35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
金曜日の午後七時半。
ネオンが灯り始めた都内の繁華街を、久我陽介は少し居心地の悪そうな足取りで歩いていた。
定時で会社を上がったあと、一度自宅へ戻ってスーツから地味なジャケットとスラックスに着替えている。隣を歩くのは、ラフな黒いブルゾンを羽織った剣持と、落ち着いた私服姿の鏡宮千鶴だった。
一時間ほど前、八咫烏から今夜の臨時任務の連絡が入った。
内容は、違法な呪具や能力者向けの裏取引に絡んでいる『仲介屋』の男への接触だ。逮捕状が出ているわけではないため、強引に身柄を拘束する任務ではない。今夜、そいつが都内の飲食店に顔を出すという情報があり、実際に現れたら本人かどうかを確認し、可能なら少し話を聞いて感触を探る。それだけの内偵任務だった。
久我は、スマホに表示された目的地周辺の地図と、目の前にある雑居ビルを見比べた。
一階にはサラリーマンで賑わう焼き鳥屋が入っており、二階は歯科医院、三階は学習塾。どこからどう見ても、駅の近くによくある普通の古い商業ビルだ。
「……しかし、能力者専用のバーなんてものが本当にあるんですね」
久我がビルを見上げながら呟くと、半歩先を歩いていた剣持が鼻で笑った。
「そりゃあるだろ。能力者だって仕事が終われば酒くらい飲むし、息抜きもする」
「いや、それはそうでしょうけど。わざわざ専用の店にしなくても、普通の居酒屋でいいんじゃないですか?」
「お前、隣の席に普通の会社員や大学生が座ってる大衆居酒屋で、『昨日の現場の結界が甘かった』だの『呪物の相場が上がった』だのって話を大声でできるか?」
「……できませんね」
「そういうことだ。一般人に聞かれたらまずい話をする連中が集まるには、最初から同じ側の人間しか入れない箱があった方が手っ取り早いんだよ」
剣持の説明は至極まっとうだった。
一般社会において、能力や怪異の存在は秘匿されている。八咫烏のような公的機関の人間だけでなく、フリーの術者や情報屋、民間の能力者たちが、周囲の目を気にせず情報交換や商談をするための場所。需要がある以上、そういう店が存在するのは自然なことなのかもしれない。
エレベーターで五階へ上がる。
廊下の突き当たりには、看板すら出ていない重厚な木製の扉があった。
剣持が扉の横にある小さなインターホンを押し、カメラに向かって八咫烏側から事前発行された今夜の入店パスコードを短く告げる。
カチリ、と電子錠が外れる音がした。
扉を開けて中へ足を踏み入れた久我は、思わず目を瞬かせた。
勝手に想像していたのは、黒装束の魔術師や怪しげなフードを被った連中が、蝋燭の火の下で密談しているようなアングラな空間だった。
だが、実際の店内は驚くほど洗練された、ごく普通のオーセンティックバーだった。
少し落とした暖色系の照明。
磨き上げられた長いマホガニーのカウンターには、世界中の洋酒のボトルが整然と並んでいる。スピーカーからは控えめな音量でジャズのピアノ曲が流れ、白シャツに黒いベストを着たバーテンダーが、慣れた手つきでグラスを拭いていた。
フロアにはテーブル席がいくつもあり、すでに二十人以上の客がグラスを傾けている。
スーツ姿の男女や、Tシャツにジャケットを羽織った若者など、外見だけでは表の通りを歩いている一般人と何ら変わりがない。
ただ、耳に入ってくる会話の端々だけが、決定的に違っていた。
「――でさ、先週の依頼、結局結界担当を三人も追加で呼ぶ羽目になってさ。経費だけで赤字だよ」
「最近、欧州から流れてきてる術者が増えてるって噂、本当なのか?」
「あー、あれは向こうの情勢っていうより、単に日本の案件の単価が上がってるからだろ。円安だなんだって言っても、安全に稼げる現場は人気だからな」
「こないだ組んだ若い奴、出力だけは高いんだけど制御が甘すぎてさ。こっちまで巻き込まれるかと思ったぜ」
給料の愚痴、取引先の文句、業界の景気、若手の教育問題。
話している構造自体は、久我がよく知る新橋あたりの居酒屋のサラリーマンとまったく同じだ。ただ、そこに含まれる単語だけが『結界』や『術者』に置き換わっている。
「おー、今夜はそこそこ賑わってるじゃねえか」
剣持が店内をぐるりと見渡し、満足そうに顎をさすった。
そのあまりにも自然な態度に、久我はジトッと剣持の横顔を見た。
「……剣持さん、ここに来たことあるんですか?」
「ああ、まあな」
「八咫烏の仕事で?」
「そこはノーコメントだ」
剣持がニヤリと笑って誤魔化すのを見て、久我は小さくため息をついた。
どう見ても勝手知ったる様子だし、カウンターの奥にいるバーテンダーとも軽く目礼を交わしている。高校生のはずなのだが、裏社会の現場に長く身を置いている彼にとっては、こういう場所も日常の延長線上にあるらしい。
一方、久我の反対側に立つ千鶴は、入り口の近くで少し身を硬くしていた。
「……私、こういうお店に入るのは初めてです」
「まあ、千鶴さんは高校生ですからね。普通は来ませんよ」
「そもそも、未成年の私が入っても問題ない場所なのでしょうか」
千鶴が不安そうに周囲を見回す。
「八咫烏から店側には、業務上の同行者として事前に話を通してあるから大丈夫だ。ここはただの飲み屋じゃなくて、能力者同士のラウンジみたいな扱いだからな」
剣持がフォローを入れると、久我も千鶴に向かって人差し指を立てた。
「とはいえ、千鶴さんも剣持さんも、お酒は絶対に駄目ですからね」
「分かっています! いくら私が世間知らずでも、そこくらいは弁えています」
「いや、一応念のためです。雰囲気が雰囲気なので」
「おい久我、俺まで言われるのかよ。お前は心配性の保護者か」
剣持が呆れたように笑う。
「未成年を二人も連れて夜のバーに来てるんですから、大人として気にするのが当然でしょう」
久我が真面目な顔で言い返すと、千鶴は少しだけ緊張が解けたように小さく苦笑した。
*
店に入ってからは、事前の打ち合わせ通りに三人で役割を分担した。
今回の目標は、四十代半ばの痩せ型の男。左の眉尻に古い傷があり、薄い色のサングラスを好んでかけるという。
ただし、ここは八咫烏の管轄施設ではない。民間の能力者やフリーの傭兵たちが集まる中立地帯のような場所だ。八咫烏の権限を振りかざして客の顔を片っ端から覗き込んだり、不審者を尋問したりすれば、店全体の空気を敵に回すことになる。
剣持はカウンターの端の席に陣取り、ノンアルコールのトニックウォーターを注文して、バーテンダーや近くの客と当たり障りのない会話を始めた。
久我と千鶴は、フロア全体が見渡せる壁際の小さなテーブル席に腰を下ろした。
千鶴の目の前には、壁に飾られた大きなアンティーク調の鏡と、酒棚のガラス扉がある。《神鏡返し》の視覚を使えば、直接首を動かしてジロジロと見回さなくても、反射面を通じて店内の死角や出入りする客の顔を確認できる。もっとも、他人のプライバシーや秘密を無闇に覗き見るような使い方はせず、あくまで目標の男を探すためだけに意識を絞っていた。
久我はウーロン茶のグラスを片手に、扉が開くたびに現れる客の顔をさりげなく確認し続けた。
三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。
新しい客が何組か入ってきて、逆に会計を済ませて出ていく客もいる。
しかし、目標の男は一向に現れなかった。
一時間半ほど経った頃、カウンター席から立ち上がった剣持が、グラスを持って久我たちのテーブルへ歩いてきた。
「どうでした?」
久我が小声で尋ねると、剣持は小さく首を横に振った。
「駄目だな。マスターにそれとなく探りを入れてみたが、今夜は最初から顔を出してねえそうだ。別の情報屋と会う予定自体が流れたのか、こっちが網を張ってることに勘づいて場所を変えたのかは分からん」
「……空振りですか」
久我は肩を落とした。
金曜日の夜にわざわざ着替えて繁華街まで出てきて、ウーロン茶を二杯飲んだだけで終わりである。もっとも、戦闘になって血を見るよりは百倍マシなのだが、拍子抜けした感は否めない。
「まあ、こういう仕事じゃよくあることだ。相手が来なきゃ話にならん」
「今日はもう、これで終了でしょうか?」
千鶴の問いに、剣持は頷いてスマートフォンを取り出した。
「ああ。本部に目標未確認で連絡を入れておく。ここで無理に粘って目立っても意味がねえし、撤収するか」
剣持が八咫烏の連絡窓口へ短いテキストを送り、すぐに了承の返信が戻ってきた。
会計は八咫烏の経費用のコードで処理される。
三人は席を立ち、出口の木製扉へと向かって歩き出した。
あと数歩で扉に手が届くという、その時だった。
「――あら?」
背後から、よく通る女性の声が響いた。
久我の足が、ピタリと止まる。
「あらあら。ちょっと、いつかの吸血鬼さんじゃない?」
聞き覚えのある声だった。
しかも、久我の記憶の引き出しの中でも、とびきり血生臭くてロクでもない分類に入っている声だ。
久我はゆっくりと振り返った。
バーの照明の下、少し離れた丸テーブルの横に、一人の女性が立っていた。
長い黒髪。スラリとした長身に、仕立ての良さそうな黒いコートを肩から羽織っている。片手には琥珀色の液体が入ったロックグラスを持ち、赤い唇には余裕たっぷりの笑みが浮かんでいた。
久我の背中を、冷たい汗が一筋伝った。
忘れるはずがない。
以前、呪物《哭き骨の楔》の偽装輸送任務で、久我と火神蓮司が乗っていたトラックを単独で襲撃してきた女だ。目に見えない謎の斬撃でトラックの装甲を紙切れのように切り裂き、久我の両腕をズタズタにして、《血装》を発現させる直接の原因を作った張本人。
久我の表情から、一瞬で日常の緩みが消え去った。
視線を女のグラスを持っていない方の手元へ走らせる。距離は約四メートル。周囲には無関係な客が十数人。出口の扉までは二メートル。
今この瞬間にあの不可視の斬撃が飛んでくれば、どうやって千鶴を庇いながら外へ出るか。思考が勝手に戦闘モードへと切り替わり、いつでも両腕へ血液を噴出させて《血装》を固められるよう、全身の筋肉が張り詰めた。
「……久我さん?」
隣にいた千鶴が、久我の尋常ではない緊張を察知して声を潜める。
「千鶴さん、少し俺の後ろへ下がってください」
久我が小声で指示を出すと、千鶴も即座に表情を引き締め、半歩後ろへ位置を取った。
ところが当の黒コートの女は、戦闘態勢に入るどころか、氷の入ったグラスをカランと揺らしながら、心底おかしそうに目を細めた。
「ちょっと、そんな怖い顔しないでよ。私、今夜は武器も何も出してないでしょう?」
「……あなた、手ぶらでも人を切り刻めるじゃないですか。ここで何をしてるんです?」
「何って、見れば分かるでしょう。お酒を飲みに来たんだけど?」
女は心外だと言わんばかりに肩をすくめ、グラスの酒を一口飲んだ。
「今日は完全にオフなの。誰からも依頼は受けてないし、仕事じゃないから何もしないわよ」
「オフだから何もしないって言われて、はいそうですかと納得できるわけないでしょう」
「あら、まだあの時のことを根に持ってるの? あれはお互いに仕事だったじゃない。私は荷物を取りに行って、あなたはそれを守った。で、中身が偽物だったから私は帰った。もうとっくに終わったお仕事でしょう?」
「……こっちは、あんたに両腕を切り裂かれて本気で死にかけたんですよ」
「でも、ほら。ピンピンして生きてるじゃない。なら結果オーライよ」
あまりにもあっけらかんと言い放つ女に、久我は開いた口が塞がらなかった。
そこへ、一歩後ろで様子を見ていた剣持が、ポケットに手を突っ込んだままフラリと歩み寄ってきた。
「おう、久我。なんだ、知り合いか?」
「知り合いというか……前に、俺と火神さんの輸送車を襲ってきた襲撃犯です」
久我が険しい声で告げると、剣持は女の上から下までを値踏みするように見渡し、「ああ」と納得したように頷いた。
「例の報告書の奴か。へえ、あんたがあの時の」
「あら、そっちのお兄さんも八咫烏の人? 今日はお仕事?」
「いや、さっき空振りで終わったところだ」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない!」
女がパッと顔を輝かせた。
久我は、剣持の横顔を信じられないものを見る目で睨んだ。
「……ちょっと待ってください、剣持さん」
「なんだ?」
「なんだ、じゃなくて。この人、以前八咫烏の輸送車を襲撃した相手ですよ? なんでそんなに普通に世間話をしてるんですか」
「だってよ、今ここで暴れるつもりはなさそうだろ」
「そういう問題ですか!?」
「そういう問題だよ。ここで刀抜いて大立ち回りを始めたら、店のボトルが全部割れるじゃねえか。マスターに出禁にされるぞ」
剣持はこともなげに言う。
もちろん、剣持とて本当に無警戒なわけではない。彼の立ち位置は久我と千鶴をさりげなくカバーできる角度にあるし、女が少しでも妙な魔力の兆候を見せれば、コンマ一秒で踏み込めるだけの重心は保っている。
ただ、このバーという場所の性質と、目の前の女に今現在『戦う理由』がないことを見極めて、無駄な衝突を避けているのだ。
「そうそう、そっちのお兄さんは話が分かるわね。ねえ、立ち話もなんだし、せっかくだから一緒に飲まない? そこの奥のボックス席、ちょうど空いたところよ」
「……え?」
女の突拍子もない提案に、久我がフリーズする。
しかし、その横で剣持があっさりと頷いた。
「お、いいな。行くか」
「剣持さん!?」
「お前、ウーロン茶二杯で帰るの寂しいって顔してただろ」
「してませんよ! なんで俺を切り刻んだ人とテーブルを囲まなきゃいけないんですか!」
久我の抗議はむなしく響き、女は「決まりね!」と上機嫌で奥のテーブルへと歩き出してしまった。
*
結局、四人で店の奥にある革張りのボックス席を囲むことになった。
向かい側に黒コートの女がゆったりと座り、その斜め向かいに剣持が足を組んで腰を下ろす。
久我は千鶴を壁際の安全な奥の席へ座らせ、自分はいつでも立ち上がって盾になれる通路側に座った。背筋は伸びきり、視線は女のグラスを持つ手から一ミリも外れていない。
そのガチガチの警戒ぶりを見て、女は頬杖をつきながらクスクスと笑った。
「吸血鬼さん、そんなに肩に力を入れてると疲れちゃうわよ? さっきから私がグラスを動かすたびに、目つきが殺気立ってるわ」
「一度やられている人間としては、これが正常な危機管理です」
「もう、本当に真面目なんだから。何度も言うけど、あれはただのビジネスよ。私は依頼人からお金をもらってあの呪物を回収しに行っただけ。あなた個人に恨みがあったわけじゃないし、オフの日にまで無償で人を斬ったりしないわよ。コスパが悪いじゃない」
「……仕事なら許されるって理屈は、やっぱり納得いきませんけどね」
「別に許してほしいなんて言ってないわよ。ただ、この世界じゃ、昨日の敵が明日の味方になることなんて日常茶飯事なの。いちいち過去の現場の敵対関係をプライベートにまで持ち込んでたら、どこの店にも入れなくなっちゃうわ。逆に、昨日まで同じチームで背中を預けてた相手と、翌週には別の依頼で殺し合うことだってあるんだから」
女はロックグラスの氷を回しながら、まるでオフィスの人事異動の話でもするかのように淡々と語った。
「……昨日まで味方だった相手と、殺し合うんですか?」
「ええ。雇い主が違えば、目的も立場も変わるもの。そういう時に『あの人はいい人だったから撃てません』なんて言ってたら、自分が死ぬか、プロとしての信用を失うかよ。だから、仕事が終わればその場での敵対関係も一旦リセット。そういう割り切りができないと、こっち側では長く生き残れないわ」
久我が眉をひそめて隣を見ると、剣持もまた、新しく届いたトニックウォーターのグラスを受け取りながら、当然のように頷いていた。
「まあ、フリーの連中や傭兵稼業の奴らは、だいたいそういう頭の切り替えをしてるな。八咫烏だって、場合によっちゃ過去にやり合った外部の術者に協力を依頼することはある。仕事の敵と、個人的な仇は別ってことだ」
「……剣持さんまで、それが普通みたいに言いますね。俺には、命のやり取りをした相手と笑って酒を飲む感覚は、どうしても理解できそうにありません」
「お前はそれでいいんだよ」
剣持が、少しだけ真面目な声で言った。
「お前は昼間、真っ当な会社で働いてる普通の社会人だろ。無理にこういう裏の連中のネジが外れた感覚に合わせる必要はねえ。ただ、『世の中にはそういう考え方をする奴らがいる』ってことだけ知っておけば、変に消耗しなくて済むって話だ」
「そうそう! 私も別に、あなたに私を信用しろなんて言ってないのよ?」
女が楽しそうに言葉を継ぐ。
「来週、私がまた八咫烏と敵対する依頼を受けたら、その時はまたあなたを斬るかもしれないもの。だから、あなたが私を危険人物として警戒しておくのは百点満点に正しいわ。ただ、『今この瞬間は敵じゃない』っていうだけ」
「……それにな、こういう能力者向けのバーで、仕事の遺恨を持ち出して暴れる奴は、業界全体から徹底的に嫌われる」
剣持がグラスを傾けながら補足した。
「ここに特別な戦闘封じの結界が張ってあるわけじゃねえが、暗黙のルールみたいなもんだ。酒を飲みに来てる他の客を巻き込んで店を壊してみろ。情報屋からは情報を止められ、仲介屋からは仕事を干され、居場所がなくなる。だから、よっぽどの馬鹿じゃなけりゃ、店の中では牙を引っ込めるんだよ」
「ええ。少なくとも、私がこの美味しいウイスキーを飲み終わるまではね」
女がいたずらっぽく片目を閉じてみせた。
久我は大きく息を吐き出し、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。理屈としては理解できた。理解はできたが、釈然としないものは胃のあたりに重く残っている。
*
「ところで吸血鬼さん、あれからどんな仕事をしてたの? まだ八咫烏で働いてるんでしょう?」
女が興味深そうに身を乗り出してきた。
「……正式な職員じゃなくて、外部の協力員みたいな立場ですけどね。昼間は普通の会社員をしてますから」
「へえ、二足の草鞋なのね。で、八咫烏ではいつもあんなふうに危険な呪物の輸送ばかりしてるの?」
「いえ、あれはたまたま回ってきた任務で……」
久我は言葉を選んだ。
目の前の女は、今はオフだと言っているが、いつ敵に回るか分からない外部の人間だ。有料怪異情報サイトの裏事情や、鏡宮家の内部問題、宮原のWikiのような機密性の高い話は当然口にできない。
だが、すでに処理が終わった単発の怪異案件を、場所や詳細をぼかして世間話として出す程度なら問題はないだろう。
「普段はもっと、地域の夜回りとか、突発的な怪異の対処とか……そういう雑多な仕事が多いですね」
「怪異の対処? たとえば?」
「……こないだは、夜の高速道路に三十メートルくらいの巨大な魚が迷い込んできたので、そいつを近くの川まで誘導して落とす仕事をしました」
女の手がピタリと止まった。
数秒間、美しい顔がポカンと空白になる。
「……魚?」
「はい。巨大な魚です」
「高速道路に?」
「ええ。アスファルトの上を泳いでまして。車がぶつかって事故になりかけていたので、みんなで必死に川の方へ追い込みました」
女はグラスを持ったまま、まじまじと久我の顔を見つめた。
「……何それ?」
「俺も現場でまったく同じことを思いましたよ」
「ぷっ……あはははは! ちょっと、何よそれ! 高速道路で魚を追いかけ回してたの!?」
女がツボに入ったように声を上げて笑い出した。
「こいつ、どういうわけか普段からそういう変な案件ばっかり引くんだよな」
剣持もニヤニヤしながらトニックウォーターを飲んでいる。
「好きで引いてるわけじゃありませんよ。……つい最近なんて、夜中に住宅街を二足歩行で歩いていた、二メートル以上の巨大なクマのぬいぐるみを保護しましたし」
「ぬいぐるみ!? なに、着ぐるみの中に変質者でも入ってたの?」
「いえ、中身は綿でした。児童館に置いてあった古いぬいぐるみが勝手に動き出して、工事現場の穴に落ちた女の子を助けるために人を呼びに来てたんです。最後は輸送車の荷台に体育座りで乗せて運んでいきました」
女はもう、お腹を抱えてテーブルに突っ伏しそうになりながら笑っていた。
「待って、お腹痛い……! あの時、私の斬撃を血の鎧で必死に防いでたお兄さんが、普段は道路で魚を誘導したり、迷子のクマさんを保護したりしてるの!? いったい何の仕事なのよ、それ!」
「俺が聞きたいくらいです。最近はもう、八咫烏の便利屋かなにかだと思って諦めてますよ」
久我が自虐的にぼやくと、隣で静かに話を聞いていた千鶴まで、口元に手を当てて小さく吹き出した。
*
「いやあ、面白いわねえ。でもまあ、仕事のうちはいろいろ変なこともあるでしょうけど、お休みの日くらいはゆっくり羽を伸ばせてるんでしょう?」
女が目尻の涙を拭いながら言った。
久我は、遠い目をしてグラスの氷を見つめた。
「……そのオフの日の仕事帰りに、偶然すれ違った人狼の吸血鬼ハンターに、いきなり心臓を抉られかけたんですけどね」
女の笑顔が、ピタリと止まった。
「……ちょっと待って。それ、八咫烏の任務じゃなくて?」
「はい。ただ会社から家に帰る途中で、普通の生活道路を歩いてただけです」
「あなたがそのハンターに何か仕掛けたの?」
「初対面で、挨拶された瞬間に手刀が飛んできました。『たまたま吸血鬼の匂いがしたから狩る』って言って、道路標識を引っこ抜いて殴りかかってきたんです」
一瞬の静寂。
次の瞬間、女は今日一番の大きな声で爆笑した。
「あはははははは! 嘘でしょう!? あなた、どれだけの悪運を持って生まれたらそんな目に遭うのよ!」
「笑い事じゃありませんよ! 本当にあと少しで心臓を抉られるところだったんですから!」
「ごめんなさい、だってあまりにも不憫すぎて! そりゃ死にかけたでしょうね、人狼のハンターなんてフィジカルの塊みたいな連中だもの!」
女はひとしきり笑ったあと、ふっと呆れたように息を吐いてグラスを置いた。
「……まったく。だから私は、吸血鬼ハンターって連中があんまり好きになれないのよね。ほんと野蛮だわ」
「……あの、トラックをいきなり切り刻んでおいて、他人のことを野蛮って言うのはどうなんですか?」
「あら、一緒にしないでちょうだい。私はちゃんとした依頼と報酬がある『仕事』でしか手は出さないもの。お金にもならないのに、休日に道端でたまたま見かけた相手へ私怨や主義主張で襲いかかるなんて、プロとして理解できないわ」
女は心底軽蔑したように言った。
久我は、思わず反論しかけて口をつぐんだ。どちらも自分にとっては命の危険があったという点で変わらない。
「ちなみに……ダニエルっていう、日本語がやたら流暢な大柄のハンターなんですけど、聞いたことあります?」
久我が尋ねると、女は少し視線を天井へ向けて記憶を探る素振りを見せた。
「ダニエル……ダン、かしら。ああ、名前くらいは何度か聞いたことがあるわね。確かアメリカの方をベースにしてる人狼でしょう?」
「知ってるんですか。やっぱり、相当タチの悪い狂犬として有名なんですかね」
「いいえ? 私が風の噂で聞いた限りじゃ、仕事上の評判はむしろかなり良かったはずよ」
「……え?」
予想外の答えに、久我は目を丸くした。
「依頼されたターゲットは確実に仕留めるし、契約の条件や期限はきっちり守る。雇い主への態度も明るくて紳士的だって聞いてたわ。少なくとも、表向きの仕事の場ではね」
久我は、少し前の廃倉庫での出来事を思い出した。
確かにあの男は、仕事となれば依頼の条件をきっちり守っていた。久我たちにも気さくに接していたし、普段の振る舞いだけなら、通りすがりの吸血鬼を襲うような男には見えなかった。
「……ああ。言われてみれば、仕事中はそういう感じでした」
「でしょう? でも、オフの日に通りすがりの吸血鬼を襲うような趣味があるなんて話は、私も知らなかったわ。雇い主の前では猫を被って、そういうプライベートな部分を隠してたんじゃない?」
「外面だけはいいってことですか。……実は俺、そのダンと後になって仕事で一緒になったことまであるんですよ」
「はあ!? 何それ、どういう状況よ!」
「あんなことがあった相手なのに、仕事中は妙に礼儀正しくて。『今は仕事なんだから、ちゃんとやろうぜ』って、むしろ俺が言われたくらいです」
「あはははは! 最高じゃない! ねえお兄さん、この人ほんとに退屈しない人ね!」
女がバンバンとテーブルを叩いて喜び、剣持も「俺も最初は耳を疑ったぜ」と笑っている。
仕事中は敵として久我を斬り、オフの日は笑顔で酒を勧めてくる目の前の女。
オフの日は吸血鬼として久我を殺そうとし、仕事中は契約を守って味方として肩を組んでくるダン。
どちらも『仕事と私生活を完全に切り分けている』はずなのに、ベクトルが真逆すぎて、間に挟まれる久我としてはたまったものではなかった。
*
「日本って、八咫烏がガッチリ目を光らせてるせいか、吸血鬼ハンター自体がかなり少ないでしょう?」
女が空になったグラスを置き、二杯目を注文しながら話を続けた。
「そうなんですか? 俺はそのダンくらいしか見たことがないですけど」
「ええ。アメリカなんかに行くと、もっとゴロゴロいるわよ。あっちは土地が広い分、未登録で好き勝手やってる吸血鬼の数も多いし、それを専門に狩る賞金稼ぎや組織がいくつもあるから」
女の口から語られる海外の事情は、久我にとって新鮮だった。
一口にハンターと言っても、行政や警察と裏で提携して凶悪犯罪者だけを処理する実務的な連中もいれば、宗教的な背景や個人的な復讐心から『吸血鬼という種族そのもの』を悪と見なして無差別に抹殺しようとする過激派もいるという。
「私は、ああいう思想が絡む連中とはなるべく関わらないようにしてるの。仕事の現場で鉢合わせると、依頼の目的そっちのけで暴れ出すから面倒なのよね」
「……アメリカにもいたことがあるんですか?」
「もちろん。アメリカも行ったし、ヨーロッパの古い街にもいたし、アジア圏もあちこち回ったわ。良い報酬の仕事があれば、世界中どこへでも行くもの」
「仕事があるたびに国を移動するって……ビザとか、能力者の越境手続きとか、いろいろ大変じゃないですか?」
久我が会社員らしい実務的な疑問を口にすると、女は軽く手を振った。
「そういう面倒な書類仕事は、全部雇い主や仲介屋に用意させるのよ。私は身一つで飛行機に乗って、現場で仕事をして、お金をもらったら次の街へ行くだけ。同じ場所にずっと縛られて暮らすのって、性に合わないのよね」
「特定の組織に属さない、完全なフリーランスの傭兵ってわけか」
剣持の言葉に、女は「そんなところね」と気分良さそうに頷いた。
その時、それまで壁際の席で静かにウーロン茶を飲んでいた千鶴が、ふと顔を上げた。
「……あの」
「ん? なあに、お嬢ちゃん」
女が千鶴へと視線を向ける。
「そういえば、あなたのお名前もまだ聞いてなかったわね。見たところ、まだ高校生くらいでしょう? そんな歳から八咫烏のお手伝いなんて、大変ねえ」
「鏡宮千鶴と申します。……少し事情がありまして、今は八咫烏にお世話になっています」
「へえ、鏡宮ちゃんね。まあ、この業界じゃ若い子が現場に出るのも珍しくはないわ。で、何か聞きたいことでもあった?」
女は、『鏡宮』という苗字を聞いても特別な反応は示さなかった。海外を飛び回っている彼女にとっては、日本の京都にある古い旧家の内部事情や、土地神との因習など、関心の外にあるのだろう。
そのあっさりとした態度が、かえって千鶴には話しやすかったようだった。
「先ほど、世界中どこへでも行くとおっしゃっていましたが……住む場所も、その都度変えていらっしゃるのですか?」
「ええ。気に入った街があればホテルを長期で借りて数ヶ月くらい滞在することもあるけど、飽きたり次の仕事が入ったりしたら、トランク一つで別の国へ引っ越すわ」
「ご家族や、その土地の役割に縛られたりすることはないのですか?」
「全然ないわね。私を縛れるものなんて、せいぜい契約書の違約金条項くらいよ」
女が冗談めかして笑うと、千鶴はほんの少しだけ目を細め、羨ましそうに微笑んだ。
「……そのような生き方もあるのですね。自分の行きたい場所へ、自分の意思だけで歩いていけるというのは……とても素敵だと思います」
「あら、興味あるの? あなたも高校を卒業したら、パスポート取ってフラフラしてみたらいいじゃない」
「いえ。私には……おそらく、そのような生活は縁がないと思いますので」
千鶴は自分の膝の上で手を重ね、静かに首を振った。
久我は黙ってグラスを見つめた。
久我は、鏡宮家が抱える問題を思い出した。京都の土地神との契約、母親の現在の状態、そして千鶴自身がまだ答えを出していない将来のこと。自由に世界を渡り歩くのは、彼女にとって簡単に選べる生き方ではないのだろう。
事情を何も知らない黒コートの女は、千鶴の少し大人びた諦観を見て、面白そうに唇の端を上げた。
「ふうん。でもね、鏡宮ちゃん。人生なんて、一寸先に何が起きるか誰にも分からないものよ?」
「……そうでしょうか」
「そうよ。今はそんなふうに真面目な顔をしてても、来年あたり突然、どこかの悪い男に引っかかって、全部放り出して海外へ駆け落ちしちゃうかもしれないじゃない!」
千鶴が目を瞬かせ、それから困ったように頬を緩めた。
「……さすがに、それは少しも想像がつきませんね」
「あら、分からないわよ? 私が見てきた限り、私は絶対に大丈夫って思ってる真面目な子に限って、ある日突然とんでもない選択をして周りをひっくり返したりするんだから」
「はあ……気をつけるようにいたします」
千鶴が苦笑混じりに頭を下げ、久我も思わず小さく笑みを漏らした。
女にとっては、年下の少女をからかっただけの他愛のない冗談だ。だが、決められたレールの上しか知らなかった千鶴にとって、そんな無責任で軽やかな言葉は、少しだけ新鮮に響いているようだった。
*
会話がひと段落したところで、それまでグラスを傾けながら女の所作を観察していた剣持が、ふいに低い声で切り出した。
「なあ、あんた。ついでに一つ聞いていいか」
「なあに?」
「あんた、Tierいくつだ?」
久我は内心でギョッとした。
能力者のランクを直接尋ねるのは、相手の手の内や戦闘力を探るかなり踏み込んだ質問だ。
しかし、女は気分を害する様子もなく、剣持の目を真っ直ぐに見返してニコリと笑った。
「あら、ストレートに聞くわね」
「前から気になってたんだよ。この久我と、うちにいる火神っていう手練れの魔術師が二人がかりで相手をして、手も足も出ずに荷台ごと切り刻まれたって報告書を読んでるからな。相当なもんだろ」
「ふふ、報告書になんて書かれてるのか知らないけど……そうねえ」
女はグラスを口元へ運び、氷が鳴る涼やかな音とともに、あまりにもあっさりと答えた。
「Tier1よ」
久我の思考が、数秒間完全にフリーズした。
「……え?」
「何よ、吸血鬼さん。急に固まっちゃって」
「いや……今、Tier1って言いました?」
「ええ、言ったわよ」
「……本当に?」
「こんなところで初対面の男の子にハッタリかまして、私に何の得があるのよ」
女が呆れたように笑う。
剣持は、驚くというよりも「やっぱりな」と合点がいったように深く息を吐いた。
「どうりで、あの火神が『最初から格が違った』って渋い顔をしてたわけだ。Tier1の単独襲撃じゃ、通常の輸送班で止められるわけがねえ」
「あら、褒めてくれても何も出ないわよ?」
二人が普通に会話を続けている横で、久我は自分の両腕を思わず見下ろしていた。
八咫烏の基礎講習で見た、あのヤタッピの解説映像が脳裏に蘇る。
Tier1――国家戦略級。単独で一個軍隊に匹敵し、戦局そのものを左右する、人間の能力者としての事実上の到達点。
しかも、目の前の女は戦闘に特化した能力者らしい。そんなTier1が、今は目の前で酒を飲んで笑っているのだ。
久我は、あの夜の高速道路下の戦いを思い返した。
見えない斬撃。血を流しながら必死に編み出した《血装》。火神の《氷杭》と《風弾》に合わせ、《内在時間》まで秘密裏に使って、死に物狂いで斬撃に抗ったあの戦い。
自分としては、持てる力のすべてを振り絞って、どうにか相手が撤退するまで持ち堪えたつもりだった。
「……あの」
久我は、かすれた声で女に尋ねた。
「あの時の襲撃……もしかして、手加減してたんですか?」
女は、何を今さら当たり前のことを聞くのか、というようにきょとんと目を丸くした。
「そりゃそうよ」
「……」
「ちょっと、何よその顔」
「いや……こっちは全身血まみれになって、本気で死ぬかと思ったんですけど!」
「私が最初から殺す気で本気を出してたら、あなたたち、トラックから降りてきた最初の三秒でトラックごと細切れになってたわよ?」
さらりと、恐ろしいことを言う。
久我は完全に言葉を失った。
「まあ、Tier1が相手ならそうだろうな。生きて帰れただけでも儲けもんだ」
「剣持さんまで納得しないでくださいよ!」
千鶴も、目の前で楽しそうに笑っている女性の危険度を改めて認識したのか、少しだけ表情を硬くしている。
「……じゃあ、なんであの時、俺たちを殺さなかったんです?」
久我は、ずっと引っかかっていた疑問をぶつけた。
「本気を出せば三秒で殺せたなら、さっさと俺たちを始末してコンテナを開けた方が、仕事として早かったんじゃないですか?」
女はグラスをテーブルに置き、少しだけ真面目な目をして久我を見た。
「だって、あなたたちを殺す必要がなかったもの」
「……必要?」
「私のあの夜の依頼は、『輸送されている《哭き骨の楔》を奪取すること』。八咫烏の護衛を皆殺しにすることじゃなかったわ。手足を斬って動けなくすれば目的は達成できるのに、わざわざ殺して死体を増やしたら、八咫烏の上層部がメンツを潰されて本気で私を追いかけてくるでしょう? 報酬も変わらないのに、そんな余計なリスクと面倒を増やす理由がないじゃない」
女は淡々と言った。
「勘違いしないでちょうだい。私はプロとして仕事をしてるだけで、好きで人殺しをしてる快楽殺人鬼じゃないの。殺す必要がない現場では殺さない。……もちろん、依頼の達成にどうしても必要なら、躊躇なく殺すけどね」
久我の背筋に、ゾクリと冷たいものが走った。
あの夜、自分と火神が生き延びることができたのは、決して久我の《血装》や《内在時間》が彼女を追い詰めたからではなかった。ただ単に、彼女のビジネス上の計算において『殺すメリットがなかったから』生かされただけに過ぎない。
もしあのトラックに本物の呪物が積まれていて、久我が最後までコンテナから退かなかったら。彼女はその時点でためらいなく出力を上げ、久我の首を落としていただろう。
自分の実力の現在地と、世界の広さをまざまざと突きつけられ、久我はしばらく黙り込んだ。
「あら、なんだか一気に落ち込んじゃったわね」
女が、黙り込んだ久我の顔を覗き込んで笑う。
「……いや、まあ。自分が思っていた以上に、力の差があったんだなと実感しただけです」
「仕方ないじゃない。あなた、吸血鬼になってからまだそんなに経ってないんでしょう? あの時なんて、戦ってる最中に見様見真似で血を固める能力を覚えたくらいだったじゃない。それであれだけ私の足止めをしたんだから、新人としてはかなり頑張ってた方よ」
「……それ、慰めてるんですか?」
「褒めてるのよ、素直に受け取りなさいな」
「……ありがとうございます」
切り刻まれた相手から上から目線で成長を褒められても、三十五歳の会社員としては微塵も嬉しくなかった。
*
「もう、せっかくのお酒の席なのに、そんな湿っぽい顔しないの!」
女がパンッと手を叩いた。
「よし、決めたわ。吸血鬼さん、今夜は私があなたたちに奢ってあげる!」
「……は?」
「あの時ちょっと切りすぎちゃったお詫び、ってわけじゃないけど、再会記念よ。ほら、まだウーロン茶しか飲んでないでしょう? 何かお酒を頼みなさい!」
「いや、結構です。遠慮します」
「どうしてよ?」
「自分を殺しかけた相手から酒を奢られるなんて、どんな罠があるか分かったもんじゃないからですよ!」
久我が本気で警戒して拒否すると、女はまたしても声を上げて大笑いした。
「あははは! お酒に毒でも盛られると思ってるの!? そんな回りくどいことするわけないでしょう、私がやるならその場でスパッと斬るわよ!」
「その言い方がすでに怖いって言ってるんです!」
久我が頭を抱える横で、剣持は「ラッキーじゃねえか。高いノンアルのやつ、頼んでいいか?」と完全に乗り気だ。
女は、壁際で目を丸くしている千鶴へ優しい視線を向けた。
「鏡宮ちゃんは未成年だものね。ノンアルコールのカクテルかソフトドリンク、好きなものを頼みなさい」
「あ……ありがとうございます。では、ジンジャーエールをいただけますか」
「いいわよ。バーテンダーさん、こっちにジンジャーエールを一つ!」
女が手を挙げて店員を呼ぶと、久我は慌てて横から口を挟んだ。
「すみません、本当にアルコールが入っていないやつでお願いしますね。間違いがあるとまずいので」
「久我さん、お店の人もプロなのですから、そこまで念を押さなくても大丈夫です!」
千鶴が顔を赤くして抗議する。
「あはは、ほんとに過保護なお父さんみたいねえ」
「だろ? こいつ、どこに行ってもこんな感じなんだよ」
女と剣持に揃ってからかわれ、久我はむっと口を結んだ。
「ほら、吸血鬼さんは何を飲むの? もう任務は終わったんでしょう?」
確かに、本来の接触任務はとっくに空振りで終了しており、本部への撤収報告も済んでいる。これ以上ウーロン茶で粘る理由もないし、ここで頑なに拒み続けて場の空気を悪くするのも大人気ないか、と久我は観念した。
「……じゃあ、ハイボールを。薄めでお願いします」
「よろしい!」
数分後、ハイボール、ウイスキー、ジンジャーエール、そして剣持が選んだノンアルコールカクテルの四つがテーブルに並んだ。
女が自分のロックグラスを軽く掲げ、カチンと久我のグラスに合わせる。
「乾杯。……ふふ、まさかあの時の護衛のお兄さんと、こうしてバーで乾杯する日が来るとは思わなかったわ」
「それはこっちの台詞です。本当に、意味の分からない世界ですね」
久我はハイボールを一口飲んだ。
冷たい炭酸とウイスキーの香りが喉を通る。毒は入っていないし、もちろん普通においしい。
「あら、人生なんて何があるか分からないから面白いんじゃない」
女は機嫌よく酒を飲みながら、先ほど千鶴へ言ったのと同じ言葉を口にした。
*
「で、実際のところどうなの? お行儀のいい八咫烏の下請け仕事って、やっぱり苦労が多いんでしょう? お姉さんが愚痴くらい聞いてあげるわよ」
アルコールが回ってきたのか、女がテーブルに肘をついてニヤニヤと尋ねてきた。
「あなたに話せるような愚痴なんて、そう多くはありませんけどね……」
「こいつ、現場で身体を張らされるだけじゃなくて、事後の書類仕事だの報告書だので毎回死にそうな顔してるからな」
剣持が余計なパスを出す。
「あらあら、それは大変ねえ! 命懸けで働いたあとに事務作業までさせられるなんて、私なら絶対に御免だわ」
「現代日本の組織ですから、そこは避けて通れないんですよ……」
久我はグラスを傾けながら、機密に触れない範囲で日頃の鬱憤を少しだけ吐き出した。
夜中に突然呼び出されて、現場に着くまで相手が幽霊なのか物理的な怪物なのかすら分からないこと。
命からがら解決しても、壊れた道路や施設の状況報告を細かく書かされること。
そして何より、昼間の会社の仕事と夜の活動の板挟みで、常に睡眠時間やスケジュール管理に追われていること。
「……こうして言葉にしてみると、俺、吸血鬼になってからもやってることの本質が会社員時代とあんまり変わってない気がしますね」
「前は会社で都合よく使われて、今は八咫烏で便利屋として使われてるってわけね。あはは、でもそれだけいろんな現場に放り込まれてまだ五体満足で生きてるんだから、たいしたものよ」
「褒められてるのか馬鹿にされてるのか、判断に困ります」
「褒めてるに決まってるじゃない」
そんなふうに軽口を叩き合っているうちに、グラスの中身が少しずつ減っていった。
最初こそ今にも斬りかかられるのではないかと身構えていた久我だったが、こうして三十分も話していると、少なくとも『今夜の彼女』がただの酒好きな大人の女性であることだけは認めざるを得なかった。
「――まあ、お互いこの業界で仕事を続けていれば、またどこかの現場で鉢合わせることもあるでしょうね」
氷の溶けたグラスを揺らしながら、女がふと言った。
「……次は、今日みたいに酒を飲む場じゃないってことですか」
「さあ、どうかしら。もしかしたら、今度は同じ雇い主の下で『味方』として一緒に仕事をするかもしれないわよ?」
「あなたが、八咫烏の側に?」
「八咫烏が私に相応の報酬を払ってくれるなら、喜んで力を貸すわよ。さっきも言ったでしょう、私はフリーなんだから」
隣で聞いていた剣持も、否定せずに頷いた。
「実際、八咫烏の手に負えない海外絡みの厄介事なんかで、外部のTier1クラスをスポットで雇う例はなくはねえからな」
「……前まで自分を殺そうとしてきた相手に、味方として背中を預けるんですか?」
「それが仕事なら、私はきっちりあなたの背中を守るわよ。……まあ、逆にまた別の依頼人から頼まれて、あなたの敵として前に立つ可能性も同じくらいあるけどね!」
「……やっぱり、信用はできませんね」
「あはは、それでいいのよ!」
女が愉快そうに笑う。
久我はふと思いついて、ずっと聞いていなかった基本的な質問を口にした。
「そういえば、俺、あなたの名前をまだ聞いていないんですけど」
「あら、そうだったかしら?」
「はい。報告書にも『黒コートの女』としか書けなくて不便だったんです」
女は赤い唇に人差し指を当て、少しだけ考えるような仕草をしてから、艶やかに微笑んだ。
「じゃあ、それは次にどこかの現場で会った時のお楽しみにしておきましょうか」
「……教えてくれないんですか」
「だって、今日は『吸血鬼さん』と『お姉さん』でちゃんと会話が通じてるじゃない。オフの日の飲み会に、堅苦しい名刺交換なんていらないでしょう?」
軽くいなされ、久我は微妙な顔をした。
もっとも、彼女が自分の本名を大仰な秘密として隠しているというよりは、単なる気まぐれでからかっているだけのように見えた。
*
壁際の席でジンジャーエールを飲み干した千鶴が、控えめに腕時計へ目を落とした。
時刻はすでに午後十時を回っている。高校生である千鶴を、これ以上深夜の酒場に付き合わせるわけにはいかない。
「……そろそろ、お暇しましょうか」
久我が声をかけると、剣持も残りのノンアルコールカクテルを飲み干して立ち上がった。
「そうだな。お嬢ちゃんをあんまり遅くまで連れ回すと、後でかれんに絞られる」
「あら、もう帰っちゃうの? 残念ねえ。まあ、学生さんが一緒じゃ仕方ないか」
女は引き止めることもせず、テーブルの上の伝票を自分の手元へと引き寄せた。
「ここの分は全部私につけておいてちょうだい。約束通り、私の奢りよ」
「……本当にいいんですか?」
「Tier1の稼ぎを舐めないでちょうだい。ハイボールとジンジャーエールくらいで懐は痛まないわ」
女は席に座ったまま、立ち上がった三人に向かってひらひらと片手を振った。
「じゃあね、吸血鬼さん。それにお兄さんと、鏡宮ちゃんも。次に会う時も、こうやって平和に飲めるといいわね」
久我は出口へ向かう前に一度だけ足を止め、女を振り返った。
「……俺も、次に会う時は切り刻まれないことを祈ってますよ。それなら、また一杯くらい付き合います」
女が一瞬だけ目を丸くし、それから今日一番の華やかな笑顔で笑い声を上げた。
「あははは! まだそれを言ってるの! ええ、いいわ。次にオフで会ったら、また奢ってあげる!」
剣持がクックッと喉を鳴らして笑い、千鶴も小さく会釈をして、三人はバーの重い扉を後にした。
*
エレベーターで一階へ降り、雑居ビルの外へ出ると、少し冷たい夜風が頬を撫でた。
通りには酔っ払った会社員のグループや、客引きの声が飛び交っている。いつもの東京の繁華街の風景だ。
剣持は歩きながら八咫烏の連絡先へ、黒コートの女との接触を簡潔に報告した。今夜は交戦せず、本人はTier1だと名乗ったことも添える。正式な身元は不明のままだが、少なくとも再び姿を確認した事実は残しておくべきだった。
「……はあぁぁ。疲れました……」
久我は歩き出しながら、肺の中の空気を全部吐き出すような大きなため息をついた。
「肝心の接触任務は空振りで、座って酒を飲んでただけなのにな」
剣持がポケットに手を突っ込んで面白そうに言う。
「どんな戦闘任務より神経をすり減らしましたよ」
「久我さん、席に着いてからお店を出るまで、ずっと背中が張っていましたものね」
千鶴が心配そうに、けれど少しおかしそうに久我を見上げる。
「そりゃ張りますよ。あんな風に楽しく笑いながら飲んでましたけど、あの人、俺の腕をズタズタにした張本人ですからね。いつグラスが飛んでくるかと思ってヒヤヒヤしてました」
「まあ、今日のあいつは最初から最後までただの酔っ払いだったさ。ただし、次どこかの現場で会った時に同じ顔をしてる保証は一切ねえけどな」
「……本当に、面倒で理解しがたい世界ですよ」
「今さらだろ」
剣持にバッサリと言われ、久我は苦笑するしかなかった。
裏社会には裏社会の流儀があり、仕事と私生活をドライに切り分ける人間がいる。頭ではそれが分かったとしても、久我自身がその流儀に染まって、かつて自分を殺しかけた相手と無邪気に友人になれるわけではない。次に会った時も、やはり久我は彼女を全力で警戒するだろう。
駅へ向かう雑踏の中、隣を歩いていた千鶴が、ふと夜空を見上げてぽつりと呟いた。
「……でも、少しだけ不思議な方でしたね」
「不思議というか、ただの怖い人ですよ」
「ええ、とても危険な方だとは思います。ですが……誰の命令でもなく、自分の好きな街へ行き、自分の力で生きていくというのは、どういう感覚なのだろうと少し考えました」
千鶴の声には、先ほどバーで見せたような小さな憧れが混じっていた。
久我は千鶴の横顔を一瞥し、余計な説教や踏み込んだ言葉は飲み込んで、穏やかに返した。
「……そうですね。この世界には、本当にいろんな生き方があるんでしょうね」
「はい」
千鶴が静かに頷く。
「ま、あそこまで自由に生きるには、単独で軍隊とやり合えるくらいの化け物じみた強さが要るけどな。普通の奴が真似したら三日で野垂れ死ぬぞ」
剣持の身も蓋もない現実的な突っ込みに、久我は深く同意した。
「まったくです。俺には一生縁のない生き方ですよ。……それにしても、自分を半殺しにした相手からハイボールを奢られる三十五歳の金曜日って、一体どういう状況なんですかね」
「タダ酒にありつけたんだから、素直に得したと思っておけ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
剣持が豪快に笑い、千鶴もつられて小さく肩を揺らす。
久我は自分の右腕を軽くさすりながら、ネオンの眩しい繁華街の夜道を駅へと向かって歩いていった。
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