35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
「恐らく、鏡宮家が用意した『替え玉』です」
皇かれんの静かで残酷な宣告が、休憩室の空気を完全に凍りつかせた。
あまりにも突飛で、そして直前までの安堵と幸福を根本から破壊するその言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
「……え?」
澪が、間の抜けた声を出した。
「替え玉、ですか?」
杖原も、自分の耳を疑うように聞き返す。
「ちょっと待って、かれんちゃん。今まであの部屋で面会していた人が?」
久我は、眉間に深い皺を寄せて確認した。
「はい」
「千鶴のお母さんじゃなかったってこと!?」
「その可能性が、極めて高いという段階です」
千鶴は、何も言わなかった。
かれんの真剣な顔を見つめたまま、微動だにしない。直前まで、母親の温もりを思い出すように胸の前で強く握りしめていた両手が、ゆっくりと力なく下りていく。
数秒後。千鶴が、乾いた唇を動かして、ようやく口を開いた。
「……替え玉とは、どういう意味ですか」
その声に、まだ怒りや悲しみはない。ただ単純に、言葉の意味を処理しきれていないのだ。
かれんは、千鶴のショックを理解しながらも、事実を正確かつ慎重に説明した。
「本人の外見だけを化粧や変装で似せた、ただの役者という意味ではありません」
「恐らく、対象の外見、声、体格、骨格を完全に再現し、人格と記憶まで極めて高い精度で複製できる、非常に高位の模倣能力者です」
「人格まで!?」
澪が驚愕の声を上げる。
「そんな恐ろしいことができる能力者が、実際にいるのですか?」
「います」
かれんは即答した。
「今回の面会における完璧な精度から考えると、恐らく『Tier1』クラスでしょう」
「Tier1の模倣能力者を、わざわざ母親の代役として東京まで連れてきたのか」
久我の言葉に、かれんは短く頷いた。
*
「でも、施設の厳しい検査は全部すんなりと通ってたよね」
久我が、当然の疑問を口にする。
「はい。危険物も、認識干渉も、面会中の新たな能力行使の反応も、一切検出されていません」
「それなのに、どうしてかれんちゃんは『替え玉だ』って分かったの?」
かれんは、少しだけ言いにくそうに目を伏せた。
決して重大な秘密を告白するほど重い話ではないが、普段、自分からわざわざ他人に話すような内容でもないのだ。
「まあ……『私が替え玉をよく使うから』とでも言っておきましょうか」
全員が、先ほどとは全く別の意味で完全に固まった。
「えっ!?」
「かれんちゃんも、自分の替え玉を使ってるの!?」
久我の素っ頓狂な声に、かれんは涼しい顔で答えた。
「要人警護、定型的な公務の代行、危険な移動経路の偽装など、私の立場では必要な場面はいくらでもあります」
「じゃあ……私たちが今まで会って話したかれんの中にも、偽物がいたの?」
澪が、少し引いたように尋ねる。
「その質問には、警備上の理由から回答できません」
「うわ、いたんだ……」
「回答していません」
重い空気の中に、ごく短い笑いが生まれた。
ただし、当事者である千鶴だけは、全く笑わなかった。
久我もすぐに表情を引き締め、本題へと戻す。
「かれんちゃん自身がよく使ってるから、同じ能力の反応だと分かった?」
「正確には、同種の能力が行使されている状態の人間に残る、『微弱な反応』を知っていたからです」
*
かれんが手元のタブレットを開き、施設の監視結果を表示した。
「施設の記録には、異常として扱える能力反応は何も残っていません。攻撃能力も、認識干渉も、精神操作も、面会中の新たな能力行使も検出されていません」
「じゃあ、本当に機械では分からなかったのか」
「はい。少なくとも、現在の監視設備が識別できる強さではありませんでした」
「それなのに、かれんちゃんには替え玉だと分かった?」
「分かったというより、私自身が、機械では識別できないほど微弱な揺らぎを感じました」
かれんは静かに続けた。
「誰かから写し取った外見や人格を、自分自身へ固定している者にだけ残る、ごく僅かな癖です。同種の替え玉を何度も見ていますから、見覚えがありました」
「それを、感じ取れたのですか」
「私だから分かった、と考えてください」
なぜかれんだけが、機械にも捉えられない違いを感じ取れたのか。
かれんは、それ以上を説明しなかった。
*
「しかし、間違いなく母でした」
千鶴が、ようやく強い声を出して反論した。
全員の視線が、千鶴へと集まる。
「私が、自分の母上を間違えるはずがありません」
千鶴の声は震え、しかし確かな熱を帯びていた。
「声も、顔の形も、温かい手も、何もかも同じでした。……私が幼い頃のことも、鮮明に覚えていました。私しか知らないようなことまで、母上は話してくださいました。あの方は、間違いなく私の母です!」
声が次第に大きくなる。
《神鏡返し》が暴発するほどではないが、千鶴の周囲の空気に、ビリビリとした強い緊張が走った。
久我は、千鶴のその切実な主張を否定しなかった。
「うん。俺にも、ただの役者が用意された台本で演技しているようには見えなかった」
「私も直接会ってないけど、さっきの千鶴の嬉しそうな話を聞いたら、絶対に本人だと思うよ」
かれんも、千鶴を見据えて静かに答えた。
「千鶴さんが、見間違えたとは一言も言っていません」
*
「今回の替え玉能力者は、外見だけを化粧で似せたような、中途半端な人物ではありません」
かれんは説明を続ける。
「恐らく、骨格、指紋、体温、声紋、表情の作り方、無意識の仕草まで、すべてを完璧に再現しています。人格と記憶についても、千鶴さんが本人だと確信するほど深い範囲まで複製されていたのでしょう」
「人格を……?」
「はい」
かれんは明確に肯定した。
「ですから、千鶴さんがお母様だと感じたこと自体は、少しも不自然ではありません。一般的な本人確認のレベルでは、まず見破れません」
「俺たちが迂闊に騙されたというより、騙すために必要な情報が、初めからすべて完璧に揃っていたということか」
「そうなります。完全な複製型の替え玉は、親しい家族であっても、外見や会話だけで見抜くことは困難です」
千鶴が母親を見間違えたのではない。見分けられないほど完璧に、母親が再現されていたのだ。
*
「では、あの母上の記憶は、どこから……」
「恐らく、あらかじめ保存していたのでしょう」
千鶴の疑問に、かれんは淀みなく答えた。
「千鶴さんのお母様が、精神的な錯乱状態へ陥る前の、正常だった頃の外見、人格、記憶を、あらかじめ替え玉能力者へ『保存』させていた可能性があります」
千鶴が、小さく息を呑む。
「錯乱する前の……母上」
先ほどの面会の光景を、千鶴は頭の中で思い返した。
まっすぐ自分を見る、焦点の合った目。自分の名前を、優しい声で呼んでくれたこと。自分が幼い頃の記憶。髪を結ってもらった時の話。庭の石灯籠の裏へ隠れたこと。昔の母親らしい、落ち着いた穏やかな話し方。そして、自分の意思を頭ごなしに否定しない態度。
「……確かに」
千鶴は、ポツリとこぼした。
「雰囲気は、私がまだ幼い頃に感じていた母上のままでした。儀式によって錯乱した後の母上ではなく……もっと前の……」
そこで千鶴は、ハッと顔を上げた。
「まさか、あれは……母上がまだ正常だった頃の人格を、そのまま写し取ったものだったのですか」
「可能性は、極めて高いと思います」
ただし、かれんは断定はしなかった。
いつ保存したのか。昔、一度だけ保存した人格をずっと使い回しているのか。それとも、面会前に本物から改めてコピーし直したのか。どの時点の記憶までを含んでいるのか。
それらは、まだ不明だ。
*
千鶴は、先ほどの面会での会話を一つずつ頭の中で反芻し、違和感のピースを当てはめていった。
「……母上が面会で話された思い出は、私が幼かった頃のものばかりでした。儀式後のことについては、『覚えていない』『後から聞いた』と……」
「俺はてっきり、儀式の影響による記憶障害のせいだと思ってた」
「私もです」
「ですが、人格を保存した時点より後の記憶を、そもそも持っていなかった可能性もあるのですね」
杖原の指摘に、かれんが頷く。
「はい。ただし、記憶障害そのものをリアルに再現していた可能性もあります。今の段階では、どちらかは区別できません」
「京都を離れているのに、面会中、最後まで全く錯乱しませんでした」
「俺は、治療や能力抑制のおかげで、短時間なら外出できるようになったんだと思った」
「その説明自体が、嘘だったとは限りません」
かれんは冷静に分析する。
「ですが、別人の健康な身体であれば、当然ながら、京都を離れても母君本人のような錯乱症状は出ないでしょう」
先ほどの面会での、「今日は、この時間だけは大丈夫です」という言葉が、全く別の意味へと反転して千鶴の胸に刺さった。
「あの言葉も……正常な替え玉でいられる限界の時間のことを、言っていたのですか」
「可能性はあります」
*
「でもさ、Tier1の能力者を替え玉として使うって、そんな普通のことなの?」
澪が、信じられないというように尋ねた。
「普通です」
かれんのあまりにもあっさりとした即答に、澪が逆に驚いて固まった。
「正確には、皇家や鏡宮家のような巨大な規模の旧家にとっては、全く珍しいことではありません」
かれんは、用途を簡潔に説明した。
当主の移動経路を隠す。暗殺者を別方向へ誘導する。危険な会談へ先に代理を出す。重い病気や負傷を隠す。複数の公務へ同時に出席する。誘拐や襲撃に備える。当主不在を外部へ悟らせない。家族を危険な場から遠ざける。
「Tier1の能力者を、そんな身代わりの使い方するんだ」
「替え玉に特化したTier1なら、それが本来の職務ですから」
「……名家って、すごいんだか怖いんだか分かんないね」
「両方です」
*
しかし、かれんは鏡宮家を即座に「卑劣な犯罪者だ」と断罪することはしなかった。
「替え玉能力者を同行させること自体は、問題ではありません」
「お母様の健康状態を考慮し、人格を複製した代理人を使いたいと、事前に正式に申請して事情を説明していれば、八咫烏も安全性を審査した上で、面会を認めた可能性があります」
「本人がどうしても来られないなら、代理人を使うこと自体はあり得るのか」
「はい。母君の言葉や意思を正確に伝える目的で、単なる手紙ではなく『人格複製』を用いることにも、名家としての一定の合理性があります」
千鶴は、その言葉に一瞬だけ希望を持った。
「では、鏡宮家は母上の意思を伝えるために……」
しかし、かれんは冷酷に続けた。
「ですが、それなら『最初から千鶴さんへ説明するべき』でした」
*
「今回の最大の問題は、替え玉を用意したことではありません」
かれんの目が、静かな怒りを帯びて細められた。
「替え玉であることを千鶴さんへ一切説明せず、母親本人だと信じ込ませたまま、面会を行わせたことです。さらに、本人の同意を得たという名目で、身体接触まで行わせています」
千鶴が、ハッとして自分の右手を見た。
先ほど、母親と握った手。
温かかった。昔の母親と同じ、優しい指だった。
自分から手を差し出し、触れることを自らの意思で許可した。
しかし、その同意は、『目の前にいる相手が母親本人である』と完全に信じた上でのものだった。
「千鶴さんは、接触に明確に同意しました」
「ですが、相手の正体について正しい説明を受けていません」
「その同意を、十分な情報に基づく真っ当なものだったとは、絶対に扱えません」
久我も、静かに怒りを感じていた。
「面会の条件を、表面上は全部律儀に守ってた。でも、一番大事な『誰と会うのか』という大前提だけを、最初から完全に隠していたのか」
「そのとおりです」
鏡宮家は、持ち込み物禁止、能力の使用禁止、接触前の許可、帰還の強要禁止、署名禁止というルールは完璧に守った。
しかし、『出席者が本当に母親本人である』という、あまりにも当然すぎる前提だけを偽ったのだ。
*
ここで、千鶴の中の感情が、混乱から明確な『怒り』へと変わった。
「では、私は……母上ではない別の方へ向かって……」
千鶴の肩が小刻みに震える。
「私のことを話し……手を握ることまで、許したのですか」
「その可能性が高いです」
「なぜ、事前に言わなかったのですか!」
千鶴が声を荒げた。それは、事実を告げたかれんへ怒っているのではなく、自分を騙した鏡宮家へ向けた激しい怒りだった。
「替え玉だと最初から説明されたなら、私は自分で会うかどうかを決められました! 母上の人格を写した方だと知っていたなら、聞くべきことも、話すべきことも全く変わっていました!」
「そうだね」
久我が同意する。
「面会そのものを拒否したかもしれないし、あくまで代理人として割り切って会ったかもしれない。千鶴ちゃんが自分で選ぶはずだったその選択肢を、鏡宮家が勝手に奪った」
「またです」
千鶴が、ギリッと唇を噛む。
「また鏡宮家は、私が自分で決める前に、家が正しいと考えたことを、私の意思を無視して勝手に実行したのですね」
鏡宮家は先ほどの面会で、「あなた自身が決めてよい」と、千鶴の自由と意思を尊重する美しい言葉を並べ立てた。
しかし、その面会自体が、『千鶴へ判断材料を与えないまま、家側が勝手に用意した箱庭』だったのだ。
*
激しい怒りの直後、千鶴の声が急に糸が切れたように弱くなった。
「では……」
「あの方が言った言葉も、全て偽物だったのですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
「母上が、私を責めないと言ったことも」
「儀式を強制したくないと言ったことも」
「私が自分で選んだ写真立てを見たいと言ったことも」
「また会いたいと……」
「私を呼んで流した、あの涙も……全て、家が用意した演技だったのですか」
千鶴が今一番恐れているのは、身体が別人だったことだけではない。
先ほどの面会で得た、心の底からの救いや愛情。それすらも、丸ごと家が用意した『冷酷な台本』だったのではないかということだ。
「それは、まだ分かりません」
かれんが静かに答える。
「ですが、替え玉なのでしょう?」
「身体は別人である可能性が高いです。しかし、人格と記憶まで深く複製されていたなら、面会中の感情までが演技だったとは、まだ断定できません」
千鶴が、すがるように顔を上げる。
「人格複製型の替え玉は、対象の話し方や記憶を真似するだけではありません。対象が心の底で何を大切にし、誰を愛し、何を後悔しているかまで、自分の中に完全に写し取る場合があります」
かれんは、一つ一つの言葉を確かめるように紡いだ。
「あの女性が、お母様の本来の人格を正確に複製していたのであれば……。あの場で、千鶴さんを娘として心から愛しく思い、心から謝罪していた可能性があります」
「では、あの優しい言葉は、母上の本心なのですか」
「それも断定できません」
かれんは、千鶴へ過剰な希望を与えすぎず、かといって全否定もしなかった。
「どの時点の人格を複製したのか。どの範囲まで記憶を持っていたのか。面会用に都合のいい情報を追加されたのか。鏡宮家から『言うべき内容の台本』を指定されていたのか。……何も分かっていません」
*
久我が、混乱する千鶴のために情報を整理した。
「つまり、母親本人ではなかった可能性は高い。でも、あの人の中にあった『母親としての千鶴ちゃんへの気持ち』まで偽物とは限らない」
「はい」
「あの場で話した内容が、最初から最後まで鏡宮家が作った冷酷な台本だったとも、まだ決まっていない」
「そのとおりです」
久我は、千鶴の目を真っ直ぐに見た。
「だから、今すぐ全部を『嘘の偽物だった』ことにして、絶望しなくていい。逆に、『全部本物だった』ことにして、無条件で家を許す必要もない」
「……」
「分からない部分は、分からないまま残して、鏡宮家にきちんと説明させよう」
千鶴は、すぐには答えなかった。
この言葉は、境界島での事件の最中、久我が千鶴へ言った『最初から従うと決めない。かといって最初から全部拒絶もしない』というスタンスと全く同じだった。
*
「なぜ、そこまでして替え玉を……」
千鶴が絞り出すように問う。
かれんは、現時点の情報から最も自然な推測を述べた。
「恐らく、お母様は現在も、まともな面会ができない状態なのでしょう」
千鶴の表情が、沈み込む。
「以前と同様に錯乱しているのか、悪化しているのか、あるいは京都を動けない別の事情があるのかは分かりません。ですが、本人が東京で一時間以上、安定して会話できるのであれば、わざわざ替え玉を使う必要は薄いです」
「替え玉を出したこと自体が、本人が面会に出られない深刻な事情がある証拠か」
「そう考えるのが自然です」
「それでも、錯乱していると正直に説明して、代理人として会わせることはできたはずです」
杖原が義憤に駆られたように言う。
「はい。ですが、正直に伝えれば、面会そのものが成立しないか、千鶴さんとの関係がさらに拗れると判断したのでしょう」
かれんは、鏡宮家の意図を冷静に推測した。
「それなら、正常だった頃の人格を再現した替え玉を『母親本人』として出し、先に関係を修復してしまえばよい。鏡宮家の上層部が、そのように判断した可能性はあります」
*
「鏡宮家側には、悪意がなかった可能性もあります」
「えっ? 悪意がなければいいの?」
澪が驚く。
「いいえ。悪意がなかったからこそ、問題が深刻なのです」
本物の母親が、千鶴との面会を望んでいたのかもしれない。
しかし本人は正常に会話できず、正常時の人格を写した替え玉なら、その意思を正確に伝えられると鏡宮家が判断した可能性がある。
コピーされた人格は本物と同じように千鶴を愛し、千鶴も錯乱していない母親と話せる。家との関係も改善し、誰も傷つかない。
だから、わざわざ『替え玉だ』と説明して千鶴を混乱させる必要はない。
鏡宮家が、そのように考えた可能性はあった。
「本人じゃないこと以外は、全部丸く収まると考えたのか」
「恐らく」
「その『一つ』が、私にとっては最も大切なのです」
千鶴が、静かに、しかし激しい怒りを込めて言った。
「私が、誰と話すのかを決めるために」
*
千鶴は、怒りながらも本来の冷静さを取り戻し始めた。
「面会の間、あの方は私に『自分で決めてよい』と何度も言いました」
「うん」
「ですが、私は最初から『誰と面会するか』さえ、自分で決めさせてもらえていなかった」
「言っている内容と、やっていることが完全に逆だったね」
「はい」
千鶴は、冷たく吐き捨てた。
「『千鶴へ正しい答えを与えれば、そこへ至る手段は家が勝手に選んでよい』。鏡宮家は、今も何も変わっていません」
ただし、あの母親人格の言葉も、鏡宮家の上層部と同じ意図だったとは限らない。
替え玉人格自身は、コピーされた母親としての本心から、千鶴の自由を望んでいた可能性がある。
つまり、『面会を騙して用意した鏡宮家の手段』と、『面会中の人格が示した意思』が、食い違っている可能性もあるのだ。
*
「さっきの人、まだ施設にいるんじゃないの?」
澪が立ち上がる。
「すでに地下の出発区画へ移動しています」
「止めないの!?」
「現段階では止めません」
久我も少し驚いてかれんを見る。
「いいの?」
「替え玉能力者であること自体は、違法ではありません。面会条件に能力使用禁止はありましたが、入室前に複製を完全に完了し、面会中に新たな能力を発動していなければ、形式上の違反かどうかも精査が必要です」
かれんは極めて冷静だった。
「また、替え玉本人は鏡宮家の命令に従っただけの、単なる協力者かもしれません」
相手を野放しにしたわけではない。
出発車両、同行者、移動経路、入退室記録はすべて保全され、鏡宮家側の身元も把握されている。
正式な照会から逃れられる状態ではなかった。
*
かれんが、千鶴へ今後の選択肢を示した。
「今日中に鏡宮家へ緊急照会を出す。面会記録を専門部署で再解析する。替え玉能力者の所属と能力を照会する。本物の母親の現在の状態を、映像記録付きで報告させる。母親本人が替え玉使用へ同意したか確認する。人格コピーを行った日時と方法を確認する。面会中の発言が鏡宮家の台本だったか確認する。次の回答が来るまで鏡宮家との直接面会を停止する」
かれんは一息つき、
「ただし、今日すべてを決める必要はありません」
と付け加えた。それは、久我が千鶴に教えた原則だった。
千鶴は少しだけ考え、顔を上げた。
「緊急照会を出してください」
「分かりました」
「確認していただきたいことがあります」
千鶴は、自分の言葉で一つずつ挙げた。
今日会った女性の本名。能力の詳細な内容。誰の指示で母親の姿になったのか。母親の人格と記憶を、いつ保存したのか。本物の母親が、替え玉の使用を知っていたのか。一通目の手紙を書いたのは誰なのか。面会中の発言は誰が決めたのか。本物の母親は、現在どのような状態なのか。
さらに、千鶴は最後に強い声で付け加えた。
「私に、替え玉だと説明しなかった理由も、聞いてください」
「承知しました」
「次の面会は、それらの説明を受けるまで行いません」
「その意思も、明確に伝えます」
*
「面会記録は保存されています。すぐに見返しますか?」
かれんの問いに、千鶴は一瞬だけ迷った。
先ほどの母親の顔。涙。握った手。自分の名前を呼んだ声。
「……今は、見ません」
「分かりました」
「ですが、絶対に消さないでください」
千鶴は毅然として言った。
「あの方が誰だったのか分かってから、もう一度見ます」
千鶴は面会を全否定して記録を消そうとはしなかった。しかし、今すぐ感情のままに見返すこともしない。自分が冷静に判断できるようになるまで、記録を保留した。
千鶴が、自分の手を見つめた。
「私は、あの方を『母上』と呼びました」
「うん」
「……間違っていたのでしょうか」
久我は即座に否定しなかった。
「あの時の千鶴ちゃんは、本当に母親だと思って話していた。だから、あの時にそう呼んだことを、今の千鶴ちゃんが自分で責める必要はないよ」
「ですが……」
「あの人の中に、本当に母親の人格があったのかもしれない。なかったのかもしれない。そこは、これから確かめる。分からないのに、自分だけを先に罰する必要はない」
千鶴は、小さく頷いた。
「千鶴さん。先ほど嬉しかったことまで、今すぐ嘘だったことにしなくてよいと思います」
杖原が優しく声をかける。
「つかささん……」
「騙された可能性があることと、千鶴さんがお話しして救われたと感じたことは、同じではありません」
「私もそう思う」
澪が同調する。
「相手が誰だったかは大事だけど、千鶴が話したことまで偽物になるわけじゃないよ」
千鶴が境界島や写真立てについて話したことは、本物だ。母親の姿をした相手へ、自分の意思を伝えたことも本物。
面会によって、『千鶴が母親へ言いたかったことを口にできた』という彼女自身の成長までが、消えるわけではないのだ。
*
重い空気を少しだけ緩めるため、久我が冗談めかして尋ねた。
「ところで、さっきの『かれんちゃんが替え玉をよく使う』って話なんだけど」
「今、その確認が本当に必要ですか?」
「いや、気になって」
「すごく気になる」
澪も目を輝かせる。
かれんは溜め息をつき、短く説明した。
「皇家の人間が、公務や危険な交渉の場へ、本人だけで出席していると思わないでください。私は未成年ですし、警護上の理由もあります」
「じゃあ、本当に替え玉のかれんちゃんと話したことがあるかもしれないんだ」
「可能性は否定しません」
「替え玉のかれんも、こんな感じの冷たいの?」
「ほぼ同じです」
「じゃあ、絶対に見分けつかないじゃん!」
「見分けられないように用意していますから」
かれんが、千鶴へ向かって深く頭を下げた。
「私も、面会前に見抜けませんでした」
「かれんさんが謝ることではありません」
「検査結果に問題がなく、鏡宮家が事前条件を全て守っていたため、本人であるという前提を疑いませんでした。鏡宮家ほどの家なら替え玉を抱えていて当然だと知っていたにもかかわらず、その可能性を確認項目へ入れなかったのは、こちらの完全な不備です」
「普通は、正式な親子面会に替え玉を出すとは誰も思わないよ」
「普通ではありません。ですが、想定できなかったとは言えません」
八咫烏側も完全無欠ではない。かれんは自分の見落としを素直に認めた。
*
かれんがタブレットで、鏡宮家と八咫烏京都支部へ正式な緊急照会を作成した。
件名は事務的だ。『鏡宮家面会出席者の本人性に関する緊急照会』。
内容には、面会出席者が母親本人ではない可能性、人格外見複製型能力の使用が疑われること、出席者の本人確認資料の再提出要求、替え玉使用の有無、本人の同意、母親本人の現在の所在と健康状態、人格情報の取得日時と方法、千鶴への事前説明を行わなかった理由、回答まで次回面会を停止することを記載した。
Tier1の替え玉使いであることも、鏡宮家が意図的に千鶴を騙したことも、現時点では断定していない。
かれんは千鶴へ文面を見せた。千鶴が一行ずつ読み、自分の希望が反映されているか確認する。
最後に、
「『本照会への回答は、鏡宮千鶴本人が理解できる明確な表現で行うこと』を追加してください」
と頼んだ。かれんが追記し、千鶴自身が送信許可を出した。
送信。
既読確認だけが届く。鏡宮家側から即答はない。
「今すぐ返事は来ないか」
「替え玉を使ったことが事実なら、家内で回答方針を協議するでしょう」
「正直に答えるかな」
「答えさせます」
声は静かだが、皇家と八咫烏の立場を持つかれんの絶対的な圧が出た。
*
待っている間、千鶴がぽつりと言った。
「あの方は、写真立てを見たいと言いました」
「うん」
「錯乱する前の母上は、私が自分で物を選ぶことを、喜んでくださったのでしょうか」
誰にも答えは分からない。
しかし、かれんは、
「人格が正確に複製されていたなら、その可能性はあります」
とだけ答えた。
「では、あの言葉が誰のものだったのかも、確認したいです」
千鶴の目的が、鏡宮家を責めることだけではなく、『あの母親人格の言葉がどこから生まれたのか知る』ことへと広がった。
*
休憩室を出る前。
千鶴が面会記録の保存状態を確認した。
「削除も編集もされません。原本は八咫烏が厳重に保全します」
「お願いします」
千鶴は、自分が母親と握った右手を見た。
手には何も残っていない。それでも、温かさだけはまだ覚えている。
あれが本物の母親の手ではなかった可能性が高い。
しかし、その温かさを感じた自分の記憶まで、偽物になったわけではない。
「私は、あの方が誰だったのかを知りたいです」
「うん」
「それから決めよう」
「はい」
直後、かれんのタブレットが短く鳴った。
鏡宮家からの返信ではなく、
《緊急照会を受領。回答準備に入る》
という、事務的な自動通知だけだった。
母親との再会は、替え玉だった。
だが、そこで交わされた言葉まで偽物だったのかは、まだ誰にも分からない。
鏡宮千鶴は、生まれて初めて自分の意思で母親へ会った。
次は、自分の意思で、その母親が誰だったのかを確かめようとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!