夜が明けても冥界に朝は来ない。
白玉楼の桜は相変わらず永遠の七分咲きのまま、青白い光の中に沈んでいた。人里ではもうとうに日が昇って、人々が一日を始めている頃だろう。竈に火が入り、井戸端に水音が立って、子供たちが通りを駆けていく。そんなありふれた朝の喧騒が、生者の世界には満ちているはずだった。だが冥界の時間は、生者の世界とは別の流れを持っている。ここでは朝も昼も夜もただ淡い薄明かりの中に溶け合ったまま、境界というものを持たない。
時が止まっているというのとは少し違う。時は流れている。ただその流れに節目がないのだ。一日の始まりも終わりもなく、ひたすらに続く薄明の中の静寂。生者であればこの単調さにたちまち心を病んでしまうかもしれない。だが死者の魂にとっては、この変わらなさこそが安らぎなのだった。何も変わらず、何も終わらない。永遠に七分咲きの桜のように、ただ在り続ける。
魂魄妖夢はその薄明かりの中で、一睡もせずに庭に立っていた。
半人半霊である妖夢は生者でも完全な死者でもない。だからこそこの冥界の静寂が心地よくもあり、同時に息苦しくもあった。普段ならその境界の曖昧さをことさら意識することはない。だが今夜――いや、もはや夜とも朝ともつかないこの時刻に、妖夢の心はかつてないほどざわついていた。
霧の湖から戻って主に報告を済ませてから、もう幾刻が過ぎただろうか。眠ろうとしても眠れなかった。床に就いてまぶたを閉じれば、あの荒れ果てた小屋がまざまざと浮かんでくる。倒れた机。散乱した瓶や本。壁を焦がした魔法の弾痕。そして床の隅に真っ二つに折れて転がっていた、あの箒。さらには「あいつら」とだけ記された一枚の紙片。それらが繰り返し妖夢の脳裏をよぎるのだった。
そしてその合間に、ふとあの生意気な魔法使いの顔が浮かぶのだった。
よう、白玉楼の死神。今日も金の取り立てかい――そう言ってけらけらと笑う魔理沙の顔が。取り立て人を死神と呼んでなお笑える人間は、幻想郷でも数えるほどしかいない。誰もが妖夢の姿を見れば顔をこわばらせて目をそらす。借金取りとはそういうものだ。恐れられて疎まれ、避けられる。それが当たり前だった。だが魔理沙だけは違った。あの魔法使いは妖夢を一人の人間として――いや、半人半霊として対等に扱ってくれた。軽口を叩いて茶化しては、屈託なく笑った。
その数少ない一人が今、どこかで傷を負って独りで身を潜めている。あるいはもっと悪いことになっているかもしれない。
妖夢は頭を振って、その想像を打ち消した。
感傷は取り立て人には無用のものだ。何度も自分にそう言い聞かせる。相手は債務者だ。借りた金を返さぬまま姿を消した、ただの一人の借り手にすぎない。情を移してはならない。白玉楼の刀は、刃に情を乗せた瞬間その切れ味を失う。だが――言い聞かせるほどに、胸の奥の落ち着かなさはかえって増していくようだった。
眠ることを諦めた妖夢は庭に出て刀の手入れを始めた。
夜が明けたら、もう一度あの子の小屋に行ってちょうだい――幽々子はそう命じた。
妖夢は刀の手入れをしながら、その命を反芻していた。今度は取り立てではなく、調べに。誰が魔理沙を襲ったのか。その手がかりを一つでも多く。
砥石の上を白楼剣の刃が滑らかに滑る。しゃり、しゃり、と規則正しい音が、静寂の庭に低く響いた。研ぎ澄まされた刃が薄明かりを受けて白く光る。妖夢にとって刀の手入れは、心を鎮めるための儀式でもあった。一筋一筋丁寧に刃を研ぐうちに、乱れた思考が少しずつ整理されていく。父祖から受け継いだこの二振りの刀。楼観剣と白楼剣。それらを手入れする時間だけは、妖夢の心はいつも凪いだ。
だが今夜ばかりはその儀式をもってしても、心の波は完全には鎮まらなかった。
妖夢はその刃を見つめながら、ふと昨夜の幽々子の言葉を思い出した。
あなたは白玉楼の刀だもの。刀がどこを斬るかは――そのとき刀自身が、いちばんよく知っているものよ。
妖夢にはまだ、その意味が完全にはわからなかった。だがわかる日が来るような、漠然とした予感だけが胸の奥にあった。刀がどこを斬るか。これまで妖夢が斬ってきたのは、金を出し渋る小者たちのその得物だけだった。峰で打って刃を見せ、相手を退かせる。それで事は足りた。血を流させたことは一度もない。だがこれから先は――そうもいかないかもしれない。あの幽々子の言葉には、そんな不穏な予感が込められているように思えた。
砥石を置いて、妖夢は白楼剣を鞘に納めた。かちり、と鍔の鳴る音がやけに大きく聞こえた。
それから、どれほどの時が経っただろう。
そのとき。
「妖夢」
縁側から幽々子の声がした。いつもと同じ緩やかな声。だがその声にはわずかに、張り詰めたものが混じっていた。長く仕えた妖夢だからこそ聞き分けられる、ごくかすかな緊張。
「お客様よ」
妖夢は手入れの手を止め、顔を上げた。
「お客様、ですか。こんな時刻に?」
「ええ。それも――三組も」
幽々子は湯呑みを片手に、桜の闇の向こうを見つめていた。妖夢がその視線の先を追うと、桜並木の奥から確かに、複数の気配が近づいてくるのが感じられた。
一つではない。二つでもない。三つの、別々の気配。互いに相手の存在を知らぬまま、ばらばらの方角から白玉楼へと向かってくる。それぞれがまったく異なる質の力を帯びていた。一つは研ぎ澄まされた刃のような気配。一つは底知れぬ深い淵のような気配。そしてもう一つは、まっすぐで清廉な気配。
冥界は生者が容易に踏み込める場所ではない。三途の川を渡って彼岸を越え、この死者の領域に至るには、相応の力か相応の手引きが要る。生半可な者ではそもそも、白玉楼の門前に立つことすらできない。その冥界へ、同じ夜に三組もの使者が訪れる。それがどれほど異常なことか、妖夢にはよくわかっていた。
幽々子はくすりと笑った。
「妙な話ね。示し合わせたわけでもないのに、同じ夜に三組も。よほど急いでいるのね、みんな。さて、何の用かしら」
妖夢にはわかっていた。三組の客が何の用で来たのか。
魔理沙のことだ。間違いない。
そして三組が揃ってこれほど慌てて冥界まで足を運んできたという事実そのものが、魔理沙という存在の重さを何より雄弁に物語っていた。あの、けらけらと笑う魔法使いの背には、幻想郷の名だたる勢力をこぞって動かすほどの重い秘密が載っていたのだ。
妖夢は静かに立ち上がって、幽々子の傍らに控えた。
最初の気配が、桜並木の奥から姿を現そうとしていた。
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最初に現れたのは、紅魔館の使者だった。
桜並木を抜けて縁側の前に進み出たのは、一人のメイドだった。銀色の髪を青いリボンで結い、青いドレスに白いエプロンを纏っている。その立ち居振る舞いには一切の無駄がなかった。歩く足音すらほとんど立てない。まるで霧が地を滑るように、彼女は音もなく近づいてきた。
十六夜咲夜。紅魔館のメイド長であり、レミリア・スカーレットの絶対の腹心。時を操る能力を持つ、紅魔館で最も危険な者の一人だった。
妖夢はその姿を認めた瞬間、思わず身構えた。冥界という生者には近づきがたい場所へ、ただ一人何の供も連れずに、迷いなく踏み込んでくる。それだけでこの銀髪のメイドが並の使者ではないことが知れた。三途の川も彼岸の関も、彼女にとっては障害にすらならなかったのだろう。
「夜分に失礼いたします、西行寺様」
咲夜は縁側の前で優雅に一礼した。所作の一つ一つが、磨き上げられた刃のように隙がない。頭を下げながらも、その視線はわずかに妖夢のほうへも向けられていた。庭に控える半人半霊の存在を、咲夜は最初から抜かりなく把握していた。
「紅魔館より、お嬢様の名代として参りました。少々お願いがあって伺いました」
幽々子は湯呑みを置いて微笑んだ。
「あら、咲夜さん。わざわざ冥界までご苦労さま。お願い、というと?」
咲夜はすぐには本題に入らなかった。まずは丁寧に、紅魔館がこれまで白玉楼から受けてきた厚意への感謝を述べた。夜会の運営資金、骨董の調達費。それらを白玉楼が融通してくれたことへの礼。言葉はどこまでも礼儀正しく、隙がなかった。
だがその礼儀正しさの裏に、妖夢はひやりとするものを感じた。咲夜は用件を切り出す前に、まず白玉楼への「借り」を確認している。自分たちが白玉楼の債務者であることを、あえて先に認めておく。それはこれから持ちかける「お願い」が、対等な交渉ではなく借り手としての願い出であることを、形の上で示す手続きだった。同時にそれは、紅魔館が白玉楼と事を構える気はないという意思表示でもあった。咲夜は最初から低く出ることで、白玉楼の警戒を解こうとしている。
そういう、計算された丁寧さだった。
そして本題に入った。
「実は――霧雨魔理沙のことで参りました」
やはりと妖夢は思った。
「魔理沙が、どうかしたの?」幽々子は何も知らぬ顔で首をかしげた。
咲夜は淡々と告げた。
「数日前から行方が知れません。彼女は紅魔館にとって、大切な仕入れ先です。外界の骨董、稀少な魔導書――お嬢様が蒐集なさる品々の多くを、彼女が運んでおりました。その彼女が突然、姿を消した。紅魔館としては看過できません」
「それで?」
咲夜は改まった口調で続けた。
「西行寺様。もし白玉楼が魔理沙の行方について何かをご存知でしたら、あるいはこれから探されるおつもりでしたら――どうか、紅魔館にお任せいただけませんか。彼女の身柄は、こちらで保護いたします」
縁側にしばしの沈黙が落ちた。
妖夢は咲夜の言葉を注意深く吟味していた。保護する、と咲夜は言った。だがその言葉の選び方が、どこか引っかかった。魔理沙の身を案じているというより、魔理沙という「資産」を他者の手に渡したくない――そういう響きがあった。
幽々子はゆっくりと茶を啜った。
「お任せいただきたい、と言われてもね。魔理沙は白玉楼の大事なお客様。借りたお金を、まだ返してもらっていないの。その子の身柄を、はいそうですかと紅魔館に渡すわけにはいかないわ」
咲夜の表情は変わらなかった。
「もちろん、彼女の負債については紅魔館が責任を持って――」
「あら。じゃあ、紅魔館が魔理沙の借金を肩代わりしてくださるの?」
幽々子の問いに、咲夜はほんの一瞬言葉に詰まった。それは本当にわずかな間だった。並の者なら気づきもしないだろう。だが妖夢はその一瞬を見逃さなかった。そして幽々子もまた、見逃していなかった。
紅魔館は魔理沙を確保したい。だがその借金まで背負う気はない。
それは紅魔館の本音を、はしなくも露呈させていた。彼らが欲しいのは魔理沙という人間ではない。魔理沙が握る紅魔館の秘密。それだけだ。秘密さえ回収できれば、借金などどうでもいい。だから肩代わりの話になると、途端に歯切れが悪くなる。
「……その点については、お嬢様と相談の上で改めてご返答いたします」咲夜は慎重に答えた。
見事な切り返しだった、と妖夢は内心で評した。即答を避けて判断を主君に委ねることで、その場の言質を取られることを防ぐ。さすがは紅魔館のメイド長。一筋縄ではいかない。
幽々子はにっこりと笑った。
「そう。では、相談がまとまってからまた来てちょうだい。借金を肩代わりしてくださるなら、身柄の話も考えなくはないわ。でも、ただで大事なお客様を渡すのは、白玉楼の流儀に反するの。わかってくださるでしょう?」
咲夜はそれ以上、食い下がらなかった。深々と一礼して、引き下がる構えを見せた。
その引き際もまた見事だった。粘れば粘るほど、こちらの弱みを見せることになる。それを心得て、咲夜は潮時を誤らなかった。妖夢はこの銀髪のメイドが、ただの使者ではないことを改めて思い知った。交渉の場における彼女の判断は、一切の無駄がなく隙がない。まるでその所作のように。
だが立ち去り際、咲夜はふと足を止めた。そして妖夢のほうへ視線を向けた。
「魂魄様」
「……はい」妖夢は警戒を込めて応じた。
咲夜の声は低く、抑えられていた。
「一つだけ、忠告を。もしあなたがたが魔理沙を探されるなら――どうか、お気をつけください。あの夜、魔理沙を襲ったのは紅魔館ではありません。ですが、紅魔館の名を騙る者が動いているという噂があります」
妖夢の眉がわずかに動いた。
「紅魔館の名を、騙る者?」
「ええ。詳しいことは、私の口からは申せません」咲夜はそれだけ言うと、再び一礼した。
なぜわざわざ、それを告げるのか。妖夢には咲夜の意図が測りかねた。敵かもしれない相手に手がかりを与えるような真似を、なぜ。
妖夢は思わず呼び止めた。
「十六夜さん。なぜ、それを私たちに?」
咲夜は足を止めた。霧のような沈黙の後、彼女は振り返らずに静かに答えた。
咲夜の声は相変わらず冷たかった。
「……紅魔館の名を勝手に使われるのは、迷惑だからです。それだけのこと。もしあなたがたがその騙り者を見つけることがあれば――それは、紅魔館にとっても都合のいいこと。利害がたまたま一致しているだけです」
そう言うと、咲夜の姿は音もなく桜の闇に溶けて消えた。時を操る者らしい、一切の余韻を残さない退場だった。
縁側に、再び静寂が戻る。
妖夢は咲夜の去った方角を、しばし見つめていた。利害が一致しているだけ――そう言いながら咲夜は確かに、こちらに手がかりを与えていった。あの銀髪のメイドが何を考えているのか。味方なのか、それとも巧妙にこちらを誘導しようとしているのか。妖夢にはまだ、読み切れなかった。
幽々子がつぶやいた。
「面白いことを言って帰ったわね。紅魔館の名を騙る者、ですって」
「幽々子様は、どう思われますか」
幽々子は湯呑みを傾けた。
「さあ。本当のことかもしれないし、こちらを攪乱するための嘘かもしれない。でも一つだけ、確かなことがあるわ。咲夜さんは――魔理沙が本当はどこにいるのか、知らないのよ」
「知らない、ですか」
「ええ。知っていたら、あんな回りくどい頼み方はしないもの。身柄を保護したいなんて言うのは、まだ身柄を押さえていないからよ。紅魔館は魔理沙を探している。私たちと同じように」
妖夢はその読みに深く頷いた。紅魔館は魔理沙を匿ってなどいない。むしろ見失って焦っている。咲夜のあの一瞬の言い淀みが、それを物語っていた。
だが考える間もなく、二組目の気配が近づいてきた。
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二人目の使者は、空間の裂け目から現れた。
桜並木の途中、何もない宙にすうっと、紫色の境界が開いた。無数の目を持つその不気味な裂け目から優雅に足を踏み出したのは――八雲紫その人だった。
幻想郷の管理者。境界を操る大妖怪。普段は表に出ることを好まず、藍や橙を使って物事を動かす紫が自ら姿を現した。それだけで事の重大さが知れた。
「あらあら。幽々子、こんな時間にお邪魔してごめんなさいね」
紫は扇子で口元を隠しながら、にこやかに微笑んだ。だがその金色の瞳は笑っていなかった。
幽々子は旧知の友を迎えるように、軽く応じた。
「紫。珍しいわね、あなたが自分で来るなんて。藍さんを寄越せばいいものを」
「藍では話が回りくどくなると思ったのよ。これは、あなたと私の直接の話だもの」
紫は宙に座布団を出現させて、そこに腰を下ろした。幽々子とまるで茶飲み話でもするかのような、くつろいだ態度だった。だが妖夢はその優雅さの裏に、研ぎ澄まされた緊張を感じ取っていた。二人の大妖怪の間に、見えない火花が散っている。
八雲紫と西行寺幽々子。この二人の付き合いは、妖夢が仕えるよりもずっとずっと古い。どれほど古いのか、妖夢は知らない。ただ二人が言葉を交わすとき、その短い言葉の裏に幾百年もの歴史が折り畳まれているのを、妖夢は感じることがあった。友であり好敵手であり、互いの手の内を知り尽くした者同士。だからこそ二人が対峙すると、そこには生半可な交渉とは比べものにならない、静かな緊張が満ちるのだった。
紫は扇子を閉じた。
「単刀直入に言うわ。霧雨魔理沙。あの子の行方、あなた知っているでしょう」
幽々子は即座に答えた。
「知らないわ。昨夜、取り立てに行かせたら、もぬけの殻だったの。襲われた跡だけが残っていてね。妖夢が調べてきたわ」
紫の視線が、ちらりと妖夢のほうへ流れた。妖夢はその視線をまっすぐに受け止めた。金色の瞳に見据えられると、まるで心の奥底まで覗き込まれているような、奇妙な圧迫感があった。境界を操る大妖怪。この相手の前では嘘も隠し事も、意味をなさないのではないか――そんな錯覚すら覚えた。
紫は扇子で頬を撫でた。
「ふうん。では、訊き方を変えましょう。あなた、これからあの子を探すつもり?」
「ええ。大事なお客様だもの。借金も、まだ返してもらっていないし」
「やめておきなさい」
紫の声から、ふっと笑みが消えた。
「あの子の周りは今、とても危ない。あなたが首を突っ込めば、白玉楼まで面倒に巻き込まれる。悪いことは言わないわ。手を引きなさい、幽々子」
縁側の空気が、ぴんと張り詰めた。
妖夢は思わず刀の柄に手を添えそうになった。紫の言葉は、表向きは忠告だった。だがその奥には明確な圧力があった。これは忠告ではない。警告だ。手を引け、と幻想郷の管理者が白玉楼に命じている。
だが幽々子は動じなかった。
「あら。それは心配してくれているの? それとも――脅しているの?」
幽々子の微笑みは崩れなかった。だがその声の底に、昨夜妖夢が感じ取った、あの冷たい淵がちらりと覗いた。
紫は再び扇子を開いた。
「やだわ、脅しだなんて。私はただ、古い友人として忠告しているだけよ。あなたに危ない橋を渡ってほしくないの」
幽々子は軽く受け流した。
「そう。なら、ありがたく聞いておくわ。でもね、紫。私には私の筋があるの。貸したお金は取り立てる。お客様が襲われたなら、その理由を知る。それが白玉楼の流儀よ。あなたの都合でその流儀を曲げるわけには、いかないわ」
二人の視線が、空中で交差した。
しばしの沈黙の後、紫がふっと肩の力を抜いた。
「……相変わらず頑固ね、あなたは」
「お互いさまでしょう」
紫は苦笑した。
「そうね。いいわ。それなら、これだけは言っておく。あの子が運んでいた荷の中に――境界を越えて、本来この幻想郷にあってはならないものが混じっていたの。それが何なのかは私にもまだわからない。でも、それを巡っていくつもの勢力が動き始めている。あなたが探しているのは、ただの行方不明者じゃない。幻想郷の均衡を揺るがしかねない、爆弾よ」
紫は立ち上がって、再び境界の裂け目を開いた。
「忠告はしたわ。あとは、あなたの好きになさい」
そう言い残して、紫の姿は無数の目を持つ裂け目の向こうへと消えていった。
縁側に、三度目の静寂が訪れる。
幽々子がつぶやいた。その横顔には初めて、わずかな緊張の色が滲んでいた。
「爆弾、ですって。紫があそこまで言うなんてね。これは思っていたより厄介なことになりそうよ、妖夢」
妖夢は問うた。
「幽々子様。紫様の言葉は、信じてよろしいのでしょうか」
幽々子は答えた。
「半分はね。紫は嘘はつかない。でも、本当のことを全部は言わない人なの。あの子が運んでいた荷に何か危ないものが混じっていた――それはたぶん本当。でも、紫が一番気にしているのはそれじゃない」
「と、申しますと?」
幽々子は桜の闇を見つめた。
「紫はね、魔理沙の口を恐れているのよ。あの子は、八雲の密輸の一部始終を知っている。もし捕まって誰かに全部喋ったら――八雲の裏の顔が表に出る。紫が手を引けと言うのは、私たちが魔理沙を見つけて、その口から八雲の秘密が漏れることを恐れているからよ」
妖夢は考えながら言った。
「ですが、幽々子様。紫様はわざわざ自ら冥界まで来て、忠告なさいました。藍様を寄越せば済む話を。それは――よほど本気だということでは」
幽々子は湯呑みを置いた。
「そうね。だから厄介なのよ。紫が自分で動くというのは、藍に任せられないほど繊細な話だということ。つまり魔理沙が握っている八雲の秘密は、藍にすら知られたくないものなのかもしれない。あるいは――紫自身のいちばん深いところに関わる、何かなのかも」
妖夢は背筋が冷えるのを感じた。
幻想郷の管理者である紫が、自らの手の内を晒してまで恐れるもの。それが魔理沙という一人の運び屋の口に握られている。魔理沙は、自分がどれほど危険なものを背負っているのか、わかっていたのだろうか。あの、けらけらと笑う魔法使いが。
そして――三組目の気配が近づいてきた。
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三人目の使者は、桜並木をまっすぐに歩いてきた。
緑色の髪に巫女装束。だが博麗のそれとは違う、白と紺の見慣れない意匠の装束だった。手には御幣を持ち、その足取りには清廉とも言える迷いのなさがあった。
東風谷早苗。守矢神社の風祝。神奈子と諏訪子という二柱の神を祀る、新興信仰の人間側の旗頭だった。
その姿は先の二人とは、明らかに異質だった。咲夜の研ぎ澄まされた刃のような気配も、紫の底知れぬ老獪さもない。代わりにあるのは、若さと信仰に裏打ちされた、まっすぐな芯の強さだった。冥界という死者の領域に踏み込みながら、早苗の足取りには不思議と怯えがなかった。神を信じる者の揺るぎなさ。それが彼女をここまで歩かせてきたのだろう。
だが妖夢はその清廉さに、かえって警戒を強めた。咲夜や紫のようなわかりやすい危うさは、まだ対処のしようがある。だが早苗のような、信じきった者の純粋さは時に最も御しがたい。なぜなら彼女たちは、自分が利用されていることにすら気づかないからだ。
「はじめまして、西行寺様」
早苗は縁側の前で深々と頭を下げた。その所作は咲夜の磨かれた優雅さとも、紫の老獪な余裕とも違う、まっすぐで若々しいものだった。
「守矢神社の東風谷早苗と申します。本日は神奈子様の名代として、お願いに上がりました」
幽々子は興味深そうに、早苗を眺めた。
「守矢神社、ねえ。新しく来た神様のところね。あなたたちも、魔理沙の件で?」
早苗の表情がわずかに動いた。幽々子がもう用件を見抜いていることに、驚いたようだった。
早苗は正直に認めた。
「……はい。仰る通りです。霧雨魔理沙さんのことで参りました」
幽々子はおかしそうに笑った。
「みんな、同じことを言いに来るのね、今夜は。紅魔館も八雲も、そして守矢も。魔理沙を自分たちに任せてくれ、ですって。あなたたちも、そう言いに来たの?」
早苗は戸惑ったような顔をした。自分より先に、二組もの使者が同じ用件で訪れていたことを知らなかったのだろう。
早苗は言葉を選びながら言った。
「あの……私たちはただ。魔理沙さんにお世話になっておりました。守矢神社の御神体となる稀少な品を、彼女が調達してくださっていたのです。その彼女が行方知れずになった。神奈子様はたいそうご心配なさっていて……どうか、もし見つかったら私たちにも知らせていただけないかと」
妖夢は早苗の言葉に、これまでの二人とは違う響きを感じた。咲夜や紫の「保護したい」という言葉には、どこか冷たい計算があった。だが早苗の「心配している」には、もう少し素朴な何かが混じっていた。
もっとも――と、妖夢は思い直した。それが早苗の本心なのか、それとも神奈子に言い含められて演じているだけなのかはわからない。守矢が信仰を数字で管理し、人心を巧みに利用する勢力であることを、妖夢は知っていた。早苗の清廉さすら、あるいは計算された仮面なのかもしれない。
幽々子は探るように言った。
「神奈子さんが心配している、ねえ。ところで、早苗さん。守矢の御神体って、何なのかしら? 魔理沙が調達していた、稀少な品って」
その問いに、早苗の顔がさっと強張った。
「それは……申し上げられません」
「あら、どうして?」
早苗は目を伏せた。
「神聖な、信仰の核心に関わることですので……部外者の方にお話しすることはできません」
幽々子はそれ以上、追及しなかった。だがその目は、早苗の動揺をしっかりと捉えていた。
妖夢にもわかった。守矢の御神体には、何か表に出せない秘密がある。そしてその秘密は、魔理沙が調達した品と深く関わっている。早苗があれほど狼狽したのが、何よりの証拠だった。
考えてみれば、奇妙な話だった。御神体とは神社にとって、信仰の中心をなす最も神聖なものだ。それを外界を渡り歩く運び屋から「調達」していたというその事実そのものが、すでに尋常ではない。本来、御神体とは神そのものが宿る依代であり、人の手で売り買いされるようなものではないはずだった。
つまり守矢の御神体は――おそらく、その正体が信者に語られているものとはまったく違う。魔理沙が外界から運んできた、ただの珍しい品。それを守矢は「奇跡の御神体」として祀り、信仰を集めている。もしその正体が露見すれば、守矢の信仰は根底から崩れ去る。
早苗がこれほど必死に隠そうとするのも、無理はなかった。魔理沙が捕まって御神体の出所を喋れば、守矢は終わる。彼らが魔理沙を「心配」しているのは、その口を何としても封じておきたいからだ。
妖夢は早苗の若々しい横顔を見つめた。
この風祝は、どこまで知っているのだろう、と思った。御神体がただの調達品にすぎないことを、早苗自身は知っているのか。それとも神奈子に「これは神聖な御神体だ」と教えられ、それを信じきってここに来ているのか。もし後者なら――早苗は自分が守ろうとしているものの正体すら、知らないことになる。
その純粋さは哀れでもあり、同時に危うくもあった。
幽々子は穏やかに言った。
「わかったわ。もし魔理沙が見つかったら守矢にも知らせる――とは、約束できないけれど。あなたたちの気持ちは、受け取っておくわ」
早苗は少し残念そうな顔をしたが、それ以上は粘らなかった。深々と一礼して、来た道をまっすぐに戻っていった。その後ろ姿には、咲夜や紫のような底知れぬ凄みはなかった。だがその若々しい清廉さの裏に、何か必死なものが隠されているように、妖夢には見えた。
早苗の姿が桜並木の奥に消えると、幽々子はふう、と息をついた。
「これで、三組ともお帰りね」
妖夢は口を開いた。
「幽々子様。三組とも、同じことを言いに来ました。魔理沙さんを自分たちに任せてくれ、と」
幽々子は湯呑みを置いた。
「ええ。そして三組とも――嘘をついているわ。紅魔館は魔理沙の借金を背負う気がないのに、身柄だけ欲しがった。八雲は心配しているふりをして、本当は魔理沙の口を恐れている。守矢は御神体の秘密を隠したくて必死だった。三組とも、魔理沙を案じているんじゃない。魔理沙が握っている自分たちの秘密を、案じているの」
妖夢は深く頷いた。第一章で藍が言っていたことが、今はっきりと裏付けられた。魔理沙は各勢力の秘密を握りすぎた。だからこそ各勢力は、彼女を確保したがる。生かすためではなく、その口を自分たちの手の届くところに置いておくために。
「でもね、妖夢。一つ、面白いことがわかったわ」
幽々子は楽しげに言った。
「面白いこと、ですか」
幽々子はくすりと笑った。
「三組とも、魔理沙が今どこにいるのか知らないのよ。紅魔館も八雲も守矢も。みんな、魔理沙を探している。私たちと同じように。つまり――魔理沙を襲って連れ去ろうとした者は、この三組の誰でもない」
妖夢ははっとした。
そうだ。もしこの三組のいずれかが魔理沙を襲って確保していたなら、わざわざ白玉楼に「任せてくれ」などと頼みに来る必要はない。三組が揃って探しているということは――魔理沙を襲った者は別にいる。あるいは襲撃には失敗して、魔理沙は今、誰の手にも落ちず独りで身を潜めている。
妖夢はふと疑問を口にした。
「でも、幽々子様。三組が揃って同じ夜に来たのは、なぜでしょうか。まるで誰かが、三組を同時に焚きつけたかのようです」
幽々子の目がわずかに細められた。
幽々子は感心したように言った。
「いいところに気づいたわね、妖夢。そう。これは偶然にしては、できすぎている。誰かが紅魔館にも八雲にも守矢にも、『魔理沙が消えた』という報せを同じ頃に流したのよ。三組が慌てて動き出すように」
「ではその『誰か』が――魔理沙さんを襲った者?」
幽々子は桜の闇を見つめた。
「かもしれない。あるいはその報せを流すことで得をする、別の誰か。考えてもごらんなさい。三組が揃って魔理沙を探し回れば、幻想郷はますます混乱する。その混乱に乗じて何かを企む者がいるとしたら――?」
妖夢は背筋が冷えるのを感じた。
これは単なる失踪事件ではない。誰かが意図的に各勢力を動かして、幻想郷の均衡を揺さぶろうとしている。魔理沙の失踪は、その引き金にすぎないのかもしれない。
「では、魔理沙さんを襲ったのは、いったい――」
幽々子は立ち上がった。
「それを、これから調べるのよ。咲夜さんが面白いことを言っていたわね。紅魔館の名を騙る者が動いている、と。それが本当だとしたら……襲撃者は、紅魔館の名を借りた第四の勢力かもしれない」
幽々子は桜の闇を見つめながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「あるいは――そのどれでもない、もっと意外な誰か、かもしれないわね」
妖夢はその言葉の不穏さに、思わず身を硬くした。
紅魔館。八雲。守矢。三大勢力が揃って探している。にもかかわらず、魔理沙の行方は杳として知れない。いったい誰がこれほど巧妙に、一人の魔法使いを巡る幻想郷の均衡を掻き乱しているのか。
そしてその誰かは――今この瞬間にも、闇の中で次の手を打とうとしているのかもしれない。
幽々子は振り返った。その微笑みの奥で、冷たい淵が静かに底光りしていた。
「妖夢。予定通り、もう一度魔理沙の小屋へ行ってちょうだい。今度はより深く調べるの。三組の使者が来たことで、はっきりしたわ。これは――白玉楼にとって、またとない好機よ」
「好機、ですか」
幽々子の声は緩やかだった。だがその底には、商人としての底知れぬ計算が宿っていた。
「ええ。三大勢力が揃って、一人の運び屋を欲しがっている。その運び屋をもし白玉楼が先に見つけたら――どうなると思う? 白玉楼は三大勢力すべてに対して、とてつもなく大きな貸しを作ることになる。魔理沙の身柄は、もはやただの債務者じゃない。幻想郷で最も価値のある切り札なのよ」
妖夢は主の言葉の意味を、ゆっくりと噛みしめた。
幽々子は魔理沙の身を案じてなどいない。少なくとも、それだけではない。彼女が見ているのはもっと先――この一件を白玉楼の利益に変える道筋だった。冷徹で計算高く、そしてどこまでも商人らしい判断だった。
だがと妖夢は思った。それだけではないという気も、どこかでしていた。
昨夜、幽々子の指先が湯呑みの縁を強く握っていたのを、妖夢は覚えている。あの冷たい淵のような怒り。客に手を出された者としての、静かな憤り。あれは計算ではなかった。幽々子は利益を語りながら、その奥で本当に怒っているのだ。白玉楼の流儀を踏みにじった何者かに対して。
利益と怒り。その二つが幽々子の中では、矛盾なく同居している。そういう人なのだ、と妖夢は思った。だからこそ底が知れない。
そしてそれこそが、白玉楼が幻想郷で最も恐れられる所以なのだと、妖夢は改めて思い知った。
妖夢は深く頭を下げた。
「承知いたしました。すぐに参ります」
幽々子は付け加えた。
「ええ、頼んだわよ。――ああ、それと。途中で誰かに会うかもしれないわ。紅魔館の咲夜さんとか、ね。みんな、同じ場所を探しているもの。気をつけて、妖夢」
「もし会ったら――どういたしましょう」
妖夢の問いに、幽々子はしばし考えるように首をかしげた。
幽々子は微笑んだ。
「そうね。争う必要はないわ。でも、馴れ合う必要もないの。白玉楼は誰の味方でもない。それを忘れないでね。咲夜さんも紫も早苗さんも――今は同じものを探す者同士。でも、いつ敵になるかわからない。そういう相手よ」
その言葉は奇妙な予感を伴って、妖夢の胸に残った。誰の味方でもない。それは裏を返せば、誰もが敵になりうるということでもあった。
妖夢はもう一度頭を下げて、刀を腰に差し直した。
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ここで、場面は変わる。
同じ夜、人里の外れ。
十六夜咲夜は白玉楼を辞した後、まっすぐ紅魔館へは戻らなかった。彼女にはまだ、片付けねばならない仕事があった。
レミリアからの命令は明確だった。魔理沙を何としても見つけ出せ。そしてその身柄を、紅魔館の管理下に置け。理由は問うな――それがお嬢様の言葉だった。
咲夜は命令の理由を問わなかった。問う必要がなかったからだ。長く仕える中で、咲夜はレミリアの考えをおおよそ察することができた。魔理沙が握っている紅魔館の秘密――それを他者の手に渡すわけにはいかない。だから確保する。それだけのことだった。
もっとも、その「秘密」が具体的に何であるのかは、咲夜も知らされていなかった。レミリアはそれを語らなかった。咲夜もまた、あえて問わなかった。知らないほうがいいことは、この世にいくらでもある。メイドとして、咲夜はその線引きを心得ていた。
白玉楼での首尾は、芳しくなかった。西行寺幽々子は一筋縄ではいかない相手だった。魔理沙の借金を肩代わりするのか、と問われて、咲夜は即答できなかった。あれは痛いところを突かれた。紅魔館は魔理沙の身柄は欲しいが、その負債まで背負う気はない。その本音をあの亡霊は、一瞬で見抜いた。
だが収穫がなかったわけではない。白玉楼もまた、魔理沙の行方を知らない。それがはっきりした。つまり、まだ間に合う。先に見つけ出せば、紅魔館が魔理沙を確保できる。
人里の道を、咲夜は足音もなく進んでいた。夜の人里はしんと静まり返って、ほとんどの家の灯りは消えている。時おり夜回りの提灯が、遠くに揺れるばかりだった。
ある路地に差しかかったとき。
咲夜の足が、ふと止まった。
前方の暗がりに、数人の男たちがたむろしていた。みすぼらしい身なりだが、その目つきには堅気ではない鋭さがあった。咲夜は即座に、彼らが「仕事」の最中であることを見抜いた。こういう手合いを咲夜は何度も見てきた。誰かに雇われて汚れ仕事を請け負う、使い捨ての駒たち。
咲夜は気配を消して、建物の影に身を寄せた。そして男たちが交わす低い会話に、耳を澄ませた。
「……あの女、まだ見つからねえのか」
「ああ。霧の湖からは確かに逃げた。だがその後の足取りが、ぷっつり消えてる」
「面倒なことになったな。御神体のことがばれる前に、口を封じろって話だったのに」
御神体。
その一言に、咲夜の眉がぴくりと動いた。
守矢だ。咲夜は確信した。この男たちは守矢に雇われた者たちだ。そして彼らこそが――魔理沙を襲った一味なのだ。霧の湖から逃げたという言葉が、それを裏付けていた。
つまり魔理沙を襲ったのは、守矢。白玉楼に殊勝な顔で「心配しています」と使者を送りながら、その裏で魔理沙の口を封じようとしていた。御神体の秘密を守るために。
咲夜の中で、点と点が線で結ばれていく。
だがまだ、わからないことがある。この男たちは魔理沙を「襲った」が、「取り逃がした」。では今、魔理沙はどこにいるのか。それをこの男たちから聞き出さねばならない。
咲夜はもう少し近づこうとした。だがその瞬間。
「……誰だ?」
男たちの一人が、ふと振り返った。咲夜の気配を嗅ぎつけたのだ。さすがに修羅場を踏んできた者たちだけのことはある。男たちが一斉に身構えた。中の一人が懐からナイフを抜いた。鈍く光る刃。素人の得物ではない。
咲夜は暗がりから、ゆっくりと歩み出た。隠れる必要はもうなかった。
咲夜は静かに言った。
「夜分に、物騒なお話をなさっているのね。御神体? 口を封じる? 続きを、聞かせていただけるかしら」
男の一人が舌打ちした。その顔に警戒と、わずかな怯えが走った。紅魔館の名は、人里の裏稼業の者たちにも知れ渡っている。
「……紅魔館のメイドか。どうして、お前がここにいる」
咲夜の声は、氷のように冷たかった。
「お互いさまでしょう。あなたがたも私も、同じ女を探している。ただ、目的が少し違うようね。あなたがたは彼女の口を封じたい。でも私は――彼女を、生きたまま欲しいの」
男たちの間に緊張が走った。じり、と彼らが間合いを詰めてくる。一人ではない。四人。四方から咲夜を囲もうとしている。連携の取れた動きだった。やはりただのならず者ではない。
「……邪魔をするなら、消すまでだ」
ナイフを構えた男が、咲夜に向かって踏み込んだ。鋭い刺突。喉を正確に狙っている。手練れの一撃だった。
次の瞬間。
咲夜の姿が、消えた。
時を止めたのだ。男たちの動きが、世界そのものが、ぴたりと静止した。風に舞っていた塵の一粒さえ、空中で凍りついている。その止まった時間の中を、咲夜だけが悠然と歩く。
咲夜は止まった男たちの間を、ゆっくりと縫って歩いた。誰の懐に何があるか、誰がどう動こうとしていたか、そのすべてを冷静に観察する。ナイフを構えた男の手元にするりと近づいて、その手首を軽く打った。それから別の男が隠し持っていた短刀をそっと抜き取り、遠くへ放った。さらにもう一人の足元に、小石を置く。時が動いたとき、その男がつまずくように。
すべての「仕込み」を終えてから、咲夜はもとの位置に戻って、静かに指を鳴らした。
そして時が動き出す。
ナイフを構えていたはずの男は突然、自分の得物が宙を舞っているのを見た。手首に鋭い痛みが走る。何が起きたのか理解する間もなく、ナイフは男の足元にからんと落ちた。別の男は、隠していたはずの短刀が消えていることに気づいてうろたえた。さらに別の一人は、何もないところでつんのめるように転んだ。
一瞬で、四人の戦力が無力化された。
咲夜はいつのまにか、男たちの背後に立っていた。指の間には、銀色のナイフが扇のように開かれている。
「次は、手首では済まないわ。もう一度だけ訊くわ。あなたがたは誰の指示で、魔理沙を襲ったの? 守矢の、誰の指示?」
男たちは咲夜の凄まじさに、完全に呑まれていた。時を操る能力の前では、どれほどの手練れもなすすべがない。一人が震える声で、口を開きかけた。
「お、俺たちは、ただ、神奈子様の……いや、違う、直接の指示は……」
男の言葉は要領を得なかった。だが咲夜はその断片から、何かを掴みかけた。神奈子の名。だが「直接の指示は違う」とは、どういうことか。守矢の中で命令系統が一つではない――?
だがその肝心なところで。
突然、男の背後の闇から、何かが伸びてきた。
それは影のような、黒い触手だった。ぬるりと音もなく闇から這い出してきたそれは、男の身体に絡みついて、ぐんと後ろへ引きずった。男は悲鳴を上げる間もなかった。一瞬でその姿は闇の中へと引きずり込まれ――消えた。
咲夜の表情が、初めて険しくなった。
「……何者?」
咲夜は即座に、闇に向かってナイフを投げた。銀色の閃光が暗がりを切り裂く。だが手応えはなかった。ナイフは虚しく、闇の奥の壁に突き刺さっただけだった。
闇の奥で、何かが嗤った気配がした。低くくぐもった、人のものとも思えない笑い。だが姿は見えない。気配だけがぬらりと、そこにある。
残された男たちは恐怖のあまり、われ先にと逃げ出した。咲夜は追わなかった。追えなかったと言うべきかもしれない。あの闇の中の何かが何なのか――それがわからない以上、迂闊には動けなかった。下手に踏み込めば、次に引きずり込まれるのは自分かもしれない。
咲夜はしばし闇を見据えた。全身の感覚を研ぎ澄ませて、その正体を探ろうとする。だが何も掴めなかった。まるで闇そのものが意思を持っているかのようだった。
守矢の手の者が、魔理沙を襲った。それはわかった。だがその守矢の手の者を闇から引きずり込んだ、あの黒い何かは――いったい何だ。守矢の仲間か。それとも、また別の第三の勢力か。あるいは咲夜が口を割らせるのを阻止しようとした、誰かの差し金か。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
一つだけ、確かなことがある。咲夜は思った。この一件には、自分たちが思っている以上に多くの手が絡んでいる。守矢。そしてあの闇の何か。さらにその奥に、まだ見えない誰かがいる。
咲夜は踵を返して、紅魔館への帰路についた。レミリアに報告せねばならない。魔理沙を襲ったのは守矢だということ。そして――その守矢の背後に、さらに得体の知れない何かが潜んでいるということを。
夜の人里に、咲夜の足音だけが静かに響いた。その足音すら、彼女は半ば無意識に消していた。背後の闇に、まだあの気配がついてきているような気がしてならなかったからだ。
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その頃。
妖夢は再び霧の湖へと向かっていた。
幽々子の命を受けて、魔理沙の小屋をもう一度調べるために。空はまだ薄暗い。冥界を出て人里を抜け、霧の湖へと至る道を、妖夢は黙々と歩いた。
胸の内には、三組の使者がもたらした情報が渦巻いていた。
紅魔館、八雲、守矢。三大勢力が揃って魔理沙を探している。だがいずれも、その行方を知らない。魔理沙を襲った者は別にいる。咲夜は紅魔館の名を騙る者がいると言った。紫は魔理沙が運んでいた荷に危険なものが混じっていると言った。早苗は御神体の秘密に、ひどく動揺した。
これらの断片が、一つの絵にまとまらない。
歩きながら、妖夢は考え続けた。誰が嘘をついているのか。誰が本当のことを言っているのか。あるいは全員が、本当のことの一部だけを語っているのか。
確かなのは、魔理沙が各勢力にとって危険な秘密の塊だということ。紅魔館の取引。八雲の密輸。守矢の御神体。あの生意気な魔法使いは笑いながら、幻想郷の闇のすべてをその背に負って歩いていたのだ。そしてその重さに、ついに潰されかけている。
妖夢の足が、自然と速くなった。
魔理沙が今、どこかで生きているなら。傷を負って誰も信じられず、独りで震えているなら。一刻も早く、見つけ出してやりたい。それは取り立て人としての使命感だけではなかった。あの軽口をもう一度、聞きたい。よう、白玉楼の死神――と。その思いが妖夢を急がせていた。
もっとも、それを口に出すことは決してなかったが。
だが妖夢は同時に、自分に言い聞かせた。幽々子は言った。白玉楼は誰の味方でもない、と。魔理沙とて白玉楼にとっては、債務者の一人にすぎない。情に流されてはならない。自分は白玉楼の刀だ。刀は刀であることに徹しなければならない。
そう、頭ではわかっていた。だが胸の奥の落ち着かなさは、消えてくれなかった。
そしてもう一つ。妖夢の心には、別の不安も影を落としていた。
魔理沙を追っているのは、各勢力だけではない。あの夜、小屋には組織だった襲撃者が押し入った。だがそれとは別に――幽々子もまだ知らない得体の知れない何かが、この一件には絡んでいる気がしてならなかった。確たる根拠はない。ただの取り立て人としての勘だった。だがその勘は、これまでめったに外れたことがなかった。
霧の湖が近づくにつれ、その不安はなぜか、いっそう濃くなっていくようだった。
だが妖夢には、一つだけ確信があった。
この一件は、もはやただの取り立てではない。幽々子が言ったように白玉楼にとっての好機であると同時に――かつてない危険でもある。三大勢力が動いて得体の知れない襲撃者がいる、その渦の中心へ、自分は今、足を踏み入れようとしている。
霧が、濃くなってきた。
霧の湖が、近い。
妖夢は刀の柄に、そっと手を添えた。楼観剣と白楼剣。この刃がこれから、何を斬ることになるのか。幽々子の言葉が、再び胸によみがえる。
刀がどこを斬るかは――そのとき刀自身が、いちばんよく知っているものよ。
妖夢は霧の中へと、足を踏み入れた。
濃い霧が視界を白く塗りつぶす。妖夢は感覚を研ぎ澄ませて、慎重に小屋へと近づいた。やがて霧の向こうに、あの小屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。昨夜と何も変わらない。荒れたまま、闇に沈んでいる。
妖夢は戸を開けて、再び中へと入った。
今度はより丹念に、現場を調べた。昨夜は魔理沙が生きているか、どこへ消えたかを確かめるので精一杯だった。だが今は、襲撃者の正体を探るという明確な目的がある。妖夢は床に這いつくばるようにして、わずかな痕跡も見逃すまいと目を凝らした。
しばらくして、妖夢は倒れた棚の陰に、小さなものを見つけた。
それは布の切れ端だった。争いの最中に、襲撃者の衣服からちぎれ落ちたものらしい。白と、紺。その色の取り合わせに、妖夢は見覚えがあった。
守矢の、装束の色だ。
妖夢の脳裏に、早苗の姿が浮かんだ。あの白と紺の巫女装束。だがこの切れ端は、早苗のものとは布の質が違う。もっと粗末な、安価な布だった。早苗本人ではない。早苗の装束を真似た守矢の下働き――おそらく信者か、雇われた者たちのものだろう。
つまり魔理沙を襲ったのは、守矢の手の者。
妖夢はその切れ端を、そっと懐に収めた。これは確かな手がかりだった。三組の使者のうち、守矢だけがこの襲撃に直接関わっている。早苗のあの動揺。御神体の秘密。そのすべてが一本の線で、繋がりかけていた。
だが妖夢は同時に、別の違和感も覚えていた。
部屋の隅、焦げ跡の残る壁の一角に、奇妙な痕が残っていた。それは魔理沙の魔法弾の痕でも、争いによる損壊でもなかった。何か黒い、ねばつくような――まるで闇そのものが壁を這ったかのような、不気味な痕だった。
妖夢はその痕に、そっと指を触れた。
冷たい。氷のように冷たく、そしてわずかにぬめりがあった。生きた者の残すものではない。妖怪の、それもかなり異質な妖怪の気配が、その痕には染みついていた。
守矢の手の者とは、別の何かがこの小屋にいた。
妖夢の背筋を、寒気が走った。守矢が魔理沙を襲った。それはわかった。だがこの黒い痕を残した何かは、守矢の手の者ではない。もっと別の、得体の知れない何かがあの夜、この小屋に関わっていた。
魔理沙は、二重の闇に追われていたのか――?
そのとき。
妖夢の感覚が、ふいに外の気配を捉えた。
霧の向こう。小屋の外。誰かが近づいてくる。足音はほとんどしない。だが確かに、研ぎ澄まされた危険な気配。妖夢は反射的に白楼剣の柄に手をかけて、戸口へと身を翻した。
霧の中に、人影が浮かび上がる。
銀色の髪。青いドレス。
十六夜咲夜だった。
二人は霧の中で向かい合った。互いに相手が何者であるかを、即座に理解した。同じ夜、白玉楼で言葉を交わした相手。そして今、同じ場所を同じ目的で探している者同士。
咲夜の手には、いつのまにか銀色のナイフが握られていた。妖夢の手は、白楼剣の柄にかかっている。
しばしの沈黙。
霧が二人の間を、ゆっくりと流れていく。
やがて咲夜が静かに口を開いた。
「……魂魄様。あなたも、ここへ」
妖夢は警戒を解かぬまま、応じた。
「あなたこそ、十六夜さん。同じものを、探しに?」
幽々子の言葉が、妖夢の胸によみがえった。争う必要はない。でも、馴れ合う必要もない。白玉楼は誰の味方でもない。
二人は霧の中で刃に手をかけたまま、互いの出方をうかがっていた。味方なのか、敵なのか。それはまだ、どちらにもわからなかった。
ただ霧だけが、音もなく二人を包んでいた。
その白い闇の向こうに何が待ち受けているのか。まだ、誰にもわからなかった。