35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第52話 吸血鬼、吸血鬼だけの街へ行く

 御影坂高校、夜間警備班の控室。

 

 存在しない非常口の事件から、さらに数日が経過していた。

 

 東京全域へ未知の何かが搬入された可能性について、八咫烏は実働部隊を動員して昼夜を問わず捜索を継続している。

 

 しかし、結界網の異常や、原因不明の怪異事件など、あの夜の出来事と明確に関連づけられる報告は、今日に至るまで一件も上がっていなかった。

 

「引き続き、各所での監視体制を継続します」

 

 皇かれんが、手元のタブレットから視線を上げて短く締めくくった。

 

 緊迫感はあるが、手がかりゼロの状況ではこれ以上議論を長引かせても意味がない。

 

「久我さん。本日の巡回とは別件で、もう一件だけ連絡があります」

 

「何か、新しい手がかりでも見つかりましたか?」

 

 久我陽介は、てっきり侵入者関連の続報だと思って身を乗り出した。

 

「いえ。以前こちらで保護した、未登録の越境吸血鬼三名についてです」

 

 久我は一瞬、きょとんとした顔になった。

 

「……ああ。ホテル月影の事件の前に会った、あの三人ですか?」

 

       *

 

 かれんからの報告は簡潔だった。

 

 あの三人の女性吸血鬼たちは、八咫烏の施設で必要な事情聴取と処分、保護手続きをすべて終え、すでに日本吸血鬼側の『社会復帰支援プログラム』へと移行したという。

 

 身元保証と正式な能力者登録も完了し、現在は三人とも、東京都内から隔離接続されている『吸血鬼街』で生活を始めている。しかも三人一緒に住居を確保し、生活基盤も整い始めているとのことだった。

 

「へえ……よかったですね」

 

 久我は、素直に安堵の息を吐いた。

 

 あの三人は、日本へ密入国して強盗を働いた犯罪者だ。その事実は消えない。

 

 しかし、彼女たちは元々、海外の吸血鬼街のスラム地区を住民ごと一括で追放され、行き場を失って日本へ流れ着いた難民でもあった。八咫烏は、その背景と犯罪行為を冷静に分けて処理し、実際に社会復帰へと繋げたのだ。

 

「その三名から、久我さんと一度会いたいという希望が正式に出ています」

 

「……俺と、ですか?」

 

「はい」

 

 久我は少し考え込んだ。

 

 最初に会った時、久我は夜の路地裏で彼女たちに襲われ、血液パックを強盗された。そのまま三人との戦闘になり、久我は一人を締め落とし、駆けつけた剣持によって残る二人は首を落とされている。

 

 普通に考えれば、かなり気まずい再会になるはずだ。

 

「……まさか、お礼参りとかではないですよね?」

 

「社会復帰プログラムを終えた直後に、自分の立場を危うくするような真似をするほど、判断力のない三名ではないと思います」

 

「ですよね」

 

 久我は少し悩んでから、頷いた。

 

「うーん……吸血鬼街、かぁ。俺、吸血鬼になってから一度もそういう場所に行ったことないですし。社会勉強も兼ねて、一度行ってみてもいいかもしれませんね」

 

「では、その方向で先方と面会の日時を調整します」

 

       *

 

 数日後の、休日。夕方。

 

 久我は一人で、八咫烏から事前に送られてきた案内に従い、東京都内の指定された地点へと向かっていた。

 

 吸血鬼街への入口は、想像していたよりもずっと地味だった。

 

 案内されたのは、都内にあるごく普通の大型複合施設の地下駐車場。そのさらに奥にある、関係者以外立入禁止の無機質な鉄扉の前だ。

 

 一般人から見れば、単なる業務用通路の入り口にしか見えない。

 

 扉の横にある小さな受付ブースで、久我は吸血鬼としての登録情報と、本日の訪問許可証を提示した。

 

「……俺、自分も吸血鬼なのに、吸血鬼街へ入るのに厳密な本人確認されるんですね」

 

 久我が少し不思議そうに言うと、受付に座っていた男性の吸血鬼が、淡々と答えた。

 

「久我様は、ここの住民として登録されていませんから」

 

 ごもっともな理屈だった。

 

 係員に案内され、重い鉄扉の奥の通路へと足を踏み入れる。

 

 ただのコンクリート打ちっ放しの地下通路だ。

 

 しかし、一定の地点――恐らく空間を隔てる強力な結界のライン――を越えた瞬間、目の前の奥行きがおかしくなった。

 

 数十メートルしかないはずの地下通路の先に、オレンジ色に染まる夕暮れの街並みが突然広がっていたのだ。

 

 通路を抜ける。

 

 頭上には、本物と区別のつかない夕暮れの空がある。アスファルトの道路がある。立ち並ぶビルや店舗がある。

 

 久我は、思わずその場で立ち止まった。

 

「……本当に、一つの街だ」

 

       *

 

 久我が勝手に想像していた吸血鬼の街は、西洋風の古城がそびえ立ち、尖塔のあるゴシック建築が並び、路地裏には棺桶が置かれているような、いかにも『吸血鬼らしい』薄暗い街だった。

 

 しかし実際の景色は、驚くほど『普通』だった。

 

 現代的なデザインのマンション。ガラス張りのスーパーマーケット。見慣れた看板のコンビニ。小さな診療所。クリーニング店。喫茶店。飲食店。遊具のある小さな公園。そして、見慣れた道路交通標識。

 

 東京の郊外にある、ちょっとしたベッドタウンの風景とほとんど変わらない。

 

 だが、よく見ると細部が全部少しずつ違っていた。

 

 スーパーの入り口近くには、野菜や肉ではなく、『血液製剤・代替血液・吸血鬼用栄養食品』がズラリと並んだ巨大な専用冷蔵棚が設置されている。

 

 飲食店の前のメニュー看板には、『A型血液入り特製スープ』『血液ベースカクテル』などの文字が普通に踊っている。

 

 薬局のショーウィンドウには、『飢餓抑制用ドロップ』『再生時栄養補助食品』『強力遮光クリーム・UVカット衣類』といった商品が、目玉商品として大量に陳列されている。

 

 建物の窓という窓は、すべて極めて遮光性能の高い特殊なガラスや厚いシャッターで覆われている。

 

 そして、生活の時間帯が人間社会より大きく後ろへずれている。夕方になって、ようやく街全体の店が本格的にシャッターを開け、活動を始めようとしていた。

 

       *

 

 何より久我にとって異様だったのは、すれ違う人々だ。

 

 道行くサラリーマン風の男。スーパーの制服を着た店員。スマホを見ながら歩く学生。杖をついた老人。走り回る子供。買い物袋を下げた主婦。犬の散歩をしている男性。ベンチで缶ジュースを飲みながら喋っている若者たち。

 

 その全員が、例外なく『吸血鬼』なのだ。

 

 久我には分かる。同族特有の、血の匂いとは違う微かな感覚がある。

 

「……本当に全員、吸血鬼なんだな」

 

 これは久我にとって、ちょっとしたカルチャーショックだった。

 

 今まで久我の周囲では、圧倒的多数の人間社会の中に、自分たち吸血鬼がごく少数だけ息を潜めて混ざっているのが当たり前だった。

 

 しかし、ここでは完全に逆だ。

 

 吸血鬼であることが、絶対的な『普通』なのだ。

 

 笑った時に見える鋭い牙を、手で隠す必要もない。夕方なのに分厚い遮光グラスをかけて歩いていても、誰も変な目で見ない。スーパーの袋から赤い血液パックが透けて見えていても、誰も悲鳴を上げない。

 

       *

 

 指定された、街角にある小さな時計台の広場。

 

 久我がキョロキョロと三人を探していると、向こうから先に見つけて声をかけてきた。

 

「おっ」

 

「来た来た」

 

「おじさーん、こっちこっち!」

 

 久我は溜め息をついて歩み寄った。

 

「……その『おじさん』って呼び方、まだ続くんですか?」

 

 パーカー姿のリーダー格の女、オフィスカジュアル姿の冷静な女、そして派手な私服姿の女。

 

 三人は、顔を見合わせてケラケラと笑った。

 

 久我は一瞬、三人の姿をまじまじと見直した。

 

 明らかに、以前出会った時とは違っていた。

 

 着ている服が、ボロボロの古着ではなく、ちゃんとした清潔なものになっている。痩せこけていた頬には少しだけ肉が付き、血色が良くなっている。

 

 何より、ハンターや八咫烏を警戒して、常に周囲をギョロギョロと見回していたあの獣のような空気が消えている。飢餓感もない。

 

 以前は、明日を生き延びるための殺気立った鋭さがずっとあった。今は、その緊張の糸が完全に緩み、平穏な生活者の顔になっている。

 

「……元気そうですね」

 

「超元気!」

 

 パーカー女がピースサインを作る。

 

「見れば分かるでしょ」

 

 オフィス女が肩をすくめる。

 

「そっちのおじさんは? まだあの後も、変な事件に巻き込まれてんの?」

 

 派手女が尋ねる。

 

「まあ……ぼちぼち、ですかね」

 

 久我は苦笑して誤魔化した。わざわざ、数日前の『存在しない非常口』のような物騒な話を、ここで教える必要はない。

 

       *

 

「日本の生活はどうですか?」

 

 久我が尋ねると、三人は顔を見合わせ、声を揃えるように言った。

 

「最高」

 

「マジで、日本で捕まってよかったわー」

 

「……それ、警察に捕まった本人が言う台詞なんですか」

 

 久我がツッコミを入れるが、三人は本気だった。

 

 彼女たちの野良状態の時は悲惨だった。まともな血液供給はなく、公的な身分証もなく、安全な住居もない。常に追跡を警戒し、強盗などの犯罪でその日暮らしの血を食いつなぐしかなかった。

 

 しかし今は違う。

 

 八咫烏に正式に登録され、身分がある。この安全な街に住居がある。定期的な正規の血液供給を受けられる。生活のための仕事も斡旋してもらえる。三人一緒に暮らすことが許されている。

 

 そして何より、吸血鬼ハンターを恐れて毎晩逃げ回る必要がない。

 

「ちゃんと、三人一緒に住んでるんですね」

 

「当然でしょ」

 

「今さら、別々の部屋に住む理由ないしね」

 

「それに、家賃も三人で割った方が絶対安く済むし」

 

 最後だけ、妙に現実的な理由だった。

 

       *

 

「まあ、立ち話もなんだし、そこの喫茶店行こっか」

 

 パーカー女が、広場のすぐ横にあるレンガ造りの店を指差した。

 

「……吸血鬼街にも、普通に喫茶店ってあるんですね」

 

「あるに決まってるでしょ」

 

「吸血鬼だって、お茶くらいするわよ」

 

「いや、そりゃそうなんですけど」

 

 久我の認識が、いかに人間社会の常識に偏っているかを自覚させられる。

 

 店へ向かって歩きながら、三人が勝手に街の案内を始めた。

 

「あそこが一番大きいスーパー。夕方の特売が狙い目」

 

「でも、血のパックはあっちの角の店の方が少しだけ安いよ」

 

「提携してる病院はあそこね。怪我したらあそこに行くの」

 

「あの路地の奥にある店の、夜中に出す飯がうまいんだよねー」

 

 久我はキョロキョロと首を振り、完全に初めて海外旅行へ来た観光客になっていた。

 

       *

 

 喫茶店の店内は、内装もテーブルも、驚くほど普通の喫茶店だった。

 

 しかし、渡されたメニューが微妙におかしかった。

 

 コーヒー。紅茶。ケーキ。サンドイッチなどの軽食。

 

 そこまではいい。だが、それに並んで、『血液入りカフェオレ』『血液ベースの特製栄養ドリンク』『各種血液製剤(O型・A型・B型・AB型完備)』などが、ごく普通に写真付きで載っている。

 

「……こうやって、普通の美味しそうなメニューの中に血液のパックが並んでるのを見ると、すごい光景ですね」

 

「何が?」

 

「普通じゃん」

 

 三人は、久我が何に驚いているのか全く理解できないという顔をした。地元民にとっては当たり前すぎるのだ。

 

 久我は、自分が吸血鬼としてはまだまだ新参者なのだと、改めて実感した。

 

       *

 

 それぞれ注文を終え、飲み物が運ばれてきた。

 

 久我は、三人の過去について軽く触れてみた。

 

「そういえば、皆さんが日本に来る前に住んでいたのも、こういう吸血鬼だけが集まる街だったんですよね?」

 

「あー。おじさん、うちらの事情、八咫烏から聞いてる?」

 

 パーカー女がストローを咥えながら言う。

 

「ある程度は」

 

 以前、かれんと剣持から聞いた内容だ。海外の特定吸血鬼街。その中心部には、古い血統の貴族や富裕層が住んでいる。しかし三人がいたのは、行政の保護もまともに届かない周縁の無法なスラム地区。そして、大規模な事件をきっかけに、スラムの住民が一人ずつ審査されることもなく、街から一括で追放されたという話。

 

「そうそう。まとめてゴミみたいにポイよ、ポイ」

 

 パーカー女が、指で何かを弾き飛ばすような仕草をする。

 

「……ずいぶん、言い方が軽いですね」

 

「そりゃ、今だからね」

 

 彼女たちは、過去の悲惨な境遇を、これ見よがしに長々と語って同情を引こうとはしなかった。今の安全な生活を手に入れた彼女たちにとっては、それはもう『終わった過去』になりつつあるのだ。

 

       *

 

 三人は、口々に日本の吸血鬼街の良さを褒めちぎった。

 

 ただし、それは高尚な社会制度の話ではない。

 

「普通に店で血が買えるのが一番いい」

 

「理由もなく、いきなり家から追い出されないしね」

 

「役所に行ったら、本当に順番待ちして手続きしてくれたのには感動したわ」

 

「ちゃんと仕事探すのまで手伝ってくれるし」

 

「金ない時でも、最低限は餓死しないように配給あるしね」

 

「何より、ハンターが勝手に街に入ってきて暴れ回らないのが最高」

 

 極めて庶民的で、切実な感想ばかりだった。

 

「最後のは、かなり重要ですね」

 

 久我が同意する。

 

「超重要よ。命かかってるんだから」

 

 久我は、自分が日本で八咫烏から受けていた『当たり前の保護』が、世界基準で見れば決して当たり前ではないのだと、改めて知った。

 

       *

 

 雑談が一段落し、久我が居住まいを正した。

 

「それで……」

 

 三人を見る。

 

「今日は、俺にわざわざ会いたいって話だったそうですが」

 

「あー」

 

 パーカー女が、隣を見た。

 

「そっちね」

 

 オフィス女も、隣を見る。

 

「私」

 

 派手な私服姿の女が、小さく手を挙げた。

 

「あなたからですか?」

 

 久我が聞き返す。路地裏での戦闘時、久我の異様な気配を真っ先に嗅ぎ取った、あの派手女だ。

 

 彼女は、今までのおちゃらけた態度を引っ込め、少し真面目な顔になった。

 

「あんたさ。親族に、吸血鬼いる?」

 

 派手女が、探るような目でストレートに聞いてきた。

 

「いませんよ」

 

「昔からずっと続いてるような、吸血鬼の古い名家とか」

 

「ないです」

 

「じゃあ、あんたを吸血鬼にした親は?」

 

「それもいません。俺は覚醒型らしいので」

 

「……聞いた」

 

 派手女は、納得いかないように眉を寄せた。

 

「やっぱり? じゃあ、余計に変なんだよね」

 

       *

 

「最初に路地裏で会った時、私があんたから『変な匂いがする』って言ったの、覚えてる?」

 

「……かなり鮮明に覚えていますよ」

 

 本人は、あれ以来ずっとその言葉を気にしていたのだ。

 

「あの時はさ、私もただの気のせいだと思ったの。こんなヒョロヒョロの弱い成り立ての吸血鬼のおっさんが、そんなヤバい気配を隠し持ってるわけないって」

 

「ヒョロヒョロのおっさん……」

 

 久我が小さく傷つく。

 

「でも、今日こうして改めて間近で会って、はっきり分かった」

 

「何がです?」

 

「気のせいじゃなかった」

 

 久我の表情が、僅かに硬くなった。

 

「……その話、保護された時に、八咫烏の聴取で話しましたか?」

 

「してない」

 

 派手女が即答する。

 

「どうして?」

 

「だって、あの時は私自身も確信がなかったし。それに、あんたの不確かな情報を八咫烏にペラペラ喋って、私らに何の得があるの?」

 

「一応あんた、私らをあの場で殺さなかったしね。恩は売っとくよ」

 

 パーカー女がコーヒーを飲みながら言う。

 

「剣持とかいうハンターのオッサンは、二人の首を容赦なく落としたけどね」

 

 オフィス女がチクリと刺す。

 

「あれは俺の判断じゃないですからね? 不可抗力です」

 

 三人は、久我に命の恩義を感じて絶対の忠誠を誓っているわけではない。「わざわざ不確かな情報を組織に売る理由がなかった」、ただそれだけだ。

 

 このドライな距離感が、久我には心地よかった。

 

       *

 

「私らが昔いた街さ。その中心部には、昔からふんぞり返ってる『貴族』がいたのよ」

 

 派手女が話し始める。

 

「吸血鬼の貴族ですか?」

 

「本当に昔からの爵位を持ってる奴もいたし、血統が古いからそう呼ばれてるだけの奴もいたけど。まあ、どっちにしろヤバい連中」

 

「あいつらが近くの通りに来ると、姿が見えなくても分かるの」

 

「匂いで?」

 

「そう」

 

 派手女は、久我の目を真っ直ぐに見た。

 

「あんた、それに似てる」

 

 久我は、少しだけ安心しかけた。

 

「なら、俺の中にも、そういう古い系統の血が偶然混ざっていて――」

 

「いや」

 

 派手女は、首を横へ振って明確に否定した。

 

「あいつらより、ずっと濃い」

 

「……はい?」

 

「だから、気持ち悪いのよ。身体はどう見ても最近覚醒したばっかりの成り立て。魔力も力も、普段は大したことない。それなのに、一番奥底にあるものだけが、私が昔見た貴族連中なんかより、ずっと古くて、ずっと濃い」

 

 派手女が、自分の腕を擦るようにさする。

 

「私はそういう貴族様なんて近くで見たことないから、こいつが何言ってんのかよく分かんないけどねー」

 

 パーカー女が笑う。

 

「私も、そこまで詳しい違いは分からない」

 

 オフィス女も同意する。

 

 三人全員が、久我を超越存在だと判定できるわけではないのだ。この派手女だけが、そういう気配に対して特異なまでに感覚が鋭いらしい。

 

       *

 

 久我は、自分の中に巣食う《吸血神の残響》について、当然彼女たちに話すつもりはない。

 

「あまり詳しくは話せないんですが……」

 

「うん」

 

「その『匂い』って、俺の血を直接嗅がなくても分かるんですか?」

 

「分かる」

 

「じゃあ、物理的に鼻で嗅いでるわけじゃない?」

 

「まあ……言葉で説明しづらいんだけど」

 

 派手女は少し考えてから、こう言った。

 

「魂の色、かな」

 

「魂の色?」

 

「色って言っても、本当に赤とか青とかの光が見えてるわけじゃないよ。匂いでもないし、音でもない。でも、生き物を見たり、近くにいたりすると、なんとなく直感で分かるの。その生命の濃さとか、古さとか、奥底に何が潜んでいるかとかが」

 

「こいつ、昔からこういう感覚だけは妙に鋭いの」

 

 オフィス女が横から補足する。

 

「真っ暗闇で人が隠れてるのが分かったり、強い奴が近づいてきたら匂いで察知して真っ先に逃げたりね」

 

「『魂の色』って言うのが、一番感覚に近いってだけ」

 

 派手女本人は理論家ではない。自分の鋭い直感を、そう表現するしかなかったのだ。

 

       *

 

「じゃあ、俺の魂は何色に見えるんです?」

 

 久我が少し身を乗り出して聞く。

 

「知らない」

 

「……魂の色って言ったの、あなたですよね?」

 

「だから例えだって言ってんじゃん!」

 

 派手女が笑って手を振る。

 

 そして、すぐに真面目な顔に戻った。

 

「ただ、深い。古い。あと、異常に濃い」

 

「……全部、あまり嬉しくない形容詞ですね」

 

「あなたが特別だから、俺の異常が分かるんですよね?」

 

「私はかなり得意な方だからね」

 

 しかし、派手女は恐ろしいことを口にした。

 

「でも、こういう感覚自体は、別に私だけの専売特許じゃないよ」

 

 高位の吸血鬼。何百年も生きている古い吸血鬼。あるいは、特殊な感知能力に特化した吸血鬼。

 

 そういう者なら、程度の差はあれ、相手の魂や血統に由来する『濃さ』や『古さ』を、無意識に感じ取る場合があるというのだ。

 

「高位なら全員が持っているわけじゃない。でも、私がこれだけハッキリ分かったんだから、もっと上のヤバい奴なら、あんたを見て一発で分かってもおかしくないよ」

 

       *

 

 そして、派手女はさらに付け加えた。

 

「あと、吸血鬼じゃなくても分かる奴はいる」

 

「誰です?」

 

「ハンター」

 

「……吸血鬼ハンター?」

 

 三人が、一斉に久我を見た。

 

「いるよ」

 

「そりゃいるでしょ」

 

「あんた、ハンターって何だと思ってたの?」

 

「いや、名前くらいは聞いたことありますけど……剣持さんみたいな人ですよね?」

 

「ハンターって、人間に紛れた吸血鬼を確実に見つけ出さなきゃ仕事にならないからね。こういう気配や魂を読む能力を持ってる奴、海外には結構多いよ」

 

 三人は、八咫烏の庇護下にある日本の吸血鬼とは全く違う、海外のスラムでの過酷な認識を語った。

 

「まともなのもいる」

 

「登録証を確認して終わる奴もいる」

 

「賞金首の犯罪者だけ追う奴もいる」

 

「でも、吸血鬼ってだけで、法律無視して殺しに来る頭おかしい奴もいる」

 

 吸血鬼ハンターと一口に言っても、決して一枚岩ではない。海外には、様々な思想と能力を持った者たちが跋扈しているのだ。

 

       *

 

「まあ、日本にいるならまだマシだけどね」

 

 派手女が、カフェオレを飲みながら言う。

 

「八咫烏がいるからですか?」

 

「それもある」

 

 日本では吸血鬼に法的な保護があり、勝手な殺害は許されない。この吸血鬼街という確固たる生活基盤もある。

 

 しかし、と彼女は釘を刺した。

 

「だからって、組織を信用して安心しきらない方がいいよ」

 

「そんなにですか」

 

「あんた、分かる奴から見れば、暗闇で発炎筒焚いてるくらい目立つから」

 

 派手女は、八咫烏という組織への警戒についても口にした。

 

「あとさ。八咫烏にも、自分の秘密を何でもかんでも馬鹿正直に話せばいいってもんじゃないと思うよ」

 

「八咫烏には、俺はかなり助けてもらってますけど」

 

「知ってる。私らだって助けられたし、感謝はしてる」

 

 だから、八咫烏を完全な悪だと言っているわけではない。

 

「でも、あそこは巨大な『組織』でしょ? あんたみたいに厄介すぎる事情を持ってる奴まで、何が何でも最後まで守ってくれるかは別問題」

 

「私らがいた場所じゃ、『保護してやる』って言って厄介者を集めて、そのまま街の外でまとめて処分とか、普通にあったからね」

 

 オフィス女が、冷めた声で言った。

 

 これは、三人の過酷な海外経験による、ある意味で偏った警戒心でもある。それが日本の八咫烏にも当てはまる真実かどうかは、分からない。

 

       *

 

「今のところ、八咫烏から理不尽に困らされたことはないんですよね」

 

 久我が正直に言うと、派手女は呆れたように大きな溜め息をついた。

 

「だから、あんた甘いって言ってんの」

 

「甘いですかね?」

 

「甘い」

 

「甘いわね」

 

 三人から、見事なユニゾンで即答された。

 

「全員ですか……」

 

「あんた、日本以外じゃ絶対に一日で死ぬと思う。生活できないよ」

 

「そこまでですか?」

 

「そこまで」

 

 三人からすれば、自分たちを襲ってきた吸血鬼を殺さずに済ませるどころか、強盗した相手の社会復帰を素直に喜んでいる時点で、久我は異常なほど『甘い』人間なのだ。

 

 派手女は、脅すためではなく、本気で久我を心配しているようだった。

 

 最後に、少しだけ口調を落として言った。

 

「別に、あんたが本当に何者なのか、深く聞きたいわけじゃないの。言いたくないなら、誰にも言わなくていい」

 

「……」

 

「ただ、私みたいな下っ端が、一回見ただけであんたの異常に気づいた。それだけは、ちゃんと覚えときな」

 

 久我は、少し真面目な顔になり、真っ直ぐに彼女を見た。

 

「……ありがとうございます」

 

「うわ、素直」

 

 派手女が照れ隠しに笑う。

 

「忠告してもらってるんですから、お礼くらい言いますよ。いい歳した大人なんですから」

 

       *

 

 テーブルに、真面目な空気が流れた。

 

 数秒後。

 

「はい、お説教の話終わった?」

 

 パーカー女が、パンと手を叩いた。

 

「終わった」

 

「じゃあ飲もう!」

 

「……切り替え早くないですか?」

 

 久我のツッコミを無視し、ここから完全に日常パートへと戻った。

 

 三人が、店員を呼んで次々と酒を注文し始める。

 

「ここ、一応喫茶店ですよね?」

 

「夜は普通に酒も出るよ」

 

「ここ吸血鬼街だからね。日が落ちた今からが、私たちの本番なの!」

 

 久我は壁の時計を見た。人間社会ならまだ夕方から夜にかかる時間帯だが、この街では生活時間が完全に後ろへずれているのだ。

 

「そうだ。ハンターの話が出たし、私らが海外でヤバいハンターから逃げ切った時の武勇伝、聞かせてあげようか?」

 

 パーカー女が、ビールジョッキを片手に身を乗り出す。

 

「さっき警戒しろと言われたばかりなので、それはちょっと興味ありますね」

 

「武勇伝っていうか、汚い下水道に三日間ずっと隠れて震えてただけだけど」

 

 オフィス女が冷静に事実を修正する。

 

「しかもこいつ、二日目には耐えきれなくて泣いてたし」

 

 派手女が暴露する。

 

「泣いてないし! あれは上から落ちてきた地下水が目に入っただけ!」

 

「三日間ずっと入ってたの?」

 

「細かいな、おじさんは!」

 

 そのまま、三人の果てしない昔話大会が始まった。

 

 国境を越えて必死に逃げた話。ハンターに追われて地下の迷宮へ隠れた話。偽物の粗悪な血液製剤を掴まされて全員で吐いた話。吸血鬼街同士で通貨や制度が全然違って苦労した話。高位吸血鬼の馬車が通っただけで、スラム全体が恐怖で静まり返った話。

 

 どれも、久我には全く知らない世界ばかりだった。

 

 この三人は、決して高位層ではない。だからこそ、吸血鬼社会の『底辺から見た広大な世界』を、生々しく語ることができるのだ。

 

       *

 

 会話の途中。

 

 久我は、ふと窓の外へ目を向けた。

 

 そこには、普通に暮らす吸血鬼たちの姿がある。

 

 学校帰りらしい、制服姿の若者たち。スーパーの買い物袋を持った親子。仕事帰りでネクタイを緩めている大人。

 

 久我は、少し不思議な気持ちになった。

 

 自分は吸血鬼になってから、殺人事件、怪異、八咫烏、そして過酷な戦闘ばかりを経験してきた。

 

 しかし、吸血鬼になった人生の先には、こういう『ただの普通の暮らし』も確かに存在しているのだ。

 

 その一方で。

 

 目の前の三人から、「お前だけ何か変だ」と明確に突きつけられもした。

 

 周囲にいる何十人もの吸血鬼たちは、どう見ても普通だ。久我自身も、自分と彼らの間に決定的な違いを感じない。

 

 自分の手を見る。見た目はいつも通りだ。流れる血も赤い。口の中の牙も、他の吸血鬼と変わらない。

 

 それなのに。

 

 古い。濃い。貴族よりさらに何かがおかしい。

 

 理由は、一つしか思い当たらない。《吸血神の残響》。

 

 それが具体的に何を意味し、なぜ自分の中に存在するのか、久我にはまだ全く分からない。

 

       *

 

「最後に一つだけ、聞いていいですか」

 

 久我が、賑やかな会話に少しだけ割り込んだ。

 

「何?」

 

 派手女がジョッキを置く。

 

「俺が今、こうやって能力も使わずに普通にしていても、俺の異常さは分かります?」

 

 彼女は、久我の目をじっと見た。

 

 少しだけ集中するように目を細め、

 

「分かる」

 

 と答えた。

 

 久我の表情がサッと固まる。

 

 しかし、彼女は続けて言った。

 

「でも、最初に路地裏で会った時よりは、ずっと分かりにくいけどね」

 

「分かりにくい?」

 

「近くにいて、気にして集中して見れば分かる。でも、この街の通りですれ違っただけなら、私でも気づかないかもしれない」

 

 これなら、今まで人間社会や八咫烏の中で、大量の吸血鬼に即バレしていなかったこととも矛盾しない。普段、久我は無意識に能力を抑え込んでいるため、気配がダダ漏れになっているわけではないのだ。

 

「でも、あの時は急に、ドス黒く濃くなった」

 

「いつです?」

 

「あんたがこっちを見て、何かした時」

 

 久我には、それがいつか分かった。『魔眼』を使った瞬間だ。

 

 魔眼使用後、隠しきれない《吸血神の残響》が、わずかに表へと漏れ出していたのだ。

 

 つまり、自分が能力を深く使えば使うほど、魂の奥底にある異物もまた、他者から観測されやすくなる可能性があるということだ。

 

「……気をつけます」

 

 久我は、小さく頷いた。

 

       *

 

「よし! じゃあ次!」

 

 パーカー女が、空になったジョッキをテーブルへ叩きつけた。

 

「まだ話、あるんですか?」

 

「ハンター武勇伝、第二弾!」

 

「それ、あんたが逃げる時に三階の窓から落ちた話?」

 

 オフィス女が呆れる。

 

「落ちたんじゃない! あれは戦術的撤退!」

 

「頭から真っ逆さまに落ちてたじゃん」

 

「……吸血鬼でよかったですね」

 

「ほんとそれ!」

 

 三人が声を揃え、久我は思わず声を出して笑った。

 

 久我は、その夜初めて知った。

 

 吸血鬼として生きることは、怪異と戦い続けることだけではない。

 

 腹が減れば血を買い、仕事をして、家賃を払い、酒を飲み、昔の失敗を笑い話にして生きていく。

 

 そんな当たり前の暮らしも、確かに存在しているのだ。

 

「で、おじさん。次はどのハンターの話から聞きたい?」

 

「……選択肢が複数あるんですか?」

 

 三人が、ジョッキを片手に揃って笑った。




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