35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
薄暗い廃倉庫の中に、久我陽介の鼓膜を劈くような絶叫がこだました。
「お前ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
久我の指差す先。
ほんの数秒前まで、流暢な日本語を操り、気さくな笑顔を振りまいていた大柄な外国人男性は、すでにそこにはいなかった。
代わりに立っていたのは、天井に届きそうなほどの巨体を誇る、灰褐色の毛並みに覆われた『巨大な人狼』だった。
骨格が隆起し、シャツを内側から引き裂かんばかりに膨張した筋肉。太く長い腕の先にある、黒く凶悪な爪。そして、鋭い犬歯を覗かせた狼の頭部。
オレンジ色の街灯の下。
心臓を貫こうと迫ってきた手刀。
『避けたか』と呟いた冷酷な声。
『今度は杭を持ってくる』と告げて闇に消えた、あの圧倒的な暴力の化身。
目の前にいるのは、数日前の夜、仕事帰りの久我を通り魔のように襲撃し、虫ケラのように路地裏のアスファルトへ叩き伏せた、あの殺戮者そのものだった。
人狼――ダンは、顔を真っ赤にして指を突きつけている久我を見下ろすと、狼の口の端をニッ、と三日月型に吊り上げた。
あの夜に見たのと同じ、不気味なほどに愛嬌のある、そして底知れぬ狂気を孕んだ獣の笑顔だった。
「あ」
ダンは、悪びれる様子など微塵も見せずに、実に軽い調子で言った。
「バレた」
「やっぱりお前かぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
久我の怒髪天を突く叫びに、ダンは腹を抱えて愉快そうに笑い声を上げた。
「はははは! だから、奇遇だなって言っただろ?」
「奇遇で済ませるなぁぁぁ!!」
*
突然の事態に、側面に回り込んでいた七瀬澪がポカンと口を開けていた。
「……え? 陽介さん?」
久我は、興奮のあまり震える手でダンを指差したまま、澪を振り返った。
「七瀬さん! こいつです! こいつですよ!」
「こいつって……?」
「この間、俺の心臓を抉って殺しかけた、あのイカれた人狼です!!」
澪の思考が、一瞬だけ完全に停止した。
目の前で腹を抱えて笑っている巨大な人狼を見る。そして、顔を真っ赤にして怒り狂っている久我を見る。もう一度、人狼を見る。
「…………こいつ?」
「こいつです!!」
「どうも」
ダンが、澪に向かって気さくに片手を上げた。
その瞬間だった。
ドンッ!!
空気を裂くような破裂音と共に、澪の姿がブレた。
圧倒的な加速。吸血鬼の脚力を全開にした澪の回し蹴りが、ダンの分厚い脇腹に深々と突き刺さっていた。
強烈な衝撃で、二メートルを超えるダンの巨体が、ズザザッと数メートル真横へとスライドする。
「おおっ!?」
ダンが目を丸くしてバランスを取る。
「陽介さんを殺そうとした人ぉぉぉ!!」
澪が、目を吊り上げてさらに追撃の構えを取った。彼女は数日前の夜、血まみれになって意識を失っていた久我の姿を見て、本気で震えていたのだ。「見つけたら絶対に私が蹴る」という宣言を、文字通り有言実行した形になる。
「七瀬さん!?」
久我が驚いて声を上げたが、決して止めようとはしなかった。むしろ内心では(もっとやってください!)と強く念じていた。
少し離れた窓の外から内部を窺っていた鏡宮千鶴も、その冷ややかな視線をダンへと向けていた。
普段は感情を大きく表に出さない彼女だが、今回ばかりは違った。久我がどれほどの重傷を負い、どれほどの血液を失っていたか、彼女も間近で見ているのだ。
千鶴は、静かに、しかし絶対的な零度の声で言い放った。
「……あなたでしたか」
「うん」
ダンが素直に頷く。
「最低ですね」
「手厳しいな、お嬢ちゃん」
「紛れもない事実です」
そこに、裏口の封鎖を担当していた杖原つかさが、慌てた様子で現場へと駆け込んできた。
「ちょっと待ってください!」
杖原は、倉庫内の異様な光景を見て絶句した。
中央にいるのは、完全な人狼形態へと変貌を遂げた外部協力者のダン。そのダンに向かって顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている久我。殺気を放って蹴りの体勢に入っている澪。そして、その混乱の隙を突いて、血まみれの容疑者である相良が、コソコソと逃げ出そうとしている。床には、人質が倒れたままだ。
情報量が、あまりにも多すぎた。
「一体、何が起きてるんですか!?」
「杖原さん! こいつが例の襲撃犯です!」
久我がダンを指差して叫ぶ。
「…………は?」
杖原は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。そして数秒後。
「はぁ!?」
普段は冷静沈着な彼女からは想像もつかないような、素っ頓狂な大声が倉庫に響いた。
*
一方、殺人容疑で追われていた吸血鬼の相良圭吾は、完全に逃げるタイミングを見失い、その場で立ち尽くしていた。
自分を捕縛しに来たはずの八咫烏の実働員たちが、あろうことか身内のハンターを囲んで内輪揉めを始めているのだ。
「おい!」
相良が声を上げる。
しかし、誰も彼の方を見ようとしない。
「おい!! 俺を無視するな!!」
「ちょっと待て」
ダンが、両手を顔の高さまで上げて制止のポーズを取った。
「お前ら」
狼の顔が、少しだけ真面目なトーンになる。
「今、仕事中だぞ?」
ピタリ、と。
久我、澪、千鶴、杖原の動きが、一斉に停止した。
「お前、社会人だろ?」
ダンは、呆然としている久我を真っ直ぐに見て言った。
「……は?」
「社会人なら、まず仕事しようぜ?」
久我の額に、ブチッ、と青筋が浮かび上がるのが見えた。
「俺への個人的な文句は、後でいくらでも聞いてやるからさ」
ダンは、逃げようとしている相良と、床に倒れている人質を顎でしゃくった。
「今は、あの連続殺人犯を捕まえて、人質を助けるのが先だろ?」
内容だけを聞けば。
言っていることだけを文字に起こせば。
完全に、隙のない正論だった。
*
「うるせぇぇぇぇ!!」
久我の、腹の底からの咆哮が炸裂した。
ビクッ、と澪や杖原が肩を震わせる。普段、どれほど理不尽な怪異や厄介な状況に直面しても、苦笑いかため息で処理してきた久我が、ここまで感情を剥き出しにして本気でキレるのは、極めて珍しいことだった。
「分かってるよ!! そんなこと言われなくても分かってますよ!!」
久我は、怒りのあまり敬語すらも混濁させて叫んだ。
「仕事する! ちゃんとする! お前に言われなくてもやりますよ!」
「お、おう」
あまりの剣幕に、ダンが僅かに後ずさる。
「でも! あとで絶対に覚えておけよ!!」
「はいはい」
「その態度が腹立つんだよ!!」
*
(今だ!)
内輪揉めが極限に達したと見た相良が、その隙を突いて全速力で裏口へと向かって駆け出した。
吸血鬼の身体能力を全開にし、一気に倉庫からの脱出を図る。
しかし。
ドンッ!
裏口の空間に激突した相良は、見えない壁に弾き返されるようにして仰向けに転倒した。
「ぐっ!」
杖原が事前に張っていた、強固な封鎖結界だ。
「逃がさない!」
怒りの矛先を切り替えた澪が、圧倒的な速度で相良の退路へと先回りし、立ち塞がる。
どれだけ怒り狂っていても。どれだけ理不尽に腹を立てていても。
標的が動いたその瞬間、久我の意識は、冷徹な『実働員』のそれへと完全に切り替わった。
右目に《魔眼》を展開。
両腕に赤黒い《血装》を纏う。
相良の筋肉の収縮、視線の動き、血流の変化、そして次に取ろうとする逃走経路のベクトルが、色を持った情報として久我の脳内に流れ込んでくる。
「七瀬さん、右へ来ます!」
「はい!」
久我の的確な指示に、澪が即座に反応して右の空間を封鎖する。
怒っていても、仕事は完璧にこなす。それが久我陽介という男だった。
*
さっきまで笑っていたダンも、瞬時に空気を変えた。
一瞬にして、ふざけた男の顔から、冷酷な狩人の顔へと変貌する。
「前は俺が塞ぐ」
ダンが、巨体を沈めて相良の正面へと躍り出る。
「俺に指図するな!」
久我が怒鳴る。
「でも、前は頼みます!」
「どっちだよ」
ダンが苦笑する。
久我は、相良の足元に倒れている人質の女性を優先した。まだ微かに胸が上下し、呼吸がある。
「七瀬さん、人質を先に!」
「了解!」
澪が一気に加速し、人質へ向けて突進する。
それを阻止しようと、相良が澪へと向かって腕を振り下ろした。
その間に、久我が強引に割り込む。
ガァン!
《血装》を纏った両腕で、相良の一撃を真正面から受け止める。
(重い……!)
久我は顔をしかめた。
相良は、覚醒から十年以上が経過している吸血鬼だ。単純な成り立ての雑魚ではない。
身体強化、再生能力、そして何より、三人の人間から大量の血液を奪い、摂取しているため、現在の彼は極度な興奮状態と能力の強化状態にある。
(普通の吸血鬼でも、十年以上、自分の身体と能力を使い続けた上で、これだけ血を吸えば、ここまで強くなるのか!)
久我は、押し込まれそうになる身体を必死に支えた。
*
だが、相良にとって不運だったのは、今回相手にしているのが久我だけではなかったことだ。
久我を強引に押し退け、再び逃走経路を探そうとした相良の真正面に、巨大な灰褐色の壁が立ち塞がった。
完全人狼形態のダンだ。
「よう」
ダンが、短く挨拶する。
「……どけ!」
相良が、渾身の力を込めた拳をダンの胸元へと叩き込んだ。
ボフッ。
鈍い音が鳴る。
だが、ダンは全く動かなかった。微塵も揺るがない。分厚い毛皮と筋肉の鎧が、吸血鬼の全力の打撃を完全に吸収してしまったのだ。
相良はパニックになり、ダンの顔面、腹部、首筋へと無数の連撃を叩き込む。
ダンは、それを避けることすらせず、ただ腕を組んだまま全てを受け止めている。
少し離れた場所でその光景を見ていた久我は、一瞬だけ、本心からこう思った。
(もっとやれ。もっと殴れ)
そしてすぐに、首を振って自分の思考を訂正した。
(いや、駄目だ。今は仕事中だ。……でも、ちょっとだけスッキリするな)
ダンには、相良をこの場で殺す実力は十二分にある。
ケースにしまったままの銀の杭を取り出すまでもない。その巨大な両腕で首を掴めば、一瞬でへし折ることができるだろう。
だが、彼はそれをしなかった。
相良の拳を軽く手で払い除け、相手の腕を取る。手首の関節を極め、強引に体勢を崩させる。
そして、空いた片手で、腰に下げていた特殊合金製の太いワイヤーを取り出し、相良の片腕へと素早く、そして確実に巻きつけた。
「今回は『捕縛任務』だからな」
ダンは、依頼主との契約を徹底して守り抜いていた。
*
追い詰められた相良の瞳が、狂気に染まった。
十年以上、吸血鬼として生きてきた彼にも、切り札となる特有の能力がある。
《血煙》。
自分、あるいは他人の血液を霧状に空中に散布し、対象の嗅覚、視覚、そして《魔眼》の認識能力を一時的に強烈に阻害する能力。
直接的な殺傷力はないが、逃走や奇襲においては極めて厄介な目くらましとなる。彼がこれまで八咫烏の追跡を逃れ続けてこられたのも、この能力のおかげだった。
「グオォォォッ!」
相良が、自らの手のひらに爪を立て、吹き出した血を口に含んで周囲へと撒き散らした。
瞬く間に、むせ返るような鉄錆の匂いを持った赤い霧が、倉庫の内部へと充満していく。
「見えない!」
久我が思わず声を上げた。
空間に散布された血液の熱、匂い、そして微細な動きが多すぎるのだ。情報量が爆発的に増え、《魔眼》の視界が完全にノイズで乱されてしまう。
相良は、その血煙に紛れ、再び人質の女性が倒れている方向へと向かって駆け出した。
しかし。
倉庫の外から状況を監視していた千鶴には、その動きがはっきりと見えていた。
血煙が充満した空間。だが、割れた窓ガラスの破片、倉庫の金属製の柱、そして床に落ちていた水たまり。
それらの無数の反射面を通して、《神鏡返し》の視覚は、血煙の奥にいる相良の正確な位置を捉えていた。直接の視界が奪われても、反射像を繋ぎ合わせれば死角はない。
「久我さん、左奥です!」
千鶴の鋭い声がインカムに響く。
「了解!」
久我は、視界が塞がれたまま、千鶴の指示だけを頼りに反射的に左奥へと向かって身体を投げ出した。
*
その間。
澪が、倒れている人質の女性のもとへと到達していた。
女性の身体を優しく、しかししっかりと抱き上げる。
そして、一気に安全圏へと後退する。ただし、以前のように何も考えずに急加速して飛び去るようなことはしなかった。
急激な加速と減速は、意識のない怪我人に致命的な追加ダメージを与える。体育館で久我と繰り返した訓練の通り、自身の速度を完璧に制御し、負担をかけない滑らかな移動で、杖原が展開している安全な結界の内側へと女性を運び込んだ。
「人質、確保しました!」
澪の報告に、杖原が素早く女性の応急処置を開始する。
*
「返せ!」
人質という唯一の盾を失った相良が、血走った目で久我へと突進してくる。
「人質に『返せ』って、何言ってるんですか!」
久我が《血装》を構え、迎え撃つ。
相良の右腕が、久我の顔面を捉えようと振り下ろされる。
久我はそれを、分厚い《血装》でガッチリと受け止めた。
同時に、横から巨大な影が滑り込んできた。
ダンだ。
彼は、相良の左腕を掴み、ワイヤーで一瞬にして拘束する。
下段からは、人質を預け終えた澪が高速で戻り、相良の両脚を正確なローキックで薙ぎ払う。
バランスを崩した相良が倒れ込むところへ、杖原の捕縛用結界が上から網のように被さり、床へと完全に押さえ込んだ。
千鶴は、相良がさらに別の能力を使わないか、反射面から逃走の予兆を監視し続けている。
見事な連携だった。
流れるようなチームワークで、凶悪な殺人犯を完全に無力化した。
ただ一つ問題があるとするならば、久我が終始、隣で一緒に戦っているダンに対して、凄まじい怒りのオーラを放ち続けていたことくらいだ。
「俺たち、意外と息合うな!」
ダンが、相良を押さえ込みながら明るく言った。
「黙れ!!」
久我が即座に怒鳴り返す。
「おいおい、褒めてんのに」
「お前に褒められても、一ミリも嬉しくない!!」
*
相良の両腕は強固なワイヤーで縛られ、脚には特殊な手錠型の拘束具が嵌められた。さらに杖原の結界によって、指一本動かせない状態にされている。
相良は床に顔を押し付けられながら、必死に藻掻いていたが、やがてそれも諦めたように力を抜いた。
「もう、終わりです」
久我が、冷たい声で見下ろして言った。
人質の女性は、杖原の応急処置により命に別状はないことが確認された。
相良の《血煙》も、能力者が拘束されたことで徐々に薄れ、視界が戻ってくる。
ダンの鋭い嗅覚、久我の《魔眼》による血流の確認、そして現場に残された血液の状況証拠。それらすべてが、相良がこの凄惨な事件の犯人であることを確定的に示していた。
相良も、自分が完全に詰んだことを理解したのだろう。
「……三人を殺したのは、あなたですか」
久我の静かな問いかけに、相良はしばらく沈黙していた。
やがて、床に顔を擦り付けたまま、掠れた声で答えた。
「……そうだ」
*
相良の口から語られた動機は、特別な呪いでも、怪異の仕業でも、吸血鬼としての抗えない衝動の暴走でもなかった。
元々の原因は、痴情のもつれだった。
相良が一方的に執着していた人間の女性。最初の被害者だ。交際を巡って口論になり、激昂した相良は、吸血鬼としての圧倒的な力を使って彼女に暴行を加えた。
最初は、ただ痛めつけて止めるつもりだったという。
だが、流れた血の匂いに刺激され、一度その血を飲んでしまった。
異常な興奮状態に陥った相良は、そのまま怒りに任せて暴行を続け、彼女を殺した。
そこからは、自己保身のための連続殺人だった。
最初の殺人を隠蔽しようとした。彼女の交友関係を探り、怪しまれそうな目撃者や、相談相手を、順番に夜の闇に紛れて襲っていった。二人目。三人目。
そして、今日救出された四人目の女性は、事件について何かを知っていたため、ここに拉致して監禁していた。口封じのために殺すのは、時間の問題だった。
単純な、嫉妬と保身。
人間の犯罪者が犯すのと何ら変わらない、身勝手で醜悪な動機だった。
*
久我は、ひどく嫌な顔をして相良を見下ろした。
相手は、自分と同じ吸血鬼だ。
だが、同族だからといって、彼を庇う理由は一欠片もなかった。
「……吸血鬼だからじゃない」
久我は、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「何?」
「あなたが人を殺したのは、吸血鬼の血の衝動に抗えなかったからじゃない。あなた自身が、自分の意思で彼女たちを殺すことを選んだんでしょう」
これは、久我にとって非常に重要な線引きだった。
数日前の夜、ダンは久我に向かってこう言った。
『お前ら吸血鬼だろ? 存在してはいけない存在だ』
吸血鬼だから殺す。それがダンの理屈だった。
しかし久我は、相良を『吸血鬼だから』裁いているのではない。彼が『殺人という罪を犯したから』捕まえているのだ。
ダンは、完全人狼の姿のまま、久我のその言葉を黙って聞いていた。
いつもの軽い表情の裏で、一瞬だけ、何かを考えているような目をしていた。
ただ、彼の長年培ってきたハンターとしての価値観が、そんな一言で劇的に変わるわけではない。
「ふーん」
ダンは、ただ短く鼻を鳴らしただけだった。
*
やがて、八咫烏の実働部隊の増援と、特殊案件に対応する警察の専従班が現場へ到着した。
相良は、再生を抑制する特殊な薬液を投与され、能力を封印する呪具を取り付けられた上で、専用の重拘束車両へと押し込まれた。
殺人、死体遺棄、誘拐監禁。
ここから先は、八咫烏と警察による正式な捜査と、厳格な司法手続きへと移ることになる。
人質の女性も、速やかに救急車へと乗せられ、病院へと搬送されていった。
『対象の確保、および引き渡しを確認しました。人質も生存しています』
インカムから、かれんの落ち着いた声が届く。
「了解です」
久我が短く答える。
任務は、大成功のうちに完了した。誰も死なず、誰も欠けることなく。
全員が、無意識にホッと息を吐き出した。
そして。
ゆっくりと、示し合わせたかのように、久我、澪、千鶴、杖原の四人の視線が、中央に立つダンへと向いた。
*
第二ラウンドの開始だった。
「ん?」
ダンが、首を傾げる。
久我は、無言だ。
澪も、無言。
千鶴も、無言。
杖原も、無言。
四人の冷たい視線が、巨大な人狼を完全にロックオンしている。
「……なんだよ。仕事、終わったんだろ?」
ダンが少しだけ後ずさる。
「終わりましたね」
久我が、極めて低い声で言う。
「じゃあ、俺はこれで――」
「話しましょうか」
久我の言葉を合図に、四人が動いた。
ダンを中心に、四方向を完全に塞ぐ円陣が形成された。
正面に久我。背後に澪。右に千鶴。左に杖原。
「おいおい、なんだよ。怖い怖い」
ダンが両手を挙げておどけてみせるが、誰も笑わない。
「殺人未遂だぞ、お前!?」
久我が、いきなり本題を叩きつけた。
「まあ、そう怒るなよ」
「『まあ』じゃない!!」
久我の怒号が再び爆発する。
「俺の心臓を、本気で手刀で貫こうとしましたよね!?」
「でも、避けたじゃん」
「結果論だろうが!!」
「陽介さん、本当に死にかけたんですからね!」
背後から、澪が参戦する。
「血もほとんどなくなって、倒れて! 骨も何本も折れて、スーツもボロボロになって!」
「でも、綺麗に治っただろ? 吸血鬼なんだから」
「ガルルルルル……!」
澪の喉の奥から、本物の獣のような威嚇音が漏れる。
「七瀬さん、落ち着いて。本物の人狼より人狼っぽくなってますから」
右からは、千鶴が一歩距離を詰めた。その表情は、能面のように冷え切っている。
「あなた」
「はい」
「今、自分がしたことについて、反省していますか?」
ダンは少し考える素振りを見せた。
「うーん……まあ、日本の法律的には、ちょっと悪かったかなとは思ってるよ」
「そういう意味で聞いているのではありません」
「難しいこと言うなよ、お嬢ちゃん」
千鶴のこめかみに、ピクッ、と青筋が走ったのが見えた。
左からは、実務担当の杖原が法的な事実を淡々と積み上げる。
「無登録のハンターによる私的制裁。殺人未遂。人外としての力を用いた暴行。器物損壊。公共の道路標識の破壊」
「おいおい、あの標識まで俺の罪に入るのか?」
「入るに決まってるだろ!!」
久我が間髪入れずに怒鳴る。
四方向から浴びせられる容赦ない威圧に、ついにダンも根負けした。
両手を高く上げ、降参のポーズを取る。
「はいはい! 分かった、分かったって! 俺が悪かったですよ! ごめんなさいね!」
「その心のこもってない言い方が一番腹立つんだよぉぉぉ!!」
*
そこからは、完全な私刑の時間だった。
もちろん、殺傷するような攻撃ではない。
澪が、ダンの脛を「えいっ」と軽く蹴る。久我が、ダンの肩を拳でポカポカと殴る。
ダンは抵抗せず、「痛い痛い」と大げさに痛がるふりをして受け入れている。
「俺は、お前の手刀でこれの百倍痛かったんだよ!!」
久我の恨み言が響く。千鶴と杖原は直接殴ることはしなかったが、二人を止めようともしなかった。
十分ほどが経過し。
久我は、肩で息をしながら、パイプ椅子ならぬコンクリートの破片に腰を下ろした。
もう怒鳴り続ける気力すら枯れ果てていた。
「はぁ……もういいよ……疲れた……」
久我が頭を抱えると、ダンが少し明るい声で言った。
「分かってくれた?」
「何をだよ!?」
ダンは、人狼形態から元の外国人男性の姿へとスルスルと戻りながら、久我の隣に座り、その大きな腕を久我の肩にガシッと回した。
「良かった」
ダンは、満面の、一切の屈託のない笑顔で言った。
「これで、俺たち友達だな!」
久我の思考が、三度目の完全停止を迎えた。
「……」
数秒後。
「お前、マジで……!」
久我は、怒りを通り越して、もはや気の利いた言葉すら出てこなかった。
*
そこへ、一台の黒い八咫烏の車両が静かに滑り込んできた。
ドアが開き、皇かれんが現場へと降り立つ。
彼女は、ぐったりとしている久我、笑顔で肩を組んでいるダン、そして呆れ果てている他のメンバーの空気を見て、すべてを察した。
現場の詳しい事情については、すでに杖原からの通信で把握済みだ。
かれんは、久我の正面に立つと、深く、深く頭を下げた。
「久我さん。この度は、誠に申し訳ありませんでした」
「……いや、かれんちゃんが謝ることじゃ――」
「いいえ」
かれんは顔を上げ、毅然と言った。
今回、八咫烏が外部協力者として選定し、久我たちのチームに同行させた人物が、あろうことか数日前に久我への殺人未遂を犯した張本人だったのだ。
結果的に任務が成功し、安全だったとしても、組織としての情報管理と人員選定の完全な失態である。謝罪して当然のことだった。
「でも、どうして分からなかったんですか?」
久我が尋ねる。ダンの素性やハンターとしての経歴は、八咫烏も事前に把握していたはずだ。ならば、久我が報告していた襲撃事件の犯人の特徴と、なぜ照合できなかったのか。
「今回の襲撃時、こちらが久我さんからの報告で把握していたのは、相手の『人狼形態』の特徴だけでした」
ダンは、人間形態で正式に入国し、八咫烏と業務契約を結んでいた。顔写真のデータ照合では引っかからなかったのだ。
「それに、本人からも、入国後に吸血鬼と交戦したという申告は一切ありませんでした」
「聞かれなかったからな」
ダンが口を挟む。
「「「「お前は黙ってろ!」」」」
四人から一斉に怒鳴られ、ダンは肩をすくめた。
*
「もう一つ、決定的な理由があります」
かれんは、少しだけ顔をしかめた。
八咫烏では、外部の高リスクな協力者を実戦任務へ投入する場合、必ず『予知系能力者』による事前の安全確認を行っているという。
「予知、ですか?」
「はい」
今回、その予知能力者に確認させた項目は以下の通りだ。
『ダンは任務中、久我や澪を裏切って襲撃しないか』
『任務対象や人質の確保に支障が出ないか』
『ダンを同行させたことで、味方に重大な死傷者が出ないか』
『捕縛任務が正常に成立するか』
予知能力者からの回答は、すべて「問題なし」だった。
そして実際、その予知の通りになった。ダンは味方を襲わず、任務は成功し、人質は生存し、相良は生きたまま捕縛された。
「じゃあ、この状況は何なんですか?」
久我が、隣でヘラヘラしているダンを指差して言う。
「俺の、この精神的被害は!?」
かれんは、少しだけ目を逸らした。
「……今回の予知担当者は」
少しの間。
「少々、人格に問題がありまして」
「……はい?」
八咫烏が抱えるその問題児の予知能力者は、未来を見る能力自体は極めて優秀なのだが、致命的な欠陥があった。『最終的な結果さえ成功であれば、途中の経過を全く気にしない』のだ。
『ダンを同行させても任務は成功しますか?』
『するよー』
『久我さんたちは無事ですか?』
『誰も死なないよー』
報告は、それだけだった。
その担当者は、予知のビジョンの中で、『久我とダンが以前殺し合っていた事実が発覚して、現場で大喧嘩になる』という付随情報を確実に見取っていたはずだ。
だが、その担当者はこう判断したのだ。
(でも最終的に任務は成功するし、現場がパニックになってるの面白そうだから、別に言わなくていっか)
「今回、その担当者には、後ほど私からたっぷりと話をします」
かれんの声は、地を這うように静かで、冷たかった。
(……怖い)
久我は心の中で震えた。例の予知能力者には、間違いなく別の意味で危険な未来が待っているだろう。
*
「いや」
久我は、長いため息をついた。
「八咫烏は悪くないですよ。情報が完全に一致しなかったなら、仕方ないです。予知の結果も、間違っていたわけじゃないですからね」
そして、隣のダンをキッと睨みつけた。
「悪いのは、百パーセントこいつです」
ダンは、自分を指差して目を丸くした。
「俺?」
「お前だよ!!」
「まあまあ、事件も無事に解決したんだから、いいじゃん」
「良くない!」
ダンは、ポンと自分の腹を叩いた。
「なんか、腹減ったな」
「……」
ダンは、完全に元の人間形態へと戻り、ニコニコと笑いながらチームの面々に提案した。
「それよりさ」
「焼肉でも行かね?」
「……は?」
「仕事終わりの肉、最高に美味いぞ。俺、美味い店知ってるんだ」
澪が、即答した。
「行きません」
千鶴が、冷たく言い放つ。
「お断りします」
杖原が、眼鏡を押し上げる。
「結構です」
久我が、頭を抱える。
「お前、マジで空気読めよ……!」
「なんでだよ、俺が全員分奢るぞ?」
「「「「絶対に行かねーよ!!」」」」
四人の完璧なユニゾンが、深夜の廃倉庫の前に響き渡った。
かれんだけが、その光景を見て少しだけ困ったような、微笑ましいような顔をしていた。
*
しかし、ここからは笑い話では済まされない。
「ダンさん」
かれんが、一歩前に出た。
「ん?」
空気が、一瞬にして冷徹な組織のそれへと変わった。
「今回、あなたが当組織の実働員である久我さんへ襲撃を行った事実が、明確に確認されました。これは、日本国内における明確な『殺人未遂』に当たります」
かれんの言葉に、ダンの顔からも笑みが消えた。
「このまま、あなたに自由に行動していただくわけにはいきません」
まず、ダンが日本を出国するまでの間、彼は二十四時間体制で八咫烏の『監視対象』となる。
宿泊先、移動ルート、外出先、すべてを厳重に把握される。そして何より、期間中の『他の吸血鬼への一切の接触』が禁止された。
「ちょっと厳しくないか?」
ダンが不満げに言う。
「一般の殺人未遂犯に対する措置としては、これでもかなり穏当な配慮です」
「その通りです」
久我も深く同意する。
さらに。
ダンが今回以外にも、日本滞在中に「休暇中だから」という理由で、他の吸血鬼を襲撃し、殺害していないか。過去の未解決事件との照合を含め、徹底的な余罪調査が行われることになった。
「今回は、久我を襲っただけだぞ」
「その『だけ』って言うのをやめろ!」
「真偽については、こちらで客観的に確認させていただきます」
かれんは容赦しない。
そして。
すべての調査終了後、ダンは速やかに日本から退去。
原則として、今後の『再入国は禁止』となった。
少なくとも、今回のような自由な観光目的、休暇目的での入国は二度と認められない。今後、もし八咫烏が彼に正式な業務協力を要請するような特殊なケースがあったとしても、それは厳格な監視と制限付きの契約下でのみ許可されることになった。
「えー」
ダンが、心底残念そうに声を上げた。
「それは困るなぁ」
「何が困るんです?」
久我が冷たく言う。
「俺、日本好きなんだよ。飯はうまいし、人は親切だし」
ダンは本気で惜しむように言った。
「何より、治安がいいしな」
「その治安を最悪に悪化させた張本人が、お前だよ!!」
久我のツッコミが冴え渡る。
「また日本に遊びに来たいんだけどなー」
「来ないでください」
かれんが即答する。
「来ないでください」
澪が続く。
「来ないでください」
千鶴が念を押す。
「来ないでください」
杖原が冷酷に告げる。
「もう二度と来るな!」
久我が締めくくる。
「なんか、俺、すげー人気ないな」
ダンは最後まで、全く懲りている様子はなかった。
*
久我たちは、自分たちの偽装車両へと戻った。
ダンは、八咫烏の厳重な監視員が同乗する別の車両へと案内されている。
久我は、後部座席にドカッと倒れ込み、ぐったりと息を吐いた。
「陽介さん、大丈夫ですか?」
澪が心配そうに覗き込んでくる。
「身体は大丈夫です。ただ……」
久我は、車の窓越しに、別の車に乗り込もうとしているダンの姿を見た。彼は、自分を監視している八咫烏の職員に向かって、何やら楽しそうに話しかけて笑っている。
「……俺、あんな奴にボコボコにされて、死にかけたんですよね……」
久我が、底知れぬ敗北感を滲ませて呟いた。
「まあ、身体能力も戦闘技術も、ものすごく強いのは事実ですから」
千鶴が冷静にフォローする。
「分かってるんですけど」
久我は両手で顔を覆った。
「なんか……あんなお調子者に圧倒された自分が、急にものすごく悔しくて、恥ずかしくなってきました……」
*
外。
監視車両に乗せられる直前、ダンがこちらに気づき、満面の笑みで大きく手を振ってきた。
久我は無言のまま、車の窓のカーテンをシャッと乱暴に閉めた。
(クソ……!)
(次会う時は、絶対に一発くらいはまともなパンチを入れてやる……!)
そして、外から、ダンのバカでかい声が響いてきた。
「久我ー! 焼肉、気が変わったら深夜でも連絡くれよなー!」
久我は、カーテンの閉まった車内から、今日一番の大声で叫び返した。
「変わるかぁぁぁぁぁぁ!!」
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