35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第58話 吸血鬼、女子高生が母親からの手紙を読む

 他人の人生を奪い、社会の空席に成り代わって生きる怪異の事件が終息してから、数日が経過した。

 

 夜の御影坂高校。

 

 授業も部活動もとうに終わり、静まり返った校舎の一角にある夜間警備班の詰所では、久我陽介がいつものように巡回前の準備を整えていた。

 

「……今夜こそ、何も起きない普通の巡回で終わるといいですね」

 

 久我が、パイプ椅子に腰掛けながらしみじみと呟いた。

 

 ここ最近、文字通り命を削るような怪異領域への突入や、息の詰まるような交渉事が立て続けに起きていた。三十五歳の会社員としては、心身ともに何もない平穏な夜をただただ欲していた。

 

 対面に座ってストレッチをしていた七瀬澪が、深く同意するように頷く。

 

「本当ですよね。私はもう、コインロッカーの中とか、誰かが作ったヘンテコな幻の中とかに入らなければ、何でもいいです」

 

「七瀬さん、それ、安全の基準がかなり下がっていませんか?」

 

 制服姿の鏡宮千鶴が、わずかに苦笑いを浮かべながらツッコミを入れる。

 

 かつて重圧に押し潰されそうになっていた千鶴の横顔には、自分の足で立ち、自分の意志で選ぶという、確かな静けさが宿っていた。

 

 そんな穏やかな時間が流れていた詰所の扉が開かれ、皇かれんが入ってきた。

 

 今日の彼女は、いつもの業務報告の時とは少しだけ空気が違っていた。その手には、点検用のタブレットだけでなく、薄い和紙のようなものが収められた書類ケースが抱えられている。

 

「巡回へ出る前に、千鶴さん。鏡宮家から、あなた宛てのものが届いています」

 

 かれんの声に、千鶴の指先がピクリと跳ねた。

 

 彼女の目が、一瞬にして警戒の鋭さを帯びる。先日、東京の施設で行われた面会において、鏡宮家が母親の『替え玉』を本人と偽って出席させていたことが発覚したばかりだ。それ以来、家とのやり取りは厳格な条件のもとで行われている。

 

「……当主代理からの、新しい交渉の書面ですか?」

 

 千鶴が硬い声で問う。

 

「いいえ」

 

 かれんはわずかに間を置き、静かに首を振った。

 

「お母様本人からの、直接の手紙です」

 

 千鶴の息が、不自然に止まった。

 

 詰所の空気が、一瞬にして重く張り詰める。

 

       *

 

 テーブルの中央に置かれたのは、豪奢な家紋の入った巻き物や、当主の威厳を示すような公式な書状ではなかった。

 

 ごく普通の、少し厚みのある和紙の便箋だ。それが七枚ほど、丁寧に折り畳まれている。

 

 久我は、その便箋に書かれている文字を見て、不思議そうに眉をひそめた。

 

「……かれんちゃん。これ、筆跡がかなりバラバラに見えるんですけど」

 

 ある行は流れるような美しい文字だが、次の行では手が激しく震えたようにインクが掠れており、文字の大きさすらも一定ではない。

 

「お母様お一人の直筆です」

 

 かれんが、静かに説明を始めた。

 

「現在のお母様には、意識が混濁する長時間の錯乱の合間に、ごく数分間だけご自身の正気を取り戻す《明瞭な時間》が、不定期かつ断続的に存在します。そのわずかな時間だけを使い、十数日もの日数をかけて、少しずつご自身の手で書き進められたものです」

 

 一度に書き上げられた文章ではないからこそ、その時々の精神状態や疲労度が、そのまま筆圧の揺れとして紙面に残っているのだ。

 

 よく見ると、同じ内容の謝罪が、別の頁で二度繰り返されている箇所すらあった。それも、他人の手で修正されることなく、そのままの形で送られてきている。

 

 完璧に整えられた公文書ではなく、狂気と正気の狭間で喘ぐ人間が、必死に指先を動かした生々しい痕跡だった。

 

「……本当に、母上が書かれたものなのですか?」

 

 千鶴の掠れた声には、まだ疑いが混じっていた。先日の面会での欺瞞の傷が、まだ彼女の心に残っている。

 

「はい」

 

 かれんは、その不安を断ち切るように力強く頷いた。

 

「先日の件がありましたので、八咫烏側も極めて慎重に確認を行いました。過去の文書との厳格な筆跡一致。執筆の際、鏡宮家側の複数の人間が立ち会っていることの確認。当主代理が文章内容へ一切の加筆・修正を行っていないこと。そして、八咫烏の京都支部が、写しではなくこの原本そのものを直接確認し、回収しました」

 

 さらに、どの文章が何月何日の《明瞭な時間》に書かれたものかという、詳細な執筆記録のログまで添えられているという。

 

 先日の交渉で千鶴が叩きつけた『母君本人の発言と、当主代理の発言を厳格に区別する』という条件を、鏡宮家は今回は完璧に守らざるを得なかったのだ。

 

 千鶴は、長く、深く息を吐き出した。

 

 強張っていた肩の力が少しだけ抜け、震える指先を伸ばして、和紙の便箋をゆっくりと手元へ引き寄せた。

 

       *

 

 手紙の冒頭は、威厳に満ちた当主の言葉でも、過剰な罪悪感に塗れた謝罪の言葉でもなかった。

 

『千鶴へ』

 

 ただ、自分の娘の名が静かに書かれていた。

 

『あなたが東京で、信頼できる方々に囲まれて無事に暮らしていると聞きました。それを聞くことができただけで、私はとても嬉しいです』

 

 手紙は、自分がいかにまとまった思考を保つのが難しい状態であるか、この手紙も何日もかけて少しずつ書いているため、途中で同じことを繰り返していたら許してほしいという、不器用な言い訳から始まっていた。

 

 先日の面会室で会った、破綻のない完璧で静雅な『母親』とは全く違う。

 

 痛々しく、壊れかけ、それでも必死に娘へ向かって言葉を紡ごうとしている、本物の母親の姿がそこにあった。だからこそ千鶴は、これが紛れもなく本物であると直感で理解した。

 

 千鶴は唇を固く結び、次の頁をめくった。

 

『まず、私がなぜこのようになってしまったのかを書きます。あなたは、この家の真実を知らないままでいるべきではありません』

 

 ここから、手紙は鏡宮家という巨大な名家が隠し続けてきた、一子相伝の秘密の核心へと入っていく。

 

 すべての始まりは、いまから千年以上前。平安の京に都が置かれた時代まで遡る。

 

 鏡宮家の遠い祖先が、京都という土地そのものに深く根を張る古き『土地神』と、不可侵の契約を結んだ。

 

 その契約によって、鏡宮家は現在の《神鏡返し》へと続く、通常の異能者の枠を遥かに超えた、絶大な神威と絶対の反射権能を手に入れたのだ。

 

 しかし、神との契約が無償であるはずがない。

 

 代償として求められた条件は、ただ一つ。

 

『契約を結んだ当主は、生涯、京都の地を離れてはならない』

 

「……京都を出てはいけない?」

 

 久我が思わず呟いた。

 

「それって、単に『当主は伝統を守って京都の屋敷に住み続けなさい』っていう、古い家訓みたいな精神論の話じゃないんですよね?」

 

「違います」

 

 杖原が手元の資料を開きながら、現代の異能理論の観点から静かに補足した。

 

「物理的、かつ絶対的な因果の制約です。土地神との契約者が京都の土地から離れようとすると、まず土地との霊的接続が著しく不安定になり、精神と認識が速やかに混線し、崩壊します。最終的には、発狂したまま狂死に至る。だからこそ、歴代の鏡宮家当主は、旅行であれ公務であれ、京都の境界の外へ出ることは絶対に許されなかったのです」

 

 代々受け継がれてきた掟は、単なる格式や体裁などではなく、血で書かれた物理的な生存ルールだったのだ。

 

 千鶴の母が書いた手紙には、その過酷な現実が容赦なく綴られていた。

 

『鏡宮家がどれほど強い権能を持とうとも、その力は京都という檻と引き換えに与えられたものに過ぎません。血筋、京都という土地、一族の祭具、歴代当主の積み重ねてきた共有認識、そして千年以上の契約。それらすべてを背負い、一生を京都の地で終えること。それが、当主となる者に課せられた逃げられない宿命でした』

 

       *

 

 千鶴のめくる頁の音が、静かな詰所にカサリと響く。

 

『千鶴。本来であれば、亡き大お祖母様の次に土地神との契約を完全に結び、新しい当主となるはずだったのは、あなたでした。あなたが生まれた瞬間から、長老たちはあなたを次代の器として育てることを決めていたのです』

 

 千鶴の胸が、重く沈む。

 

 幼い頃から鏡の前で繰り返された、厳しい修練と作法。遊びに行くことも許されず、普通の友達を作ることも叶わなかった日々。それらすべては、彼女を「京都の檻」に繋ぐための準備だったのだ。

 

 だが、手紙はこう続いていた。

 

『ですが……私にとっても、亡き大お祖母様にとっても、あなたにその生涯京都から出られない人生を押し付けることは、耐え難い苦痛でした。あなたが大人になり、世界の全てを理解した上で、それでも引き受けると自ら決めるのなら別です。しかし、何も知らぬ子供のまま、「次期当主だから」という理由だけで生贄となることだけは、どうしても避けたかった』

 

 千鶴の手が、ピタリと止まった。

 

『だから私は、大お祖母様と何度も話し合い、ある計画を立てました』

 

 手紙の文字が、激しく乱れている。母がこの部分を書く時に、どれほど強い感情を押し殺していたかが、滲んだ墨から痛いほど伝わってきた。

 

『あなたが成長し、自分の人生を選べるようになるまでの時間を稼ぐため……私が一代の猶予としてあなたと大お祖母様の間に割り込み、次の当主として契約を引き受けることにしたのです。あなたに背負わせるくらいなら、私がやればいいと思いました』

 

「……っ」

 

 千鶴の口から、小さな息が漏れた。

 

 鏡宮家の上層部から強要されたのではなかった。祖母が非情にも娘を生贄にしたわけでもなかった。

 

 母自身が、娘の将来の自由を守るために、自らの意思でその過酷な引き受け役へと名乗りを上げたのだ。

 

『私は、契約を引き受ける決意をしました。ですが……私には、当主としての資格も、霊的な適性も、決定的に不足していたのです』

 

 手紙は、悲劇の核心へと入っていく。

 

 平安より続く土地神との契約は、ただ鏡宮の血を引いているだけで誰でも正常に結べるというものではなかった。土地神側に認められる、圧倒的な『契約の適性と資格』が必要不可欠だったのだ。

 

 千鶴には、生まれながらにしてそれがあった。祖母にもあった。

 

 しかし、母にはそれが欠けていた。

 

 それでも母は、千鶴を守り時間を稼ぐために、無理やり継承の儀式を強行した。

 

 そして――最悪の形で、継承が『半分だけ』成功してしまったのだ。

 

「……条件だけが、お母様へ移ったのですね」

 

 かれんが、資料を見つめながら静かに呟いた。

 

「どういうことですか?」

 

 久我が尋ねる。

 

「本来であれば、《神鏡返し》の権能の本体と、土地神との《契約条件(代償と制約)》は、一組のセットとして次の当主へと引き継がれるはずでした。しかし、強引に継承を成立させようとした結果、契約だけが先に成立してしまったのです」

 

 手紙と八咫烏の資料が示す、あまりにも残酷な構造。

 

 母に移ってしまったのは、土地神との『契約条件』だけだった。

 

 土地神との契約者としての位置。京都との強烈な霊的接続。当主としての役目。そして、『京都から出てはならない』という絶対的な制約。

 

 だが、それらの莫大な情報と負荷を正常に制御し、己の精神を守るための核心である《神鏡返し》の完全な能力核は、適性のなかった母の身体には宿らず、そのまま祖母のもとに残ってしまったのだ。

 

「……能力という防具がないまま、制約の負荷だけを受け取った」

 

 久我の顔が歪む。

 

「そんなこと、あるんですか?」

 

「本来は、あり得ないことなのでしょう」

 

 杖原がうつむく。

 

「権能による保護がないため、京都の土地の巨大な記憶、土地神の意志、鏡宮家の歴代当主たちの残留思念、そして無数の鏡のネットワークから流れ込む情報が、何のフィルターもなくお母様の精神へダイレクトに流れ込み続けました。……それが、お母様が現在と過去を混同し、自分を歴代当主と思い込み、鏡の中の存在と対話し続けるという、現在の錯乱状態の直接の原因です」

 

 母は、ただの病気で壊れたのではなかった。

 

 能力という防具を持たぬまま、千鶴の代わりに「京都の契約」という名の劇薬を、全身で受け止め続けていたのだ。

 

       *

 

 千鶴は、膝の上に置いた手紙を、震える指先でじっと見つめていた。

 

『私は、正気を失いました。ですが、不完全ながらも私が契約条件を引き受けたことで、土地神との契約は「当主が履行中」とみなされ、あなたへ契約が移ることは防ぎ止められました。私がこうして壊れたまま京都に縛られ、契約を繋ぎ止めていること自体が、あなたが京都の制約を受けずに生きられる理由だったのです』

 

 母の狂気そのものが、千鶴を縛る鎖を代わりに引き受けていた。

 

 母は、契約当主としての最低限の役目だけは、今も果たし続けている。京都から動かず、土地側との接続を維持し、契約を切らさない。それだけで、本来なら千鶴へ行くはずだった呪いを、自分のところへ留め続けているのだ。

 

『大お祖母様は、私をこのような姿にしてしまったことを深く後悔されていました。能力の本体が手元に残った大お祖母様は、私を救い、あなたも縛らない別の方法を、死ぬまで必死に探しておられました。……しかし、千年続く契約の理を解除する術は見つからぬまま、大お祖母様は急逝されました』

 

 祖母の死によって、彼女の体内に残っていた《神鏡返し》の権能本体は、正規の次期適格者であった千鶴へと自然に引き継がれた。

 

 その結果生じたのが、現在の異常極まる「分断」だった。

 

「つまり、今の状況を整理すると……」

 

 久我が、確認するように言った。

 

「お母様は、能力を持たないまま土地神との過酷な契約条件だけをその身に背負い、京都から出られず錯乱している。一方で千鶴さんは、能力の本体だけを受け継いだため、契約の縛りを受けずに東京にいることができる。そして当主代理は、契約も能力も持たないが、お母様の正常だった頃の人格を写して実務を代行している……ということですね」

 

 なぜ千鶴が東京で自由に生活できているのか。なぜ母が京都の奥深くで狂っていたのか。なぜ当主代理という不気味な存在が必要だったのか。

 

 絡み合っていた不可解な謎が、すべて一筋の悲しい真実として繋がった。

 

「……では」

 

 千鶴が、震える声で手紙から顔を上げた。

 

「以前から言われていた《鎮鏡の儀》というのは……?」

 

 手紙の次の頁には、その答えがはっきりと記されていた。

 

『千鶴。《鎮鏡の儀》は、急激に継承された《神鏡返し》の力を安定させるための儀式だと説明されるでしょう。それは事実です。ですが同時に、私からあなたへ、土地神との契約条件そのものを完全に移行させる危険性を孕んでいます』

 

『儀式によって契約があなたへ移るかどうか、不完全な状態にある私にも断言はできません。だからこそ、少なくとも今は、絶対に受けてはなりません』

 

       *

 

 千鶴は、手紙の最後の頁を開いた。

 

 そこには、震える筆致で、母の現在の本当の思いが書かれていた。

 

 母は、自分が今どんなに惨めな状態にあるのか、ある程度理解しているようだった。正気でいられる時間が極端に短いことも。千鶴の顔を見れば、自分がまた歴代当主の記憶に飲まれて混乱してしまうことも。京都から出れば死ぬことも。

 

 それでも。

 

『私は、元に戻りたいと思わないわけではありません』

 

 母は、聖人ではなかった。

 

 正気に戻りたい。娘と普通に話したい。外の世界へも出てみたい。その切実な気持ちは、確かに存在していた。

 

 でも。

 

『そのためにあなたが私の代わりになるのなら、今のままで構いません』

 

『私が生きている限り、この契約は私が持ちます。私は死ぬまで、京都から出ません。だから、あなたは私を助けるために京都へ戻ってはいけません』

 

 母は、「自分の継承は失敗だった」とは思っていなかった。

 

『私は継承には失敗しました。ですが……あなたへ契約が渡るのを、何年か止めることには成功しました。だから、全部が失敗だったとは思っていません』

 

 数年間、自分の精神を壊し続けた。

 

 なのに母は、その数年間を『千鶴に渡すことができた時間』だと思って、少しも後悔していなかったのだ。

 

『東京にいたいなら、東京にいなさい。今の仲間と一緒にいたいなら、そうしなさい。あなたの人生を、私を元に戻すための代金にしないでください』

 

『もし何かを決める時が来るなら、私のためではなく、あなた自身のために決めなさい』

 

 手紙は、そこで終わっていた。

 

 最後には、かつて母が千鶴を抱きしめてくれた時のように、温かく優しい、一人の母親としての署名が添えられていた。

 

       *

 

 詰所の中に、長い沈黙が訪れた。

 

 誰も言葉を発することができない。澪も、杖原も、息を呑んで千鶴を見守っていた。

 

 千鶴は、膝の上の手紙をじっと見つめていた。

 

 ボロボロと涙がこぼれ落ちることも、声を上げて泣き叫ぶこともなかった。ただ、蒼白な顔で、完全に思考が停止したように固まっていた。

 

「……母上は」

 

 千鶴の口から、小さな声が漏れた。

 

「母上は、ずっと……」

 

 その先を言うことができなかった。

 

 これまで、心のどこかで疑っていた。母親は、自分をあの重圧に満ちた鏡宮家へ戻したい側の人間なのではないかと。

 

 でも、真相は真逆だった。

 

 自分が壊れてまで、千鶴をその過酷な契約から遠ざけてくれていたのだ。

 

 しばらくして。

 

 千鶴が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い悲しみと、それを超えた強い揺らぎが浮かんでいた。

 

 千鶴は、かれんを真っ直ぐに見据えた。

 

「皇さん」

 

「はい」

 

「一つ、確認させてください」

 

 久我の背筋に、嫌な予感が走った。

 

「今、私が母上の契約を正式に引き継いだ場合……」

 

 千鶴は一度言葉を切り、そして絞り出すように問うた。

 

「母上は、元の正気の状態に戻られるのでしょうか」

 

       *

 

 かれんは、すぐには答えなかった。

 

 隣に立つ杖原と視線を交わし、八咫烏側の最高医療チームによる調査資料を脳内で再確認する。

 

 そして、残酷なまでに誠実な声で答えた。

 

「……そうですね。恐らく、元に戻ります」

 

 千鶴は、何も言わなかった。

 

「現在のお母様の錯乱の主要因は、資格不足の状態で土地神との契約条件と京都への接続だけを保持し続けていることにあります。千鶴さんが完全な契約者となってそれらを引き継げば、お母様からその負荷は外れます。したがって、現在の錯乱状態の主要因は消失する可能性が非常に高いです」

 

 ただし、とかれんは付け加えた。

 

「数年間もこの状態にありました。精神や魂への長期的な影響、記憶の欠損、人格への後遺症。それらが完全に回復するという保証はどこにもありません。それでも……少なくとも今よりは、正常に生活できる状態になる可能性は高いです」

 

 それを聞いて、千鶴は確認する必要すらないことを、あえて口にした。

 

「その場合、私は?」

 

「土地神との契約が正常に成立するのであれば……」

 

 かれんは一拍置き、はっきりと告げた。

 

「以後、あなたは京都から出ることができなくなります。契約が続く限り、恐らくは生涯。もし京都を出れば、お母様と同じように錯乱し、そして死亡します」

 

「……それじゃ」

 

 澪が、耐えかねたように声を上げた。

 

「それじゃ、結局ただの『交換』じゃないですか……! お母さんが治って、代わりに千鶴が京都に縛られるだけなんて……そんなのおかしいです!」

 

「現状の因果律の構造では、そうなります」

 

 杖原が悲しそうに頷く。これが、この問題の絶望的な本質だった。

 

「両方が助かる方法は?」

 

 久我が尋ねる。

 

「現時点では、確認されていません」

 

 かれんは明確に答えた。

 

 土地神を倒せばいい、契約を破壊すればいい、といった単純な話ではない。この契約そのものが、千年以上にわたる鏡宮家の能力と京都の防衛構造へ深く組み込まれているのだ。母親だけを切り離す安全な代替手段もない。

 

 千鶴は、膝の上の手紙をもう一度見た。

 

『私が死ぬまで、契約は私が持ちます』

 

 その言葉の意味が、先ほどとは全く違って見えた。

 

 母は、「千鶴が代われば自分が助かる」ということを完全に理解した上で、それでも「やるな」と言っているのだ。しかも母自身は、正気に戻りたくないわけでも、娘と話したくないわけでもない。それでも、娘の未来のために、自分の救済を拒否している。

 

「でも、私が引き受ければ……母上は……」

 

 千鶴が、すがるような目で手紙に手を伸ばしかけた。

 

「千鶴さん」

 

 久我が、初めて口を挟んだ。

 

 千鶴の言葉を否定はしない。ただ、静かに問うた。

 

「それ、今日決めなきゃいけない話ですか?」

 

 千鶴の動きが、ピタリと止まった。

 

       *

 

「ありません」

 

 かれんが明確に告げた。

 

「今すぐ決める必要は、どこにもありません。お母様本人も全く急いでおられませんし、鏡宮家側からも、現在、契約の継承を求める正式な要求は出ていません。むしろお母様本人が、自分が死ぬまで保持すると明言しておられます」

 

 つまり、今夜、千鶴が焦って答えを出す理由は一つもないのだ。

 

「俺が千鶴さんならどうする、とか、無責任なことは言えません」

 

 久我は、千鶴の目を真っ直ぐに見た。

 

「俺は千鶴さんじゃないですから。……ただ、母親を助けられるかもしれないって聞いた直後の、感情がぐちゃぐちゃに揺れている状態で、自分の残りの人生すべてを決めてしまうのは、さすがに早すぎます」

 

 久我は、千鶴に「絶対に契約を受けるな」とは言わなかった。

 

 なぜなら、将来、千鶴自身が世界の広さを知り、全ての真実を理解した上で、「それでも母を救い、当主として生きる」と決意する日が来るかもしれないからだ。それもまた、彼女自身の尊い選択なのだ。

 

 だから久我は、答えを与えない。ただ、今ここで自分を捨てることだけを止めた。

 

 千鶴は、長い間、沈黙していた。

 

 やがて、彼女はゆっくりと息を吐き出し、膝の上の和紙の手紙を、一枚一頁ずつ、愛おしむように丁寧に折り畳んでいった。

 

「……分かりました」

 

 千鶴の声から、悲壮な焦りが消えていた。

 

「引き受けません」でも、「絶対に引き受けません」でもなかった。

 

「今は、決めません」

 

 それが、彼女の出した最善の答えだった。

 

「はい。それでいいと思いますよ」

 

 久我が優しく笑い、かれんも静かに頷いた。

 

       *

 

 ふと、千鶴が思い出したように呟いた。

 

「では、あの日の面会で会った当主代理は……」

 

 当主代理が保持しているのは、母が壊れる前の、正常だった頃の人格と記憶だ。

 

 つまり、千鶴を過酷な契約から守ろうと、祖母と命がけの計画を立てていた頃の母親そのものなのだ。

 

 だから、あの日の面会で当主代理が『千鶴を自由にしたい』『儀式を強制したくない』という感情を見せた理由も、完全に腑に落ちた。

 

 あれは、現在の母親本人の言葉ではなかった。でも、確かに正常だった頃の母親自身が持っていた、紛れもない本物の愛だったのだ。

 

「……それでも、本人だと偽って私を騙したことは別です」

 

 千鶴は、キッパリと言った。

 

「はい。それは別問題です」

 

 かれんが頷く。

 

「そこは混ぜない方がいいでしょうね」

 

 久我も同意した。当主代理を許したわけではない。境界線はそのまま維持する。

 

 ただし、千鶴の中で、当主代理が持っていたあの温かい感情の由来だけは、確かに理解できた。

 

       *

 

 重い話を終えたところで、時計の針がいつもの夜間巡回の時間を示した。

 

 誰も、「今日は休む?」とはすぐには言わなかった。

 

 かれんだけが、静かに選択肢を提示する。

 

「千鶴さん。今夜の巡回は、外れても構いませんよ」

 

 千鶴は少し考えた。

 

 手紙を書類ケースへ大切にしまい込む。

 

 そして、「いえ」と言って、立ち上がった。

 

「行きます。今夜は、今夜の私の仕事がありますから」

 

 四人で詰所を出る。

 

 久我。澪。千鶴。杖原。いつもの夜間巡回だ。

 

 千鶴の制服の鞄の中には、母親から初めて届いた本物の手紙が入っている。

 

 答えはまだ出ていない。

 

 母親を救えるかもしれない。その代わり、自分が京都から出られなくなる。しかも、母親はそれを望んでいない。

 

 千鶴は廊下を歩きながら、一度だけ、夜の校舎の窓ガラスへ映った自分を見た。

 

 そこにいるのは、狂気に縛られた母親でもなく、重圧に怯える次期当主でもなく、今の『鏡宮千鶴』だった。

 

 千鶴は前を向き、そのまま真っ直ぐに、夜の巡回へと歩みを進めた。




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