35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
午後十一時二十分。
静まり返った住宅街の奥、都立御影坂高校の裏門前に、久我陽介は一人立っていた。
日中であれば、部活帰りの生徒たちや近所の住人が行き交う、ありふれた穏やかな光景だろう。しかし、深夜の帳が完全に下りた校舎は、街灯と薄暗い月明かりだけがコンクリートの輪郭を青白く浮かび上がらせており、昼間とは完全に異なる異質な空気を漂わせていた。
風が吹くたびに、校庭を囲む木々がざわめき、まるで巨大な生き物が呼吸をしているかのような錯覚を覚える。
久我の服装は、いつものシワの寄ったスーツではない。一度アパートへ帰り、動きやすい黒のナイロンパーカーとストレッチ素材のパンツ、そして履き慣れたスニーカーに着替えてきた。鞄の中には、指定された通りに保冷ケースへ収めた血液パウチが一本と、会社支給のスマートフォン、個人用のスマートフォンが入っている。
そして顔には、今朝八咫烏から支給された真っ黒な遮光グラスをかけている。
(……三十五歳にもなって、真夜中の高校の裏門で女子高生との待ち合わせをすることになるとはな)
傍から見れば、完全に通報案件の不審者である。パトカーが通りかかれば一発で職務質問を受ける自信があった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示されたデジタル証明書を自嘲気味に見つめる。
『特殊体質者生活支援センター認定 夜間警備協力員仮許可証』
行政機関の電子印が押された、紛れもない公式ドキュメントだ。
(役所のシステム上は完全に合法。だが、客観的な絵面としては限りなく通報案件に近いアウトだ)
そんな社会人としての客観視に一人で胃を痛めていると、不意に裏門の鉄格子の向こう側から、足音が近づいてきた。
「お待たせしました」
現れたのは皇かれんだった。いつもの制服姿ではなく、機動性を重視した黒いブルゾンに身を包んでいる。ただ、その左腕には『夜間特別巡回班』と白字でプリントされた腕章が巻かれており、かろうじて学校関係者、あるいは警備員としての体裁を保っていた。
「……こうして改めて見ると、深夜の学校に立ち入るって、社会的にかなり強烈な緊張を強いられますね」
内側から鍵を開けてくれたかれんに対し、久我が率直な感想を漏らす。
「事前の入館許可はセンター経由で下りています。法的な問題は一切ありません」
「問題がないのは役所の書類上だけなんですよ。俺の精神的なコンプライアンスはすでに限界を突破してますから」
「公的なプロセスを経ている事実は、後の責任の所在を明確にする上で非常に重要ですから」
「そこは一人のしがないサラリーマンとして完全に同意します」
そんな息の合った行政コメディめいたやり取りを交わしながら、久我は敷地内へと足を踏み入れた。
「校舎へ入る前に、今日の行動原則を確認しておきます」
かれんが足を止め、グラス越しの久我を見上げて念を押した。
「本日の久我さんは、あくまで見学及びご自身の『魔眼』の状態把握が目的です。正式な戦闘参加は許可しません。チームとの顔合わせが済んだ後も、基本的には私の指示に従うこと。勝手な単独行動は厳禁。もしイレギュラーで生身の人間と遭遇しても、絶対にグラスを外して目を合わせない。そして――怪異らしきものを見ても絶対に自分から触れず、血の匂いがしても単独で追跡しないこと」
どれも現場のルールとしては理にかなっている。だが、その内容の非日常っぷりに、久我は思わず深いため息を吐いた。
「……中途入社の新人研修で『化け物には触るな、血の匂いを追うな』と指導されるキャリアパス、日本中探しても俺くらいのもんでしょうね」
「能力者の新人研修としては、極めて基本かつ標準的なマニュアルです」
「標準って言葉のゲシュタルト崩壊が起きそうです」
「おうおう、ずいぶんと口の減らねえ新入りだな」
唐突に、すぐ横の植え込みの深い影から声がした。
ビクッと肩を震わせた久我が視線を向けると、暗がりから一人の初老の男がのっそりと姿を現した。
くたびれた作業着。右手には半分ほど空になったワンカップの日本酒が握られており、左手の指先では、ピンポン玉ほどの大きさの鋼鉄の球が二つ、カチャカチャと器用に転がされている。風に乗って、安いアルコールと古い煙草の匂いが漂ってきた。
「……お酒、飲んでますよね?」
久我の指摘に、男は鼻で笑って酒を呷った。
「アルコール消毒だ。あんたが三十五の社会人吸血鬼ってやつか」
「情報の出し方に、個人情報保護の配慮が欠けすぎでは」
「夜の学校じゃ、配慮より生存確率の方が優先されんだよ。覚えとけ」
(……酒気帯びの人間に生存戦略を語られる空間、控えめに言ってカオスだな)
内心で頭を抱える久我に、かれんが淡々と紹介を挟む。
「こちらは源玄蔵さん。この御影坂高校夜間警備班の、現場の引率担当です。能力は『念動力』。八咫烏の正規職員ではありませんが、この地区の古参の協力員です」
「源さんでいい。ジジイでも構わんが、面と向かって呼ぶなら安い酒の一本でも奢れ」
「初対面から距離の詰め方が独特ですね……久我陽介です。よろしくお願いします」
源は元々、この高校で用務員として働いていた過去があるらしい。そのため、校舎の入り組んだ構造から、使われていない配管、怪異が吹き溜まりやすい死角まで、すべてを頭に叩き込んでいるという。
彼が左手の指を軽く弾くと、チャキ、と金属音が鳴り、ポーチの中から三つ目の鉄球がふわりと空中に浮き上がった。
鉄球は重力を無視して宙で静止し、久我の目の前をゆっくりと旋回する。
「念動力ってのはな、何でもかんでも手品みたいに浮かせるわけじゃねえ。動かす対象を限定して、その重さや軌道、癖を脳髄と身体の芯に叩き込んで、初めて実戦で使い物になる」
鉄球がすっと急降下し、久我の足元でピタリと動きを止めた。
「これ一つあれば、怪異の脳天をぶち抜く弾丸にもなるし、見えない盾にもなる。いざって時は、扉のつっかえ棒や戸締まりにも使えるからな」
「最後の用途だけ、急に用務員としての生活感が溢れ出てますね」
源の先導で、三人は校舎の脇を抜け、体育館へと向かった。
御影坂高校の夜間警備班は、この体育館を前線基地として利用しているらしい。校舎のメイン棟から適度に距離があり、空間が広いため怪異を誘導しやすく、最悪の場合は結界を敷いて閉じ込めることもできる。
「それに、派手にぶっ壊しても、うちのメンバーがすぐに直せるからな」
源が笑う。
それにしても、夜の学校というのは異様な空間だ。
昼間の熱気や生徒たちの喧騒が完全に吸い取られ、グラウンドの白線や、月光を反射する教室の窓ガラスが、まるで死んだ生き物の骨のように静まり返っている。
「本日は初回ですので、まずは体育館内でチームとの顔合わせと、簡単なルート確認のみを行います」
「運が悪けりゃ、その顔合わせの最中に歓迎会が乱入してくるがな」
源の脅しに、久我は顔を引きつらせた。
「その運の悪さが、俺の初出勤日と被らないことを祈りますよ」
「甘えな。夜の学校に足を踏み入れた時点で、運の良し悪しで言えばすでに半分は底辺を突っ切ってるぞ」
「……ぐうの音も出ない」
*
体育館の中は、完全な暗闇ではなかった。
非常灯の緑色の光に加え、フロアの中央にいくつか置かれたキャンプ用のランタンが、薄く温かい光の円を作っていた。
そこには折りたたみ式の長机とパイプ椅子が並べられ、机の上には八咫烏のロゴが入ったバインダー、水筒、コンビニの袋に入ったスナック菓子、簡易救急箱、学校の見取り図、怪異反応の記録端末、そして源のつまみであろうスルメイカが散乱している。
(……工事現場のプレハブ事務所か、ブラック企業の夜勤の詰所そのものだな)
漂う圧倒的な生活感に、久我は妙な安心感を覚えた。
ランタンの光の周囲には、すでに数人の若い男女が集まっていた。
「おっ、来た来た! 噂の新人吸血鬼さんやん!」
真っ先に距離を詰めてきたのは、ショートヘアにジャージ姿の小柄な少女だった。関西訛りの明るい声が、体育館の静寂を吹き飛ばす。
「……噂になるような偉業を成し遂げた記憶はないんですが」
「吸血鬼で、三十五歳の社会人で、しかも魔眼持ちって! 属性モリモリの全部盛りやないですか!」
「言葉のチョイスに遠慮がないな」
彼女はコホンとひとつ咳払いし、ピシッと姿勢を正した。
「えっと、美島です。ここの高校の二年やってます。得意技は『復元』。壊れた校舎の設備とか備品とか、私が元通りに直す後始末担当です。よろしくお願いします!」
「あ、久我陽介です。……あの、俺に敬語は使わなくていいですよ。ここでは俺の方が完全なド素人の新人みたいなものですから」
久我が気を使って言うと、美島は一瞬きょとんとした。
「ほんまに? 怒らへん?」
「怒りませんよ。会社の上下関係じゃないんだから」
「やった、じゃあ遠慮なく! 陽介さんでええ?」
「下の名前なんですね」
「久我さんやと、なんか市役所の担当者呼んでるみたいで固いやんか」
(……初対面の女子高生から急に下の名前で呼ばれる三十五歳。この世界、順応するまでにいろんなハードルがあるな)
続いて、壁にもたれかかっていた長身の男子生徒が進み出てきた。
肩幅が広く、スポーツマン特有の引き締まった体格。その腰には、竹刀袋のようなものに包まれた『訓練刀』が下げられている。
「剣持です。一応、ここの三年で、前衛の物理担当やってます」
「久我です。どうも」
「かれんから聞いてますよ。社会人の新米吸血鬼で、魔眼持ちのレアケースだって」
「だから、その紹介フレーズの圧が強すぎるんだってば……。あ、剣持君も敬語は外していいから」
「マジ? じゃあ陽介さんで。俺のことも剣持でいいよ」
彼はあっさりと口調を崩し、握手を求めてきた。
「切り替えが早いな」
「俺ら、八咫烏の大人とかセンターの職員とはしょっちゅう現場で顔合わせてるからさ。初対面の大人にはとりあえず礼儀通すけど、現場入ったら年齢とか関係ないから」
剣持の言葉に、久我は少し感心した。
彼らはただの学生ではない。すでに「裏の仕事」の流儀に染まった、立派な実務者なのだ。
「はいはいっ! 後方支援の杖子です! 結界とか、なんかピカッと光るやつとか、怪異の足止めとかを担当してます!」
魔法少女のステッキのような派手な術具を振り回しながら自己紹介してきたのは、ひときわテンションの高い少女だった。
「……説明が致命的にふわっとしてるんだが」
かれんが冷ややかな声で補足する。
「術具媒介型、簡易結界及び光弾展開能力者です」
「急にお役所の申請書類みたいな説明になった」
「正式な分類コードは長くて可愛くないので嫌いなんです! 陽介さん、よろしくね!」
杖子も秒速で下の名前呼びにシフトした。どうやらこのチーム内では『陽介さん』という呼称がデフォルトになるらしい。
「――そして、最後が彼女です」
かれんが視線を向けた先。ランタンの光から少し外れた体育館の隅で、もじもじとジャージの袖を弄っている一人の少女がいた。
黒に近い栗色の髪、少し長めの前髪の隙間から覗く目は、どこか自信なさげに泳いでいる。小柄で、美島や杖子のような陽キャのオーラとは対極にある、完全な内向的オーラを放っていた。
ただ、薄暗がりの中で、彼女の瞳の奥が微かに赤みを帯びているのを、久我の魔眼は正確に捉えていた。
「こちらが七瀬澪さん。御影坂高校の一年生です。……吸血鬼型としては、久我さんより一ヶ月ほど先に覚醒しています」
紹介を受け、澪はビクッと肩を跳ねさせた。
「な、七瀬澪です……! えっと、その……吸血鬼歴は、一ヶ月くらい、です。よ、よろしくお願いします……!」
蚊の鳴くような声だったが、そこには「自分が先輩である」という小さな自負が張り付いていた。
「久我陽介です。吸血鬼歴はまだ一週間ちょっとの若輩者です。よろしくお願いします」
久我が丁寧に頭を下げると、澪は少しだけ胸を張り、えっへんと小さく息を吐いた。
「じゃ、じゃあ……私の方が、吸血鬼としては先輩? ですよね!」
「はい。そこは完全に大先輩です」
「そ、そうですか! えへへ……あの、血液パックを飲むタイミングとか、夜にテンションがおかしくなった時の対処法とか、体育の授業で跳び箱を跳びすぎないコツとか、分からないことがあったらなんでも聞いてください!」
「助かります。正直、独身男の冷蔵庫のチルド室に血液パウチを並べるという生活環境の激変に、まだ精神が追いついていなかったので」
「わ、分かります……! 最初めちゃくちゃ怖いし、戸惑いますよね! でも、三日目くらいから『あれ、残量足りるかな』って不安になりますよね!」
「なりました」
「ですよね!」
吸血鬼というニッチすぎるマイノリティの『あるあるネタ』が通じたことで、澪の顔にパッと安堵の花が咲いた。
三十五歳のサラリーマンと、十六歳の女子高生。共通点など皆無のはずの二人が、血液パックの残量問題という絶対的な共感で繋がった瞬間だった。
しかし、そんな和やかな空気を、かれんが一切の容赦なくぶった斬った。
「ただし、能力の進行度としてはすでに久我さんの方が圧倒的に格上です」
澪の笑顔が、パリンと音を立てて砕け散った。
「えええええっ!? な、なんでですか!?」
「俺も知りたい」
「澪さんは、極めて標準的な成長曲線を辿る新人吸血鬼です。身体能力の強化、暗視、嗅覚の向上、および軽度の再生能力。覚醒一ヶ月のステータスとしては非常に順調です」
「そ、そうですよね! 順調ですよね!」
「はい、順調です」
かれんは冷徹に頷き、そして久我を指し示した。
「一方で、久我さんは覚醒わずか一週間で『魔眼の初期形成』に至っています。現時点での視覚情報の処理能力は、澪さんの数倍に達しています」
「ま、魔眼!? ほんとに!? えっ、吸血鬼ってそんなに早く魔眼とか出るものなんですか!?」
「普通は出ません」
「じゃあなんで!?」
「私も分かりません」
会話のラリーに、源がワンカップを煽りながら口を挟んだ。
「景気のいい新人だこと」
「さっきから俺の異常事態を『景気』の一言で済ませようとするの、やめてもらえませんか」
澪は、遮光グラスの奥にいる久我を、信じられないものを見るような目で見つめた。
「なにそれずるい……私なんて一ヶ月経っても、ちょっと夜目が利くようになったのと、体育のハードル走で跳びすぎて先生に怒られたくらいなのに……」
「それはそれで、学生生活のカムフラージュが大変そうですね」
しょんぼりとする澪を見て、久我は少しだけ気の毒になった。
「あの、私は……久我さん、ってお呼びした方がいいですか?」
澪が上目遣いで尋ねてくる。
「俺の呼び方はお任せしますよ」
「陽介さんでええやん、澪も」と美島がけしかける。
「えっ、でも、私だけいきなり大人の人を下の名前で呼ぶなんて……」
「現場は下の名前で呼ぶことが多いんだよ。八咫烏の職員とか、苗字かぶりも結構いるしな」と剣持。
周囲の空気に押され、澪は顔を赤くして小声で絞り出した。
「じゃ、じゃあ……陽介さん、で」
「……はい」
久我はグラスの奥でそっと視線を落とした。三十五歳になって、初対面の女子高生たちから一斉に下の名前で呼ばれるプレッシャー。これに慣れるには、血液パック以上の順応力が必要かもしれない。
「あっ、嫌なら戻します!」
「いや、大丈夫です。俺の精神が追いついてないだけなので」
*
顔合わせが一段落したところで、かれんがパンッと手を叩いて場を引き締めた。
「では、改めてこのチームの運用ルールを説明します。私は名目上、この御影坂高校夜間警備班のリーダーを務めています」
「名目上?」と久我。
「はい。八咫烏本局との連絡、作戦許可の申請、報告書の作成、および緊急時の撤退判断は私が担います。ただし、私は別件の任務で不在になることも多いです」
彼女はエージェントとして複数の案件を抱えている。毎日ここに張り付けるわけではないらしい。
「私が不在の際、八咫烏関連のイレギュラーな行政手続きや緊急連絡が必要になった場合は、源さんを頼ってください」
「ま、書類書きは反吐が出るほど嫌いだが、窓口の担当を脅して強引に話を通す手順くらいは知っとる」
「酒を飲みながら言われると、コンプライアンス的に絶望的な不安しか感じないんですが」
「安心しろ、酔ってる方が字が綺麗な日もある」
「絶対にないと思います」
かれんは二人の漫才を無視し、剣持へ視線を向けた。
「現場での物理的な判断――特に怪異との接触時の距離感、撤退のタイミング、戦闘の指揮については、前衛である剣持さんの指示を最優先してください」
「よろしく頼むよ、陽介さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「だから、敬語じゃなくていいって」
「すまん、俺が一番そういう組織のフォーマットから抜け出せてないんだと思う。それ言う側だと思ってたよ」
そして、かれんは最後に澪を見た。
「澪さんは、久我さんと同じ吸血鬼型です。魔眼以外の『血液に対する衝動制御』や、夜間の身体感覚のブレについては、澪さんの経験が一番の参考になります」
「が、頑張ります! 吸血鬼としては、私が先輩なので!」
澪がギュッと拳を握りしめた。
「能力的には格下ですが」
「だから! そこ毎回付け足さなくてよくないですか!?」
「七瀬さん、そこは俺にも結構なダメージが入ってるんで、一緒に耐えましょう」
久我のフォローに、澪は涙目でコクリと頷いた。
「次に、スケジュールです」
かれんが手元のタブレットを操作し、空中にホログラムのようにスケジュール表を投影した。八咫烏の機材は無駄にハイテクだ。
「久我さんには、ご自身の能力の暴発リスクを監視するため、当面の『重点監視期間』として、毎日午前零時から四時まで、この御影坂高校の夜間警備に参加してもらいます」
久我の口がポカンと開いた。
「……毎日?」
「毎日です」
「午前零時から、四時?」
「はい」
「あの……俺、明日の朝も普通に会社があるしがないサラリーマンなんですが」
「存じています」
「知った上で、そのシフトを組んだんですか?」
「はい。魔眼の進行速度を考えると、最初の一週間は連日継続して観察した方が安全です。その代わり、会社での深夜残業は完全に禁止とします」
久我はパイプ椅子に崩れ落ちた。
「……吸血鬼になって、ブラック企業の無給残業が減ったと思ったら、役所の有給夜勤が毎日ぶち込まれるとは……」
「お給料出るだけええやんか」と美島が笑う。
「会社よりよっぽど健康的だろ。夜に動いて、朝に寝る。本来の吸血鬼向きの生活リズムじゃねえか」と源。
「昼間の九時から十七時で会社があるんですよ! 全然健康的じゃない!」
「じゃあ、昼の会社の方を減らせばいいじゃん」
剣持のストレートすぎる提案に、久我は遠い目をした。
「……高校生の柔軟な発想が、社畜の目には眩しすぎる」
かれんが淡々と補足する。
「永久に毎日というわけではありません。重点監視期間が終了し、魔眼の制御が安定したと判断できれば、通常のシフト制に移行します。それまでの辛抱です」
「それを先に言ってください……」
隣で、澪が申し訳なさそうに小声で囁いた。
「わ、私も最初の一週間は毎日でした……。授業中、ずっと眠くて死にそうでした……」
「経験者のリアルな声が一番重いな」
ふと、久我は周囲を見渡した。
深夜の体育館。ランタンの灯り。ジャージや私服姿の高校生たち。そして、自分と同じように吸血鬼になってしまった少女。これから始まる夜の警備スケジュール。
(……なんだこれ。傍から見れば、完全に夜の部活動じゃないか)
少しだけ、青臭い『青春』という単語が脳裏をよぎった。
(いや、無理があるだろ。三十五歳のおっさんが、零時から四時まで怪異のパトロールをする青春なんて、展開しているジャンルが狂いすぎている)
そんな久我の内心を知ってか知らずか、美島が満面の笑みで言った。
「陽介さん、ようこそ御影坂夜間警備班へ!」
「夜の部活みたいなものですよ!」と杖子も乗っかる。
「部活に危険手当と確定申告の義務は発生しないんだよなぁ……」
ひとしきり空気が和んだところで、かれんが本題を切り出した。
「ところで、久我さん。……貴方の『武器』はどうしますか?」
「武器?」
「現場に出る以上、最低限の護身手段は必要です。魔眼があるとはいえ、怪異と物理的に接触するリスクはゼロではありません」
久我は自身の手のひらを見つめた。
「武器と言われても……社会人が普段持ち歩いている武器なんて、ノートPCと折り畳み傘くらいですよ」
「折り畳み傘は悪くねえ。開いて目隠しにもなるし、間合いを測るのには十分使える」と源が真面目に評価する。
「でも、怪異相手に傘一本じゃ、物理的な打撃力が厳しくないか?」と剣持。
「ノートPCの角で殴ったら、基板割れて修理めんどくさいから絶対やめてな!」と美島。
「誰も六十万する会社のノートPCで戦うとは言ってない」
かれんが冷静に議論をまとめる。
「吸血鬼型はベースの身体能力が高いです。澪さんのように、素手や体術で対応するスタイルも可能です。……ただ、久我さんはまだ自分の身体の筋力リミッターの外し方を学んでいない。魔眼も今は『観測』に特化している状態です。無闇に前衛に立たせるのは危険です」
「なら、最初は護身用の特殊警棒か、訓練用のナイフあたりが無難だな」
剣持の提案に、源が首を横に振った。
「いや、旦那は目がいい。無理に前に出して血の匂いを嗅がせるより、距離を取って『見えたもの』を正確に報告させた方がチームとしては生きる。持たせるなら、短い警棒と、視界を奪うための強光ライトで十分だ」
「同感です」とかれんも頷く。
「……なんか、本人の意思を完全に置いてけぼりにして、俺のプレイスタイルが勝手に最適化されていくな」
結果として、久我の初期装備は『八咫烏支給の特殊警棒』『強光ライト』『通信用イヤホン』、そして『緊急用の血液パウチ一本』という、完全な観測・自衛セットに決定した。
「つまり、俺は『戦わない新人』ってことですね」
「最初から前線で戦える新人なんていませんよ」
剣持が事もなげに言った。
その横で、澪が恥ずかしそうに下を向いて呟く。
「わ、私なんて、初日の見回りで自分の足の速さに追いつけなくて、廊下で派手に転びましたから……」
「あの時、床のフローリングがベコッてへこんだん、うちが徹夜で直したんやで」
「ああっ! 美島さん、それは言わない約束!」
顔を真っ赤にして美島に抗議する澪を見て、久我は少しだけ肩の力が抜けた。
(そうか。俺だけが素人ってわけじゃないんだな)
ミーティングの熱が少し冷めた頃、澪がとてとてと久我の隣に歩み寄ってきた。
「あの……陽介さん」
「はい」
「最初、すっごく怖いですよね。自分が何者になったのか、この力で何ができるのか、全然分からなくて……」
澪はもじもじと指先を絡ませながら、自身の経験をぽつりぽつりと話し始めた。
「私も、最初は夜に少し走るだけで怖かったんです。足が勝手に速く動いて、階段とか一段飛ばしどころか、三段くらい軽く飛べちゃって……自分が人間じゃなくなったみたいで。でも、ここでみんなと一緒に練習して、ちょっとだけマシになりました」
「……澪さんも、大変だったんですね」
久我が自然に『澪さん』と呼ぶと、彼女は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
その様子を少し離れた場所から見ていたかれんは、わずかに表情を緩めた。
久我の魔眼の進行は警戒すべきものだ。だがそれ以上に、理性的すぎる久我がすべてを一人で抱え込み、孤立していくこともまた、危険な兆候だった。
「久我さんは、見えた情報を言語化する能力が高いです。魔眼と相性は良いと思います」
「急に真面目な評価が来ると照れますね」と久我が頭を掻く。
「今日の予定を伝えます」
かれんが再び全員の注目を集めた。
「本日は久我さんの顔合わせと、魔眼の負担チェックを兼ねた巡回ルートの確認のみです。本格的な戦闘訓練は行いません」
「助かります」
「ただし」
剣持が壁から背中を離した。
「体育館の外周と、校舎の一階廊下を一周してもらう。その状態で、陽介さんの魔眼に何が『見える』かのテストはさせてもらうぞ」
「……それ、実質的な訓練では?」
「見学の延長だ」
「歩くだけなら見学だな」と源も同調する。
「夜の学校で歩くだけで、ホンマに何も起きんかったらええんやけどなぁ」
美島の言葉に、久我は盛大なため息を吐いた。
「頼むから、そういう不吉なフラグを立てるのはやめてください」
――コツン。
その時だった。
誰もいないはずの、体育館の重い扉の向こう側。校舎の東廊下の方角から、まるで古いゴムボールが跳ねるような、奇妙で無機質な音が響いた。
コツン。コツン。
空気が一変した。
澪がビクッと肩をすくませる。美島の明るい顔から笑みが消え、剣持が腰の訓練刀の柄に手をかけた。源の指先で、二つの鉄球が音もなくふわりと浮き上がる。
かれんが手元の端末を素早く確認した。
「……反応あり。校舎一階、東廊下」
その瞬間、久我の遮光グラスの奥で、真紅の瞳が勝手に熱を帯びた。
視界が明滅する。
分厚い体育館の扉を透かしたその向こう側。暗闇に包まれた廊下の床を這うように進む、奇妙な『痕跡』がはっきりと見えた。
「……見えます」
久我の低い声に、全員の視線が一斉に集まる。
「床を這いずり回ってる、赤黒い、糸の束みたいなものが」
剣持が驚いたように息を呑んだ。
「マジか。初日からそこまでクリアに見えるのかよ」
「やっぱ景気のいい新人だぜ、こりゃあ」と源が口角を上げる。
「えっ、私、そんなの全然見えません……!」
澪が必死に目を凝らすが、彼女の視覚には暗い扉しか映っていないようだった。
かれんが鋭い声で指示を飛ばす。
「久我さん、見えた情報を言語化して詳細を報告し続けてください。判断と指揮はこちらで取ります」
久我はゴクリと唾を呑み込んだ。
会社では、エクセルの数字の矛盾を見つけていた。
今は、夜の学校で、怪異が這い回る痕跡を見つけている。
遮光グラスの奥で、魔眼の熱が久我の脳に警告を鳴らし続けている。
「……深夜の高校生活、思ったより研修初日から実践的ですね」
「現場ですから」とかれんが返す。
「ようこそ、夜の学校へ。歓迎会の始まりだ」
源の言葉と共に、久我陽介の吸血鬼としての初めての『実務』が、幕を開けようとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!