『東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」』https://syosetu.org/novel/415931/
の世界観を軸に作っています。色んなパターンを模索してます。
冥界には夜が早く来る。
人里ではまだ西の山に夕陽が残っている頃でも、白玉楼の桜はすでに薄青い闇に沈んでいた。咲くこともなく散ることもない永遠の七分咲きの桜が、音もなく枝を広げている。生きた人間がこの景色を見れば、美しいと思う前にまず寒気を覚えるだろう。ここは死者の領域であり、桜の下には数えきれない魂が埋まっている。
風がない。鳥も鳴かなければ虫の音ひとつ聞こえない。ただ桜の花びらだけが散りもせずに枝へ留まったまま、青白い闇の中でわずかに揺れている。時というものがこの庭には流れていないかのようだった。実際、白玉楼の桜が一度でも満開になったという話を妖夢は聞いたことがなかった。あと一分咲けば満開というその手前で、桜は永遠に止まっている。まるで何かを待ち続けているかのようだった。
その桜並木を一つの影が音もなく歩いていた。
魂魄妖夢である。
腰には二振りの刀を差し、長いほうを楼観剣、短いほうを白楼剣という。半人半霊の身体は歩くたびに背後の半霊がふわりと揺れた。彼女の表情にはどこか張り詰めたものがある。今日はこれから人里へ降りる取り立ての日だった。
「妖夢」
縁側から緩やかな声がかかった。
西行寺幽々子が座布団の上に崩れるように座り、湯呑みを両手で包んでいる。淡い桜色の着物に亡霊らしい白い肌。その顔にはいつもの、何を考えているのか読めない微笑みが浮かんでいた。
「今夜もご苦労さま。今月の取り立て、何件残っているのかしら」
妖夢は足を止めると主に向き直って答えた。
「五件です。人里の道具屋に霧の湖の魔法使い、命蓮寺の関係筋がひとつ、それから――」
幽々子は袖で口元を隠して笑った。
「ああ、いいわ。全部覚えているわけじゃないでしょう。帳簿は私が見ているもの。あなたは行って取ってくればいい。それだけよ」
「幽々子様は、いつもそう仰います」
妖夢はわずかに眉を寄せた。
「それだけ、と。ですが、その『それだけ』がいつも一番難しいのです」
幽々子は湯呑みを傾けた。
「あら。難しいのはお金が払えない人がいるからでしょう。払える人はすぐ払うもので、払えない人だけがあなたを困らせる。世の中いつだってそうよ」
「払えないのではなく、払いたくない者もおります」
幽々子は緩やかに笑った。
「ふふ。それも同じことよ、妖夢。払いたくないというのは、つまりまだ怖い目に遭っていないということ。あなたが行けば考えを変えるわ。みんなそうだったでしょう」
妖夢は答えなかった。たしかにその通りだった。半人半霊の取り立て人が一度姿を見せれば、たいていの債務者は態度を変える。だがそれを当然のように言ってのける主の言葉には、いつも薄氷を踏むような冷たさがあった。
白玉楼の金貸し業には独特の流儀があった。
まず貸す相手を選ばない。妖怪だろうと人間だろうと、博麗の巫女だろうと名もなき露店商だろうと、借りたいと言う者には相応の額を貸す。担保もほとんど取らない。普通の金貸しなら土地や家屋、あるいは命そのものを抵当に取るところを、白玉楼はただ一枚の借用書だけで金を出す。それは一見、気前のよさにも見えた。だがその実は逆だった。担保を取らないということは、返せなくなった相手から何を取り立ててもよいということでもある。土地でも品物でも秘密でも、あるいはその者が二度と表を歩けなくなるような何かでも。
利息は決して法外ではない。むしろ人里の高利貸しや博麗の賭場に比べれば、ずっと良心的とすら言えた。だがその利息は一日たりとも一文たりともまけることがなかった。期日が来れば必ず取り立てる。雨の日も雪の日も、相手が病に臥せっていようと身内の不幸があろうと関係なかった。約束は約束。それが白玉楼の、唯一にして絶対の掟だった。
そして取り立てに回るのが妖夢だった。
帳簿を握るのは幽々子である。誰がいくら借りていつ返すか、そのすべてを幽々子は一冊の帳簿の中に収めていた。冥界の名園の奥、桜の根の下に眠るその帳簿には、幻想郷の表と裏を結ぶ金の流れのすべてが記されている。幽々子はそれを決して人に見せなかった。見せる必要がなかったからだ。借りた者は自分がいくら借りたかを骨の髄まで覚えている。忘れたふりをする者のところへは妖夢が行く。それで事は足りた。
貸して利息を取って取り立てる。ただそれだけの単純な営みが、いつのまにか幻想郷の全勢力を、目に見えぬ糸で白玉楼に縛りつけていた。
妖夢はふと尋ねた。
「幽々子様、お訊きしてもよろしいですか」
「なあに」
「白玉楼は、なぜこれほど多くの者に金を貸すのです。西行寺の家はもとより冥界の名家。死者の魂を管理して庭を守るだけでも、家は立ち行くはずです。なのになぜ、わざわざ生者の里にまで金を貸して利息を取り、取り立てまでなさるのですか」
幽々子はしばらくの間、湯呑みの中を覗き込んでいた。冷め切った茶の水面に、永遠の七分咲きの桜がぼんやりと映っている。
「妖夢。あなた、白玉楼がなぜ幻想郷で恐れられているか、わかる」
「……強いから、でしょうか。あなた様の力は死を操るもの。誰もがそれを恐れます」
幽々子は首を横に振った。
「違うわ。死なんて誰も本当には怖がっていないのよ。みんないつか死ぬんだもの。それより、もっと怖いものがあるの」
幽々子は湯呑みを縁側に置いた。
「借りたものを返さなければならないこと。それが一番怖いの」
妖夢は主の言葉を黙って聞いた。
幽々子は続けた。
「考えてもごらんなさい。紅魔館も八雲も守矢も永遠亭も、人里の用心棒たちも――みんなどこかで白玉楼から借りている。夜会の運営資金に境界工事の裏金、新興信仰の元手や薬の原材料を取り寄せる費用、用心棒の前払い。表向きは立派な顔をしていても、その裏ではみんな白玉楼に頭が上がらないの」
「それは……」
妖夢はようやく気づいた。
「白玉楼が、誰の味方でもないから、ですか」
「そう」
幽々子は満足そうに微笑んだ。そして白い指を一本立てた。
「博麗は調停者だから誰かに肩入れするのを嫌う。八雲は貸した金で相手を支配しようとするし、守矢は信仰で人を縛り、紅魔館は血筋で人を選ぶ。みんなお金に色をつけたがるの。でも白玉楼は違う。私が問うのはたった一つ。借りたものを約束通り返すかどうか、それだけ。善人だろうと悪人だろうと、妖怪だろうと人間だろうと関係ない。返す者にはいくらでも貸すわ。返さない者には――あなたが行く」
妖夢はつぶやいた。
「だから皆、白玉楼を頼りながら同時に恐れる。自分の弱みを、最も中立な相手に握らせることになるからですね」
幽々子は袖で口元を隠して笑った。
「物分かりがいいわね、妖夢。そう、私たちは誰の敵でもない。だから誰よりも深いところに座っていられる。幻想郷の力関係なんて、結局は誰が誰にいくら借りているかという地図にすぎないのよ。そしてその地図の真ん中に白玉楼がいる」
冥界の冷たい空気の中に、幽々子の言葉が静かに溶けていった。
そしてその取り立てを担うのが妖夢だった。腰の二振りの刀は桜を断つためではなく、約束を守らぬ者の前で抜くためにある。半人半霊の少女はそれを誰よりもよく理解していた。
「行ってまいります」
妖夢は一礼すると、桜並木の奥へと歩き出した。
幽々子はその背を見送りながら、湯呑みの中の冷めかけた茶をゆっくりと飲み干した。
冥界の主はこうしていつも妖夢を送り出す。そして妖夢が金を携えて帰ってくるのを、同じ場所で静かに待つ。何百年と繰り返されてきた変わらぬ営みだった。幽々子にとって取り立てとは日々の茶のようなものだった。淡々と滞りなく、当たり前のように繰り返される白玉楼の呼吸だった。
だが今夜だけは、その呼吸がわずかに乱れることになる。幽々子自身、まだそれを知らない。
「気をつけてね」
その声が半人半霊の少女に届いたかどうかは、わからなかった。
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人里に降りると夜はまだ浅かった。
提灯の灯が軒先に並び、酒場からは笑い声が漏れている。表の幻想郷は平和そのものだった。妖夢はその喧騒の中をまるで影のように歩く。誰も彼女に目を留めない。冥界の取り立て人が人里を歩いていることなど、ほとんどの里人は知らないのだ。
最初の相手は人里の外れにある古道具屋だった。
「卯月堂」と書かれた色褪せた看板。店先には埃をかぶった壺やら掛け軸やらが雑然と並んでいる。一見すると客などほとんど来ない寂れた店に見えた。
だが妖夢はその実態を知っていた。
卯月堂の主人――宇野という名の中年の男は、表向きは古道具を扱いながら、裏では外界から流れ込んだ品々を捌く仲買人だった。来歴の怪しい品や出所を聞けない品。そういうものを宇野は紅魔館や守矢の仕入れ筋に流していた。
宇野は人里でも評判の、愛想のよい男だった。
通りで誰かとすれ違えば必ず立ち止まって挨拶をする。子供が店先を覗けば、売り物にならない欠けた根付けを「持っていきな」と握らせてやる。里の寄り合いではいつも一番よく笑い、一番よく酒を注いで回る。困っている者がいれば二つ返事で銭を立て替える。そういう男だった。だからこそ誰も、宇野が裏で何を捌いているのかを疑わなかった。愛想のよさは何よりの隠れ蓑だった。
その仕入れの元手として、宇野は半年前に白玉楼から相応の額を借りていた。
利息の支払いは、ここ二月ほど滞っていた。
妖夢は店の引き戸を音もなく開けた。
「ごめんください」
奥の帳場で帳面をつけていた宇野が顔を上げる。その表情は妖夢を認めた瞬間にほんの一瞬だけ強張った。だがそれはまばたきほどの間のことで、次の瞬間には宇野の顔いっぱいに、人の良さそうな笑みが広がっていた。
「これはこれは、白玉楼のお嬢さん」
宇野は帳面を放り出すようにして立ち上がると、揉み手をしながら帳場から出てきた。
「わざわざ冥界からこんな寂れた店までご足労いただいて。さあさあ、どうぞお掛けになってください。今、茶でも淹れますからね。いやあ、それにしてもお嬢さんは本当にお美しい。半分が霊体だなんて、とても信じられませんよ」
妖夢は差し出された座布団を、やんわりと断った。
「お構いなく。白玉楼の者です。今月分と先月分の利息をお預かりに参りました」
宇野の笑顔は崩れなかった。
「ええ、ええ、もちろん承知しておりますとも。お嬢さんがこうしてわざわざ足を運んでくださるんだ。手ぶらでお帰しするわけにはいきませんよねえ」
宇野はいかにも申し訳なさそうに、しかし笑顔は絶やさずに首の後ろを掻いた。
「ただねえ、お嬢さん。ちょいと間が悪いんですよ。実は先月、外界から仕入れた壺がとんだ食わせ物でして。割れちまったんですわ。それで、ちょいと手元が苦しくてねえ。もう少しだけ、ほんの少しだけ待ってもらえやしませんかね」
「先月も同じことを仰いましたね」
妖夢の声には怒りも苛立ちもなかった。ただ淡々と事実を確認するだけの響きがある。それがかえって宇野の笑顔をわずかにこわばらせた。
「待ってください、と仰るのは構いません。ですが待つことには利息がつきます。それは契約のときにご説明したはずです」
宇野はなおも笑顔を保ったまま、調子よく言葉を重ねた。
「いやあ、お嬢さんは本当に律儀だ。そこが白玉楼さんのいいところでねえ。でもね、お嬢さん。長い付き合いじゃありませんか。半年も世話になってる仲だ。たまにはこう、融通ってもんを利かせてくれても――」
そのとき、店の奥の暖簾が揺れた。
奥から二人の男が出てきた。どちらも体格がよく、腰には長脇差を差している。里の用心棒だ。宇野が雇ったのだろう。妖夢が来ることを予期して奥に控えさせていたのだ。
宇野の顔から、すうっと笑みが引いた。
いや、正確には笑みは消えなかった。だがその質が変わった。人の良さそうな笑みの奥に、これまで隠していたもう一つの顔が薄く透けて見えた。後ろ盾を得た者の、卑しい余裕の笑みだった。
宇野は芝居がかった調子でため息をついてみせた。
「お嬢さん。あたしはね、本当はこんなことしたかありませんのよ。あたしは争いごとが大嫌いな人間でしてね。誰とでもにこにこ仲良くやりたいんです。でも世の中、それじゃあ通らないこともある。お嬢さんもわかってくださいますよねえ」
「旦那、こいつがその、冥界の取り立て屋ってやつかい」
用心棒の一人がにやにや笑いながら妖夢を見下ろした。小柄な少女が一人、腰に刀を差してはいるが、自分たちの敵ではない。そう思っているのが、その態度から透けて見えた。
もう一人が長脇差の柄に手をかけた。
「お嬢ちゃん、悪いことは言わねえ。今日は手ぶらで帰んな。冥界だか何だか知らねえが、ここは人里だ。あんたらのやり方が通る場所じゃねえんだよ」
宇野は用心棒たちをたしなめるような口ぶりで、しかしその目はまるで笑っていなかった。
「まあまあ、お前さんたち、手荒なことはなしだぞ。お嬢さんもね、怪我なんかしたらつまらないでしょう。ここは一つ穏便に。今日のところは何も見なかったことにしてお帰りいただく。それがみんなのためってもんですよ」
宇野は帳場の陰に半ば隠れるようにして事の成り行きを見守っていた。その顔には穏やかな笑みが貼りついたままだったが、その目には暴力で取り立て人を追い払えるという卑しい期待の色があった。愛想のよさという仮面の下から、本性がゆっくりと顔を出していた。
妖夢は表情を変えなかった。
彼女は用心棒たちを順に見た。
「お二人に伺います。宇野さんからいくらで雇われましたか」
「あぁ」
「あなたがたへの支払いも、白玉楼から借りた金から出ているのですよ。つまりあなたがたは白玉楼の金で、白玉楼の取り立てを妨害しようとしている。それは筋が通りません」
「筋だ何だと、小難しいことを言うな」
用心棒の一人が業を煮やして長脇差を抜いた。鞘走りの音が狭い店内に響く。刃が薄暗い店の灯りを受けて、にぶく光った。
「痛い目を見る前に消えな」
刃が妖夢の肩口へと振り下ろされた。
それは素人の太刀筋ではなかった。里の用心棒としてそれなりに修羅場を踏んできた者の一撃だった。速く重く、迷いがない。並の相手なら肩から袈裟に断ち割られていただろう。
だが妖夢は動かなかった。
正確には動いていた。ただ宇野にも、振り下ろした当人にも、それが見えなかっただけだ。
次の瞬間に何が起きたのか、店にいた誰一人として理解できなかった。
気づいたとき、長脇差を振り下ろした男は自分の得物が手元から消えていることに気づいた。刀は店の床に転がっている。柄を握っていたはずの手は痺れたように動かない。手首から先の感覚がまるで他人のもののようだった。
妖夢の白楼剣が、鞘に半分収まったまま男の長脇差の腹を打ち払っていた。抜き打ちですらない。鞘を払いに使ったただの一動作だった。刃を抜くまでもない。それが妖夢の出した答えだった。お前ごときに刃を見せる価値はない、と。
「峰で打ちました」
妖夢の声は相変わらず平坦だった。怒りも昂りも何ひとつ滲んでいない。ただ事実を告げるだけの静かな声だった。
「次は刃を返します」
店内がしんと静まり返った。
その短い一言の意味を、その場の誰もが即座に理解した。次はない。次に刃を抜けばそれは峰ではなく刃だ。そして白楼剣の刃が向けられた相手がどうなるか。それを想像するだけで、用心棒の背は凍りついた。
もう一人の用心棒は柄にかけた手をゆっくりと離した。仲間の得物が一瞬で叩き落とされたのを目の当たりにして、自分が刀を抜いたところで結果は同じだと本能的に悟ったのだ。いや、結果は同じではない。次は峰では済まない。彼はそう悟った。
その用心棒が震える声で言った。
「……宇野の旦那。悪いが、俺はここまでだ。聞いてた話と違う」
そう言うと男は仲間を引きずるようにして店から出て行った。後に残されたのは震える宇野と、床に転がった長脇差、そして妖夢だけだった。
妖夢は白楼剣を完全に鞘に収めた。
「宇野さん」
帳場の陰で縮こまっていた宇野が、びくりと肩を震わせた。
「私はあなたを斬りに来たのではありません。お金をいただきに来たのです」
妖夢は一歩、帳場へと近づいた。
「払えるものを払ってください。それで今夜は帰ります」
宇野はもはや抵抗する気力を失っていた。だがそれでも、顔から愛想笑いだけは消そうとしなかった。引きつった笑みを浮かべたまま、震える手で帳場の引き出しを開けて紙に包まれた金を取り出す。それを妖夢の前に差し出した。
宇野は汗を拭いながら、なおも調子を取り戻そうとした。
「い、いやあ、まいったなあ。お嬢さんがそんなにお強いとは思いもよりませんでねえ。こ、これで……これで全部だ。先月の分と今月の分と……利息も……ね。ちゃんと用意してあったんですよ、本当はね。ただちょいと、出すきっかけを見計らっていただけでしてね」
妖夢は包みを受け取ると中身を確かめた。額はちょうど足りていた。
「確かにお預かりしました」
妖夢は懐から小さな帳面を取り出し、宇野の名の横に印をつけた。
「来月もよろしくお願いします。――次は用心棒を雇わないでください。あれは無駄な出費です」
その最後の一言には、不思議と棘がなかった。むしろ宇野の身を案じるような響きすらあった。それがかえって宇野の背を凍らせた。この少女は本気で自分のためを思って言っている。そう感じたからだ。宇野は自分の浮かべていた愛想笑いが、この少女には最初から一切通用していなかったことを、ようやく悟った。
妖夢は一礼し、引き戸を開けて夜の中へと消えた。
宇野はしばらくの間、貼りつけたままの笑みを剥がすことも忘れて、帳場の前で動けなかった。
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二件目、三件目の取り立ては滞りなく済んだ。
二件目の相手は命蓮寺の港湾物流に関わる商人で、これは優良な債務者だった。妖夢が暖簾をくぐると、初老の商人は帳場から腰を上げて、待ちかねていたように歩み寄ってきた。卓の上にはすでに金包みが用意されている。脇には湯気の立つ茶まで添えられていた。
「これはこれは、白玉楼さん。お待ちしておりました。さ、まずは一服なさってください。冥界からの長い道のり、お疲れでしょう」
商人は用意していた金包みを、両手で恭しく妖夢に差し出した。
「今月分、確かにここに。お確かめください」
妖夢は包みを受け取ると中を改めた。額は寸分の狂いもなく揃っている。期日も一日たりとも遅れていない。
「確かにお預かりしました」
商人は心底ほっとしたように、深々と頭を下げた。
「白玉楼さんにはいつもお世話になっておりますから。うちのような小さな廻船問屋がこうして商いを続けていられるのも、白玉楼さんが元手を貸してくださったおかげです。港の連中にはもっと阿漕な金貸しもおりますからな。利息はきっちり取られますが、それ以上のことは決してなさらない。約束を守る者には、白玉楼さんは何よりも頼りになる」
妖夢はその言葉を黙って聞いた。借りた金を期日通りに返す者にとって、白玉楼は恐ろしい取り立て屋ではなく頼りになる金融機関だった。同じ白玉楼が卯月堂の宇野にとっては刃を背負った恐怖であり、この商人にとっては商いの命綱だった。その差を生むのはただ一つ――約束を守るか守らないか、それだけだった。
帰り際、商人はふと声をひそめてこんなことを言い添えた。
「白玉楼さん。余計なことかもしれませんが――近頃、海が荒れておりましてね」
「海が、ですか」
「ええ。命蓮寺さんの海運ルートのことです。境界の向こうから流れてくる荷の中に、出所のはっきりしないものがめっきり増えました。誰が運んでいるのか何を運んでいるのか、港の者は薄々勘づいておりますが口には出しません。出せば消される。そういう気配がこの頃、特に濃いのですよ」
妖夢はその話を頭の片隅に留めた。藍の忠告が、まだ耳に残っていたからだ。出所の知れない荷。運び屋。消される気配。それらがどこか一点を指し示しているような、嫌な予感がした。
三件目は賭場で身を持ち崩した男だった。こちらは優良な債務者とは言いがたかったが、それでも観念して全額を払った。
男は震える手で最後の一枚を妖夢に渡しながら、自嘲気味に笑った。
「あんたんとこは待ってくれるだけマシだ。博麗の賭場で借りたらこんなもんじゃ済まねえからな。あそこの巫女は見た目はぼんやりしてるが、金のことになると一銭も負けちゃくれねえ。取り立ても容赦がねえ。利息が払えなきゃ賭場の用心棒が来る。指の一本や二本じゃ済まねえって噂だ」
男は空になった財布を、力なく懐に戻した。
「それに比べりゃ白玉楼は紳士的だよ。きっちり利息は取るが、人を痛めつけたりはしねえ。……まあ、払わなきゃあんたが来るんだろうがな。それが一番怖えって話もあるが」
男の言葉に、妖夢は何も答えなかった。ただ受け取った金が額面通りであることを確かめて帳面に印をつけ、静かに一礼して立ち去った。
夜の人里を歩きながら妖夢は思った。誰もが白玉楼を語るとき、博麗の賭場を引き合いに出す。痛めつけない、待ってくれる、紳士的だ、と。だがその評判の裏には、いつもひとつの含みがあった。払わなければ妖夢が来る。その一事がどんな用心棒よりも、どんな脅し文句よりも、人里の借り手を震え上がらせていた。痛めつけないからこそ恐ろしい。なぜなら痛めつける必要すらないからだ。
幻想郷の金の流れというものを、妖夢は取り立てを通じて誰よりもよく知るようになっていた。誰がどこからいくら借りているか。それは幻想郷の力関係そのものを映す地図だった。そして白玉楼は、その地図の最も中心に近い場所に座っていた。
四件目を終えて妖夢が最後の一件へと向かおうとしたとき、夜はすっかり更けていた。
最後の相手は――霧雨魔理沙だった。
魔理沙の名を妖夢は帳面の上で何度も見ていた。だが取り立てらしい取り立てをした記憶は、ほとんどない。霧雨魔理沙は白玉楼にとって奇妙な債務者だった。
借りる額は大きい。だが返済は几帳面だった。期日に遅れたことはほとんどない。借りては返し、また借りては返す。その繰り返しの中で、魔理沙の借入残高は常に相当な額を保っていた。
なぜそれほど大きな額を借り続けるのか。
妖夢はその理由をおおよそ察していた。霧雨魔理沙は表向きはただの魔法使いだが、裏では幻想郷中の「仕入れ屋」として動いている。紅魔館へは外界の骨董や魔導書を、八雲へは境界を越えた密輸品の運び役を、守矢へは新興信仰の御神体となる希少な品を。
それらの活動の元手はすべて、白玉楼からの借入で成り立っていた。魔理沙は各勢力の「裏の物流」を一手に引き受ける便利な運び屋だったのだ。そしてその運送業の資金繰りを、白玉楼が支えていた。
つまり魔理沙は白玉楼にとって、最も重要な債務者の一人だった。彼女が動かす金の量も、彼女が握る各勢力の秘密の量も、並の債務者とは比べものにならなかった。
そして妖夢にとって、魔理沙は少しだけ特別な相手でもあった。
取り立てに訪れるたび、魔理沙は決まって軽口を叩いてきた。「よう、白玉楼の死神。今日も金の取り立てかい。冥界ってのはそんなに物入りなのか」と。妖夢が生真面目に応じるとけらけら笑って、「お前、もうちょっと肩の力を抜けよ」などと言う。取り立て人を死神呼ばわりして笑える人間など、幻想郷広しといえど魔理沙くらいのものだった。
妖夢はその軽口を内心では嫌っていなかった。むしろ――取り立てという、誰からも恐れられ誰からも疎まれる役目の中で、自分を一人の人間として対等に扱ってくれる数少ない相手だった。もちろん、そんなことを表に出したことは一度もない。妖夢はあくまで白玉楼の刀であり、相手は債務者だ。だが心のどこかで、あの生意気な魔法使いとのやり取りを、妖夢はほんの少しだけ楽しみにしていた。
そんなことを考えながら妖夢が最後の一件へと足を向けようとしたときだった。
「妖夢」
人里を出ようとしたとき、妖夢の背後で声がした。
振り返ると、いつのまにか宙に隙間が開いていた。その隙間から八雲紫の従者――八雲藍が上半身だけを覗かせている。九本の尾が夜の闇の中でゆらりと揺れた。
妖夢は警戒を込めてその名を呼んだ。
「藍様。八雲のかたが、私に何の御用でしょう」
藍はどこか言いにくそうに口を開いた。
「いや、用というほどのことではない。ただの忠告だ。今夜、霧雨のところへ行くなら――やめておいたほうがいい」
「……どういう意味ですか」
藍はしばし口をつぐんだ。九尾の狐は明らかに、自分がどこまで話してよいものか計りかねている様子だった。
やがて藍は慎重に言葉を選んだ。
「紫様が霧雨の動きを気にしておられる。最近、あの魔法使いの運ぶ荷がおかしい。境界をまたぐ品の中に、本来あってはならないものが混じっている。紫様はそれを掴もうとしておられる」
妖夢は冷たく返した。
「それは八雲のご事情でしょう。白玉楼には関係のないことです。私は貸した金を取り立てに行くだけです」
「だから忠告だと言っている」
藍の声にわずかな焦りが滲んだ。
「いいか、妖夢。今、霧雨魔理沙の周りにはいくつもの目が集まっている。八雲だけではない。紅魔館も守矢も、それぞれの理由であの魔法使いを気にしている。お前が今夜のこのこ取り立てに行けば――面倒に巻き込まれるぞ」
「いくつもの目、ですか」
妖夢はわずかに眉を寄せた。
「紅魔館も守矢も、なぜ今、霧雨さんを」
藍はしばし黙った。九尾の狐は明らかに、どこまで明かすべきか迷っていた。
やがて藍は低い声で言った。
「あの魔法使いはいろいろなところに足を突っ込みすぎた。紅魔館の骨董に八雲の密輸、守矢の御神体。あの子はそれぞれの勢力の、表に出せない品を運ぶ役だった。便利な運び屋だ。だが便利な運び屋は同時に、それぞれの勢力の秘密を全部知っている運び屋でもある」
藍の言葉が、夜の闇の中で不吉に響いた。
藍は続けた。
「もしあの子の口がどこかで割れたら――どうなると思う。紅魔館の取引も八雲の密輸も守矢の信仰の正体も、全部表に出る。だから各勢力にとって、あの子は便利であると同時に危険な存在になっていた。生かしておけば便利。だがいつ寝返るか、いつ捕まって全部喋るかわからない。――妖夢、お前にもこの意味がわかるだろう」
妖夢にはわかった。霧雨魔理沙は各勢力の秘密を握りすぎた。そして秘密を握りすぎた者は、いつか必ずその秘密ごと消されることになる。それが裏社会の理だった。
藍は念を押すように言った。
「だから忠告だ。今夜は行くな。少なくとも今夜だけは。事が落ち着いてからにしろ」
妖夢は藍の言葉を、頭の中で吟味した。
複数の勢力が同時に一人の運び屋を気にしている。それはただ事ではない。
だが妖夢の答えは変わらなかった。
彼女は丁寧に頭を下げた。
「ご忠告、痛み入ります。ですが私は白玉楼の者です。主の命で動いております。たとえ何が周りで起きていようと、取り立ては取り立てです」
藍はため息をついた。九尾の狐の顔に、半ば諦めたような半ば感心したような色が浮かんだ。
「……変わらんな、白玉楼は。お前も、お前の主も」
「それが白玉楼ですから」
藍はもう何も言わなかった。隙間が音もなく閉じ、九尾の狐の姿は夜の中に消えた。
妖夢はしばらくその場に立ち尽くした。
藍の忠告は無視するには重すぎた。八雲の従者がわざわざ隙間を開けてまで伝えに来た言葉だ。軽いはずがない。紅魔館、八雲、守矢――幻想郷でも指折りの勢力が揃って、一人の運び屋に目を向けている。その渦の只中へ、これから自分は足を踏み入れようとしている。
だが従うこともできなかった。
彼女は取り立て人であり、主の命に従うことがその存在の意味そのものだったからだ。幽々子は「五件」と言った。ならば五件回る。たとえその五件目にどんな剣呑なものが待ち受けていようと、それを理由に取り立てをやめるという選択肢は、妖夢の中には存在しなかった。約束は約束。それが白玉楼の掟であり、その掟を誰よりも体現しているのが、ほかならぬ妖夢自身だった。
妖夢は刀の柄に一度だけ触れ、それから手を離した。
そして霧の湖へと向かう道を、再び歩き出した。
夜が深くなっていく。提灯の灯はもう人里の遠くに点々と残るばかりで、行く手はただ闇に沈んでいた。やがて湿った冷たい空気が肌にまとわりついてくる。霧の湖が近い。
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霧の湖はその名の通り、夜になると濃い霧に包まれる。
白い霧は湖面から立ち上り、岸辺の木々の間を縫って地を這うように流れていた。月の光もその霧に滲んで、ぼんやりとした輪郭しか持たない。数歩先もはっきりとは見通せない。妖夢は足元に注意を払いながら慎重に歩を進めた。半霊がいつもより落ち着きなく、背後で揺れている。
魔理沙の小屋はその湖のほとりからやや離れた、森の縁にぽつんと建っていた。妖夢が近づくにつれ、何かがおかしいことに気づいた。
灯りがついていない。
魔理沙は夜型の人間だ。深夜まで魔法の研究にふけり、明け方近くまで起きていることも珍しくない。窓からはいつもなら煌々とした灯りと、時には魔法の実験の派手な光が漏れているはずだった。この時刻に小屋が真っ暗だというのは、不自然だった。
それに――匂いがした。
風に乗ってかすかに、焦げ臭い匂いが漂ってくる。木が焼けた匂いではない。もっと鋭い、魔力が炸裂したあとに残る特有の匂いだった。妖夢はその匂いを嗅ぎ取った瞬間、嫌な予感が確信に変わるのを感じた。
妖夢は足を速めた。
小屋の戸の前に立つ。半霊が不安げにざわめいた。戸の表面にはよく見ると、細かな傷がいくつも走っている。何かが激しくぶつかった跡。あるいは無理やりこじ開けようとした跡だった。
「霧雨さん」
妖夢は戸を叩いた。
「白玉楼の者です。今月分の利息をお預かりに参りました」
返事はなかった。
もう一度叩く。やはり返事はない。霧の中に自分の声だけが、虚しく吸い込まれていった。
妖夢は戸に手をかけた。鍵はかかっていなかった。いや、正確には鍵をかける余裕すらなかったのだろう。戸は軋みながら内側へと開いた。
中の闇に目が慣れるにつれ、妖夢は息を呑んだ。
小屋の中は荒れていた。
机は倒れ、椅子は転がり、棚から落ちた瓶や本が床に散乱している。だがそれは単なる物の乱れではなかった。壁のあちこちに黒い焦げ跡があった。それは魔法の弾が炸裂した痕だった。妖夢はその弾痕の質を目で読んだ。
これは争った跡だ。
そして床の隅には、魔理沙の愛用の箒が真っ二つに折れて転がっていた。あの魔法使いがどんなときも手放さない箒が。
妖夢はゆっくりと小屋の中に踏み込んだ。半人半霊の研ぎ澄まされた感覚が、現場の隅々を読み取っていく。
血痕はあった。だがごくわずかだった。床に点々と散る小さな赤い痕。深手を負った者の流す血の量ではない。むしろ反撃してかすり傷を負いながらも逃げ切った者の残す、最小限の血だった。
魔理沙は生きている。妖夢はそう判断した。少なくともこの場で命を落としたのではない。誰かがこの小屋に押し入って魔理沙を連れ去ろうとし――そして魔理沙は、それに抵抗して逃げた。
問題は押し入った者の数だった。
妖夢は床の足跡を読んだ。乱れた土の跡。少なくとも三人。いや、四人かもしれない。一人や二人の犯行ではない。これは組織だった者たちによる、計画的な押し込みだった。
魔理沙を力ずくで連れ去ろうとした者がいる。
藍の忠告が妖夢の頭の中で、不吉に響いた。「面倒に巻き込まれるぞ」――その面倒はもう起きていた。
妖夢は散乱した品々の中に、一枚の紙片を見つけた。
それは焦げた壁に半ば突き刺さるように残されていた。魔理沙の筆跡だった。乱れた急いで書かれた字で、こうあった。
「すまねえ。今は無理だ。誰にも――特にあいつらには、見つかりたくねえ」
あいつら、とは誰か。
その三文字に、妖夢はしばらく目を落としていた。魔理沙は名を書かなかった。書けなかったのか、書く間もなかったのか、それとも――名を書けばこの紙片を見た者にまで累が及ぶと、そう判じたのか。いずれにせよ「あいつら」と複数で記したことが、何より雄弁だった。魔理沙が恐れているのは一人の敵ではない。集団だ。組織だ。そしてその正体を、魔理沙自身ははっきりと知っている。知っていてなお名を伏せた。
妖夢はその紙片を、そっと懐に収めた。懐の奥でそれは妙に重く感じられた。一枚の紙きれのはずなのに、まるで誰かの命がそこに折り畳まれているかのようだった。
改めて、妖夢は小屋の中を見回した。
荒らされてはいる。だが奇妙なことに、盗まれた形跡がなかった。魔理沙が外界から仕入れた珍しい品々や高価な魔導書の類は、棚から落ちてこそいるものの持ち去られてはいない。金目当ての押し込みなら真っ先に消えているはずのものが、そっくり残っている。つまり押し入った者たちの狙いは品でも金でもなかった。魔理沙という人間そのものだった。
連れ去ろうとした。あるいは口を封じようとした。
藍の言葉が再び妖夢の脳裏をよぎった。秘密を握りすぎた運び屋。生かしておけば便利だが、いつ寝返るかわからない危険な存在。――まさにその通りのことが、ここで起きていた。
妖夢は唇を噛んだ。
藍は忠告してくれた。今夜は行くな、と。あの言葉に従っていれば、何かが変わっただろうか。いや――妖夢はすぐにその考えを打ち消した。襲撃は自分が来るより前に、とうに済んでいた。たとえ昨夜来ていようと明日来ようと、この結果は変わらなかった。魔理沙が襲われたのは、妖夢が取り立てに来るよりずっと前から仕組まれていたことなのだ。
問題はこれからだった。あの軽口を叩く魔法使いは今、どこにいるのか。生きてどこかに身を潜めているのか。それとも――妖夢は最悪の想像を、頭の隅へ押しやった。血痕はわずかだった。逃げ切ったはずだ。そう自分に言い聞かせた。
これはもはや取り立ての話ではなかった。
白玉楼の最も重要な債務者が何者かに襲われ、姿を消した。それは白玉楼への間接的な攻撃でもあった。貸した相手が消えれば、貸した金は返ってこない。借金を踏み倒されること以上に、債務者を奪われることは金融機関としての白玉楼の根幹を揺るがす。誰かが白玉楼の客に手を出したという事実は、放っておけば他の債務者たちにも示しがつかなくなる。白玉楼はいつでも取り立てに来るが、いざというとき客を守りはしない――そんな評判が立てば、白玉楼の積み上げてきた信用は音もなく崩れていく。
それは白玉楼の存在意義そのものを脅かす事態だった。
妖夢はもう一度だけ、折れた箒に目をやった。あのいつも生意気な笑みを浮かべていた魔法使いが、必死に抵抗してこの箒を盾にしながら、夜の闇へと逃げていく姿がまぶたの裏に浮かんだ。生きていてほしいと、取り立て人らしからぬ思いがふと胸をかすめた。だが妖夢はすぐにその思いを押し殺した。感傷は取り立て人には無用のものだ。
妖夢は小屋の中をもう一度見渡し、そして踵を返した。
夜気が冷たく頬を撫でた。霧の湖の霧はいっそう濃さを増している。その白い闇の向こうに何者かの気配が潜んでいないか――妖夢はしばし、研ぎ澄ました感覚を四方へ巡らせた。だがもう誰もいなかった。襲撃者たちはとうに引き上げた後だった。残されたのは争いの痕跡と一枚の書き置き、そして答えの出ない問いだけだった。
報告しなければならない。主に。一刻も早く。
妖夢は半霊を従え、冥界への帰路をかつてないほど急いだ。
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白玉楼に戻ったとき、空はまだ暗かった。
冥界への道のりを妖夢は休まず駆け戻ってきた。半霊を従え、霧の湖から人里を抜けて冥界へと至る長い道を、ほとんど一息に。胸の内にはあの紙片の重みと、答えの出ない問いとがずっとわだかまっていた。一刻も早く主に報告しなければ。その思いだけが彼女を急がせていた。
白玉楼の桜並木を抜けて縁側に近づくと――幽々子は、そこにいた。
幽々子は縁側で待っていた。まるで妖夢が何か重大なものを持ち帰ることを、最初から知っていたかのように。妖夢が出ていったときと寸分変わらぬ姿で。同じ座布団に同じように崩れて座り、同じ湯呑みを手にして。時の止まったこの庭で、幽々子だけがずっとそこに在り続けていたかのようだった。
幽々子は湯呑みを置いた。
「おかえりなさい、妖夢。五件、全部済んだのかしら」
妖夢はその問いにすぐには答えられなかった。息がまだわずかに乱れている。冥界の冷たい空気を一つ深く吸い込んでから、ようやく口を開いた。
「四件は済ませました」
妖夢は主の前に膝をついた。
「ですが五件目――霧雨魔理沙のところには、本人がおりませんでした」
幽々子の微笑みがわずかに変化した。それはほとんど目に見えないほどの変化だったが、長年仕えてきた妖夢にははっきりとわかった。主が関心を持った、ということだ。
「あら。あの几帳面な子がいないの」
几帳面という言葉は、霧雨魔理沙という人間を表すのにいささか不似合いに聞こえるかもしれない。あの髪も身なりも構わず、口を開けば生意気な減らず口ばかりを叩く魔法使いを几帳面と呼ぶ者は、白玉楼のほかにはまずいないだろう。
だがこと金の返済に関してだけは、魔理沙は驚くほど律儀だった。
期日の前日には必ず利息を用意して待っていた。一度として取り立てを待たせたことがない。妖夢が訪れればすでに紙包みは帳場の上に置かれていて、「ほら、きっちり耳を揃えてあるぜ」と得意げに笑ってみせるのが常だった。額が一文でも足りなかったことはただの一度もない。むしろ端数が出れば、律儀に切り上げて多めに渡そうとすることさえあった。
借りる額は桁が違った。各勢力の裏の物流を一手に担う運び屋として、魔理沙は常に多額の元手を必要としていた。だがその大きな借入を、彼女は一度も焦げつかせなかった。借りては返し、また借りては返す。その回転の速さと正確さは、白玉楼の長い金貸し稼業の中でも群を抜いていた。
幽々子が魔理沙を「一番大事なお客様」と呼ぶ理由は、そこにあった。たくさん借りてきっちり返す。金貸しにとってこれほどありがたい客はいない。減らず口も不精な身なりも、幽々子にとっては些事だった。帳簿の上で魔理沙の名はいつも、最も信頼の置ける最も上等な債務者として記されていた。
その魔理沙が期日に金を用意せず姿を消した。それだけで、ただ事ではないと知れた。
妖夢は見たままを報告した。
「小屋は荒れていました。争った跡がありました。魔法の弾痕に折れた箒、そしてわずかな血痕。複数の者が押し入って霧雨さんを連れ去ろうとした――そう見受けられます」
妖夢は懐から紙片を取り出し、主に差し出した。
「これが残されていました」
幽々子は白い指で紙片を受け取ると、しばらくの間それを眺めていた。乱れた筆跡を一字一字、確かめるように。
幽々子はつぶやくように言った。
「『誰にも見つかりたくない』、ねえ。特にあいつら、には……」
縁側にしばしの沈黙が落ちた。永遠の七分咲きの桜が音もなく、二人を見下ろしている。
やがて幽々子は言った。
「妖夢、あの子は生きていると思う」
妖夢は慎重に答えた。
「……はい。血の量から見て、深手は負っていないかと。逃げ切ったのだと思います」
「そう」
幽々子は紙片を膝の上に置き、再び湯呑みを手に取った。だがその中の茶は、とうに冷め切っているはずだった。それでも幽々子はそれを飲むような仕草をした。
「ねえ、妖夢。あなた、これをどう思う」
「と、申しますと」
「霧雨魔理沙は、私たちの一番大事なお客様の一人よ」
幽々子の声は相変わらず緩やかだった。だがその奥には、氷のように冷たい何かが宿り始めていた。
「あの子はたくさん借りてきちんと返す。私たちにとって何より手のかからない、ありがたい子だった。その子が――誰かに連れ去られかけた」
幽々子は視線を桜の闇へと向けた。
「貸したお金は取り立てる。それが白玉楼の筋よ。でもね、妖夢」
幽々子の唇がゆっくりと動いた。
「取り立てる前にお客様を殺されたら――それこそ、筋が通らないでしょう」
その言葉に、妖夢は背筋を伸ばした。
幽々子の声はどこまでも緩やかだった。微笑みも崩れてはいない。だが妖夢は気づいていた。長く仕えた者だけが感じ取れる、ごくわずかな兆候に。幽々子の指先が湯呑みの縁を、いつもより強く握っている。茶の水面がかすかに震えている。その温度の低い静けさの底に、何かがひたひたと満ちつつあった。
それは怒りだった。
声を荒げるでもなく、表情を歪めるでもない。生者の怒りが炎なら、この亡霊の怒りは底の見えない冬の淵のようなものだった。熱を持たず、ただ静かに深く冷たく沈んでいく。誰かが白玉楼の客に手を出した。幽々子という存在のそのもっとも根のところに触れる無礼を犯した。それを幽々子は決して許す気がなかった。許さないということを声高に宣言しさえしない。ただ淵の底でその怒りを、永遠の桜のように静かに咲かせているだけだった。
妖夢はぞくりとした。主のこの種の静けさを、これまで幾度か目にしてきた。そしてその後に何が起きたかも知っていた。
それは方針の転換だった。これまで白玉楼は決して他勢力の争いに首を突っ込まなかった。誰が誰を襲おうと誰が誰を裏切ろうと、白玉楼にとって重要なのは貸した金が返ってくるかどうか、その一点だけだった。中立こそが白玉楼の力の源だった。
だが今、幽々子はその中立を一時的に脇に置こうとしている。脇に置かせるほどのものが、あの淵の底で静かに燃えていた。
妖夢は確かめるように尋ねた。
「幽々子様、私たちは霧雨さんを探すのですか」
幽々子ははっきりと答えた。
「探すわ。探して見つけて、生きていることを確かめる。そして――ちゃんと借金を返してもらう」
最後の一言を口にしたとき、幽々子の微笑みの奥でその冷たい淵が、ほんの一瞬だけ底光りした。借金を返してもらう。その穏やかな言葉がこれほど剣呑に響いたことはなかった。
幽々子は湯呑みを縁側に置いて立ち上がった。淡い桜色の着物が夜の中で、ぼんやりと浮かび上がる。
「それに、気になることがあるの」
「気になること、と申しますと」
幽々子は桜の闇を見つめたまま言った。
「あの子を襲ったのが誰なのか。複数の者が組織だって押し入った。それはただの追い剥ぎや個人の恨みじゃない。どこかの勢力が本気であの子を消そうとしたか――あるいは押さえようとした」
幽々子は振り返って妖夢を見下ろした。その微笑みはいつも通りだった。だがその目の奥には、いつもとは違う光があった。
「霧雨魔理沙はいろんなところから物を仕入れていた。紅魔館に八雲、守矢。みんなあの子に世話になっていた。そのみんなに世話になっていた子を、誰が何のために襲ったのか――」
幽々子はゆっくりと言葉を切った。
「それを知ることは、きっと面白いことになるわ」
「面白い、ですか」
幽々子は袖で口元を隠し、くすりと笑った。
「ええ、面白いの。だって考えてもごらんなさい。あの子を襲った者は、紅魔館や八雲や守矢の誰かの秘密を消したかったのよ。つまりあの子の口を封じれば、得をする者がいる。その者が誰なのか――それがわかれば、白玉楼はまた一つ大きな貸しを作れる」
妖夢は主の言葉の意味を、ゆっくりと理解した。
これはただの人探しではない。幻想郷の各勢力が握る秘密の、その核心に触れる探索だった。そして幽々子はそれを、白玉楼の利益のために利用しようとしている。
中立を脇に置く、と妖夢は思った。だがそれすらも、最終的には白玉楼の利益のためなのだ。主は決して義侠心や正義感で動いているのではない。あくまでこれは商売の延長線上にある。貸した金を取り戻し、そのうえで新たな貸しを作る。冷徹なまでにそれは計算された判断だった。
そしてそれこそが、白玉楼が幻想郷で最も恐れられる所以だった。
幽々子は最後に言った。
「妖夢、夜が明けたらもう一度あの子の小屋に行ってちょうだい。今度は取り立てではなく――調べに。誰があの子を襲ったのか。その手がかりを一つでも多く持って帰ってきて」
妖夢は深く頭を下げた。
「承知いたしました。それと――」
そこまで言って、妖夢はわずかに言いよどんだ。
「もし霧雨さんを襲った者が見つかったとき。私はその者を――どうすればよろしいのでしょうか」
それは取り立て人の問いだった。金を取り立てる相手なら答えは決まっている。だが客を襲った者を見つけたとき、自分が何をすべきなのか。それはこれまでの取り立てにはなかった種類の問いだった。
幽々子はしばらく妖夢を見つめ、それからふわりと笑った。
「そのときはそのとき。あなたが決めればいいわ」
「私が、ですか」
「ええ。あなたは白玉楼の刀だもの。刀がどこを斬るかは――そのとき刀自身が、いちばんよく知っているものよ」
幽々子は付け加えた。
「気をつけてね、妖夢。今度のことはたぶん、あなたが思っているよりずっと血なまぐさいことになるわ」
その言葉はまるで予言のように、冥界の冷たい空気の中に静かに溶けていった。
妖夢は立ち上がって、自分の刀の柄にそっと手を添えた。楼観剣と白楼剣。取り立てのためにこれまで幾度となく抜いてきた刃。だがこれから先、その刃が向けられる相手は、もはや金を出し渋るだけの小者ではないだろう。紅魔館、八雲、守矢。幻想郷の名だたる勢力の誰かが、この件の裏にいる。その誰かといずれ刃を交えることになるかもしれない。
それでも妖夢の心は、不思議と静かだった。恐れはなかった。ただ自分が白玉楼の刀である限り、向かうべき場所へ向かい斬るべきものを斬る。それだけのことだと思った。
半人半霊の少女は東の空を見た。
冥界には夜明けがなかなか来ない。庭の桜は相変わらず永遠の七分咲きのまま、青白い闇に沈んでいる。だがこの闇の向こう、人里のほうでは、もうじき夜が明けるだろう。
そしてその夜明けと共に、幻想郷の長い血にまみれた抗争が――静かに幕を開けようとしていた。
妖夢が桜並木の奥へと消えた後、幽々子は再び縁側に腰を下ろし、冷めた茶をゆっくりと口に運んだ。
膝の上には魔理沙の残した紙片が、まだ載っている。幽々子はその乱れた筆跡を、もう一度撫でるように見つめた。「あいつら」。複数の敵。誰かが白玉楼の客に手を出した。
幽々子の微笑みは崩れなかった。だがその奥であの冷たい淵が、静かに深く波打っていた。
彼女は誰にともなくつぶやいた。
「さて。みんな、いくら借りていたか、ちゃんと覚えているといいけれど」
幽々子は紙片を、そっと帳簿の間に挟んだ。桜の根の下に眠る、あの一冊の帳簿。幻想郷の表と裏を結ぶ金の流れのすべてが記された帳簿。そこに今、新しい一行が書き加えられようとしていた。それは利息でも元本でもない。誰かが白玉楼に対して負った、もっと重くもっと剣呑な負債だった。
その微笑みの下にいったいいくつの借用書が眠っているのか――そしてそのうちのいくつが、金では決して返せないものなのか。それを知る者は、幻想郷に一人もいなかった。
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