35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
平日の午後七時過ぎ。
久我陽介は会社での業務を終え、八咫烏が管理する能力者保護施設の共用室へと足を運んでいた。
事の発端は、数時間前に皇かれんから届いた簡潔なメッセージだった。
『鏡宮千鶴さんが、久我さんに直接相談したいことがあるそうです』
久我は最初、千鶴がまたどこかで怪異の気配を感じ取ったのか、あるいは《神鏡返し》の能力に関する新しい相談事だと思っていた。
しかし、共用室のドアを開けた瞬間、その予想は外れていたことを悟った。
部屋の中央にあるテーブルには、格式高い厚手の封筒がぽつんと置かれていた。
千鶴は、いつも以上に背筋をピンと伸ばし、妙に硬い姿勢でテーブルの前に座っている。少し離れた場所では、澪がお菓子を囓っていたが、彼女なりに場の空気を読んで、音を立てないように静かにしていた。
「これは……」
久我が封筒を一瞥する。厚手の白い和紙に、鏡宮家の重厚な家紋が墨でくっきりと印刷されている。
「……鏡宮家からですか?」
「はい。今後について話し合いたいと、正式な申し入れがありました」
千鶴が静かに答える。
久我は反射的に警戒心を強めた。しかし、同席していたかれんが、手元のタブレットを見ながら説明を加えた。
「この書状は、京都の鏡宮家から直接送りつけられたものではありません。八咫烏の京都支部を通じて、東京側の本部へと正式に転送されてきたものです」
つまり、鏡宮家は千鶴が現在八咫烏の保護下にあるという法的な手続きを、完全には無視していないということだ。
「危険物、呪術的な術式、認識を誘導するような仕掛け、位置を特定するための追跡術などは一切組み込まれていないことを、こちらで事前確認済みです」
封筒の宛名には、『鏡宮千鶴殿』とだけ書かれていた。
かつて京都で千鶴を縛り付けていたはずの『次期当主』や『神鏡返し継承者』といった重い肩書は、どこにも付記されていない。
中には二通の書面が入っていた。
一通目は、鏡宮家からの正式な面会申入書。
久我もその内容を見せてもらう。文面は、驚くほど穏当なものだった。
千鶴の現在の健康と東京での生活を案じていること。今後の生活について、まずは本人の意向を直接確認したいこと。《神鏡返し》の今後の扱いについて協議したいこと。鏡宮家との安全な連絡方法を決めたいこと。
そして、面会の場所と日時は千鶴側の都合を最大限尊重すること。必要であれば、八咫烏の職員が立会人として同席することも受け入れる、とまで明記されていた。
久我が警戒していたような『即刻京都へ帰還せよ』という高圧的な命令は、一言も書かれていない。家督継承を今すぐ承諾しろとも書かれていない。境界島事件の遠因となった《鎮鏡の儀》への参加要請すら、この段階では意図的に伏せられている。
鏡宮家側も、いきなり強硬な要求を突きつけて関係を完全に決裂させるのではなく、まずは『正式な対話のテーブル』を作ろうとしているのが読み取れた。
二通目は、和紙の便箋だった。
千鶴の母親からの、手書きの短い手紙。
『千鶴と、直接話す機会をいただきたいと思っています。返事を待っています』
たったそれだけだ。
謝罪の言葉も、何かの弁明もない。「帰ってきなさい」という命令でもない。感情を極限まで抑え込んだような、短すぎる文章。
千鶴は、正式な申入書よりも、母親の書いたその一行の文字を、食い入るように長く見つめていた。
「……思っていたより、ずっと普通の申し入れですね」
久我が素直な感想を口にする。
「はい」
千鶴が、ポツリと呟く。
「ですから、どう返信すればよいのか、すっかり分からなくなってしまいました」
もし『今すぐ帰れ』という強い命令であれば、単純に拒否すればよかった。しかし、相手が筋を通し、正式な対話を求めてきた以上、千鶴もまた、自分自身の考えをきちんと言葉にして返さなければならなくなったのだ。
*
「一応、自分なりに返信の文案は作ってみたのですが」
千鶴が、テーブルの上に裏返して置いていた一枚の便箋を、そっと久我の方へ押し出した。
久我はそれを受け取り、目を通す。
文章は非常に丁寧で、古風な言い回しが使われ、書状としての形式も完璧に整っていた。
しかし、その内容は。
『ご配慮を賜り、謹んで面会をお受けいたします。今後につきましては、家のご判断を伺い、その意向に従い――』
久我は、そこで読むのをピタリと止めた。
「……千鶴ちゃん。これ、本当に千鶴ちゃんが今、一番したいこと?」
「面会には応じようと思っています」
「そこじゃない。『家の意向に従う』という部分」
千鶴はハッとしたように黙り込んだ。少し経ってから、伏し目がちに答える。
「……従うと決めたわけではありません」
「じゃあ、この一文は絶対に書かない方がいい」
「ですが、実家への正式な返書は、まずはこう書いて相手を立てるのが正しい礼儀だと、幼い頃から教わってきました」
「相手の顔を立てることと、自分が完全に相手へ従うと事前に約束してしまうことは、全くの別問題だよ」
千鶴には、文章を書く能力がないわけではない。むしろ、同年代の高校生と比べれば非常に高い文章力を持っている。
ただし、鏡宮家で叩き込まれたその見事な書式の中には、『家の判断を受け入れ、従う者として言葉を紡ぐ』という強固な前提が、最初から呪いのように組み込まれているのだ。
*
久我に指摘された千鶴は、小さくため息をつき、最初の文章を破棄した。
数分後。千鶴は新しい便箋に、サラサラと二通目の案を書き上げた。
今度は、先ほどとは打って変わって極端な内容だった。
『私は鏡宮家へ帰還する意思はありません。家督継承および儀式参加にも一切同意しません。今後、私の意思を無視した理不尽な要求には一切応じません』
久我が苦笑する。
「今度は、ずいぶんと威勢よく喧嘩を売ってるね」
「自分が従わないという意思を、明確にしたのですが」
かれんが、横から冷静に指摘する。
「千鶴さん。鏡宮家は現時点の書面では、帰還も、家督継承も、儀式の参加も、一言も要求していませんよ」
「今はしていなくても、面会すれば後から必ず要求してくると思います」
「その可能性は高いでしょう。しかし、まだ相手が言葉にしていない要求までを、すべて先回りして完全に拒否してしまうと、相手からは『面会そのものを強硬に拒んでいる』と読まれてしまいます」
千鶴は、少しだけ不満そうに唇を噛んだ。
少し離れた場所でクッキーを食べていた澪が、横からひょっこりと顔を出した。
「ねえ、じゃあさ。『話はするけど、その場では絶対に何も決めません』でいいんじゃない?」
久我、千鶴、かれんの三人が、一斉に澪を見た。
「……え、私、何か変なこと言った?」
「いや。たぶん、澪さんのその言葉が、今回の手紙で一番大事なところだね」
久我が深く頷いた。
*
久我は、千鶴が便箋に直接文章を書き込もうとするのを手で制した。
「まず、真っ白なコピー用紙を一枚もらおう」
久我は用紙をテーブルの中央に置き、一番上に『今回の返信で決めること』と書き込んだ。
千鶴が不思議そうに首を傾げる。
「手紙の文章を書くのではないのですか?」
「文章を整えるのは一番最後でいい。まず、千鶴ちゃんが相手に『何を伝えたいか』を整理して決めよう」
久我は、会社で気難しい顧客へ重要なメールを返信する時と全く同じように、頭の中の項目を紙の上で整理し始めた。
「一、面会するかどうか」
「します」
迷いはあったはずだが、千鶴の答えは即答だった。
母親とは直接話したい。自分が知らないままにしておきたい家の事情も、これ以上逃げずに知っておかなければならない。
「二、どこで会うか。京都へ行くか、東京で会うか」
「東京での面会を希望します」
千鶴が理由を付け加える。
「現在は八咫烏の保護下にありますし、京都へ入れば、物理的にも霊的にも、鏡宮家側の土地と人員の中へ完全に入り込むことになります。話し合いだけなら、東京でも十分にできるはずです。それに……自分が実家の要求を断った場合に、そのまま歩いて帰れる場所で会いたいのです」
「分かった。でも、手紙に『京都へ行くのが怖いから』とか『断った時のため』なんて正直な理由は書かなくてもいい。『東京での面会を希望する』とだけ書けば十分だよ」
「……理由を書かなくてもよいのですか?」
「向こうから聞かれたら、その時に説明すればいい。最初の一通目の返信で、自分の内情をすべて説明し尽くす必要はないよ」
「なるほど」
「三、誰と会うか。鏡宮家側から誰が来ることを望む?」
千鶴は、母親との直接面会を強く希望した。
ただし、個人的な感情の話だけではなく、家としての正式な話し合いになるため、鏡宮家の実務担当者が一名同席することまでは認めるという。大人数の一族会議のように、大勢に囲まれる状況だけは避けたかった。
「母と、二人だけでは駄目でしょうか」
かれんが首を振る。
「個人的な家族の話と、名家としての正式な話がどうしても混ざります。実務担当者が一人いる方が、後から『言った・言わない』のトラブルになりにくいのです」
久我もそれに同意した。鏡宮家側からの出席者は、母親を含めて二名まで。
「四、八咫烏側の同席者」
千鶴は最初、自分を保護しているかれんを立会人として指名した。かれんは職務上、当然同席が可能だ。
その後、千鶴はスッと久我の方を見た。
「……久我さんにも、同席していただくことはできますか」
久我が驚いて目を丸くする。
「俺? 家同士のドロドロした交渉なんて、ただの会社員の俺には完全に専門外だよ」
「交渉の矢面に立っていただきたいのではありません」
「じゃあ、何のために?」
「……私が、家の圧力に押されて言いたいことを言えなくなった時に、今ここで決めた『私の意思』を思い出させてほしいのです」
久我は、すぐには答えなかった。
かれんが、制度上の整理を口にする。
「久我さんを、千鶴さんご本人が指名する『私的な支援者』として同席させることは十分に可能です。ただし、八咫烏の公式な代表者としての発言権はありません」
「……それでいいなら、同席するよ」
久我の言葉に、千鶴がホッとしたように小さく頭を下げた。
「じゃあ、私も行く?」
澪が身を乗り出す。
「澪さんは、来なくて大丈夫です」
「……即答だった」
千鶴の迷いのない一言に、澪が少しだけ肩を落とした。場の空気が軽く戻る。
「五、今回の面会で何について話すか」
千鶴が、いくつか項目を挙げていく。
千鶴の現在の生活状況。今後の鏡宮家との連絡方法のルール。《神鏡返し》という能力について家がどこまで把握しているか。亡き祖母が残した記録の内容。家督についての、現在の鏡宮家側の考え。そして、《鎮鏡の儀》が具体的に何のための儀式なのか。
ただし、千鶴はこれらをすべて、一度の面会で結論を出すつもりはないと言う。
「それなら、話し合う議題のリストを、面会前にあらかじめ送ってもらおう。当日、準備なしでいきなり重い話を振られて、その場で即答する必要はない」
「……家族との話し合いにも、事前に議題の提出が必要なのですか?」
「家族のややこしい話だからこそ、ビジネスライクな線引きが必要なこともあるよ」
家族との話し合いを、事前に議題を整理した正式な交渉へ置き換える。
久我にとっては、仕事で何度も使ってきた、ごく当たり前の自衛策だった。
「最後。六、今回の面会で『決めない』こと」
ここが最重要だ。
鏡宮家への帰還。家督の正式な継承。《鎮鏡の儀》への参加。京都での長期滞在。《神鏡返し》の能力の管理権。そして、将来の婚姻や後継者に関する話。
今回の面会に応じることは、決してこれらへの同意を意味するものではない。
「婚姻の話まで、こちらから先に書くのですか?」
千鶴が少し顔をしかめる。
「先方が今回の申入書で議題として提示していない以上、こちらの最初の返信へわざわざ入れる必要はありませんよ」
かれんの冷静なアドバイスに、久我も頷く。
「向こうが言ってきてもいない不安なことまで、全部先回りして書くと、手紙が長くて重くなるからね」
千鶴は少しだけ安心したように息を吐いた。自分が頭の中で考えている不安を、すべて一つ残らず手紙の拒絶条項にしなくてもよいのだ。
*
用紙への要件整理が終わった。
久我が、そのメモを元に文章の骨格を作ってみせる。
『ご連絡ありがとうございます。面会の件、承知しました。以下の条件にて日時の調整をお願いいたします』
千鶴がそれを読み、率直な感想を口にした。
「……なんだか、冷たい会社の業務連絡のようです」
「俺が書くと、どうしてもそういう癖が出るね」
「正式な交渉文の滑り出しとしては、要点が明確で良いと思いますよ」
かれんがフォローする。
「『いつもお世話になっております』は入れないの?」
澪の無邪気な質問に、久我は首を振った。
「相手は一応家族だから、そういう定型句は入れないよ」
「私は、鏡宮家には長年お世話になって生きてきましたが」
「千鶴ちゃん、意味としては全く間違ってないんだけど、そういう話じゃないんだ」
そこへ、夜間巡回の準備を終えた杖原が合流してきた。
事情を聞いた杖原は、自信満々に提案する。
「こういうのは、文章の最後に『何卒よろしくお願いいたします』と書いておけば、大体のことは柔らかく収まりますよ!」
「内容によります」
かれんが即座に切り捨てる。
「絵文字は?」
「絶対に入れません」
千鶴が真顔で返す。
軽い会話を挟みつつ、たった一通の手紙の作成が、妙に大人数の賑やかな共同作業になっていった。
*
久我がキーボードを叩き、文章を完璧に代筆してしまいそうになった。
しかし、久我は途中でピタリと手を止めた。
「……ここから先の本文は、千鶴ちゃん自身が書いた方がいい」
「ですが、久我さんの方が、誤解のない適切な文章を書けると思います」
「文章の形を整えることは俺にもできる。でも、最終的に『何を望んでいるか』を自分の言葉で決められるのは、千鶴ちゃんだけだよ」
千鶴は小さく頷き、整理したコピー用紙を見ながら、新しい便箋に自分で書き始めた。
最初は、無意識のうちに古風な表現へと戻りかけた。
『面会の儀、謹んで――』
そこで千鶴は筆を止めた。その便箋を横へ退け、また新しい便箋を取り出す。
『ご書状を受け取りました。今後についての面会には応じます』
簡潔で、飾り気のない文章。
続けて、自分の条件を書き連ねていく。
『面会場所は、東京にある八咫烏の施設を希望します』
『母上と直接話す時間を設けてください』
『鏡宮家側の同席者は、母上を含め二名までとしてください』
『八咫烏の立会人と、私が指名する支援者を同席させます』
『話し合う内容と必要な資料は、事前にお送りください』
そして、先ほど皆で話し合った最重要部分。
『今回の面会に応じることは、鏡宮家への帰還、家督の継承、《鎮鏡の儀》への参加に同意することを意味しません。それらについては、話を聞いた後に改めて考えます』
最後の一文で、千鶴はペンの動きを止めて少し迷った。
手元にある、母親からのたった一行の短い便箋をもう一度見る。
千鶴は、静かに書き足した。
『私も、母上と直接話したいと思っています』
家に従う者としての言葉ではない。母親を完全に拒絶しきる言葉でもない。
自分自身の意思で、会うことを選んだ文章だった。
*
書き上げた便箋を、久我が読ませてもらう。
久我が添削するのは、文章の美しさではなく、実務的な誤解の可能性だけだ。
「まずここ。『二名までとしてください』は、少し命令口調が強く見えるから、『母上を含め、二名までのご出席を希望します』に変えよう。ただし、希望とはいえ、人数は曖昧にしすぎないこと」
千鶴が素直に修正する。
「次に、『話し合う内容と必要な資料』。ここは『当日の議題と、判断に必要となる資料』にしよう。こうしておけば、鏡宮家が面会当日に、事前に出していない新しい要求を突然持ち出してくるのを防げる」
「なるほど」
「最後にここ。『改めて考えます』を、『説明を受けた後、私自身が判断します』にするのはどうかな?」
久我は勝手に書き換えず、どちらが自分の意思に近いかを千鶴へ確認した。
千鶴は少し考えてから、後者を選んだ。
「……はい。『考える』だけではなく、『自分が判断する』と明記しておきたいです」
久我が修正しなかった部分が一つだけある。
『私も、母上と直接話したいと思っています』
会社の業務連絡としては、全く不要な一文だ。しかし、これは千鶴の私的な手紙であり、最も彼女本人の素直な言葉が出ている部分だったからだ。
*
かれんが最終的な文面を確認する。
千鶴の手紙の内容には口を出さず、実務上の不足だけを補足していく。
「鏡宮家には、日程候補を三つ出してもらいましょう。面会時間は最長でも二時間以内。会場は八咫烏の施設。儀式用品、鏡、呪物、能力発動を補助する物品の持ち込みは一切禁止。面会内容はすべて録音・記録する。その場での署名・押印は一切行わない。千鶴さん本人が希望すれば、いつでも面会を中断できる……」
ただし、これらすべての防衛条件を千鶴の私信へ書くと、手紙がとんでもなく重く、攻撃的なものになってしまう。
そこでかれんは、送付する書類を『千鶴本人からの返信』と、『八咫烏からの公式な面会条件書』の二つに分けることにした。
千鶴の手紙には、本人の意思だけを書く。警備、記録、持ち込み制限などの実務的な条件は、八咫烏側が公文書として添付する。
「一つの手紙に、全部の条件を詰め込まなくてもいいんですね」
久我が感心したように言う。
「手紙の役割が違います。千鶴さんは面会への意思を伝える。安全面での条件交渉は、保護を担当する八咫烏が組織として提示します」
千鶴一人に、すべての防御条件を背負わせない。組織が守る部分と、本人が決める部分を明確に分けたのだ。
*
最後に、手紙への署名。
千鶴は一度、無意識にペンを走らせかけた。
《鏡宮家次期当主 鏡宮千鶴》
幼い頃からの、長年の重い習慣だ。しかし、千鶴は途中でピタリと筆を止めた。
久我は何も言わず、静かに見守っていた。
千鶴はその便箋を横へ退け、新しい便箋の最後に、丁寧に書き直した。
《鏡宮千鶴》
たったそれだけ。
家を捨てたわけではない。鏡宮という姓も使っている。しかし、まだ自分が完全に受け入れると決めていない重い肩書を、自分の署名へ付けることはしなかった。
「……それだけでいいの?」
澪が覗き込んで言う。
「今は、これが私の名前ですから」
千鶴は、静かに、しかし確かな声で答えた。
*
完成した返信を、封筒へ入れる前に全員で最終確認する。
久我が、会社で重要なメールを外部へ送信する前の癖で、手紙の文面を声に出して読み上げ始めた。
「……声に出して読むのですか?」
「頭の中で読むだけだと気づかない、変な重複や言い回しが見つかるからね」
読み上げてみると、果たして一箇所、「面会には応じます」という似たような表現が二回続いているのを発見した。片方を削除して整える。
「普通の会社員の技術が、名家との重い交渉にバリバリ使われていますね!」
杖原が感心する。
「いや、技術と言うほど大層なものじゃないよ」
「送付前の声出し確認を習慣化できる人は、社会人でも意外と多くありませんよ」
かれんの言葉に、久我は少しだけ得意な顔になった。
澪が、完成した手紙を封筒へ入れようとする。
久我が慌てて止めた。
「待って! 添付書類!」
八咫烏側が用意した公式の面会条件書を、うっかり入れ忘れかけていたのだ。
「あぶなっ。久我さんがいなかったら、私、普通に送り忘れてたね」
「……同席をお願いして、本当によかったです」
千鶴が安堵のため息をついた。
*
返信は、八咫烏の正式な連絡経路を通じて、京都支部へと送られることになった。
千鶴自身が封筒のフラップを折り、しっかりと封をする。
かれんへ渡す直前、千鶴の手が一度だけピタリと止まった。
「まだ、直したいところがある?」
久我が優しく問う。
「いいえ。ただ、これを本当に送れば……本当に、面と向かって話すことになるのだと思って」
「どうしても気が進まないなら、やっぱり送らないという選択肢もあるよ」
「……送ります」
久我は、背中を押すような言葉をあえて重ねなかった。
千鶴が自分自身の意思で手を動かし、かれんへと重い封筒を渡した。
「確かにお預かりします」
これで、鏡宮家への最初の返信は完了した。
大げさな演出は何もない。しかし千鶴にとっては、家から与えられた文面をただ書き写すのではなく、自分自身の条件と思いを書いた、初めての書状だった。
*
重い手紙の作成作業を終え、全員が少しだけ気を抜いた。
澪が、残っていたクッキーを皆に配る。
「これで次は、面会当日に着る服を決めるんですね!」
杖原が明るく言う。
「高校の制服では駄目でしょうか」
「制服でも問題はありません。ただし、鏡宮家側が正式な和装で来る可能性は高いです」
かれんが答えると、千鶴は少し悩んだ。
「では、私も鏡宮家の正式な装いをするべきでしょうか」
「千鶴ちゃんが、当日『どの立場』で会いたいかによるんじゃないかな」
久我の言葉に、澪がクッキーを囓りながら言う。
「境界島の旅行で買った、普通の可愛い服でいいんじゃない?」
千鶴は少し考え込んでから、首を振った。
「……まだ決めません」
「それでいいよ。今日決める必要があったのは、返信の手紙だけだからね」
その言葉を、久我はもう一度千鶴へ返した。
全部を、一度に決めてしまう必要はないのだ。
*
翌日の夜。
久我の端末に、かれんから連絡が入った。
鏡宮家が千鶴からの返信を正式に受領し、提示した面会条件を『原則として受け入れた』という報告だった。
東京での開催を了承。会場を八咫烏施設とすることを了承。母親と実務担当一名が出席。八咫烏および千鶴の支援者の同席を了承。当日の即座の決定を求めない。議題と資料を事前送付する。日程候補を三つ提示する。
久我が予想していたような、激しい反発はなかった。
「全部、すんなりと受け入れたんですか?」
「現時点の書面上は、そうなります」
千鶴は安堵するよりも、少し戸惑っているようだった。
「……絶対に、断られると思っていました」
「どうして?」
「私が家に対して条件を付けるような真似を、家が許すとは思っていなかったからです」
「鏡宮家の上層部が何を考えているかは、まだ全く分かりません。ただ、少なくとも今回は、千鶴さんの出した条件に対して、正式な回答が来ました」
かれんは、家側を善人とも悪人とも確定しなかった。
ただ、正式な対話の入口だけが、辛うじて成立したのだ。
鏡宮家の正式な回答とは別に、母親から短い追伸が添えられていた。
『承知しました。東京へ伺います。千鶴が自分で決めたことを、直接聞かせてください』
そこには、謝罪の言葉はまだない。「帰ってきて」とも書かれていない。
だが、千鶴が提示した条件を、頭ごなしに無視してはいなかった。
千鶴はその追伸の文を静かに読み、すぐには返事をしなかった。
少し経ってから、久我に尋ねた。
「久我さん」
「うん?」
「面会の当日に言うことも、先に文章へまとめておいた方がよいでしょうか」
「まとめた方がいいと思う。でも、今日慌ててやる必要はないよ」
「では、また後日に相談をお願いします」
「分かった」
「久我さん、完全に千鶴の文章係になったね」
澪が笑う。
「俺はただの添削係だよ。手紙の内容は全部、千鶴ちゃんが自分で決めてる」
「はい。久我さんには、私が手紙に余計なことを書いていないか、確認していただいています」
「……もう少し、言い方があると思うけどな」
久我が苦笑し、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
*
帰宅後。
久我は自宅のソファに座り、今日の出来事を振り返った。
激しい戦闘もなければ、不気味な怪異も出なかった。ただ、一人の女子高生が、実家へ向けて手紙を一通返しただけだ。
しかし、その一通には、確かに彼女の意思が宿っていた。
会う。ただし東京で。支援者を同席させる。事前に議題を確認する。その場では絶対に決めない。最後は自分で判断する。
それは、千鶴自身の意思だった。
鏡宮家から届いた書状に、千鶴は従うとも、拒絶するとも書かなかった。
会って話す。
ただし、場所も、同席者も、話す内容も、すべて自分で確認する。
そして最後に判断するのは、自分自身だと伝えたのだ。
それは会社で交わされるメールなら、特別でも何でもない、ごく当たり前の内容だった。
だが、鏡宮千鶴が家へ返した手紙としては、おそらく生まれて初めてのものだった。
彼女が書いた署名には、家督も、継承者も、次期当主の肩書も付いていない。
ただ一人の少女の名前だけが、そこに静かに書かれていた。
――鏡宮千鶴。
家と話す準備は、ようやく始まったばかりだった。
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