35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
夜。御影坂高校。
静まり返った校内の一角にある夜間警備班の詰所では、いつものように巡回前の準備が進められていた。
久我陽介は、貸与された業務用端末で本日の巡回ルートを確認し、七瀬澪は軽いストレッチを済ませている。杖原つかさは、手元の機材の結界出力を細かく調整していた。
鏡宮千鶴も、高校の制服姿のまま、自分の携行品をチェックして巡回の輪の中に加わっている。
数日前の夜、あの重すぎる手紙を受け取ったばかりだ。彼女が背負わされた千年続く土地神の契約と、過酷な二択の決断。
しかし、千鶴の表情に、あの日のような悲壮な焦燥感はない。
彼女自身が「今は決めない」と選択したことを、久我たちもまた、何も聞かずに黙って尊重していた。
「久我さん、準備できましたか?」
千鶴が、ごく普通の声で尋ねてきた。
「はい」
久我も、ただ短く頷いて返す。それで十分だった。
「今日は、何も起きないといいですねー」
澪が背伸びをしながら言う。
「それ、この間も言ってませんでした?」
久我がツッコミを入れる。
「そういうフラグになるような言葉は、勤務前には言わない方がいいのでは」
杖原が真面目な顔で注意する。
「不用意に口にした言葉で何かが発生するのであれば、それ自体が因果律改変の能力になってしまいますよ」
千鶴が冷静に分析を加えた。
「千鶴さんだけ、妙に理系的というか冷静ですね」
久我が苦笑した。
重かった数日前の空気を、少しだけ軽くするための日常的なやり取り。
その平穏を切り裂くように、皇かれんの業務用端末から、鋭い緊急警報の電子音が詰所に鳴り響いた。
*
「首都高速の特定区間で、異常な連続事故が発生しています」
かれんがタブレットを操作し、モニターへ情報を映し出した。
単独でのスピン、車両同士の接触、防音壁への激突、大型トラックの荷崩れ。それらが、わずか数分の間に、特定の進行方向へ向かって連続発生している。
しかし、不可解なことに、それらの事故原因が全く一致していないのだ。
「各車両のドライブレコーダーの映像を簡易解析しましたが、事故の直前、車の前には障害物も他車両も何も映っていません」
「居眠りや操作ミスですか?」
久我の問いに、かれんは首を振る。
「運転手たちの証言は、ほぼ一致しています。『突然、横から何かに強く押された』『水の中を走っているみたいに、急にハンドルが重くなった』『巨大な影が、頭の上を通った気がする』」
一般の警察や道路管理会社の通信では、『突発的な強烈な突風』『局地的な突風による連続事故』として処理され始めている。
しかし。
「八咫烏の環境観測装置に、首都高のルートに沿って移動する『巨大な怪異反応』が捉えられています」
かれんの言葉に、全員の顔つきが変わった。
*
八咫烏の偽装車両に乗り込み、緊急走行で首都高速へと向かう。
すでに警察の上層部と道路管理会社へは、八咫烏側から裏で手配が済んでいる。表向きには『大型の落下物の可能性があるため、緊急の安全点検を実施する』という名目で、対象となる一部区間の閉鎖が始まっていた。
しかし、完全な交通封鎖には数分のタイムラグがある。現在もまだ、道路上には取り残された一般車両が走っている状態だ。
後部座席で、久我がインカムに触れる。
「かれんちゃん。怪異反応の現在位置は?」
『怪異は現在も、首都高の上を一定の速度で移動中です。……かなり大きいです』
指揮所からのかれんの声が、少しだけ硬い。
「かなりって、どれくらいですか?」
一拍の沈黙。
『推定全長、二十八メートル』
「……二十八?」
久我が思わず聞き返した。大型の路線バスを二台縦に並べても、まだ足りない。
「二十八メートルって、何がですか?」
澪が身を乗り出して聞く。
『魚です』
車内に、数秒の完全な沈黙が訪れた。
*
パトランプを回した八咫烏の車両が、一般車のいなくなった車線を猛スピードで駆け抜ける。
前方の夜空。
オレンジ色のナトリウムランプが続く高架道路の少し上を。
巨大な『何か』が、ゆっくりと街灯の間を横切っていくのが見えた。
最初は、夜空に浮かぶ黒い雲か、近くの高層ビルの影かと思った。
しかし次の瞬間、それが動いた。
巨大な尾びれ。黒青色をした半透明の胴体。その鱗の間を、まるで水面に月明かりが反射したような、美しい白い光がサーッと流れていく。
全長三十メートル近い、鯉とナマズを混ぜ合わせたような巨大な魚が、東京の首都高速の上を、悠々と『泳いで』いた。
「……魚ですね」
久我が、ハンドルを握りながら呟いた。
「魚ですね」
助手席の澪が頷く。
「魚です」
後部座席の千鶴も断言した。
「視認、確認できました」
杖原が冷静にインカムで報告する。
「いや、確認できても困るんですけど……!」
久我は、非現実的すぎる光景に思わず声を上げた。
*
巨大魚は、空を飛んでいるというより、そこに見えない水があるかのように身体をくねらせて泳いでいた。
道路から二、三メートル上を浮いていることもあれば、腹を路面すれすれまで下げることもある。
その時、前方に、封鎖から漏れて走っている一般の乗用車が一台見えた。
ドライバーには、空を泳ぐ巨大魚の姿など見えていない。そのまま普通に前進していく。
魚が、その車の真横をゆっくりと通過する。
巨大な尾びれが、ゆったりと動いた。
ドンッ!!
魚が車に直接ぶつかったわけではない。しかし、尾びれが空気を掻いた瞬間、大量の水に横から力任せに叩きつけられたような猛烈な『圧力』が発生し、乗用車の車体が真横へと大きく滑った。
タイヤが悲鳴を上げ、車がコントロールを失ってガードレールへと向かって突っ込んでいく。
「行きます!」
澪が、走る車のドアを開けて一気に飛び出した。
*
澪は、吸血鬼の圧倒的な速度で一瞬にしてスピンする車に追いついた。
以前の彼女なら、咄嗟に車の正面へ回り込み、力任せに止めようとしていたかもしれない。だが、それでは急激な減速のGによって、中の搭乗者が深刻なダメージを受けてしまう。
先日、久我と体育館で練習した『力ではなく、進路をズラす』という技術が、ここで生きる。
澪は、ガードレールへ向かう車の助手席側へと並走し、車体にドン、と軽く接触した。
一度。二度。三度。
ほんの少しずつ、無理のない力で車の進行方向を外側へと修正していく。
キキィィィッ!
ガードレールへの致命的な直撃を紙一重で回避させ、最後は安全な路肩へと車を誘導して停止させた。
「七瀬さん!」
「大丈夫です!」
澪が、停止した車の横で親指を立てる。中のドライバーも、パニックにはなっているが怪我はないようだ。
手加減の訓練が、日常的な人命救助の技術としてしっかりと彼女の中に定着していた。
*
久我が車を止め、外へ飛び出した。
両腕に分厚い《血装》を展開し、臨戦態勢を取る。
巨大魚が、ゆっくりとこちらを向いた。乗用車ほどの大きさがある巨大な目が、久我を捉える。
「来ます!」
久我が身構えた。
……しかし。来ない。
魚は、久我を一瞥しただけで、何事もなかったかのようにそのまま彼の頭上を通り過ぎていった。
久我という存在を、完全に無視したのだ。
「……興味ない?」
澪がポカンとする。
「少なくとも、こちらを明確な『敵』だとは認識していないようです」
千鶴が、上空を泳ぎ去っていく巨大な尾びれを見上げながら言った。
*
魚が、首都高のジャンクションのカーブに合わせて巨体を曲げた。
その際、半透明の尾びれが、道路脇の標識へと大きく振られた。
バキィッ!
けたたましい金属音。巨大な鉄骨の支柱が飴細工のようにひしゃげ、数トンはある緑色の案内看板が、道路上へと落下してくる。
「危ない!」
久我が、落下地点の真下へと滑り込んだ。
両腕の《血装》で、落ちてくる巨大な看板を受け止める。
「重っ……!」
コンクリートの路面が、久我の足元で蜘蛛の巣状に割れた。
だが、完全にその場で支え切る必要はない。久我は踏ん張りながら、落下する看板の重心を強引に横へとズラし、一般車のいない路肩の空きスペースへと投げ捨てた。
ズドォォン! という轟音とともに、道路設備は派手に壊れたが、人命被害は回避できた。
*
全員が安全地帯へと集結する。
「かれんちゃん。これ、倒すんですか?」
久我がインカム越しに尋ねる。
『まだ、攻撃許可は出しません』
かれんの答えは明確だった。
理由は単純だ。この巨大な怪異は、能動的に人間を襲って食い殺そうとはしていない。
現時点の事故や破損はすべて、巨大生物が間違った場所を移動していることによる『二次的な被害』に過ぎない。
さらに、これほど巨大な未知の怪異を、空中に浮いた高架の高速道路上で殺した場合、その死体がどうなるか誰にも分からないのだ。三十メートルの実体がそのままドスンと落下したら、それだけで道路が崩落し、大惨事になる可能性がある。
「……確かに、倒して巨大な死体が残った後の方が、何倍も面倒ですね」
久我は納得し、《血装》を少しだけ緩めた。
*
千鶴が、道路脇の防音壁のガラス部分や、停車している車両の窓、サイドミラーなど、いくつもの反射面を凝視していた。
《神鏡返し》による観測だ。
普通の肉眼で見ると、巨大魚は明らかに『高速道路の上』を泳いでいる。
しかし、千鶴の目に映る反射面の中では、魚の周囲だけ、大量の『水』が勢いよく流れているのだ。
道路ではない。水だ。しかも、現在の東京の風景には存在しない、古い川のような水路。
「……この魚、道路を泳いでいるつもりはありません」
千鶴の言葉に、全員が振り向いた。
「反射の中では、高速道路のアスファルトや白線が見えません。代わりに、古い川筋のような水面が広がっています。周辺の新しい建物の一部も消えています」
千鶴は目を細める。
「ただし、完全な過去の映像というわけでもありません。現在の東京の景色と、昔の水路の記憶が、不自然に混ざり合って見えています」
杖原が測定器の数値を確認する。
「水脈型の怪異でしょうか」
『……八咫烏のデータベースに近縁例があります。恐らく《水脈魚》と呼ばれている系統です』
かれんが、通信越しに回答した。
それは、古い河川、地下水脈、埋め立てられた暗渠など、土地の底に残っている『水の因果』を辿って移動する自然発生的な怪異だ。通常は深い場所を泳ぐため、人間社会と直接接触することはほとんどない。これほど巨大な個体が地表に現れるのは、極めて珍しいケースだという。
「なんで、そんなものが首都高に?」
「迷ったのでしょう」
杖原が淡々と答える。
「三十メートルもある魚がですか?」
「迷子ですねー」
澪が、少し同情するような声を出した。
*
かれんが、現在の道路地図、明治期以前の古い河川資料、地下水脈の観測データ、そして千鶴が反射で見た流れの予測を、システム上で重ね合わせた。
『判明しました』
かれんの推測はこうだ。
魚が通ってきたルートのかなりの部分は、地中深くの古い水路や暗渠と見事に重なっている。
しかし、途中の複雑なジャンクションで、古い水脈の記憶と、現在の首都高の高架構造が異常に近接し、交差していたのだ。
魚は、そこで進路を間違えたらしい。
人間でいうなら、「ジャンクションで降りる出口を一本間違えてしまった」程度のミスだ。
一度首都高へ入ってしまうと、長く途切れないアスファルトの道路、連続するナトリウムランプの照明、雨に濡れて反射する路面、そして高架下を流れる微かな水脈の気配。
それらを、魚は「まだ自分の泳ぐ水路が続いている」と完全に誤認し、ひたすら空中を泳ぎ続けてしまっているのだ。
「……魚が、高速道路で道を間違えた?」
「極端に簡略化して言えば、そうなります」
*
放置すればどうなるか。
魚の現在の進行方向の先は、より交通量の多い都心部の区間であり、さらに地下の長大トンネルへと続く可能性がある。
三十メートルの巨体が狭いトンネル内へ入り込み、そこでパニックになって暴れ回れば、それこそ大惨事だ。
「魚を、正しい水路へ戻します」
かれんが作戦を決定した。
千鶴の反射視認を使い、魚が現在認識している『幻の水路』の先を追う。
現在の首都高のルートから数キロ先に、実際の大きな河川へと接続できるポイントがあった。
しかし、ただ放置しても、魚はそこで自分から曲がってはくれない。魚は今、目の前の道路を川だと思い込んで真っ直ぐ進んでいるからだ。
だから、こちら側から「こっちに本当の川があるぞ」と、魚に強く認識させて誘導する必要がある。
*
即席の作戦会議。
役割は明確に分担された。
かれんは指揮所から、進行ルートの道路封鎖、一般人の退避、警察や道路管理会社との表向きの調整、そして全体指揮を担当する。
杖原は、結界を『魚にとっての仮設の川岸』としてルート上に配置していく。物理的な壁として強制的に拘束するのではなく、左右への移動を嫌がる程度の圧力を空間に作り、進む方向を一本へと絞り込む。
千鶴は、反射面を通して『魚が今、どの水路を認識しているか』を継続的に観測し、魚の次の進路を読むナビゲーター。
澪は先行し、道路上に残っている人や車両を安全に排除する。必要であれば、魚の進路前方へ、結界を張るための目印を猛スピードで運ぶ。
そして久我は。
「久我さんは、魚の真正面へ出て、物理的に向きを変えてください」
「俺だけ、役割が随分と雑じゃないですか?」
久我の抗議に、かれんは真面目な声で答えた。
『久我さんが一番、三十メートルの魚に轢かれても生存する可能性が高いからです』
「魚に轢かれるって何です?」
「泳いでるんだから、轢かれるじゃなくて撥ねられる、ですかね?」
澪が首を傾げる。
「七瀬さん、そこを整理してる場合じゃないですよ」
*
誘導作戦が開始された。
封鎖が完了し、一般車両が消えた夜の高速道路。街灯だけが等間隔で続く静かな空間へ、巨大魚がゆっくりと泳いでくる。
杖原が、ルートの両側へ一定間隔で結界を展開していく。物理的な壁ではなく、怪異側に「そちらへは水がない」と感じさせる、霊的な境界線だ。
魚は結界の圧力を嫌がり、自然と道路の中央へと寄ってきた。
誘導は成功しているかに見えた。
しかし、途中の分岐点。
「右へ行きます!」
千鶴が叫んだ。
予定のルートは左だ。なぜ右へ?
千鶴が反射を見る。右側の道路の先には、魚には『もっと太い川』が見えているのだ。現在は完全にアスファルトで埋め立てられてしまった、古い水路の記憶。
あのまま進めば、魚は完全に住宅地の上空へと迷い込んでしまう。
*
久我が、高速道路の中央へ躍り出た。
目の前へ、巨大魚が迫ってくる。
三十メートル。真正面から見ると、口を開けている部分だけで数メートルの直径がある。
「……やっぱり、馬鹿みたいにでかいな!」
久我は《血装》を展開した。今回は全身を覆う重装甲ではなく、正面からの衝撃を受け止めるため、両腕、肩、胸の前面を中心に分厚く硬質化させる。
魚の巨大な頭が、目前に迫る。
ドンッ!!
巨大な水の塊へ、真っ正面から跳ね飛ばされたような凄まじい衝撃。
久我の身体が、摩擦で靴底を焦がしながら、アスファルトの上を何十メートルも後方へと滑っていく。
ガードレールに激突する寸前で、なんとか踏み止まった。
両腕の《血装》に深い亀裂が入り、腕の骨が軋んだが、すぐに再生が始まる。
だが、その一撃で、魚も『自分の真正面に、進路を阻む固い障害物がある』ことは認識した。
巨体が、少しだけ左へと首を振る。
「効いてる!」
「ほんの少しです!」
千鶴が叫ぶ。
「少しでもいいです!」
*
久我が正面から押すだけでは足りない。
澪が動いた。彼女は、魚そのものを直接蹴り飛ばすことはしない。巨大すぎるし、変に痛覚を刺激してパニックにさせる危険があるからだ。
代わりに、魚が避けようとする側へと一瞬で高速移動し、杖原が用意した簡易結界の呪具を次々と設置していく。魚の目の前に、見えない『岸』を作っていくのだ。
「もう少し左です!」
「七瀬さん、次は三十メートル前方の右!」
千鶴が、反射の映像からリアルタイムで指示を飛ばす。
久我が正面から押し込み、澪が先回りして結界を置き、杖原がそれを起動し、千鶴がナビゲートする。
完璧なチーム戦だった。
*
しかし、追い詰められたと感じた巨大魚が、ここで初めて強く身体をくねらせた。
人間への攻撃ではない。道が塞がれたことによる、動物的なパニックだ。
巨大な尾びれが、空中で激しく振られる。
ドォォン!
凄まじい水圧の余波が発生し、路面の速度標識や照明灯が根本からへし折れて吹き飛ぶ。
久我が、飛んできた標識の残骸を一つ《血装》で弾き落とす。澪が、飛散する破片を高速で避ける。杖原が設置した結界も、水圧に耐えきれず二枚がパリンと破壊された。
「止めてください!」
千鶴が叫んだ。
全員が動きを止め、一旦誘導を中止する。
魚も、周囲の圧力が消えたことで、少しだけ速度を落とした。
「追い込まれていると、極度に感じています。反射の中の水面が、明らかに荒れ狂っています」
「魚の感情が分かるんですか?」
「感情までは分かりませんが、少なくとも、あのまま強引に追い込めば、もっと暴れることだけは確かです」
千鶴は断定しすぎず、しかし的確な判断を下した。
*
「作戦を変更します」
かれんが指示を出す。
「魚を後ろから強引に押して追い込むのはやめます。前方に、『正しい流れ』だけを作って誘導してください」
杖原の結界を、魚のすぐ近くへ置くのをやめる。もっと先のルートへ広く配置し、魚自身に『そちらへ行けば水がある』と選ばせるのだ。
千鶴が、現在の川へ繋がるルート上で、『水の見え方』が一番強く反射できる位置を探す。
「ここです」
千鶴が指定したのは、高速道路の側方。すぐ下には、実際の大きな川が流れている地点だ。
ただし、現在の魚の視界からは、高架の防音壁と道路構造に遮られて、その川の流れが見えていない。
千鶴は、高速道路脇にあるマンションの大型ガラス面へ向けて、《神鏡返し》を放った。
直接的な攻撃反射ではない。下を流れている『本物の川の反射』を、魚の視界の中へと強烈に照り返したのだ。
「こちらに水がある」という情報を、鏡面を通して魚へ送り込む。
*
巨大魚が、初めて空中で完全に停止した。
空中に浮いたまま、胸びれと尾びれだけが、見えない水を掻くようにゆっくりと動いている。
巨大な頭が、迷うように左へ、そして右へと振られる。
そして、千鶴が作った強烈な反射の方向を、じっと見つめた。
久我たちも、息を潜めて動かない。
数秒の、永遠のような静寂。
やがて、巨魚が、ゆっくりと方向転換を始めた。
幻の水路ではなく、千鶴が照らした『本物の川』の方角、つまり高速道路の端へと向かって、ゆっくりと泳ぎ出したのだ。
「行く?」
澪が小声で呟く。
「行け……!」
久我が祈るように見守る。誰も、これ以上は攻撃しない。
*
最後の障害は、高速道路の端にそびえ立つ、分厚いアクリルと鉄骨の防音壁だった。
魚の身体は、完全な現実物質ではない。だが、これまでの接触を見る限り、道路設備と干渉せずに通り抜けられるわけではない。このままの巨体で完全に突っ込めば、道路設備が大きく破壊されるのは避けられない。
すでに、対象区間と下部の道路は警察によって完全に封鎖済みだ。
『道路設備の物理的な損傷は許容します。人命の安全と、怪異の帰還を最優先してください』
かれんの冷徹な決断が下る。
「了解」
杖原が、結界で防音壁の破片を封鎖済みの道路内側へ散らすよう、飛散方向を制御する。久我は、それでも高架下へ落ちそうな大きな部材を《血装》で受け止める準備をする。
魚の巨体が、防音壁へと接触した。
バキバキバキッ!
凄まじい破壊音とともに、防音壁の一部が大きく外れ、宙を舞った。
*
夜の東京。
高い高架道路の端から、全長三十メートル近い半透明の巨大魚が、夜空の空中へと飛び出した。
月光と、遠くのビルの明かりが、その美しい黒青色の鱗にキラキラと反射して走る。
一瞬だけ、その巨大な生命体は、東京の夜空を本当に優雅に泳いでいるように見えた。
そして、巨体はそのまま、真下を流れる本物の川の水面へと向かって落ちていった。
着水。
普通の質量の巨大生物であれば、川の水が弾け飛び、大津波が発生しているところだ。
しかし、魚の身体が水面へ触れた瞬間。
音もなく、その巨体はさらに薄く透明になり、そのままスーッと川の暗い水の中へと溶け込んで消えてしまった。
後には、現実の川の水面に、遅れて大きな波紋だけが静かに広がっていった。
千鶴が、川面の反射を見る。
「……帰りました」
「本当に?」
「はい。今度は、幻の道路ではなく、ちゃんと本物の川の中を泳いでいます」
「よかったぁ……」
澪が、その場へへたり込んだ。杖原も、大きく息を吐いて結界を解除する。
任務終了だった。
*
人的被害。
重傷者なし。軽い打撲などの軽傷者が数名。
事故車両、複数台。
道路設備の破損。防音壁、案内標識、照明灯、ガードレールなど、かなりの数が破壊された。
かれんが、タブレットを見ながら被害状況を淡々と読み上げる。
「……道路の修理代、とんでもない金額になりそうですね」
久我が遠い目をして言う。
「八咫烏の関連予算から、然るべき名目で処理されます。心配には及びません」
「そういう、怪獣に壊された街を直すような予算もちゃんとあるんだ……」
一般社会への表向きの処理は、『局地的な突風、およびそれに伴う道路設備の破損による緊急通行止め』として発表された。
ドライブレコーダーの事故映像にも、魚の姿はまともには映っていなかった。
一部のSNSでは、「首都高にクソでかい魚が浮いてた」「疲れて幻覚でも見たんだろ」「フロントガラスの反射じゃね?」「新しい映画のゲリラ広告?」といった書き込みが散見されたが、八咫烏の秘匿作用もあり、都市伝説化するほどには至らず、すぐに消費されて消えていった。
*
現場での事後調査。
八咫烏の分析によれば、《水脈魚》そのものは、昔から東京近郊の地下水脈にもごく少数存在している、自然発生的な怪異の一種だという。
今回の個体についても、何者かに意図的に召喚された形跡はなく、あの有料サイトの関与も、人為的な誘導の痕跡も一切見られなかった。
「単純に、水脈と道路が重なった場所で、迷子になった可能性が最も高いです」
かれんが結論づける。
「ほんとに、ただ迷子になっただけですか?」
「現時点では、それが最も妥当な推論です」
なぜ今になって急に現れたのか。最近の地下水量の変化か、周辺の霊的水脈の僅かなズレか、あるいは単に、数十年に一度の個体の移動時期と重なっただけなのかもしれない。
「怪異にも、道を間違えて迷子になることがあるんですね」
「怪異だからといって、常に人間へ害を与える明確な悪意や目的を持っているわけではありませんから」
杖原の言葉が、今回の事件のすべてを物語っていた。
*
帰りの偽装車両の中。
「いやー、それにしてもでっかかったですねー!」
澪が、助手席で妙にテンション高く振り返る。
「俺は、二度とあんな質量の塊を真正面から受け止めたくはないですよ」
久我がハンドルを握りながら、痛む腕をさすってぼやいた。
千鶴は、後部座席で窓の外の夜景を見つめていた。
その横顔には、小さく、穏やかな笑みが浮かんでいる。
久我は、バックミラー越しにそれを見たが、数日前のあの重い手紙のことや、家の決断については何も聞かなかった。千鶴も、何も言わなかった。
でも、彼女は今夜、普通に夜間巡回の事件へ参加し、巨大な迷子の魚を川へ帰し、こうして仲間たちと一緒に疲れて帰宅している。
母親が自分を犠牲にしてまで守ろうとした『京都の外の人生』を、今まさに、当たり前のように生きているのだ。
「でも、あの魚、何歳くらいだったんでしょうね?」
澪が尋ねる。
「魚の年齢ですか?」
「はい」
「記録上、同系統の大型個体は、百年以上生きていることが確認される場合があります」
杖原が答えた。
「……俺たちの、遥か大先輩だったわけだ」
久我が呟く。
「何の先輩ですか?」
千鶴が首を傾げる。
「人間としても、吸血鬼としても、俺より遥かに長くこの世界を生きている大先輩なので……」
「じゃあ、真正面からぶつかる時、ちゃんと敬語使いましたか?」
「魚相手にですか?」
車内に、軽い笑い声が響いた。
車窓の向こう、遠くに暗い川の気配が見える。
久我の目には、もうあの巨大な魚の姿は見えない。
でも、千鶴だけは、窓ガラスの反射を一度だけじっと見つめた。
遠い川の中。巨大な魚が、本来の自分の居場所をゆっくりと泳いでいる。
その魚が、千鶴へ向かって一度だけゆったりと尾びれを振り、暗い水の奥深くへと消えていった。
「……今度は、間違えずに海まで行けるといいですね」
千鶴の静かな呟きに、久我が短く応えた。
「ですね」
偽装車両は、何事もなかったかのように平和を取り戻した東京の夜の街を、静かに走り去っていった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!