35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第54話 吸血鬼、コインロッカーから人間を取り出す

 夜九時過ぎ。御影坂高校、夜間警備班の詰所。

 

 校内の順路を確認し、そろそろ外周の巡回へ出ようかと久我陽介が立ち上がったその時、杖原つかさの業務端末が少し硬い通知音を鳴らした。

 

 八咫烏の都内巡回網から発信された、緊急の応援要請だった。

 

 画面を覗き込んだ杖原が、画面のスクロールを止めて一瞬だけ妙な顔をする。危険な攻撃事案が入った時の険しさとも、不可解な怪談を目にした時の戸惑いとも違った。

 

「どうしました?」

 

 久我が問いかけると、杖原は顔を上げて答えた。

 

「新宿方面で、怪異疑いの事案が発生したそうです」

 

 ここまでは普通だ。東京の都心部で怪異の気配や不可解な失踪、あるいは小規模な空間異常の通報が入ることは珍しくない。

 

「それで?」

 

「コインロッカーから、人間が出てきたそうです」

 

「……コインロッカーに隠れていた人間が見つかった、じゃなくて?」

 

「はい。成人男性が一人、扉を内側から開けて飛び出してきた、と」

 

 久我は自分の頭の中で、駅の一般的なロッカーのサイズを当てはめた。

 

「成人男性ですよね。一番大きい大型のスーツケース用でもなければ、人が屈んで収まるにはかなり狭いんじゃないですか?」

 

「いえ、出てきたのは標準的な中型よりも少し低い、幅三十数センチの区画だったそうです」

 

「……それは、どう足掻いても物理的に入れませんね」

 

「でも、本当に出てきたんですよね?」

 

 隣でジャージの袖を捲りながら、七瀬澪が確認する。

 

「ええ。駅員と先行して現地入りした職員の目の前で、はっきりと出てきたそうです」

 

 杖原の報告を受け、皇かれんが即座に立ち上がった。

 

「現場へ向かいます」

 

 そこには、妙に大仰な危機感や英雄的な悲壮感はない。東京という巨大な街の裏側を管理する者たちにとっての、あまりにも日常的な初動だった。

 

 意味はさっぱり分からないが、まずは現地を見て確認する。久我たち五人は、そのまま待機車両へと向かった。

 

       *

 

 新宿。

 

 ターミナル駅そのものは、家路を急ぐ通勤客や夜の街へ繰り出す若者たちで、依然として濃い人波に溢れていた。

 

 しかし、地下鉄の連絡通路の一角に位置する広大なコインロッカー区画だけは、『設備点検中』と書かれた黄色いパネルと簡易バリケードによって、完全に周囲から切り離されていた。

 

 封鎖線の内側には、鉄道会社の職員、所轄の警察関係者、八咫烏の先行要員、そして緊急要請で到着した救急隊が立っている。通路を急ぐ一般客の目には、単なる配管の漏水か、あるいは荷物扉の電気系統トラブルによる臨時封鎖程度にしか見えていないだろう。

 

 この落差が、久我は嫌いではなかった。

 

 バリケードの一枚向こうでは、いつも通りの日常が退屈そうに動いている。それなのに封鎖線の内側では、大人たちが顔を突き合わせ、『人間が狭いコインロッカーの中から這い出てきた』という馬鹿みたいな事実を、大真面目に調査しているのだ。

 

「現場の状況は?」

 

 かれんが先行要員へ声をかけながら、該当のロッカー列へと近づいた。

 

 通路側の壁面には、同じ大きさの金属製扉が整然と何十台も並んでいる。問題となっている区画の扉は、すでに開け放たれていた。

 

 一般的な中型ロッカーよりも、さらに高さが一回り低い。

 

 久我は片膝をつき、開いたままの扉の奥へと目線をやった。

 

 中は、空だ。

 

 錆びた底板がある。左右には仕切りの鉄板がある。そして奥には、普通に灰色の背板が見える。奥行きは五十センチあるかないかといったところだろう。成人男性の頭と肩を入れただけで、絶対に扉が閉まらなくなる容積だ。

 

「本当に、ここからですか?」

 

「はい」

 

 対応に当たっていた駅員が、少し青ざめた顔で頷いた。

 

 二十分ほど前のことだという。地下通路の定期巡回中、静まり返ったロッカー群のどこかから、ドン、ドン、ドン、と鈍い音が聞こえた。最初は、旅行者が預けた荷物が崩れ、扉の裏側へぶつかった音だと思ったらしい。

 

 だが、すぐに明確な声が聞こえた。

 

『誰か! 頼む、開けてくれ!』

 

 くぐもっているが、はっきりと人間の声だった。しかも、ロッカーの金属扉を中から必死に叩くような、狂乱した震動を伴っていた。

 

 駅員は不審に思いながらも、管理キーを差し込んで非常解錠を行った。

 

 鍵を回し、扉の掛け金が外れた瞬間。

 

 まるで押し込められたバネが跳ねるように、成人男性の上半身が暗い箱の中から飛び出してきたのだという。男は勢い余って、そのまま通路のタイルへ転がり落ちた。

 

 不気味なのは、男に骨折や極端な圧迫痕が一切なかったことだ。

 

 幅三十センチの箱の中へ無理やり四肢を折り畳まれたなら、無傷では済まない。しかし男は、床へ落ちた直後、よろめきながらも普通に自分の足で立ち上がったのだ。

 

       *

 

 通路の奥へ止められた救急車の簡易ベッドで、その男性が処置を受けていた。

 

 年齢は三十歳前後。少しくだけたスーツ姿で、目立った出血や打撲はない。酷く疲労し、まだ周囲の現実を信じ切れていないように視線を泳がせているが、意識ははっきりとしていた。

 

 先行要員が、かれんへ端末の照合結果を提示する。

 

「男性の身元が判明しました。……四日前から、家族によって行方不明届が出されていた人物です」

 

「四日?」

 

 久我と澪が同時に声を上げた。

 

 この事件が、単なる酔っ払いのいたずらや、空間が数秒間ずれる程度の些細な超常現象ではないことが確定した瞬間だった。

 

 男自身は、聴取に対して「四日前?」と、心の底から驚いた顔をしたという。

 

 彼の感覚と主観的な疲労感では、失踪してからせいぜい四、五時間程度しか経っていなかった。腹も四日分空いてはいないし、顔の髭も、四日も放置した伸び方をしていない。

 

 あの狭い箱の向こう側では、現実とは異なる時間経過が発生している可能性が極めて高かった。

 

「お話を聞いても構いませんか」

 

 かれんが歩み寄り、落ち着いた声で男性に尋ねる。

 

 男性は温かい茶の入った紙コップを両手で握りしめながら、ぽつり、ぽつりと状況を語り始めた。

 

 四日前の夜。

 

 彼は仕事の商談と買い物を終え、この地下通路を通りかかった。鞄と手荷物が少し邪魔になり、自宅へ戻る前にどこかへ寄るため、コインロッカーを利用した。

 

 数時間後、駅へ戻り、預けた荷物を出そうとした。

 

 料金処理を済ませ、扉を引く。

 

 自分の鞄が見えた。そこまでは、何の異常もない日常だった。

 

「ですが……鞄が、妙に奥の方に引っ込んでいたんです」

 

 男性は震える手を見つめながら言った。

 

「そんなに奥行きのあるロッカーじゃないのに、手を伸ばしても鞄の取っ手に届かない。奥へ滑ったのかなと思って、少し身体を前に傾けて腕をもっと突っ込みました。それでも届かないから、両手を入れて……その時です」

 

 床の金属板に手をついていたはずなのに、突然、その手応えが消えた。

 

 落ちる、という感覚。

 

 だが、真っ逆さまに暗闇の底へ落ちたわけではない。高さにしてせいぜい二メートルほど、何かの段差から転がり落ちるようにして、彼は自分の荷物と一緒に『中』へと吸い込まれた。

 

「気がついた時には、もう、駅のロッカーではありませんでした」

 

「どんな場所でしたか?」

 

「地下の、途方もなく広い倉庫みたいでした。天井はずっと高くて、白い蛍光灯みたいな明かりがずっと先まで点いていて……両側に、金属製の巨大な棚が、本当に延々と並んでいるんです」

 

 男性の証言から浮かび上がったのは、異形の怪物が這い回る迷宮ではなかった。

 

 棚には、スーツケース、雨傘、破れた紙袋、通勤用のリュック、学生鞄、小さな段ボール、中身の入ったままの買い物袋、そして片方だけの靴が、数え切れないほど無造作に置かれていたという。

 

 中には、何十年も昔に流行したような古いデザインの旅行鞄や、埃をかぶった皮のカバンまであった。

 

 ただの異空間ではない。『人間の手で預けられた物を、ただ延々と保管し続けている巨大な倉庫』のような場所だったのだ。

 

「出口を探して歩きました。でも、どこまで歩いても同じ金属の棚ばかりで。……途中で一度、遠くの方から誰かの声が聞こえたんです。助けてくれって、若い男か女かも分からない声で。俺も叫び返して、声のする方へ走ろうとしたんですけど……棚が邪魔で、どの通路を曲がればいいのか分からなくなって」

 

「その後、どうやってこのロッカーへ辿り着いたんです?」

 

 久我が尋ねる。

 

「しばらく迷っているうちに、暗い棚の隙間に、ぽっかりと白い長方形の光が見えたんです。近づいてみたら、そこが……開いたままのコインロッカーの枠の向こう側でした。外の通りの音が聞こえたんで、夢中で上半身を突っ込んで、扉を叩いたんです」

 

       *

 

 妙な点が、一つあった。

 

「入ったのは、この開けてもらったロッカーなんですよね?」

 

 久我の質問に、男性は首を横に振った。

 

「違います」

 

「違いますって、番号が?」

 

「ええ。俺が最初に鞄を預けたのは、もっと通路の入り口側の、角のロッカーです。ここから十メートルは離れてます」

 

 男性が指差した元のロッカーを駅員に開けさせると、中は完全に空のままで、預けていたはずの鞄も残っていなかった。

 

 つまり、特定の壊れた一台だけが穴になっているのではない。

 

 人間も荷物も、一度『倉庫』のような異空間へ引き込まれた後、接続のタイミングが合った別の一台から吐き出されたということになる。

 

「防犯カメラの映像は取れますか」

 

 かれんが鉄道会社側へ要求すると、すぐにタブレットの監視用モニタへと四日前の該当時刻の記録が送られてきた。

 

 久我と澪、そして鏡宮千鶴が画面を覗き込む。

 

 白黒の映像の中に、男性が映っていた。

 

 通路の角のロッカーを開け、少し屈むようにして手を伸ばしている。

 

 そこからが、明らかにおかしかった。

 

 ロッカーの外側の形や、扉のサイズは何も変わっていない。それなのに、男性の右腕が根元まで入り、左腕が入り、頭が入り、さらに両肩がそのまま金属の箱の中へ吸い込まれていく。

 

「……いや、物理的に考えておかしいでしょう」

 

 久我が呟く。

 

「入ってますね、完全に」

 

 澪が画面を指す。

 

 まるで、壁の向こうに真っ直ぐ続くトンネルの中を進んでいくように、男性の上半身が入り、腰が入り、最後に靴の底だけがスッと暗闇の中へ滑り込んでいった。

 

 誰もいなくなった後、開いていたロッカーの扉が、ゆっくりと自然に閉まる。

 

 カメラ映像そのものに、ノイズも、画像が飛んだようなコマ落ちもなかった。現実の空間そのものが、何食わぬ顔で彼を呑み込んだ記録だった。

 

       *

 

「所轄の警察と連携し、直近二週間の失踪者データをこの地下通路の利用状況と照合してください」

 

 かれんが指示を出す。

 

 数分後、戻ってきた結果は重いものだった。

 

 この最近の十日間前後で、最後にこの地下通路のロッカー付近へ立ち寄った後、足取りが完全に途絶えている行方不明者が、救出された男性以外に『あと四人』いることが判明したのだ。

 

 学生、会社員、旅行客と、年齢も性別もバラバラ。超常的な事件や怪異サイトなどとの関わりも認められない、ごく普通の一般客だ。

 

 うち一人の女子大学生については、防犯カメラで明確な映像が確認された。ロッカーの前へ歩み寄り、扉を開けて荷物を出そうとし、数分後にはその扉だけが閉まっており、本人が通路へ戻ってきた記録がない。

 

 今救出された男性の「遠くで誰かの声が聞こえた」という証言と、見事に一致する。

 

 ここにおいて、この場にいる八咫烏の目的が明確になった。

 

 単に空間の異常を結界で封鎖するのではない。あの『倉庫』のような空間に今も迷い込んでいる残り四人の人間を、手遅れになる前に見つけ出し、外へと回収することだ。

 

       *

 

 通路の両側に並ぶ合計二百台以上のロッカーを対象に、夜間警備班の面々がそれぞれの持ち場で確認を開始した。

 

 杖原は、小型の呪具と測定器を手に、金属扉の並びを歩きながら空間の結界密度を確認していく。

 

「単独のロッカーに、何か呪いや怪異の核が取り憑いているわけではありません」

 

 彼女はすぐにかれんへ報告した。

 

「このロッカー群の背後の壁全体に、現実空間とは異なる『厚み』のようなものが、断続的に発生しています。ただ、ずっと開きっぱなしというわけではなく、脈を打つように接続先が現れたり消えたりしています」

 

 澪は、持ち前の速度を活かして、ロッカー群の裏側にある駅の配管通路や、壁の反対側の商業施設、さらに上の階と下の階までを数分で駆け巡って確認した。

 

「裏側にも下にも、あんな巨大な倉庫みたいな空間は絶対にありません」

 

 澪が戻ってきて言う。

 

「現実の壁の厚さは一メートルもないですし、すぐ後ろは普通のコンクリートの支柱でした」

 

 千鶴は、通路の反対側にある店舗のガラスウィンドウと、そこに反射して映るロッカー群の姿を、じっと目で追っていた。

 

 《神鏡返し》の視覚は、時として人の目や機械の測定器が落とす『境界の乱れ』を拾う。

 

「……待ってください」

 

 千鶴が、ガラスに映る映像を見て首を傾げた。

 

「どうしました?」

 

「実物のロッカーの数と、ガラスの反射に映っているロッカーの数が、一つ合いません」

 

 千鶴の指差す先、通路の角の列。

 

 現実の目で見れば、上段の番号は『216』『217』『218』と正しく並んでいる。

 

 しかし、ガラスウィンドウに反射した像の中では、『216』『217』と並んだその隣に、番号の貼られていない空白の金属扉が一台余分に存在し、その後に『218』が続いているのだ。

 

「鏡の中にだけ、隠されたロッカーがあるんですか?」

 

「いえ、いつもそこにあるわけではありません」

 

 千鶴がもう一度視線を外して見直すと、反射の中の余分な一台は綺麗に消えていた。

 

「空間の接続が揺れた瞬間だけ、反射の像が、向こう側の余分な構造まで一緒に拾い上げてしまうようです」

 

 彼女は自分の能力に自惚れることなく、見えた現象の限界を正確に伝える。

 

 久我は、自らの『魔眼』を展開して金属の扉列を観察した。

 

 最初は、ただの冷たいスチールの扉が並んでいるようにしか見えなかった。

 

 だが、焦点を絞り、接続の揺らぎが強いという中段の列を視線でなぞった瞬間。

 

「……!」

 

 久我は思わず一歩踏み出した。

 

 扉の裏側、わずか数十センチの背板の向こうのはずの場所に、確かに熱を持った『人間の生命の気配』が感じられたのだ。

 

 しかも、その感覚の距離感がおかしい。一メートル先ではない。何十メートルも離れた遠い暗闇の奥から、こちらの方を迷い歩いている気配だった。

 

「誰か、います」

 

 久我は即座に『234』番のロッカーを指差した。

 

「確実に生きている人間の反応です」

 

       *

 

 駅員に管理キーを使わせ、『234』番の扉を即座に開く。

 

 最初は、何の異常もなかった。空っぽの箱と、グレーの背板があるだけだ。

 

「さっきは確かに、ここに……」

 

 久我が首を傾げかけたその時。

 

 ドン。

 

 金属の背板のすぐ裏側から、何かがぶつかる音がした。

 

 ドン、ドン。

 

「誰か……! そこに、人がいるの!?」

 

 かすかだが、若い女性の切迫した声だった。通路にいる澪たちの耳にも、今度ははっきりと届いた。

 

「下がってください」

 

 久我は駅員を後ろへ退かせ、自分からもう一度ロッカーの枠の中に頭を差し込んだ。

 

 今度は、背板が見えなかった。

 

 ロッカーの奥にあったはずの壁が抜け、冷たく乾燥した風が顔に吹きつけてくる。

 

 久我の目の前には、無数の金属棚が左右に連なる、薄暗いコンクリートの通路が真っ直ぐに伸びていた。

 

 その通路の十数メートル奥から、一人の女性がこちらの小さな光の枠を見つけ、叫びながら走ってくる。

 

「助けて! お願い!」

 

 久我は腕を伸ばした。吸血鬼の身体能力なら、今すぐ彼女の腕を掴み上げられる距離だ。

 

「手を伸ばしてください! そこまで――」

 

 女性もまた、涙を流しながら腕を突き出す。

 

 あと少し。

 

 久我の指先と、女性の指先が触れそうになった、まさにその瞬間だった。

 

 ガンッ!

 

 何かのシャッターが降りるような硬い音が響き、久我の手のわずか数センチ先で、ロッカーの奥が灰色のスチール背板へと切り替わった。

 

 女性の叫び声も、広い倉庫の乾燥した風の匂いも、一瞬で消え去る。

 

 久我の右手が叩いたのは、なんの変哲もない冷たいロッカーの裏壁だった。

 

「……くそっ」

 

 久我は手を引っ込めた。

 

「消えました。ですが、中に生存者がいるのは間違いありません」

 

 自分の手からすり抜けた悔しさはあるが、そこで感情的に立ち止まる時間はない。生存者がいて、声が届き、ここまで近づけることは証明された。

 

       *

 

 調査を継続している最中、奇妙な現象が起こり始めた。

 

 ピッ。

 

 誰もコインを投入しておらず、電子決済のパネルにも触れていないにもかかわらず、通路の端にある『102』番のロッカーの使用表示灯が、緑の《空き》から赤い《使用中》へと切り替わったのだ。

 

 続いて。

 

 ピッ。ピッ。ピッ。

 

 まるで連鎖反応のように、離れた位置にある五、六台の扉が、一斉に《使用中》に変わる。

 

 駅の管理サーバーを監視していた職員が声を上げた。

 

「システム上には、利用開始のログは一切ありません! 勝手に表示だけが赤になっています」

 

 現実側の管理システムを無視して、向こう側からロックがかけられているのだ。

 

 久我が魔眼でその赤く点灯したロッカー群を確認する。

 

「……三台です。全部じゃありませんが、三つの扉の奥に、別の距離から人間の生命反応が近づいています」

 

 向こう側の世界にいる人間たちが、出口を探してさまよい、接続した扉の裏側に辿り着こうとしている。

 

 地下通路の壁の時計が、深夜零時に近づいていた。

 

 救急車から降りて、保護用のベンチで休んでいた男性が、思い出したようにかれんへ告げた。

 

「そういえば……俺が中にいる間、一定の時間が経つと、いつもあの『ピンポーン』って駅の電子音がどこかから聞こえてきたんです」

 

「電子音、ですか?」

 

「ええ。あの音が鳴るたびに、周囲の金属棚が地鳴りのように動いて、通れたはずの通路が袋小路になって、配置が変わるんです。俺がさっき出られたのも、その音が鳴った直後に、突然棚の向きが変わって隙間ができたからで……」

 

 ただ保管庫をさまよっているのではない。

 

 内部の巨大な空間そのものが、まるで自動倉庫システムのように、定期的に『棚の並び順と保管区画の組み替え』を行っているのだ。

 

「接続の波長が、先ほどよりずれてきています」

 

 杖原も、測定器の数値を追って警告した。

 

「このまま外から、たまたま向こうの通路がこちらの扉と繋がるタイミングを待って、一人ずつ手探りで引っ張り出す方法では、いつ接続が完全に切れるか分かりません」

 

       *

 

「中に入ることはできますか」

 

 久我の問いに、杖原は測定器を見つめて答えた。

 

「この『厚み』が強く生じている扉であれば、理論上は入れます。ただし……」

 

「入った後、同じ場所へ戻ってこられる保証がない、ですよね」

 

 最初に救出された男性の足取りが、それを物語っている。入った場所と出た場所は、全く違う番地のロッカーだった。

 

 かれんは、数秒の計算の後、班の分割を命じた。

 

「内部の捜索・回収班と、外部の空間維持班に分けます」

 

「内部へ行くのは?」

 

「久我さんと、七瀬さんの二名です」

 

 その選出に、久我は迷いなく頷いた。

 

 未知の異空間へ入り、仮に物理的な事故や空間変動に巻き込まれても、吸血鬼としての耐久力と再生能力を持つ久我であれば生存確率は一番高い。そして、広い地下倉庫の内部で、分断された生存者たちを短時間で探し出すには、澪の速度が不可欠だった。

 

「七瀬さん。先日の訓練の通りです」

 

 かれんが釘を刺す。

 

「自分の速さだけで突っ走って、一人で先行しすぎないこと。久我さんの保護範囲から離れず、生存者の位置確認と合流を優先してください」

 

「分かっています!」

 

 澪は、ただ無軌道に走るだけの少女ではない。手加減と位置取りの重要性を学んだ今の彼女なら、複雑な内部構造の中でも安全に動ける。

 

 外部の役割も明確に固定された。

 

 千鶴はガラスウィンドウの反射を常時監視し、余分なロッカーの出現、つまり『接続窓口がどこへ移動したか』を特定し続ける。

 

 杖原は、結界制御のすべてを使って、現在最も波長の強い扉一つを、『絶対に閉じない固定口』として現実側に釘付けにする。

 

 かれんは、駅のシステム、所轄の警察、そして八咫烏の救護班との全体連絡を管理し、いつ生存者がどの扉から出ても即座に回収できる態勢を保つ。

 

       *

 

「固定します」

 

 杖原が、『217』番と『218』番の間の空間へ、結界の杭を打ち込むように指を向けた。

 

 何もなかったはずの壁の間に、ジジッ……と不気味なノイズが走り、空気が屈折する。

 

 千鶴が、向かいのガラスウィンドウの反射を見据えた。

 

「……余分な一台が見えます。番号のない扉が、現実に干渉を開始しました。今です!」

 

 久我は迷わず、その壁の『何もない空間』へと手を伸ばした。

 

 金属の冷たい感触がある。取っ手を掴み、手前に引く。

 

 カチャン。

 

 現実には『217』番の隣の壁面があるだけなのに、久我の手は空間ごとそれを開き、四角い金属扉の向こうの暗闇を露出させた。

 

 中の奥行きは、一秒ごとに伸びていった。

 

 五十センチ。一メートル。三メートル。十メートル。

 

 外から見れば、ほんの三十センチ四方の小さなロッカーの枠だ。

 

 それなのに、奥へと続くのは、無数の金属棚に囲まれた、大人が立って歩ける巨大な通路の空間だった。

 

「これ、本当にここに入れるんですか?」

 

 澪が、小さな枠を見下ろして言う。

 

「おじさんが出られたんだから、入れるはずですよ」

 

「それ、安全性の確認になってないですってば」

 

 そんな軽い言い合いを交わしつつ、久我は先に身体を差し込んだ。

 

 頭をくぐらせ、両肩を入れる。本来の物理的な寸法なら、確実に胸の骨がつっかえる広さだ。

 

 しかし、身体を入れた瞬間、ロッカーの枠側が広がるのではなく、『自分自身の距離感の方』がスッと折り畳まれたような感覚があった。狭い穴を窮屈に這うような不快感はない。

 

 一歩分、足を前へ踏み出す。

 

 それだけで、久我は突然、天井の高いコンクリートの地下通路へ立ち上がっていた。

 

 振り返ると、自分が入ってきた出口は、背後の棚の足元に空いた『小さな長方形の白い光』として浮いていた。

 

 その窓越しに、心配そうに見守る千鶴やかれんたちの顔が見える。

 

 続いて、澪も同じ光の穴からヒョイッと身を翻し、久我の隣へと着地した。

 

       *

 

 ロッカーの『中』の景色は、異様だった。

 

 白い蛍光灯が一定の距離で薄暗くともり、どこまでも天井が高く広がっている。

 

 左右にそびえ立つのは、図書館の書庫や巨大な物流センターを思わせる、見上げるほどの高さの金属棚。それが前後左右へ、まるでチェス盤の目のように無限に組み上げられていた。

 

 棚の段には、あらゆる『荷物』が眠っていた。

 

 真新しいポリカーボネートのスーツケース、忘れられたビニール傘、色褪せた布のカバン、誰かの名前が書かれた古い学生鞄、破れかけた百貨店の紙袋。

 

 人間を食い殺す怪物はいなかった。血の匂いもない。死臭もない。

 

 ただ、人間が現実のどこかに置き去りにし、預けっぱなしにした『物』だけが、膨大な時間を止めたまま沈黙している空間。だからこそ、逆に寒気がするような寂しさと異常性があった。

 

「誰か! 誰かいますか!」

 

 静寂を破って、少し離れた通路の向こうから、人の叫び声が聞こえた。

 

 澪が即座に音の方向を確認する。

 

「左奥の棚の向こうです!」

 

「いましたね。行きましょう」

 

 二人がそちらへ一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。

 

 ピンポーン。

 

 駅の改札やロッカー区画の天井で響くような、無機質でどこか明るい電子の案内音が、空間の頭上全体に鳴り響いた。

 

 ズズッ……。

 

 ガコン。

 

 地鳴りのような振動とともに、目の前にそびえる数千トンの巨大な金属棚が、まるでレールの上を滑るように自動で動き始めた。

 

 さっきまで生存者の声が聞こえていた左側の通路が、動く棚の側面に阻まれてパタンと塞がる。同時に、右側の棚が後退し、見たこともない新しい通路の直線が開いた。

 

 空間全体の保管区画が、一斉にシフトし始めたのだ。

 

「うわ、動き出した!」

 

 澪が声を上げる。

 

 さらに不都合なことに、二人が入ってきて、杖原が必死に外から固定しているはずの背後の『小さな白い光の出口』の窓すらも、棚の移動に伴って少しずつ座標をずらし、コンクリートの柱の裏側へと隠れようとしていた。

 

「陽介さん」

 

「はい」

 

「これ、早めにみんなを見つけて帰った方がよさそうですね」

 

「そうですね。迷子になったら、帰りの扉がどこに繋がるか分かりませんから」

 

 久我は冷静に魔眼を開いた。

 

 動く棚のさらに向こう側、暗い通路の先をよぎる『人間の気配』を捉える。

 

 一つではない。失踪者たちの迷い歩く気配が、組み替わる金属の迷宮の奥で、確かに彼らの救助を待っていた。




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