35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第46話 吸血鬼、女子高生たちに自宅を点検される

 土曜日の午前。

 

 午後三時から予定されている『住環境点検』に向けて、久我陽介は朝から自宅の掃除に精を出していた。

 

 普段から部屋は整頓されているため、本来は大掃除など全く必要ない。しかし、何かをしていないと落ち着かず、洗面台の僅かな水垢をスポンジで落とし、ベッドの下へ念入りに掃除機をかけ、キッチンの普通の冷蔵庫の棚をアルコールで拭いた。

 

 次に寝室へ入り、部屋の隅に鎮座する『血液パック専用冷蔵庫』の外装を丁寧に拭き上げた。外部保冷バッテリー周辺の埃も取り除き、スマートフォンの管理アプリを開く。

 

 《庫内温度:正常》

 

 《外部電源:正常》

 

 《外部保冷バッテリー:待機中》

 

 《電子錠:施錠》

 

 《現在庫数:十二》

 

 本人認証を行って電子錠を解錠し、黒い専用庫の扉を開ける。内部に並んだ血液パックを数えると、アプリ上の在庫数と一致していた。

 

 久我はそこで、ふと我に返った。

 

「……これから点検される前に、自分で点検を終わらせてどうするんだ」

 

 自分でも、なぜここまで落ち着きなく部屋を磨き上げているのか、少しおかしくなった。

 

 しかし、『女子高生を含む三人が、自分の自宅へ来る』と改めて頭の中で反芻すると、やはりどうにも落ち着かないのだ。

 

 かれんは八咫烏の仕事の担当者。千鶴は自分が支援している保護対象。澪は同じ吸血鬼の仲間。

 

 全員、関係としては極めて健全であり、やましいことは何一つない。

 

 しかし、もし会社の同僚に「今日の午後、女子高生たちが俺の自宅を見に来るんだ」と馬鹿正直に説明したら、間違いなく、そして致命的なレベルで誤解される。

 

「……これ以上、余計なことを考えるのはやめよう」

 

 久我は思考を切り離し、玄関の三和土を見た。来客用のスリッパがない。

 

 次にキッチンの食器棚を見る。普段自分が使っている地味なマグカップが一個と、昔どこかでもらった販促品の安っぽい予備カップが一つあるだけだ。四人分には、明らかに足りない。

 

 結局、久我は日傘を差して近くのコンビニまで急いで向かい、紙製の簡易スリッパ、紙コップ、ペットボトルのお茶、個包装の無難なお菓子を購入してきた。

 

 久我の自宅には、吸血鬼として非常事態を生き延びるための十六万円の生命維持設備が、完璧に揃っている。

 

 しかし、休みの日に平穏な客を迎えるための、千円程度の備品が全くないのだ。

 

       *

 

 午後三時ちょうど。

 

 インターホンが、時間ぴったりに鳴った。

 

 久我が玄関のドアを開けると、そこには皇かれん、鏡宮千鶴、七瀬澪の三人が、行儀よく並んで立っていた。

 

 かれんは、点検用の機材が詰まった黒いビジネスバッグを肩に掛けている。千鶴は、手に小さな紙袋を持っている。澪は、完全に身軽な手ぶらだ。

 

「……本当に、三人並んで連れ立って来ると、思っていたより圧があるな」

 

「本日は公式な住環境点検です。別に、圧力をかけに来たわけではありませんよ」

 

 かれんが真面目な顔で返す。

 

 三人が玄関へ入る。久我は、さきほどコンビニで買ってきたばかりの紙製の簡易スリッパを、袋から出して三人分並べた。

 

 澪が、新品のスリッパを一目見て気づいた。

 

「久我さん、これ、今日のために急いで買ったでしょ」

 

「どうして分かったの?」

 

「だって、ペッタンコすぎるもん。さっき袋から出したばっかりの形してる」

 

 千鶴が、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「私たちが、研修名目で急に同行することになったからでしょうか。お手数をおかけして申し訳ありません」

 

「違う違う。千鶴ちゃんたちが悪いんじゃなくて、この家に『誰かが来る』ということ自体が、今までほとんどなかっただけだから」

 

 久我が正直に答えると、三人が少しだけ、居心地が悪そうに黙り込んでしまった。

 

「……本当に気にしないで。さあ、中へ」

 

 久我は慌ててスリッパを勧め、かれんたちをリビングへと案内した。

 

       *

 

 リビングのローテーブルを囲んで座り、かれんが現地点検の目的を事務的に説明し始めた。

 

 久我が吸血鬼になった直後、八咫烏は遠隔でのヒアリングを行っている。

 

 さらに、登録事業者を通して、専用冷蔵庫、外部保冷バッテリー、鍵付き収納箱、予備温度センサーを設置し、八咫烏側もそのネットワーク登録をしっかりと確認している。

 

 ただし、その時に確認したのはあくまで、『血液パック保管設備および機密物品保管設備』だけだった。

 

 住居全体についての、日光の侵入経路、停電時の屋内動線、火災時の避難、一般人が室内にいる場合の安全、能力使用に伴う周辺被害、救急用品、そして現在の総合的な生活状態まで調べる正式な現地点検は、まだ受けていなかった。

 

 その後、久我は魔眼を発現させ、《血装》を習得し、複数の現場へ参加し、大量失血と重傷を経験し、境界島へ滞在し、八咫烏から現場協力を求められる機会も、登録直後とは比較にならないほど増えている。

 

 登録直後とは明らかに生活条件が変わったため、今回、住居全体の現地点検が行われることになったのだ。

 

「今回確認するのは、日光対策、停電時の安全、血液パック保管設備、緊急時の解錠と救助導線、火災時の避難、吸血衝動への備え、能力使用による住宅損傷の可能性、機密物品の保管、一般人への秘匿、救急用品、そして心身の生活状態です」

 

 久我は説明を聞き、差し出された点検同意書へ電子署名をした。

 

 かれんは、横に座っている千鶴と澪にも、厳しく釘を刺した。

 

「二人はあくまで見学者です。久我さんの明確な許可なく、戸棚、引き出し、冷蔵庫、収納を開けたりしないでください」

 

「えっ、じゃあ専用冷蔵庫も?」

 

 澪が身を乗り出す。

 

「私が開けます」

 

「前に久我さんと一緒に買ったから、もう中身の構造とか機能は全部知ってるんだけどな」

 

「今日は正式な点検です」

 

 かれんに一蹴され、澪は大人しく引き下がった。

 

       *

 

 正式な点検を始める前に、三人が改めてリビング全体をぐるりと見回した。

 

 家具は、灰色のシンプルなソファ、黒か濃い茶色のローテーブル、テレビ台、小さな本棚、仕事用のデスク、そして食事用の椅子が一脚。

 

 壁には、絵も、写真も、ポスターも、カレンダーも、装飾品も、何もない。

 

 必要な物だけが、使いやすい場所へ機能的に配置されているだけだ。

 

「……ここ、本当に人が住んでる?」

 

 澪がポツリと呟いた。

 

「今、君の目の前に住人がいるよ」

 

「整理されているというより、最初から備品が置かれている、短期滞在用のモデルルームのようです」

 

 千鶴の率直な感想に、久我が少しだけ言い訳をするように答える。

 

「物が少ない方が、掃除が圧倒的に楽なんだよ」

 

 かれんはタブレットの点検表へペンを走らせた。

 

 《整理整頓:良好》

 

 《避難動線:良好》

 

「整理整頓と動線については全く問題ありませんね」

 

「部屋の面白さは?」

 

「点検項目にはありません」

 

 澪の軽い冗談を、かれんはバッサリと切り捨てた。

 

       *

 

 まず、玄関と防犯設備の点検から始まった。

 

 確認する項目は、一般的な玄関錠、ドアチェーン、インターホン、覗き穴、宅配ボックスの利用状況、不審物への対応、緊急連絡先、そして日中の光の侵入だ。

 

 久我は、不審な荷物を不用意に開けず、八咫烏へ連絡する手順をしっかりと守っている。八咫烏への緊急連絡方法も、玄関収納の扉の裏側に記録してあった。

 

 防犯面は文句なしの合格だ。

 

 ただし、かれんは玄関の天井を見上げて、一つ目の指摘をした。

 

「停電時に玄関を照らす、常設の補助灯がありませんね」

 

「暗くても、吸血鬼の俺には普通に見えますから」

 

「久我さん自身が、自分の足で玄関まで歩ける状況の場合はそうでしょう。しかし、久我さんが動けず、一般の救急隊員や施設の職員がこの部屋へ入る場合はどうしますか?」

 

「あ……」

 

 久我は言葉に詰まった。

 

 この家では、久我の生命維持に直接関わる設備は厳重に整えられている。だが、それぞれの設備は個別に完結しており、一般人が救助に入った場合の住居全体の動線までは整えられていなかったのだ。

 

 玄関への充電式非常灯の設置が、最初の改善項目に入った。

 

       *

 

 点検時刻を午後三時に設定したのは、西日が差し込む状態を実際に確認するためだ。

 

 かれんが小型の紫外線測定器を取り出した。

 

 リビング。

 

 現在使っている遮光カーテンは、十分な厚みがあった。ただし、完全密閉型の専用品ではないため、端に僅かな隙間があり、太陽の位置によっては細い光が床へ差し込んでしまうことが測定器で判明した。

 

「そこには、日中は近づかないようにしています」

 

「通常時の運用としては問題ありません。ただし、負傷時や緊急避難時には対策が必要です」

 

 磁石式の遮光テープか、側面カバーを追加することになった。

 

 寝室。

 

 ここは厳重だった。二重カーテンになっており、窓からベッドへ直接日光が届く可能性は極めて低い。専用冷蔵庫も、窓から離れた安全な位置に設置されている。

 

 ここは文句なしの合格だった。

 

「久我さん、寝室だけすごく本気だね」

 

「寝ている間だけは、自分で光を避けられないからね」

 

 浴室。

 

 ここで意外な問題が発覚した。上部にある曇りガラスの小窓から、時刻によっては強い紫外線が入り込んでくるのだ。

 

 久我は夜しか入浴しないため、完全に問題にしていなかった。

 

「しかし、日中に血を洗い流したり、火傷や日光曝露の処置を行ったり、誰かを浴室へ運んで手当てする可能性もあります」

 

 管理会社の許可を取った上で、浴室用の紫外線対策フィルムを追加施工することになった。

 

       *

 

 いよいよ、血液パック保管設備の点検だ。

 

 三人が寝室へ入る。部屋の隅には、黒いホテル用の小型冷蔵庫風の専用保管庫が鎮座している。

 

 その横には外部保冷バッテリーユニット。少し離れた場所には、予備の温度センサー。扉の上部には、目立たない電子錠が設置されている。

 

 千鶴は、それを初めて見た。

 

「これが、血液パック専用の冷蔵庫なのですか」

 

「そう。あの時、十六万円くらいしたやつ」

 

「澪さん、頼むから金額から紹介するのはやめてくれないかな」

 

「私も買う時に一緒にいたから、鮮明に覚えてるんだよ」

 

 澪が楽しそうに笑う。

 

 かれんが久我に解錠を求めた。

 

 久我がスマートフォンのアプリから暗証操作を行い、電子錠をカチャリと開く。

 

 アプリの画面には、開閉履歴、温度記録、現在庫数、異常履歴がずらりと表示される。

 

 庫内には血液パックが種類ごとに綺麗に整理されている。普通の食品は一切入っていない。パックの管理ラベルとアプリの在庫数も、見事に一致している。

 

 かれんは、主センサー、予備センサー、庫内の温度差、扉の密閉度、パッキンの状態、電子錠、通信状態、アプリ通知、外部バッテリーの残量などを、専用の機器を使って細かく確認した。

 

「……すべて正常です」

 

 久我は少しだけ得意になった。

 

「ここは高い金を払いましたからね。完璧ですよ」

 

「適切な設備投資でした。非常に優秀です」

 

「……あの時、同じことを言われて十六万円払った気がしますね」

 

       *

 

 かれんが、短時間の停電試験を行う。

 

 事前に冷蔵庫の現在温度と外部バッテリー残量を記録し、久我の許可を得て、部屋の主電源を落とした。

 

 パチン、と音がして、室内の照明が消える。千鶴には何も見えなくなった。久我と澪は、暗闇に目が慣れれば周囲の輪郭を把握できる。

 

 その直後。

 

 寝室の専用冷蔵庫から、ピピッという小さな電子音が鳴った。同時に、専用庫との近距離接続を通じて、久我のスマートフォンが振動する。

 

 《外部電源の喪失を検知》

 

 《外部保冷バッテリーモードへ移行しました》

 

 《庫内温度:正常》

 

 《予備センサー:正常》

 

 かれんの点検端末にも、冷蔵庫側から正常な切替情報が表示された。外部バッテリーは問題なく自動で起動し、庫内の温度も全く動いていない。

 

「ほら。あの時、高いバッテリー買っておいてよかったでしょ」

 

「君は何年越しで営業担当側に立ってるんだよ」

 

「血液パック保管設備は、停電対策を含めて全く問題ありません。完璧です」

 

 停電試験は、わずか三十秒だった。それでも、かつて十六万円を払って揃えた設備が、仕様どおりに久我の生命線を守ることは十分に確認できた。

 

 しかし、リビングには非常灯がないため、千鶴は暗闇の中でテーブルの端へ手を添えたまま、全く動けずにいた。

 

 かれんが点検用ライトを点ける。

 

「保管庫は正常です。しかし、人間が室内を安全に移動するための設備が足りませんね」

 

「冷蔵庫の方は完璧なのに?」

 

「血の方が、人間より暗闇に強い家だね」

 

「澪さん、すごく嫌な言い方だな」

 

 電気を戻した後、かれんが専用冷蔵庫の緊急解錠先を確認した。

 

 現在も、『八咫烏の二十四時間生活支援窓口』が登録されている。

 

 久我が事故や事件で連絡不能となり、医療上の必要性が認められた場合のみ、厳重な記録を残して遠隔解錠される仕組みだ。クローゼット内の鍵付きスチール収納箱も、同じ窓口が登録済みである。

 

「登録先に変更はありませんか?」

 

「ありません。個人へ鍵を預けるより、二十四時間対応の専門窓口の方がずっと確実ですから」

 

 久我の答えは、決して寂しさからくるものではない。現在でも、制度上は最も合理的で安全な選択なのだ。

 

 ただし、千鶴が室内を見回しながら、静かに気づいた。

 

「このお部屋は、久我さんが意識を失った時に、八咫烏の方が入ってくることは想定されているのですね」

 

「まあ、非常時にはね」

 

 千鶴は、まだその続きを言わなかった。

 

       *

 

 次は台所だ。

 

 こちらは、ごく普通の白い家庭用冷蔵庫。血液パックを寝室の専用庫へ移したため、現在は普通の食品しか入っていない。

 

 卵、ハム、牛乳、豆腐、納豆、野菜、作り置きのタッパー、麦茶、冷凍食品。

 

「こっちには、本当に血は一本もないんだね」

 

「血を飲む時は寝室の専用冷蔵庫。普通の食事をする時は台所。物理的に完全に分けた方が、気分が落ち着くんだよ」

 

 千鶴は、久我の人間としての生活と、吸血鬼としての生活が、この部屋の中で物理的に明確に分けられていることを理解した。

 

 普通の食品の管理は、それなりだった。腐らせてはいないが、専用冷蔵庫ほど厳密ではない。

 

「血液パックは温度も本数も全部アプリで管理してるのに、納豆の管理は普通なんだね」

 

「納豆の残りパック数を、毎日アプリへ登録する必要はないだろ」

 

「通常の食事も健康管理上は重要です。ただし、現状で問題はありません」

 

 続いて、クローゼットへ移動。

 

 床へしっかりと固定済みの、鍵付きスチール収納箱。

 

 中には、八咫烏から支給された装備、軍用ナイフ、黒いフードなどの簡易装備、特殊医療用品、紙で保管する必要がある正式書類、協力者証関連、そして現場用の消耗品が、綺麗に分類されていた。

 

 かれんが、錠、不正解錠履歴、収納品一覧、危険物と書類の分離、持出記録を細かく確認する。すべて問題なし。

 

「こっちもすごくきれいだね」

 

「必要な物は、すべて種類ごとに整理されていますね」

 

「仕事道具だからね。いざという時に探してる暇はない」

 

       *

 

 洗面所の救急箱。

 

 中には、消毒液、包帯、ガーゼ、絆創膏、市販薬、体温計、日光曝露時の処置用品が入っている。

 

 吸血鬼用の特殊な処置用品は、期限内だった。しかし、一般用の絆創膏やガーゼは古く、一部は使用期限が近いか、過ぎていた。

 

 久我自身は、小さな傷ならすぐに治るため、使わなくなったのだ。

 

「吸血鬼になってから、普通の絆創膏って全然使わなくなるよね」

 

「ですが、ここで負傷するのが吸血鬼とは限りません」

 

 久我は、停電時の非常灯と同じ構造に気づいた。一般人や、人間の千鶴がこの部屋で怪我をした場合には、これらが必要になるのだ。

 

「設備業者や救助職員が入ってくる可能性は考えていても、その方々が室内で怪我をする可能性までは考えていなかったのですね」

 

 一般人用救急用品の更新が、改善項目に加わった。

 

 点検の途中で、久我が休憩を提案した。

 

 買ってきた紙コップへ、ペットボトルのお茶を注ぐ。

 

 食器棚にマグカップが二つしかないことを、澪が改めて確認した。

 

「本当に、マグカップ二個だけなんだ」

 

「一人暮らしなら、それで足りるよ」

 

「今、四人いるよ?」

 

「だから、紙コップを買ってきたんだよ」

 

「来客があるたびに、買いに行くのですか?」

 

「来客があったのが、今日くらいだから」

 

 この時、千鶴が先ほどの言葉の続きを口にした。

 

「このお部屋は、久我さんが意識を失った時に、八咫烏の方が入ることは完璧に想定されています」

 

「ですが、久我さんが元気な時に、誰かを招いて一緒に過ごすことは、ほとんど想定されていないのですね」

 

 久我は否定できなかった。

 

 非常時の解錠権限はある。救助者が保管庫へアクセスする制度もある。しかし、平穏な客を迎えるための客用カップはない。

 

「倒れた時に来る人の準備は完璧なのに、遊びに来る人の準備は全くしてないんだね」

 

「……言い方を変えただけで、急にものすごく寂しい部屋になるな」

 

 久我の苦笑いに、三人も少しだけ笑った。

 

       *

 

 クローゼット内の避難動線を確認していると、スチール収納箱の隣に、普通の段ボール箱が一つ置いてあった。

 

「こちらは私物ですので、開ける必要はありません」

 

 かれんは明確に線引きをした。澪も勝手に触ろうとはしない。

 

「いや、危険な物じゃないよ」

 

 久我自身が、その箱を引き出した。

 

 中身は、数世代前の家庭用ゲーム機、コントローラー二つ、数本のゲームソフト、文庫小説、映画のパンフレット、そして古い携帯音楽プレーヤーだ。

 

「久我さん、ゲームするんだ」

 

「昔はね」

 

「壊れているのですか?」

 

「たぶん、繋げばまだ動くと思うよ」

 

「では、なぜ箱に?」

 

 引っ越した時に、とりあえず箱へ入れた。仕事が落ち着いたら出そうと思っていた。しかし、そのまま何年も経った。

 

「出す切っ掛けがなかったんだよ」

 

「時間がなかったんじゃなくて?」

 

「休みの日は疲れて寝るか、次の週の仕事の準備をしてたからね。似たようなものかな」

 

 千鶴は部屋をもう一度見た。

 

 生命維持設備はある。仕事道具はある。組織のための装備もある。

 

 趣味の物だけが、箱に入っている。

 

「久我さんのお部屋には、久我さんが好きだから、見える場所へ置いている物がほとんどありませんね」

 

「必要な物は、全部あるよ」

 

「必要な物じゃなくて、好きな物の話だよ」

 

 久我は言葉に詰まった。

 

「久我さんは、私のように選ぶことを禁じられていたわけではありません」

 

 千鶴は自分の経験と重ねつつも、同一視はしなかった。

 

「ですが、自分のためだけに何かを選ぶことを、ずっと後回しにしていたのではないでしょうか」

 

「我慢していたつもりはないんだけどな」

 

「はい。私も、自分が我慢しているとは、思っていませんでしたから」

 

 かれんは点検担当者として、冷静に線を引いた。

 

「趣味の有無は、住環境点検の合否には影響しません」

 

「じゃあ公式には問題なし?」

 

「生活の継続性や精神状態の安定は、能力管理と無関係ではありません。しかし、趣味を持つよう命令する制度はありません」

 

       *

 

 リビングへ戻り、かれんが正式な点検結果を読み上げた。

 

 《合格》

 

 血液パック専用冷蔵庫、庫内温度管理、予備温度センサー、外部保冷バッテリー、停電時の自動切替、電子錠、開閉履歴、スマートフォン通知、在庫管理、八咫烏への緊急解錠登録、鍵付き収納箱、機密情報管理、寝室の遮光、玄関の防犯、能力使用上の安全、吸血衝動への備え。

 

 特に血液保管設備は、正式に高評価だった。

 

 《軽微な改善》

 

 玄関およびリビングへの充電式非常灯、リビングカーテン側面の遮光補強、浴室小窓への紫外線対策、一般人用救急用品の更新、緊急時の室内誘導用表示または手元灯。

 

「初回の現地点検としては、非常に良好です」

 

「改善項目より、冷蔵庫の合格項目の方が長かったな」

 

「十六万円分だからね」

 

「もう金額はいいよ」

 

 澪が元気よく手を挙げた。

 

「非公式の改善項目があります!」

 

「ありません」

 

「客用のカップ。ちゃんとしたスリッパ。お菓子。見える場所に置く趣味の物!」

 

「後半は完全に安全と関係ないよね?」

 

 千鶴が、先日久我からかけられた言葉を、今度は彼へ返した。

 

「すべてを今日一度に揃える必要はないと思います。久我さんが、自分のペースで一つずつ選べばよいのではないでしょうか」

 

 久我は、自分が千鶴に言ったことを、見事に返されてしまった。

 

 ここで、千鶴が紙袋を差し出した。

 

 中には、境界島の海沿いの広場で撮影した集合写真。久我、かれん、千鶴、澪、杖原らが笑顔で写っている。

 

「前回、手紙を手伝っていただいたお礼です」

 

「ありがとう。わざわざ印刷してくれたんだ」

 

「どこに飾るの?」

 

 久我は部屋を見た。置く場所はある。しかし、写真立てがない。

 

「非公式改善項目追加。写真立て」

 

「公式記録には追加しません」

 

「写真立ては、久我さん自身で選んでください」

 

 千鶴は境界島で自分の写真立てを選んだ経験がある。だから、写真立てまで一方的に贈ることはしない。選ぶ部分を、久我へ残したのだ。

 

       *

 

 公式の改善品を、一週間以内に用意することになった。

 

「今から買いに行こうよ!」

 

 澪が提案する。久我は後日にしようとしたが、

 

「今日決める必要はありませんが、今日決めてはいけないわけでもありません」

 

「千鶴ちゃん、その言い回し、便利に使われ始めてない?」

 

 かれんも、紫外線対策用品の規格確認のため同行すると言う。

 

 四人で、近所のホームセンターへ向かうことになった。日中なので、久我は日傘、長袖、手袋、遮光眼鏡をしっかりと着用した。

 

 ホームセンターで、まず公式に必要な物を購入する。

 

 充電式非常灯二個、カーテン側面用の遮光補助材、新しい一般人用救急用品、誘導用の小型手元灯。

 

 浴室用の紫外線対策フィルムは、適合する製品と型番だけを確認する。購入と施工は、管理会社から許可を得た後に行うことになった。

 

 食器売場。

 

「紙コップじゃなくて、客用カップも買おう」

 

 久我は、最も安い白い六個セットを手に取った。

 

「久我さんは、それが好きなのですか?」

 

「安くて、割れた時に同じ物を補充しやすいからね」

 

「好きかどうかを聞いてるんだけど」

 

 久我は売場を見直した。最終的に、自分用として落ち着いた『濃紺』のカップを選んだ。客用には、同じシリーズの色違いを三個。薄い青、赤、黒。

 

「こちらは、点検費用として精算できませんよ」

 

「分かっています。これは自分で買います」

 

 写真立て売場。

 

 ここでは千鶴も澪も意見を言わない。久我が自分で、金属製、明るい木目、黒い無機質な物、装飾の多い物を比較した。

 

 選んだのは、暗めの木目で、細い縁のシンプルな写真立て。

 

 部屋へ馴染むからというだけではない。木の色が、他の家具より少しだけ温かく見えたからだ。

 

「それがよいと思います」

 

 千鶴は、選んだ理由を尋ねなかった。

 

       *

 

 四人で部屋へ戻り、改善作業を行う。

 

 久我が玄関とリビングへ非常灯を設置。千鶴が救急箱を整理。澪が遮光補助材を曲げて貼り、かれんが呆れてやり直させる。手元灯を分かりやすい場所へ設置。

 

「私の能力を使えば、一瞬で真っ直ぐ貼れるんだけどな」

 

「一般住宅の設備作業に、不用意に能力を使わないでください」

 

「速く動くだけだよ?」

 

「失敗も高速になります」

 

「それは怖いな」

 

 新しいカップを洗い、休憩にする。

 

 自然に、久我は濃紺、千鶴は薄い青、澪は赤、かれんは黒を使う。

 

「次に来た時も、これが使えるね」

 

「本当に次がある前提なんだ」

 

「改善確認が必要ですから」

 

「改善確認は、写真報告で十分です」

 

 千鶴と澪が少し残念そうにする。かれんは少し間を置き、

 

「ただし、点検以外の用事で訪問することまで禁止してはいません」

 

 と付け加えた。久我は少し驚いた。

 

 最後に、集合写真を写真立てへ入れる。

 

 置き場所を迷い、最終的にリビングの本棚の上へ置いた。玄関からすぐには見えないが、ソファへ座ると、自然に目へ入る位置だ。

 

「なんでそこ?」

 

「自分が見るための物だからね」

 

 千鶴が小さく笑った。

 

 役に立たない。日光を防がない。血液を保存しない。緊急時に解錠されない。仕事にも使えない。

 

 しかし、久我が自分で選び、自分で見たい場所へ置いた物だった。

 

       *

 

 かれんがタブレットに記録する。

 

 《暫定合格》

 

 《血液保管設備:適合》

 

 《外部電源切替:正常》

 

 《緊急解錠登録:正常》

 

 《残る改善:浴室窓の紫外線対策施工》

 

 これで点検は終了し、三人が帰る。

 

「最初より、少し家っぽくなったね」

 

 玄関で澪が言う。

 

「非常灯が付いただけじゃない?」

 

「それ以外も増えたでしょ」

 

 久我が振り返る。

 

 必要な非常灯。必要な救急用品。必要な遮光材。

 

 そして、必要ではない写真立て。

 

 三人が帰った後。

 

 久我がソファへ座る。

 

 寝室では、血液パック専用冷蔵庫が静かに作動している。

 

 そこには、外部バッテリー、温度通知、電子錠、緊急解錠権限がある。久我が倒れても、八咫烏は中身を守れる。一人暮らしでも、本当に一人だけで生命維持を背負わなくてよい設備だ。

 

 一方、リビングには新しいカップと写真立てがある。

 

 こちらには、遠隔監視も、警報も、電子錠も、緊急手順などない。

 

 誰かが普通に訪ねてきた時に、使うだけの物。

 

 澪からメッセージが届く。

 

『非公式点検結果:客用カップ合格』

 

 千鶴。

 

『写真立ての位置もよいと思います』

 

 かれん。

 

『外部保冷バッテリーの切替試験結果も正常でした。浴室窓の施工日が決まりましたら報告してください』

 

 久我は返信する。

 

『了解。今日はありがとう』

 

 少し迷って、

 

『また来る時は、事前に連絡してください』

 

 と追加した。

 

『また行っていいんだ!』

 

『点検じゃなくても、たまになら』

 

 送信後、少しだけ照れくさくなった。

 

       *

 

 久我の寝室には、停電を検知して自動的に起動する外部バッテリーがあった。

 

 血液パックの温度が上がれば、すぐにスマートフォンへ警告が届く。

 

 久我が意識を失った場合には、八咫烏の二十四時間窓口が正式な手続きを経て保管庫を開けられる。

 

 一人で暮らす吸血鬼が、非常時にも一人きりにならないための設備だった。

 

 だが、今日までこの部屋には、非常時ではない日に誰かが訪ねてくるためのカップがなかった。

 

 新しく増えたのは、非常灯と救急用品。

 

 それから、客用のカップが三つ。

 

 本棚の上には、暗い木目の写真立てが一つ置かれていた。

 

 仕事には使わない。

 

 吸血鬼として生き延びるためにも必要ない。

 

 異常が起きても、警報は鳴らない。

 

 なくても、少しも困らない物だった。

 

 だからこそ久我は、それを箱へ戻さなかった。

 

 安全点検の結果、久我の部屋には一つだけ、点検項目にはなかった物が増えた。

 

 久我が無事な日に、誰かと過ごしたことを思い出すための物だった。




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