35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
あの日から数日後の、平日の夜。
会社での業務を終えた久我陽介は、指定された八咫烏の施設へと足を運んでいた。
会議室の扉を開けると、すでに千鶴、皇かれん、七瀬澪、そして杖原つかさの四人が集まり、重苦しい静寂の中で席に着いていた。
かれんの手元には、厳重な封が施された厚い封筒と、そこから取り出された数枚の文書が置かれている。それが何であるか、久我にはすぐに察しがついた。
「お疲れ様。……もう、鏡宮家から返事が来たの?」
久我が指定された席に座りながら尋ねると、かれんは静かに頷いた。
「はい。鏡宮家は、私たちからの緊急照会を受領した後、丸二日でこの正式回答書をまとめて送ってきました」
「二日で? そんなに早く?」
澪が目を丸くする。
「皇家や鏡宮家のような旧家としては、異例中の異例の早さです」
「普通はどれくらいかかるのですか?」
杖原が不思議そうに問うと、かれんは淡々と答えた。
「都合の悪い内容の照会であれば、『関係各所との調整』『歴史的見地の精査』などという名目で、数週間から数ヶ月は平気で引き延ばされます」
「じゃあ、今回の二日っていうのは、ものすごく焦って対応したってことだ……」
澪が息を呑む。
かれんは手元の文書を指先で軽く叩きながら、その真正性を担保した。
「この回答書については、届くまでの間に呪術的な細工や認識誘導の術式が仕込まれていないこと、文書の改竄がないことを、八咫烏京都支部を通して厳密に確認済みです。鏡宮家の正式な家印と、現責任者の直筆署名も間違いなく本物です」
*
「それでは、読み上げます」
かれんの声が、静かな部屋に響いた。
《問:先日の面会に出席した者が、鏡宮千鶴殿の母君本人であったか》
《回答:否》
休憩室が、再び深い静寂に包まれた。
鏡宮家は、見苦しい言い逃れも、煙に巻くような曖昧な表現も一切使っていなかった。ただ一文字で、あの日の面会相手が母親ではなかったことを認めたのだ。
かれんは表情を変えず、次の行を読み進める。
《出席者は、鏡宮家当主代理として任命された人格・外形複製能力者である》
「ずいぶんあっさりと認めたね」
久我が、少し拍子抜けしたように言った。
「かれんちゃんに替え玉の使用を見抜かれ、正式な照会まで受けた以上、曖昧な否認を続けて関係を悪化させる意味はないと判断したのでしょう」
「じゃあ、やっぱり千鶴のお母さんじゃなくて、偽物だったんだ……」
澪が呟くと、千鶴の膝の上の手が、キュッと硬く握り込まれた。
「身体が別人であったことは、これで確定しました。ただし、澪さん。この文書は、その出席者のことを『偽物』とは一言も表現していません」
*
回答書には、先日の面会に現れた女性の、鏡宮家における現在の『立場』が詳細に記されていた。
彼女は、面会のためだけに急遽用意された、その場しのぎの臨時の身代わりなどではなかった。
「……当主代理」
千鶴が、信じられないというようにその単語を呟く。
「はい。あの方は、お母様の代わりにただ面会の席に座っただけではありません。数年前から鏡宮家内部で正式な当主代理に任命され、現在、鏡宮家の実務上の最高責任者を務めている人物です」
「じゃあ、あの人が普段から、京都で鏡宮家を動かしているの?」
久我の驚きに、かれんは頷いた。
「そのようです」
かつて、本物の母親が継承儀式の後に深い錯乱状態へ陥り、長時間の正常な判断能力を失った。しかし、巨大な名家である鏡宮家は、立ち止まることを許されない。
広大な家政の運営、京都の結界防衛を担う関係者との緻密な調整、八咫烏との折衝、呪術医療と儀式の管理、そして何より、千鶴への家督継承準備。それらを停滞させるわけにはいかなかった。
そこで鏡宮家上層部は、以前から家と専属契約を結んでいた高位の人格・外見複製能力者に、母親が正常だった頃の人格と記憶を定着させ、正式な『当主代理』へと任命したのだった。
*
「ちょっと待って」
久我は、頭の中の情報を整理しようと手を挙げた。
「当主代理として仕事をしているなら、なんで面会の時だけ母親の姿になったってわけじゃないの?」
「違います。回答書によれば、当主代理は公務中、原則としてお母様の外見と人格を常に維持しています」
理由はいくつかあった。
鏡宮家内における複雑な人間関係の維持。他家との継続的な交渉。母親が保持していた絶妙な判断基準の再現。過去の決裁事項との一貫性。京都防衛網に関する膨大な記憶。そして、家内部の深い秘匿情報を管理するため。
もちろん、能力を解いて本人の元の姿へ戻ったからといって、コピーした母親人格が完全に消滅するわけではない。しかし、鏡宮家は『母親人格を継続的に前面へ固定した状態』を、当主代理の正式な執務形態として定めていたのだ。
「じゃあ、あの姿のまま、毎日京都で仕事してるの?」
「はい」
「それはもう、都合のいい替え玉というより……作られた二人目のお母さんみたいな……」
「鏡宮家は、まさにそのように考えているようです」
久我の戸惑いに対し、かれんは無機質な文書の意図を正確に代弁した。
千鶴は、ただ下を向いたまま、ひどく複雑な表情を浮かべていた。
*
かれんが読み上げる回答書の中には、久我たちの感覚からは容易に受け入れがたい文言があった。
《当主代理は、外形、人格、記憶、判断基準および当主としての意思の連続性を完全に有しているため、当家においては母君本人に準ずる存在として取り扱われている》
「……本人に準ずる」
久我は、その気味の悪い言葉を舌の上で転がした。
「身体が全然違うのに?」
澪が眉をひそめる。
「鏡宮家にとって重要なのは、肉体の同一性ではなく、職務上の『判断』が連続していることなのでしょう」
鏡宮家の閉鎖的な内部においては、当主代理が出した決裁は、母親本人の決裁と全く同等として扱われる。他家との契約や八咫烏への回答も、原則として当主本人の意思表示に準ずる。
そのため、鏡宮家は『母親本人の代わりに当主代理を面会へ出席させること』を、完全な別人による悪意ある偽装だとは、根本的に認識していなかったのだ。
*
「いや、でもさ」
久我が、たまらず口を挟んだ。
「家の予算を決めたり、他の家と利権の交渉をしたりする実務の代理なら、百歩譲ってそれでもいいのかもしれないけど。……実の娘と、母親として会って話すのは、仕事と同じじゃないよね?」
「その点が、今回の最大の問題です」
鏡宮家は、『職務上の本人性』と『家族関係における本人性』を完全に同一視していた。
当主の判断能力と、母親としての過去の記憶を持っている以上、実の娘と話す際にも『母親本人に準ずる』。その大前提で、疑いなく面会を実行した。
だが、千鶴にとって、『血の繋がった母親本人』であるか、『母親の人格をインストールされた当主代理』であるかは、その面会に同意するかどうかを根底から左右する、絶対的な違いだった。
*
「鏡宮家が、あの方を母上に準ずる存在として扱うことは、家の中の決まりなのでしょう」
ずっと黙っていた千鶴が、静かに顔を上げた。
「はい」
「ですが、私があの方を『母上』と認めるかどうかまで、鏡宮家が勝手に決めることはできません」
千鶴の声はひどく静かだったが、そこには一切の迷いがなかった。
「当主としての命令を代理できることと、私の母上であることは、決して同じではありません」
「うん」
久我は、千鶴の強さに小さく頷いた。
「私は、あの方が当主代理であると知った上で、会うかどうかを自分で決めるべきでした」
「その千鶴さんの明確な意思は、鏡宮家への回答に必ず明記します」
かれんが約束する。
*
「次の回答項目へ移ります」
かれんは文書を一枚めくった。
《母君本人の現在の状態について》
かれんは読む前に、一度千鶴の顔を見て確認した。
「続けてもよろしいですか?」
千鶴は少しだけ息を整え、両手を膝の上で固く組んだ。
「お願いします」
回答内容は、重く冷たいものだった。
本物の母親は、現在も生存している。京都の鏡宮家本邸の奥深くにいる。
しかし、長時間の錯乱状態が続いており、症状は以前から大きく改善していない。現在と過去の時間を混同し、自分自身を歴代当主の一人だと認識することがある。千鶴を、別の数代前の親族と誤認する。鏡や反射面へ向かって、そこに存在しない誰かと延々と会話を続ける。
そして、京都の外へ移動させようとすると、強いパニックと錯乱を起こす。長時間の安定した意思確認は、現在も不可能である。
千鶴は、静かに目を閉じた。
心のどこかで、もしかしたら……と期待していなかったはずの、ほんの僅かに残っていた希望の火が、ふっと消えるのを感じた。
*
鏡宮家は、千鶴と本物の母親との直接面会について、こう結論づけていた。
《現時点においては、安全かつ安定した状態で実施することは困難である》
物理的な対面だけでなく、オンラインでの画面越しの面会も同様だという。
千鶴を映像で見せると、母親の壊れた精神の中で、『現在の千鶴』『幼い頃の千鶴』『歴代当主の親族』『鏡に映る過去の亡霊』がぐちゃぐちゃに混ざり合い、症状が急激に悪化する危険性が極めて高い。本人の精神的な負担だけでなく、《神鏡返し》や京都の呪術的な鏡のネットワークとの接続にまで悪影響を及ぼす可能性が排除できないという。
「……ただし、千鶴さん。これはあくまで、鏡宮家側の一方的な医学的、能力的な評価です」
かれんは、そこだけは明確に留保した。
「鏡宮家と利害関係のない第三者医療機関による検証は、まだ必要です」
母親との面会を急がないことと、鏡宮家の評価を無条件に受け入れることは別だった。まずは、第三者による検証が必要だった。
*
回答書によれば、母親は二十四時間常に完全な錯乱状態にあるわけではなかった。
不定期に、ほんの数分程度、自分と周囲の状況を正しく認識する『明瞭な時間』が訪れるという。
その間だけは、自分の名前を言える。千鶴を自分の大切な娘だと認識できる。現在がいつであるかを部分的に理解し、短い文章を書くことも可能だ。
しかし、それは決して長続きしない。複雑な状況の説明や、重大な判断を求めようとすると、すぐにキャパシティを超え、再び歴代人格群との激しい混同が始まってしまうのだ。
「母上は……今も、私のことを思い出されることがあるのですね」
「鏡宮家の回答が正しければ、あります」
千鶴は、組んだ手にぎゅっと力を込めた。
*
話題は、緊急照会で千鶴が最も知りたかった項目へ移る。
《最初の手紙を書いた者について》
回答は、簡潔だった。
《母君本人である》
千鶴が、小さく息を止めた。
あの、一番最初に届いた手紙の短い一文。
『千鶴と、直接話す機会をいただきたいと思っています。返事を待っています』
これは、母親がその短い明瞭な時間に、自分の意思で書いたものだった。書記による代筆ですらない。
文字を書くために、職員が紙と筆記具を急いで用意しただけで、文面の誘導や添削も一切行われなかった。当時の映像記録と筆跡記録も存在し、八咫烏の第三者確認へ速やかに提出すると回答している。
「あの一通目の手紙は、本当に母上が……」
「少なくとも、お母さんが千鶴ちゃんに会いたいと思って、あの手紙を書いたことだけは、嘘じゃなかったんだね」
久我の言葉に、千鶴は泣かなかった。ただ、詰めていた息を、長く、長く吐き出した。
全てが偽物だったわけではない。その事実だけで、千鶴の心は少しだけ救われていた。
*
一方、二通目の手紙にあった追伸。
『承知しました。東京へ伺います。千鶴が自分で決めたことを、直接聞かせてください』
これを書いたのは、本物の母親ではなく、当主代理だった。
しかし当主代理は、母親の正常時人格を自身の中で稼働させ、一通目の手紙の内容、千鶴からの返信、八咫烏が提示した面会条件を確認した上で、自らの判断で書いたという。詳細な文面を、鏡宮家上層部から一字一句指示されたものではなかった。
「では、あの東京へ行くという追伸は、母上の言葉ではなかったのですね」
「はい。当主代理の言葉です」
かれんは、冷徹にその区別を曖昧にしなかった。
*
さらに、重要な事実が回答書に記されていた。
母親本人は、『千鶴と話したい』とは確かに望んだ。しかし、『自分自身の人格を持つ当主代理を、母親本人として千鶴との面会へ出す』という具体的な計画までは認識していなかったのだ。
明瞭な時間が短すぎたため、そんな複雑な計画を説明して同意を得られるような状態ではなかった。
鏡宮家の上層部は、『母親本人の面会希望をどうにか実現する手段として、当主代理を出席させればよい』と組織として判断し、当主代理もそれに同意した。
「つまり、お母さんも『自分の替え玉を、本人として騙して出していい』なんてことは、一言も言ってないんだ」
「そのとおりです」
「私の意思を無視しただけではなく、母上の意思まで、鏡宮家が勝手に都合よく補ったのですね」
千鶴の目に、再び静かな怒りの色が宿る。
*
面会中の言動についても、回答があった。
鏡宮家から当主代理へ渡されたのは、千鶴の現在の生活概要、面会条件、話してよい情報の範囲、即答を避けるべき議題、そして千鶴を不用意に刺激しないための注意事項だけだった。
具体的な台詞の言い回しや、謝罪の内容、写真立てへの反応などは、一切指定されていなかったという。
面会中の、千鶴への深い謝罪。帰還を強制しないという言葉。儀式を強制したくないという意思。幼少期の細かい思い出話。写真立てを見たいという希望。そして、千鶴の手を握った際に流した涙。
それらはすべて、当主代理が保持する母親の人格から、自発的に生じた感情だった。
ただし鏡宮家は、それを『母親本人の本心と同一視してよい』と、堂々と主張している。
「人格の再現精度がどれほど完璧であろうと、本人の現在の意思と同一であるかは、全くの別問題です」
かれんは、そこを鋭く切り分けた。
「保存されたのが錯乱前の人格なら、今のお母さんがどう考えているかとは、違うかもしれないよね」
「はい。正常だった頃の母親人格が、『千鶴を自由にしたい』『儀式を強制したくない』と思っていても、現在の母親本人が同じ判断をできるとは限りません。逆に、現在の母親本人にも同じ思いが残っている可能性もある。現時点では、誰にも確認できません」
「では、あの方が面会で口にした言葉は、母上の言葉ではなく……」
千鶴は少し考え、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「母上が正常だった頃の人格を持つ、当主代理の言葉なのですね」
「その表現が、現時点では最も正確です」
*
緊急照会の、最後の中心項目。
《千鶴へ当主代理であることを事前に説明しなかった理由》
鏡宮家の回答は、驚くほど率直であり、旧家としての傲慢さに満ちていた。
『当主代理は母親本人に準ずると考えていた』
『人格と記憶が同一なら、親子間の対話にも何ら問題はないと判断した』
『替え玉だと正直に説明すれば、千鶴が混乱し、面会を拒否する可能性があった』
『正常な母親人格との対話が、千鶴の精神的安定に有益だと判断した』
『関係修復を先に成立させることが、母子双方の利益になると考えた』
「……全部、この間の話でかれんちゃんが予想したとおりだね」
「はい」
千鶴を陥れるための、悪意ある罠ではなかった。しかし、『千鶴が拒否するかもしれないから、意図的に説明しなかった』と、明確に認めているのだ。
*
回答書の末尾には、鏡宮家からの謝罪文が添えられていた。
《当主代理であることを事前に明示せず、結果として千鶴殿に心理的負担を与えた点について、お詫び申し上げる》
しかし、かれんはその文面に引っかかった。
「心理的負担を与えたことには謝罪しています。ですが、『説明せずに選択肢を奪ったこと自体』への謝罪にはなっていません」
「相変わらず、自分たちがやったことそのものより、結果として千鶴ちゃんを傷つけたことだけを謝ってる感じだね」
千鶴も文面を冷たく見下ろす。
「鏡宮家は、まだ『当主代理を母上として会わせたこと自体』は、間違っていないと考えているのですね」
「そのように読めます」
*
「正式回答には、当主代理本人からの記録映像も添付されています」
かれんがタブレットを操作し、千鶴へ確認した。
「見ますか?」
「見ます」
千鶴は即答した。
再生された映像に現れたのは、先日の面会と全く同じ、母親の顔をした女性だった。
本来の素顔ではない。濃紺の和装という、鏡宮家の公務用の落ち着いた装いだ。
しかし、冒頭の彼女の名乗りは、あの日の面会とは全く違った。
『鏡宮家当主代理として、回答申し上げます』
母親とは名乗らない。千鶴を娘とも呼ばない。
『先日の面会において、私は母君本人であるとの認識を訂正しないまま、千鶴殿と対話しました』
『当家における代理制度と、千鶴殿にとっての母子関係を同一に扱ったことは、適切ではありませんでした』
映像内で当主代理は、自分の本来の名前や外見を明かさなかった。そのことについても、彼女は論理的に説明した。
『私は現在、鏡宮家当主代理として、母君の人格、記憶、外形および職務上の判断を継続しております。本来の外形へ戻ることは可能ですが、当主代理としての職務を説明するために必要なことではないと判断しております』
少なくとも、当主代理が本来の名前や外見を明かさないこと自体は、今の千鶴にとって問題ではなかった。母親の姿であろうと、当主代理であることを隠さず、その立場から話す。千鶴が求めていたのは、それだけだった。
*
『私は、千鶴殿が私を母君本人だと認識していることを理解していました』
当主代理が、深く頭を下げる。
『その認識を訂正すれば、面会が成立しない可能性があるとも考えていました。それでも、正常だった頃の母君の人格を保持する私との対話は、千鶴殿の精神安定に必要だと判断しました』
『鏡宮家の判断に従い、私自身もそれが千鶴殿のためになると考えました』
『その判断によって、千鶴殿が誰と会うかを選択する権利を奪いました』
ここでは、鏡宮家の文書とは違い、明確に非を認めていた。
『申し訳ありませんでした』
母親の顔で謝られることに、千鶴はひどく複雑な反応を見せた。しかし今回は、相手が誰として話しているか分かっている。それだけで、前回とは全く違った。
『面会中に私が口にした謝罪や、千鶴殿の東京での生活を知りたいと思った気持ちは、鏡宮家から命じられた台本ではありません』
当主代理は続ける。
『母君の人格を保持する者として、私自身がそう感じ、そう判断しました。……しかし、それを現在の母君本人の意思として扱うことはできません』
『写真立てを見たいと思ったのも、私です。母君の人格と記憶から生じた感情ですが、現在の母君本人が同じ希望を持っていると保証するものではありません』
当主代理は、あの日千鶴が得た感動を全部否定はせず、しかし正確な位置へと冷徹に置いた。
『本物の母君は、現在、長時間の交渉を行える状態にありません。鏡宮家の現状、《神鏡返し》、過去の儀式、今後の連絡方法について協議を継続するには、当主代理である私が窓口を務める必要があります』
『先日の行為によって信用を損なったことは承知しております。それでも、鏡宮家当主代理として、千鶴殿との交渉を継続させていただきたいと願います』
映像は、そこで静かに終わった。
*
千鶴は、しばらく何も言わなかった。
目の前の画面に映っていたのは、紛れもない母親の顔だ。しかし今度は、『母親』ではなく『当主代理』として見た。
「不思議です」
「何が?」
「同じ顔で、同じ声でした。ですが、先日の面会とは、全く別の方に見えました」
「立場を知った上で見たからでしょう」
「はい」
相手の姿が変わったのではない。千鶴へ与えられている情報が変わったのだ。その情報さえあれば、千鶴は自分で相手との関係を決めることができる。
「今後の交渉を拒否することもできます」
かれんが選択肢を示す。
「別の鏡宮家の実務担当者を窓口にするよう要求することも可能です」
千鶴は考えた。しかし、本物の母親は長時間の判断ができない。当主代理は、家の現在を把握しており、母親の正常時人格を持ち、正式な決裁権があり、過去の記憶も持っている。鏡宮家の実務を動かせるため、交渉相手としては最も適しているのは事実だ。
「……鏡宮家当主代理としてなら、今後もお話しします」
千鶴の決断を、久我もかれんも黙って受け止めた。
「ですが、母上としてお会いすることはできません。少なくとも今は、絶対にできません」
*
千鶴は、自らの言葉で、今後の交渉条件を挙げた。
一つ目。今後、当主代理は必ず『鏡宮家当主代理』と名乗り、母親本人であるかのように誤認させるような表現を一切しないこと。
二つ目。本物の母親が実際に述べた言葉と、当主代理が母親人格をもとに判断した内容を厳密に区別すること。『母君本人の発言』『当主代理としての判断』『鏡宮家としての決定』の三つを絶対に混同しないこと。
三つ目。千鶴へ、娘としての呼びかけや、母親としての身体接触、母親としての私的な思い出話を行う場合は、事前に千鶴の明確な同意を得ること。
四つ目。本物の母親の状態について、定期的な書面報告を行うこと。ただし、千鶴の心理的負担になる映像を一方的に送りつけないこと。
五つ目。《鎮鏡の儀》、京都への帰還、家督継承については、完全に別議題として扱うこと。母親の感情や病状を、千鶴へ判断を迫る材料として決して使用しないこと。
六つ目。今回と同様、その場で即座の結論を求めないこと。
かれんが千鶴の条件を正確に文書化し、鏡宮家へ送信した。
今回は、回答がさらに早かった。
当主代理から、《全条件を受諾します》という簡潔な返信。さらに、《今後、母君本人の発言、当主代理としての発言、鏡宮家の組織決定を明確に区分します》という約束が添えられていた。
そして、先ほどの不十分な謝罪文を修正した正式文書も届いた。
《当主代理であることを説明しなかった結果、千鶴殿へ心理的負担を与えたことだけでなく、誰と会うかを千鶴殿自身が決める権利を奪ったことについて、正式に謝罪いたします》
最初の謝罪文にはなかった『選ぶ権利』という言葉が、今度は明記されていた。千鶴は、その一文を黙って読み返した。
「謝罪を受け入れるかどうかは、今決める必要はありません」
「はい」
千鶴は頷いた。
「謝罪されたことは、受け取りました。ですが、許したかどうかは、まだ分かりません」
「それでいいと思う」
久我も同意した。鏡宮家も、即座の許しを要求してはこない。今回は、説明、問題の理解、謝罪、そして今後の条件が成立しただけで十分だった。
*
会議が終わった後。
千鶴は、一通目の母親の手紙をもう一度取り出した。
『千鶴と、直接話す機会をいただきたいと思っています。返事を待っています』
今度は、その一文だけを繰り返し読む。余計な追伸や、あの面会での出来事とは完全に切り分けて。
「この一文だけは、母上が書かれたのですね」
「うん」
「母上は、私のことを思い出してくださった」
「短い時間だったとしても、その事実は確認できます」
千鶴は、その手紙を何よりも大切に封筒へ戻した。
「……当主代理は、写真立てを見たいと言っていました」
千鶴が、少し迷ってから口にした。
「見せるの?」
澪が尋ねる。
「今は、見せません」
千鶴は首を振った。
「あの方が母上ではないとしっかり理解した上で、それでも見せたいと思えた時に、自分で決めます」
「うん。それでいいよ」
当主代理の感情まで頭ごなしに否定はしない。しかし、前回の約束をそのまま自動的に履行する義務もない。新しい関係の中で、改めて自分で決めればいいのだ。
*
かれんが、今後の状況を事務的に整理する。
本物の母親との面会は当面見送る。母親の状態については定期報告を受ける。鏡宮家との今後の交渉窓口は当主代理とする。帰還、家督、儀式については保留。祖母の記録と儀式資料の第三者調査は継続。緊急性のある事態が起きない限り、千鶴の現在の生活を最優先する。
「鏡宮家から逃げるだけではなく、話をすることは続けます」
千鶴が、決意を込めて言った。
「ですが、鏡宮家が用意した答えにただ従うのではなく、私が必要なことを、私から聞きます」
「はい」
「じゃあ、今日はここまでかな」
「はい」
千鶴は、深く息を吐き出した。
「母上と本当にお話しできる日は、まだ先なのだと思います」
少しだけ間を置く。
「ですが、当主代理とは、当主代理として話を続けます」
*
鏡宮家は、母親の人格を持つ代理人を、母親本人に準ずる存在として扱っていた。
鏡宮千鶴は、それを母親として受け入れなかった。
それでも、鏡宮家を動かす当主代理との対話までは拒まなかった。
誰を母と呼ぶのか。
誰を交渉相手として認めるのか。
今度は、その境界を千鶴自身が決めた。
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