35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
午後十時十一分。
東京都内。住宅街と商業区域の境界に位置する、比較的大きな四差路、《榎坂四丁目交差点》。
片側二車線で交通量はそれなりにあるが、新宿や渋谷のようなどこまでも続く喧騒はない。四隅にはそれぞれ街灯があり、コンビニ、ドラッグストア、小規模なオフィスビル、そしてコインパーキングが配置されている、ごくありふれた都市の交差点だ。
交差点の北東角で、一人の会社員男性が、帰宅途中に歩行者用信号の前で足を止めた。
四十一歳。少し疲れた足取りだったが、目の前の信号が『赤』であることは正しく認識していた。車道を、数台の車が普通に通り過ぎていく。
防犯カメラの映像には、その男性本人は間違いなく歩道上で静止している姿が映っていた。
しかし。
街灯に照らされ、アスファルトの上へ長く伸びていた彼の『影』だけが、音もなく動き出した。
まるで、足裏という接着点から静かに剥がれ落ちるように。
男性本人は手元のスマートフォンに目を落としており、自分の影が足元から離れていったことなど全く気づいていない。
影は、赤信号の車道へとスッと滑り出た。
ただ真っ直ぐに渡っているのではない。現在の横断歩道の白線からは約二メートルほど横へずれた、何もない車道の上を、見えない白線でも踏みしめるように歩き始めた。
その時、交差点を直進してきた一台のタクシーがあった。
タクシー側は当然、青信号だ。横断歩道上にも、その周囲の車道にも、人間の姿はどこにもない。運転手は減速することなく、普通に交差点へと進入した。
タクシーの車体が、道路上を歩いていた『影』の胴体部分を横切った。
その瞬間。
ドンッ!!
歩道上でスマホを見ていた男性の身体が、誰にも触られていないのに、突然真横へと猛烈な力で吹き飛ばされた。
「うわっ!?」
男性はそのまま数メートル宙を舞い、金属製のガードレールへと激しく背中を叩きつけられた。手から離れたスマホが、アスファルトを跳ねて画面を割る。
周囲を歩いていた数人の歩行者たちが、何事かと騒然となった。
急停車したタクシーの運転手は、血の気を引かせて車から飛び出してきた。
「え!? 俺、今、人に当てたか!?」
しかし、どう見てもおかしいのだ。
タクシーの車体と、吹き飛んで倒れている男性との間には、少なくとも三メートル以上の距離がある。接触の痕跡など、どこにもなかった。
男性はすぐに救急搬送された。肋骨にひびが入り、肩を強く打撲していたが、幸いにも命に別状はなかった。
彼は救急車の中で、混乱しながらこう証言した。
「間違いなく、何かにものすごい力で撥ねられたんです。でも、見えなかった……何も当たっていません」
*
それからわずか二十二分後。
全く同じ交差点の北東角。先ほどとは別方向へ伸びる横断歩道の前で、三十代の女性が赤信号を待って立っていた。
この位置も、同じ古い街灯の光が斜めから届き、足元に長い影を作っていた。
今度は、彼女の影が先に車道へと歩き出した。そして、青信号で左折してきた普通乗用車の前輪が、その影の『足』の部分を無残に通過した。
「痛ァッ!!」
歩道で安全に待機していたはずの女性が、突然右足首を押さえて悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
実際に、彼女の右足首は無惨に骨折していた。しかし、車との物理的な接触は一切ない。
この短時間に起きた二件の不可解な負傷事故。
ここでようやく、所轄の警察も、これが単発の奇妙な事故などではなく、『同一地点で連続して発生している明確な異常現象』として扱い始めた。
*
所轄警察署の交通課、大森慎吾巡査部長。
四十三歳。能力者ではないが、長年、凄惨な交通事故の現場や、何百件というドライブレコーダーの映像を見続けてきたベテランだ。
彼は、事故処理車のモニターで、一件目と二件目の防犯カメラ映像を何度も繰り返し再生していた。
普通の警察官なら、人間を見る。車を見る。信号の色を見る。
だが、大森は違った。映像を見続けているうちに、強烈な違和感が拭えなくなってきた。何かが、根本的におかしいのだ。
彼は映像を停止し、ゆっくりと巻き戻し、ある一点を拡大した。
「……影?」
一件目の男性。歩道に本人がいるのに、影だけが車道にある。
二件目の女性。全く同じだ。本人は赤信号を律儀に守っているのに、影だけが勝手に横断している。
「何だこれ……」
大森は、若手警察官へ交差点への車両流入を一時的に止めるよう指示したうえで、自ら現場を確認した。
本格的な完全封鎖へ移行する前の、短時間の安全確認だった。
彼は、二件の事故が起きた交差点の北東角、一本の街灯の前に立った。
背後からの街灯の光で、大森自身の影が、横断歩道側へと長く伸びている。
歩行者信号は、赤。
大森は、ふと試してみようと思った。
自分自身は絶対に動かない。ただ、頭の中だけで『青になったら横断するつもりで』信号をじっと見つめた。
その時。
大森の足元の影が、スッと一歩、前へと踏み出した。
大森本人は、一ミリも動いていない。でも、影だけが歩道の縁石を越え、車道へと出たのだ。
「ヒッ……!」
大森は、恐怖で即座に数歩後ろへと飛び下がった。
ビュッ。
すると影は、ゴム紐が縮むように、一瞬で本人の足元へと戻ってきた。
大森は肩の無線機をひっつかみ、怒鳴るように叫んだ。
「この交差点、四方向すべて直ちに止めろ! 全車線封鎖だ!」
「大森さん、事故ですか!?」
若手が慌てて聞く。
「理由は後だ! 早くしろ!」
パトカーがサイレンを鳴らし、バリケードを展開する。
『信号設備異常の可能性による緊急交通規制』。
この時点で、一般車両は交差点から完全に排除された。
*
大森は、所定の超常事案連絡ルートを通じて、八咫烏へと緊急通報を入れた。
添付された動画と共に送られた報告文は、『人間の影だけが赤信号を無視して渡る』という、文章にすれば意味不明なものだった。
しかし、動かぬ映像証拠があったことで、八咫烏内での優先度は跳ね上がった。
御影坂高校、夜間警備班の詰所。
いつもの巡回へ出る直前の久我たちの元へ、皇かれんから報告が上がった。
「緊急案件です」
「今度は何です?」
久我が少しうんざりした顔で尋ねる。
モニターに、大森が送ってきた映像が再生される。
歩道上の男性。影だけが横断。タクシーが通過。本人が吹き飛ぶ。
全員が、完全に無言になった。
「……人じゃなくて、その人の影を車で轢いたんですか?」
澪が、信じられないというように呟く。
「でも、轢かれた本人は、ずっと歩道の上にいますよね?」
久我も画面を指差す。
「はい。物理的な接触は一切ありません」
かれんが頷く。
出動メンバーは、久我、澪、千鶴、杖原。そして今回は、かれんも現地指揮車で同行することになった。
交差点という開けた環境で、警察の交通課、道路管理会社、信号制御センター、そして八咫烏の実働部隊を一括して調整し、完全にコントロールする役目が必要だからだ。
現場到着の数分前。
かれんが、車内から冷静な判断を下した。
「対象の榎坂四丁目交差点を、四方向すべて完全封鎖します」
表向きの理由は、『信号制御装置の重大なシステム障害に伴う、緊急安全点検』。
一般人から見ても、赤信号の異常であれば、道路を大規模に封鎖することに不自然さはない。
規制の範囲は、問題の交差点だけではない。四方向それぞれの、一つ手前の交差点からすべての一般車両を迂回させる。歩道も完全に規制ロープで囲い、店舗の利用者も裏口などへ誘導して現場から遠ざける。
路線バス、タクシー、配送車。例外なくすべて外へ弾き出した。
警察と道路管理の連携により、東京の道路の一角が、完全に無人の実験場へと切り取られたのだ。
*
現地に到着した久我は、車が完全に一台も消え去った巨大な交差点の中央に立ち、周囲を見渡した。
「……すごいですね」
大森巡査部長が、怪訝そうに久我を見た。
「何がです?」
「東京の道路を、本当にこうやって力業で全部止めちゃうんだなって」
「人が二人も、得体の知れない力で怪我してますからね。止めるしかありませんよ」
大森は、至極真っ当な警察官としての正論を返した。
現場でのブリーフィング。
大森から、最初の二件の状況と、自分自身の影が動いた瞬間の詳細な説明を受けた。
「大森さん自身は、怪我はなかったんですか?」
久我が尋ねる。
「はい。自分の影が足から離れたという違和感に気づいて、すぐに後ろへ飛び退いたので。そうしたら、影も戻ってきました」
ここから先は、一般交通を完全に排除した状態での検証フェーズとなる。
まずは、無人での実験だ。
道路管理側が持ってきた、工事用のマネキンを歩道に立たせる。
街灯の光が当たる。歩行者信号は赤。
影は、普通にマネキンの足元に落ちたまま、微動だにしなかった。
「生き物なら何でも影が動く、というわけではないようですね」
かれんがタブレットに記録する。
「少なくとも、人形では発生しません」
次に、無人の鞄や大きな段ボール箱を置いてみたが、やはり影は動かなかった。
「人間じゃないと駄目なんですかね?」
久我の疑問に、かれんは首を傾げた。
「人間であるという肉体的な条件なのか、それとも『渡ろうとする意思』が必要なのかは、まだ分かりません」
「じゃあ、私たちみたいな吸血鬼の影はどうなるんですか?」
澪が尋ねる。
「そこも、今回の実地で検証するつもりなんですか?」
久我が少し嫌そうな顔をした。
「当然、検証します」
かれんは無慈悲だ。
「テスト役は?」
「久我さんです」
「……ですよね」
*
安全対策は万全を期した。
交差点は完全封鎖されており、車両は一台も侵入してこない。
杖原が、久我のすぐ後方に、身体が車道側へ強引に引かれた場合に備えて、トランポリンのように柔らかい制止結界を展開して待機する。
澪も久我のすぐ真横につき、万一の際には高速で久我を安全圏へ回収する準備を整えた。
久我自身も、念のため両腕と胴体に《血装》を薄く展開しておく。
第一の検証。
事故が起きた北東角。問題の街灯の下。
久我は、横断歩道の方を向いて立った。ただし、頭の中では『絶対に渡る気はない』と固く念じていた。
歩行者信号は赤。
久我の影は、足元にぴったりと張り付いたまま、一ミリも動かなかった。
「次」
インカムからかれんの指示が飛ぶ。
「久我さん。青になったら、向こうへ渡るつもりで待ってみてください」
「意思まで、はっきりと発生条件なんですかね」
「それを確認します」
久我は、頭の中を切り替えた。
目の前の信号が青になったら、あっちの歩道へ渡る。本当にそう決意して、信号を見つめる。
数秒後。
足元の影が、ピクリと動いた。
「……動いた」
久我が呟く。
これで少なくとも、『人間であること』そのものが発生条件ではないと分かった。吸血鬼である久我にも現象が起きた以上、重要なのは、横断しようとする意思の方らしい。
久我本人は、その場にじっと立っている。しかし、影だけが歩道の縁石を越え、横断を開始した。
「陽介さんの影、勝手に行ってますよ!」
澪が驚いて指差す。
「見れば分かります!」
*
そこで、久我は最大の違和感に気づいた。
影は、現在白線が引かれている正規の横断歩道の上を歩いていない。
約二メートルほど横へずれた、ただの車道の上を、真っ直ぐに歩いているのだ。
「なんで、あんな何もないところを歩くんです?」
少し離れた場所で、千鶴が周囲を観察していた。
閉まったドラッグストアのガラス窓。道路脇のカーブミラー。それらの反射面を見る。
そして、眉を深く寄せた。
「……横断歩道が、あります」
「ありますよ?」
久我が足元の白線を指す。
「違います」
千鶴の言葉に、空気が少しだけ変わる。
「反射の中では、現在の横断歩道とは別の場所に、薄い白線が見えています。影が歩いている、まさにそのルートの上です。……昔の、古い横断歩道の位置です」
さらに、千鶴は歩行者用の信号機を見上げた。
「現実の信号は、今は赤です」
千鶴はガラスの反射を見る。
「ですが、反射のガラスの中では、今は『青』になっています」
「久我さん」
千鶴は、確信を持って言った。
「その影は、信号無視などしていません」
「え?」
「影から見れば……今は、青信号なんです」
全員が、千鶴の言葉に息を呑んだ。
影は、現在の交通ルールを破って暴走しているわけではない。
今はもう存在しない、過去の古い交通ルールに、ただ律儀に従い続けているだけなのだ。
*
実験は継続された。
車は来ない。安全は確保されている。
久我は、その場から一歩も動かない。
影との距離が、十メートルほど開いた。
その時、久我の右足が、自分の意思とは無関係に、僅かに前へズリッと引きずられた。
「今、引っ張られました」
『どの程度です?』
かれんが問う。
「誰かに、後ろから服の裾を強く引かれたくらいです。まだ耐えられます」
さらに距離が開く。
影が、反対側の歩道まであと三メートルに迫る。
久我の身体が、明確に前傾姿勢になり、見えない力で車道へと引きずり込まれそうになる。
久我は《血装》を展開した足で、アスファルトを強く踏ん張った。
ズッ。靴底が擦れる嫌な音が鳴る。
「引っ張られてます!」
横にいた澪が、久我の背中の上着をガシッと掴んで支える。
「影の方に、本体の俺が置いていかれてるんですけど!」
影が、ついに反対側の旧横断歩道を完走し、歩道へと到達した。
その瞬間。
ドンッ!
久我の身体が、まるで巨大な磁石に吸い寄せられるように、猛烈な勢いで前方の車道へと向かって引っ張られた。
杖原が張っていた結界が、トランポリンのように久我の背中を受け止める。澪が腕を全力で掴む。
久我は、車道へ一歩出かけたところで、なんとか完全停止した。
「……確定です」
久我が息を切らしながら言う。
「影が先に反対側へ渡り終えると、本人を、強引に影の場所まで引き寄せようとします」
これが、事故の原因だ。本人が赤信号を守っていても、影が渡りきった時点で、物理的に車道へと放り出されてしまうのだ。
「久我さん、一旦『渡らない』と明確に頭の中で決めてください」
かれんの指示に従い、久我は後ろを向き、横断の意思を完全に捨て去った。
すると、反対側の歩道にいた影がピタリと止まり、数秒後、スッ……とゴムのように長く伸びながら、久我の足元へと瞬時に戻ってきた。
「……気持ち悪い」
久我は、自分の足元にある影を見下ろして顔をしかめた。
「ちゃんと戻ってきましたよ」
澪が言うが、久我は首を振る。
「今ちょっと、自分の影が全く信用できませんよ」
*
かれんは、久我の影が動き始めた時刻を、秒単位で正確に記録していた。
二回目の検証。
同じ条件で立つ。しかし、すぐには動かない。
ある特定の時刻になった瞬間。ピクリと動き出す。
「影が動き始める時間。毎回、完全に同じです」
かれんがモニターを見つめる。
「信号の周期と連動しています。ただし、現行の歩行者青信号のタイミングとは、全く合っていません」
かれんは、信号制御センターへと直接通信を繋いだ。
「この交差点の、変更前の信号制御ログを出してください」
『変更前、ですか?』
「二週間前です」
データが送られてきた。
二週間前。この交差点では、大掛かりな安全対策の道路改修工事が行われていた。
車線位置の微細な変更。横断歩道の、約二メートルの横への移設。
そして、右折車との交錯事故を減らすための、歩行者青信号の開始時刻の変更。
かれんは、旧信号の歩行者青の開始時刻と終了時刻を、現在の久我の影の移動時刻と画面上で重ね合わせた。
「……完全一致です」
久我が、唖然として呟いた。
「じゃあ……あの影は。二週間前の信号を見て、それに従って渡ってたってことですか?」
「横断歩道の位置も、以前の古い場所と完全一致しています」
千鶴が反射を見て補足する。
現象の仕組みについて、一つの仮説が立った。
人間の影が、ある日突然狂って暴走したのではない。
この場所で長年繰り返されてきた、膨大な回数の人間の『無意識の行動の記憶』。
赤で止まる。青で渡る。同じ位置で待つ。同じ白線を歩く。
それが、この交差点という場所に、『影の交通ルール』のような形で残っている可能性がある。
*
だが、まだ重要な疑問が残る。
「だったら、どうして交差点の四隅全部じゃなくて、この北東角でだけ起きるんです?」
久我が問う。
大森も頷く。
「二件とも、同じ一角です」
かれんが、道路管理側の設備一覧のデータを呼び出した。
「交差点の四隅にある、四本の街灯。工事の際、三本は最新のLED型へと交換されています。しかし……北東角の一本だけが、地下の配管設備との兼ね合いで、交換が延期されたままになっています」
仮番号、照明柱E-17。
設置から相当な年月が経っており、何度も灯具の交換はされているが、支柱や配線系統の一部はかなり古いまま残っている。
そして。
「影が動いた二件の事故。そして先ほどの久我さんの検証。すべて、この『E-17』の光によって影が伸びる範囲内でのみ、発生しています」
ただし、道路改修から二週間が経った今夜になって、なぜ初めて負傷事故として表面化したのかまでは、この時点では特定できなかった。
過去二週間の映像を遡っても、人が車道へ引かれるほど明瞭な事例は確認できない。E-17側の霊的な残留が徐々に強まったのか、今夜になって何らかの条件が揃ったのか。そこは、まだ推測の域を出なかった。
*
電源切断実験。
完全封鎖しているからこそできる荒技だ。
「E-17の電源だけ、強制的に落としてください」
道路管理会社の職員が、遠隔で操作する。
フッ、と。北東角の街灯だけが消えた。他の三本はまだ明るい。
久我が、同じ位置に立つ。横断する意思を強く持つ。
旧信号の青のタイミングが来る。
影は、一ミリも動かなかった。
「次は、別の光を当てます」
道路工事用の、強力なLED携帯投光器を持ち出し、E-17と全く同じ位置、同じ角度から久我へ光を照射する。
久我の影が、同じ方向へと長く伸びる。
旧信号のタイミング。
影は、やはり動かない。
「確定ですね」
久我が息を吐く。
「ただ『影がある』だけじゃ駄目なんだ。あの『E-17の光によって作られた影』でなければ、怪異現象は発生しない」
「信号機じゃなくて、街灯が原因ですか?」
澪が首を傾げる。
「街灯単体の呪い、とも言い切れません」
杖原が分析する。
「E-17という古い器と、この交差点に残る『古い交通ルールの記憶』が、何らかの理由で強固に結びつき、組み合わさって発生している現象である可能性が高いです」
*
ここで、かれんが少し危険な追加検証を提案した。
「原因が特定できたなら、一つだけ確認しておきたいことがあります。……信号側のタイミングを、昔の状態へ戻したらどうなるか、です」
完全閉鎖している今しかできない実験だ。
信号制御センターの職員が、手動操作に切り替える。
車両用の信号は、全方向で『赤』に固定。
歩行者用信号だけを、二週間前の『旧タイミング』と完全に同期させて点灯させる。
E-17が再点灯される。
久我が、北東角に立つ。
現在の物理的な歩行者用信号が、旧信号と同じタイミングで『青』に変わった。
影が、スッと車道へと踏み出す。
「行きます」
久我は、今回は踏ん張ることをせず、影の後を追って自らも歩き出した。
ただし、影は『旧横断歩道の何もない車道』を歩いている。
久我は、『現在の正規の横断歩道の白線の上』を歩いた。
少しずれた位置で、並行して進む。
人と影が、二本の全く違う横断歩道を同時に歩いている。
千鶴が反射を見る。
反射の中では、現在の交差点と、古い記憶の交差点の二つが、一瞬だけブレるように重なり合って見えていた。
影の方が、少しだけ歩くペースが早い。
久我も、歩調を速める。
自分の影を、少し遅れて追いかけるという奇妙な光景。
やがて、影が反対側の歩道へと到着した。
久我も、ほぼ同時に反対側へと足を踏み入れる。
その瞬間。
影は、スッと自然に久我の足元へと重なり、一つの普通の影に戻った。
「重なりました」
千鶴が報告する。
「今回は、無理やり戻ったのではありません。人と影が、最初から同じ『青信号』を見て、同じように渡りきったからです」
怪異は、人間を車道へ引きずり出して殺したいわけではなかったのだ。
誰かを轢かせて呪いたいわけでもない。
ただ、旧ルールと現在ルールのタイミングがズレてしまったために、結果として人間が危険な目に遭っていただけ。
「こいつ、別に信号無視なんてしてなかったんですね」
久我が、自分の足元の影を見て言った。
「現行の道路交通法では、立派な信号無視ですけどね」
大森巡査部長が、生真面目に突っ込む。
「警察官の判定が厳しすぎる」
久我が苦笑した。
*
しかし、これで完全に解決というわけではない。
昔の信号のタイミングへ戻すわけにはいかないのだ。右折車との事故を防ぐという道路安全上の切実な理由で、現在のタイミングへと変更したのだから。
怪異の都合に合わせて、現実の社会を退行させるような本末転倒な真似はしない。
対応方針は一つ。
原因のアンカーである可能性が極めて高い、街灯E-17。
これを、今夜のうちに撤去・交換する。
道路管理会社の高所作業車が入り、作業員が慣れた手つきで電源を完全遮断する。八咫烏の実働員が厳重に監視する中、支柱上部の古い灯具と制御部が丸ごと取り外された。
「怪異退治って、街灯を一本交換するだけで終わることもあるんですね」
久我が、作業を見上げながら感心して言う。
「誰の血も流さず、部品の交換だけで終わるなら、それが一番いい仕事です」
杖原が淡々と答える。
取り外された古い灯具。外見上は、錆と劣化した配線があるだけで、特別おかしなところはない。
しかし、久我が《魔眼》で見ると、ごく僅かに、霊的な残留反応がこびりついているのが見えた。
部品は廃棄せず、八咫烏の特殊回収班が密封パックに収め、研究施設へと運んでいった。原因の最終的な分析は、彼らの仕事だ。
*
同じ場所に、新品の最新型LED照明が設置された。
点灯。
久我の足元に、普通の影が落ちる。
最終検証。信号を、現在の通常運用へと戻す。
久我、澪、大森、そして数名の作業員が、交差点の四隅にバラバラに立つ。
歩行者信号が、赤。
全員が止まる。影も、ピタリと止まったままだ。
旧信号の青のタイミングが来る。
何も起きない。影は一ミリも動かない。
現在の青信号が点灯する。
人が、歩く。影も、ごく自然に足元についてくる。
千鶴が、反射のガラスを確認する。
旧横断歩道の薄い白線は、綺麗に消え去っていた。反射の中に映る歩行者信号の色も、現実と完全に同じ『青』だ。
「大丈夫です」
千鶴が、インカムへ報告する。
「今はもう、影も私たちと同じ信号を見ています」
任務、完了。
*
事後整理。
今回の事件による人的被害。
死亡者・意識不明者なし。足首の骨折一名。肋骨の亀裂骨折一名。その他、転倒による軽傷者。命に関わる負傷者はゼロ。
表向きの発表は、『信号設備の制御障害、および道路照明設備の故障による緊急通行止め』。
被害に遭った二名に対しては、八咫烏が裏から手を回し、表側の事故補償の制度を手厚く適用して対応することになった。
夜明け前。
交差点の完全規制が解除された。
パトカーが去り、バリケードが撤去される。
静かな交差点に、最初の一般車両であるタクシーが、何事もなかったかのように普通に通り過ぎていった。
「いやあ、これから当分の間、事故映像を見るたびに、人間より先に『影』の動きの方をチェックしてしまいそうです」
大森が、疲れた顔で久我たちへ笑いかけた。
「俺も、絶対にそうしますよ」
久我も苦笑して返す。
*
帰り道。
澪が、歩きながらふと久我の足元を見た。
「陽介さん」
「何ですか?」
「影、ちゃんと一緒にいますよ」
久我は、反射的にビクッとして自分の足元を見下ろした。
普通の影が、自分の動きに合わせてしっかりとついてきている。
澪がクスクスと笑う。
「気にしすぎですよ」
「一回、自分を置いて勝手に道路を渡っていった影ですよ? こいつの信用が回復するには、まだまだ相当な時間がかかります」
久我が真顔で影を睨む。
千鶴が、自分の影を見ながら真面目な声で言った。
「そもそも、影という光学現象に対して『信用』という概念を適用するのは、間違っていると思いますが」
「鏡宮さん、そこは雰囲気のジョークとして軽く流してください」
交差点の前に差し掛かった。
信号は、赤。
久我たちは、歩道の縁石の手前で大人しく待つ。
やがて、ピヨピヨという電子音と共に、信号が『青』に変わった。
久我が、一歩、前へ踏み出す。
足元の影も、当然のように久我の足元に張り付いたまま、一緒に前へ進んだ。
久我は、何となく、自分の足元の影へ向かって小さく呟いた。
「……今度は、ちゃんと一緒に行こうな」
隣を歩いていた澪の耳が、ピクリと動いた。
「あ。陽介さん、今自分の影に話しかけてましたよね?」
「うるさいです」
久我が少しだけ照れて前を向く。
四人は、揃って横断歩道を渡っていった。
今回は、人も影も、全く同じ青信号を見ていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!