35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

50 / 50
第50話 吸血鬼、存在しない非常口の担当になる

 鏡宮家との息詰まるような面会から、数日が過ぎた。

 

 平日の夜。御影坂高校。

 

 授業も部活動もとうに終わり、生徒たちの気配が完全に消えた校内は、しんと静まり返っている。

 

 久我陽介たちは、通常の夜間巡回業務のため、指定された体育館側の控室へと集まっていた。

 

 京都の巨大な旧家を相手にした、あの胃の痛くなるような重い空気はここにはない。

 

 杖原つかさが、タブレットで今夜の巡回経路と、校内に張られた結界の直近の記録を事務的に確認している。七瀬澪は、机に広げた校内図を指でなぞりながら、自分が先行して異常を確認する区画を手早く決めていく。久我は八咫烏から貸与された端末で、前回の巡回記録と今夜の注意事項に目を通していた。

 

 鏡宮千鶴も、高校の制服姿でその輪の中に参加している。

 

 以前のように、家からの指示や誰かの許可を待って、自信なさげに部屋の端で黙って立っているのではない。自分から校内図の前に近づき、今夜の担当区画をしっかりと確認し、杖原と短いやり取りを交わしている。

 

 久我は、資料に視線を落とすふりをしながら、千鶴の様子を静かに観察していた。

 

 千鶴の表情が、手放しで明るくなったわけではない。

 

 本物の母親本人とは、まだ直接会えていない。面会した相手が母親ではなく当主代理であったという複雑な事実。そして、家督や継承儀式の根本的な問題も、解決したわけではなく保留のままだ。

 

 それでも、鏡宮家へ無理やり連れ戻され、自分という存在を失うかもしれないという切迫した恐怖は、今の彼女からは薄れている。

 

 千鶴自身が、誰と、どの立場で、どこまで話すかを、自分で決められる状態になったからだ。

 

 久我は無理に声をかけたりせず、千鶴が他のメンバーと同じように、ただの班の一員として普通に準備を進める様子を見守った。

 

       *

 

 巡回開始の前、皇かれんが千鶴へ向かって事務的な報告を行った。

 

「千鶴さん。鏡宮家から、先日の私たちの要求と回答を、正式に了承する旨の文書が届きました」

 

「……はい」

 

 内容は、以下の通りだ。

 

 今後、当主代理を母親本人として扱うような虚偽の表現はしない。当主代理との交渉は、あくまで鏡宮家の正式な代理人として行う。千鶴の現在の居場所を探るような監視行為は行わない。《鎮鏡の儀》への参加を強制しない。母親本人との面会については、第三者の医療機関による状態確認後に改めて協議する。そして、直接接触を行う場合は、必ず千鶴本人の明確な同意を事前に得る。

 

 完全な解決ではない。

 

 しかし、少なくとも鏡宮家は、千鶴と八咫烏が引いた境界線を、正式な文書の形で受け入れたのだ。

 

「この了承に対して、こちらから返答を急ぐ必要はありません。鏡宮家からも、交渉の期限は指定されていません」

 

「はい。母上のこと、そして家のことは……今は、保留にします」

 

 千鶴が、真っ直ぐにかれんを見て答えた。

 

「保留も、ちゃんとした立派な判断の一つだと思いますよ」

 

 久我が横から口を挟む。

 

 千鶴は、少しだけ安堵したように久我を見た。

 

「以前の私なら、目の前の問題に対して何も決められない自分を、鏡宮家の跡取りとして恥じていたと思います。ですが……今は、あえて『決めない』という選択もあるのだと、少しだけ分かりました」

 

「俺も三十五年生きていますけど、保留にして積み上げていることなんて山ほどありますよ」

 

「陽介さんの場合、単に面倒くさがって後回しにしてるだけのことも多くない?」

 

 澪がからかうように言う。

 

「……それも完全には否定できないけどね」

 

 久我が苦笑すると、控室の空気が少しだけ緩んだ。千鶴も、小さく声を立てて笑った。

 

 京都の因習に縛られていた重い余韻は、ここで静かに解けていった。

 

       *

 

「それでは、本日の巡回を開始します」

 

 かれんの指示で、班を二つに分ける。

 

 先行確認班は、澪と杖原。

 

 澪が高い機動力を生かして校庭と体育館の外周を先行し、杖原がその後を追いながら、校地を覆う結界の端に異常がないかを確認する。

 

 校内確認班は、久我、千鶴、そしてかれん。

 

 特別教室棟と本館一階の内部を歩いて巡回する。ただし、かれんは全体監督として、手元の端末で両班の通信を常に聞きながらの同行だ。

 

 久我と千鶴が並んで、真っ暗な校内の廊下を歩く。

 

 千鶴は、廊下の窓ガラス、手洗い場の鏡、消火器収納箱のガラス面など、反射面を時折立ち止まって確認している。

 

「何か、見えますか?」

 

「今のところは、何も」

 

 千鶴は静かに首を振った。

 

「何も映らないことを確認するのも、この巡回の仕事ですから」

 

 以前なら、鏡宮家の能力を使うたびに、過去の記憶や家の重圧を思い出してひどく緊張していた。

 

 しかし今は、自分の能力として、必要な範囲で冷静に扱っている。久我は、その確かな変化を言葉には出さず、頼もしく受け止めた。

 

       *

 

 巡回開始から、十分ほどが過ぎた頃。

 

 かれんの端末へ、通常とは異なる高い優先度の着信音が鳴った。

 

 発信元は、例の『有料怪異情報サイト』を専門に監視している、八咫烏の内部情報班だ。

 

 かれんが足を止める。久我と千鶴も、それに合わせて立ち止まった。

 

 かれんは短い応答の後、端末の画面を見つめたまま、僅かに表情を険しくした。

 

「新しい記事が掲載されました」

 

「あの有料サイトですか?」

 

「はい。今回は……先日の事件よりも、情報が拡散する速度が異常に速いようです」

 

 久我が顔をしかめる。

 

「先日、あんな最終電車の事件があったばかりなのに、まだあのサイトの記事を買う人がいるんですか?」

 

 通信回線へ戻ってきた杖原が、外周から答えた。

 

『先日のあの事件が、本物の怪異だったからこそ、一気に増えたんです』

 

『作り話やただのオカルトなら、一度で飽きられます。しかし、実際に人が消え、本当に怪異へ接触できると証明されてしまった以上、今まで興味を持たなかった層まで集まってきてしまいます』

 

「悪い実績が、一番の宣伝になっているわけですか」

 

『そういうことです』

 

       *

 

 かれんが、監視班から転送されてきた記事の画面を、久我と千鶴へ見せた。

 

 端末に表示された、新しい記事のタイトル。

 

『存在しない非常口の開け方』

 

 そのすぐ下には、運営者からの挨拶のような文章があった。

 

『先日の最終電車は、予告なく運休となりました。ご利用予定だった皆様には、深くお詫び申し上げます。代替手段として、今夜は都内各所に臨時非常口をご用意しました』

 

 久我はそれを読み、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「これ、完全にこの間の終電のことを書いてありますよね」

 

「そう読めます」

 

「運営者は、あの電車が消えたことを知っている?」

 

「可能性は高いです。ただし、記事がシステムによって自動的に更新された可能性や、怪異そのものが文章へ直接干渉した可能性も残っています」

 

「運営者が、そもそも人間とも限らない、と」

 

「現時点では、何も断定できません」

 

 かれんは、事実と推測を冷静に切り分けた。

 

       *

 

 監視班から、立て続けに追加の報告が入る。

 

 あの『無断転載Wiki』の掲示板で、購入者同士が自分たちの記事内容を比較し始めているというのだ。

 

 記事のタイトル、注意書き、手順、そして指定時刻は、購入者全員で共通している。

 

 手順は以下の通り。

 

 一、指定時刻の五分前までに、指定された壁の前へ立つこと。

 

 二、壁の上に緑色の非常口表示が現れるまで待つこと。

 

 三、表示が点灯したら、割り当てられた識別番号を一度だけ読み上げること。

 

 四、非常口表示が赤色へ変わった後、現れた扉を完全に開くこと。

 

 五、扉の向こう側へ入ってはならない。内部を覗いてもならない。

 

 六、扉を開いたまま三十歩離れ、背を向けること。

 

 記事は、「中へ入らなければ危険はない」「扉を開けるだけでよい」「実行者は別世界を直接見る必要がない」という、安全性を強調する書き方をしている。

 

 先日の終電事件が危険だったと知る者でも、「今度は乗る必要がない」「扉を開けるだけなら検証できる」と考えやすい、狡猾な内容だった。

 

 しかし、問題は別のところにあった。

 

「指定場所と識別番号が、購入者ごとにすべて違うようです」

 

 かれんが、端末に複数のスクリーンショットを並べた。

 

 地下駐車場の突き当たり。閉鎖中の雑居ビル三階。駅地下通路の工事用壁面。病院の旧病棟。マンションの共用廊下。公共施設の倉庫前。

 

「同じ記事を買ったのに、全員が違う場所へ行かされるんですか?」

 

「そのようです」

 

「識別番号も、すべて異なっていますね」

 

 千鶴が画面を指差す。

 

「はい。一つの共通記事ではなく、購入者一人一人ごとに、個別の手順と場所を配っていると考えた方がよいでしょう」

 

「だったら、記事の代金は、ただの情報料じゃないですよね」

 

 久我の指摘に、かれんが頷く。

 

「一人ずつ違う場所と番号を割り当てているなら、記事を買った時点で『参加者』として向こう側に登録されているように見えますね」

 

「監視班も、同じ見解です」

 

 ただし、それが何への参加登録なのかは分からない。

 

 誰も、この段階で一連の手順を儀式だと断定することはできなかった。

 

       *

 

 さらに厄介なことに、転載Wiki側が、勝手に事態を悪化させていた。

 

 監視班が共有したWikiの専用ページでは、利用者たちが自発的に、『スクリーンショット募集』『場所別の担当者一覧』『現地到着報告』『配信URL』『指定場所の写真』などをリストアップし、一つの巨大なイベントとして組織し始めていた。

 

 複数の利用者が、掲示板でこう提案している。

 

『せっかく場所が分かれているなら、全地点で指定時刻に同時に開けようぜ』

 

 先日の終電では、一か所の駅に大勢の人間が集中した。

 

 しかし今回は、記事自体が意図的に人を別々の場所へ散らしている。そして、転載Wikiがそれを再び『多地点同時検証企画』として一つにまとめてしまっているのだ。

 

「危険な記事を検証するためにネットで情報を集めて、その結果、記事の指示どおりに全員で一斉に動こうとしているんですか?」

 

『本人たちは、大勢で情報を共有することで、逆に危険を減らしているつもりなのでしょうね』

 

 外周から杖原が通信で答える。

 

『一人ではなく、大勢で連携する。中へ入らず、扉を開けるだけ。現場は配信して、何かあればすぐ逃げる。安全な検証だと思っているのでしょう』

 

「それで安全になるなら、先日もあんなことにはなっていないでしょうに」

 

『その危機認識がないから、行くんです』

 

 現時点で確認されているだけでも、記事の直接購入者は百人以上。Wikiへ投稿されたスクリーンショットは四十件前後。異なる指定地点は三十か所以上。現地への到着を報告している者は十数人。

 

 数字は増加し続けており、八咫烏は全購入者の身元も、全指定地点も把握しきれていない。

 

       *

 

 かれんが、通信回線を全体指揮用へ切り替えた。

 

 ここから、空気が一気に緊迫する。

 

 八咫烏はすでに、確認済み地点への実働員派遣、所轄警察への表向きの協力要請、建物管理者への緊急連絡、配信者および購入者の身元照会、サイトとWikiの常時監視、交通規制の準備を同時多発的に開始していた。

 

 しかし、問題は山積みだ。

 

 指定地点が増え続けていること。Wikiへ情報を出していない購入者がいること。

 

 そして何より、記事が指定した時刻まで、すでに残り三十分を切っていることだ。

 

「大元のサイトを閉じることはできないんですか?」

 

「監視班が試みていますが、以前と同様、通常の配信元へ物理的に接続できていません。表面上のページを消しても、すぐに別のアドレスから同じ内容が表示されてしまいます」

 

「じゃあ、現場へ急行して、一つずつ止めるしかない」

 

「はい」

 

 監視班が、確認済みの地点を共有の地図アプリへ重ねていく。

 

 東京二十三区を中心に、多数の赤い点が不気味に広がっていく。

 

 久我には、ただ無作為に散らばった点にしか見えない。しかし、千鶴は端末の画面を覗き込み、少し首を傾げた。

 

「……円ではありません」

 

「魔法陣のような配置ではない?」

 

「少なくとも、今分かっている地点だけでは」

 

「すべての地点が判明していない以上、形状の分析は後回しにします」

 

 かれんが判断を急ぐ。

 

 その直後、監視班から新たな地点が一つ追加された。

 

 画面が拡大され、見慣れた学校名が表示される。

 

『御影坂高校』

 

 数秒、全員が息を呑んで黙り込んだ。

 

「……ここ、ですか?」

 

「はい」

 

       *

 

 Wikiへ投稿されたスクリーンショットを確認する。

 

 投稿者名は匿名のハンドルネーム。

 

 記事に書かれた指定場所は、『御影坂高校・特別教室棟一階、旧視聴覚準備室前、北側廊下の突き当たり』。

 

 指定時刻は、二十五分後。識別番号も一緒に投稿されている。

 

 さらに、投稿者はWikiの掲示板にこう書き込んでいた。

 

『学校担当、現地到着』

 

『正門は閉まっていたけど、裏から入れた』

 

『表示灯はまだ出ていない』

 

『時間まで校内を見て回る』

 

 つまり、記事の購入者か、あるいはそれを見た代理の実行者が、すでにこの校内へ侵入しているということだ。

 

『外周の結界に、無理に破られた痕跡はありませんでしたが……今のところ、外周に人影は見当たりません』

 

 澪からの報告に、杖原が続く。

 

『侵入痕を詳しく探します。校内の結界記録も再確認します』

 

「七瀬さんと杖原さんは、外周と出入口を完全に封鎖してください。退出する人物がいれば、攻撃せず確保を。久我さんと千鶴さんは、私と一緒に指定地点へ向かいます」

 

「侵入者を探さなくていいんですか?」

 

「指定地点の確認を最優先します。侵入者が番号を読み上げる前に発見できればよいですが、すでに壁の前に到着している可能性があります」

 

       *

 

 三人が、特別教室棟の一階へ向かって薄暗い廊下を急ぐ。

 

 走りながら、かれんが注意事項を早口で伝えた。

 

「非常口が出現しても絶対に触れないこと。識別番号を口に出さないこと。記事画面を読み上げないこと。扉の向こうを直接覗かないこと。異常があっても単独で追わないこと。侵入者を見つけた場合は、まず記事を表示している端末から引き離すこと」

 

「でも、番号はもうWikiに出ていますよね」

 

「はい。ネットを見れば、誰でも読み上げられる状態です」

 

「購入者本人でなくても、扉を出せる可能性がある?」

 

「不明です。購入時のアカウントや端末と結びついている可能性もあります。逆に、番号さえ知っていれば誰でも実行できる可能性もあります」

 

「なら、Wikiに転載された時点で、実行者を一人止めても、別の人間が続けられますね」

 

 千鶴の冷静な指摘に、かれんが頷く。

 

「そのとおりです」

 

 ただ一人捕まえれば終わるような、単純な事件ではないのだ。

 

       *

 

 指定された特別教室棟一階、北側廊下の突き当たりへ到着した。

 

 防犯用の照明が一部だけ点灯している。

 

 廊下の突き当たりには、何もない白い壁があるだけだ。校内図でも避難経路図でも、そこに扉は存在しない。旧視聴覚準備室の入口は手前にあり、突き当たりは建物の外壁になっている。

 

 久我が、壁を注意深く確認する。

 

 新しい工事の跡はない。取っ手もない。隠し扉のような継ぎ目もない。非常灯の設備もない。人が隠れられるような場所も少ない。

 

「……ただの普通の壁に見えます」

 

「現在のところ、能力反応も確認できません」

 

 かれんの端末にも、異常は表示されていない。

 

 千鶴は、廊下横の窓へ目を向けた。

 

 現実の壁ではなく、暗い夜の窓ガラスに映った反射した廊下を確認する。

 

 一瞬、千鶴の表情が変わった。

 

「千鶴さん?」

 

「現実には、何もありません」

 

 千鶴が、窓を指差す。

 

「ですが、窓に映っている方には……あります」

 

       *

 

 久我とかれんも窓ガラスを見た。

 

 二人には、自分たちの姿と、ただの暗い廊下が反射しているようにしか見えない。

 

 しかし、千鶴の目にだけは、反射像の突き当たりに非常口の表示が見えていた。

 

 まだ扉はない。壁の上に、緑色の光だけがぽつんと浮かんでいる。

 

 表示の緑色の人型は、通常の非常口と同じだ。

 

 ただし、人型が出口へ向かって外へ走っているのではない。

 

 反対に、扉の外側から、廊下の中へ入ってくる姿になっている。

 

「……こちらへ向かっています」

 

「非常口の表示が?」

 

「はい。外へ逃げる方ではなく、こちらへ入ってくる形です」

 

 記事の言う非常口が、人間を安全な場所へ逃がすための出口ではないという、明確な示唆だった。

 

 かれんはすぐに監視班へ報告する。

 

「御影坂高校地点で、鏡面内に表示灯を確認。現実側および観測機器には反応なし」

 

 機械には何も記録されていない。千鶴の能力だけが、現実へ成立する前の怪異を捉えている。

 

       *

 

 その直後。

 

 廊下の奥ではなく、三人の背後から、コトンという小さな音がした。

 

 床へ何かが落ちた音だ。

 

 三人が一斉に振り返る。

 

 階段の近くに、携帯用の小型三脚が転がっていた。スマートフォンはセットされていない。

 

 代わりに、開封済みの清涼飲料水のボトルと、靴底が濡れた足跡が、床に点々と残っている。つい先ほどまで、確実に誰かがそこにいた。

 

 久我が、濡れた足跡を追う。

 

 足跡は階段側から来て、三脚の前で止まり、その先がない。

 

 戻った跡もない。壁へ近づいた跡もない。

 

 途中で、ふっと消えているのだ。

 

「ここにいた人は、どこへ行ったんです?」

 

 千鶴は再び窓ガラスの反射を見た。

 

 反射した廊下の中では、現実に存在しない見知らぬ人物が、壁の真ん前に立っている。

 

 背中しか見えない。片手にスマートフォンを持っている。

 

 その人物は、現実の廊下にはいない。

 

 鏡の中だけで、緑色の非常口表示を見上げているのだ。

 

「いました」

 

 千鶴が息を呑む。

 

「鏡の中に、誰かいます」

 

       *

 

 現実の廊下には、誰もいない。

 

 しかし、鏡の中の人物が、スマートフォンを見ながら口を動かしている。

 

 千鶴には声が聞こえない。久我たちにも当然聞こえない。

 

 ところが、かれんの端末が、不快な電子音とともに反応した。

 

 監視画面に表示されていた、御影坂高校分の記事の状態表示が変化したのだ。

 

《識別番号確認済み》

 

「今、番号を言ったんですか?」

 

「恐らく」

 

「記事側では、入力完了として処理されています」

 

 つまり、侵入者は、鏡面側、あるいは現実と重なった別の層へ、すでに取り込まれてしまったのだ。現実側の久我たちからは、もう確保できない。

 

       *

 

 監視班から、悲鳴のような緊急報告が入る。

 

 他の指定地点でも、『壁に非常口表示が出現した』『配信映像へ一瞬だけ金属の扉が映った』『現地へ到着した担当者の姿が消えた』『記事ページが識別番号確認済みへ変化した』『建物内部で、原因不明の非常ベルが鳴っている』という報告が、次々と通信を埋め尽くしていく。

 

 ただし、全地点ではない。

 

 すでに八咫烏が実行者を確保し、阻止した場所もある。時間になっても何も起きていない場所もある。

 

 それでも、必要数がいくつか分からない。

 

 一つでも開けば危険なのか。一定数が揃った時点で、巨大な怪異領域が成立するのか。まだ判断できない。

 

「全地点へ通達! 扉の出現を確認した場合、どんな手段を使ってでも開扉を阻止してください」

 

 かれんが鋭く指示を飛ばす。

 

「表示灯だけの場合も、周辺を完全に封鎖。記事の識別番号は、絶対に口にしないよう徹底を!」

 

       *

 

 御影坂高校の廊下。

 

 現実の壁の上に、今まで存在しなかった非常口の表示灯が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 今度は、久我とかれんの肉眼にもはっきりと見える。

 

 最初は、緑色。

 

 数秒後、内部の蛍光管から黒い筋のようなものが走り、緑色の光が消え、毒々しい赤色へと変わった。

 

 同時に、校内の非常ベルが、一度だけ鳴った。

 

 長くは鳴らない。

 

 ジリリリリ――!

 

 一度鳴って、ぴたりと止まる。

 

 直後、廊下の照明がすべて落ちた。

 

 赤い非常口の表示だけが、暗闇の中で不気味に光っている。

 

       *

 

 何もない壁の表面に、つう、と縦の線が入った。

 

 続いて横線。

 

 灰色の金属製の扉の輪郭が、壁の中から徐々に浮かび上がってくる。

 

 壁紙や塗装が剥がれて出てきたのではない。最初からそこに扉があったかのように、壁の構造そのものが、別の空間へと置き換わっていくのだ。

 

 灰色の重い金属扉。横向きのパニックバー。覗き窓はない。鍵穴もない。

 

 扉の下の隙間から、冷たい空気が流れ込んでくる。

 

 御影坂高校のものではない、古い油と埃の匂いが混じった空気だ。

 

 扉の向こうから、大勢のざわめき声が聞こえる。

 

 一か所からではない。

 

 男の下品な笑い声。女性の甲高い配信口調。多数の足音。駅の無機質なアナウンス。病院の電子機械音。車の警告音。別の学校のチャイムの音。

 

 東京各地の指定地点にいるであろう人々の発する音が、この一枚の扉の向こう側で、すべてぐちゃぐちゃに重なっている。

 

「これ、他の場所とつながっているんですか?」

 

「その可能性があります」

 

 千鶴は、窓ガラスの反射を見た。

 

 鏡の中では、その金属扉がすでに完全に開いている。

 

 その向こうには廊下などなく、無数の赤い非常口が果てしなく並ぶ、巨大な暗闇の空間が広がっていた。鏡の中の侵入者は、その暗闇の縁に立ち尽くしている。

 

「現実では閉じています」

 

 千鶴が警告する。

 

「ですが、鏡の中では、もう完全に開いています」

 

       *

 

 誰も操作していないはずの校内放送が、突然起動した。

 

 スピーカーから、性別も年齢も分からない、合成音声のような平坦な声が響く。

 

『識別番号を確認しました』

 

 短い電子音。

 

『御影坂高校非常口、接続準備を完了しました』

 

 久我たちが、目の前の扉を見る。

 

 パニックバーが、誰も触れていないのに、ガチャリと沈んだ。

 

 続いて、金属扉そのものが、向こう側から押されるようにこちらへ僅かにせり出した。

 

 誰かが、扉の向こうから開けようとしている。

 

 校内放送が、無機質に告げた。

 

『全非常口の開扉まで、あと十九分です』

 

 赤い表示灯の下で、存在しないはずの扉が、向こう側からもう一度大きく押された。

 

 向こうにいる何かが、一斉に開く時間を待っている。

 

 久我は、かれんの端末に並んだ、東京中の赤い点を見た。

 

 一枚ではない。

 

 自分たちが止めなければならない扉は、もう何十枚も存在していた。




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル歴史/冒険・バトル)

アメリカ建国250年おめでとうございます記念小説です。▼欧州の吸血鬼貴族ヴァレンシュタイン家に転生したルカは、始祖の血を濃く継ぐ「真祖の中の真祖」だった。▼霧化、影操作、自己再生、記憶読取、そして前世の記録から現代の物品や情報を引き寄せる力。▼無法なまでのチートを持って生まれたルカだったが、両親の価値観は最悪だった。人間牧場、血統管理、血の風呂。現代日本人の…


総合評価:1136/評価:6.32/連載:38話/更新日時:2026年08月06日(木) 15:36 小説情報

俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

佐藤健司、二十五歳、フリーター。▼時給千二百円の深夜コンビニバイトで心をすり減らし、奨学金の返済と将来への不安に押し潰されかけていた彼は、ある日、神保町の古本屋で一冊の胡散臭い本を見つける。▼その名も――▼『猿でも分かる魔法の使い方!!! ~今日から君も世界の理をハックしよう!~』▼一〇〇円で買ったその本は、開いてみれば中身が真っ白なだけのハズレ本。▼騙され…


総合評価:2835/評価:8.35/連載:52話/更新日時:2026年07月29日(水) 22:53 小説情報

銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ブラック企業で心身をすり減らした元社畜は、並行世界の地球軌道上に浮かぶ完全ステルス要塞〈サイト・アオ〉で目を覚ました。▼彼の新たな肉体は、銀河帝国の最高権力者のスペアとして培養された完全無欠のクローン「ティアナ・レグリア」。神のごとき超能力と超絶テクノロジーを行使し、広大な銀河での大冒険すら早々に「クリア」してしまった彼は決意する。▼「宇宙の覇権とか面倒くさ…


総合評価:2359/評価:6.77/連載:180話/更新日時:2026年07月09日(木) 17:16 小説情報

暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル歴史/戦記)

現代日本で死んだ主人公が転生した先は、江戸幕府を開いた徳川家。▼身分ガチャは大当たり――かと思いきや、幼名は国松。▼のちに兄・徳川家光と対立し、「暴君」と呼ばれて破滅するはずの徳川忠長だった。▼将軍の座など絶対にいらない。▼生き残るためには、兄・竹千代を全力で支え、「敵」ではなく「便利で忠実な弟」になるしかない。▼そう決意した国松が最初に始めたのは、天下の根…


総合評価:2039/評価:7.33/連載:139話/更新日時:2026年08月03日(月) 14:21 小説情報

陰陽師が居る日本に召喚されたのは元日本人【悪魔】(作者:庫磨鳥)(オリジナル現代/冒険・バトル)

【悪魔】へと転生した元日本人のヤマトは、文字通りなにも存在しない【地獄】での長い時を過ごす中、「日本へ行きたい」と願い続けていた。▼そんなある日。召喚陣が現れて飛び込んだら、そこは陰陽師と人外が存在する異なる日本だった。▼それでも日本にある事は変わりない。召喚主であるミサキと共に平和的に日本でスローライフを送りたいヤマトであったが、この日本では危険な『人外存…


総合評価:2234/評価:8.29/完結:48話/更新日時:2026年07月13日(月) 12:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>