守矢神社の朝は、いつも祈りの声で始まる。
妖怪の山の中腹に建つその社は、新しく整えられた木の匂いと、掃き清められた石畳の清潔さで、参拝に来る人里の者たちを迎えていた。真新しい鳥居は朝日を受けて赤々と輝き、風になびく幣束の音が、境内に絶えず鳴り続けている。ここを訪れる者は皆、その明るく開かれた佇まいに心を打たれて、この神社が幻想郷に持ち込んだ「新しい信仰のかたち」というものを、素直に信じてしまうのだった。
だがその朝、社務所の奥にある一室では、朝の祈りとは無縁の重い空気が、澱のように沈んでいた。
八坂神奈子は文机の前に座り、一枚の帳面を睨みつけていた。それは信仰の帳簿だった。どの村から何人が参拝に来て、いくらの喜捨があり、どの講がどれだけ広がったか。神奈子はそのすべてを数字で管理していた。信仰とは目に見えぬものだと人は言うが、神奈子に言わせればそれは違った。信仰とは数えられるものであり、増やせるものであり、そして――失えばそれきり戻ってこないものだった。
その帳簿の数字が、ここ数日で明らかに鈍り始めている。
神奈子は指先で数字の列をなぞりながら、こめかみのあたりが冷たくなっていくのを感じた。まだ急落というほどではない。だがこの澱みは、いずれ大きな崩れの前触れになる。長く信仰を集めてきた神奈子には、その微細な兆しを読み取る目があった。何かが漏れている。まだ噂にもなっていない何かが、水面下でじわりと広がりつつあるのだ。
その「何か」の正体を、神奈子は知っていた。御神体のことだ。
守矢神社の奥の院に祀られた御神体――信者たちが「山の奇跡を宿す依代」と信じて額づき、供物を捧げてきたそれは、実のところ神が宿る神聖な依代などではなかった。外界から流れ込んだ、ただの珍しい品にすぎない。それを守矢は「奇跡」として仕立て上げ、信仰の中心に据えてきた。稀少で、由来が知れず、それゆえに神秘的に見える品。そういうものを調達してくる運び屋が、幻想郷には一人だけいた。
霧雨魔理沙。
神奈子は帳簿を閉じて、静かに息を吐いた。あの運び屋が消えた。しかもただ消えたのではなく、何者かに力ずくで攫われかけて、逃げたという。もし魔理沙が捕まって、御神体の出所を洗いざらい喋ってしまえば――守矢の信仰は、その根から崩れる。奇跡を騙って集めた信仰など、正体が知れれば、一夜で泡と消えるのだ。
そのとき障子が開いて、東風谷早苗が入ってきた。
早苗の顔は青ざめていた。人里で講演や祈祷を広げ、守矢の顔として立ち働いてきた風祝が、今朝は明らかにその生気を失っている。息を切らして駆けつけたのだろう、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「神奈子様。大変です」
早苗はそう言って膝をつくと、しばらく言葉を継げずにいた。神奈子は帳面から目を上げて、この娘が何を告げに来たのかを、その顔つきから察しようとした。悪い報せだということは、見なくてもわかった。
「落ち着きなさい、早苗。何があったの」
神奈子の声は低く、しかし乱れてはいなかった。長く神をやってきた者の、揺るがぬ落ち着き。それが早苗を、わずかに正気づかせたようだった。早苗は一度大きく息を吸ってから、震える声で切り出した。
「信者組の――あの者たちが、独断で動いています。魔理沙さんを、探すだけでは、なくて」
早苗は言葉に詰まった。それを言ってしまえば取り返しがつかなくなる、とでもいうように。だが言わねばならなかった。早苗は目を伏せたまま、ようやくその先を口にした。
「捕らえる、と。力ずくででも。もう、そのために動き出していると――」
神奈子の眉が、かすかに動いた。
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信者組。
それは守矢神社に集う信者の中でも、特に熱心な者たちで固めた実働の一団だった。表向きは講の運営を手伝い、山道を整え、参拝者を世話する善男善女の集まりということになっている。だがその実態は、守矢が人には見せられぬ仕事を任せるための、私兵に近い集団だった。信仰に酔い、神奈子の言葉を絶対のものと信じ、その命令とあれば手段を選ばぬ者たち。
神奈子は数日前、その信者組に指示を出していた。魔理沙を「保護せよ」と。
その言葉を、神奈子は意図して選んだ。保護。守る。決して、殺せとも、痛めつけろとも言わなかった。神奈子の内心にあったのは、魔理沙の口を封じたいという冷たい計算だったが、それを直接口にすることはしなかった。あくまで「守る」という言葉で命じておけば、たとえ何が起きても、自分の手は汚れずに済む。神奈子はそう考えていた。
だが神奈子の見立ては、甘かった。
信仰に酔った者たちは、時に、命じた者の思惑を遥かに超えて暴走する。神奈子が「守れ」と言えば、信者たちはそれを「守るためなら何をしてもよい」と受け取る。魔理沙を守るとは、すなわち魔理沙を他の勢力に渡さぬこと。ならば力ずくででも囲い込み、逃げようとすれば押さえつけ、抵抗すれば――。信者組の論理は、そうやって際限なく、暴力へと転がり落ちていった。
「馬鹿な子たちね」
神奈子はそう呟いて、立ち上がった。その声には怒りよりも、疲れのようなものがにじんでいた。自分の言葉が、自分の意図を離れて独り歩きしていく。それは長く人を率いてきた者が、幾度となく味わう苦さだった。
早苗は膝をついたまま、縋るように神奈子を見上げた。
「神奈子様。信者組を、止めてください。彼らはもう、魔理沙さんを『守る』のではなくて、『捕らえる』ことしか、考えていません。このままでは、魔理沙さんを傷つけて――いえ、もしかしたら、それ以上のことに」
その言葉に、神奈子はしばし沈黙した。
早苗の言う「それ以上のこと」が何を指すのか、神奈子にはわかっていた。信者組が暴走の果てに魔理沙を手にかけてしまえば、守矢は取り返しのつかぬ罪を背負う。だが同時に――神奈子の胸の奥には、それを止めきれぬもう一人の自分が、確かにいた。
魔理沙が死ねば、御神体の秘密は永遠に守られる。
その考えが、氷のように神奈子の心を掠めた。神奈子はその冷たさに、自分でわずかに戦慄した。だがその戦慄を面には出さず、静かに早苗へと向き直った。
「早苗。私が信者組に命じたのは、あくまで『守れ』よ。それ以上のことは、命じていない。もし彼らが暴走しているなら、それはあの子たちの勝手な判断。私の責任ではないわ」
早苗の顔が、痛みに歪んだ。
その言い分の欺瞞を、早苗は感じ取っていた。神奈子が「守れ」と命じたとき、その言葉の裏に何が込められていたか――清廉なこの風祝ですら、うっすらと察していたのだ。神奈子は自分の手を汚さぬために、わざと曖昧な言葉を選んだ。そして今、都合が悪くなれば、それを信者の暴走のせいにして切り捨てようとしている。
「神奈子様」
早苗は震える声で、しかし今度ははっきりと言った。
「それは……それは、あんまりです。私たちは魔理沙さんを守ると、そう言って白玉楼にまで頭を下げに行きました。私はそれを、本当のことだと信じて、あの場に立ちました。なのに――最初から、口を封じるつもりだったのですか」
神奈子は答えなかった。その沈黙が、答えだった。
早苗は膝の上で、拳を握りしめた。信仰に生きてきたこの娘にとって、それは足元が崩れるほどの衝撃だった。自分が信じ、仕えてきた神が、人の命を数字の帳尻のために切り捨てようとしている。しかもその手を汚す役目を、何も知らぬ信者たちに押しつけて。
「私は……止めに行きます」
早苗はそう言って、立ち上がった。
「神奈子様がお止めにならないなら、私が行きます。信者組を止めて、魔理沙さんを、本当に守ります。それが、守矢の顔として人里に立ってきた、私の責任です」
神奈子はその若い風祝を、じっと見つめた。その目に浮かんでいたのは、叱責でも怒りでもなく、どこか遠くを見るような、諦めに似た色だった。
「行きなさい。だけど早苗、覚えておきなさい。あなたが守ろうとしているのは、正しいことじゃない。魔理沙を守れば、守矢の秘密が漏れる恐れは残る。あなたは、守矢を危うくしてでも、あの運び屋を助けたいの」
早苗は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに、まっすぐ神奈子を見返した。
「はい。それでも、助けたいのです。信仰のために人を殺めて守る神社なんて――そんなもの、守る値打ちがありません」
その言葉に、神奈子は目を細めた。何かを言いかけて、しかし結局、何も言わなかった。早苗は深く一礼して、部屋を出ていった。その足音が遠ざかっていくのを、神奈子は一人、聞いていた。
障子が閉まって、部屋に静寂が戻る。
神奈子は再び文机の前に座り、閉じたままの帳簿に手を置いた。あの娘は行ってしまった。魔理沙を助けるために。守矢の秘密を危うくしてでも。神奈子はその選択を、責める気にはなれなかった。むしろどこかで、羨ましいとすら感じていた。筋を通すために、失うものを恐れない。それは神奈子が、遠い昔に捨ててしまった生き方だった。
だがそれでも――と神奈子は思った。信仰は守らねばならない。数字は守らねばならない。たとえそのために、誰かが血を流すことになろうとも。それが神を続けるということの、冷たい重さだった。
神奈子は窓の外に目をやった。境内では今朝も、何も知らぬ参拝者たちが、御神体に向かって手を合わせている。その一人ひとりの信仰の上に、守矢神社は建っている。そしてその信仰の根には、外界から運ばれたただの品と、それを隠すための嘘とが、深く埋まっているのだった。
神奈子は、遠い昔のことを思った。
外の世界で、守矢が信仰を失いかけたときのこと。人々は神を捨てて、機械と数字の中に生きるようになり、社は寂れて、供物は絶えた。神とは、信仰がなければ存在すらできぬものだ。信仰が枯れれば、神は消える。神奈子はその瀬戸際を、諏訪子とともに、幾度も潜り抜けてきた。だからこそ神奈子は、信仰を数字で管理することを覚えた。祈りを情緒で語る神は、いずれ滅びる。信仰とは経営であり、神社とは事業であると、神奈子はそう割り切った。
その割り切りが、神奈子をここまで生き延びさせてきた。幻想郷という新しい土地で、守矢は再び信仰を集め、社は栄えた。だがその繁栄の根には、いつも、危うい嘘が埋まっている。御神体という、たった一つの嘘が。それが暴かれれば、積み上げてきたすべてが崩れる。神奈子はその恐れとともに、この幻想郷での日々を過ごしてきた。
そして今、その恐れが、現実の形をとって、迫っている。
魔理沙という一人の運び屋の口が、守矢の命運を握っている。神奈子はそれを、どうしても許せなかった。神の存亡が、一介の人間の気まぐれに委ねられている。その事実そのものが、神奈子の矜持を、深く傷つけていた。だからこそ神奈子は、その口を封じたいと願った。それが神として、あまりに卑小な望みであることを、神奈子自身、痛いほど承知しながら。
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早苗が信者組の隠れ家へ向かって山道を急いでいた頃、白玉楼では妖夢が主の前に座していた。
地霊殿から戻った妖夢は、その足で幽々子に報告を済ませていた。お空が魔理沙を襲ったこと。だがその依頼主は守矢ではなく、紅魔館の名を騙った正体の知れぬ何者かであったこと。そしてその黒幕が心を塗りつぶす術を知り、地霊殿の力すら知り尽くした者であり、魔理沙に歪んだ執着を抱いているらしいこと。
幽々子は縁側に腰かけて、その報告を最後まで黙って聞いていた。桜色の着物が春の風に揺れ、いつもの読めぬ微笑みが、その顔に浮かんでいる。だがその報告を聞き終えたとき、幽々子の目の奥には、いつもとは違う何かが、わずかに宿っていた。
「――なるほどね。紅魔館の名を、騙る者」
幽々子はそう繰り返して、扇を口元に運んだ。
「面白いこと。レミリアの名を勝手に使って、地霊殿を動かした者がいる。それが本当に紅魔館の中の者なのか、それとも外の誰かが紅魔館の名を隠れ蓑にしているのか――今はまだ、どちらとも知れない。だけどいずれにせよ、あの吸血鬼のお姫様は、自分の名がそんなふうに使われていることすら、知らないのでしょうね」
妖夢は主の言葉を聞きながら、あの地の底で聞いた言葉を、また胸の内で反芻していた。味方だと思っている者の中に、黒幕がいるかもしれない。その言葉は今も、鉛のように重く沈んでいる。
「幽々子様。それで――これから、どう動きます」
妖夢の問いに、幽々子は扇を閉じた。
「黒幕を探すのは、後でいい。その前に、まず魔理沙を見つけること。あの子は今も、どこかで一人、逃げ続けている。黒幕に狙われながら、各勢力の目に追われながらね。あの子を先に押さえた者が、この一件の主導権を握る。だから――」
幽々子はそこで言葉を切って、ふと、庭の桜へと目をやった。
「守矢が、動いているそうよ」
その言葉に、妖夢は顔を上げた。
「守矢が?」
「ええ。神奈子が信者組に、魔理沙を『保護せよ』と命じたらしいの。でもね、妖夢。あの神様の言う『保護』が、どういう意味か――あなたにも、もうわかるでしょう」
妖夢は静かに頷いた。第二章で早苗が見せたあの狼狽を、妖夢はよく覚えていた。守矢の御神体には、表に出せぬ秘密がある。そしてその秘密は魔理沙の口一つで崩れる。守矢が魔理沙を「守る」というのは、その口を封じておきたいという意味に他ならない。
「信者組が、もう動き出しているという噂もあるわ。人里の外れに、あの子たちの隠れ家があってね。魔理沙の足取りを追って、そこを拠点に動いているらしいの。もし魔理沙が信者組に捕まれば――守矢は、あの子を二度と、表には出さないでしょうね」
幽々子はそう言って、妖夢へと向き直った。その目には、取り立て人の主としての、冷たい光が戻っていた。
「妖夢。その隠れ家へ行きなさい。信者組を止めて、魔理沙の手がかりを掴んでくるのよ。もし魔理沙がまだそこに捕まっていないなら、あの子より先に、次の手がかりを押さえること。いいわね」
「かしこまりました」
妖夢は頭を下げた。だがそのとき、庭の奥から、低く落ち着いた声が響いてきた。
「その隠れ家へ行くのなら、私も同行させてもらえまいか」
妖夢が振り返ると、桜並木の間にいつの間にか一つの隙間が開いていて、そこから九本の尾が夜気の中へゆらりと差し出されていた。
赤紫の裂け目を割って現れたのは、八雲藍だった。九尾の狐は隙間から静かに歩み出ると、妖夢と幽々子へ向かって恭しく頭を下げた。第一章の夜に妖夢へ忠告を寄越したときと同じ、慎重に言葉を選ぶ気配をまとっている。妖夢は反射的に刀の柄へと手を寄せた。
「藍様」
幽々子は驚いた様子もなくその名を呼んで、むしろ来ることを予期していたような落ち着いた声音で続けた。
「紫の使いかしら。それとも、あなた自身の判断で?」
「半分は主の意向にございます」
藍はそう応じてから、わずかに背筋を伸ばした。
「されど、ここへ足を運んだのは私自身の裁量。守矢の信者組が暴走しているという話は、我が八雲も掴んでおります。魔理沙の件は、我が主にとっても他人事ではございません。主は今、地の底で確かめるべきことを抱えて動けぬゆえ、現場は私が預かってまいりました。――白玉楼の取り立て人と、しばし手を組ませていただきたい。魂魄妖夢どの」
藍の視線が妖夢へと向いた。金色の双眸に見据えられて、妖夢は背筋にわずかな緊張が走るのを感じた。
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妖夢は藍とともに、人里の外れへと向かった。
歩きながら、妖夢は隣を行くこの九尾の狐を、何度も横目で窺った。八雲藍。幻想郷の裏で境界の利権を握る紫の式として、各勢力への根回しと現場の裁きのすべてを差配する者。主の真意がどこにあるのかは式である藍にすら容易には読めぬのだろうが、それでもこの狐は迷いなく夜道を進んでいく。
「そう警戒せずともよい、魂魄どの」
藍は前を向いたまま、そう言った。妖夢の視線に、とうに気づいていたのだ。
「我が主は今、魔理沙を助けたいと願っておられる。それは真のことだ。あの子が運んでいた荷の中に、この幻想郷にあってはならぬものが混じっていた。それが何なのかは、私の口からは言えぬ。ただ、そのような厄介なものを抱えたまま、あの子が悪意ある者の手に落ちるのは――主にとって、まことに困ることなのだ」
妖夢は黙って、その言葉を聞いていた。藍の言う「あってはならぬもの」が何を指すのか、妖夢にはまだ見当がつかない。だがそれがこの一件の核心に触れる何かであることは、直感していた。
「そなたが我らを信じずとも構わぬ」
藍は淡々と続けた。
「ただ、今この瞬間だけは、そなたと我らの目指すものは同じだ。魔理沙を、悪意ある者より先に見つけること。それだけは、確かであろう」
「……ええ。今この瞬間だけは、そうかもしれません」
妖夢はそう答えた。それが精一杯の譲歩だった。藍はその答えに、小さく頷いた。地霊殿でさとりに言われた言葉を、妖夢は忘れていなかった。味方だと思っている者の中に、黒幕がいるかもしれない。八雲の者とて、その例外ではない。だが今は、この九尾の狐の力を借りるほかなかった。
やがて二人は、人里の外れにたどり着いた。
そこは打ち捨てられた集落の跡だった。かつては木こりや炭焼きが暮らしていたのだろう、朽ちかけた家屋がいくつか、雑木林の中に点在している。その一軒――他よりいくらか大きく、まだ屋根の形を保っている建物から、かすかな人の気配と、押し殺した話し声が漏れていた。
藍が足を止めて、その建物を顎で示した。
「あそこだな。信者組の隠れ家は」
妖夢は建物の様子を、じっと窺った。窓は板で塞がれていて、外からは中が見えぬようになっている。だが板の隙間からは灯りの色が漏れていて、複数の人間がそこにいることは気配から明らかだった。妖夢は刀の柄に手を添えて、腰を低く落とした。
「魔理沙さんは、あの中に――」
「さて。それは踏み込んでみねばわかるまい」
藍はそう言うと、九本の尾をゆるりと広げた。その双眸に、いつもの慎重な色に代わって、鋭い光が宿っている。
「魂魄どの。そなたが表から入りなさい。派手にな。私は裏へ回ろう。逃げる者が出れば、式を放って退路を断つ。挟み撃ちだ」
妖夢は頷いた。作戦を交わす言葉は、それだけで十分だった。妖夢は建物の正面へと、音もなく歩み寄っていった。藍の姿は、いつの間にか傍らから消えていた。
妖夢は建物の戸の前に立って、ひとつ、息を整えた。
戸板越しに、中の話し声が聞こえてくる。数人の男たちが、何やら言い争っているようだった。「もう少し北を探せ」だの「いや、あの女はもう山を越えたはずだ」だの、魔理沙の行方を巡って、意見が割れているらしい。その口ぶりから察するに、魔理沙はまだこの信者組に捕まってはいない。むしろ、その足取りを見失って、焦っているように聞こえた。
妖夢は刀の鯉口を切って、そして――戸を、蹴り開けた。
戸板が派手な音を立てて、内側へと倒れ込む。
隠れ家の中にいた五、六人の男たちが、一斉にこちらを振り向いた。粗末な板張りの部屋。その中央には囲炉裏があり、その周りに、信者組の男たちがたむろしていた。皆、守矢の白装束に身を包んでいるが、その顔つきは信仰者のそれというより、荒事に慣れた者の険しさを帯びていた。
「な、なんだ、貴様は!」
一人が立ち上がって、腰の得物へと手を伸ばした。木製の棍棒に、鋼の環を打ちつけた、質の悪い武器。他の男たちも、それぞれの得物を手に取って、妖夢を取り囲もうと動き出した。
妖夢はその輪の中で、静かに刀の柄へと手を添えた。
「白玉楼の取り立て人だ。霧雨魔理沙の居場所を、教えてもらいたい」
その名を聞いて、男たちの間に、わずかな動揺が走った。白玉楼。取り立て人。その名の重みは、幻想郷の裏を生きる者なら誰でも知っている。だが信仰に酔った信者組の男たちは、その恐れを、虚勢で塗り潰そうとした。
「白玉楼だと? 死神風情が、守矢の仕事に、口を出すな!」
先頭の男が、棍棒を振り上げて、妖夢へと打ちかかってきた。
妖夢は、動かなかった。ぎりぎりまで相手を引きつけて、そして――棍棒が振り下ろされるその刹那、半歩だけ、身を沈めた。棍棒は妖夢の頭上をむなしく空を切って、その勢いのまま男の体勢を泳がせた。妖夢はその崩れた懐へと滑り込み、白楼剣の柄頭を、男の鳩尾へと打ち込んだ。
鈍い音とともに、男が声もなく崩れ落ちる。
一瞬の出来事だった。他の男たちが、その速さに目を見張った。妖夢はすでに次の一人へと踏み込んでいて、抜き放った白楼剣の峰を、二人目の肩へと叩きつけていた。骨の軋む音。男が悲鳴を上げて、得物を取り落とす。
「峰打ちだ」
妖夢は静かに告げた。剣を握り直しながら、残る男たちを見据える。
「私は、まだ、刃を返していない。次に向かってくる者には――返すかもしれない。それでも、来るか」
その声には、脅しの響きはなかった。ただ淡々と、事実を告げるだけの、冷たい声。それがかえって、男たちの背筋を凍らせた。彼らは初めて、自分たちが相手にしているのが何者なのかを、肌で理解した。白玉楼の取り立て人。刃を背負った、死神の使い。
だが信仰に酔った者は、恐れを怒りに変えて突っ込む。三人目と四人目が、同時に妖夢へと打ちかかってきた。
妖夢は身を翻して、一人目の棍棒を白楼剣で受け流した。鋼と木がぶつかる硬い音。その流れのまま、妖夢は身を捻って、二人目の脛を、剣の峰で払った。男が体勢を崩して、囲炉裏の縁へと倒れ込む。灰が舞い上がって、狭い部屋が白く霞んだ。
その霞の中で、妖夢は一人目へと向き直った。
男は棍棒を握り直して、なおも向かってこようとした。妖夢はその男の目を見た。恐れと、怒りと、そして信仰の狂熱とが、そこには入り混じっていた。この者たちは、決して悪人ではないのだろう。ただ、神を信じすぎたのだ。神奈子の言葉を絶対のものと信じ、それを守るためなら、どんなことでもしてよいと思い込んでしまった。その狂熱が、彼らをここまで、暴走させた。妖夢はその哀れさを、わずかに感じた。だが今は、それを憐れんでいる余裕はなかった。
男が棍棒を振り上げた。だがその瞬間、男の背後の板壁が突風に叩かれたようにたわんで、そこから一枚の呪符が音もなく舞い込んだ。
藍の式だった。
宙を裂いて飛んだ呪符は男の背へ貼りつくと、まばゆい狐火となって弾けた。青白い炎に巻かれた男は声を上げる間もなく床へ崩れ落ちて、そのまま気を失う。それと同時に板壁の戸が内側へ弾け飛んで、白い獣毛をなびかせた大柄な影が躍り込んできた。藍が裏手から回り込み、逃げ道を塞ぎながら踏み込んできたのだ。
残った男たちが、その光景に凍りついた。
「化け物……!」
一人がそう叫んで後ずさった。だがその足が板張りの床を踏んだ瞬間、床下から幾条もの淡い燐光が這い上がって、男の足首へと絡みついた。藍の放った式の縛めだった。男は悲鳴を上げて、その場に足を取られる。もがくその男のこめかみを、妖夢は白楼剣の峰で打って、静かに気絶させた。男は床の上へ、力なく崩れ落ちた。
囲炉裏の煙と灰が舞う中、気づけば、立っている信者組の男は、もう一人もいなかった。
妖夢は乱れた息を整えながら、部屋の中を見渡した。倒れ伏した男たち。散乱した得物。そして――魔理沙の姿は、どこにもなかった。
藍は九本の尾を静かに畳みながら、部屋の中央へと歩み出た。まるで見回りを終えたばかりのような涼しい顔をしている。その足元には、逃げようとして取り押さえた男たちが、式の燐光に縛められて転がされていた。
「手荒なやり方は、好まぬのだがな」
藍はそう言って、部屋を見回した。その視線が、囲炉裏の脇に落ちていた一枚の紙片で止まった。
「――魂魄どの。これを見よ」
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藍が拾い上げたのは、皺くちゃになった一枚の紙だった。
そこには乱れた筆致で、いくつかの地名と、日付らしき数字が書き殴られていた。信者組が魔理沙の足取りを追って記していったものらしい。妖夢は藍の手元を覗き込んで、その文字を目で追った。
人里外れ。廃屋。三日前。
そして、その末尾に、一行だけ、走り書きが加えられていた。
「取り逃がした。北へ逃げた。手負い」
妖夢は、その文字を見つめた。
「手負い……魔理沙さんは、傷を負っているのですか」
「そのようだな」
藍は紙片を裏返して、他に書かれていることがないかを検めた。だがそれ以上の手がかりはなかった。藍はその紙を、妖夢へと手渡した。
「信者組は三日前に、ここに書かれた廃屋で魔理沙と接触している。だが取り逃がした。あの子は手負いになりながら、北へ逃げたのだ。――結局あの魔法使いは、誰の駒にもならなかったというわけだ」
妖夢はその紙片を握りしめた。
魔理沙は生きている。手負いになりながら、それでも逃げ切った。信者組の追跡を振り切って、自分の足で、北へと向かった。妖夢の胸に、安堵と、そして焦りとが、同時に押し寄せた。生きている。だが手負いだ。そして今も、たった一人で、逃げ続けている。
そのとき――隠れ家の入り口の方から、駆け込んでくる足音がした。
妖夢は反射的に、刀の柄へと手を戻した。藍もまた、九尾を低く構え直す。だが、戸口に飛び込んできたのは、白装束の信者ではなかった。息を切らし、汗だくになった、若い風祝だった。
東風谷早苗。
早苗は隠れ家の惨状を見て、その場に立ち尽くした。倒れ伏した信者組の男たち。式の燐光に縛められて転がされた者たち。そして、その中央に立つ、白玉楼の取り立て人と、八雲藍。早苗の顔から、血の気が引いていった。
「あなたたち……何を、したのですか」
早苗の声は震えていた。妖夢はその声に、責める響きよりも、むしろ怯えと、深い困惑を聞き取った。この風祝は、信者組を止めに来たのだ。神奈子の暴走を止めるために、たった一人で。だが着いたときには、もうすべてが終わっていた。
「峰打ちだ」
妖夢は静かに答えた。
「殺してはいない。皆、気を失っているだけだ。あなたが手当てをすれば、じきに目を覚ます」
その言葉に、早苗はわずかに、肩の力を抜いた。だがその顔に浮かんだ安堵は、すぐにまた、深い苦しみへと変わっていった。早苗は倒れた信者たちのそばに膝をついて、その一人ひとりの様子を確かめた。確かに、命に別状はなさそうだった。早苗は震える手で、男たちを縛める燐光へと触れようとした。
「待ちなさい、風祝」
藍が、その手を止めた。
「その者たちは、魔理沙を力ずくで攫おうとした輩だ。式の縛めを解くのは、我らが去ってからにするがよい。今ここで解けば、また面倒を起こすだけだ」
早苗は燐光にかけた手を止めて、うつむいた。その肩が、小さく震えていた。
「……知らなかったのです。信者組が、ここまでするなんて。私は、魔理沙さんを、本当に守りたかった。守矢の御神体がただの調達品だと――その秘密を守るために魔理沙さんの口を封じるなんて、私はそんなことのために頭を下げたんじゃない」
早苗はそう言って、顔を覆った。妖夢はその若い風祝の姿を、黙って見ていた。
第二章で白玉楼を訪れたときの早苗を、妖夢は思い出していた。あのとき早苗は、まっすぐな清廉さで、魔理沙を心配していると告げた。だがその言葉が、神奈子の計算に利用されていることを、早苗自身は知らなかったのかもしれない。今、早苗はその真実を知って、崩れ落ちようとしている。自分が信じ、仕えてきたものの、冷たい底を、覗いてしまったのだ。
「風祝」
妖夢は、静かに声をかけた。
「あなたは、魔理沙さんを守りたかった。それは、本当のことなのだな」
早苗は顔を上げて、涙に濡れた目で、妖夢を見た。そして、こくりと頷いた。
「なら、一つ教えてくれ。守矢は――神奈子様は、魔理沙さんを、どこまで追うつもりだ。この隠れ家の者たちを止めれば、それで終わりか。それとも、まだ、他の手が動いているのか」
早苗は、しばし言葉を探すように、うつむいた。それから、絞り出すように言った。
「……わかりません。私は、信者組のことしか、聞かされていませんでした。神奈子様が、他にどんな手を打っているのか――私には、教えてくださらなかった。でも」
早苗は顔を上げて、妖夢をまっすぐに見た。
「でも、もし魔理沙さんを本当に守れる方がいるなら――それはきっと、白玉楼のあなたなのかもしれません。私は、守矢の信仰を、まだ捨てられない。神奈子様に、背くこともできない。だから、せめて――あなたに、託します。魔理沙さんを、どうか、生きたまま、見つけてください」
その言葉に、妖夢は静かに頷いた。
妖夢は、自分の刀の柄に、そっと手を添えた。守矢の風祝が、こうして自分の良心のために苦しんでいる姿を見て、妖夢は複雑な思いを抱いた。この一件に関わる者は、誰もが何かを背負っている。神奈子は信仰を、八雲は境界の利権を、そして白玉楼は債権を。皆が自分の筋のために動いていて、そのどれもが、決して潔白ではない。だがこの若い風祝だけは、その筋の外へと、一歩踏み出そうとしていた。信仰を守るためではなく、ただ一人の人間を助けるために。
それが、正しいことなのかどうかは、妖夢にはわからなかった。だがそこには、少なくとも、嘘はなかった。
早苗は震える手で、懐から一枚の紙を取り出した。それは守矢が独自に描いた、幻想郷北部の見取り図だった。信者組が魔理沙を追う中で、集めた情報が書き込まれている。早苗はそれを、妖夢へと差し出した。
「これを。信者組が、魔理沙さんの足取りを追って、まとめたものです。北の方へ、逃げたと。この地図が、少しでも、お役に立てば」
妖夢はその地図を受け取った。守矢の風祝が、守矢の秘密を追う相手に、手がかりを渡す。それは早苗にとって、一つの裏切りだった。信仰への裏切りであり、神奈子への裏切りでもある。だがそれ以上に、それは早苗が、自分の良心に従った証だった。
「感謝する」
妖夢はそう言って、地図を懐にしまった。早苗は力なく微笑んで、それから、倒れた信者たちの方へと、向き直った。この者たちを、これから一人で介抱するつもりなのだろう。守矢の秘密を守るためではなく、ただ、傷ついた者を放っておけぬという、その心のために。
妖夢と藍は、その隠れ家を後にした。
外に出ると、日はすでに傾き始めていた。雑木林の間から差し込む夕日が、朽ちかけた集落を、赤く染めている。妖夢は懐から早苗の地図を取り出して、それに目を落とした。北へ。魔理沙は手負いのまま、北へと逃げた。この地図が、その足取りを、示してくれるはずだった。
「あの風祝、面白い娘だ」
藍が、夕空を見上げながら言った。
「信仰に酔いながら、その信仰の底の冷たさに気づいてしまった。あの娘はこれから苦しむだろうな。信じるものと正しいと思うことの間で、引き裂かれて。――だが、それが人というものなのかもしれぬ」
妖夢は地図から目を上げて、藍を見た。この九尾の狐が、早苗のような若い人間の心の機微を、こうも的確に読み取ることに、妖夢はわずかな意外さを覚えた。だが同時に、その言葉の裏に主のどんな意向が透けているのかは、やはり読み取れなかった。
「藍様。あなたは、これからどうするつもりです」
妖夢の問いに、藍は少し考えるように、間を置いた。
「私はここまでだ。信者組は片づいた。魔理沙の足取りも、あの地図で北と知れた。現場の役目は、これで果たした」
「ここまで、と言いますと」
「この先は、我が主が自ら引き継がれる」
藍の声が、わずかに沈んだ。九尾の狐の面に、一瞬、主を案じるような影がよぎった。
「そなたはさきほど、幽々子どのに報告していたであろう。お空を動かした依頼主が、守矢ではなく、紅魔館の名を騙る何者かであったと。――主は、それをどうしても自らの耳で確かめたいと仰せなのだ。もし本当に紅魔館の名を騙って、レミリアの知らぬところで糸を引く者がいるのなら、それはこの幻想郷の均衡そのものを揺るがす話ゆえに。かような重き確かめごとは、式の私では代われぬ。ゆえに主は、地の底へ自ら降りると決めておられる」
「地の底――地霊殿ですか」
「さよう」
藍がそう答えたとき、二人の傍らの虚空に、音もなく赤紫の裂け目が開いた。
無数の眼を刻んだ、境界の裂け目。その中から日傘を差した八雲紫が、ゆったりと歩み出てくる。飄々とした物腰の奥に、底の知れぬ笑みをたたえた、幻想郷の管理者。ここへきて初めて、紫は自らその姿を現したのだった。妖夢は反射的に、刀の柄へと手を寄せた。
「ご苦労さま、藍」
紫は式にねぎらいの言葉をかけると、それから妖夢へと視線を移した。
「現場はあなたに任せて、正解だったようね。信者組を片づけて、魔理沙の足取りまで掴んでくるとは。――さて、ここから先は、私の役目よ」
藍は主へ深く頭を垂れると、九尾を翻して、再び自らの隙間の中へと退いていった。あとには、日傘を差した紫と、妖夢だけが残された。
「私はこれから、地霊殿へ降りる」
紫は日傘を回しながら、そう言った。その声から、いつもの飄々とした色が、わずかに引いていた。
「紅魔館の名を騙る、正体の知れぬ何者か。それがまことにいるのかどうか、さとりから確かめたいの。レミリアの知らぬところで糸を引く者がいるのなら――それは、この幻想郷の均衡そのものを揺るがす話になる」
妖夢は、その言葉に頷いた。
紅魔館の名を騙る、正体の知れぬ何者か。それがこの一件の、真の黒幕へと繋がる糸だった。妖夢もまた、その糸の先を、この目で確かめたかった。守矢の暴走は、ひとまず止めた。だがそれは、この一件のほんの一部にすぎない。本当の闇は、まだ深いところで、静かに蠢いているのだ。
「私も、地霊殿へ、ご一緒します」
妖夢はそう告げた。紫は少し驚いたように、妖夢を見た。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「あら。私を信用してくれるの?」
「いいえ」
妖夢は正直に答えた。
「あなたを信用したわけではありません。ただ、真実を、私も自分の目で確かめたいだけです。あなたが黒幕でないという保証も、まだ、ありませんから」
その率直な言葉に、紫は声を立てて笑った。
「正直な子ね。さとりが気に入るわけだわ。――いいでしょう。一緒に来なさい。地の底で、この一件の、もう一枚奥の皮を、剥いでみましょう」
紫がそう言って、日傘の先で虚空をなぞると、そこに再び、赤紫の裂け目が開いた。無数の眼を刻んだ、境界の裂け目。その向こうには、どことも知れぬ闇が広がっている。妖夢は刀の柄にそっと手を添えて、その裂け目を見つめた。
夕日が、雑木林の向こうへと、沈もうとしていた。
魔理沙は、北で、手負いのまま、逃げ続けている。守矢の暴走は止まったが、他の勢力の手が、いつ魔理沙に伸びるかはわからない。そして――紅魔館の名を騙る、正体の知れぬ黒幕。心を塗りつぶす術を知り、地霊殿の力すら知り尽くした者。その正体を、確かめねばならない。
妖夢は、隣に立つ紫を、もう一度だけ横目で窺った。
味方だと思っている者の中に、黒幕がいるかもしれない。さとりのその言葉を、妖夢は忘れていなかった。この八雲紫が、その黒幕でないという保証は、どこにもない。地の底で、さとりの前に立てば――紫の心もまた、あの第三の眼に、読まれることになる。もし紫が何かを隠しているのなら、それはさとりの前で、露わになるはずだった。
「参りましょう」
妖夢はそう言って、境界の裂け目へと、足を踏み入れた。
紫がその後に続いて、裂け目が静かに閉じていく。夕日に染まった集落の跡には、あとには、風の音だけが残された。朽ちかけた家屋の中では、早苗が一人、倒れた信者たちの介抱を、黙々と続けていた。信仰と良心の狭間で引き裂かれながら、それでも、目の前の傷ついた者を、放ってはおけない娘が。
守矢神社の奥の院では、そのころ、神奈子が一人、御神体の前に座していた。
信者組が白玉楼の取り立て人に制圧されたという報せは、まだ神奈子には届いていない。だが神奈子は、なんとなく、事態が自分の手を離れつつあることを、肌で感じ取っていた。魔理沙は捕まらなかった。信者組は暴走した。早苗は、自分に背いて、真実を知ってしまった。守矢の均衡が、静かに、しかし確実に、崩れ始めている。
神奈子は御神体を見つめた。
外界から運ばれた、ただの珍しい品。それを「奇跡」として祀り、信仰を集めてきた。その嘘の上に、守矢神社は建っている。魔理沙が生きている限り、その嘘は、いつ暴かれてもおかしくない。神奈子は目を閉じて、深く息を吐いた。
「守るのよ。喋らせないように」
神奈子は、誰にともなく、そう呟いた。
その声には、もはや保護という言葉の、優しい響きはなかった。ただ信仰を守るためなら一人の運び屋の命など――という冷たい計算だけが、そこにあった。だが同時に、神奈子の胸の奥には、早苗のあのまっすぐな目が、消えずに残っていた。信仰のために人を殺めて守る神社なんて、守る値打ちがありません。あの娘の言葉が、鉛のように、神奈子の心に沈んでいた。
神奈子は御神体を見つめたまま、いつまでも、そこに座り続けていた。
日はとうに沈み、奥の院には、灯明の火だけが、揺れていた。その揺れる光の中で、神奈子の横顔は、神とも人ともつかぬ、ひどく孤独なものに見えた。信仰を数字で管理し、そのために手を汚し続けてきた者の、行き着いた場所。それがこの、暗い奥の院の静けさだった。
守矢の暴走は、ひとまず止まった。
だがそれは、幻想郷を覆う闇の、ほんの一角にすぎなかった。魔理沙は北へ、手負いのまま逃げていく。妖夢と紫は地の底へ、真実を確かめるために降りていく。そして紅魔館の名を騙る正体の知れぬ黒幕――心を塗りつぶすその者は、依然として深い闇の中に、その姿を隠したままだった。
その闇の輪郭が、少しずつ、見え始めている。
だがその中心にいる者の顔は、まだ、誰にも見えていなかった。