35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第71話 吸血鬼、巨大なぬいぐるみを保護する

 午後十一時十四分。

 警視庁の通信指令センターに、一件の一一〇番通報が入った。

 

「大きなクマが、道路を歩いています!」

 

 慌てふためいた女性の声だった。

 通報を受けた警察官は、最初は本物の野生のツキノワグマでも住宅街へ入り込んだのかと緊張した。近年、住宅地へのクマの出没は珍しいことではない。

 しかし、通報者の次の言葉で、警察官は困惑することになった。

 

「いや、本物じゃなくて! ぬいぐるみなんです! 巨大なクマのぬいぐるみが、普通に立って歩いてるんです!」

 

「……ぬいぐるみ、ですか?」

 

 大型の着ぐるみを着た不審者か、深夜のYouTuberの撮影か、あるいは何かの宣伝イベントか。

 だが、同じ地域から立て続けに複数の通報が相次いだ。

 

『身長が二メートル以上あるんです』

 

『中に人間が入っているようには見えないんです』

 

『茶色くて、目が大きなボタンになってました』

 

 通信指令センターから最寄りのパトカーと所轄署へ指令が出され、警察官たちが現場へ急行した。

 さらに、所轄側で付近の防犯カメラ映像を確認したところ、そこには通報されたものが確かに映っていた。

 

 深夜の住宅街の歩道。街灯に照らされた道を、巨大なクマのぬいぐるみが二足歩行でゆっくりと歩いている。

 着ぐるみ特有の首の境目や、背中のファスナーは見当たらない。

 何より、身体の比率が明らかにおかしい。頭のサイズが巨大すぎて、中に人間が入っているとしたら、骨格の辻褄が全く合わないのだ。

 

       *

 

 パトカーがサイレンを鳴らさずに現場へ到着した。

 制服警察官二名が降車すると、歩道の端に、通報どおりの巨大な茶色いクマがぽつんと立っていた。

 左右で違う種類のボタンの目。胸には青い布で継ぎ当てた補修痕があり、全体的にかなり古びている。

 警察官が警戒しながら距離を取る。クマの右手には、何か小さな赤いものが握られていた。

 

「そこの方! 少しお話を聞かせてください!」

 

 警察官が声を張り上げる。

 巨大なクマがゆっくりと振り返った。左右非対称のボタンの目が、無機質にこちらを向く。

 

「中に、人が入っているんですか?」

 

 返事はない。

 

「聞こえていますか?」

 

 クマはゆっくりと首を傾げた。そして、短い腕を前に伸ばしてきた。

 警察官が反射的に腰の警棒へ手を伸ばし、身構える。

 しかし、クマが差し出したのは、小さな赤い手袋だった。

 青い星の刺繍が入った、子供用の手袋の片方だ。

 

 警察官がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、クマはスッと手を引っ込め、再び歩き始めた。

 数歩進むと振り返る。また数歩進んでは振り返る。

 どうやら、警察官についてきてほしいらしい。

 

 だが、警察側は正体不明の存在を無条件に追いかけるわけにはいかない。人間の着ぐるみかどうかも分からず、危険性も不明なのだ。

 警察官は周囲の住民が近づかないよう注意を払いながら、クマへ声をかけた。

 

「分かりました。ほかの者も呼びますから、少しここで待ってもらえませんか?」

 

 クマはしばらく警察官を見つめていたが、やがてその場へ腰を下ろした。

 警察官は少しだけ安堵する。

 少なくとも、こちらの言葉を理解しているようだった。

 

 所轄署では、防犯カメラの映像と現場警察官からの報告を受け、通常の不審者事案として処理するのは困難だと判断した。

 警察内部の超常案件窓口へ連絡が入り、そこから八咫烏へ緊急の照会が行われた。

 

       *

 

 午前零時前。

 久我陽介と七瀬澪の二人が、現場へ到着した。

 

 周囲にはすでに警察によって規制線が張られており、一般向けには『大型の着ぐるみを着用した不審者が徘徊しているため』という説明がなされている。

 久我は現場の警察官から簡単な引き継ぎを受けた。

 

「……大きなクマのぬいぐるみ、ですか?」

 

「はい」

 

「人間が入った着ぐるみではなくて?」

 

「少なくとも、関節の曲がり方からして、中に人間が入っているようには見えません」

 

「なるほど……」

 

 久我が規制線の向こうへ視線を向ける。

 住宅街の歩道。そこに、身長二メートルを優に超える巨大な茶色いクマのぬいぐるみが、ちょこんと体育座りのような姿勢で座っていた。

 

「……かわいい」

 

 澪が目を輝かせて呟いた。

 

「いや、怖いですよ、あれ」

 

 久我が顔を引きつらせる。

 

「えー、かわいいじゃないですか」

 

「夜中に二メートル以上の古びたぬいぐるみが、自律して歩いてるんですよ? 完全にホラーの導入じゃないですか」

 

「でも、クマさんですよ?」

 

「クマさんなら何でも許されるわけじゃないです」

 

 二人の認識は、最初から微妙に食い違っていた。

 

       *

 

 久我が右目に《魔眼》を展開し、ぬいぐるみをじっと観察する。

 明らかに、ただの布と綿の塊ではない。

 内側に、かすかな霊的反応がある。だが、人間の魂を無理やり閉じ込めたような禍々しい気配や、遠隔で誰かが操作しているような呪力の繋がりは見えない。

 何らかの怪異性を獲得した存在が、自律的に動いているらしい。

 

「中に人間がいるようには見えません。少なくとも、普通の着ぐるみではありませんね」

 

 久我が報告する。

 

「じゃあ、本当にただのぬいぐるみなんですか?」

 

「そういうことになりそうです」

 

 久我がゆっくりとクマへ近づいた。相手が巨大なので、無闇に刺激しないよう警戒は解かない。

 数メートル離れたところで足を止める。

 

「こんばんは」

 

 クマがボタンの目を久我へ向けた。返事はない。

 

「ええと……俺の言ってること、分かります?」

 

 クマが首を傾げる。

 

「分かるなら、頷いてもらえませんか?」

 

 数秒の沈黙の後、巨大なクマの頭が縦にゆっくりと大きく動いた。

 久我と澪が顔を見合わせる。

 

「……言葉が通じましたね」

 

「通じましたね!」

 

 少なくとも、こちらの言葉を理解し、簡単な意思表示はできるようだった。

 

       *

 

 警察としては、不審な巨大ぬいぐるみをいつまでも住宅街に放置するわけにはいかない。

 

「ここにいると危ないので、ちょっと別の安全な場所へ移りませんか?」

 

 久我が提案すると、クマは首を横に振った。

 

「……嫌ですか?」

 

 頷く。

 

「もしかして、何か用事があるんですか?」

 

 また頷いた。

 

 久我は少し驚いた。どうやら、無目的に徘徊しているわけではないらしい。

 

「じゃあ、どこへ行きたいのか教えてもらえますか?」

 

 クマは、よっこらせとでも言いたげな動作で立ち上がった。そして、再びゆっくりとした足取りで歩き始める。

 久我と澪もその後を追った。

 

 しかし、警察官が安全確保のためにクマの前へ回り込もうとした時だった。

 クマが急に足を止め、両腕を大きく横へ広げた。

 二メートルを超える巨体が腕を広げたことで、狭い歩道が塞がれる。警察官が驚いて後ずさった。

 だが、クマは殴りかかってこない。ただ、進路を塞がれるのを嫌がっているようだった。

 

「大丈夫です。無理に捕まえるつもりはありませんから」

 

 久我が間へ入って声をかけると、クマはゆっくりと腕を下ろした。

 

 その後ろ姿を見ながら、澪がふと気づく。

 

「陽介さん。あのクマさん、私たちから逃げようとしているんじゃない気がします」

 

「どういうことです?」

 

「さっきから何度も、私たちの方を振り返ってます。本気で逃げようとしてるなら、もっと先へ行けばいいのに」

 

 確かにそうだった。

 クマは数メートル歩いては立ち止まり、後ろを振り返る。久我たちが近づくと、また歩き出す。

 むしろ、自分の後をついてきているか確認しているように見えた。

 

「……もしかして、俺たちをどこかへ案内してくれるんですか?」

 

 久我がクマへ尋ねる。

 巨大な頭が、大きく頷いた。

 

       *

 

 久我たちは、クマの右手に握られているものへ視線を向けた。

 小さな赤い手袋。

 青い星の刺繍が入っている。どう見ても子供のものだ。

 

「その手袋、誰かのものですか?」

 

 クマが頷く。

 

「子供の?」

 

 頷く。

 

「その子に、何かあったんですか?」

 

 クマが何度も力強く頷いた。

 

 澪の表情がサッと変わる。

 

「……陽介さん」

 

「ああ」

 

 久我は、すぐに周囲の警察官へ振り返った。

 

「この辺りで、今日、子供の行方不明事件は起きていませんか?」

 

 警察官の顔つきが一気に引き締まる。

 

「……あります。夕方から小学生の女の子が行方不明になっており、すでに捜索が始まっています」

 

 ただし、巨大なぬいぐるみの出没とは無関係の別案件として扱われていた。

 

 行方不明児童。

 三島結衣。八歳。地元の小学二年生。

 午後五時半過ぎ、地域の児童館から帰宅する途中で行方が分からなくなった。

 普段は徒歩数分の道を一人で帰宅している。警察は通学路や周辺の公園、商店街などを中心に捜索を進めていたが、未だに発見できていなかった。

 

「その結衣ちゃんは、赤い手袋をしていましたか?」

 

 警察官が無線で確認する。

 しばらくして、返答があった。

 

「……一致しました。青い星の刺繍が入った、赤い手袋を着用していたとのことです」

 

 久我がクマの顔を見る。

 

「……これ、結衣ちゃんの手袋なんですね?」

 

 クマが頷く。

 

「結衣ちゃんが今どこにいるか、知ってるんですか?」

 

 クマは少しだけ動きを止め、それから重々しく頷いた。

 そして、握っていた赤い手袋を久我へそっと差し出す。

 

 久我は、その小さな手袋を受け取った。

 

「……分かりました。案内してください」

 

 警察側へ即座に連絡が飛ぶ。行方不明児童の捜索班と情報が共有され、久我たちは警察官の同行のもと、クマが示す方向へ移動を開始した。

 

       *

 

 移動中、警察側が近隣施設へ照会を行っていたところ、ぬいぐるみの外見的特徴を聞いた児童館の職員から連絡が入った。

 

『それ、うちの「くま吉」じゃないですか!?』

 

 現場へ呼ばれた児童館職員の小野寺真由、三十二歳は、巨大なクマの姿を見るなり絶句した。

 

「……くま吉?」

 

 クマがゆっくりと振り返る。

 

「嘘……本当に動いてる……」

 

「知っているんですか?」

 

 久我の問いに、小野寺は信じられないものを見る目で頷いた。

 

「知っているも何も、うちの児童館に何年も置いてあったぬいぐるみです」

 

 小野寺によれば、くま吉は昔、商業施設から寄贈されたものだった。

 児童館では子供たちに大人気で、何度もボロボロになっては職員によって修理されてきた。

 胸の青い補修布も、左右で違うボタンの目も、間違いなく児童館にあったくま吉の特徴だという。

 

 最近は施設の改修に伴い、一時的に倉庫へ移されていた。

 先ほど警察からの照会を受けた小野寺が、ほかの職員と一緒に倉庫を確認したところ、くま吉の姿がなくなっていたらしい。

 大きな搬出用の扉が開いていたものの、誰が運び出したのかは分かっていなかった。

 

 小野寺が、久我の持っている手袋を見てハッとする。

 

「それ、結衣ちゃんの……!」

 

 結衣は幼い頃から児童館に通っており、特にくま吉を気に入って、いつも隣に座って本を読んでいたらしい。

 怖いことがあった時も、寂しい時も、くま吉へ話しかけていたという。

 

「結衣ちゃん、『くま吉がいれば怖くない』って、よく言ってました……。改修で倉庫へ移された時も、すごく寂しがっていて」

 

 久我は、目の前の巨大なクマを見上げた。

 長い間、児童館で子供たちに親しまれてきたぬいぐるみ。

 その中でも、結衣とは特に深い繋がりがあったらしい。

 

       *

 

 その頃、警察では周辺の防犯カメラ映像を時系列で整理し直していた。

 すると、くま吉の行動について新しい事実が見つかった。

 

「陽介さん、少しおかしいです」

 

 警察官から共有された映像を確認していた澪が言った。

 

「くま吉は、最初から住宅街を歩き回って結衣ちゃんを探していたわけじゃありません」

 

「どういうことです?」

 

「午後十時四十分頃。くま吉は、あっちの建設現場の近くにいました」

 

 映像には、建設途中のマンションの仮囲いの前で、くま吉が何度もフェンスへ近づいている姿が映っていた。

 大きな腕を伸ばし、何かを動かそうとしているようにも見える。

 その次の映像では、くま吉が建設現場から離れていく様子が確認できた。

 ただし、何度も現場の方を振り返っている。

 

 久我が映像を見直す。

 

「……ちょっと待ってください。このクマ、建設現場にいたのに、わざわざ住宅街の方へ出てきたんですか?」

 

「そうみたいです」

 

「結衣ちゃんを探していたなら、どうしてここを離れたんでしょう」

 

 澪が少し考えてから、くま吉を見た。

 

「……もしかして、自分じゃ助けられなかったから?」

 

 久我も同じことを考えていた。

 くま吉の目の前に立ち、できるだけ分かりやすく尋ねる。

 

「くま吉。結衣ちゃん、あの工事現場にいるんですか?」

 

 くま吉が大きく頷く。

 

「そこに行っても、自分じゃ助けられなかった?」

 

 再び頷いた。

 

 久我は、赤い手袋を握り直した。

 

「……そうでしたか。助けてくれる人を探してたんですね」

 

 くま吉は何も言わない。

 ただ、じっと久我を見下ろしている。

 

「分かりました。俺たちが助けます」

 

 その言葉を聞いたくま吉は、久我に向かって深々と頭を下げた。

 

       *

 

 午前零時半過ぎ。

 マンションの建設現場。

 

 警察、八咫烏、そして消防の救助隊が集まっていた。

 緊急招集された現場責任者の藤田誠も到着し、建設図面を用意している。

 

 現場は夜間無人で、正規の出入口は施錠されていた。

 警察も行方不明児童の捜索中に周辺を確認していたが、外から見える出入口に異常はなく、内部へ子供が入り込んだことを示す明確な手がかりは見つかっていなかった。

 

 しかし、くま吉が先ほどの映像で何度も近づいていた場所を改めて調べると、資材の陰になった仮囲いの下部に、不自然な隙間があった。

 資材搬入の際に仮囲いがずれたのか、下の部分がわずかに浮いている。

 小柄な子供なら、屈んで潜り込めるかもしれない。

 

「……ここから入った可能性がありますね」

 

 警察官が隙間を確認する。

 

 藤田も顔をしかめた。

 

「こんな場所に隙間が……。明るくなったら仮囲いを全部点検しないと」

 

 現場内部へ入ったくま吉は、迷わず奥へ進んだ。

 そして、地面に置かれた大きな鉄板の近くで立ち止まる。

 大きな腕を伸ばし、その下を指差した。

 

 周囲には仮設材が積まれており、鉄板も少し傾いている。

 消防隊員が慎重に近づき、隙間から呼びかけた。

 

「三島結衣さん! 聞こえますか!」

 

 最初は返事がなかった。

 もう一度、強く呼ぶ。

 

 しばらくして、地下の奥からかすかな声が届いた。

 

「……たすけて……」

 

 全員の表情が変わった。

 

「要救助者の反応あり! 位置を確認します!」

 

 消防隊員の声が響く。

 久我も思わず息を吐いた。

 

「……本当にいた」

 

 くま吉は、鉄板の前から一歩も動かず、じっとその様子を見守っていた。

 

       *

 

 現場責任者の藤田が建設図面を開く。

 

「問題の場所は、仮設材の下にある排水設備の点検用ピットです。内部は非常に狭く、成人男性が簡単に入れる構造ではありません。さらに、この上の資材がずれて開口部を塞いでいる可能性があります」

 

 消防が隙間から照明と小型カメラを入れ、内部の状況を確認する。

 映像には、狭い点検空間の奥で身を縮めている結衣の姿があった。

 意識はある。

 しかし、転落の際にどこかを痛めたのか、思うように動けないらしい。

 

 くま吉の大きな体では、当然ながらこの狭い空間へ入ることはできない。

 かといって、鉄板や周囲の資材を強引に動かせば、さらに崩れてしまう危険がある。

 

「不用意に上の資材を動かさないでください」

 

 藤田が警告する。

 

「下の状態が完全に分からないまま引き抜くと、資材が落ちる危険があります」

 

「俺が力任せに持ち上げたら、駄目ですか?」

 

 久我が尋ねた。

 

「駄目です。資材がどう噛み合っているか分からない以上、一気に動かすのは危険すぎます」

 

「……了解です。じゃあ、指示してください」

 

 久我は、怪力に任せて無謀な真似をすることはしなかった。

 現場の構造を理解している藤田と、救助の専門家である消防隊員たちの判断に従う。

 

 その間も、消防側ではガス検知や内部の安全確認が進められていた。

 結衣は長時間、冷たい地下空間に閉じ込められている。体温の低下も心配だった。

 しかも、外では小雨が降り始めている。

 排水設備に繋がる空間である以上、水が流れ込む可能性も無視できない。

 

「別の点検口から入れないでしょうか?」

 

 消防隊員の質問に、藤田が図面を確認する。

 

「反対側にもあります。ただ、そちらは工事途中で、資材が置かれているはずです」

 

「確認します!」

 

 澪が素早く動いた。

 得意の高速移動で現場の周辺を確認する。ただし、崩落の危険がある場所へは踏み込まず、安全な通路だけを選んで移動する。

 

 最初の点検口は資材で塞がれていた。

 二つ目も工事途中で開かない。

 しかし、敷地の反対側に、比較的安全に近づける点検通路が見つかった。

 

「陽介さん! こっちからなら、奥の点検口まで確認できそうです!」

 

 澪の報告を受け、藤田と消防隊員が現場を確認する。

 

「……使えますね。こっちから接近しましょう」

 

 新しい救助経路が確保された。

 

       *

 

 救助作業が本格的に始まった。

 

 消防隊員たちは、上部の荷重がかかっている仮設材を安全に支えるため、支持具の設置を進める。

 久我も《血装》を両腕へ展開した。

 

 普通の人間では危険すぎて近づけない位置でも、吸血鬼の肉体と《血装》があれば、ある程度の衝撃には耐えられる。

 ただし、自分だけが耐えられても意味はない。周囲には消防隊員や作業員がいるし、何より下には結衣がいる。

 

 久我は藤田と消防隊員の指示に従い、資材が不意に動いた場合に支えられる位置へ入った。

 

「こっちは俺が押さえます!」

 

「そのままお願いします! 支持具を追加します!」

 

 久我が《血装》を纏った腕で資材を支える。

 消防隊員が固定具を差し込み、荷重を安全な位置へ移していく。

 

 その間、くま吉は少し離れた場所から、じっと作業を見守っていた。

 何度か鉄板へ近づこうとするが、久我が気づいて声をかける。

 

「くま吉。今は待っていてください。結衣ちゃんは見つかりましたし、みんなで助けていますから」

 

 くま吉は動きを止めた。

 そして、邪魔にならない場所へ戻り、大きな体を丸めるようにして座った。

 

 ボタンの目には表情などない。

 それでも、何度も結衣のいる場所へ顔を向ける様子から、落ち着かないことだけは伝わってきた。

 

       *

 

 上部の資材が少しずつ安全な位置へ移され、消防隊員が内部へアクセスできる空間が確保された。

 

「結衣ちゃん、聞こえる? もう少しで助けられるからね」

 

「……うん」

 

 結衣は長時間閉じ込められ、寒さで震えていたが、呼びかけには答えられる状態だった。

 救助隊員は慎重に身体の状態を確認し、周囲の安全を確保しながら救出の準備を進める。

 

 途中、上部の仮設材がわずかにずれた。

 

「動きます!」

 

 久我が即座に腕へ力を込め、資材を支える。

 

「こっちは押さえました!」

 

「そのまま! 支持具を入れます!」

 

 消防隊員が追加の支持具を差し込み、固定する。

 安全を確認してから、作業が再開された。

 

 澪も救助に必要な機材を安全な経路で運び、現場の指示に従って動く。

 速く動くだけなら簡単だ。しかし今は、自分の速度で余計な事故を起こさないことの方が大事だった。

 

 そして、しばらくして。

 

「出ます!」

 

 消防隊員の声が響いた。

 

 狭い点検空間から、小さな体が慎重に引き上げられる。

 泥だらけの服。

 片方だけ残った赤い手袋。

 

 三島結衣だった。

 

 救急隊員がすぐに全身の状態を確認し、保温処置を始める。

 目立った出血はないものの、転落時に脚を痛めた可能性があり、詳しい検査が必要だった。

 それでも意識ははっきりしており、呼びかけにも答えられる。

 

 安全な場所で待機していた母親が、娘の姿を見て泣き出した。

 

「結衣!」

 

「……お母さん」

 

 救急隊員による確認が一段落すると、母親は結衣のそばへ駆け寄り、その小さな手を両手で包み込んだ。

 結衣も母親の顔を見て、ようやく安心したように涙を浮かべる。

 

 その後、結衣が短い言葉で事情を話してくれた。

 帰宅途中、赤い手袋の片方が風で飛ばされ、工事現場の仮囲いの内側へ入ってしまったという。

 それを拾おうとして隙間から入り、奥で足元の板が動いたところまでは覚えていた。

 

 現場に残っていた痕跡とも矛盾しない。

 転落の詳しい状況については、今後の調査で確認することになる。

 

       *

 

 結衣は、ふと視線を動かした。

 工事現場の端。

 そこには、巨大な茶色いクマが座っていた。

 

「……くま吉?」

 

 くま吉がゆっくりと立ち上がり、結衣の方へ近づこうとする。

 しかし、久我が一度手で制止した。

 

「ちょっと待ってください。今、結衣ちゃんは手当て中ですから」

 

 くま吉は立ち止まり、大きな体を少しだけ縮めるようにして座り直した。

 

 結衣が、小さな声で尋ねる。

 

「……来てくれたの?」

 

 くま吉が静かに頷く。

 

 久我は、預かっていた赤い手袋を取り出した。

 

「これ、くま吉が持ってきてくれたんですよ。俺たちに、結衣ちゃんを助けてほしいって伝えてくれたんです」

 

 結衣が手袋を見る。

 青い星の刺繍。

 

「……私の」

 

「はい」

 

 結衣が、くま吉の方へ顔を向ける。

 

「ありがとう、くま吉」

 

 大きなクマは何も言わなかった。

 ただ、深々と結衣に向かって頭を下げた。

 

 その仕草を見た結衣が、小さく笑った。

 母親も涙を拭いながら、くま吉を見つめている。

 

 やがて結衣は救急車へ運ばれ、病院へ向かった。

 くま吉は救急車が角を曲がって見えなくなるまで、ずっとその場で見送っていた。

 

       *

 

 結衣の救出は無事に完了した。

 警察は事故の経緯について調査を続け、建設会社側も仮囲いや仮設材の安全管理を点検することになった。

 

 もちろん、今回の件は単なる行方不明児童の救助では終わらない。

 八咫烏は警察と連携し、巨大なぬいぐるみの目撃情報や防犯カメラ映像の確認を進めていた。

 一般向けには大型着ぐるみに関する騒動として説明する方針だが、実際にくま吉が動くところを目撃した関係者には、別途対応が必要になる。

 特に児童館職員の小野寺や、結衣とその家族については、必要な範囲で事情を説明し、今後の情報の扱いについて協力を求めることになった。

 

 そして、八咫烏にはもう一つ、現実的な問題が残されている。

 この巨大なぬいぐるみを、どう扱うのか。

 

 街中を自由に歩き回らせるわけにはいかない。

 かといって、今回の行動を見る限り、危険な怪異として即座に破壊しなければならない理由も見当たらなかった。

 何しろ、行方不明になった子供の救助に協力しているのだ。

 

 児童館職員の小野寺が、不安そうに尋ねた。

 

「……あの子、もう児童館には戻れないんでしょうか」

 

 八咫烏の担当職員が答える。

 

「現時点では判断できません。自律して動く怪異である以上、安全性の確認と調査が必要になります」

 

 久我も頷いた。

 

「ただ、くま吉が結衣ちゃんを助けてくれたのは事実ですからね。そのことも含めて、今後どうするのがいいか考えてもらいましょう」

 

 小野寺は少しだけ安心したように息を吐いた。

 

 久我が、くま吉へ声をかける。

 

「くま吉。少しだけ、俺たちについてきてもらえませんか? まずは安全な場所で、あなたのことを調べたいんです」

 

 くま吉が首を傾げる。

 

「これからどうするかは、調査してから決めることになります。今すぐ児童館へ戻してあげるとは約束できませんけど、それでもいいですか?」

 

 巨大なクマは、しばらく久我を見つめていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

       *

 

 八咫烏の輸送担当者が、大型の搬送車両を用意した。

 

 くま吉は自分から荷台へ乗ろうとしたが、担当者が困惑した顔で久我を見た。

 

「……ちょっと待ってください。サイズが合わないかもしれません」

 

「え?」

 

「身長が二・四メートルですよね。立ったままでは、荷台の天井の高さが足りません」

 

「座ってもらえばいいんじゃないですか?」

 

「そうですね。あの、すみません。座ってもらえますか?」

 

 くま吉が荷台の中でちょこんと座る。

 すると、どうにか高さは収まった。

 

 しかし。

 

「……今度は幅が」

 

 くま吉の大きな両腕が邪魔になって、後ろの扉が閉まらないのだ。

 久我と澪が顔を見合わせる。

 

「くま吉、ちょっと腕を前に出してみて?」

 

 澪が身振り手振りで指示する。

 くま吉が「前ならえ」のように腕を伸ばした。

 

「そうそう。そのまま!」

 

 ガチャン!

 

 見事に扉が閉まった。

 輸送担当者が深い安堵の息を吐く。

 

「……助かりました」

 

 久我が苦笑する。

 

「巨大なぬいぐるみの輸送って、大変ですね」

 

「普通のぬいぐるみは、自分で座ってくれませんからね」

 

 澪が楽しそうに笑う。

 

「……確かに」

 

 怪異と戦うよりも、巨大なぬいぐるみの置き場所や輸送方法を決める方が、よっぽど大変そうだった。

 久我は、走り去っていく搬送車を見送りながら、少しだけ平和なため息をついた。




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