幻想郷アウトレイジ ―白玉楼の帳簿―   作:たこ焼き 龍月

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第三章 霧中の盟

 

霧の中で、二人は向かい合っていた。

 

魂魄妖夢と、十六夜咲夜。一方は白楼剣の柄に手をかけ、一方は指の間に銀色のナイフを挟んでいる。霧が、二人の間をゆっくりと流れていく。どちらが先に動いてもおかしくない、張り詰めた静寂だった。

 

妖夢は相手の一挙手一投足を、見逃すまいと、神経を研ぎ澄ませていた。十六夜咲夜。時を操る者。もしこの女が本気で時を止めれば、妖夢にはその動きを捉えることすら、できないかもしれない。気づいたときには、喉元に、銀のナイフが、突きつけられている――そういう相手だった。

 

だが妖夢には、半人半霊としての、独特の感覚があった。生者の時間にも、死者の静寂にも、半ば身を置く者として、妖夢は時の流れの、わずかな歪みを、感じ取ることができる。もし咲夜が時を止めようとすれば、その予兆を、ほんの刹那、捉えられるかもしれない。捉えられれば、白楼剣で、応じることができる。

 

互いに、相手の力量を、測っていた。そして互いに、相手が、容易ならざる手練れであることを、悟っていた。

 

「……魂魄様。あなたも、ここへ」

 

やがて咲夜が静かに口を開いた。その声には敵意は、なかった。ただ慎重な、探りの響きだけが、あった。

 

妖夢は警戒を解かぬまま応じた。

 

「あなたこそ、十六夜さん。同じものを、探しに?」

 

しばしの沈黙があった。

 

互いに、相手が何を考えているのか、読もうとしていた。白玉楼で言葉を交わしたのは、つい先刻のことだ。あのとき咲夜は魔理沙の身柄を紅魔館に渡すよう求めてきた。つまり二人は同じ女を探す、競合する者同士。この霧の中で刃を交えても、何の不思議もない関係だった。

 

実際、ここで妖夢を消しておけば、紅魔館にとっては、競争相手が一つ減る。咲夜がそう考えても、おかしくはなかった。妖夢はその可能性を、頭の片隅で、計算していた。もし咲夜がわずかでも殺気を見せたなら――そのときは、こちらも、抜く。

 

だが妖夢の脳裏には、幽々子の言葉が、繰り返し響いていた。

争う必要はない。でも馴れ合う必要も、ない。

 

妖夢はゆっくりと白楼剣から手を離した。

 

それは賭けだった。武器から手を離せば、一瞬、隙ができる。もし咲夜に敵意があれば、その隙を、突かれるかもしれない。だが妖夢はあえて、その隙を見せた。争う意思がないことを、態度で、示すために。

 

妖夢は言った。

 

「私は、争いに来たのではありません。魔理沙さんを襲った者を、調べに来ました。あなたを斬る理由は、今のところ、ありません」

 

咲夜はしばらく妖夢を見つめていた。その銀色の瞳が、霧の中で、わずかに光る。妖夢が見せた隙を、咲夜は突かなかった。やがて咲夜もまた、ナイフを下ろした。

 

咲夜は言った。

 

「賢明なご判断ですね。正直に申しますと、私も、あなたと事を構える気はありません。今は」

 

今はという一言に、妖夢は引っかかりを覚えた。だがそれを問い詰める愚は犯さなかった。咲夜の言う通りだ。今は互いに、争うべき時ではない。立場が変われば、いつか、刃を交える日が来るかもしれない。だがそれは今日ではない。

 

二人は刃を収め、しばし霧の中で対峙したまま、沈黙を共有した。奇妙な時間だった。敵でもなく、味方でもない。ただ同じ謎の前に立つ、二人の者。霧だけが、音もなく、二人を包んでいた。

 

---

 

「一つ、お訊きしてもよろしいですか」

 

先に口を開いたのは、妖夢だった。

 

「あなたは、なぜ、この小屋へ?」

 

咲夜は答えた。

 

「魔理沙の足取りを追って、です。人里で、ある手がかりを得ました。その線をたどると、ここへ行き着いた」

「手がかり?」

 

咲夜はわずかに逡巡した。情報を、どこまで明かすべきか。だが結局彼女は語ることを選んだ。おそらく妖夢が握っている情報と、交換する価値があると、判断したのだろう。

 

咲夜は言った。

 

「人里の路地で、数人の男たちと遭遇しました。魔理沙を襲った一味です。彼らは、御神体のことを口にしていました。口を封じろ、と命じられていた、とも」

 

妖夢の声が、低くなった。

 

「御神体――ではやはり守矢の」

「ご存知でしたか」

 

妖夢は懐から、あの布の切れ端を取り出した。白と紺の、守矢の装束の色。

 

「小屋を調べて、見つけました。これが、争いの跡に落ちていました。守矢の手の者のものでしょう」

 

咲夜の目が、その切れ端に注がれた。そして小さく頷いた。

 

「符合しますね。私が遭遇した男たちも、守矢に雇われた者でした」

 

二つの情報が、一つに重なった。魔理沙を襲ったのは、守矢。それはもはや疑いようがなかった。守矢神社は、白玉楼に「心配している」と殊勝な使者を送りながら、その裏で、魔理沙の口を封じようとしていた。御神体の秘密を、守るために。

 

咲夜が声を落とした。

 

「ですが。話には、続きがあります」

「続き?」

 

咲夜の表情が、初めて、わずかに曇った。

 

「私が、その男たちから話を聞き出そうとした、まさにそのとき――闇の中から、何かが現れました。黒い、影のような触手が。それが男の一人を、闇へと引きずり込んだのです。一瞬で。悲鳴を上げる間もなく」

 

妖夢の背筋を、寒気が走った。

 

「黒い、触手……」

 

妖夢は小屋の壁に残っていた、あの不気味な痕を思い出した。氷のように冷たく、ぬめりのある、闇そのものが這ったかのような痕。あれと、咲夜の言う「黒い触手」が、無関係であるはずがなかった。

 

「十六夜さん。こちらへ」

 

妖夢は咲夜を、小屋の中へと招き入れた。そして壁の一角を指し示した。焦げ跡の残る壁に、その黒い痕は、はっきりと残っていた。

 

咲夜はその痕に顔を近づけ、目を凝らした。そして表情を硬くした。

 

「……これは。私が見た、あの触手の跡と、同じです」

 

妖夢はその痕に、改めて手をかざした。触れずとも、そこから、冷気のようなものが、にじみ出ているのがわかる。生者の体温とも、死者の静けさとも違う、第三の冷たさ。妖夢は半人半霊として、生と死の両方の気配を、知っている。だがこの痕にまとわりつく気配は、そのどちらにも、属していなかった。地の底の、光の届かぬ場所で、長い時を過ごした者だけが帯びる、独特の冷たさ。

 

妖夢は低く言った。

 

「妖怪の、気配です。それも地上の妖怪とは、質が違う。もっと、深く、暗いところにいる者の」

「やはり地の底の者、ということですね」咲夜が呟いた。

 

妖夢は低く呟いた。

 

「守矢の手の者とは、別の何かが、この小屋にいた。魔理沙さんは、二重の闇に、追われていたのです」

 

二人はしばしその黒い痕を見つめたまま、沈黙した。

 

妖夢の脳裏に、あの夜の光景が、改めて浮かんできた。守矢の手の者が、小屋に押し入る。魔理沙は、必死に応戦する。魔法の弾が飛び交い、箒が折れる。そしてその混乱の最中に――この、地の底の妖怪もまた、姿を現していた。魔理沙は、守矢の手の者だけでなく、この闇の何かからも、逃げなければならなかった。たった一人で。傷を負いながら。

 

どれほど、心細かっただろう。妖夢は思った。四方を敵に囲まれ、誰も助けに来ない夜。あの、けらけらと笑う魔法使いが、たった一人で、その闇と、向き合っていた。

 

守矢が、魔理沙を襲った。それはわかった。だがその守矢の手の者を闇へ引きずり込んだ、この黒い何かは――いったい、何者なのか。守矢の仲間か。それとも、まったく別の、第三の勢力か。

 

「心当たりは、ありますか」妖夢が問うた。

 

咲夜は慎重に答えた。

 

「……一つだけ。幻想郷で、影を操り、闇に潜む者。死体や証拠を、跡形もなく消すことを生業とする者たち。地の底に棲む、あの一族なら――こういう、人知れず誰かを消し去る真似も、できるかもしれません」

「地の底……地霊殿、ですか」

 

咲夜は答えなかった。だがその沈黙が肯定を意味していた。

 

地霊殿。地下世界を管理し、掃除屋、洗浄屋として、幻想郷の裏の汚れ仕事を一手に引き受ける一族。死体も、証拠も、噂も、最後に行き着くのは、彼らのもとだという。もしあの黒い触手が、地霊殿のものだとしたら――。

 

咲夜は低い声で続けた。

 

「地霊殿のことは、紅魔館でもめったに口にしません。彼らは、地上の争いには、関わらない。ただ依頼があれば、淡々と、片付ける。誰が殺したかは問わず、誰が雇ったかも明かさず、ただ後始末だけをする。だからこそ、幻想郷の裏の者たちは、彼らを恐れ、同時に、必要としているのです」

 

妖夢は呟いた。

 

「依頼があれば、誰の味方にもなる――白玉楼の、金貸しと、少し似ていますね」

 

咲夜はわずかに頷いた。

 

「ええ。立場は違えど、中立を商売にしている、という点では。ただ白玉楼が金を扱うのに対し、地霊殿が扱うのは――死と、秘密です」

 

その言葉に、妖夢は背筋が冷えるのを感じた。

 

金と、死。どちらも、人が、最も触れられたくないもの。白玉楼は、人の懐の事情を握り、地霊殿は、人の隠したい死を握る。だからこそ、どちらも、誰の味方にもならず、ただ中立であることで、幻想郷の裏に、深く根を張っていられる。味方をしないからこそ、すべての勢力が、頼らざるを得ない。その曖昧さこそが、力の源だった。

 

そしてもしその地霊殿が、今回は「味方」ではなく、誰かに「雇われて」動いているのだとしたら。中立であるはずの掃除屋が、特定の誰かのために、その力を振るっているのだとしたら――それは幻想郷の裏の均衡が、すでにどこかで、崩れ始めていることを、意味していた。

 

咲夜は首を振った。

 

「ですがわかりません。地霊殿が、なぜ、この件に関わるのか。誰かが、彼らを雇ったのか。それとも、彼ら自身の意思なのか。あるいは――」

 

咲夜はそこで言葉を切った。

 

「あるいは?」

「いえ。憶測で、ものを言うべきではありませんね」咲夜は口をつぐんだ。

 

妖夢はそれ以上、問わなかった。咲夜が何か思い当たることがありながら、それを語ろうとしないのは、明らかだった。だが無理に聞き出そうとすれば、この脆い協力関係は、たちまち崩れてしまうだろう。

 

それでも妖夢の中で、一つの疑念が、頭をもたげていた。

 

地霊殿が、守矢の手の者を消した。それは守矢の犯行の証拠を、消すためだ。では誰が、地霊殿に、それを依頼したのか。守矢自身が、自分たちの尻尾を消すために、雇ったのか。それとも――守矢とは、別の誰かが、何か、もっと大きな絵図を描いて、動いているのか。

 

考えれば考えるほど、謎は、深まるばかりだった。

 

---

 

二人は小屋を出た。

 

霧は、いくらか薄れていた。湖面が、薄明かりの中に、ぼんやりと見え始めている。

しばらく二人は無言で歩いた。やがて咲夜がふと口を開いた。

 

「魂魄様は、魔理沙と、親しかったのですか」

 

唐突な問いに、妖夢はわずかに戸惑った。

妖夢は言葉を選んだ。

 

「親しい、というほどでは。ただ取り立てに、何度か。ですが――あの人は、私を、死神と呼んで、笑っていました。借金取りを前にして、笑える人は、そういません」

 

咲夜の口元が、わずかに、緩んだ。

 

「ふふ。あの子らしいですね。紅魔館にも、よく出入りしていました。お嬢様の蔵書を、勝手に持ち出そうとして、何度、追いかけ回したことか。ですが――不思議と、憎めない子でした」

 

妖夢は咲夜の横顔を見た。氷のように冷たいこのメイドが、魔理沙のことを語るとき、その声にはほんのわずか、温かいものが、混じっていた。

 

咲夜は続けた。

 

「あの子は。誰の懐にも、するりと入り込む。紅魔館にも、八雲にも、守矢にも。みんな、あの子を、便利な運び屋として、使っていました。けれど――誰も、あの子を、本当に仲間とは思っていなかった。あの子は、いつも、一人だったのです」

 

妖夢はその言葉に、胸を突かれた。

 

一人。各勢力の秘密を、その背に負いながら、どこにも、本当の居場所がない。便利だから使われる。だが危うくなれば、消される。それが霧雨魔理沙という運び屋の、ほんとうの姿だったのか。あの、けらけらと笑う顔の裏に、そんな孤独が、隠されていたのか。

 

咲夜は静かに言った。

 

「だからこそ。私は、あの子を、生きたまま見つけたい。お嬢様の命令だからではなく――あの子に、まだ生きていてほしいのです。たぶんこれは私の、勝手な感傷ですが」

 

妖夢は何も言えなかった。ただ咲夜の言葉が、自分の胸の内と、同じものであることに、気づいていた。立場は違う。勢力も違う。だが二人とも、同じことを、願っていた。

 

魔理沙に、生きていてほしい。

 

それは取り立て人としての打算でもメイドとしての忠義でもない、もっと素朴な、一人の者としての、願いだった。

 

妖夢はふと問うた。

 

「十六夜さん。あなたは、魔理沙さんを見つけて、どうするおつもりですか」

 

咲夜は足を止めた。

 

「お嬢様の命令は、彼女の身柄を、紅魔館の管理下に置くこと。それだけです」

「管理下に……それは保護ですか。それとも、口を封じるためですか」

 

妖夢の問いは、鋭かった。咲夜の横顔が、わずかに強張った。

咲夜は正直に答えた。

 

「……私には、わかりません。お嬢様は、理由を語りません。私も、問いません。それがメイドというものです」

「ではもし――お嬢様の命令が、魔理沙さんの口を封じることだったとしたら。あなたは、それに従うのですか」

 

咲夜は長い間、沈黙した。霧が、二人の間を、ゆっくりと流れていく。

やがて咲夜は静かに言った。

 

「……私は、紅魔館のメイドです。お嬢様の命令には、従います。たとえそれがどんな命令であろうと」

 

その声には迷いはなかった。だが妖夢はその奥に、ほんのわずかな、何かを感じ取った。咲夜自身が、その答えに、完全には納得していない――そんな、かすかな揺らぎを。

 

咲夜は付け加えた。

 

「ですが。私は、できることなら魔理沙を、生きたまま見つけたい。それがお嬢様のためにも、なると信じています。死体からは、何も聞き出せませんから」

 

妖夢はその言葉を、心に留めた。咲夜もまた、魔理沙を生かしておきたいと考えている。理由は、白玉楼とは違う。だが目的は、今のところ、一致している。

 

妖夢は言った。

 

「私も、同じです。白玉楼にとって、魔理沙さんは、大事なお客様。死なれては、借金を返してもらえません」

 

咲夜はふっと、口元を緩めた。それはこの夜、初めて見せた、笑みらしきものだった。

 

「白玉楼らしい、お考えですね」

「ええ。白玉楼ですから」

 

二人の間に、奇妙な親近感のようなものが、ほんの一瞬、生まれた。立場は違う。やがては、敵になるかもしれない。だが今この瞬間だけは、二人は同じ謎を追う者同士だった。

 

---

 

別れ際、咲夜はふとこんなことを言った。

 

「魂魄様。一つ、忠告を」

「なんでしょう」

「白玉楼で、私が申し上げたこと――紅魔館の名を騙る者がいる、という話。覚えておいでですか」

「ええ」

 

咲夜の声は低く、真剣だった。

 

「あれは、ただの噂ではありません。紅魔館の内部で、お嬢様も、私も知らないところで、何かが動いています。魔理沙の一件に、紅魔館の名を使って、勝手に手を回している者がいる。それが誰なのか――私には、まだわかりません」

 

妖夢は息を呑んだ。

 

紅魔館の内部に、レミリアも咲夜も知らない、別の動きがある。それは第二章で咲夜が口にした「紅魔館の名を騙る者」と、繋がっていた。さらに、闇の触手。地霊殿。それらが、すべて、一本の糸で結ばれているのだとしたら――この一件の闇は、妖夢が思っているよりも、ずっと深い。

 

「なぜ、それを、私に?」妖夢は問うた。

 

咲夜は答えた。

 

「白玉楼は、中立だからです。紅魔館でも八雲でも守矢でもない。だからこそ、しがらみなく、真実を追える。私は――その真実が、知りたいのです。紅魔館の中で、何が起きているのか。誰が、お嬢様の名を、勝手に使っているのか」

 

咲夜の声には初めて、感情らしきものが滲んでいた。それは忠義の裏返しだった。主君を欺く何者かへの、静かな怒り。

 

妖夢はその横顔を、見つめた。氷のように冷たく、一切の無駄のないこのメイドが、初めて見せた、人間らしい激情。それはレミリアへの、揺るぎない忠義から、生まれていた。誰かが、主君の名を、勝手に使っている。主君の知らぬところで、主君の権威を、汚している。それは咲夜にとって、自分自身が踏みにじられること以上に、許しがたいことなのだろう。

 

咲夜は静かに続けた。

 

「私は、お嬢様に、すべてを捧げています。命も、時間も、この身も。お嬢様の命令とあらば、どんな汚れ仕事も、いといません。ですが――その私の知らないところで、お嬢様の名が、勝手に使われている。それは私が、お嬢様をお守りできていない、ということ。メイド長として、これほどの恥は、ありません」

 

その言葉には痛切な響きがあった。妖夢はふと自分と咲夜がよく似ていることに、気づいた。自分は、白玉楼の刀。咲夜は紅魔館の刃。どちらも、主に仕え、主のために、その身を捧げている。立場は違えど、その根のところは、同じだった。

 

咲夜は頭を下げた。

 

「もしあなたがたが、その者の正体を掴むことがあれば――どうか、私にも、教えていただけませんか。これは紅魔館のメイドとしてではなく、私個人の、お願いです」

 

妖夢はしばし考え、それから、頷いた。

妖夢は言った。

 

「約束は、できません。私は、白玉楼の刀。主の命に従うだけです。ですが――もし利害が一致するなら。そのときは、考えましょう」

 

咲夜は微笑んだ。

 

「それで、十分です。白玉楼らしい、誠実なお返事です」

 

そう言うと、咲夜の姿は、霧の中に、音もなく溶けて消えた。時を操る者の、一切の余韻を残さない退場だった。

 

妖夢はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

---

 

一人になった妖夢は改めて得られた情報を、頭の中で整理した。

 

魔理沙を襲ったのは、守矢。それは確定した。御神体の秘密を守るために、彼らは魔理沙の口を封じようとした。だがその守矢の手の者を、闇の触手が――おそらく地霊殿の何かが――引きずり込んだ。さらに、紅魔館の内部には、レミリアも咲夜も知らない、別の動きがある。

 

点が、いくつも、ある。だがそれらを結ぶ線が、まだ見えない。

守矢。地霊殿。紅魔館の内部の何者か。これらは、別々に動いているのか。それとも、どこかで、繋がっているのか。

 

そして肝心の魔理沙は――今どこにいるのか。

妖夢はもう一度、小屋を振り返った。荒れ果てた小屋は、薄れゆく霧の中に、ひっそりと佇んでいる。あの夜、魔理沙は、ここで守矢の手の者に襲われ、必死に抵抗し、逃げた。そして闇の触手をも、振り切った。たった一人で。傷を負いながら。

 

生きていてほしい、と、妖夢はまた思った。

そしてその思いを、すぐに打ち消そうとして――今度は、打ち消さなかった。

 

幽々子は言った。白玉楼は、誰の味方でもない、と。情を移すな、とも。だが妖夢は自分の中に芽生えた、この思いを、もはや否定できなかった。魔理沙を、生きて見つけ出したい。それは取り立て人としての使命でもあり、同時に、一人の――半人半霊としての、願いでもあった。

 

刀が、どこを斬るかはそのとき、刀自身が、いちばんよく知っているものよ。

幽々子の言葉が、また、胸によみがえる。

 

妖夢には、まだその意味が、完全にはわからない。だが一つだけ、確かに思うことがあった。

 

もしこの刃を抜くときが来るなら。そのときは、魔理沙を守るために、抜きたい。

 

妖夢は霧の中を、白玉楼へと、歩き出した。

 

主に、報告せねばならない。守矢のこと。地霊殿の影。そして紅魔館の内部の、見えざる何者かのことを。

 

薄れゆく霧の向こうに、人里の灯が、ぽつりぽつりと、見え始めていた。

 

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だが白玉楼へ戻る道すがら、妖夢はふと足を止めた。

 

人里の外れ。そこに、見慣れぬ一群の人々が、集まっていた。

 

夜明け前だというのに、二十人ほどの男女が、一軒の小さな庵の前に、列をなしている。みな、どこか思い詰めた顔をして、手には、なにがしかの包みや、銭を握りしめていた。庵の軒先には、白と紺の幟が立っている。妖夢には、見覚えのある色だった。

 

守矢の、色だ。

 

妖夢は気配を消し、物陰から、その様子をうかがった。

庵の中から、若い女の声が聞こえてくる。朗々とした、よく通る声だった。

 

「みなさん。神奈子様は、ご覧になっています。あなたがたの、信心の深さを」

 

その声に、妖夢は聞き覚えがあった。東風谷早苗。白玉楼を訪れた、あの守矢の風祝だった。

 

早苗の声は、続いた。

 

「この御札を、お持ちなさい。神奈子様の、御加護が込められています。病は癒え、商いは栄え、家は安らかになるでしょう。お代は、お気持ちで結構です。ですが――信心の深さは、お供えの額に、表れるもの。神様は、ちゃんと、見ておられますよ」

 

列に並んだ人々が、われ先にと、銭を差し出し始めた。中には、なけなしの蓄えと思しき、重い銭袋を、震える手で捧げる者もいた。

 

妖夢はその光景を、複雑な思いで見つめた。

 

これが、守矢の信仰商法か――。

 

噂には、聞いていた。守矢神社が、人里に深く入り込み、講演、祈祷、御札、健康の品を、次々と売りさばいているという。人々の不安につけこみ、信心という名のもとに、銭を吸い上げているのだと。だがこうして実際に目にすると、その巧みさは、想像以上だった。早苗は決して、強くは迫らない。ただ「神様が見ている」と、優しく囁くだけだ。それだけで、人々は、自ら進んで、財布の紐を緩めていく。

 

そしてその御札の中には――おそらく魔理沙が外界から調達した、ただの珍しい品が、紛れているのだろう。守矢は、それを「神様の御加護」と称して、売っている。御神体も、御札も、その本質は、同じだった。すべては、信仰という衣をまとった、商いなのだ。

 

早苗はそれを、知っているのだろうか。

 

妖夢は白玉楼で見た、早苗の動揺を思い出した。御神体の正体を問われたとき、あの風祝は、明らかにうろたえていた。だとすれば、早苗は薄々、気づいているのかもしれない。自分が売っているものが、本物の御加護ではないことを。それでもなお、彼女は神への信仰を、捨てきれずにいる。あるいは、捨てられずにいる。

 

哀れだ、と妖夢は思った。同時に、それは守矢という勢力の、底知れぬ恐ろしさでもあった。信じる者を、信じさせたまま、利用する。これほど、たちの悪い商売は、ない。白玉楼が金で人を縛るなら守矢は、信仰で人を縛る。どちらが、より罪深いのか。妖夢には、わからなかった。

 

そのとき。

早苗の声が、ふと途切れた。

 

「……どなた?」

 

早苗がまっすぐに妖夢の隠れた物陰のほうを、見ていた。さすがは風祝、というべきか。妖夢の、消したはずの気配を、感じ取ったのだ。

 

妖夢は物陰から、静かに歩み出た。隠れ続ける理由はもうなかった。

妖夢は名乗った。

 

「白玉楼の、魂魄妖夢です。先ほどは、神社へのご使者、ご苦労さまでした」

 

早苗の顔に、驚きと、わずかな警戒が走った。

 

「魂魄さん……どうして、こんなところに」

 

妖夢は率直に言った。

 

「魔理沙さんの足取りを、追っておりました。そうしたら、偶然、ここへ。――立派な、お務めですね」

 

その一言に、皮肉が込められていることを、早苗は敏感に察したようだった。彼女の頬が、さっと赤らんだ。羞恥か、それとも、怒りか。

 

早苗は声を硬くして言った。

 

「これは……人々を、救うための、お務めです。神奈子様の御加護を、必要としている人が、たくさんいるのです」

 

妖夢は静かに問うた。

 

「救う、ですか。あの人たちが捧げた銭は、どこへ行くのでしょう。神奈子様の御加護に、ほんとうに、值がついているのですか」

 

早苗は唇を噛んだ。

 

「信仰には……お供えが、つきものです。それはどこの神社でも同じことです。博麗神社だって、賽銭で成り立っています」

 

妖夢は言った。

 

「博麗は、御加護を、売りはしません。異変を解決し、その対価を受け取る。それは商いとして、筋が通っています。ですが守矢は――病が癒える、商いが栄えると謳って、御札を売る。それが叶わなかったとき、あの人たちは、どうなるのですか。信心が足りなかった、と、また銭を積むのですか」

 

早苗は答えられなかった。その横顔には明らかな動揺が走っていた。妖夢の言葉は、おそらく早苗自身が、心の奥で、ずっと抱えてきた疑問でもあったのだろう。

 

早苗は絞り出すように言った。

 

「あなたは……何もご存知ない。神奈子様が、どれほどの想いで、この地に信仰を根づかせようとなさっているか。古い神が、忘れられ、消えていく。その恐ろしさを、あなたは、知らないのです。信仰がなければ、神は、死ぬ。だから私たちは――」

「だから人を欺いてでも信仰を集めるのですか」

 

その一言に、早苗ははっと、息を呑んだ。

長い、沈黙があった。早苗は何かを言いかけては、口をつぐむ。その繰り返しだった。妖夢は待った。この若い風祝の中で、何かが、揺らいでいるのが、見て取れた。

 

やがて早苗は消え入りそうな声で言った。

 

「……私は。私は、信じているのです。神奈子様を。諏訪子様を。あの方々の力は、本物です。それは嘘ではありません」

「ええ。それは疑っていません」

 

早苗の声が、震えた。

 

「でも――でも御神体のことは……御札に込めると言われた、あの品々のことは……私にも、わからないのです。神奈子様は、あれが、信仰を集めるために必要なものだと、仰いました。私は、それを、信じることにしました。信じることに、したのです」

 

その言葉は痛々しかった。早苗は信じているのではない。信じようと、努めている。自分が手を貸していることの正体から、目をそらすために。妖夢はそれ以上、追い詰めることを、ためらった。

 

妖夢はそれ以上、追及しなかった。

 

「そうですか。ではお訊きします。魔理沙さんが調達していた御神体――あれも、人々を救うための、ものなのですか」

 

早苗の表情が、凍りついた。

 

「それは――」

 

妖夢は静かに言った。

 

「答えなくて、結構です。ただ一つだけ、お伝えしておきます。魔理沙さんを襲ったのは、守矢の手の者です。証拠も、あります。あなたがた守矢が、御神体の秘密を守るために、彼女の口を封じようとした。それはもうわかっているのです」

 

早苗の顔から、血の気が引いた。

早苗の声は、震えていた。

 

「そんな……私は、そんなこと、知りません。魔理沙さんを、襲った? 守矢が? そんなはずは……神奈子様は、ただ心配なさっていただけで……」

 

その狼狽ぶりは、演技には、見えなかった。妖夢はふと思った。早苗は本当に知らされていないのかもしれない。守矢の中で、魔理沙の口を封じる算段が進んでいたことを。早苗はただ「心配している」という建前を信じて、白玉楼に使者として送られた。その裏で、神奈子が――あるいは、守矢の別の誰かが――もっと汚い手を、回していた。

 

それは残酷なことだった。早苗は自分が偽りの使者であったことすら、知らずに、白玉楼の門をくぐったのだ。清廉な顔で、心配しています、と頭を下げて。その裏で、仲間が、魔理沙を闇に葬ろうとしているとも知らずに。利用されているのは、人里の信者たちだけではない。早苗自身もまた、守矢という勢力に、いいように使われている駒の一つにすぎなかった。

 

妖夢は声を和らげた。

 

「東風谷さん。あなたは、何も知らないようですね。ならば、よく、お調べになることです。あなたが仕えている神社が、その裏で、何をしているのかを」

 

早苗は力なく問うた。

 

「調べて……どうなるのですか。もしあなたの言う通りだったとして。守矢が、魔理沙さんを襲ったのだとして。私に、何ができるというのです」

 

妖夢は答えた。

 

「それは私にはわかりません。ですが知らないまま、利用され続けるよりは、知ったうえで、自分の道を選ぶほうが――いくらか、ましではないでしょうか」

 

早苗は答えられなかった。ただ青ざめた顔で、立ち尽くすばかりだった。その手から、捧げられたばかりの御札が、一枚、はらりと、地に落ちた。だが早苗はそれを拾おうとも、しなかった。

 

妖夢は一礼し、踵を返した。これ以上、ここにいる理由は、なかった。早苗から、引き出せる情報はもうないだろう。彼女は本当に何も知らないのだから。

 

だが去り際、ふと振り返ると、早苗はまだその場に立ち尽くしていた。地に落ちた御札を、呆然と、見下ろしながら。その姿は、信仰という名の檻に囚われた、一羽の鳥のように、妖夢には見えた。

 

だが去り際、妖夢の胸には、一つの確信が、芽生えていた。

 

守矢は、一枚岩ではない。早苗のように、何も知らされず、信仰だけを純粋に信じている者。そしてその裏で、魔理沙の口を封じようと、汚れ仕事を進めている者。守矢の中にも、見えない断層が、走っている。

 

そしてそれはおそらく――紅魔館の内部の「見えざる何者か」とも、どこかで、通じているのかもしれなかった。

 

妖夢は再び白玉楼への道を、歩き出した。霧はもうすっかり晴れていた。だがその心の中の霧は、晴れるどころか、ますます、濃くなっていくようだった。

 

---

 

白玉楼に戻ると、幽々子はいつものように、縁側で待っていた。

 

「おかえりなさい、妖夢。収穫は、あったかしら」

 

妖夢は主の前に膝をつき、得られたすべてを、順序立てて報告した。霧の湖で、咲夜と対峙したこと。互いに刃を収め、情報を交換したこと。魔理沙を襲ったのが、守矢の手の者であると、確証が得られたこと。そして――その守矢の手の者を、闇の触手が引きずり込んだこと。小屋に残された、不気味な黒い痕のこと。

 

幽々子は湯呑みを傾けながら、黙って聞いていた。だが妖夢が「闇の触手」と「黒い痕」について語ったとき、その手がふと止まった。

 

幽々子は呟いた。

 

「黒い痕、ねえ。咲夜さんは、地霊殿の名を、出したのね」

「明言は、しませんでした。ですがそう示唆していました」

 

幽々子は桜の闇を見つめた。

 

「地霊殿、か。あそこは、掃除屋。証拠隠滅の、専門家よ。死体も、証拠も、跡形もなく消す。もし地霊殿が動いているなら――誰かが、彼らを、雇ったのね」

「雇った? では地霊殿は、自分の意思で動いているのではなく――」

「たぶんね。地霊殿は、依頼がなければ、めったに地上には出てこない。誰かが、彼らに、依頼したのよ。魔理沙を消すか、あるいは、魔理沙を襲った守矢の手の者を、消すか」

 

妖夢は息を呑んだ。守矢の手の者を、消す。それはつまり――守矢の犯行の、証拠を消すということだ。誰が、何のために、そんなことを。

 

妖夢は問うた。

 

「幽々子様。一つ、解せないことがあります。守矢が、魔理沙さんを襲った。それは御神体の秘密を守るため。それはわかります。ですがもし地霊殿が、その守矢の手の者を消したのなら――それは守矢にとって、都合のいいことのはずです。証拠が、消えるのですから。なのに、なぜ、咲夜さんは、それを脅威のように語ったのでしょう」

 

幽々子は満足そうに頷いた。

 

「いいところに気づいたわね、妖夢。そう。もし守矢が地霊殿を雇って、自分の手の者を口封じしたのなら話は単純よ。守矢が、徹底して、証拠を消している。それだけのこと。でもね――」

 

幽々子は湯呑みを置いた。

 

「咲夜さんが見た、あの闇の触手は、守矢の手の者が、まだ口を割る前に、現れた。そうでしょう?」

 

妖夢ははっとした。

 

「……はい。咲夜さんが、男から話を聞き出そうとした、まさにその瞬間に」

 

幽々子は目を細めた。

 

「だとしたら、おかしいわね。守矢が口封じのために雇ったのなら男たちが捕まって、口を割りそうになったときにこそ、現れるはず。でもそれなら咲夜さんが現れる前に、もっと早く始末しているはずよ。あの触手が、咲夜さんの目の前で、わざわざ男を引きずり込んだ。それは――まるで咲夜さんに、何かを見せつけるかのよう」

 

「見せつける……?」

 

幽々子は静かに言った。

 

「あるいは、警告ね。これ以上、首を突っ込むな、という。地霊殿の――いえ、地霊殿を雇った何者かの、メッセージかもしれない」

 

妖夢の背筋を、寒気が走った。もしそうだとすれば、あの闇の触手は、ただの口封じではない。咲夜に、そしてこの件を追うすべての者に向けた、無言の脅しだったのだ。

 

「それと、もう一つ」妖夢は早苗のことを報告した。人里で、守矢の信仰商法の現場に行き当たったこと。早苗が魔理沙の襲撃について、何も知らされていなかったこと。守矢の中に、見えない断層があること。

 

幽々子はその話を、興味深そうに聞いていた。

 

幽々子はくすりと笑った。

 

「なるほどね。早苗さんは、何も知らずに、使者として送られた、というわけ。守矢も、一枚岩じゃない、ということね。神奈子さんは、清廉な早苗さんを表に立てて、心配しているふりをさせた。その裏で、別の手の者が、魔理沙の口を封じようとした。――上手いやり方だわ。早苗さんは、自分が嘘の使者だとも知らずに、本気で、心配そうな顔をしていたんでしょう。それが何よりの、隠れ蓑になる」

 

「むごい話です」妖夢は低く言った。

 

幽々子は首をかしげた。

 

「むごい? そうかしら。人を使うというのは、そういうことよ、妖夢。知らせない。気づかせない。ただ駒として、動かす。守矢も、紅魔館も、八雲も、みんな、そうやって、人を使っている。――白玉楼だって、例外じゃないわ」

 

その最後の一言に、妖夢はどきりとした。幽々子の視線が、ちらりと、自分に向けられた気がしたからだ。だが幽々子の表情は、いつも通り、穏やかだった。

 

妖夢はもう一つの情報を、口にした。

 

「幽々子様。咲夜さんは、こうも言っていました。紅魔館の内部に、レミリア様も、咲夜さん自身も知らない、別の動きがある、と。紅魔館の名を、勝手に使って、この一件に手を回している者がいる、と」

 

幽々子の目が、すっと、細められた。

 

「あら。それは面白いわね」

「面白い、ですか」

 

幽々子は湯呑みを置いた。

 

「ええ。とても。考えてもごらんなさい、妖夢。守矢が、魔理沙を襲った。その証拠を、地霊殿が消している。そして紅魔館の内部にも、見えない手が、動いている。――この三つが、もし繋がっているとしたら?」

 

妖夢はその言葉の意味を、ゆっくりと理解した。

 

守矢、地霊殿、紅魔館の内部の何者か。これらが、別々に動いているのではなく、一本の糸で、繋がっている。誰かが、この三者を、裏で操り、魔理沙という一人の運び屋を巡って、幻想郷の闇を、掻き回している。

 

「いったい、誰が、そんなことを――」

 

幽々子は微笑んだ。だがその微笑みの奥で、あの冷たい淵が、静かに波打っていた。

 

「わからないわ。まだね。でも一つだけ、確かなことがある。その誰かは、とても、用心深い。守矢を使い、地霊殿を使い、紅魔館の名を借りる。自分の手は、決して、汚さない。そういう、狡猾な相手よ」

 

幽々子は立ち上がった。淡い桜色の着物が、薄明かりの中で、ぼんやりと浮かび上がる。

 

幽々子は桜の闇を見つめた。

 

「妖夢。この一件は思っていたより、ずっと、根が深いわ。魔理沙を見つけ出すことは、もちろん、大事。でもそれ以上に――その背後にいる、見えざる誰かの正体を、暴かなければ。でなければ、魔理沙を見つけても、また、同じことが、繰り返されるだけよ」

 

妖夢は深く、頭を下げた。

 

「承知いたしました。次は、どこへ?」

 

幽々子はしばし考えた。それから、ゆっくりと言った。

 

「地霊殿よ」

 

妖夢は顔を上げた。

 

「地の底へ、行ってもらうわ。あの黒い触手の正体を、確かめるの。地霊殿が、本当にこの件に関わっているのか。関わっているなら誰の依頼で動いているのか。それを、知る必要がある」

 

幽々子の声は、緩やかだった。だがその奥には有無を言わせぬ、強い意志が、宿っていた。

 

「気をつけてね、妖夢。地の底は――この幻想郷で、最も、嘘の通じない場所よ。なにしろ、心を読む者が、いるのだから」

 

その言葉は奇妙な予感を伴って、妖夢の胸に、深く、刻まれた。

 

心を読む者。地霊殿の主、古明地さとり。すべての心を見透かす、あの妖怪のもとへ。妖夢はこれから、向かうことになる。

 

妖夢はふと問うた。

 

「幽々子様。心を読まれるというのは……つまり、私が、何を考えているか、すべて、知られてしまう、ということでしょうか」

 

幽々子は頷いた。

 

「ええそうよ。さとりの前では隠し事は、できない。何を考えても、何を企んでもすべて、見抜かれてしまう。だから地上の者は、みんな、さとりを恐れるの。心の中まで、覗かれてしまうのだから」

 

妖夢はわずかに、身を硬くした。

 

自分の心の中には、今さまざまなものが、渦巻いている。白玉楼の刀としての使命。魔理沙を生きて見つけ出したいという願い。そして――幽々子に対する、ほんのわずかな、疑問。主は、利益のために動いているのか。それとも、客に手を出されたことへの怒りで動いているのか。あるいは、その両方なのか。そんな思いまで、さとりには、すべて、読まれてしまうのだろうか。

 

「怖い?」幽々子が妖夢の顔を覗き込むようにして、問うた。

 

妖夢は首を振った。

 

「……いえ。ただ奇妙なものだと、思いまして。私は、これまで、自分の心を、誰かに見せたことが、ありません。取り立て人は、表情を、殺すものですから。それがすべて、読まれてしまうというのは――」

「落ち着かない?」

「はい」

 

幽々子はくすりと笑った。

幽々子は優しく言った。

 

「でもね、妖夢。それは悪いことばかりじゃないのよ。さとりの前では嘘が通じない。それは裏を返せば――あなたが正直であれば、さとりは、それを、ちゃんと、わかってくれる、ということ。腹の探り合いも、駆け引きも、いらない。あなたは、ただありのままで、いればいい。それはある意味で、とても、楽なことよ」

 

妖夢はその言葉を、心に留めた。ありのままで、いればいい。たしかに、そうかもしれない。隠し事のできない相手なら隠そうとすること自体が、無駄なのだ。

 

妖夢は顔を上げた。その目にはもう迷いはなかった。

 

「わかりました。ありのままの心で、参ります。私は、魔理沙さんを救いたい。その背後にいる者を、暴きたい。それが私の、偽らざる心です。さとりに読まれて、困ることは、何もありません」

 

幽々子は満足そうに微笑んだ。

 

「いい返事ね。それでこそ、白玉楼の刀よ」

 

幽々子は立ち上がり、桜の闇を見つめた。

 

「行ってらっしゃい、妖夢。地の底で、何を見つけるか――楽しみにしているわ」

 

妖夢は深く一礼し、刀を腰に差し直した。楼観剣と白楼剣。この二振りを携え、これから、地の底へと降りていく。心を読む妖怪のもとへ。闇の触手の正体を確かめるために。そしてその奥に潜む、見えざる何者かへと、一歩ずつ、近づいていくために。

 

薄明かりの中で、白玉楼の桜が、相変わらず、永遠の七分咲きのまま、静かに揺れていた。

 

その花びらの一枚が、ふと枝を離れ――だが地に落ちる前に、また、宙で止まった。永遠に散らない桜のように、この一件もまた、まだ決着の時を、迎えてはいなかった。

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