35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
ピンポーン。
駅のコインロッカー区画で聞き慣れた、無機質でどこか明るい電子音が、空間の頭上全体に響き渡った。
その直後。
ズズッ……ガコン。
久我陽介と七瀬澪の目の前で、何千トンもの重量がある巨大な金属棚が、まるで目に見えないレールの上を滑るように、一斉に自動で動き始めた。
さっきまで女性の助けを求める声が聞こえていた左側の通路が、動く棚の側面に阻まれてパタンと塞がる。同時に、右側の棚が後退し、見たこともない新しい通路の直線が開いた。
空間全体の保管区画が、一斉にシフトし始めたのだ。
「うわ、追います!」
澪が反射的に姿勢を低くし、消えた女性の声の方向へ飛び出しかけた。
しかし、彼女は一歩踏み出しただけで、ピタリと動きを止めた。数日前の体育館での訓練、『速いからといって、無計画に先へ突っ込めばいいわけではない』という教えが、ちゃんと身体に染み付いていた。
久我も、彼女を無理に止める必要はなかった。
「棚の動きが完全に止まるまで待ちましょう。あの重量の間に挟まれたら、吸血鬼の再生力でも洒落になりませんから」
二人はその場から動かず、巨大な金属棚の移動を慎重に観察した。
そこで、久我はある重要な発見をした。
巨大な棚は猛烈な速度と重量で動いている。しかし、棚の上に無造作に置かれている膨大な量の『荷物』には、一切ぶつかっていないのだ。
少し前へ飛び出しているスーツケースがあれば、隣の棚がそれを感知したように数センチ手前でピタリと止まる。床に落ちている古いカバンがあれば、それを絶対に轢かないように、棚同士の間隔が微調整されている。
「……これ、荷物を壊さないように動いてますね」
久我が呟く。
つまり、この広大な空間は、迷い込んだ人間を閉じ込めて殺すための悪意ある迷宮ではない。
むしろ、『預けられた保管物を、安全かつ正確に保管するための設備』として、極めて忠実に機能しているだけなのだ。
ただ、この空間のシステムは、迷い込んだ人間すらも『保管物の一つ』として認識し、丁重に棚へ収めようとしているだけだった。
それが、この怪異の不気味さの核心だった。
*
ガコン、という重い音を最後に、棚の移動が完全に停止した。
二人が振り返る。
先ほど、現実側から強引に入ってきた『白い長方形の出口』は、まだそこにあった。
ただし、遠い。さっきは背後数メートルだったのに、棚の再配置に引きずられ、今は全く別の通路の向こう側に、小さく光っているだけだ。
久我が、インカムの通信機に触れる。
「皇さん、聞こえますか」
ザザッ、というノイズ。
しばらくして、途切れ途切れの声が返ってきた。
『……聞こえ……ます。少し、不安定です』
外部にいる皇かれんだった。
通信条件が確定した。異空間と現実側の接続口が開いている間だけ、無線も辛うじて通る。しかし、棚が動いて接続口との間に空間的なズレが生まれると、電波が極端に不安定になる。常時クリアな連絡が取れるわけではない。
続いて、杖原つかさの声が混じる。
『固定自体は、現実側で維持しています。ただし、内部側の座標までを完全に固定することはできていません』
つまり、外の現実側では、変わらず『217番と218番の間』に入口を固定し続けている。しかし、この倉庫側から見た入口の位置は、棚の再配置に引きずられてランダムに動いてしまっているのだ。
「了解しました。これより、内部の捜索を開始します」
久我は通信を切り、澪を見た。
*
久我が魔眼を開く。
先ほど、現実側の234番ロッカーから手を伸ばしてきた女性の生命反応を、広大な空間の中からもう一度探り当てた。
「……見つけました。距離は数十メートル先です」
「私が先行してルートを確認します!」
澪が、久我の前に出る。ただし、全力疾走はしない。
一つ先の交差路まで高速で走り、通路の安全と配置を確認する。そして、すぐに久我のところへ戻ってくる。
「次、右です!」
報告を受け、久我と一緒に右へ進む。また澪が次の区画を高速で確認し、戻ってくる。
『澪が偵察し、必ず久我のところへ戻り、二人で安全に進む』
訓練の成果を言葉で確認し合う必要はなかった。澪の行動そのものが、確かな成長を示していた。
*
数分後。
棚の隅で、自分のリュックを抱えてうずくまっている女性を発見した。
二十歳前後の、行方不明になっていた女子大学生だ。
彼女は久我たちを見るなり、弾かれたように顔を上げた。
「さっきの……さっきの、手の人……!」
「遅くなりました。もう大丈夫ですよ」
久我が静かに声をかけると、女性は安心から泣きそうに顔を歪めた。
しかし、久我は長い感動の場面にはしない。即座に状態を確認する。怪我なし。軽い脱水症状。本人の主観では、「ここに迷い込んでから二、三時間程度」とのことだった。
現実側では、すでに四日が経過している。時間差の感覚は、最初に救出された男性の証言と完全に一致していた。
久我が、女性が抱えているリュックを指差した。
「そのリュックも、しっかり持ったまま一緒に来てください」
「えっ? こんな時に、荷物なんて……」
「この空間の仕組みだと、あなたと一緒に預けられた『荷物』なら、最後まで一緒に持っていった方がいい気がするんです」
まだ確証はなかったが、久我の直感だった。
*
移動しようとしたところで、澪が壁際を見て気づいた。
「陽介さん、これ」
女性がうずくまっていた棚の端に、物流倉庫にあるような小型の電子表示板が取り付けられていた。
そこに、赤いデジタル数字で『234』と表示されている。先ほど、女性が現実へ手を伸ばしてきたロッカーと全く同じ番号だ。
「……234?」
女性自身に確認したが、その番号に全く心当たりはないという。彼女が最初に荷物を預けてこの空間に落ちたロッカー番号とも違う。
つまり、これは『入ったロッカー番号』ではない。
久我は、先ほどの出来事を頭の中で組み立てた。
234番を開けた時だけ、この女性が向こうから走ってくることができた。そして今、この女性がいる保管区画の棚に、234と表示されている。
「……なるほど」
結論が出た。
この『234』は、ただの保管番号ではない。現在、この棚の区画が現実側へ接続している『取出口の番号』なのだ。
ロッカーの外側の番号と、内部倉庫の一部が、一時的に対応して繋がっている。
*
ちょうど、外部との通信が少しだけクリアに戻った。
「外、聞こえますか。234番のロッカーを開けてください」
久我が指示を出す。
『……了解しました』
外部にいるかれんが、即座に待機していた駅員へ指示を出した。
234番のロッカーに管理キーが差し込まれ、非常解錠される。
カチャン、という音が、久我たちのすぐ横で鳴った。
女性のすぐ近くにある金属棚の壁面。何もないただの鉄板だった場所に、突如として『白い長方形の光』が現れた。
向こう側には、駅員と、かれんたちの顔がはっきりと見えている。
「うわっ……」
澪が驚く。
久我は理解した。
内部の人間を、わざわざ自分たちが入ってきた『遠い入口』まで歩いて連れていく必要すらなかったのだ。
その区画と対応している外側のロッカーを開ければ、その場所のすぐ横へ、直接《取出口》が出現する仕組みなのだ。
「さあ、ここから出てください」
女性を先に出口へ促す。久我がリュックも渡す。
女性が、三十センチ四方ほどの小さな光の枠へ頭から身体を入れると、入った時と同じように物理的な距離感がフッと折れ曲がり、そのままスムーズに現実側へとすり抜けていった。
外では、待機していた救護班がすぐに彼女を保護した。
これで一人救出。残り三人。
「……本当に、ただの馬鹿でかい『コインロッカー』なんだな、ここ」
久我は、消えた白い光の枠を見つめながら呟いた。
彼らは人間を食う敵ではない。この広大な異空間がやっていることは、ただ『預け入れ』『保管』『取出口への移送』『払い出し』という、ロッカーの単純な機能だけなのだ。
*
外部にいるかれん、千鶴、杖原も、この瞬間に構造を完全に理解した。
千鶴がガラスの反射を見る。
「……一瞬だけ、234番の反射像の奥行きが、異常に長く伸びました」
「解錠した瞬間だけ、内部との接続密度が跳ね上がっています」
杖原も測定器の数値を見て頷く。
八咫烏側も完全に把握した。外から結界で無理やり穴を固定し続ける必要はない。倉庫側が払い出し可能な場所へ人間を持ってきたタイミングで、それに対応する外のロッカーを開ければいいだけだ。
かれんが、駅側とシステム担当へ即座に指示を出す。
「現在閉鎖している全ロッカーのシステムを、手動管理の操作可能状態へ移行。使用中表示が変わったものは即時報告。久我さんたちから対応番号の連絡が来たら、いかなる場合でも即時解錠してください」
これで、救助作業の準備は完全に整った。
*
内部の二人が、次の生存者を探して歩き出す。
また、ピンポーン、という電子音が鳴った。
今度は、二人のかなり近くを巨大な金属棚が猛烈な勢いで通過しようとする。
澪が身構え、久我も即座に《血装》を展開できるよう腕に力を込めた。
だが。
棚は、二人のわずか数十センチ手前で、ガコン、と重い音を立てて完全に停止した。そのまま、二人を押し潰さないよう、別方向へ迂回するように配置を変更していく。
「……避けましたね」
澪が拍子抜けしたように言う。
「たぶん」
久我が周囲を見る。床に転がっている古い紙袋も、棚は決して潰そうとしない。
少なくとも、通常の棚移動では、人間のことも積極的に押し潰そうとはしていない。
久我の認識が固まった。
この場所は、侵入した人間を殺そうとしていない。むしろ、通常の保管処理の範囲では、『保管した物を傷つけない』というロッカーとしてのルールを、ひたすら忠実に守っているように見えた。
「相手からの善意とかではないでしょうけどね」
「でも、明確な敵意もない?」
「そんな感じです」
敵意がないからこそ、人間をただの『荷物』として永遠に保管し続けようとする。それがこの空間の底知れぬ不気味さだった。
*
魔眼で、二人目の生命反応を捉えた。
三十代の会社員男性だ。彼は異空間へ落ちた時に足首を強く捻っており、歩けるが非常に遅かった。本人の主観では、ここに落ちてから六時間ほどが経過しているという。
彼も、自分のビジネスバッグとノートパソコンのケースをしっかりと抱えていた。
棚の端にある対応表示は、『102』。
次の棚の配置変更の電子音が鳴るまで、もう時間がない。
ここで澪が動いた。
以前の彼女なら、「私が抱えて全速力で走ります!」と、相手の体にかかるGを無視して突っ走っていただろう。
今回は違った。
澪は男性の前に背を向け、静かに怪我人を背負った。
「急げますか?」
久我の問いに、澪は頷く。
「この人を、壊さない程度の速度なら」
澪はしっかりと速度を抑え、安定した足取りで移動した。これもまた、体育館での手加減の訓練の成果だ。
澪が怪我人を運び、久我が荷物を持つ。
『102番との接続を確認。開けてください!』
久我が外部へ通信を送る。
外が即座に非常解錠を行う。白い出口が現れ、男性を外へ送り出した。
二人目救出。
ここは連携が噛み合い、非常にテンポよく進んだ。
*
三人目は、大きなスーツケースを持った旅行客だった。
しかし、久我の魔眼で生命反応は真っ正面に見えているのに、そちらへ真っ直ぐ辿り着けない。巨大な金属棚が何重にも壁になって塞いでいるのだ。
澪の速度なら棚を大回りして迂回できるが、かなりの距離がある。
そこで、久我たちは気づいた。
倉庫の棚移動には、一応の規則性がある。
『ピンポーン』という電子音。数秒の待機。棚の移動。そして、新しい保管区画と現実側のロッカー番号が対応する。
つまり、自分たちが無理に走り回らなくても、『生存者がいる区画の棚が、自分たちの目の前へ移動してくるまで待つ』こともできるのだ。
何でも力と速度で突破しようとする必要はない。
次の組み替えの電子音が鳴る。
目の前の棚が横へ大きく移動する。その向こうから、呆然とした顔の旅行客本人が、棚ごとそのままスライドして現れた。
「こっちです!」
久我が声をかけ、旅行客を回収する。棚の対応番号を確認し、外へ連絡。
外からの解錠。白い出口。
三人目救出。
これで久我たちも、『倉庫の動きに逆らって走り回る』のではなく、『倉庫の物流処理システムに上手く乗って救助する』という感覚を完全に掴んでいた。
*
しかし、最後の一人だけが、どうしても見つからなかった。
久我が魔眼を最大限に使っても、生命反応が非常に遠く、ぼやけている。澪が耳を澄ませても、しばらく何の声も物音も聞こえない。
「……陽介さん」
澪が不安そうに久我を見る。
一瞬、もう怪我をして死んでいるのではないかという嫌な空気が流れた。
しかし。
ピンポーン。
棚が再配置された、その瞬間。
遥か遠くの暗がりから、ドン、ドン、ドン! と金属を強く叩く音が微かに響いた。
「聞こえました!」
二人は、音のする方へ向かって一気に駆け出した。
*
最後の一人がいる場所だけ、周囲の雰囲気が少し違っていた。
棚自体が古いのだ。今までのような最新の物流倉庫の無機質なラックではなく、昔の駅にあった手荷物預かり所や、錆びついた古いコインロッカーを思わせる、年季の入った金属棚だった。
置かれている荷物も古い。昭和の時代に流行したような旅行鞄。ボロボロになったボストンバッグ。錆びた南京錠。色褪せた紙製の預かり札。
ただし、そこに幽霊が出たり、白骨死体が転がっていたりするわけではない。単純に、『この空間の中でも特に古い保管区画』であるらしい。
この巨大な異空間が、現在の新宿のロッカーが設置された数年前に誕生したわけではないことを匂わせていた。
久我はそれについて深く詮索することはせず、生存者の確保を急いだ。
最後の一人は、十代後半の専門学校生だった。
一人で暗い古い区画を長時間さまよっていたため、かなり怯えきっていた。主観では半日弱が経過しており、持っていたペットボトルの水分も尽きかけている。
久我たちを見て、彼は幻覚でも見るように呟いた。
「人……?」
「そうです。迎えに来ましたよ」
状態を確認する。衰弱しているが、自力で歩くことはできる。
対応する取出口の番号を探す。棚の端のデジタル数字が、古い蛍光灯のように一瞬チカチカと消えかけていた。
しかし棚が完全に停止すると、『318』の数字が明確に点灯した。
外へ連絡。318番の解錠。白い出口。
四人目を、無事に光の枠の向こうへ送り出す。
これで、行方不明になっていた四名全員の回収が完了した。
*
「よし! 全員見つけましたね。私たちも帰りましょう!」
澪が明るく言う。
「そうしましょう」
久我も頷き、出口の番号を探そうとして。
そこで、二人ともピタリと動きを止めた。
先ほどの被害者たちの棚には、『234』『102』『318』といった、現実と繋がる取出口の番号がはっきりと表示されていた。
だが。
今、久我と澪の周囲の棚を見回しても、番号が一つも表示されていないのだ。
「……俺たちの番号、なくないですか?」
「…………」
理由は単純だった。
二人は、現実のロッカーから荷物としてこの倉庫へ《預け入れ》された人間ではない。
外から、番号のない空白の空間を無理やり現実化させて侵入したイレギュラーだ。そのため、この倉庫のシステム上、通常の『払い出し対象』として登録すらされていないのだ。
ここで初めて、被害者は全員出せたのに、救助隊である自分たちが帰れないという致命的な逆転現象に陥った。
*
一方、外側。
「皇さん、まずいです」
杖原が、焦った声を上げた。
最初に久我たちを入れるために固定した、『217番と218番の間の空間』の接続が、急激に弱まっているのだ。
千鶴がガラスの反射を見る。番号なしの空白のロッカーは、現れては消え、次は151番の隣、さらに次は別の列へと、一瞬で位置を移してしまっている。
杖原が結界で強引に固定し続けようとしても、倉庫側が組み替わるたびに、ズルズルと滑るようにズレてしまう。
このまま完全に接続が切れれば、次にいつ久我たちのための入口を作れるか全く分からない。
『久我さん、七瀬さん。聞こえますか』
ノイズ混じりの、かれんの声。
『通常番号のロッカーからの退出は可能ですか』
「無理そうです。俺たち、正式な番号をもらってませんから」
「やっぱり、勝手に入ったからですかね……」
「澪さん、その言い方はちょっと傷つくな」
久我が少しだけ空気を軽くする。
*
ここから、外部の三人が主役に切り替わった。
千鶴は、ガラスウィンドウへ極限まで集中した。
番号なしロッカーが、217と218の間。次は151と152の間。さらに別の列。一定の位置に留まらない。
しかし、千鶴は観察を続けるうちに気づいた。
ランダムに移動しているのではない。内部の棚が『ピンポーン』と鳴って移動するサイクルと完全に同期して、内部のどこかへ接続可能な位置へ『順番』に移っているのだ。
「……久我さんたちの近くへ、あの番号なしの扉が来る瞬間が、必ずあるはずです」
「目で追えますか?」
かれんが問う。
「やります」
千鶴は自分の能力を過剰に誇張することはしない。ただ、反射に一瞬だけ映る余分な扉を、絶対に見失わないことだけに集中した。
*
内部の二人。
ピンポーン。
棚が移動する。
久我が魔眼を開く。しかし、生命反応を探っても無意味だ。出口は生き物ではない。
「じゃあ、どうやって出口を探すんです?」
澪が周囲を見回す。
「さっきまで人を探してたから、見方が違ったんですよ」
久我は、直接『白い光』と、現実側から流れ込む『冷たい外気』、そして『駅の喧騒の音』を探すことに切り替えた。
澪は耳を澄ませる。久我は視覚と嗅覚に集中する。
ほんの一瞬。
遠くの棚の隙間から、地下鉄の電車の走行音が微かに聞こえた。
「右です!」
澪が叫び、二人はそちらへ向かって一気に駆け出した。
*
最後の棚移動。
目の前の暗がりの先に、あの『白い出口』の光が見えた。
ただし、数十メートルほど遠い。
その瞬間。
ピンポーン。
最悪のタイミングで、電子音が鳴った。
出口までの直線の通路を塞ぐように、巨大な金属棚が横から猛烈な勢いで動き始めたのだ。
澪の速度なら、一人であれば棚が閉まる前に余裕で抜けられる。
しかし、久我の身体能力では間に合わない。久我を置いていくか。澪が一瞬だけ迷った。
「行かなくていいです。一緒に行きましょう」
久我が、走りながら言った。これも、訓練の成果だ。
澪は頷き、棚の配置と閉じる速度を見極めながら移動した。
久我は、両腕に強固な《血装》を分厚く形成した。
棚は久我を避けるように一度だけ減速した。だが、久我はその安全な動きを待たず、閉じかける巨大な棚と棚の間へ、その両腕を強引に差し込んだ。
ギチィィィッ!
数千トンの圧力が両腕にかかる。吸血鬼の耐久力と《血装》をもってしても、数秒だけ隙間を保つのが限界だ。新しい必殺技ではない。ただの力技だ。
澪が、その確保された隙間を先に風のように抜ける。
久我も、腕を引くと同時に身体を滑り込ませた。
バキッ、と《血装》が砕け散り、久我の腕の骨が少しだけひしゃげる嫌な音がしたが、吸血鬼の再生力ですぐに治る。この程度の代償で済むなら安いものだ。
*
外側。
「来ました!」
千鶴が叫んだ。ガラスの反射に、番号なしロッカーが映る。
今度は、217番と218番の間。二人が最初に入ったのと全く同じ場所へ、一瞬だけ戻ってきたのだ。
「ここです!」
杖原が、全力で結界を打ち込み、境界を固定する。
現実の何もない壁に、空間の歪みが生じ、冷たい金属の取っ手が浮かび上がった。
「開けてください!」
かれんの指示で、杖原が取っ手を引く。
内側。
久我と澪の目の前に、白い長方形の光が大きく開いた。
「出口!」
先に澪が飛び込む。続いて久我。
久我が半身を光の中へ入れた瞬間、背後でまたピンポーンと電子音が鳴り、巨大な棚が動き始めた。
しかし、久我はもう振り返らない。
そのまま、現実の世界へと身を躍らせた。
*
久我が、地下通路のタイル張りの床へゴロゴロと転がり出る。
背後の番号なしロッカーの扉が、ガンッ、と重い音を立てて勝手に閉じた。
次の瞬間。
扉の輪郭が、蜃気楼のようにフッと消え去る。そこには、217番と218番の間の、ただの普通のコンクリートの壁面があるだけだ。
「……消えました」
千鶴が、ガラスの反射から目を離して息をつく。
「接続反応、急速に低下しています。完全に切れました」
杖原も測定器を下ろした。
全員無事。
救出された四名の一般人も、すでに救急搬送の準備が進められている。
死亡者なし。行方不明者全員回収。
今回は、文句なしの完全な勝利だった。
*
事後調査。
駅側の設備記録から、重要な事実が判明した。
この問題のロッカー群は、新品になったわけではない。約二週間前、地下通路の改修工事に伴って、壁沿いに数メートルから十数メートルほど、配置を横へ移動されていたのだ。
そして、最初の失踪事件が起きたのが、その数日後だった。
「元々この地下の空間には、昔からあの巨大保管庫と接続し得る『境界の異常な揺らぎ』が存在していたのでしょう」
杖原が推測を述べる。
「今回の設備の配置変更によって、現実のコインロッカーという『容れ物』が、偶然その境界の穴へ強く重なってしまった。だから、この十日間で五人も集中して落ちてしまったのだと思います」
そして、内部に何十年も前の古い荷物や棚があったことから、あの異空間そのものは最近できたものではないと分かる。
過去にも、別の場所、別のロッカー、昔の手荷物預かり設備などと断続的に繋がり、人間の落とし物を延々と保管し続けてきた可能性があるのだ。
ただし、これはあくまで推測であり、あの空間の本当の起源は誰にも分からない。
*
駅側としては当然、問題のロッカー群は即時使用停止となった。八咫烏の立ち会いのもと、明日にはすべて撤去される。
壁の奥を調査したが、ただのコンクリートがあるだけだった。空間異常の反応はすでに急激に薄くなっている。通路の別の位置へ仮設された新しいロッカーにも、今のところ接続の兆候はない。
かれんは、あの異空間そのものを強引に追跡して破壊しようとはしなかった。
「内部には、膨大な物品が保管されています。どこから来た物なのかも、誰の物なのかも分かりません。もし空間を強制的に崩壊させた場合、保管物がすべて消滅するのか、現実へ一斉に吐き出されて大事故になるのか、あるいは別の危険な場所へ接続してしまうのか、予測がつきません」
そして何より、現状、人命被害を起こしていた現実側の『入口』は完全に閉じられたのだ。
だから、これ以上は触らない。これもまた、八咫烏らしい極めて合理的な判断だった。
*
帰り際。
「結局、あれって何だったんでしょうね」
久我が、もうただの壁に戻った場所を見つめて言った。
「分かりません」
杖原が即答する。
「あれだけ必死に調べて、中まで入ったのに?」
「分からないものは、分かりません」
かれんも同意した。
「人間を襲って食うような目的があったのかどうかすら、確認できていませんから」
「襲ってはいなかったですよね。ただ保管しようとしていただけです」
「むしろ棚の方から、私たちを避けてましたし」
澪が付け加える。
「はい。ただし、人間を勝手に荷物として永遠に保管していたことも、紛れもない事実です」
善意でも悪意でもない。
ただ、『預けられた物を安全に保管する』という機能だけが、異常な規模で存在していた。それが、怪異の正体だった。
*
地下通路の封鎖が解かれ、一般客へ戻す準備が急ピッチで進められている。
問題のロッカーの列だけが、『設備更新のため使用停止』の無難なパネルで覆われていた。
そのすぐ横を、何も知らない一般客たちが、スマホを見ながら普通に歩いていく。
久我は、明日には撤去されていくであろうロッカーの列を見た。
あの向こうの内部には、何十年も前から誰かに預けられ、誰にも取り出されることのなかった古い鞄や傘が、今もあの薄暗い巨大倉庫で静かに並んでいるのだろう。
でも、人間はもういない。
少なくとも今回迷い込んだ五人は、全員、こちらの現実へと帰ってきたのだから。
「陽介さん」
「はい?」
「私、もう当分コインロッカー使いたくなくなりました」
澪が、心底嫌そうに言う。
「奇遇ですね。俺もです」
「普通のロッカーなら、全く問題なく安全だと思いますよ?」
千鶴が真面目な顔でフォローする。
「鏡宮さん、それ今言われても、あんまり安心できないです」
久我たちは軽く笑い合いながら、深夜の新宿駅を後にした。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!