35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
土曜日の午後零時。
東京都内にある、八咫烏の保護・面談施設。
普段、久我たちが夜間の訓練に使用している防音施設とは異なる。一般の貸会議室に偽装された外観を持ち、外部組織との正式な面談や、要人との交渉にのみ使用される堅牢な建物だ。
厳重な入退室管理、サーモグラフィや霊的感知を併用した持ち込み物検査、能力反応の常時監視システム、全方向からの高精度な音声記録。さらに、緊急時には部屋ごと隔離される防壁設備や、保護対象者がいつでも安全に外部へ退出できる隠し経路まで用意されている。
千鶴は、面会開始の一時間前にはすでにこの施設へ到着していた。
今日の服装は、京都の鏡宮家で定められていた堅苦しい正装でも、東京で通っている高校の制服でもない。
境界島での旅行中、自分の意思で選んだ、落ち着いた色の私服だった。白いブラウスに、淡い青色のカーディガン、濃紺のロングスカート。足元は装飾の少ない歩きやすい靴。
鏡宮家の紋が刺繍されたものは、一つも身につけていない。ただし、それは家を完全に拒絶する攻撃的な意思表示でもなかった。
鏡宮家の次期当主としてではなく、『十七歳の鏡宮千鶴』として母親へ会う。そのために、彼女自身が選んだ服だった。
久我が待合室へ到着すると、千鶴は長机の前に座り、手元の資料を何度も繰り返し読み返していた。
机の上には、自分で手書きしたメモが几帳面に並べられている。
面会にあたっての絶対条件。今日必ず話したいことのメモ。その場では絶対に決めない事項のリスト。実務担当者へぶつける質問一覧。そして、耐えきれなくなった場合の面会中断時の合図の確認。
「……千鶴ちゃん。内容はもう、頭に入って覚えてるんじゃない?」
久我が静かに声をかけると、千鶴はビクッと肩を揺らして顔を上げた。
「はい。ですが、こうして文字を読んでいないと、落ち着きません」
久我は、その紙を無理に取り上げたり、「深呼吸して休め」と強制したりはしなかった。
「じゃあ、面会で必要になるまで持っていよう」
「……はい」
千鶴は、震える手でメモを綺麗にまとめ、膝の上へそっと置いた。
*
かれんが待合室へ入り、事務的な口調で面会条件の最終確認を行った。
「鏡宮家側の出席者は、事前通知の通り、千鶴さんのお母様と、実務担当者一名の計二名のみです」
「八咫烏側の同席者は、私、皇かれんと、千鶴さんの私的支援者として久我陽介さんの二名。千鶴さんのご希望により、七瀬澪さんと杖原つかささんは、このフロアの別室で待機します」
面談室内における、絶対的なルール。
面会時間は最長で二時間。全内容を八咫烏のシステムで録音・記録する。鏡、祭具、呪物、能力発動を補助する物品の持ち込みは一切禁止。その場での署名、押印、契約の締結は禁止。能力の使用は禁止。千鶴本人が希望すれば、いつでも即座に面会を中断できる。八咫烏側も、安全上の懸念が生じたと判断した場合は強制的に中断する。千鶴への物理的な接触は、千鶴本人の明確な同意を得る。事前の議題リストにない質問への即答は求めない。
かれんが一つ一つ読み上げ、千鶴が硬い表情で頷いていく。
「千鶴さん。この面会に同意したことは、決して相手の要望へ同意したことを意味するものではありません」
「相手の話を、最後まで律儀に聞く義務もないよ。嫌になったら、いつでも打ち切っていい」
久我が補足する。
「はい。分かっています」
千鶴はそう答えたが、その声はひどく硬く、強張っていた。
*
午後零時五十分。
鏡宮家側の黒い車両が、施設の地下入口へ到着した。
施設職員による厳密な本人確認、荷物検査、身体検査、能力使用の有無のチェックが行われる。禁止物品や電子機器の持ち込みがないか、何重にも確認される。
鏡宮家側は、提示された条件をすべて完璧に守っていた。
千鶴の母親は、鏡宮家の紋が入っていない、落ち着いた濃紺のスーツ姿だった。髪は綺麗にまとめられ、華美な装飾品も、鏡に類する品も一切身につけていない。
付き添いの実務担当者は、書類用の鞄を一つ持っているだけだ。鞄の中の書類も、事前送付済みの資料リストと完全に一致している。
検査上、危険物はゼロ。能力の強制発動や、認識を歪めるような精神干渉も全く検出されなかった。
かれんは、施設側から届いた最終的な確認結果のデータを見て、小さく頷いた。
「問題ありません。予定どおり開始できます」
そう告げ、久我と千鶴を面談室へと案内した。
*
午後一時。
重厚な面談室の扉が、ゆっくりと開いた。
先に実務担当者の初老の男性が入室し、その後ろから、母親が静かに入ってくる。
千鶴は、弾かれたように立ち上がった。
母親も、室内の中央に立つ千鶴を見た瞬間、ピタリと足を止めた。
二人の間に、数秒の重い沈黙が落ちる。
そして、母親が静かに口を開いた。
「千鶴」
千鶴は、その声を聞いて息を呑み、返事ができなかった。
最後に母親から、狂気や錯乱を含まないまともな声で、自分の名前を呼ばれたのがいつだったか。もう、思い出せないほど長い時間が経っていた。
面会のために何日もかけて用意し、直前までメモで反芻していた挨拶も、ぶつけるべき質問も、すべてが千鶴の頭から真っ白に飛んでしまった。
母親はそれ以上千鶴へは近づかず、少し距離を置いたその場で、静かに待った。
「……会ってくれて、ありがとうございます」
母親のその言葉に、千鶴は数秒遅れて、ようやく声を絞り出した。
「……お久しぶりです、母上」
絞り出した声は、痛々しいほど震えていた。
久我は口を挟まなかった。かれんも、手元のタブレットで記録の開始スイッチを押しただけだ。
*
全員が、指定された席へ着く。
座席の配置は、長机を挟んで、千鶴のすぐ隣に久我、斜め後ろの少し離れた位置にかれん。千鶴の真正面に母親、母親の隣に実務担当者。
もし千鶴が立ち上がって部屋を出ようとした場合、母親側の前を通らずに、すぐ後ろの退出用扉から出られる配置になっている。
実務担当者が書類を取り出し、形式的な挨拶と本日の議題の確認から始めようとした。
しかし、母親がそれを手で制し、先に口を開いた。
「形式的なお話より先に、千鶴へ伝えたいことがあります」
実務担当者が、一瞬だけ驚いたような視線で母親を見た。
その光景は、久我や千鶴には『家が用意した台本の進行よりも、母親としての言葉を優先して話そうとしている』ように映った。
母親は、千鶴へ向かって深く頭を下げた。
「あなたが鏡宮の家を出たことを、責めるつもりは全くありません」
千鶴が、信じられないものを見るように目を見開く。
「私は、あなたが何を恐れ、何に苦しんでいるのか、聞こうとしませんでした。鏡宮家の務めを果たすことこそが正しいのだと、ただそれだけを繰り返しました。……母親であるより先に、家の人間としてあなたへ接してしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」
「……母上は、本当にそのように思っておられるのですか」
千鶴が、震える声で問う。
「はい」
母親の返答には、一切の迷いがない。
「もっと早く、そう考えなければならなかったと、今は心から後悔しています」
千鶴は、母親の目を真っ直ぐに見つめた。
以前、京都の屋敷で見た母親の目は、常に焦点がぼやけ、千鶴ではなく、鏡の奥にいる『見えない誰か』を見ているようだった。
だが、今の母親の目は、しっかりと千鶴という一人の娘だけを映している。
そのあまりにも正常な姿に、千鶴は安堵よりも先に、激しい戸惑いを覚えた。
*
千鶴は膝の上のメモへ目を落とし、一つ深呼吸をしてから、最初に絶対に聞きたいと決めていた質問を口にした。
「母上は、今も……私を、別の方と間違えることがあるのですか」
母親は、すぐに否定しなかった。
「あります」
千鶴の膝の上の指先が、ギュッと強張る。
「記憶がごっそりと抜けている時間もあります。自分が誰なのか、分からなくなる時間も。……あなたを、別の名前で呼んだことがあるとも、後から周囲に聞きました」
母親は、自分自身の異常な状態を、隠すことなく正面から認めた。
「ですが、今は、あなたが千鶴だと分かっています。私の、大切な娘です」
千鶴は、何も言えずに俯いた。
ここで母親が、「もう完全に治った」「だから安心して帰ってきなさい」という安易な言葉を使わなかったことが、千鶴の心に重く響いた。
「今日は、あなたとしっかり話せる状態を、整えていただきました」
母親はそう答えた。
久我や千鶴は、それを『投薬や能力抑制の処置を受けて、短時間だけ明瞭な意識を保って外出できるようになったのだろう』と自然に受け取った。
「母上は、京都の土地を離れると、激しく体調を崩されるはずではありませんか」
千鶴が問う。
「以前は、そうでした。今も、長く京都を離れることはできません」
母親は小さく微笑む。
「ですが今日、この時間だけは大丈夫です」
かれんがここで、手元のデータと目の前の母親の様子を僅かに見比べた。だが、表情には一切の疑問を出さなかった。
*
千鶴は、最も重く、核心を突く質問へと進んだ。
「私が《鎮鏡の儀》を受ければ、私は、母上と全く同じ状態になるのですか」
実務担当者が慌てて口を開きかけたが、母親がまたしてもそれを手で制した。
「分かりません」
鏡宮家側の用意した公式な説明であれば、ここは「儀式は安全に改良されている」「母親の症状は特異な例外だ」「千鶴には同じことは絶対に起きない」と、明確に否定して安心させるはずの場面だ。
しかし、母親は断言しなかった。
「少なくとも、絶対にそうならないとは、今の私には言えません。私自身に一体何が起きたのか、私にも全ては分からないからです」
「……現在、外部の第三者機関を交えた厳密な検証を急ピッチで進めております」
実務担当者が、たまらず補足を入れる。
「検証が完全に終わる前に、あなたへ儀式を受けるよう求めるべきではありません」
母親の言葉に、千鶴が問う。
「では、母上は私に、儀式を受けてほしくないのですか」
母親は少し考えてから、ゆっくりと答えた。
「受けるなとも、受けろとも、無責任なことは今の私には言えません。ですが……あなたが内容を理解せず、家の圧力で断れないまま強制的に受けることだけは、絶対に望みません」
千鶴が、ここで初めて、母親の前で少しだけ息を抜いた。ずっと張っていた肩の力が、僅かに下がる。
*
「私は今日、あなたに許してもらうために来たわけではありません」
母親が静かに言う。
「……私は、まだ母上を、鏡宮家を、許したとは言えません」
千鶴が、真っ直ぐに母親の目を見て答えた。
久我は、千鶴がその決定的な拒絶の言葉を、母親の顔を見てハッキリと口にできたことに気づいた。以前の千鶴なら、母親を傷つける可能性のある言葉は、すべて自分の中に飲み込んでしまっていただろう。
母親は怒らなかった。悲しそうに顔を歪めることもなかった。
「それで構いません。謝った側が、いつ許すかを決めることではありませんから」
この返答は、千鶴が心の底で望んでいたものに、あまりにも近すぎるほど正しかった。
かつての母親が持っていた優しさと、深い後悔が、何の嘘もなくそのまま表へと出ているように見えた。
千鶴は目元を強く押さえたが、声を上げて泣き崩れることはしなかった。
*
「東京で、今はどのように暮らしているのか聞かせてください」
母親が、優しい声で尋ねた。
実家への帰還の説得や、家督問題の交渉ではない。千鶴自身の、今の生活に関心を向けてくれたのだ。
千鶴は最初、保護施設の安全性や、現在の訓練状況について事務的に説明した。
八咫烏の施設で安全に生活していること。高校レベルの学習を続けていること。能力の制御訓練を日々受けていること。同じ保護対象である澪や杖原と過ごしていること。そして、久我に様々な相談に乗ってもらっていること。
「楽しいことはありますか」
千鶴の言葉が、そこで止まった。
安全か、家の役に立つかではなく、ただ純粋に『楽しいか』と聞かれた。
千鶴はしばらく考え、
「……境界島へ行きました」
と答えた。
千鶴は、境界島で見たものを少しずつ話し始めた。
空を泳ぐ不思議な体験をしたこと。能力を競技や仕事へ使って生きている人々がいたこと。人間と能力者が、同じ街で普通に暮らしている景色。澪たちと一緒に海沿いを歩いたこと。
そして、自分だけの写真立てを買ったこと。
「写真立てを?」
「はい。青い物を、自分で選びました」
千鶴は、膝の上の両手を握りしめながら言った。
「家のためでも、能力のためでもなく、ただ、私が欲しいと思ったので」
母親は、僅かに目を潤ませた。
「そうですか。……あなたが、自分で欲しい物を選べたのですね」
「写真も飾っています」
「今度、見せてもらえますか」
千鶴は少しだけ迷ってから、「はい」と短く答えた。
鏡宮家の政治や、呪われた能力の話ではない。娘が初めて自分で買った写真立てについて、母親とただの親子の会話ができた。
それが千鶴にとって、どれほど救いになるか、久我には痛いほどよく分かった。
*
母親は、千鶴がまだ幼かった頃の思い出を口にし始めた。
「あなたが小さかった頃。髪を結う時、鏡の前でじっとしていられなかったこと。お稽古を嫌がって、庭の石灯籠の裏へよく隠れていたこと。……熱を出した夜、私の着物の袖を強く握ったまま眠ったこと」
母親の口から紡がれるのは、千鶴しか覚えていないような、家族の細かな記憶ばかりだった。
「大お祖母様に叱られると、いつも黙って私の部屋へ入ってきましたね。甘い物を食べた後だけ、鏡の前でとても素直に笑ってくれました」
千鶴の中で、『目の前にいるのは、紛れもなく自分の母親だ』という認識が強まっていく。
「大きくなりましたね」
「……もう、十七歳です」
「そうですね」
母親は、眩しいものを見るように目を細めた。
「私は、あなたが大きくなる大切な時間を、きちんと見ることができなかったのかもしれません」
その言葉に、千鶴の目から、ポロリと大粒の涙が落ちた。
久我は、静かにその様子を見守っていた。
母親が話す具体的な思い出は、すべて千鶴が幼かった頃のものばかりだ。千鶴が儀式のための厳しい修行を本格化させてからの記憶は、抜け落ちているように語られない。
それは、母親の精神が壊れてからの記憶障害として、極めて自然なことのように受け取れた。
*
母親が、不意に久我の方へ視線を向けた。
「久我さん」
「はい」
「千鶴が自分の言葉で話せるようになるまで、そばにいてくださったと聞いています」
「俺が何かを言わせたわけではありません。千鶴ちゃんが、自分で考えて、自分で決めただけです」
「それでも、一人で孤独に考えなくてよい場所を作ってくださったのでしょう」
久我は少し困ったように頭を掻いた。
「俺だけじゃありません。隣にいるかれんちゃんも、澪さんも、杖原さんもいます。みんなで一緒に考えています」
「ありがとうございます」
母親が深々と頭を下げる。
久我は、「どういたしまして」とは言わなかった。
「これからも、千鶴ちゃん本人が望む範囲で協力します」
正式な代理人や保護者としてではなく、あくまで私的な支援者としての線を、久我は明確に守った。
*
千鶴が、涙を拭い、最も聞きたかった質問を真っ直ぐにぶつけた。
「母上は、私に京都へ帰ってきてほしいと思っていますか」
部屋が、シンと静まり返った。
実務担当者も、一切口を挟まない。
母親は、千鶴を見つめ返して答えた。
「帰ってきてほしいと思う気持ちは、あります」
千鶴の肩が強張る。しかし、母親は続けた。
「鏡宮家の次期当主としてではありません。一人の母親として、もう一度あなたと同じ場所で暮らしたいと思っています」
母親の声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「ですが、その私の願いを叶えるために、あなたが自分自身を失うことを求めてはいけないとも思っています」
「では、私は帰らなくてもよいのですか」
「それを、私が決めてはいけません」
母親は首を振った。
「あなたが戻りたいと思ったなら、戻る。戻りたくないなら、今は戻らない。それをあなたが自分で決められるようになるまで、私は待たなければならないと思っています」
千鶴は俯き、膝の上のメモを強く握りしめた。
「私は、まだ京都へ戻りたいとは思えません」
「分かりました」
母親は、その拒絶を責めなかった。無理に説得しようともしなかった。家の危機を持ち出して情に訴えることもなかった。
事前の面会条件を、完全に守ってくれたのだ。
*
母親が、テーブルの上へ手を出しかけて、一度止めた。
「千鶴。手を握っても、よいですか」
母親が、娘へ触れるのに許可を求めてきた。
千鶴は、そのことに驚いた。以前の鏡宮家では、本人の感情や同意よりも、家の役目や儀式がすべてに優先されていたからだ。
千鶴は、すぐには答えられなかった。久我もかれんも、無理に促したりはしない。
千鶴自身が、テーブルの上へそっと手を出し、
「……はい」
と答えた。
母親が、千鶴の手を両手で優しく包み込んだ。
手は温かかった。体温も、指の形も、千鶴の記憶にある昔の母親の手と全く同じだった。
母親の目から、静かに涙が流れ落ちた。
久我は、その光景に安堵していた。
事前の説明では、「母親は長時間の面会は難しいかもしれない」と聞いていた。
しかし、一時間以上話しても、母親の呼吸は全く乱れていない。視線が虚空を彷徨うこともなく、別の狂った人格が出ることもない。京都から離れたことによる重い症状も出ていない。
千鶴のために、よほど念入りな治療と準備を重ねて、今日のこの場へ来てくれたのだろう。久我はそう信じて疑わなかった。
*
開始から約一時間十五分。
極度の緊張と感情の揺れで、千鶴の疲労が限界に近いと見たかれんが、面会の終了を提案した。二時間を最後まで使い切る必要はない。
この場で確認されたのは、以下の点だ。
今後も八咫烏を経由して書面連絡を続けること。千鶴が希望した場合のみ、次回の面会を調整すること。亡き祖母の私的記録を、第三者の調査機関へ提出すること。母親の現在の医療状態と、過去の儀式の記録を追加提出すること。《鎮鏡の儀》の安全性の検証を継続すること。
京都への帰還は保留。家督継承も保留。そして、その場で何らかの書面に署名することは一切なかった。
鏡宮家側から新しい強硬な条件は出ず、実務担当者も、「千鶴様のご判断を尊重いたします」と述べるに留まった。
全員が立ち上がる。
母親は、再び千鶴の許可なく触れようとはしなかった。
「今日は会ってくれて、本当にありがとうございました」
母親が微笑む。
「次に会える時には、東京での生活や、境界島での旅行の話を、もっと聞かせてください」
「はい」
千鶴は少し間を置き、顔を上げて言った。
「私も、また母上と……お話ししたいです」
「待っています、千鶴」
最後まで、母親は娘の名前を正しく呼んだ。
母親と実務担当者が退室し、重厚な扉が静かに閉まる。
千鶴はしばらくの間、その扉を瞬きもせずに見つめていた。
*
面会を終え、千鶴、久我、かれんは、フロアの奥にある別の休憩室へ移動した。
待機していた澪と杖原が、ソワソワした様子で迎える。
澪がすぐに立ち上がった。
「千鶴! どうだった?」
千鶴は答えようとして、胸がいっぱいになり、声が詰まった。
「ゆっくりでいいよ」
久我が隣から声をかける。
千鶴は一つ深呼吸をして、震える声で言った。
「母上は……私の名前を、呼んでくださいました」
「よかったじゃん」
「お話はできたのですか?」
杖原が尋ねる。
「はい。私が京都へ戻らないと言っても、決して責められませんでした。儀式を受けろとも、家督を継げとも言われませんでした。……写真立ての話も、ちゃんと聞いてくださいました」
「あ、あの青いやつ?」
「はい。今度、見せてほしいと」
千鶴は、目尻の涙を拭いながら、本当に久しぶりに、心からの安心した笑顔を見せた。
「思っていたより、ずっと落ち着いてしっかり話せる人だったね」
久我も安堵して言う。
「本当に良かったですね」
「次は写真、絶対に持っていかないとね!」
澪の明るい声に、その場の空気がようやく緩んだ。
千鶴が、胸の前で両手をぎゅっと握る。
「母上は、私のことを覚えていてくださいました。ずっと、もう私のことなど分からなくなっているのだと、そう思っていました。でも、私が幼い頃のことまで、ちゃんと覚えていて……」
千鶴は、この面会を全面的な和解だとは捉えていない。
まだ鏡宮家を許してはいない。京都へ戻るつもりもない。儀式を受けるとも決めていない。家への警戒も消えていない。
それでも、母親本人とまともに話ができた。自分を娘として認識してもらえた。自分の意思を、頭ごなしに否定されなかった。
その事実だけで、今の千鶴にとっては十分すぎるほどの救いだった。
*
弾むような会話の間、かれんだけが一言も発していなかった。
彼女は手元のタブレットに残された、ごく微弱な能力反応を無言で確認し続けていた。
攻撃ではない。認識干渉でもない。施設の自動判定では危険性なしとして処理された、能力者本人に残る微かな揺らぎにすぎない。
普通の分析担当者なら、それだけで確認を終えていただろう。
だが、かれんはその反応を知っていた。
あまりにもよく知っていた。
画面を見たかれんの指が、ピタリと止まる。
一度、笑顔で話す千鶴を見た。また画面を見る。何かを言おうとして、唇を噛んでやめた。
澪が先に、その異変に気づいた。
「かれん?」
「……はい」
しかし、かれんはそれ以上言葉を続けない。
久我も、かれんの深刻な様子に気づいた。かれんは、どんな悪い知らせでも隠すような性格ではない。それでも、今この瞬間に言うべきかどうか、激しく迷っているのが分かった。
「かれんちゃん。何か、問題があった?」
久我が尋ねると、千鶴の笑顔もスッと消え、かれんを見た。
「……安全上の問題ではありません。面会中に、能力による攻撃や認識干渉が行われた形跡もありません」
「じゃあ、何?」
かれんはすぐには答えなかった。
千鶴が、不安そうに身を乗り出す。
「母に、何かあったのですか」
「その点について、重大な確認が必要です」
かれんの硬い言い方に、千鶴の表情が完全に凍りついた。
かれんはタブレットを閉じた。
千鶴の、これまでの長い苦しみからようやく得られた喜びを、根本から否定するような残酷な言葉になる。だからこそ、慎重に、しかし誤魔化すことなく前置きした。
「皆さんが安心しているところ、大変申し上げにくいのですが」
「うん」
かれんは、千鶴の目を真っ直ぐに見た。
「……母上について、ですか?」
「はい」
かれんは、一呼吸置いた。
「まだ、完全に確定したわけではありません」
「ですが、先ほどの女性は――」
もう一度だけ、言葉を選ぶ。
そして、残酷な事実を告げた。
「恐らく、鏡宮家が用意した『替え玉』です」
千鶴の顔から、先ほどまで浮かんでいた安堵が、完全に消え去った。
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