35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第66話 吸血鬼、美術館から逃げた女を絵に戻す

 午後九時四十七分。

 

 東京都内にある中規模の美術館、《青藍美術館》。

 

 閉館からすでに二時間近くが経過しており、館内に一般客の姿はない。清掃作業もほぼ終了し、静まり返った展示室には、空調の微かな稼働音だけが響いている。

 

 夜間警備員の岩瀬敬一は、懐中電灯を片手に、常設展示棟の二階をいつものルートで巡回していた。

 

 勤続十一年。六十一歳。長年この美術館の夜を守り続けてきた彼は、特に怖がりな性格ではない。むしろ、展示されている美術品一つ一つの配置や、照明の当たり具合、床のワックスの反射まで、すべてを感覚として記憶しているベテランだ。

 

 いつものルート。いつもの展示室。いつもの絵。

 

 岩瀬は、西洋近代絵画のコーナーを歩き、一枚の油彩画の前を通り過ぎた。

 

 数歩。

 

 岩瀬の足が、ピタリと止まった。

 

 何か違和感があった。彼は懐中電灯の光を落とし、ゆっくりと後ずさりして、先ほど通り過ぎたその絵の正面へと戻った。

 

 作品名、《青衣の婦人》。

 

 特別有名な画家の作ではないが、青藍美術館が長年収蔵し、常設展示している正式な美術品だ。

 

 昨日まで、その絵の中には、暗い青色のドレスを着た女性が、赤茶色の椅子へ静かに腰掛けていた。少しだけ左を向き、物憂げな視線を宙へ向けている、古典的な肖像画だったはずだ。

 

 だが、今。

 

 岩瀬の目の前にある絵の中には、『椅子』しかなかった。

 

 灰色の背景。壁。床。そして、赤茶色の椅子。それらはすべて、昨日までと全く同じように描かれている。

 

 ただ、そこに座っていたはずの青いドレスの女性の姿だけが、綺麗に消え去っていた。

 

「……誰か、やったな?」

 

 岩瀬は、幽霊や怪異を疑うよりも先に、警備員としての直感でそう呟いた。

 

 絵画に対する悪戯。差し替え。精巧な偽物とのすり替え。あるいは、特殊な溶剤を使った器物損壊。何らかの犯罪行為だ。

 

 彼は即座に腰の無線機を手に取り、警備室と、まだ館内に残っているはずの学芸員へと連絡を入れた。

 

       *

 

「岩瀬さん! 異常というのは?」

 

 数分後、学芸員の鷺沢真理が、ヒールを鳴らして展示室へと駆けつけてきた。三十九歳。西洋近代絵画と収蔵品管理を専門とする彼女は、美術品に関することとなれば異常なまでに神経質になる。

 

 最初は、岩瀬の単なる見間違いか、照明の反射による錯覚だと思っていた。

 

 しかし、《青衣の婦人》の前に立った彼女の動きが、完全に停止した。

 

「……」

 

 鷺沢は、信じられないものを見る目で絵に近づいた。

 

 表面のキャンバスを確認する。額縁。壁に固定された吊り金具。

 

「剥がされたわけじゃありませんね」

 

 岩瀬が懐中電灯で照らしながら言う。

 

「ええ。表面に傷がない。溶剤を使って特定の塗料だけを溶かしたような痕跡もない。上から別の絵の具で塗りつぶしたわけでもない」

 

「じゃあ、元からこういう『椅子だけの絵』だったとか?」

 

「あり得ません」

 

 鷺沢は、学芸員としてのプライドをかけて即答した。

 

「この作品が当館で展示されてきた間、そんな状態だったことは一度もありません」

 

 鷺沢は、持っていた業務用タブレットを開き、収蔵データベースからこの作品の過去の高解像度写真を呼び出した。

 

 そこには、間違いなく青いドレスの女性が座っている。

 

 しかし、目の前の現在の絵には、女性がいない。

 

 作品そのものが、物理的な痕跡を一切残さずに『変化』しているのだ。

 

       *

 

 警備室へ急行し、防犯カメラの映像を確認する。

 

 夜間、閉館してから現在に至るまで、絵の前に近づいた人間は一人もいなかった。

 

 午後八時三十四分。カメラの映像には、まだ女性が描かれた状態の絵が映っている。

 

 午後八時三十五分。映像に、ほんの数フレームだけ、微かなノイズが走った。

 

 ノイズが晴れた後の映像。

 

 そこに、女性はいなかった。誰も額縁に触れてすらいないのに、絵の中の人物だけがフッと消失していた。

 

「鷺沢さん」

 

 モニターを睨んでいた岩瀬が、別のカメラの映像を指差した。

 

「何です?」

 

「……あれ」

 

 それは、同じ常設展示室の反対側の壁を映しているカメラだった。

 

 そこに掛けられているのは、《河畔の夕景》という風景画だ。川があり、石造りの橋がかかり、木々が並び、遠くに小さな人影がいくつか描かれている。

 

 そして。

 

 その橋の中央に、明らかに場違いな、青いドレスの女性がポツンと立っていた。

 

「……ッ!」

 

 鷺沢は慌てて作品写真のデータを確認した。当然、元の風景画にそんな青いドレスの人物は描かれていない。

 

 しかも、元の肖像画では極めて写実的で滑らかなタッチで描かれていた女性が、今は《河畔の夕景》の少し粗い印象派のような筆致に合わせて、見事に画風を変化させて描かれているのだ。

 

 しかし、青い服の色合い。特徴的な髪型。立ち姿。

 

 間違いなく、あの《青衣の婦人》と同じ女だった。

 

 二人が、モニター越しにその女を確認していると。

 

 風景画の中の女性が、ゆっくりと首を動かして周囲を見回した。

 

「……今」

 

「動きましたね」

 

 絵の中の女性は、そのまま橋の上を歩き出した。

 

 キャンバスの右端へと向かい、そのまま額縁の外へと、まるで隣の部屋へ行くように消えていく。

 

 数秒後。

 

 隣に展示されていた、別の人物画。華やかな宴会場を描いた作品。

 

 その描かれた人々の間に、一人だけ、青いドレスの女が紛れ込んでいた。

 

「……移った」

 

 鷺沢は、顔面を蒼白にしながら呟いた。

 

       *

 

 鷺沢の判断は早かった。

 

 ただちに全作品の保全を優先し、岩瀬と共に美術館側で当該フロアの完全立ち入り禁止を決定した。一階や別棟で作業していた夜間職員も全員退避させ、誰も勝手に二階へ近づかせないようにした。文化財を扱う実務家として、極めて正しい初動だった。

 

 その後、美術館側はまず施設責任者へと緊急連絡を入れた。

 

 同時に、『文化財・収蔵品に関する不可解な変質事案』として、国や関連機関への既存の緊急連絡経路から照会をかけた。さらに、不法侵入を疑って現場確認へ来た警察も、「展示物の中の人間が、自らの意思で別の絵へと移動している」という異常な防犯映像を確認した。

 

 当然、一般の警察で通常案件として処理できる範疇を超えている。

 

 情報は速やかに、八咫烏へと上げられた。

 

       *

 

 午後十時半過ぎ。

 

 御影坂高校、夜間警備班の詰所。

 

 いつもの巡回準備を進めていた久我たちの元へ、皇かれんから緊急の応援要請が下った。

 

「美術館で、展示物が逃走しています」

 

 かれんの第一声に、久我は目を丸くした。

 

「展示物が?」

 

「ルパンみたいな怪盗に盗まれたんですか?」

 

 七瀬澪がワクワクしたように身を乗り出す。

 

「いいえ」

 

 かれんは一拍置き、淡々と告げた。

 

「絵の中の女性が、自分の意思で別の絵の中へと逃げています」

 

「……そっちの逃走ですか」

 

 久我は、深い溜め息をついた。

 

 モニターに、送られてきた映像が映し出される。

 

 空席になった元の《青衣の婦人》。そして、現在の別の室内画の中に紛れ込んでいる、青いドレスの女性の姿。

 

「本当に、絵の中にいる……」

 

 澪がモニターに顔を近づける。

 

「ですが、絵から完全に物理的な実体として外へ出ているわけではありませんね」

 

 鏡宮千鶴が、冷静に映像を分析する。

 

「今のところは、です」

 

 杖原つかさが釘を刺した。

 

「その『今のところ』ってつくのが、俺は一番嫌なんですよね」

 

 出動メンバーが選定される。

 

 久我、澪、千鶴、杖原の四名。

 

 かれんは、今回は現場ではなく、美術館の警備室で全体指揮を執ることになった。

 

 今回は、美術館という建物そのものが、巨大な一つの『盤面』になる。全フロアの館内カメラ、数百枚の展示配置図、閉鎖できる防火扉、照明のコントロール。それらすべてを俯瞰して管理する役目が、絶対に必要だったからだ。

 

       *

 

 午後十一時過ぎ。

 

 《青藍美術館》へ到着した八咫烏の偽装車両。

 

 一般客の姿は当然なく、正面玄関はすでに厳重に閉鎖されている。

 

 裏口の職員用通路から入ると、学芸員の鷺沢が青ざめた顔で待っていた。

 

「八咫烏の方ですね」

 

 鷺沢は、挨拶もそこそこに久我へと鋭い視線を向けた。

 

「はい」

 

「一つだけ、絶対に守ってください」

 

「何でしょう」

 

「怪異を捕まえるためであっても、作品には絶対に直接触れないでください」

 

「分かりました」

 

「額縁にもです」

 

「はい」

 

「展示ケースのアクリルにもです」

 

「はい」

 

「……本当に、約束できますね?」

 

「俺、初対面なのにそんなに信用ないですか?」

 

 久我が苦笑いする。

 

「すごい圧ですね……」

 

 背後で澪が小声で呟いた。

 

「まあ、命より高価な絵とか、こういう場所には普通にありそうだからね」

 

 久我が小声で返すと、鷺沢の耳にしっかりと届いていた。

 

「あります」

 

「……あるんだ」

 

       *

 

 現在位置の確認。

 

 女性は現在、三つ目の作品に移動していた。十九世紀のヨーロッパの室内を描いた油彩画だ。

 

 燃える暖炉。豪華な椅子。そして、大きな窓。

 

 その窓辺に、青いドレスの女が、まるで最初からそこに描かれていたかのように静かに立っていた。

 

 久我が、右目に《魔眼》を展開する。

 

 人間の生体反応や体温は、当然ながら存在しない。

 

 しかし、絵の中のその人物だけが、作品全体のキャンバスとは明らかに異なる、異質な『霊的な輪郭』を持っていた。

 

 さらに。

 

「……繋がってますね」

 

 久我が呟く。

 

 女性の身体から、極細の糸のような霊的な繋がりが、後方へ向かって伸びている。それは、展示室の奥にある元の《青衣の婦人》の額縁の方角へと、真っ直ぐに繋がっていた。

 

「完全に独立して実体化した怪異じゃないと思います。元の絵と、細い命綱みたいなもので繋がってます」

 

『根元は、《青衣の婦人》のキャンバスにあるということですか?』

 

 インカムから、かれんの声。

 

「多分、ですけど」

 

 久我は断定は避けた。

 

       *

 

 千鶴は、絵を直接見ることはしなかった。

 

 背中を向け、反対側に設置されている展示ケースのガラス面を見る。

 

 《神鏡返し》の視覚。反射の中に、青い女性が映っている。

 

 女性は、窓辺に立ったまま全く動かない。

 

「……こちらを見ません」

 

 千鶴が報告する。

 

「反射越しなら、見られていることに気づいていない?」

 

 久我が推測する。

 

「ちょっと、俺が直接見てみます」

 

 久我が、絵の正面へと回り込み、真っ直ぐに視線を向けた。

 

 数秒。

 

 絵の中の女性が、ふと顔を上げた。

 

 久我と、バッチリ目が合う。

 

 女性の表情が、微かに歪んだ。少しだけ、居心地が悪そうな、嫌そうな顔だ。

 

 そして。

 

 彼女は窓辺から歩き出し、キャンバスの右端へと向かって、そのまま絵の外へと姿を消した。

 

「逃げた」

 

 久我が言う。

 

 千鶴が、即座にガラスの反射を追う。

 

「隣の絵ではありません!」

 

 さらに視線を滑らせる。

 

「展示室の入口の向こう……開いた扉の先にある、別室の絵です。そこに出ました」

 

       *

 

 最初のルールが、一つ確定した。

 

『直接観察されたことが、移動のトリガーになった可能性があります』

 

 警備室のかれんが、映像と配置図を照らし合わせながら分析する。

 

「見たら、逃げる?」

 

「なんか、警戒心の強い野生動物みたいですね」

 

 澪の感想に、鷺沢がキッと睨みつけた。

 

「……美術品です」

 

「すみません」

 

 澪がシュンとなる。

 

 問題は、その移動距離と条件だ。

 

 すぐ隣の絵に移るだけではない。だが、物理的な壁を透過して、全く見えない裏側の部屋の絵へ飛んでいるわけでもない。

 

 かれんが、館内図にこれまでの移動ルートの線を引いた。

 

 三回の移動。それはすべて、ほぼ直線で結ばれていた。

 

「……絵同士が、見えているんです」

 

 久我が、ハッと気づいて言った。

 

 今いた室内画から、次の別室の作品の額縁が、開け放たれた扉越しに僅かに見えている。

 

 つまり。

 

「壁抜けのテレポートじゃない。絵の中から物理的に『見えている』別の絵へと、渡っている?」

 

       *

 

 確認のための実験が行われた。

 

 もちろん、乱暴な真似はしない。鷺沢の了承を得た上で、次に女性が移りそうな二枚の絵の前へ、作品に直接触れないようにして、美術館の備品である黒い遮蔽用スクリーンを立てた。

 

 もう一方の絵へ続くルートは、あえて開けておく。

 

 久我が、再び女性を正面から直接見る。

 

 女性が、こちらを見て、また嫌そうな顔をして逃げ出す。

 

 彼女は、黒いスクリーンで遮蔽され、物理的に『見えなくなった』絵の方へは行かなかった。

 

 唯一、視界が開けている側の作品へと移った。

 

「……ビンゴですね」

 

 久我が呟く。

 

 これで、移動のルールがほぼ確定した。

 

『現在いる画像から、物理的に見通せる位置にある画像へだけ移動できる』

 

『画像を完全に不透明な物で覆えば、移動先として使えなくなる』

 

『人間が直接じっと観察すると、居心地が悪くなって別の画像へ逃げる』

 

「じゃあ、簡単じゃないですか」

 

 久我は鷺沢を見た。

 

「このフロアの絵を全部黒い布か何かで隠して、元の《青衣の婦人》への道だけを開けておけば、勝手に戻るでしょう?」

 

「展示室の中だけなら、理論上は可能です」

 

 鷺沢は、険しい顔のまま言った。

 

「しかし、問題があります。この美術館には、数百枚の絵画が展示されています。しかも、館内には油彩画の作品以外にも、額装された展示解説のパネルや、特別展のポスターなどが無数に存在しているんです」

 

       *

 

 鷺沢の懸念が、最悪の形で的中した。

 

 女性が、次の油彩画へ行くと思われた瞬間。

 

 フッと、彼女の姿が完全に消え去ったのだ。

 

『カメラの映像からロストしました』

 

 かれんが、警備室から報告する。

 

 千鶴が、全方位の反射面を凝視して追跡する。

 

「……います」

 

「どこに?」

 

「あそこです。展示室の入口」

 

 千鶴が指差した先。

 

 そこにあったのは、油彩の美術作品ではない。

 

 今月末から始まる企画展を告知する、大型の『ポスター』だった。ただの印刷物だ。

 

 そのポスターに印刷された風景と人物たちの間に混ざって、青いドレスの女性が、何食わぬ顔で立っていたのだ。

 

 全員が、完全に固まった。

 

「……鷺沢さん。あれ、印刷物のポスターですよね」

 

「ええ。ただのインクの塊です」

 

「油絵じゃなくても、移れるんですか?」

 

「『絵の具』という材質ではなく、『一枚の静止画像として切り取られたもの』という人間の認識そのものが、移動の条件になっているようですね」

 

 杖原が分析する。

 

「少なくとも、ただの鏡や窓ガラスには入りませんでしたから」

 

 千鶴が補足する。

 

 この事実により、事態の危険度が跳ね上がった。

 

『館内図を確認しました』

 

 かれんの緊迫した声が響く。

 

『一階のミュージアムショップには、額装ポスター、展示作品の複製画、ポストカードの見本、写真パネルなどが大量に陳列されています。さらに……玄関ロビーの外向きの巨大ガラスの近くには、等身大の展覧会ポスターが掲示されています』

 

「あのロビーのポスターまで、もしあいつが辿り着いたら?」

 

 久我の問いに、鷺沢の顔色が一気に土気色に変わった。

 

「ロビーのガラス越しには……道路の向こう側にある、大きな広告看板や、別の映画のポスターなどが、はっきりと見えてしまいます」

 

 もし、同じ条件でそれらの画像へと渡れるのだとすれば。

 

 彼女は、この美術館という閉鎖空間を抜け出し、東京中のあらゆるポスターや看板を伝って、無限に逃亡し続けることになる。

 

       *

 

『正面ロビーの防火シャッターを、即時閉鎖します』

 

 かれんの指示で、美術館の職員が遠隔操作を行う。

 

 ガァァァン!

 

 重い音を立てて、玄関の巨大ガラスを内側から完全に遮断するシャッターが下りた。外部の広告との視線が、物理的に切断される。

 

 念のため、杖原が一階へ急行し、ロビーの周囲に認識阻害の結界を何重にも展開した。

 

「七瀬さん」

 

「はい!」

 

「美術館側が用意した、作品に直接触れない黒い遮蔽パネルがあります。これを、指示した展示室の通路へ、大至急配置してください」

 

 かれんが、澪に重要な役割を与えた。

 

『ただし』

 

 鷺沢が、インカムに割り込んで叫ぶ。

 

『絶対に、走り回って風圧で作品を倒したりしないでください!』

 

 澪が、ビクッとして急停止した。

 

「は、はい!」

 

「高速要員なのに、走れないんだ……」

 

 久我が同情する。

 

「人を怪異から救う時より、何倍も緊張します!」

 

 澪は、抜き足差し足で、しかし限界ギリギリの小走りで、重いパネルを次々と運んでいった。

 

       *

 

 作戦の目的は明確になった。

 

 彼女を、根元である《青衣の婦人》のキャンバスへと戻すこと。

 

 必要なのは、現在位置から原画までのルート上にある『余計な画像』をすべて遮蔽し、一つずつ移動先を限定して、逆方向へと追い込んでいくことだ。

 

 要するに、この広大な美術館全体を使って、彼女のための『一本道』を作ってやるのだ。

 

 警備室のかれんが、展示図と全作品の位置、そしてカメラ映像を完全に掌握する。

 

『移動可能な画像を、順番に一枚ずつ残していきます。それ以外は、すべて視線を切ります』

 

「絵を使って、誘導路を作るんですね?」

 

『はい』

 

 役割分担。

 

 千鶴は、反射越しに女性の現在位置を監視し続ける。決して直接は見ない。

 

 久我は、必要なタイミングでだけ女性を正面から直接見て、彼女を居心地悪くさせ、次の絵へと『追い出す』役。

 

 澪は、次の区画の遮蔽パネルの運搬と設置。

 

 杖原は、戻ってはいけない方向への結界の補強。

 

 かれんは、全ルートの指揮とタイミングの統制。

 

 そして鷺沢は、作品保護の観点から、どこを塞いでもよくて、どこが駄目かを即座に判断するアドバイザー。

 

       *

 

 第一段階。

 

 女性は現在、企画展のポスターの中にいる。

 

 目標は、隣室の風景画。それ以外のルートは、すべて澪と杖原によって遮蔽済みだ。

 

「準備完了です」

 

 千鶴が報告する。

 

「今、ポスターの左端に立っています」

 

「見ます」

 

 久我が、ポスターの真正面へ立ち、女性をジッと凝視した。

 

 女性は、久我の方を見て、やはり少し嫌そうな顔をした。

 

 そして、ポスターの中を歩き出し、枠の外へと消えた。

 

「成功です」

 

 千鶴が反射を見る。

 

「隣室の風景画に現れました」

 

 久我たちも隣室へ移動し、その絵を確認する。

 

 確かに、風景画の中に青いドレスの女がいた。

 

 ただし。

 

 画面のずっと奥、遠景の丘の上に、米粒のように小さく描かれているのだ。

 

「ちっちゃくなった!」

 

 澪が驚く。

 

「ちゃんと、絵の中の遠近法まで守るんですね……」

 

 久我が、妙な生真面目さに少しだけ笑った。

 

 二枚目。

 

 次は、中世の貴族を描いた肖像画。

 

 久我が睨んで追い出す。

 

 女性が移る。

 

 今度は、元々描かれていた恰幅の良い男性貴族の、すぐ真横に現れた。

 

 すると、元々いた男性の人物像が、まるで満員電車で迷惑な客に乗ってこられたように、僅かに横へと『押し込まれて』歪んでいた。

 

「構図が変わってる……!」

 

 鷺沢の顔が、恐怖と絶望で引きつる。

 

「絵の中に入ると、元からある人物を物理的に押し退けるんですね」

 

 久我が冷静に分析する。

 

「分析してないで、早く次の絵へ戻してください!!」

 

 鷺沢の悲鳴に近い叫び。

 

 久我が再び睨む。

 

 女性が次の絵へと出ていく。

 

 すると、押し込まれて歪んでいた男性貴族の絵が、ゆっくりと元の位置、元の構図へと戻っていった。

 

「……戻った」

 

 鷺沢がへたり込む。

 

 作品への変化は、現時点では可逆的なものらしい。

 

       *

 

 だが、女性側もただ無思考に逃げているわけではなかった。

 

 三枚目。

 

 久我が絵を正面から見る。

 

 しかし。

 

 女性は、逃げなかった。

 

「……?」

 

 絵の中で、女性が久我の目をじっと見返してくる。

 

 その後、彼女はクルリと後ろを向き、久我に背を向けた。

 

「こいつ、俺が意図的に追い込んでるの、分かってません?」

 

「恐らく、気づき始めたのでしょう」

 

 千鶴が言う。

 

 女性が、突然、正規のルートとは逆の方向へ向かって絵の奥へと歩き出した。

 

 そして、遥か遠くに小さく見えていた、別の方向にある『展示解説パネルの小さな写真』へと飛び移ったのだ。

 

『ルートを外れました!』

 

 かれんの警告が響く。

 

 人間側が相手の意図を読むように、女性もまた、自分を封鎖している方向を避け始めたのだ。完全な自動現象ではない。彼女には、最低限の判断能力と意志がある。

 

       *

 

 移動先は、展示解説パネル。

 

 そこから、開いたままになっていた職員用扉越しに、廊下の向こうが見えている。

 

 さらにその向こう。保存修復室の前の壁に掛けてある、作業記録用の額装写真。

 

「そっちは駄目です!」

 

 鷺沢が叫んだ。

 

「何があるんですか!?」

 

「保存修復室には、未展示の修復待ちの作品が大量にあります!」

 

 今夜、修復室の中には複数の額装作品が立てかけられているはずだ。もしそこへ入られれば、ルートが一気に複雑化し、取り逃がす危険性が跳ね上がる。

 

「七瀬さん!」

 

「はい!」

 

 澪が走った。

 

 展示室の中ではない。職員用のバックヤードの通路なら、風圧で倒れるような展示物はない。

 

 ここで初めて、澪は吸血鬼の圧倒的な速度を全開にした。

 

 一陣の風となって保存修復室の前へと先回りし、開いていた扉をバンッ! と力強く閉鎖した。

 

 女性が、パネルの端まで来て、こちらを見た。

 

 次の写真へ移ろうとする。

 

 しかし。次の写真は、閉じた扉の向こうへと消え、視線が物理的に遮断されていた。

 

 移れない。

 

 女性の顔が、この夜初めて、明確に歪んだ。

 

       *

 

 久我が追いつき、写真の正面に立った。

 

 写真の中の女性と、久我の目が合う。

 

 彼女の表情は、怒っているようにも見え、悲しんでいるようにも見えた。

 

「……元の場所に、帰りたくないんですかね」

 

 久我が呟く。

 

「だからといって、他の作品へ好き勝手に住み着かれても困ります」

 

 鷺沢が、学芸員としての正論をぶつける。

 

 久我は、写真の前にしゃがみ込んだ。

 

「聞こえますか?」

 

 女性は、反応しない。

 

「元の絵に戻ってください」

 

 女性は久我をじっと見た。そして、ゆっくりと、首を横へと振った。

 

 全員が、一瞬沈黙した。

 

「通じてますね?」

 

 澪が小声で言う。

 

「少なくとも、こちらの言葉の意味は理解しているように見えます」

 

 千鶴が頷く。

 

 でも、彼女は決して声は出さない。理由も説明しない。

 

「……何で、出てきたんです?」

 

 久我の問いにも、女性は答えない。

 

 ただ、写真の中で、彼女の視線が少しだけ上へと向いた。

 

 その先にあるのは、窓ではない。

 

 壁に掛けられた、館外の東京の街並みを広く写した、古い風景写真だった。

 

「……外へ、行きたいんですか?」

 

 女性が、僅かにコクリと頷いた。

 

 ここで、彼女の動機が、完全には分からないまでもある程度見えてきた。

 

 何十年も、いや百年以上かもしれない。ずっと同じ肖像画の暗い背景の中に座り続けてきた。

 

 外の世界。別の景色。それを見てみたかった。だから、移動している可能性がある。

 

「気持ちは分からなくもないですけど」

 

 久我は、少し困ったように頭を掻いた。

 

「そのまま、あなたを外の看板やポスターへ出すわけにはいかないんですよ。俺だって、自由にしろって言ってやりたいところですけどね」

 

 正体不明。能力不明。外へ出た後、人間にどういう影響を与えるかも不明。

 

 そんな怪異を、一般社会へ無責任に放つという選択肢は、八咫烏の実働員としてあり得なかった。

 

       *

 

「……元の絵に戻ってもらえれば」

 

 鷺沢が、少し考えてから口を開いた。

 

 全員が彼女を見る。

 

「元の《青衣の婦人》の展示位置を、変更することはできます」

 

「え?」

 

 久我が驚く。

 

 《青衣の婦人》は、長年、一番奥の壁際に展示されてきた。正面にあるのは別の肖像画だけで、彼女が見られる景色は、何年経ってもほとんど変わらなかったのだ。

 

「もちろん、窓の近くなど、直射日光が当たる位置へ作品を置くことは、保存上の理由から絶対にできません」

 

 鷺沢は釘を刺す。

 

「ですが、展示室の奥ではなく、今より多くの別の作品や、広い空間が見渡せる場所へ移すことなら、今後の展示計画として検討できます」

 

「絵の中から外が見えるように?」

 

「この異常現象が、元の絵に戻れば収まるという条件付きですが」

 

 久我は、写真の中の女性に向き直った。

 

 そして、鷺沢の提案の内容を、ゆっくりと伝えた。

 

 女性は、じっと聞いていた。表情に大きな変化はない。

 

 数秒後。

 

 彼女は、小さく首を傾げた。

 

 完全な了承のサインではない。だが、拒絶でもなかった。

 

「とりあえず、今日は一回戻りませんか」

 

 久我は、静かに語りかけた。

 

「その後のことは、ちゃんと調べますから」

 

 嘘はつかない。外へ出すとは約束しない。自由にするとも言わない。ただ、調べる。

 

 女性は、しばらく久我を、鷺沢を、そして千鶴を見た。

 

 そして。

 

 クルリと背を向け、歩き始めた。

 

 ただし、自発的に全速力で元へ戻っていくわけではない。

 

「戻る気は、あるようです」

 

 千鶴が反射を見る。

 

「次の移動先を探しています」

 

「じゃあ、帰り道を作ればいいんですね?」

 

『作りましょう』

 

 かれんの声が響いた。

 

       *

 

 第二作戦。

 

 今度は、無理に追い立てない。彼女が納得して帰れるように、帰り道を用意する。

 

 現在位置から、《青衣の婦人》まで。必要な絵だけを露出させ、それ以外は遮蔽していく。

 

 かれんが順番を指定する。

 

 一、額装写真。二、風景画。三、室内画。四、肖像画。五、《青衣の婦人》。

 

 綺麗な一本道だ。

 

 千鶴が反射越しに監視を続ける。直接は見ない。

 

「一枚目へ移りました」

 

 数十秒後。

 

「二枚目」

 

 女性は、誰にも追われていない。自分のペースで、少しずつ、少しずつ、元の場所へと歩を進めていく。

 

 途中。

 

 三枚目で、彼女の動きが止まった。

 

 その絵は、広い草原を描いた風景画だった。遠くに山が見える。

 

 女性は、その草原のど真ん中に小さく立ち、全く動かなくなった。

 

「……帰りたくなくなったんですかね?」

 

 澪が不安そうに言う。

 

「最後に、ゆっくり景色を見てるのかもしれませんね」

 

 久我たちは、急かさずに待った。鷺沢も、何も言わずに見守っていた。

 

 しばらく草原を見た後。

 

 女性は再び歩き出し、画面の端へと消えた。四枚目。

 

 そして、最後。

 

 《青衣の婦人》。元の肖像画。

 

 空の椅子。灰色の背景。

 

 久我の《魔眼》に見える細い繋がりが、最も強く光っている。

 

 隣の肖像画から、女性の姿が消える。

 

 《青衣の婦人》。

 

 最初は、空の椅子のままだった。

 

 数秒後。

 

 椅子の横に、青いドレスの裾が現れた。

 

 女性が、画面の端からゆっくりと歩いてくる。

 

 彼女は、赤茶色の椅子へ、静かに腰を下ろした。

 

 手は膝の上。顔は少しだけ左を向く。

 

 元の構図。ほぼ完全に、昨日までの絵に戻った。

 

「戻った……」

 

 鷺沢が、全身の力が抜けたように息を吐き出した。

 

 しかし、まだ終わりではない。

 

「直接見ないでください。また逃げる可能性があります」

 

 久我が警告する。

 

 美術館のスタッフが、保存用の遮光カバーを慎重に持ち出し、作品の表面に直接擦れない形で、額縁全体をすっぽりと覆い隠した。

 

 杖原が、その周囲に簡易結界を展開する。

 

 これで、この絵と他の画像との視覚的な接続は、完全に切断された。

 

       *

 

 事後確認。

 

 館内にある他のすべての作品が、元の構図へと戻っているか。失われた人物はいないか。大きな恒久的な損傷はないか。

 

 鷺沢が、一枚ずつ、鬼のような猛烈な勢いで確認して回る。

 

「俺たちより、ずっと忙しそうですね」

 

 久我が感心する。

 

「ある意味、今夜一番大変だった人ですからね」

 

 澪が頷いた。

 

 原画の調査については、翌日以降、八咫烏と美術館側で共同で行うことになった。

 

 ただし、今回の時点では、発生原因は完全に不明だ。

 

 《青衣の婦人》のモデルになった女性の実在の幽霊とも断定できない。作品自体が長年の月日を経て怪異化したのかもしれないし、長期間にわたる無数の鑑賞者の『認識』が蓄積し、動き出した可能性もある。

 

 何も確定はしなかった。

 

「念のため聞きますけど、あの有料サイトとは関係ないですよね?」

 

 久我が確認する。

 

「現在のところ、関連を示す情報は一切ありません」

 

 かれんが即答した。何でもかんでも一つの大きな陰謀に繋げるわけではない。少なくとも現時点では、有料サイトとは無関係の独立案件として扱われることになった。

 

 《青衣の婦人》の展示再開は、当然ながら保留となった。当面の間は、結界付きで厳重に収蔵庫で保管される。

 

「展示位置を変えるって話は、どうなるんですか?」

 

「まず、安全性を完全に確認してからです」

 

 鷺沢が厳しく言う。

 

「ですよね」

 

「ただ」

 

 鷺沢は、少しだけ間を置いて言った。

 

「もし再展示できると判断されたなら。以前とは違う、もっと視界の開けた場所を検討します」

 

 久我は、少し笑った。

 

「本人に、伝えておきます?」

 

「今はカバーを絶対に外さないでください」

 

「はい」

 

       *

 

 帰り道。夜明け前。

 

 美術館を出た四人は、朝の冷たい空気を吸い込んだ。

 

「今日は、一回も怪異を殴りませんでしたね」

 

 久我が背伸びをする。

 

「平和でしたねー」

 

 澪が同意する。

 

「何枚もの美術品が書き換わるという、大惨事スレスレでしたが」

 

 杖原が冷静に突っ込む。

 

「……私たちの、平和の基準がどんどんおかしくなってますね」

 

 千鶴が、少し考えてから言った。

 

「でも」

 

「はい?」

 

「あの女性の気持ち、少しだけ分かる気もします」

 

「何がですか?」

 

 千鶴は、背後の美術館を見上げた。

 

「ずっと同じ場所に縛られていて、外に別の広い世界があると知ってしまったら。……一度くらい、自分の足で出てみたくなるかもしれません」

 

 それは、一瞬、京都という檻に縛られようとしている彼女自身の境遇を連想させた。

 

 しかし、久我はそれを深掘りして同情するような真似はしなかった。

 

 ただ、普通に答えた。

 

「ちゃんと、自分の居場所に戻ってこれるなら、ですけどね」

 

 千鶴は、少しだけ柔らかく笑った。

 

「そうですね」

 

 その程度の、軽い会話で終わらせた。

 

       *

 

 数日後。

 

 後日談。

 

 青藍美術館の地下収蔵庫。

 

 鷺沢は、八咫烏の職員同席のもと、《青衣の婦人》の結界を確認し、保存記録用の写真を撮影するために、カバーをほんの数秒だけ外した。

 

 絵の中。

 

 女性は、ちゃんとそこにいた。

 

 椅子。灰色の背景。構図。すべてが元通りだ。

 

 鷺沢は、過去の高解像度画像と現在の絵を比較し、「異常なし」と判断しようとした。

 

 ……しかし。

 

 一点だけ、明らかに違う場所があった。

 

 鷺沢は、画面を限界まで拡大した。

 

 昔の絵。女性の左手は、膝の上で何も持っていなかった。

 

 現在の絵。

 

 その左手の指先に、小さな、可憐な『白い花』が一輪だけ、そっと握られていたのだ。

 

 その花は。

 

 あの夜、女性が途中で長く立ち止まり、じっと見つめていた『草原の風景画』。

 

 そこに描かれていた、小さな白い野花だった。

 

 鷺沢は無言になった。

 

「……元から、描かれていたものですか?」

 

 隣の八咫烏職員が尋ねる。

 

「ありませんでした」

 

 鷺沢は即答した。

 

 すぐに、あの草原の風景画を確認させた。

 

 そこには、白い花はちゃんと元の位置に残っていた。盗んできたわけではない。

 

 複製したのか? それとも、あの風景を記憶として持ち帰って、具現化したのか?

 

 誰にも分からない。

 

       *

 

 報告を受けた久我は、送られてきた新しい絵の写真を見た。

 

 青いドレスの女。膝の上には、一輪の白い花。

 

 久我はしばらくそれを見て、クスリと笑った。

 

「……まあ」

 

「ちゃんと自分の家に帰ったご褒美なら、花の一輪くらい、お土産に持たせてやってもいいんじゃないですかね」

 

『美術館側としては、作品の変質は全くよくありません』

 

 インカムから、かれんの真面目な声が響く。

 

「ですよね」

 

 鷺沢から添付された報告書の末尾には、太字でこう書かれていた。

 

 《展示再開:未定》

 

「そりゃ、そうなるか」

 

 久我は、呆れたように笑いながら、スマホの画面を閉じた。




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