35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第5話 吸血鬼、一週間で仕事に慣れすぎる

 ガタン、ゴトン。

 

 満員電車の独特な揺れと、周囲から漂う少しばかり湿った衣類の匂い。

 

 久我陽介はつり革に捕まりながら、車窓から差し込む夏の朝日を、あえて細めた目で受け止めていた。

 

 鼻に抜ける冷房の風が心地よい。

 

 鼻面にかけた薄いアンバー色のカラーレンズ越しに見る世界は、数日前のように網膜を物理的に炙るような暴力的な光線ではなくなっていた。もちろん、裸眼で直射日光を浴びれば皮膚の表面がちりりと熱を帯びる嫌な感覚はある。だが、きちんと対策さえしていれば、満員電車に揺られて通勤する程度の一般的な社会人ムーヴは十分に可能だった。

 

(……人間、いや、吸血鬼って案外どうにかなるもんなんだな)

 

 あの日、区役所のような窓口で『特殊体質者(要観察)』のプラスチックカードを発行され、裏の専門外来で深紅のパウチを流し込んでから、ちょうど一週間が経っていた。

 

 久我は最初の翌日だけ「強度の過労による体調不良」という名目で会社を休んだ。総務の高橋が課長にうまく圧をかけてくれたおかげで、詮索や診断書の提出を求められることもなく、実務上の欠席として綺麗に処理された。

 

 その後の生活は、拍子抜けするほどに平穏だった。

 

 自宅の冷蔵庫のチルド室には、八咫烏と協力病院から定期支給される血液製剤のパウチが綺麗に整列している。それを毎晩、寝る前に決められた量だけ摂取する。ただそれだけのルーティンで、久我の身体からはあの地獄のような倦怠感と飢餓衝動が完全に消え去っていた。

 

 オフィスビルに到着し、いつもの自席に腰を下ろす。

 

 パソコンを立ち上げ、メーラーを開いた瞬間。久我の脳内に、いつもの――いや、あの日からさらに最適化された奇妙な感覚が走り抜けた。

 

 受信トレイに溜まった数十通の未読メール。

 

 ほんの一瞥しただけで、どれが今日中に返信すべき最重要案件で、どれが後回しにしていい社内通知かが、まるで文字の色が違って見えるかのように瞬時に分類されていく。

 

 共有フォルダから引き出したプロジェクトの進捗表を開けば、数万行に及ぶ数字の羅列の中から、担当者の入力ミスによるコンマ単位の矛盾が一瞬で浮き上がって見えた。

 

「……よし、こいつは昼までに潰せるな。こっちは……ああ、ここのパラメーター設定が根本からズレてるのか」

 

 マウスを動かす手が迷わない。

 

 あの日以前のように「夜になると徹夜ハイで無双する」という極端な状態ではない。医療機関によって成分調整された血液製剤が体内に定着しているおかげで、日中であっても久我の思考能力は常人のピーク状態を遥かに超えるレベルで安定していた。

 

 午前十時。

 

「あの……久我さん、今お時間ちょっとだけ大丈夫ですか?」

 

 おずおずと声をかけてきたのは、後輩の佐藤だった。彼女の手には、クライアントから戻ってきたばかりの分厚い仕様変更のドラフト資料が握られている。

 

 先週、久我が泥のような顔色で退社したのを目撃している彼女は、どこか腫れ物に触るような気遣いを見せていた。

 

「いいよ。どうした?」

 

「すみません、A社の追加要件なんですけど……先方から送られてきた修正案をベース資料に組み込もうとしたら、どうも第四章の整合性が取れなくなっちゃって。私の読み込みが甘いのかもしれないんですけど、どこがバグってるのか分からなくて……」

 

 久我は佐藤から資料を受け取り、ペラペラとページをめくった。

 

 活字の群れが脳内に飛び込み、自動的に構造化されていく。所要時間、わずか十秒。

 

「ああ、これ先方の仕様書が間違ってるね。十二ページの納期前提と、二十ページのシステム負荷上限が完全にバッティングしてる。あと、この書き方だとインフラ側の検証工数が丸ごと抜け落ちてるから、そのまま通すと来月あたりに現場が死ぬよ。赤字でツッコミ入れて戻しておいて」

 

 佐藤は目を丸くし、半開きの口で久我を見つめた。

 

「……えっ。今、パラパラってめくっただけですよね?」

 

「ん? ああ、まあ要点だけ追ったから」

 

「いや、普通あの速度でロジックの破綻までは拾えないですよ! ……なんか久我さん、お休みから復帰されてから、すごく……すごくキレッキレというか、目が違いますよね?」

 

 久我は内心で少しだけ心臓を跳ねさせた。

 

 目が違う。その通りだ。網膜の構造そのものが生物として変質しているのだから。

 

「……一日ゆっくり泥のように寝たから、脳みそのゴミが掃除されたんだろうよ」

 

「睡眠ってそこまで人をスペックアップさせるんですね……。すごいです、久我さん。本当に助かりました!」

 

 尊敬の眼差しを向けて席に戻っていく後輩を見送りながら、久我はそっと息を吐いた。

 

 悪い気はしない。

 

 ずっと「真面目だけど要領が悪くて仕事を抱え込む便利屋」だった自分が、いまや涼しい顔でトラブルの芽を摘み取っているのだ。社会人として、これほど純粋に業務が楽しいと感じたのは入社以来初めてのことだった。

 

「久我さん、ちょっと顔貸してください」

 

 お昼前、給湯室の脇で声をかけてきたのは総務の高橋だった。彼女は久我の顔色を値踏みするようにじっと見つめ、小さく腕を組んだ。

 

「どうですか、体調は。無理して出社してるんじゃないでしょうね」

 

「いえ、本当に大丈夫ですよ。高橋さんが課長に強く言ってくださったおかげで、しっかりリフレッシュできましたから」

 

「……顔色は確かに悪くないですね。あの日みたく死人みたいに真っ白じゃない」

 

 高橋は納得したように頷きつつも、どこか不思議そうな目を向けた。

 

「でも、やっぱり何か少し雰囲気が変わりました? ピリッとしたというか……声のトーンも落ち着いていて、すごく迫力が出た気がします」

 

「おっさんになっただけですよ」

 

「もうおっさんでしょうに」

 

 高橋はふっと肩の力を抜き、そして真剣な表情に戻った。

 

「さっき課長が、また今週末のサーバーメンテナンスの立ち会いを久我さんに投げようとブツブツ言ってました。私が『今週は定時で帰せる契約です』って横から釘を刺しておきましたけど、久我さんも絶対に自分から安請け合いしないでくださいね。いいですか?」

 

「肝に銘じておきます」

 

 実際、その一時間後に課長から「久我、今夜のクライアント側の定例打ち合わせなんだが――」と持ちかけられた際、久我は迷うことなく「申し訳ありません、今週は体調のベースラインを戻すため、定時以降のタスクはお断りするよう総務からも指導を受けていまして」と淡々と撥ね退けることができた。

 

 以前の自分なら「あ、はい、俺がやっておきますよ」と愛想笑いで引き受けていたはずの業務。

 

 断る理由がある。自分の生活を守るための正当な後ろ盾がある。

 

 吸血鬼という決して笑えないハンデを背負ったはずなのに、皮肉なことに、久我のサラリーマンとしてのクオリティ・オブ・ライフは劇的に向上していた。

 

       *

 

 正午。

 

 オフィス街の少し外れにあるコンビニのイートインコーナーで、久我は幕の内弁当の透明なフィルムを剥がしていた。

 

 スマホの画面に、一通のメッセージ通知が届く。

 

 連絡先の登録名は『皇かれん』。あの日、協力病院で「緊急時の連絡用です」と事務的に交換したチャットアプリのアカウントだった。

 

『皇かれん:体調の変化はありますか?』

 

 久我は割り箸を割りながら、片手でフリック入力を返す。

 

『久我:すこぶる順調。血液のパウチも毎晩ちゃんと規定量飲んでるよ』

 

『皇かれん:日中の光に対する過敏反応は?』

 

『久我:薄い色のメガネをしてれば問題ないレベル。皮膚が焦げるような感覚も今のところない』

 

『皇かれん:昨晩の退社時刻は?』

 

 少しだけ指が止まる。

 

 昨日は、仕様書の確認が面白くなってしまい、つい二十時半近くまでオフィスに残っていた。

 

『久我:二十時ちょっと前くらいにはビルを出たよ』

 

『皇かれん:その文面は嘘をついている時の社会人の書き方です。正確な時間を教えてください』

 

(……なんでこの子、テキストだけで見抜いてくるんだ)

 

 久我は苦笑し、正直に『二十時二十五分』と打ち直して送った。

 

 即座に既読がつき、少し長めのテキストが返ってくる。

 

『皇かれん:まだ長いです。新規の能力因子は、本人が適応したと錯覚したタイミングがもっとも不安定になります。今週いっぱいは絶対に十九時前に退社してください。これはお願いではなく管理指導です』

 

『久我:はいはい、了解しましたよ先生』

 

『皇かれん:先生ではありません。初期案内責任者です』

 

 いつもの定型句のようなやり取りを終え、スマホをテーブルに置く。

 

 目の前の幕の内弁当から、白米の炊けた匂いと、焼き鮭の香ばしい匂いが漂ってくる。

 

 あの日、チルド棚のおにぎりがすべて無機質な紙粘土に見えたあの絶望的な感覚は消えていた。普通に飯が食える。普通に味がわかる。

 

 焼き鮭を口に運び、咀嚼する。

 

 美味しい。普通に美味しい。

 

 けれど――久我の心臓の奥底で、ちくりとした小さな違和感が顔を出した。

 

 人間の飯は美味しい。だが、それはあくまで「よくできた味付けの固形物」を処理している感覚であって、あの夜、病院のパウチから吸い上げた深紅の液体を嚥下した瞬間に細胞が震え上がったような、あの圧倒的な「生命の補給」とは決定的に異なっていた。

 

 自分が本当に心から求めている最大の御馳走は、もうこのお弁当箱の中には存在しない。

 

 その事実を自覚するたび、久我は胸の奥に薄暗い空洞が広がっていくような気配を感じていた。

 

 思えば、この一週間。

 

 日常の中に溶け込んでいく「人間ではない感覚」の解像度は、日に日にその濃度を増していた。

 

 二日目の夜。

 

 部屋の電気をつけたまま血液パックを飲むことに奇妙な落ち着かなさを覚え、リビングの主照明を消し、キッチンの小さな手元灯だけでそれを口にするようになった。

 

 四日目の夜。

 

 深夜に目が覚め、真っ暗な自室のトイレに向かう際、壁のスイッチを探すまでもなく、廊下に落ちている小さな綿埃の形や、ドアノブの金属の擦れ傷までが昼間のように鮮明に見えていることに気がついた。

 

 六日目の午後。

 

 オフィスの会議室でクライアントの部長と対面していた時。相手が厳しい条件を提示してきた瞬間、その男のワイシャツの胸元から、脈拍が急激に跳ね上がり、微かな冷や汗の気化臭が漂ってくるのが「分かって」しまった。相手がハッタリをかましているのだと直感的に理解し、久我は涼しい顔でその交渉を切り返した。

 

 そのどれもを、久我は「気のせいだ」と自分に言い聞かせてきた。

 

 吸血鬼になったんだから、五感が多少鋭くなるくらい普通だろう。

 

 役所にも登録した。病院の指導通りに生活している。何も問題ない。順調そのものじゃないか。

 

 そうやって、自分の中で静かに、だが確実に育ちつつある異質な生き物の足音から、意図的に耳を塞いでいた。

 

       *

 

 その日の退社時刻は、二十時ちょうどだった。

 

 かれんに約束させられた十九時よりは遅いが、これでも久我の社会人人生においては驚異的な早さだ。

 

「お疲れ様です、お先に失礼します」

 

 鞄を持って立ち上がると、残業中の同僚たちが驚いたような、あるいは少し羨ましそうな目を向けた。課長が何か言いたげにこちらを見たが、久我が軽く会釈して歩き出すと、そのまま視線をモニターに戻した。

 

 エレベーターで一階へ降り、自動ドアを抜ける。

 

 夏の夜の生暖かい空気が、全身を包み込んだ。

 

 瞬間、身体が羽のように軽くなる感覚があった。

 

 昼間、太陽の光という見えないブレーキによって制限されていた能力の出力が、夜の訪れとともに一気に解放される感覚。

 

 歩道の街路灯が、まるでスタジアムの照明のように眩しく感じる。

 

 すれ違う人々の話し声、二十メートル先のコンビニから漏れる電子音、ビルの上空を抜けていく夜風が運んでくるアスファルトと排気ガスの匂い。そのすべてが驚異的なクリアさで知覚器官に流れ込んでくる。

 

 怖い。けれど、どうしようもなく気持ちがいい。

 

 夜という時間帯そのものが、自分の絶対的な領域(ホーム)になったような全能感。

 

 ふと、赤信号で足を止め、目の前のブランドショップのガラスウィンドウに映る自身の姿に目をやった。

 

 そこに立っているのは、少しだけスマートになった三十五歳のサラリーマン。

 

 だが――街路灯の反射を受けたその双眸の奥が、ほんの一瞬だけ、まるでルビーの破片を埋め込んだかのように真っ赤に発光したように見えた。

 

「……ん?」

 

 久我は目を擦り、もう一度ガラスを覗き込む。

 

 そこに映っているのは、いつもの平凡なこげ茶色の瞳だった。

 

「……疲れてるな、やっぱり」

 

 独り言をこぼし、青になった横断歩道を歩き出す。

 

 自宅のアパートに帰着し、ネクタイを緩めながらキッチンへ直行する。

 

 手を洗い、冷蔵庫のドアを開ける。

 

 チルド室の中に並んだ、残りの血液パウチは二つ。

 

「……あ、今週末で切れるな。明日、八咫烏の窓口にチャットで追加申請しとかないと」

 

 ビールや麦茶のストックを確認するのと全く同じ思考回路で、深紅の医療製剤の残量を計算している自分に気がつき、久我は自嘲気味に笑った。

 

「いや、適応能力が高すぎるだろ、俺……」

 

 シャワーを浴びて鏡を見る。

 

 かつて三十代特有のたるみが出始めていた腹回りが、心なしか引き締まり、肌のキメも妙に整っている。三徹明けの死神のようなツラはどこへやら、実年齢より五歳は若く見えるほどに健康的な肉体だった。

 

「人間の飯より血を飲んでる方が健康になるって、どんなブラックジョークだよ」

 

 パウチを開封し、今夜の分の血液をゆっくりと喉に流し込む。

 

 もう躊躇はない。

 

 とろりとした旨味が細胞に染み渡る快感に身を委ね、その後、コンビニで買ってきたサラダチキンを少しだけ食べて胃を落ち着かせる。

 

 ベッドに横たわり、スマホを充電ケーブルに挿す。

 

 今日もいい一日だった。仕事は完璧にこなした。体調もいい。何も問題はない。

 

 目を閉じ、意識を手放そうとした、まさにその境界線。

 

『――ようやく、少しは器らしくなってきたか』

 

 耳元で、鈴が鳴るような、それでいて氷のように冷たい少女の声が囁いた気がした。

 

 目を開けようとした。だが、まぶたが金庫の扉のように重く、指一本動かせない。

 

 そのまま、久我の意識は深い漆黒の底へと引きずり込まれていった。

 

       *

 

 目覚めると、そこは深夜のオフィスだった。

 

 自分のデスクの椅子に座っている。けれど、フロアには誰一人として存在しない。

 

 空調の稼働音すら消え失せた完全な無音。

 

 そして何より――ブラインドの上がった巨大なガラス窓の向こうに、空の半分を覆い尽くすほどの異常な大きさをした「真っ赤な月」が浮かんでいた。

 

 その真紅の月光がフロアに差し込み、デスクの上の書類やPCモニターを、禍々しい血の色に染め上げている。

 

「……夢、だよな。これ」

 

 久我は自身の頬を抓ろうとして、手が止まった。

 

 自分のデスクの上。いつもなら書きかけのノートや資料が置かれているはずのスペースに、見覚えのない古びた銀の杯(チャリス)がひとつ、静かに置かれていた。

 

 その杯の中には、表面に波紋ひとつ立たないどす黒い液体が満たされている。

 

「誰、とは失礼な挨拶だな。我が宿主よ」

 

 唐突に、背後から声がした。

 

 振り向くと、隣のデスクに腰をかけてこちらを見下ろしている一人の少女がいた。

 

 年齢は、見たところ十二、三歳といったところだろうか。

 

 月光をそのまま紡いだような白銀の長髪に、吸い込まれるような深紅の瞳。喪服のように漆黒で、幾重にもフリルが重ねられたゴシック調のドレスを纏っている。

 

 彼女は愛らしい唇に弧を描いて笑っていたが、その瞳の奥には微塵も人間的な感情の温度が存在していなかった。

 

 久我は反射的に椅子を後ろに蹴り、身構えた。

 

「……お前、誰だ」

 

「だから、失礼だと言っている。お前がこの一週間、丹精込めて育て上げた張本人ではないか」

 

 少女は楽しげに足を組み替え、銀の杯を指した。

 

「血を啜り、夜を闊歩し、闇に目を凝らし、影を濃くした。お前は毎晩、我が因子の覚醒のためにせっせと餌を運び続けていたのだぞ? 感謝こそすれ、警戒される覚えはない」

 

 久我の背筋に、冷たい嫌な汗が伝った。

 

「……俺は、医者と役所に言われた通りに、支給されたパックを飲んでいただけだ」

 

「同じことだ」

 

 少女はふわりとデスクから降り、音もなく久我の目の前まで歩み寄ってきた。

 

「それにしても、実につまらない男だな、お前は。せっかく夜を支配する我らの力をその身に宿しておきながら、やっていることと言えば仕様書のバグ取りと社内調整か?」

 

「……社会人には、社会人の戦場があるんだよ」

 

 久我は自身の低い声を張り上げた。

 

「俺は自分の生活を回すために仕事をしてる。お前みたいなオカルトの幽霊に説教される筋合いはない」

 

 少女は目を細め、クスクスと喉を鳴らした。

 

「ふふ、傑作だ。退屈ではあるが、その理性の固さは嫌いではない。普通の人間なら、あの血の味を知った三日目あたりで街に出て生贄を狩り始めるものを……お前は書類を書き、定時退社を心がけ、パウチのゴミまで水洗いして分別した。実によく躾けられた家畜――いや、器(うつわ)だ」

 

「さっきから器ってなんだ。俺は俺だ」

 

「お前はお前で、我は我。だが、今は同じひとつの箱の中にある」

 

 少女は久我の胸元に、その小さな白銀の指先をそっと当てた。

 

 心臓が凍りつくような冷たさだった。

 

「これほど理性が堅牢ならば、少しくらい『本物』をくれてやっても壊れはしまい。……受け取れ、我が宿主よ」

 

「いらない、と言ったら?」

 

「お前に拒否権があるように見えるか?」

 

 少女の真紅の瞳が、ぐんと目の前に迫った。

 

 次の瞬間、彼女の細い指先が、久我の両目に直接、突き刺さるように触れた。

 

「――が、ぁぁぁッ!?」

 

 視界が、爆発した。

 

 物理的な激痛ではない。脳の視覚野というキャンバスに、ありえない情報量の絵の具をバケツごと叩きつけられたような圧倒的な知覚の氾濫。

 

 真っ赤に染まった視界の中で、オフィスの壁が透けて消えた。

 

 コンクリートの構造材、床下を走る配線の電流、隣のビルで夜勤をしている人間の体温のグラデーション、その男の頸動脈を流れる血液の生々しい赤色。

 

 見える。見えてはいけないものが、世界の裏側の構造が、すべて網膜に直接スタンプされていく。

 

「これが『魔眼』だ」

 

 少女の声が、脳の奥底でエコーした。

 

「お前は吸血鬼だ。目で捕らえ、血で暴き、夜で縛る。その第一歩だ」

 

「ふざけるな……! 俺は、誰かを支配なんか――」

 

「ならば、見極めろ」

 

 少女の声から、嘲りの色が消えた。そこにあったのは、遥か古代から血脈を繋いできた生物としての冷徹な命令だった。

 

「その目で他者の恐れを読み、血流を読み、生命の境目を読め。……人を狩るためではない。お前がそのちっぽけな人間社会の理性を守り、踏みとどまるために使ってみせろ」

 

 視界の赤が、限界点を突破してすべてを塗り潰していく。

 

「目を開けろ、久我陽介。……お前の本当の夜は、ここからだ」

 

       *

 

「――ッ!!」

 

 久我は弾かれたように上半身を起こし、シーツを掻きむしった。

 

 はあ、はあ、とはち切れそうな心臓の鼓動がベッドルームに響き渡る。

 

 カーテンの隙間から、眩しい朝日の細い光が床に落ちていた。

 

 夢だ。ただの悪夢。

 

 全身から噴き出した冷や汗を拭い、荒い呼吸を整える。目の奥が、炭火を押し当てられたようにジンジンと熱を帯びていた。

 

 ふらつく足でベッドから降り、洗面所へと向かう。

 

 蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 

 そして、タオルで顔を拭い――何気なく、目の前の洗面台の鏡を見上げた。

 

 そこに映っていたのは、いつもの三十五歳のサラリーマンの顔だった。

 

 ただひとつ。

 

 その両目の瞳の奥、虹彩の中心部が、まるで鮮血をそのまま滴らせたような「鮮烈な真紅」に染め上げられていることを除いては。

 

「…………なんだ、こりゃ」

 

 充血などではない。白目は綺麗なままだ。

 

 ただ、瞳のレンズそのものがルビーのように赤く発光し、鏡の中の自分を見つめ返している。

 

 久我が驚いてまばたきをした、その瞬間。

 

 鏡に映った自身の首筋のあたりに、ぼんやりとした赤い光のラインが透けて見えた。皮膚の下を流れる頸動脈の脈動。壁の向こう側、隣の部屋の住人がベッドで寝返りを打った際の、微かな体温の残像。

 

(……嘘だろ。さっきの夢……)

 

 見えている。あの少女が強制的に脳へ焼き付けていった「魔眼」の視界が、現実の朝の中にそのまま持ち込まれている。

 

 久我は慌てて目を閉じ、洗面台の縁を強く掴んだ。

 

 深呼吸を三回。

 

 もう一度目を開ける。

 

 視界の透視効果は消えていた。だが、鏡の中の瞳の色は、依然として禍々しいほどの深紅のままだった。

 

 久我は震える手で、リビングのテーブルに置いていたスマホを手に取った。

 

 時刻は午前六時四十五分。

 

 チャットアプリを開き、震える親指で『皇かれん』のトーク画面を呼び出す。

 

『久我:おはよう。朝早くに本当にごめん。ちょっと相談がある』

 

 こんな時間だ。通学前の準備中か、まだ寝ているかもしれない。

 

 そう思ったが、既読はわずか数秒でついた。

 

『皇かれん:どうしましたか? 体調に異変が?』

 

『久我:今朝起きたら、目が赤くなってる。充血とかじゃなくて、目の玉そのものが真っ赤なんだ。あと……さっき一瞬、壁の向こう側とか、自分の血管が透けて見えた』

 

 テキストを送った直後。

 

 画面の向こう側の存在が、息を呑んで硬直した気配がテキスト越しに伝わってきた。

 

 十秒ほどの空白。

 

 そして、これまで見たこともないほどの短く、切迫した文面が返ってくる。

 

『皇かれん:写真を送ってください。自撮りで構いません。今すぐ』

 

 言われるがまま、スマホのインカメラを起動し、洗面所の照明の下で自身の顔を撮影する。

 

 送信。

 

 写真がアップロードされた、まさにその次の瞬間だった。

 

『皇かれん:今日は絶対に会社に行かないでください』

 

「……また欠勤かよ」

 

 久我は思わず頭を抱えた。

 

『皇かれん:今すぐ八咫烏の緊急窓口に連絡します。「魔眼」が発現しています。通常、新規覚醒から一週間で至るステージではありません』

 

『久我:魔眼って、あのオカルトの?』

 

『皇かれん:詳しい説明は後でします。私がそちらに向かうか、センターの車両を回します。それまで絶対に外に出ないでください。そして――絶対に、生身の人間の目を見ないこと。いいね?』

 

 いつもは「久我さん」と丁寧な言葉を使う彼女の文末が、完全に余裕を失ったプロの口調に変わっていた。

 

 スマホを握りしめたまま、久我はもう一度、洗面所の鏡を見つめた。

 

 そこにいるのは、有能になったサラリーマンなんかじゃない。真紅の瞳を光らせた、現代社会の常識から明らかに逸脱した何かだった。

 

 あの日、ファミレスで淡々と宣告を受けた記憶が蘇る。

 

 自分はまだ、あのコンビニのレジの前から一歩も前に進めていなかったのだ。

 

 久我は鏡の中の赤い瞳に向けて、自嘲気味に呟いた。

 

「……吸血鬼生活、順調って言ったばかりなんだけどな」

 




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