引退したけど写真屋として関わりたい 作:サフラニン
俺は走っていた。
―――――――はぁっはぁっ
芝を蹴る。いつもの感覚だ。
ドドドという蹄音。観客の湧き声。はためく我が勝負服。
それもいつも通りだ。
前には誰もいない。後はゴールを駆け抜けるだけだ。
観客の声が勝利を確信したようにひと際大きくなる。
―――――――ビキッ。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、脚から聞き覚えのない音が響いた。
「―――――ッ!!!!」
ガバッと上半身を起こす。
「……また、か。今さら見る夢じゃないだろ……」
―――ズキッ
「いッつ……」
右脚に強い痛みが生じ、思わず唸る。
「はぁ……はぁ……ったく朝から最悪な目覚めだ……」
汗でぐっしょりと濡れた甚兵衛がやけに重く、ひんやり感じる。
しばらく布団の上で耐えていると、やがて痛みは少しずつ消えていった。
「やっと、か……」
深呼吸してから、右脚を庇うようにそっと立ち上がる。
クソ。最近はなかったはずなんだがな。
「まさかまたレースの世界に関わり始めてからってのはないだろうな」
だったら笑えない冗談だ。前世を含め長いこと生きてきた俺が、そんなことで左右されるとは。
傷跡の残る右脚を見つめる。
……一先ず、鎮痛剤を飲まなければ。
長ズボン、長袖に着替え、カツラを被った後トレセン学園へ向かうと、オグリキャップが何人かの見知らぬウマ娘達と併走していた。
「六平トレーナー、今は何をやってるんです?」
「ん?ああ、写真屋か。今ウチのチームのやつらと併走させてんだ」
ターフの方へ目を向けると、丁度オグリキャップが前の二人を抜こうとしているところだった。
だが前の二人による一枚壁をオグリキャップは中々抜けない。
「……まだ初心な感じがするが」
「ああ。まぁ今のままじゃブラッキーエールには勝てないだろうな」
「ブラッキーエール?」
「初戦に決めたペガサスSに出走するウマ娘で中々強ぇんだ」
「へぇ……」
阪神レース場で行われるGⅢ。芝1600メートルのマイル。元来マイラーであるオグリキャップには丁度良いレースかもしれない。
「……どうやら抜けきれなかったようだね」
ベルノライトの隣にいたミステリアスなウマ娘が呟く。なんでアイス食ってんだ。
「ま、今はこういう感じだな。本番は走り方を、闘い方を変える必要があるな」
「中央に移ってきたばかりなんだから、ほどほどにしてやれよ。六平トレーナー」
「分かってる」
背負ってきたバッグから相棒のカメラを取り出す。
「おいおい、こんな練習風景も撮るのか?」
「ああ。カメラマンとして言うなら、全てが人生において一度キリのことだからな。撮りたいと感じた時に撮るんだ」
「そうか」
ボタンを半押しにし、ピントを合わせる。カシャ、という音がして画面に撮った写真が表示される。
昔と違って現像する必要のない、データの写真。形は違えど昔も、今も写真であることに違いはない。うちの家のパソコンにはデータの写真が大量に入っている。
「あんまりあいつらの刺激はしないでくれよ」
「分かってる。同じウマ娘だからな」
俺はカメラマンであると同時に、彼女らと同じくレースを駆け抜けたウマ娘でもある。自分の呟きが改めてそのことを自覚させた。
◆ ◆
『さぁ始まりましたGⅢペガサスステークス!』
阪神レース場の館内に、はきはきとした実況の声が響き渡る。その一言は、レース場に来ている者たちに、いよいよレースが始まることを知らせる。
『実況は私赤坂と、解説は井川さんがお送りします!よろしくお願いします!……さぁ早速1番人気がパドックに登場します!現在4連勝中と絶好調!先のバイオレットSでは後続を3バ身以上引き離しての圧勝!』
実況赤坂の声に合わせ、パドックに一人の鹿毛のウマ娘が現れる。
『10番ブラッキーエール!!』
バサッ。ブラッキーエールが上着を投げると周囲の喧噪が激しくなる。
『さぁ続きまして本レース2番人気!地方からカチ込んできた噂の転入生!』
ブラッキーエールと交代するように、一人のウマ娘が姿を現す。ひらりと葦毛の髪が揺れる。
『4番オグリキャップ!』
オグリキャップが上着を脱いだかと思うと、突然ビターンと地面に叩きつけた。
「「?!」」
「……あいつ何してるんだ」
俺はカメラを向けながら呆れの溜息を吐いた。
どうやら上着を投げたかったらしいが、何故ビターンになるのか。
『では続いて6番……』
次のウマ娘が姿を現す。
「一先ず六平トレーナーと合流するか」
カメラをバッグに仕舞いながらパドックから離れ、レース場へと向かう。
「久しぶりだな……阪神レース場のターフを見るのは」
最後に来たのは宝塚記念だったか。GⅠ、特に宝塚のときは人が多すぎる。今日あるのがGⅢで良かったかもしれない。
「おーい六平トレーナー!」
「よぉ。カメラマン」
六平トレーナーの方へ向かうと、丁度そこにオグリキャップの姿もあった。
「何か話してたのか?」
「ん?ああ、走り方についてのアドバイスだ。ふわっと走れってな」
「抽象的だな……」
「それ以外に当てはまる言葉がねぇ。それに、オグリキャップは理解できたようだしな」
オグリキャップがコクコクと頷く。
「ああそう……まぁ中央の初戦頑張れ、オグリキャップ」
「!ああ。行ってくる!」
そう言い残し、意気揚々とゲートへと向かっていくオグリキャップ。果たして緊張感というものは彼女に存在しているのだろうか。転生者である俺でさえ初戦は緊張したんだがな。
「あ、じゃあ俺は撮りやすい場所に移るわ」
「分かりました。オグリちゃんの写真、お願いします!」
「イイ感じに撮ってくれ」
さて、やはりいい場所としてはゲートかゴール板前。人が少なめだから一旦ゲート前に行くか。
「ははっなんやアイツ、オモロイな!」
ゴール前に行くと、笑いながらゴッツイカメラを構えている若い男の姿があった。バズーカを持っているわけではないが、関西弁に眼鏡というのは結構目立っている。
「マスコミか……」
やはり地方から来たというだけあって注目されているんだろうな。
『さぁ順調にゲートに入っていきます。間もなくスタートです!』
「お、もう始まるのか」
実況の張りきった声で我に返った俺はコースへと視線を戻す。カメラを再び取り出し、ゲートへと向ける。晴天の下、今から歴史が始まる。逃す手はない。カメラのモードをプログラムにし、ISO感度を調整する。よし、準備万端だ。
『今、スタートしました!』
カシャン。ゲートが勢いよく開くと同時に、一斉にウマ娘達が飛び出した。
ドドドという心地の良い地響きが胸の奥に伝わる。
あぁ。やっぱ現地で見るのは最高だな。
「よし。バッチリ撮れた」
次はゴール前だ。
「おっと、すみません」
「ああこちらこそ」
ターフと大型ビジョンの両方に気を取られていると、人とぶつかってしまった。
「あ、ウマ娘の方ですか」
「あなたは……」
相手は先ほどの眼鏡をかけた関西弁の若い男だった。
「えらいデカいカメラ持ってますね」
「ああこれ?まぁ仕事なので」
「僕と同じですね。あ、じゃあ僕これで」
そそくさと去っていく若い男。俺と同じくゴール前の方へ向かってるな。
『―――――勢いよく飛び出したのは大外ブラッキーエール!!2番手の位置につきました!』
「やべ!早く向かわんと」
レースというのは得てして、というか一瞬にして終わる。急げ急げ。
『さぁ先頭集団3コーナーを回った!強気な走りで周囲へプレッシャーをかけるブラッキーエール!5連勝目も我が物といわんばかりだ!』
ウマ娘の力にものを言わせて辿り着いたゴール前から見ると、遠くの集団がいよいよ4コーナーへ入り、ホームストレッチへの道を走ろうとしている。
オグリキャップは……まだ後ろに控えている。
『残り200m!ブラッキーエールこじ開けられるか?!』
ホームストレッチを駆ける集団が少しずづくっきりと見え始める。
その時だった。
『オ……オグリキャップ……?!オグリキャップだああああ!』
誰も走らぬ大外。そこから、恐ろしいほどの低姿勢で集団を追い抜く葦毛のウマ娘の姿。
『大外から一気に突き抜けたぁ!!これがカサマツの星オグリキャップ!これは噂に違わない強さだ!』
ゴール前に迫るオグリキャップの、ひと際強い蹄音が鼓動を揺らす。
俺は本能のままにカメラを構える。
全てが一瞬に感じられるその中で、俺はシャッターボタンを押した。
『オグリキャップ一位でゴール!!』
実況の声がレース場をひと際強く駆け巡る。
『中央初勝利!!強い!!もう井の中の蛙とは言わせない!!』
ワーァッ!!と歓声が飛び交う。
俺はそっとカメラを下ろした。自身の頬が、少し熱くなっている気がする。
これだからレースは……。
「うっし。じゃあ控室まで労いに行くか。ついでに写真も撮ったろ」
右脚が一瞬痛んだ気もするが、気のせいだ。
下ろしたカメラには、ゴール板を駆け抜けた瞬間の、走るのを楽しむように、笑みを零すオグリキャップの姿が映っていた。
「失礼するぞ」
ドアを開けると、オグリキャップ。加えて六平トレーナー、ベルノライトの姿まであった。
「お疲れ様。あとおめでとう、一着」
「!ありがとう、カメラマンの人?」
「その呼び方分かりにくいだろ。ワンでいいよワンで」
「ありがとう、ワン」
しかしそう言うオグリキャップの表情は嬉しそうなものの、どこか浮足立っているような、そんな感じがする。
「……なんだ、実感まだ湧いてないのか?」
「私は勝ったのか、ここで」
「そうだぞ。中央でな」
「……そうか。私はただ、走ることが楽しいから走っている。それで、勝ったのか」
中央の初戦で勝利、しかも余裕を持ってだったからな。勝負前は緊張しても、いざ勝つと実感が湧かないってのは誰にでもあることだ。それに、オグリキャップはこんなもんじゃない。
「記念に三人一緒に撮っとく?」
「三人……ってことは六平さんに……私も?!」
「おお!ベルノも一緒に写るんだな!」
オグリキャップの表情がぱぁっ、と明るくなる。
「いやまだ私は入るとは一言も……」
「俺も入る気は……」
「入って、くれないのか……?」
「入ります!ほら六平さんも!」
「お、おいさっきと言ってることとちげぇじゃねぇか!」
オグリキャップの子犬のような目にあっさり根負けしたベルノライトと六平。
控室の中で、また一枚。写真が誕生した。
おや。どこかのワンコオーが……
TIPS
〇史実ではペガサスSでオッズが二番人気。当初オグリキャップ陣営もまさか優勝するだろうとは思っていなかった。実は当日に同馬主の馬が別の重賞を勝っており、中央史上初の地方出身馬の同日開催重賞制覇を成し遂げている。
因みにオグリキャップの幼名は「ハツラツ」。生まれた当時自力で立つのにもかなりの時間を要し、元気溌剌でいてほしいということが由来。厩務員の人たちはずっとそばについて無事に成長できるよう補助したとか。