴者数が急激に増え始めた。
「ほら見ろよ。公式が必死に止めるってことは、何かヤバいもの隠してるんだろ」
須藤が興奮気味に囁く。
「普通に不法侵入だから止められてるだけじゃない?」
佐倉が呆れたように返す。
大庭はカメラを回しながら笑っているが、彼のスマートフォンには、家族から何件も着信が入っていた。
大庭は、それをすべて無視していた。
*
午後十一時半頃。
旧ホーム全体を慎重に確認していた久我が、天井から吊り下げられた赤い出口案内板を見た。
電源はとっくに切断されている。
それにもかかわらず、赤色の部分だけが、ごく弱く、まるで呼吸するように光って見えた。
一般の鉄道職員には見えない。
杖原にも、霊的な反応が薄く感じられる程度だ。
だが、久我の魔眼にははっきりと見えていた。
案内板。
床の黄色い線。
奥の暗いトンネル。
そして、止まっているはずの駅の時計。
それらが、細い『因果の線』で繋がり始めている。
まだ、完成した怪異ではない。
記事に書かれた手順に沿って、案内板、黄色い線、時計、トンネルという物語の部品が、この場所の中で一つずつ繋がり始めている段階だ。
「……記事の手順どおりに、この場所が『役割』を持ち始めています」
久我が低く呟く。
「元からこの駅にいた怪異が、動き始めたんですか?」
杖原が警戒する。
「まだ分かりません。元からあったものが形を得ているのか、それとも、今ここで新しく作られているのか……」
久我はかれんへ状況を報告した。
かれんは安全を優先し、鉄道職員を順次退避させるよう指示した。
以後、現場には久我と杖原を中心に残すことになる。
*
午後十一時四十五分。
須藤たちのライブ配信が、旧三番ホームから再開された。
彼らは、鉄道職員の目を盗み、別経路からホームへと出てきたのだ。
須藤が、薄暗く光る赤い案内板の写真を撮影し、SNSへ投稿する。
Wikiの追加手順どおりに、
「一緒に乗りたい人は『乗りたい』と返信してください」
と視聴者へ呼びかけた。
投稿から数十秒。
一人目。
二人目。
三人目。
七人の返信は、一瞬で集まった。
その後も返信が雪崩のように増え続ける。
『乗りたい』
『俺も』
『終電まだ?』
『連れていって』
『帰りたくない』
『次の駅で待ってる』
視聴者の大半は、ただの冗談のつもりだ。
だが、同じ言葉が何百件もタイムラインに並ぶ。
八咫烏の都市センサーに、旧ホームを中心とする明確な異常反応が出始めた。
最初はTier4の最低基準付近。
数秒ごとに、その反応が確かなものへと安定していく。
『……現地でTier4反応を確認しました。発生源は旧ホーム周辺。能力系統および使用者は特定できません』
かれんからの緊急連絡。
「使用者がいるとは限りませんよ」
久我が答える。
「この場所そのものが、怪異へと移行している可能性があります」
*
久我と杖原が、ホームにいた配信者三人へ接触した。
表向きは安全調査員として、
「設備異常が確認された。直ちに退去してほしい」
と告げる。
須藤は、
「もう少しで零時十三分だから」
と拒否した。
佐倉は怖がり、帰ろうとしている。
大庭は、ホームの奥、暗いトンネルを見つめたまま、ぼんやりとしていた。
久我の魔眼には、大庭だけがほかの二人より濃く、トンネルの奥へと細い因果の線で繋がって見えた。
「……あなたは、本当に帰りたくないんですか?」
久我の問いに、大庭は一瞬だけ動揺を見せた。
「記事の台詞ですよ。みんなで言うんです」
須藤が横から口を挟む。
「……まあ。今日は、帰らなくてもいいかなとは、思ってますけど」
大庭は軽口の形を取っていたが、それは彼の中にある嘘偽りのない本心だった。
少なくとも久我の魔眼には、ネットへ書き込まれた無数の言葉よりも、大庭の内側にある本心の方が、強くトンネルの奥へ繋がっているように見えた。
駅の時計が、午前零時十分を示した。
パチン、パチン。
電気を切っているはずの旧ホームの照明が、一つずつ、順番に点灯していく。
現在使われている白いLEDではなく、古い駅で使われていた、黄ばんだ色温度の照明だ。
通常ホーム側から聞こえていた電車の走行音やアナウンスが、急に遠く、くぐもった音になる。
久我の無線もノイズが混じり、途切れがちになった。
須藤のライブ配信だけは続いている。
映像にはブロックノイズが入り始めているが、音声は届いている。
コメント欄が異様に盛り上がる。
『演出すごい』
『鉄道会社の企画だろ』
『本当に光った』
『乗りたい』
『帰りたくない』
杖原が、いつでも結界を張れるように携帯結界具を準備する。
ただし、まだ一般人三人が近くにいるため、目立つ形での展開はできない。
久我は、三人を黄色い線の線路側から無理やり離そうとした。
佐倉は怯えて従う。
須藤は撮影を優先して逃げる。
だが、大庭だけが、まるで何かに呼ばれたかのように、無意識に黄色い線の線路側へ一歩進み出てしまった。
*
午前零時十二分。
赤い出口案内板が、完全に点灯した。
ただし、その矢印は地上の出口を指していない。
トンネルの奥、深い暗闇の方を指している。
ホームの電光掲示板に、存在しない表示が浮かび上がった。
『0:13 最終』
『三両編成』
『行先――表示不能』
久我が目を凝らす。
行先の欄は、単に文字化けしているのではない。
見る者ごとに、違う場所を示そうとして揺れているのだ。
自宅。
もう戻れない過去。
本当に行きたかった場所。
誰にも知られない場所。
それらが何重にも重なり合い、表示として確定できていない。
記事の、
『行先表示は確認しないでください』
という注意書きは、単なる雰囲気作りの文句ではなかった可能性が出てきた。
久我は、大庭の視線を身体で遮った。
「その表示を見ないでください」
「何でですか?」
「今は、説明している時間がありません」
午前零時十三分。
時計の秒針が、十二を指した。
都市センサーの反応が、正式なTier4として完全に固定される。
ホーム全体が、
ゴゴゴ……。
と、僅かに揺れた。
本来、線路が途中でコンクリートによって封鎖されているはずの、暗いトンネルの奥から。
ガタン、ゴトン。
と、重い列車の走行音が響いてきた。
線路は完全に錆びついている。
電気も通っていない。
それでも、その音は確実に近づいてくる。
佐倉がようやく事態の異常性を理解し、本気で怯え始めた。
須藤は、
「来た! 本当に来た!」
と興奮して配信画面へ叫ぶ。
視聴者数が一気に増加し、コメント欄が『乗りたい』の言葉だけで埋め尽くされていく。
大庭の身体の輪郭が、ふっと薄くなった。
完全に透明になるわけではない。
現実の駅のホームから、『別の駅の乗客』へと、存在の所属が移り始めているのだ。
久我が大庭の腕を力強く掴む。
一瞬だけ、手応えが遠く、すり抜けそうになった。
「久我さん。トンネルの中に、何かいます」
杖原が小声で告げる。
暗闇の奥に、二つの白い前照灯が、ぬうっと姿を現した。
久我は魔眼で、近づいてくる列車を見た。
車体は、まだ完全には存在していない。
古い地下鉄車両。
現在の新型車両。
昔の通勤電車。
誰かの記憶にある最終電車。
複数の電車の姿が重なり合い、何百人もの人間が抱いた像を寄せ集めるように、今まさに一つの姿を形作ろうとしている。
昨日まで、この場所に怪異の記録はなかった。
一時間前まで、あの線路の奥に電車など存在しなかった。
だが今夜、有料記事を読んだ者、Wikiへ転載した者、手順を書き足した者、配信を見た者、『乗りたい』と書いた者、本当に帰りたくないと願った者が、同じ終電を待ったのだ。
そこには、昨日まで怪異など存在しなかった。
少なくとも、八咫烏の膨大な記録には、そう残されている。
だが今夜、何百人もの人間が、同じ時刻に、同じホームへ、同じ終電が来ると想像した。
本当に信じていた者は、ほとんどいなかった。
それでも、存在しないはずの電車は、確かに暗いトンネルの奥から近づいていた。
午前零時十三分。
東霞町駅旧三番ホームへ、最初の乗客を迎える終電が到着した。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!