35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第65話 吸血鬼、誰も死んでいない通夜に出席する

 午後十一時十八分。

 

 東京都内、住宅地と幹線道路の境目に位置する中規模葬祭会館《斎苑しらたえ》。

 

 夜間責任者である春日由紀は、一階の事務所で翌朝の告別式の予定表を確認していた。

 

 勤続十六年。四十四歳。彼女は能力者ではないし、霊感もない。怪異の存在すら知らない、ただの実務的な一般の会社員だ。

 

 この会館には、三つの式場がある。

 

 第一式場。今夜は本物の通夜が一件行われている。故人は七十八歳の男性。ご遺族は落ち着いており、現在は数名の親族が宿泊設備に残って静かな夜を過ごしている。

 

 第二式場。今夜は使用予定がない。翌日の告別式の準備も入っていない、完全な空き室だ。

 

 第三式場。こちらも本物の通夜。故人は六十九歳の女性。遺族の一部が仮眠室にいる。

 

 火気確認。施錠。搬入口の施錠状況。いずれも問題なし。

 

 今日は比較的、静かで平穏な夜だった。

 

 春日がパソコンの画面から目を離し、コーヒーカップへ手を伸ばした、その時だった。

 

 チーン、という微かな金属音。そして、読経の声が、事務所の重い防音扉の向こうから聞こえてきた。

 

       *

 

「……第二?」

 

 春日は、怪訝な顔をして顔を上げた。

 

 第一式場ではない。第三式場でもない。音の出所は、間違いなく今夜は誰も使っていないはずの、第二式場の方角だった。

 

 最初は、別の式場からの音が空調のダクトか何かを伝って回り込んでいるのかと思った。

 

 しかし。

 

 耳を澄ますと、あまりにもはっきりと聞こえる。

 

 ポク、ポク、という規則正しい木魚の音。低く重い読経の声。

 

 そして、複数人のすすり泣く声。

 

 春日は、念のため手元の管理端末のスケジュールをもう一度開いた。

 

 第二式場。

 

 使用予定、なし。棺の搬入予定、なし。故人、なし。喪主、なし。宗教者の手配、なし。料理の手配、なし。供花の注文、なし。

 

 何もない。完全な空白だ。

 

「……そんなわけないでしょう」

 

 春日は、幽霊を怖がるよりも先に、仕事上の『あり得ない異常』として即座に立ち上がった。

 

「知らない葬式がある、怖い」のではない。「自分の担当施設で、予約表に存在しない式が行われているのは、業務上絶対に許されない」のだ。

 

       *

 

 廊下へ出る。

 

 防犯用の照明は普通に点灯しており、不気味な暗さはない。

 

 第二式場の大きな木製の扉の前に立つ。

 

 扉が、ほんの僅かだけ開いていた。

 

 その隙間から、間違いなく読経の重低音と、お香の匂いが漏れ出してきている。

 

 春日は、躊躇なくその重い扉を両手で開いた。

 

 そして。

 

 完全に、その場に固まった。

 

 薄暗い式場の中で。

 

 通夜が、行われていた。

 

 会葬者の数は十二人。今夜は使用予定のない空の式場にいる人数としては、一人でも多すぎる。

 

 皆、パイプ椅子にきちんと座り、ハンカチで顔を覆って静かに泣いている。

 

 だが、春日の背筋を凍らせたのは、その人数ではなかった。

 

 彼女は、その十二人のうちの数人に、はっきりとした見覚えがあったのだ。

 

 第一式場の控室にいたはずの、故人の親族の老婦人。

 

 第三式場にいたはずの、遺族の女性。

 

 さらに。

 

 先ほど、春日が「念のため第二式場の戸締まりを確認してきて」と指示を出して向かわせたばかりの、会館の若い男性スタッフ。

 

 彼までが、会葬者の席に座って、肩を震わせて泣いているのだ。

 

       *

 

 そして、祭壇。

 

 今夜の第二式場には、本来絶対に存在しないはずの白木祭壇が、完璧な形で完成していた。

 

 真っ白な菊の供花。煙を上げる焼香台。灯された燭台。香炉。

 

 中央には、白い布をかけられた立派な棺。

 

 その上に飾られた、遺影。

 

 春日は、息を呑んだ。

 

 祭壇の遺影の写真は、白くぼやけていて『顔がない』のだ。

 

 棺の蓋は硬く閉じられている。

 

 位牌には、戒名はおろか、俗名すら一文字も書かれていなかった。

 

       *

 

 春日は、恐怖で悲鳴を上げるのを堪え、施設責任者としての実務を優先した。

 

「失礼いたします」

 

 一歩踏み込み、静かに、しかしはっきりとした声で呼びかける。

 

 誰も振り向かない。返事もない。木魚の音だけが響く。

 

 春日は、少し声を張った。

 

「こちらのお式の喪主様は、どちらでしょうか」

 

 十二人の会葬者。誰も答えない。ただ、ハンカチを握りしめて静かに泣き続けている。

 

「……故人様のお名前を、確認させてください」

 

 今度はこちらの要求だ。

 

 すると、十二人が僅かに反応し、一斉に顔を上げた。

 

 しかし。誰も答えられない。

 

 一番端の席に座っていた、第一式場から来たはずの老婦人が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……あの人です」

 

「あの人、とは?」

 

 春日が問うと、老婦人はひどく困ったような、悲痛な顔になった。

 

「……あの……とても、大事な人で……」

 

 ボロボロと大粒の涙をこぼす。

 

 でも、名前が出ない。自分が誰のためにここで泣いているのか、誰も分かっていないのだ。

 

       *

 

 春日の中で、明確な違和感が恐怖へと変わった。

 

 この老婦人は、第一式場で通夜を行っている七十八歳の男性の妹だ。本来、自分の兄の通夜のためにこの会館へ来ているはずの人間だ。

 

「田村様」

 

 春日は、静かに呼びかけた。

 

「今夜、第一式場にいらっしゃいましたよね。お戻りになりませんか」

 

 老婦人は、一瞬だけ顔を揺らした。焦点の合わない目で春日を見る。

 

「……何の話ですか?」

 

「え?」

 

「私は……この大事な人とのお別れのために、ここに……」

 

 完全に、別の『何か』に対する虚ろな悲しみに囚われていた。

 

 春日は、最前列で泣いているスタッフの青年へと向き直った。

 

「吉岡君」

 

「……」

 

「吉岡君! 何をしてるの!」

 

 春日が少し強い口調で言うと、青年はしゃくり上げながら顔を向けた。

 

「春日さん……今、大事なところなんです」

 

「誰の通夜なの?」

 

 吉岡の動きが、ピタリと止まった。彼もまた、答えられない。

 

 それでも、彼は必死に涙を拭った。

 

「……ちゃんと、見送らないと。かわいそうだから……」

 

 春日は、そこでゆっくりと後ずさった。

 

 この時点で彼女は、『これは自分一人で何とかできる労働問題や、ただの不法侵入の話ではない』と完全に判断した。

 

 静かに扉を閉め、足音を殺して事務所へと戻る。

 

 まず、会館の施設責任者へ緊急電話を入れる。その後、即座に警察へ通報した。

 

 警察への説明は、当然ながら「無断で当施設を使用している集団がいる。職員も巻き込まれている」という内容から始めた。オカルトや怪異といった非現実的な言葉は、実務家の彼女は一切使わなかった。

 

       *

 

 通報から十分後。

 

 所轄の制服警察官二名が、パトカーで到着した。

 

 田辺巡査部長と、まだ若い巡査だ。

 

 春日が事務所で事情を説明し、予約の入っていない管理システムの画面を見せる。

 

 警察官と共に、会館の防犯カメラの映像を確認する。

 

 ここでも、決定的な異常が映っていた。

 

 十二人が、一斉に第二式場へ連れ立って入っていった映像はどこにもないのだ。

 

 バラバラだった。

 

 午後十時過ぎ、第一式場の廊下から一人。数分後、第三式場の控室から二人。そして、確認へ向かったスタッフの吉岡。

 

 彼らは皆、廊下を歩いている途中で、まるで『急に何か大切な用事を思い出した』かのように、フラフラと、しかし全く普通に第二式場へと歩いて入り、そのまま出てこなかった。無理やり誰かに引きずり込まれたり、催眠術のように虚ろな目で歩いている様子は一切ない。

 

「さらに奇妙なのは、これです」

 

 春日が、第二式場前の定点カメラの映像を早送りする。

 

「この棺も、あの立派な白木祭壇も、うちの会館の備品じゃありません。デザインが全く違います」

 

「棺って、そういう備品扱いでそこら辺に置いてあるもんなんですか?」

 

 若い巡査が頓珍漢な質問をする。

 

「そういう意味ではなくてですね」

 

 春日が呆れたように訂正する。

 

「これほど巨大な祭壇や棺を、一体誰が、いつ、どこからこの式場へ運び込んだのか。その映像が、過去二十四時間分を遡っても、一本も残っていないんです」

 

 つまり、あの祭壇と棺は、物理的な搬入経路を一切無視して、『突然そこに出現した』のだ。

 

       *

 

「とりあえず、私が中の状況を確認します」

 

 田辺巡査部長が、無線機を手に立ち上がった。

 

「お前は外で待機してろ。春日さんも入口で」

 

 若手巡査と春日を廊下に残し、田辺が一人で第二式場の中へと足を踏み入れた。

 

 少しだけ開いた扉の隙間から、田辺の声が聞こえる。

 

「皆さん。警察です。少しだけ、状況を確認させてください」

 

 最初は、普通の職務質問の声だった。

 

 だが。数分が経過し。

 

 突然、田辺の声が完全に途絶えた。

 

「田辺さん?」

 

 若手巡査が、不審に思って扉の隙間から中を覗き込んだ。

 

 田辺は、式場の最後列にある空席の一つに、どっかりと座り込んでいた。

 

 制帽を脱いで膝の上に置き、深く俯いている。肩は震えていないが、外へ出てくる気配が全くない。

 

「田辺さん!?」

 

 若手巡査が、入口から少し声を張って呼ぶ。

 

 田辺が、ゆっくりと顔を上げた。その目は、すでに空虚な光を宿していた。

 

「……今は、静かにしてくれ」

 

「何してるんですか! 早く出てください!」

 

「通夜だぞ」

 

 田辺が、心底咎めるような声で言った。

 

 若手巡査は、その異様さに全身の血の気が引いて固まった。

 

「誰のです?」

 

 若手巡査が震える声で問う。

 

 田辺は、口を開きかけたが、ピタリと止まった。

 

「……」

 

 数秒間の沈黙。

 

「……大事な人だ」

 

 若手巡査は、二度と中へは入ろうとしなかった。

 

 即座に、肩の無線機を強く握りしめた。

 

「本部、こちら現場! 対象事案、一般案件にあらず! 特殊班の出動を要請する!」

 

 ここで、この事件は普通の警察の管轄から、完全に八咫烏の領域へと移行した。

 

       *

 

 警察内部の超常案件窓口から、八咫烏へと緊急の連絡が飛んだ。

 

 予約のない通夜。所在の分かっている複数人が、一斉に異常な精神状態に陥っている。強力な認識干渉、あるいは感情操作の疑い。そして何より、現場へ踏み込んだ警察官までもが、わずか数分で術の影響下へ取り込まれてしまった事実。

 

 八咫烏の緊急対策本部は、即座に現場である葬祭会館の周辺封鎖を決定した。一般警察の追加要員へは、「第二式場には絶対に入るな。外周の維持のみに専念せよ」という厳重な待機命令が出された。

 

       *

 

 御影坂高校、夜間警備班の詰所。

 

 巡回へ出る直前の久我たちの元へ、かれんの端末から緊急連絡が共有された。

 

「……葬儀場、ですか?」

 

 久我が怪訝そうに聞き返す。

 

「はい」

 

 かれんがタブレットの資料をモニターに映し出す。

 

「現在、都内の葬祭会館で、『誰のものか分からない通夜』が一件、行われています」

 

「……誰のものか分からない?」

 

「死者が、いません」

 

 かれんは、事実だけを淡々と説明した。

 

「現時点で確認されている限り、その第二式場に対応する『死亡者』が存在しません」

 

「……」

 

「じゃあ、一体誰のための通夜なんです?」

 

 澪が首を傾げる。

 

「それを、今から確認しに行きます」

 

       *

 

 現場への出動にあたり、内部へ入る人選は厳密に決められた。

 

 内部へ突入するのは、久我、千鶴、そして杖原の三名のみ。

 

 澪と、指揮役のかれんは、完全に式場の『外』で待機する。

 

 理由は明白だった。

 

 今回の怪異は、内部へ入った人数そのものが、そのまま『新たな被害者候補』として取り込まれてしまう可能性が高いからだ。必要最小限の人数でなければならない。

 

 久我は、《魔眼》による生体と霊的異常の確認。千鶴は、《神鏡返し》の反射面を利用した、現実と怪異側の認識の差分の視認。杖原は、退路の絶対的な確保と、物理的結界の展開。

 

 澪は、持ち前の圧倒的な速度を活かし、内部から救出された人間を、即座に第二式場の影響圏外へと遠ざける回収役。

 

 かれんは、怪異の認識干渉を一切受けていない、外部の冷静な判断者として機能する。

 

「俺たちまで、中に入ったら『誰か大事な人が死んだ』って思い始める可能性、ありますよね?」

 

 久我が嫌そうに尋ねる。

 

「あります」

 

 かれんは即答した。

 

「嫌だなぁ……」

 

「ですので、入る前に、明確な『事実』を声に出して確認してください」

 

 かれんが、手元の資料を読み上げる。

 

「第二式場には、本日、通夜の予約はありません」

 

「対応する死亡者はいません」

 

「棺の搬入記録はありません」

 

「遺影の人物は存在しません」

 

「あなた方は怪異事案の確認と、生存者の救助のためだけに中へ入ります」

 

 久我が、真っ直ぐに前を見て復唱した。

 

「誰も死んでいない」

 

「はい」

 

 千鶴が続く。

 

「誰も死んでいません」

 

 杖原も復唱する。

 

 この言葉を、三人とも自分の口で明確に宣言することで、精神のアンカーとした。

 

       *

 

 午前零時前。

 

 《斎苑しらたえ》の前に、偽装された八咫烏の車両が到着した。

 

 外観はごく普通の葬祭会館だ。パトカーや八咫烏の車両が数台停まっているが、サイレンは鳴らしていない。一般の近隣住民へは、「館内の設備トラブルによる一時閉鎖」として処理されている。

 

 第一式場と第三式場に残っていた本物の遺族たちも、すでに警察の誘導によって、第二式場から十分に距離を取った会館外の安全な待機場所へ避難していた。

 

 ロビーで、夜間責任者の春日由紀と対面する。

 

 彼女はひどく疲労していたが、パニックを起こして混乱してはいなかった。

 

 久我たちへ、式場の正確な配置図、本物の遺族の控室の位置、異常が発生した正確な時刻、そして中へ入っていった人数の詳細を、理路整然と説明した。

 

「中にいる人たちの顔は、全員分かりますか?」

 

 久我の質問に、春日は首を横に振った。

 

「うちの会館の職員一名を除けば、顔だけでは全員の身元を特定するのは無理です」

 

 しかし、と彼女は書類の束を差し出した。

 

「第一式場と第三式場の、会葬者名簿と親族情報のリストです。これと照らし合わせれば、身元は割れます」

 

 これは、後で救出において極めて重要な鍵となる。

 

 説明の最後。

 

 春日が、奥の廊下の先にある第二式場の扉の方を、スッと見た。

 

「……まだ、お式の途中なんです」

 

 久我の背筋に、冷たいものが走った。

 

「何がですか?」

 

 春日は、ハッとして口を噤んだ。

 

「……」

 

 自分でも、なぜ今そんなことを口走ったのか、分からないという顔をしていた。

 

 久我は、かれんの方を見た。

 

 怪異の認識干渉は、すでに扉の外側、このロビーにまで微かに漏れ出し始めているのだ。

 

「春日さんは、ここから先へは絶対に入らないでください」

 

 かれんが即決した。

 

「でも、施設の責任者として――」

 

「だからです」

 

 かれんの声は冷徹だった。

 

「現在、あなたはすでに、怪異からの軽い心理的影響を受け始めている可能性があります。これ以上の接触は危険です」

 

 春日は渋ったが、最終的にはプロとしてその指示を了承した。

 

       *

 

 久我、千鶴、杖原の三人が、第二式場の重い扉の前に立つ。

 

 杖原が、扉の枠に沿って簡易結界の呪符を素早く貼り付けていく。

 

「帰り道だけは、絶対に認識が切れないように固定します」

 

 千鶴は、近くの飾り棚のガラスを確認し、反射の視界を確保する。

 

 久我は右目に《魔眼》を展開し、扉の向こう側の気配を探った。

 

「……十三人です」

 

 久我が報告する。後から入った田辺巡査部長を含め、十三人。

 

 心拍。呼吸。生体反応。

 

「全員、間違いなく生きています」

 

 これが、この事件の最大の前提だった。

 

 死人は、本当に一人もいないのだ。

 

       *

 

 久我が、両手で重い木製の扉を押し開いた。

 

 低く重い読経の声と、むせ返るような線香の匂いが、通路へと溢れ出してくる。

 

 久我たちが中へ入ると、パイプ椅子に座っていた十三人の視線が、一斉にこちらへ集まった。

 

 しかし、そこに『招かれざる客』を見るような敵意は一切なかった。

 

 むしろ。

 

 最後列の端に座っていた女性が、ハンカチで涙を拭いながら、久我たちへ向かって丁寧に、そして悲しそうに軽く会釈をしたのだ。

 

「……お越しいただいて、ありがとうございます」

 

「え?」

 

 久我は思わず間の抜けた声を出した。

 

 まるで、久我たちも『遅れてやってきた会葬者の一人』として、最初から待たれていたかのような自然な扱いだった。

 

 最後列に、ちょうど三脚のパイプ椅子が『空いて』いた。

 

 久我、千鶴、杖原の三人のためだ。

 

「……嫌ですね、こういうの」

 

 杖原が小声で呟く。

 

「座りませんよ、絶対に」

 

 久我が言い捨てた、その瞬間だった。

 

 誰もマイクを持っていないはずの、式場のスピーカーから、静かなアナウンスが流れた。

 

『ご会葬の皆様は、どうぞお席へお着きください』

 

 三人は、完全に沈黙した。

 

「絶対に、座りませんよ」

 

 久我がもう一度、自分に言い聞かせるように言った。

 

       *

 

 しかし、その空間に数分立っているだけで、久我の中にも明確な異常が生じ始めていた。

 

 胸が、ギューッと締めつけられるように苦しい。

 

 大切な何かを、永遠に失ってしまったような、どうしようもない喪失感。

 

 誰かが死んだ。とても大切な、かけがえのない誰かが。

 

 でも。

 

 誰だった?

 

(誰だっけ……?)

 

 一瞬、久我自身の思考が空白に陥る。

 

 誰が死んだんだ。会社の知人か? 八咫烏の仲間か? それとも、家族か?

 

 その瞬間、久我は強烈な違和感に気づき、頭を横に強く振った。

 

(違う)

 

(誰も死んでない)

 

 入る前に、三人で声に出して確認した事実が、アンカーとなって久我の精神を引き戻した。

 

 隣の千鶴も、影響を受けていた。

 

 彼女は、祭壇の遺影をじっと見つめたまま、表情を僅かに強張らせていた。

 

「……悲しい、ですね」

 

「鏡宮さん」

 

 久我が肩を叩く。千鶴はハッとして我に返った。

 

「……はい」

 

「誰が死んだんです?」

 

 千鶴は、答えられなかった。そこで、彼女自身も完全に気づいた。

 

「……誰も、死んでいません」

 

       *

 

 杖原が手元の機材の数値を確認し、報告する。

 

「空間的な閉鎖はありません。出口は開いています」

 

 つまり、ホテル月影やコインロッカーのような、物理的に異空間へと取り込まれた案件ではないのだ。

 

 後ろを振り向けば、開いた扉の向こうに、普通の廊下が見えている。歩いて出ればいいだけだ。

 

 なのに、ここにいる十三人の誰一人として、外へ出ようとしない。

 

 問題は、物理的な結界ではなく、彼らの『心理』そのものなのだ。

 

 久我は、最後列に座っていた田辺巡査部長の前に歩み寄り、しゃがみ込んだ。

 

「田辺さん」

 

 田辺は、焦点の合わない目で久我を見下ろした。

 

「……何ですか」

 

「誰が亡くなったんですか?」

 

 田辺の顔に、不快そうな色が浮かんだ。

 

「そんな不躾なこと、今聞くな」

 

 少し怒っている。

 

「名前だけでいいんです。教えてください」

 

 田辺は、口を開こうとして、答えられなかった。

 

 それでも、彼は絶対に帰ろうとはしなかった。

 

「まだ、最後の別れが終わってないんだ」

 

「誰との別れですか?」

 

 田辺は詰まった。自分の言葉の矛盾にすら気づいていない。

 

 それでも、彼は涙を流しながら言った。

 

「……置いていけないんだよ」

 

 ここで久我は確信した。

 

 彼らの中では、『理屈』ではなく『悲しいという感情』だけが、完全に先行して成立してしまっているのだ。

 

       *

 

 千鶴が、式場の側面に張られた装飾用の黒いガラスへと視線を向けた。

 

 そこへ映る祭壇を見る。

 

 現実の祭壇にある遺影は、真っ白くぼやけていて、顔がない。

 

 しかし。

 

 ガラスの反射の中の遺影には、『顔』があった。

 

 千鶴の表情が、凍りついた。

 

「……田辺さんです」

 

「え?」

 

 千鶴の言葉に、久我が振り返る。

 

「反射の遺影の中に、田辺さんの顔が映っています。しかも……少しずつ、鮮明になっています」

 

 久我は、目の前に座っている田辺を見た。

 

 本人は、間違いなく生きている。魔眼で見ても、普通に心臓が動いているし、呼吸もしている。

 

 それなのに。

 

「……田辺さんも、逝くのが早かったよね」

 

 前列に座っていた一人の参列者の女性が、ぽつりと呟いた。

 

 久我は完全に固まった。

 

「まだ若かったのに……」

 

 別の参列者も、ハンカチで目を押さえながら続く。

 

 自分の名前が出たのに、田辺は全く驚かなかった。それどころか、「俺は生きてるぞ」と否定することすらなく、自らの死を悼む声に合わせて、ただ悲しそうに涙を流しているのだ。

 

       *

 

 恐ろしい『認識の書き換え』が、この空間内で作られ始めている。

 

「田辺さん、生きてますよ!」

 

 久我が声を張った。

 

 参列者の数人が、久我を本気で不思議そうな目で見た。

 

「何を言ってるんですか、こんな席で」

 

「田辺さんはここにいるでしょう!」

 

 久我が田辺の肩を掴んで揺さぶる。

 

 参列者たちは、確かにそこに座っている田辺を見ている。でも同時に、『田辺は死んだ』と心から思っている。

 

 彼らの精神の中では、その致命的な矛盾を、矛盾として認識する機能が完全に破壊されているのだ。

 

「死者がいないのではありません」

 

 千鶴が、低い声で真実を告げた。

 

「え?」

 

「まだ、誰が死者なのか、『決まっていない』だけなんです」

 

 通夜という儀式の場。豪華な祭壇。閉じられた棺。集まった参列者。そして、深い悲しみの感情。

 

 すべてが完璧に揃っている。

 

 足りないものは、ただ一つ。

 

『故人』だけだ。

 

「この通夜を完成させるために」

 

 千鶴が、反射の中の遺影を見据える。

 

「ここにいる生きている人を、一人、故人にしようとしているんです」

 

 久我が祭壇を見る。

 

 反射の中の田辺の顔が、さらに鮮明に、遺影として固定されようとしていた。

 

       *

 

 田辺の身体にも、異変が起き始めていた。

 

 魔眼を展開していた久我が、それに気づく。

 

 田辺の心拍数が、少しずつ異常に低下している。末端の体温が下がり、呼吸がひどく浅くなっている。

 

 霊的な認識の書き換えだけではない。

 

 田辺の肉体そのものが、本当に『死』という状態へと強引に寄せられているのだ。

 

「田辺さん、出ます!」

 

 久我は即断し、田辺の腕を力強く掴んで引っ張り上げた。

 

「何するんだ!」

 

 田辺が激しく抵抗する。

 

「通夜の途中だぞ!」

 

「これは、あなたの通夜ですよ!」

 

 田辺の動きが、一瞬だけ止まった。

 

「だから、ここから出るんです!」

 

 だが、周囲の参列者たちが一斉に立ち上がった。

 

 殴りかかってくるような攻撃的な動きではない。ただ、泣きながら、久我たちにすがるように口々に叫ぶ。

 

「まだお別れが終わっていません」

 

「連れていかないで」

 

「どうか、最後までいさせてあげて」

 

 相手はただの一般人の被害者だ。久我が吸血鬼の力で殴り飛ばすわけにはいかない。強引に押し退けて怪我をさせるわけにもいかない。

 

「道を開けます!」

 

 杖原が素早く二人の間に割って入り、最低限の柔らかい結界を展開して、人を傷つけずに参列者たちを左右へ分けた。

 

       *

 

 久我が、半ば強引に田辺を抱え上げ、扉へと向かう。

 

 杖原が維持していた結界の通路を抜け、廊下へと飛び出した。

 

 外の境界を越えた瞬間。

 

 田辺が、急に水から顔を出したように、大きく息を吸い込んだ。

 

「ハァッ……!」

 

 瞳に、確かな生気が戻る。

 

「……何だ?」

 

 田辺は、自分の着ている制服と、周囲の廊下を見回した。

 

「俺、ここで何をしてた……?」

 

 成功だ。

 

 千鶴が、式場の中から反射のガラスを確認する。

 

「田辺さんの顔が、薄れました……完全に消えました」

 

 久我は安堵の息を吐いた。

 

 しかし。

 

「……まずいです」

 

 千鶴の声が、再び凍りついた。

 

 久我が慌てて式場の中へ戻る。

 

「誰ですか、次は!?」

 

 千鶴は、少しだけ躊躇ってから、信じられないというように言った。

 

「……春日さんです」

 

       *

 

「春日さん!?」

 

 久我は耳を疑った。

 

「春日さんは、外に待機しているはずです。中にいませんよ?」

 

 でも、春日は最初にこの第二式場へ入り、一人で長く怪異からの干渉に接触していた。そして今も、この施設内には留まっている。怪異との繋がりが、完全に切れていなかったのだ。

 

 外部のロビー。

 

 待機していた春日が、急に苦しそうに胸を押さえた。

 

「……行かないと」

 

 春日は、フラフラと立ち上がり、第二式場の方へと歩き出そうとした。

 

 澪が、即座に入口の前に立ち塞がって止める。

 

「春日さん、どこへ行くんですか!」

 

「式が……」

 

 春日の目は、すでに虚ろだった。

 

「私が行かないと、終わってないんです」

 

 指揮を執っていたかれんが、即座に状況の異常性を判断した。

 

 対象を一人だけ外へ出せば終わるような、単純な怪異ではない。

 

『通夜』そのものがこの式場で継続している限り、怪異は次の死者を自動的に探し出し、選び続けるのだ。

 

 つまり。

 

「この通夜そのものを終わらせるために、中にいる被害者を『全員』、外へ出さなければならないということです」

 

 久我は、重い事実を噛み締めた。

 

「一人ずつ、あの棺の候補にされる前に。全員、出します」

 

       *

 

 だが、それが今回の本当の難所だった。

 

 残る十二人は、自分から出ようとはしない。

 

 力ずくで引きずり出すなら、物理的には可能だ。吸血鬼である久我や澪の力なら、普通の人間十二人を強引に運ぶこと自体は難しくない。

 

 しかし、そんなことをすればパニックになり、転倒し、怪我人が出る。怪異が予想外の危険な反応を示す可能性もある。

 

 何より、相手は罪のない被害者なのだ。可能なら、本人の認識を正常に戻して、自分の足で出させたい。

 

「春日さんの資料が役立ちます」

 

 久我は、インカムを通じて外の春日へと通信を繋いだ。

 

「春日さん、聞こえますか! 中にいる人たちの、『本来の通夜』の情報を教えてください!」

 

 春日は意識が混濁しつつあったが、実務家としての責任感が辛うじて彼女を支えていた。

 

 手元の名簿と防犯映像の照合結果を、震える声で読み上げる。

 

「残る十二人……。第一式場のご親族が、七人。第三式場のご親族が、四人。……そして、スタッフの吉岡君が一人です」

 

       *

 

 久我は、名簿の情報を聞き、最前列で泣いていた第一式場から来た老婦人の前へと進み出た。

 

「田村さん」

 

 久我の呼びかけに、老婦人が顔を上げる。

 

「あなたが今日、この会館へ来たのは、田村重一さんを最後に見送るためですよね」

 

 老婦人の顔が、ビクッと強張った。

 

 久我は、春日から送られた情報を、はっきりと突きつけた。

 

「七十八歳。あなたのお兄さんです。お兄さんの通夜は、第一式場で行われています」

 

 その言葉が、嘘の記憶にヒビを入れた。

 

 老婦人の泣き方が、突然変わったのだ。

 

 今までの、誰とも分からない空虚でぼんやりとした悲しみではない。身をよじるような、確かな重みのある、本物の悲しみ。

 

「……兄ちゃん」

 

 失われていた名前を、彼女は思い出した。

 

 周囲の、全く見知らぬ祭壇と、見知らぬ参列者たちを見る。

 

「私……なんで、こんなところに……?」

 

「帰りましょう」

 

 久我が優しく手を差し伸べた。

 

       *

 

 老婦人は、今度は自分の意思でしっかりと立ち上がり、久我に支えられて扉の外へと歩み出た。

 

 境界を越えたところで、澪がしっかりと彼女を受け取る。

 

「安全区域まで運びます!」

 

 澪が老婦人を支えたまま、会館外の待機場所へ素早く連れていく。

 

「叔母さん!」

 

 そこで待機していた本物の親族が駆け寄った。

 

 その声によって、老婦人の認識は完全に現実へと引き戻された。一人目の救出成功だ。

 

 久我は、この怪異の性質を完全に理解した。

 

 こいつは、人間の悲しみをゼロから新しく作っているわけではないのだ。

 

 本来、別の故人へ向けられていた本物の深い悲しみを、この空っぽの第二式場の通夜へと『横取り』しているだけなのだ。

 

 だから。

 

「本当の死者へ、その悲しみを返してやればいい」

 

       *

 

 ここから、救出作業のテンポが一気に上がった。

 

 第一式場組。名前。故人との関係。本来いるべき場所。それらを一つずつ提示し、記憶を呼び覚ましていく。

 

 第三式場組も同じだ。

 

 千鶴も、参列者一人一人へ丁寧に声をかけていく。

 

「あなたが本当に悲しんでいた方は、この式場にはいません」

 

「本当にお別れをするべき大切な方は、別の場所にいらっしゃいます。戻りましょう」

 

 次々と、参列者たちが自分の本来の悲しみを思い出し、自らの足で外へと出ていく。

 

 しかし、スタッフの吉岡だけは違った。

 

 彼は葬儀に参列していた遺族ではない。悲しみを向けるべき、本来の故人がいないのだ。

 

『吉岡君は、仕事中です』

 

 外からの春日の通信が助けになった。

 

『午後十時四十分に、私が第二式場の異常音を確認するよう、業務として頼みました』

 

 久我は、吉岡の肩を掴んで言った。

 

「吉岡さん。あなた、参列者じゃありませんよ。仕事でここに来たんです」

 

「……え?」

 

「春日さんに頼まれて、点検に来ただけでしょう」

 

「……仕事」

 

 吉岡の瞳に、社会人としての理性が戻った。

 

「春日さんに、頼まれて……」

 

 そこで、彼も完全に認識を取り戻し、慌てて外へと逃げ出した。

 

       *

 

 式場に残る人数が減っていくにつれ、怪異が明らかに焦り始めた。

 

 祭壇の蝋燭の炎が、不自然に高く燃え上がる。

 

 スピーカーから流れる読経の音量が、耳を劈くほどに上がる。

 

 そして、アナウンスが響いた。

 

『お別れのお時間となりました』

 

「式を早めてきた?」

 

 久我が焦る。

 

「恐らく」

 

 千鶴が頷く。通夜が、強引に次の『閉式』の段階へと進もうとしているのだ。

 

 反射の遺影。

 

 そこに映る春日の顔が、完全に鮮明になっていた。

 

 外にいる春日は、体温が異常に低下し、意識が朦朧として崩れ落ちそうになっている。澪とかれんが必死に両側から支えている。

 

「……行かないと」

 

 春日がうわ言のように繰り返す。

 

「私が、責任者として、閉式の挨拶を……」

 

 怪異は、彼女の『責任感』までもを利用して、通夜を完成させようとしていた。

 

       *

 

 残り三人。

 

 久我は焦燥に駆られながらも、決して怒鳴らなかった。

 

 一人ずつ。名前。本当の故人。一緒に帰るべき家族。

 

 それを提示し、外へと促す。

 

 二人。一人。

 

 そして最後の一人が、扉の外へと出た。

 

 被害者全員の退室が完了した。

 

 普通なら、ここで怪異は維持できなくなり、消滅するはずだ。

 

 しかし。

 

 読経の音は、鳴り止まなかった。

 

 十三脚の椅子は無人。祭壇には花。中央には閉じられた棺。

 

 そして。

 

 最後列に、三つの空席がある。

 

 久我、千鶴、杖原が入ってきた時に、怪異が勝手に用意した席。

 

 三人は、まだこの式場の中にいるのだ。

 

       *

 

 遺影の顔が、揺らいだ。

 

 春日の顔が消える。

 

 次に現れたのは、久我の顔。一瞬で千鶴の顔へ。そして杖原の顔へ。

 

 高速で、三人の顔が入れ替わり続ける。誰を最後の死者にするか、怪異自身も決めきれていないのだ。

 

「……俺たちも、一応参列者扱いですか」

 

 久我は苦々しく言った。

 

「退室します」

 

 杖原が扉を開いた。退路の結界は、完璧に生きている。

 

 三人が、一斉に外へと出ようとする。

 

 だが。

 

 久我だけが、足を止めた。

 

 理由は、背後の『棺』だった。

 

 ドン。

 

 棺の内側から、何かが鈍くぶつかる音がしたのだ。

 

       *

 

「誰か、中にいるんですか!?」

 

 久我は振り返り、魔眼で棺の中を凝視した。

 

 生体反応は、ない。心拍も体温もない。

 

 でも。

 

 強烈な、圧倒的な『霊的反応』が、その棺の内部に渦巻いている。

 

「……人間じゃない」

 

 これが、今回初めて明確に姿を現そうとしている、怪異の『核』だった。

 

「残して帰りますか?」

 

 杖原が、冷静な判断を促す。

 

 現時点で、人間は全員救助済みだ。扉を閉めて結界を張り、あとは八咫烏の専門の除霊班へと引き継ぐ。それが最も安全で確実な判断だ。

 

 でも。

 

 棺の中から、また。ドン。

 

 そして、場内放送が響いた。

 

『ご遺族の皆様は、お棺の側へお集まりください――』

 

 外に避難していた救助者たちが、そのアナウンスを聞いて、一斉に虚ろな目で第二式場の方を振り返った。

 

 繋がりが、まだ完全に切れていないのだ。

 

       *

 

「駄目ですね」

 

 久我は、扉から一歩、中へと戻った。

 

「これ、このまま残したら、また外の人たちを引きずり込みます」

 

 杖原も、無言で頷いて結界の出力を上げた。

 

 千鶴が、反射のガラスを見る。

 

「……棺の中だけ、何も映りません」

 

 真っ黒なのだ。鏡の中でも、そこだけが完全な空白として抜け落ちている。

 

 具体的な、誰か一人の人間の怨霊ではない。

 

 少なくとも、魔眼にも、千鶴の反射にも、一つの人格を持った存在としては見えない。

 

『通夜を完成させる』という儀式そのものの目的だけが、凝り固まって怪異化したもの。

 

「誰かを弔いたいんじゃないんですね」

 

 久我が言うと、千鶴も同意した。

 

「ええ。ただ、通夜をしたいだけなんです」

 

 だから、故人がいなくても勝手に始める。いなければ、生きている人間を使ってでも『故人』を作ろうとする。

 

       *

 

 怪異が、最後の抵抗を見せた。

 

 ガタンッ!

 

 棺の蓋が、勢いよく開け放たれた。

 

 中に、死体はない。

 

 代わりにそこにあったのは、真っ黒な『喪服』だった。

 

 人間が着ているのではない。中身が完全に空洞の、布でできた喪服だけが、まるで目に見えない糸で操られているように、ゆらりと起き上がったのだ。

 

 短い戦闘の開始だった。

 

 喪服の腕の袖が、異常な長さに伸びて、一番近くにいた千鶴へと襲いかかる。

 

 久我が、一歩前に出た。

 

 両腕に《血装》を展開し、伸びてきた黒い袖を真正面からガシッと掴む。

 

 今回は、中身はただの怪異だ。人間ではない。手加減する必要は一切ない。

 

「重っ……!」

 

 ただの布のはずなのに、袖は鉛のように重かった。久我の身体が、棺の方へとズルズルと引きずられそうになる。

 

「逃がしません」

 

 杖原が、棺の周囲を囲むように四本の結界の杭を打ち込んだ。怪異が式場全体へと拡散して逃げるのを防ぐための、檻だ。

 

       *

 

「久我さん!」

 

 千鶴が、反射のガラスを見て叫んだ。

 

 喪服には、核がない。祭壇にも、遺影にもない。

 

 でも。

 

「棺です! 棺の内部だけが、黒い空白になっています!」

 

「ですよね!」

 

 棺自体を物理的に粉砕すれば、何が起きるか分からない。中の異空間がどうなるか、儀式の繋がりがどう暴走するか、予測不能だ。

 

「閉じてください!」

 

 杖原が指示を飛ばす。

 

「閉じる!?」

 

「その怪異を中へ戻して、蓋を閉めるんです!」

 

 久我は、踏ん張っていた両足にさらに力を込め、力比べに出た。

 

 掴んでいた喪服の袖を、強引に棺の方へと押し戻す。

 

 怪異が激しく抵抗する。袖が暴れ、祭壇が揺れ、並べられた椅子が倒れ、天井の照明が点滅する。

 

 読経の音が、耳を塞ぎたくなるほどの大音量で響き渡る。

 

「誰も!」

 

 久我は、《血装》にすべての力を込め、喪服を棺の底へと押し込んだ。

 

「死んでないんですよ!」

 

 さらに、上から押さえつける。

 

「勝手に通夜を始めるな!」

 

       *

 

 喪服が、完全に棺の中へと落ちた。

 

「今です!」

 

 杖原が結界を収束させ、棺の蓋を上から見えない力で強引に押し下げる。

 

 久我も、両手で直接蓋を押さえ込んだ。

 

 千鶴が反射の中で、あの黒い空白の領域が、蓋が閉まるにつれて急速に縮んでいくのを確認する。

 

 パタン。

 

 重い音を立てて、棺の蓋が完全に閉じられた。

 

 その瞬間。

 

 大音量で鳴り響いていた読経が、ピタリと停止した。

 

 祭壇の蝋燭の火が、一斉にフッと消える。

 

 祭壇を飾っていた大量の白い菊の花が、萎れるのではなく、まるで最初から存在していなかったかのように、空気へ溶けて消え去った。

 

 倒れていた椅子が、元の位置へと戻る。

 

 遺影が消失する。

 

 そして、久我が押さえつけていた棺も、輪郭から徐々に薄くなり、最後には完全消滅した。

 

       *

 

 第二式場は、完全に元通りになった。

 

 何もない。祭壇も、棺も、参列者も。

 

 本当に、使用予定のない、ただの空っぽの式場に戻ったのだ。

 

 久我は、肩で荒い息をしながら、何もない空間を見回した。

 

「……結局、誰の通夜だったんですか」

 

「誰のものでもありません」

 

 千鶴が静かに答える。

 

「誰のものでもなかったから、誰かのものにしようと、生きた人間を欲していたのでしょう」

 

 杖原が、冷たい事実を告げた。

 

       *

 

 外のロビー。

 

 春日の体温が回復し、意識も完全に正常に戻っていた。田辺巡査部長も、怪我はない。

 

 後から救出された十二人の被害者のうち、第一・第三式場から引き込まれていた十一人は、それぞれ本来の家族と再会していた。スタッフの吉岡は会館の同僚たちに保護され、先に救出された田辺巡査部長も若手巡査と合流している。

 

 被害者たちの、怪異に取り込まれていた間の記憶は、全員かなり曖昧になっていた。ただ、「ものすごく悲しかった」という感情の残滓だけを覚えているようだった。

 

「申し訳ありません」

 

 春日が、久我たちに向かって深く頭を下げた。

 

「何がですか?」

 

「私が最初に見つけた時に、もっと早く止めていれば……」

 

 久我は、即座にそれを否定した。

 

「無理ですよ。誰も、空っぽの式場が勝手に通夜を始めるなんて、思いもしないでしょう」

 

 春日は、遠くから静かになった第二式場の扉を見つめた。

 

「十六年、この葬祭会館で仕事をしています」

 

「ええ」

 

「ご遺族が誰もいらっしゃらない、寂しいお式もありました。参列者がたった一人しかいないお式もありました。でも……」

 

 春日は、信じられないものを見るような目をした。

 

「『故人がいない通夜』なんて、初めてです」

 

「普通は、一生経験しないと思いますよ」

 

 久我は苦笑した。

 

       *

 

 事後整理。

 

 八咫烏は第二式場を一時的に封鎖し、霊的残留物の確認と浄化を行うことになった。

 

 怪異の明確な発生原因は、断定不能だった。

 

 ただ、可能性としては。

 

 この葬祭施設で長年繰り返されてきた、『死者との別れ』『遺族の深い悲嘆』『きちんと送り出さなければならないという強い意識』、そして『通夜という儀式そのものの反復』。

 

 それらが、一つの『形式』としてこの場所に蓄積され、そこへ何らかの条件が重なったことで、『故人の存在しない葬送儀式』だけが独立して怪異化してしまったのではないか、という推測が立てられた。

 

 特定の誰かの幽霊ではない。誰かの強い恨みでもない。そこまでしか、確定できなかった。

 

       *

 

 帰り道。

 

 八咫烏の職員が運転する偽装車両が、深夜の街を走っていた。

 

 後部座席で、久我が呟いた。

 

「怪異って、幽霊や化け物だけじゃないんですね」

 

「はい」

 

 助手席の杖原が頷く。

 

「人間が同じ行為や感情を何度も繰り返した結果、その『形』だけが器として残り、怪異化することもあります」

 

「葬式の手順だけが残って、勝手に人を引きずり込むなんて、嫌すぎますね……」

 

 後部座席で、千鶴が少し考えてから言った。

 

「ただ」

 

「はい?」

 

「あれは、死者を悼んでいたわけではありません」

 

「そうですね」

 

 久我も同意する。

 

「通夜という儀式を完成させるために、生きている人を殺して中身を埋めようとしていただけです」

 

 千鶴の横顔には、静かな、しかし明確な嫌悪感が浮かんでいた。鏡宮家という、儀式と伝統の中で育ってきた彼女だからこそ、その言葉には重みがあった。

 

 本当の弔いと、怪異が模倣する空っぽの真似事は、根本的に違うのだ。

 

       *

 

 施設を出る前。

 

 春日が、久我たち三人に向かって、小さな紙袋を差し出した。

 

「こちらを」

 

「何ですか、これ?」

 

「お騒がせしたお詫び、というわけではありませんが……会館で皆様にお渡ししている、お茶とお菓子です」

 

 久我は紙袋を受け取り、少しだけ顔を強張らせた。

 

「……会葬御礼の品、じゃないですよね?」

 

 春日は一瞬ポカンとし、そして、今夜初めて少しだけ声を出して笑った。

 

「違いますよ」

 

「本当に?」

 

「違います」

 

 久我は、真剣な顔で念を押した。

 

「今日、その言葉の区別は、かなり重要なんですよ」

 

「久我さん、そこまで疑って確認しなくても」

 

 千鶴が呆れる。

 

「まあ、お気持ちは痛いほど分かりますけどね」

 

 杖原も苦笑した。

 

       *

 

 久我が、最後に一度だけ振り返った。

 

 《斎苑しらたえ》。

 

 今はもう、静寂を取り戻したごく普通の葬祭会館だ。第二式場の窓は暗く、何もいない。誰も死んでいない。

 

 そして今夜は、誰も死なせずに終わらせることができた。

 

 久我は、手元の紙袋を見た。

 

(……通夜に出席して、死者を一人も見ずに帰ってくる仕事もあるのか)

 

 少し考えてから、首を振る。

 

(いや、こんな通夜、二度と経験したくないな)

 

 久我たちは、眠りについた東京の街を、静かに家路へと向かった。

 




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