35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第50話 吸血鬼、存在しない非常口の担当になる

 鏡宮家との息詰まるような面会から、数日が過ぎた。

 

 平日の夜。御影坂高校。

 

 授業も部活動もとうに終わり、生徒たちの気配が完全に消えた校内は、しんと静まり返っている。

 

 久我陽介たちは、通常の夜間巡回業務のため、指定された体育館側の控室へと集まっていた。

 

 京都の巨大な旧家を相手にした、あの胃の痛くなるような重い空気はここにはない。

 

 杖原つかさが、タブレットで今夜の巡回経路と、校内に張られた結界の直近の記録を事務的に確認している。七瀬澪は、机に広げた校内図を指でなぞりながら、自分が先行して異常を確認する区画を手早く決めていく。久我は八咫烏から貸与された端末で、前回の巡回記録と今夜の注意事項に目を通していた。

 

 鏡宮千鶴も、高校の制服姿でその輪の中に参加している。

 

 以前のように、家からの指示や誰かの許可を待って、自信なさげに部屋の端で黙って立っているのではない。自分から校内図の前に近づき、今夜の担当区画をしっかりと確認し、杖原と短いやり取りを交わしている。

 

 久我は、資料に視線を落とすふりをしながら、千鶴の様子を静かに観察していた。

 

 千鶴の表情が、手放しで明るくなったわけではない。

 

 本物の母親本人とは、まだ直接会えていない。面会した相手が母親ではなく当主代理であったという複雑な事実。そして、家督や継承儀式の根本的な問題も、解決したわけではなく保留のままだ。

 

 それでも、鏡宮家へ無理やり連れ戻され、自分という存在を失うかもしれないという切迫した恐怖は、今の彼女からは薄れている。

 

 千鶴自身が、誰と、どの立場で、どこまで話すかを、自分で決められる状態になったからだ。

 

 久我は無理に声をかけたりせず、千鶴が他のメンバーと同じように、ただの班の一員として普通に準備を進める様子を見守った。

 

       *

 

 巡回開始の前、皇かれんが千鶴へ向かって事務的な報告を行った。

 

「千鶴さん。鏡宮家から、先日の私たちの要求と回答を、正式に了承する旨の文書が届きました」

 

「……はい」

 

 内容は、以下の通りだ。

 

 今後、当主代理を母親本人として扱うような虚偽の表現はしない。当主代理との交渉は、あくまで鏡宮家の正式な代理人として行う。千鶴の現在の居場所を探るような監視行為は行わない。《鎮鏡の儀》への参加を強制しない。母親本人との面会については、第三者の医療機関による状態確認後に改めて協議する。そして、直接接触を行う場合は、必ず千鶴本人の明確な同意を事前に得る。

 

 完全な解決ではない。

 

 しかし、少なくとも鏡宮家は、千鶴と八咫烏が引いた境界線を、正式な文書の形で受け入れたのだ。

 

「この了承に対して、こちらから返答を急ぐ必要はありません。鏡宮家からも、交渉の期限は指定されていません」

 

「はい。母上のこと、そして家のことは……今は、保留にします」

 

 千鶴が、真っ直ぐにかれんを見て答えた。

 

「保留も、ちゃんとした立派な判断の一つだと思いますよ」

 

 久我が横から口を挟む。

 

 千鶴は、少しだけ安堵したように久我を見た。

 

「以前の私なら、目の前の問題に対して何も決められない自分を、鏡宮家の跡取りとして恥じていたと思います。ですが……今は、あえて『決めない』という選択もあるのだと、少しだけ分かりました」

 

「俺も三十五年生きていますけど、保留にして積み上げていることなんて山ほどありますよ」

 

「陽介さんの場合、単に面倒くさがって後回しにしてるだけのことも多くない?」

 

 澪がからかうように言う。

 

「……それも完全には否定できないけどね」

 

 久我が苦笑すると、控室の空気が少しだけ緩んだ。千鶴も、小さく声を立てて笑った。

 

 京都の因習に縛られていた重い余韻は、ここで静かに解けていった。

 

       *

 

「それでは、本日の巡回を開始します」

 

 かれんの指示で、班を二つに分ける。

 

 先行確認班は、澪と杖原。

 

 澪が高い機動力を生かして校庭と体育館の外周を先行し、杖原がその後を追いながら、校地を覆う結界の端に異常がないかを確認する。

 

 校内確認班は、久我、千鶴、そしてかれん。

 

 特別教室棟と本館一階の内部を歩いて巡回する。ただし、かれんは全体監督として、手元の端末で両班の通信を常に聞きながらの同行だ。

 

 久我と千鶴が並んで、真っ暗な校内の廊下を歩く。

 

 千鶴は、廊下の窓ガラス、手洗い場の鏡、消火器収納箱のガラス面など、反射面を時折立ち止まって確認している。

 

「何か、見えますか?」

 

「今のところは、何も」

 

 千鶴は静かに首を振った。

 

「何も映らないことを確認するのも、この巡回の仕事ですから」

 

 以前なら、鏡宮家の能力を使うたびに、過去の記憶や家の重圧を思い出してひどく緊張していた。

 

 しかし今は、自分の能力として、必要な範囲で冷静に扱っている。久我は、その確かな変化を言葉には出さず、頼もしく受け止めた。

 

       *

 

 巡回開始から、十分ほどが過ぎた頃。

 

 かれんの端末へ、通常とは異なる高い優先度の着信音が鳴った。

 

 発信元は、例の『有料怪異情報サイト』を専門に監視している、八咫烏の内部情報班だ。

 

 かれんが足を止める。久我と千鶴も、それに合わせて立ち止まった。

 

 かれんは短い応答の後、端末の画面を見つめたまま、僅かに表情を険しくした。

 

「新しい記事が掲載されました」

 

「あの有料サイトですか?」

 

「はい。今回は……先日の事件よりも、情報が拡散する速度が異常に速いようです」

 

 久我が顔をしかめる。

 

「先日、あんな最終電車の事件があったばかりなのに、まだあのサイトの記事を買う人がいるんですか?」

 

 通信回線へ戻ってきた杖原が、外周から答えた。

 

『先日のあの事件が、本物の怪異だったからこそ、一気に増えたんです』

 

『作り話やただのオカルトなら、一度で飽きられます。しかし、実際に人が消え、本当に怪異へ接触できると証明されてしまった以上、今まで興味を持たなかった層まで集まってきてしまいます』

 

「悪い実績が、一番の宣伝になっているわけですか」

 

『そういうことです』

 

       *

 

 かれんが、監視班から転送されてきた記事の画面を、久我と千鶴へ見せた。

 

 端末に表示された、新しい記事のタイトル。

 

『存在しない非常口の開け方』

 

 そのすぐ下には、運営者からの挨拶のような文章があった。

 

『先日の最終電車は、予告なく運休となりました。ご利用予定だった皆様には、深くお詫び申し上げます。代替手段として、今夜は都内各所に臨時非常口をご用意しました』

 

 久我はそれを読み、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「これ、完全にこの間の終電のことを書いてありますよね」

 

「そう読めます」

 

「運営者は、あの電車が消えたことを知っている?」

 

「可能性は高いです。ただし、記事がシステムによって自動的に更新された可能性や、怪異そのものが文章へ直接干渉した可能性も残っています」

 

「運営者が、そもそも人間とも限らない、と」

 

「現時点では、何も断定できません」

 

 かれんは、事実と推測を冷静に切り分けた。

 

       *

 

 監視班から、立て続けに追加の報告が入る。

 

 あの『無断転載Wiki』の掲示板で、購入者同士が自分たちの記事内容を比較し始めているというのだ。

 

 記事のタイトル、注意書き、手順、そして指定時刻は、購入者全員で共通している。

 

 手順は以下の通り。

 

 一、指定時刻の五分前までに、指定された壁の前へ立つこと。

 

 二、壁の上に緑色の非常口表示が現れるまで待つこと。

 

 三、表示が点灯したら、割り当てられた識別番号を一度だけ読み上げること。

 

 四、非常口表示が赤色へ変わった後、現れた扉を完全に開くこと。

 

 五、扉の向こう側へ入ってはならない。内部を覗いてもならない。

 

 六、扉を開いたまま三十歩離れ、背を向けること。

 

 記事は、「中へ入らなければ危険はない」「扉を開けるだけでよい」「実行者は別世界を直接見る必要がない」という、安全性を強調する書き方をしている。

 

 先日の終電事件が危険だったと知る者でも、「今度は乗る必要がない」「扉を開けるだけなら検証できる」と考えやすい、狡猾な内容だった。

 

 しかし、問題は別のところにあった。

 

「指定場所と識別番号が、購入者ごとにすべて違うようです」

 

 かれんが、端末に複数のスクリーンショットを並べた。

 

 地下駐車場の突き当たり。閉鎖中の雑居ビル三階。駅地下通路の工事用壁面。病院の旧病棟。マンションの共用廊下。公共施設の倉庫前。

 

「同じ記事を買ったのに、全員が違う場所へ行かされるんですか?」

 

「そのようです」

 

「識別番号も、すべて異なっていますね」

 

 千鶴が画面を指差す。

 

「はい。一つの共通記事ではなく、購入者一人一人ごとに、個別の手順と場所を配っていると考えた方がよいでしょう」

 

「だったら、記事の代金は、ただの情報料じゃないですよね」

 

 久我の指摘に、かれんが頷く。

 

「一人ずつ違う場所と番号を割り当てているなら、記事を買った時点で『参加者』として向こう側に登録されているように見えますね」

 

「監視班も、同じ見解です」

 

 ただし、それが何への参加登録なのかは分からない。

 

 誰も、この段階で一連の手順を儀式だと断定することはできなかった。

 

       *

 

 さらに厄介なことに、転載Wiki側が、勝手に事態を悪化させていた。

 

 監視班が共有したWikiの専用ページでは、利用者たちが自発的に、『スクリーンショット募集』『場所別の担当者一覧』『現地到着報告』『配信URL』『指定場所の写真』などをリストアップし、一つの巨大なイベントとして組織し始めていた。

 

 複数の利用者が、掲示板でこう提案している。

 

『せっかく場所が分かれているなら、全地点で指定時刻に同時に開けようぜ』

 

 先日の終電では、一か所の駅に大勢の人間が集中した。

 

 しかし今回は、記事自体が意図的に人を別々の場所へ散らしている。そして、転載Wikiがそれを再び『多地点同時検証企画』として一つにまとめてしまっているのだ。

 

「危険な記事を検証するためにネットで情報を集めて、その結果、記事の指示どおりに全員で一斉に動こうとしているんですか?」

 

『本人たちは、大勢で情報を共有することで、逆に危険を減らしているつもりなのでしょうね』

 

 外周から杖原が通信で答える。

 

『一人ではなく、大勢で連携する。中へ入らず、扉を開けるだけ。現場は配信して、何かあればすぐ逃げる。安全な検証だと思っているのでしょう』

 

「それで安全になるなら、先日もあんなことにはなっていないでしょうに」

 

『その危機認識がないから、行くんです』

 

 現時点で確認されているだけでも、記事の直接購入者は百人以上。Wikiへ投稿されたスクリーンショットは四十件前後。異なる指定地点は三十か所以上。現地への到着を報告している者は十数人。

 

 数字は増加し続けており、八咫烏は全購入者の身元も、全指定地点も把握しきれていない。

 

       *

 

 かれんが、通信回線を全体指揮用へ切り替えた。

 

 ここから、空気が一気に緊迫する。

 

 八咫烏はすでに、確認済み地点への実働員派遣、所轄警察への表向きの協力要請、建物管理者への緊急連絡、配信者および購入者の身元照会、サイトとWikiの常時監視、交通規制の準備を同時多発的に開始していた。

 

 しかし、問題は山積みだ。

 

 指定地点が増え続けていること。Wikiへ情報を出していない購入者がいること。

 

 そして何より、記事が指定した時刻まで、すでに残り三十分を切っていることだ。

 

「大元のサイトを閉じることはできないんですか?」

 

「監視班が試みていますが、以前と同様、通常の配信元へ物理的に接続できていません。表面上のページを消しても、すぐに別のアドレスから同じ内容が表示されてしまいます」

 

「じゃあ、現場へ急行して、一つずつ止めるしかない」

 

「はい」

 

 監視班が、確認済みの地点を共有の地図アプリへ重ねていく。

 

 東京二十三区を中心に、多数の赤い点が不気味に広がっていく。

 

 久我には、ただ無作為に散らばった点にしか見えない。しかし、千鶴は端末の画面を覗き込み、少し首を傾げた。

 

「……円ではありません」

 

「魔法陣のような配置ではない?」

 

「少なくとも、今分かっている地点だけでは」

 

「すべての地点が判明していない以上、形状の分析は後回しにします」

 

 かれんが判断を急ぐ。

 

 その直後、監視班から新たな地点が一つ追加された。

 

 画面が拡大され、見慣れた学校名が表示される。

 

『御影坂高校』

 

 数秒、全員が息を呑んで黙り込んだ。

 

「……ここ、ですか?」

 

「はい」

 

       *

 

 Wikiへ投稿されたスクリーンショットを確認する。

 

 投稿者名は匿名のハンドルネーム。

 

 記事に書かれた指定場所は、『御影坂高校・特別教室棟一階、旧視聴覚準備室前、北側廊下の突き当たり』。

 

 指定時刻は、二十五分後。識別番号も一緒に投稿されている。

 

 さらに、投稿者はWikiの掲示板にこう書き込んでいた。

 

『学校担当、現地到着』

 

『正門は閉まっていたけど、裏から入れた』

 

『表示灯はまだ出ていない』

 

『時間まで校内を見て回る』

 

 つまり、記事の購入者か、あるいはそれを見た代理の実行者が、すでにこの校内へ侵入しているということだ。

 

『外周の結界に、無理に破られた痕跡はありませんでしたが……今のところ、外周に人影は見当たりません』

 

 澪からの報告に、杖原が続く。

 

『侵入痕を詳しく探します。校内の結界記録も再確認します』

 

「七瀬さんと杖原さんは、外周と出入口を完全に封鎖してください。退出する人物がいれば、攻撃せず確保を。久我さんと千鶴さんは、私と一緒に指定地点へ向かいます」

 

「侵入者を探さなくていいんですか?」

 

「指定地点の確認を最優先します。侵入者が番号を読み上げる前に発見できればよいですが、すでに壁の前に到着している可能性があります」

 

       *

 

 三人が、特別教室棟の一階へ向かって薄暗い廊下を急ぐ。

 

 走りながら、かれんが注意事項を早口で伝えた。

 

「非常口が出現しても絶対に触れないこと。識別番号を口に出さないこと。記事画面を読み上げないこと。扉の向こうを直接覗かないこと。異常があっても単独で追わないこと。侵入者を見つけた場合は、まず記事を表示している端末から引き離すこと」

 

「でも、番号はもうWikiに出ていますよね」

 

「はい。ネットを見れば、誰でも読み上げられる状態です」

 

「購入者本人でなくても、扉を出せる可能性がある?」

 

「不明です。購入時のアカウントや端末と結びついている可能性もあります。逆に、番号さえ知っていれば誰でも実行できる可能性もあります」

 

「なら、Wikiに転載された時点で、実行者を一人止めても、別の人間が続けられますね」

 

 千鶴の冷静な指摘に、かれんが頷く。

 

「そのとおりです」

 

 ただ一人捕まえれば終わるような、単純な事件ではないのだ。

 

       *

 

 指定された特別教室棟一階、北側廊下の突き当たりへ到着した。

 

 防犯用の照明が一部だけ点灯している。

 

 廊下の突き当たりには、何もない白い壁があるだけだ。校内図でも避難経路図でも、そこに扉は存在しない。旧視聴覚準備室の入口は手前にあり、突き当たりは建物の外壁になっている。

 

 久我が、壁を注意深く確認する。

 

 新しい工事の跡はない。取っ手もない。隠し扉のような継ぎ目もない。非常灯の設備もない。人が隠れられるような場所も少ない。

 

「……ただの普通の壁に見えます」

 

「現在のところ、能力反応も確認できません」

 

 かれんの端末にも、異常は表示されていない。

 

 千鶴は、廊下横の窓へ目を向けた。

 

 現実の壁ではなく、暗い夜の窓ガラスに映った反射した廊下を確認する。

 

 一瞬、千鶴の表情が変わった。

 

「千鶴さん?」

 

「現実には、何もありません」

 

 千鶴が、窓を指差す。

 

「ですが、窓に映っている方には……あります」

 

       *

 

 久我とかれんも窓ガラスを見た。

 

 二人には、自分たちの姿と、ただの暗い廊下が反射しているようにしか見えない。

 

 しかし、千鶴の目にだけは、反射像の突き当たりに非常口の表示が見えていた。

 

 まだ扉はない。壁の上に、緑色の光だけがぽつんと浮かんでいる。

 

 表示の緑色の人型は、通常の非常口と同じだ。

 

 ただし、人型が出口へ向かって外へ走っているのではない。

 

 反対に、扉の外側から、廊下の中へ入ってくる姿になっている。

 

「……こちらへ向かっています」

 

「非常口の表示が?」

 

「はい。外へ逃げる方ではなく、こちらへ入ってくる形です」

 

 記事の言う非常口が、人間を安全な場所へ逃がすための出口ではないという、明確な示唆だった。

 

 かれんはすぐに監視班へ報告する。

 

「御影坂高校地点で、鏡面内に表示灯を確認。現実側および観測機器には反応なし」

 

 機械には何も記録されていない。千鶴の能力だけが、現実へ成立する前の怪異を捉えている。

 

       *

 

 その直後。

 

 廊下の奥ではなく、三人の背後から、コトンという小さな音がした。

 

 床へ何かが落ちた音だ。

 

 三人が一斉に振り返る。

 

 階段の近くに、携帯用の小型三脚が転がっていた。スマートフォンはセットされていない。

 

 代わりに、開封済みの清涼飲料水のボトルと、靴底が濡れた足跡が、床に点々と残っている。つい先ほどまで、確実に誰かがそこにいた。

 

 久我が、濡れた足跡を追う。

 

 足跡は階段側から来て、三脚の前で止まり、その先がない。

 

 戻った跡もない。壁へ近づいた跡もない。

 

 途中で、ふっと消えているのだ。

 

「ここにいた人は、どこへ行ったんです?」

 

 千鶴は再び窓ガラスの反射を見た。

 

 反射した廊下の中では、現実に存在しない見知らぬ人物が、壁の真ん前に立っている。

 

 背中しか見えない。片手にスマートフォンを持っている。

 

 その人物は、現実の廊下にはいない。

 

 鏡の中だけで、緑色の非常口表示を見上げているのだ。

 

「いました」

 

 千鶴が息を呑む。

 

「鏡の中に、誰かいます」

 

       *

 

 現実の廊下には、誰もいない。

 

 しかし、鏡の中の人物が、スマートフォンを見ながら口を動かしている。

 

 千鶴には声が聞こえない。久我たちにも当然聞こえない。

 

 ところが、かれんの端末が、不快な電子音とともに反応した。

 

 監視画面に表示されていた、御影坂高校分の記事の状態表示が変化したのだ。

 

《識別番号確認済み》

 

「今、番号を言ったんですか?」

 

「恐らく」

 

「記事側では、入力完了として処理されています」

 

 つまり、侵入者は、鏡面側、あるいは現実と重なった別の層へ、すでに取り込まれてしまったのだ。現実側の久我たちからは、もう確保できない。

 

       *

 

 監視班から、悲鳴のような緊急報告が入る。

 

 他の指定地点でも、『壁に非常口表示が出現した』『配信映像へ一瞬だけ金属の扉が映った』『現地へ到着した担当者の姿が消えた』『記事ページが識別番号確認済みへ変化した』『建物内部で、原因不明の非常ベルが鳴っている』という報告が、次々と通信を埋め尽くしていく。

 

 ただし、全地点ではない。

 

 すでに八咫烏が実行者を確保し、阻止した場所もある。時間になっても何も起きていない場所もある。

 

 それでも、必要数がいくつか分からない。

 

 一つでも開けば危険なのか。一定数が揃った時点で、巨大な怪異領域が成立するのか。まだ判断できない。

 

「全地点へ通達! 扉の出現を確認した場合、どんな手段を使ってでも開扉を阻止してください」

 

 かれんが鋭く指示を飛ばす。

 

「表示灯だけの場合も、周辺を完全に封鎖。記事の識別番号は、絶対に口にしないよう徹底を!」

 

       *

 

 御影坂高校の廊下。

 

 現実の壁の上に、今まで存在しなかった非常口の表示灯が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 今度は、久我とかれんの肉眼にもはっきりと見える。

 

 最初は、緑色。

 

 数秒後、内部の蛍光管から黒い筋のようなものが走り、緑色の光が消え、毒々しい赤色へと変わった。

 

 同時に、校内の非常ベルが、一度だけ鳴った。

 

 長くは鳴らない。

 

 ジリリリリ――!

 

 一度鳴って、ぴたりと止まる。

 

 直後、廊下の照明がすべて落ちた。

 

 赤い非常口の表示だけが、暗闇の中で不気味に光っている。

 

       *

 

 何もない壁の表面に、つう、と縦の線が入った。

 

 続いて横線。

 

 灰色の金属製の扉の輪郭が、壁の中から徐々に浮かび上がってくる。

 

 壁紙や塗装が剥がれて出てきたのではない。最初からそこに扉があったかのように、壁の構造そのものが、別の空間へと置き換わっていくのだ。

 

 灰色の重い金属扉。横向きのパニックバー。覗き窓はない。鍵穴もない。

 

 扉の下の隙間から、冷たい空気が流れ込んでくる。

 

 御影坂高校のものではない、古い油と埃の匂いが混じった空気だ。

 

 扉の向こうから、大勢のざわめき声が聞こえる。

 

 一か所からではない。

 

 男の下品な笑い声。女性の甲高い配信口調。多数の足音。駅の無機質なアナウンス。病院の電子機械音。車の警告音。別の学校のチャイムの音。

 

 東京各地の指定地点にいるであろう人々の発する音が、この一枚の扉の向こう側で、すべてぐちゃぐちゃに重なっている。

 

「これ、他の場所とつながっているんですか?」

 

「その可能性があります」

 

 千鶴は、窓ガラスの反射を見た。

 

 鏡の中では、その金属扉がすでに完全に開いている。

 

 その向こうには廊下などなく、無数の赤い非常口が果てしなく並ぶ、巨大な暗闇の空間が広がっていた。鏡の中の侵入者は、その暗闇の縁に立ち尽くしている。

 

「現実では閉じています」

 

 千鶴が警告する。

 

「ですが、鏡の中では、もう完全に開いています」

 

       *

 

 誰も操作していないはずの校内放送が、突然起動した。

 

 スピーカーから、性別も年齢も分からない、合成音声のような平坦な声が響く。

 

『識別番号を確認しました』

 

 短い電子音。

 

『御影坂高校非常口、接続準備を完了しました』

 

 久我たちが、目の前の扉を見る。

 

 パニックバーが、誰も触れていないのに、ガチャリと沈んだ。

 

 続いて、金属扉そのものが、向こう側から押されるようにこちらへ僅かにせり出した。

 

 誰かが、扉の向こうから開けようとしている。

 

 校内放送が、無機質に告げた。

 

『全非常口の開扉まで、あと十九分です』

 

 赤い表示灯の下で、存在しないはずの扉が、向こう側からもう一度大きく押された。

 

 向こうにいる何かが、一斉に開く時間を待っている。

 

 久我は、かれんの端末に並んだ、東京中の赤い点を見た。

 

 一枚ではない。

 

 自分たちが止めなければならない扉は、もう何十枚も存在していた。




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