境界の裂け目をくぐった先には、地の底の冷えた闇が広がっていた。
妖夢が二度目に足を踏み入れるその縦穴は、前に一人で降りたときよりもいくぶん心強く感じられた。隣を歩く八雲紫は日傘を差したまま、地の底の闇の中でもまるで昼下がりの庭を散策するように涼しげで、そのことがかえって妖夢の胸にかすかな警戒を残していた。この者が黒幕でないという保証はどこにもない。さとりの前に立てば紫の心もまた、あの第三の眼に読まれることになる。妖夢はそう思いながら、紫の半歩後ろを慎重に歩いていった。
紫はふと足を止めると、地の底の空気を味わうように吸い込んだ。
「懐かしい匂いね。旧地獄の湿った土の匂いだわ。ずいぶん昔にここへ来たきりだったの」
妖夢はその横顔を窺った。紫が旧地獄に来たことがあるという事実は、初めて聞くものだった。地霊殿のことをこの妖怪もまた深く知っているのかもしれない。さとりの言葉が胸をよぎった。この一件の黒幕は地霊殿の力すら知り尽くした者だという。妖夢はその疑いを、まだ捨てきれずにいた。
縦穴の壁面には幾筋もの古い管が這っていた。かつて地獄が機能していた頃の名残なのだろう。今はもう錆びついて役目を終えて久しいそれらが、闇の中でぼんやりと輪郭を浮かべている。妖夢はその朽ちた痕跡を眺めながら、この地の底が背負ってきた長い年月のことを思った。地上の勢力争いなど及びもつかぬ途方もない時間が、ここには澱のように積もっている。その静けさの中で、心を読む妖怪はたった一人で暮らしているのだった。
「八雲様は、地霊殿と以前から親交がおありなのですか」
妖夢が問うと、紫はふわりと微笑んだ。
「親交というほどではないわ。ただ幻想郷を管理する立場として、地の底の掃除屋がどういう者たちかを知っておく必要があっただけよ。さとりとは何度か言葉を交わしたことがある。あの子は――なかなか、油断のならない相手なの」
その言い方には、どこか警戒の色が滲んでいた。心を読む者を前にして隠し事を抱えた者が抱く、当然の身構え。妖夢はそれを見て取りながらも、それが後ろ暗さの証拠なのか、それとも管理者として当然の用心なのかを判じかねていた。
二人は縦穴を下りきると、地霊殿へと通じる薄暗い道を進んだ。
かつての地獄の光景を描いた古い絵が、廊下の壁に並んでいる。炎に焼かれる魂や、剣に貫かれる罪人。それらを横目に過ぎながら、妖夢はこの館がどういう場所であるかを改めて肌で感じていた。死と秘密と後始末。地上の悪党たちが目を背けたがるものが、すべてここへ流れ着く。そういう場所だった。
やがて館の奥から、静かな足音が近づいてきた。
古明地さとりが二人を迎えに現れた。その胸元では第三の眼が薄闇の中でゆらりと光っている。さとりは妖夢の姿を認めるとわずかに柔らかな笑みを浮かべたが、その視線が隣の紫へと移った瞬間、その笑みはすっと引いた。
「――あなたが来るとは。八雲紫」
さとりの声には明らかな緊張が滲んでいた。妖夢はその変化を見逃さなかった。心を読むさとりが紫を前にして身構えている。それは紫の心の中に、何か容易ならぬものを感じ取ったからなのだろうか。妖夢の胸に、再び疑念が首をもたげた。
紫は日傘を畳んで、優雅に一礼した。
「久しぶりね、さとり。地の底の暮らしは相変わらずのようで」
「ええ。おかげさまで。地上のように忙しなくはありませんから」
二人の間に、目に見えぬ火花が散った。心を読む者と、心を読ませぬ術に長けた者。その対峙には地上のどんな刃の応酬よりも、静かで鋭い緊張が張り詰めていた。妖夢はその間に立って、ただ二人の様子を見守るしかなかった。
さとりは二人を、以前と同じ小さな一室へと案内した。
簡素な卓を挟んで三人が向かい合う。前に妖夢が一人で座ったときと同じ椅子に、今度は紫が腰を下ろしていた。さとりは卓の向こうからその紫の姿をじっと見つめている。第三の眼が静かに、紫の心の底を探ろうとしていた。
「用件は、わかっています」
さとりが口を開いた。
「魔理沙を襲った依頼主のこと。その正体を確かめに来たのでしょう。魂魄さんの心には、そう書いてありますから。――でも八雲紫。あなたの心は相変わらず読みにくい」
紫は微笑んだまま、動じなかった。
「あら。私の心なんて覗いても面白くないわよ。年寄りの隠し事ばかりで、埃っぽいだけだもの」
「隠し事、とご自分でおっしゃるのね」
さとりの眼が細められた。
「ええ。私にも読み取れます。あなたの心の表層には、いくつもの隠し事が確かにある。境界の裏取引に、密輸の帳簿。大結界の再整備という名の利権の絵図。そういう後ろ暗いものが、いくつも折り重なっている。あなたは幻想郷の管理者を名乗りながら、その裏でずいぶんと汚れた仕事に手を染めているのですね」
妖夢は息を詰めて、二人のやり取りを見守った。さとりが紫の裏の顔を一枚ずつ剥いでいく。それはこの一件の核心に触れることになるかもしれなかった。
だがさとりは、そこで首を振った。
「けれど――魔理沙を襲ったあの依頼主の心の臭いは、あなたからはしません」
紫の微笑みが、わずかに深くなった。
「あら。信じてもらえて光栄だわ」
「信じたわけではありません」
さとりはきっぱりと言った。
「ただ、あの依頼主の心には独特の臭いがありました。魔理沙への歪んだ執着。自分のものにならないなら壊してしまいたいという、捻れた独占欲。それは憎しみとも欲望とも違う、もっと個人的で暗いものでした。あなたの心には、それがない。あなたが魔理沙に抱いているのは駒としての関心と、あの子が持っている『あってはならないもの』を回収したいという打算だけ。歪んだ執着など、微塵もありません」
その言葉に、妖夢はわずかに胸を撫で下ろした。紫は黒幕ではない。心を読むさとりがそう断じた。それは何よりも確かな証だった。
だが同時に、妖夢は聞き逃さなかった。紫が魔理沙の持つ「あってはならないもの」を回収したがっているという事実を。この管理者もまた、魔理沙を追う理由をはっきりと抱えている。味方ではあっても清廉ではない。それがこの幻想郷の、どの勢力にも共通する姿だった。
紫は肩をすくめて、あっさりと認めた。
「まあ、隠すつもりもないわ。ええ、私は魔理沙が運んでいた荷を回収したいの。あの中には、この幻想郷にあってはならないものが混じっていた。それが表に出れば、私が長年かけて保ってきた均衡が崩れかねない。だから回収して、しかるべき場所に仕舞い直したいのよ。それだけ」
「その『あってはならないもの』が何なのかは――」
妖夢が問うと、紫は日傘の柄を指先で撫でた。
「言えないわ。今はまだね。ただ一つだけ教えてあげる。それは魔理沙自身も、自分が何を運んでいたのかを正確には知らないの。あの子はただ頼まれた荷を運んだだけ。その中身がこれほどの騒ぎを呼ぶものだとは、思ってもいなかったはずよ」
妖夢はその言葉を胸に刻んだ。魔理沙は何も知らぬまま危険な荷を運び、その結果として各勢力に狙われている。そう考えると、あの魔法使いの境遇がいっそう哀れに思えた。誰の駒にもならぬと嘯きながら、結局は誰かの企みに巻き込まれてしまっている。
さとりが話を本筋へと戻した。
「さて。あなたたちが確かめたいのは、あの依頼主の正体でしょう。私が知り得たことをお話しします。――お燐」
さとりが呼ぶと、廊下から赤い髪の少女が姿を現した。火焔猫燐。死体を運ぶ地霊殿の実働の要が、気まずそうな顔で部屋へ入ってきた。妖夢の姿を見て猫の耳がぴくりと動いたが、前のような警戒はもう見せなかった。
「お燐。あなたが受けた依頼の本当の出所を、この方たちに話しなさい」
お燐は俯いたまま、しばらく黙っていた。それから意を決したように口を開いた。
「あの依頼は……紅魔館の名で来ていました。文にも紅魔館の紋が押してあって、だからあたしはてっきり、あの吸血鬼のお嬢様の差し金だと思ってたんです」
「だが、そうではなかった」
紫が静かに促すと、お燐は頷いた。
「はい。あたし、依頼の報酬を受け取る場所へ何度か通ったんです。金の受け渡しはいつも決まった、人里外れの祠でした。あるときそこで待ち伏せて、報酬を置きに来た使いの者をこっそり尾けてみたんです。相手が何者か確かめたくて」
妖夢は身を乗り出した。
「その使いは、どこへ」
お燐の声が、わずかに低くなった。
「紅魔館へ帰っていきました。あの真っ赤な館の裏口へと。だから依頼主はやっぱり紅魔館の中にいるんです。でも」
お燐はそこで言葉を切って、さとりを窺った。さとりが小さく頷くのを見て、お燐は続けた。
「でも、その使いが入っていったのは、館の表のお嬢様が使う立派な玄関じゃありませんでした。裏の、使用人すら滅多に通らないような古い通用口だったんです。あたしは思いました。これはあのお嬢様が表立って出した依頼じゃなくて、館の中のもっと奥まった別の筋から出たものだって」
お燐はそこで一度、言葉を切った。あの夜の尾行を思い出すように、その目が遠くを見た。
「あたし、掃除屋としていろんな依頼を運んできました。誰の差し金かなんて、いちいち気にしたことはありません。金さえもらえれば死体でも証拠でも黙って片付ける。それが地霊殿の流儀ですから。でも、あの依頼だけはなんだか気味が悪くて、つい確かめたくなったんです。相手がどんな顔をしてるのかって」
「その使いの顔は、見えたの」
妖夢が問うと、お燐は首を振った。
「いいえ。深く被った頭巾で顔は隠れていました。ただ、足取りと身のこなしでわかったんです。あれは荒事に慣れた者じゃない。物腰の柔らかい、館仕えの者の歩き方でした。血の匂いのしない綺麗な手をした者が、あの物騒な依頼を運んでいた。そのちぐはぐさが、あたしには余計に気味悪く感じられたんです」
さとりが、静かに補った。
「お燐の勘は鋭いのです。死を運び続けてきたこの子には、人の気配の質を嗅ぎ分ける力がある。荒事の者かそうでないか。表の者か裏の者か。その使いは紅魔館の裏方として長く仕えてきた者の匂いがした。血で手を汚す実働の者ではなく、それを陰から差配する側の者。つまり黒幕本人か、あるいはそのごく近くにいる者だと、私は見ています」
その言葉に、紫の表情が初めて険しくなった。
これまで飄々と構えていたその顔から、余裕の色が消えていた。紫は日傘の柄を握る指にわずかに力を込めた。妖夢はその変化を見て取った。管理者たる八雲紫が初めて表情を失うほどの何か。それがこの一件の核心に触れたのだ。
「紅魔館の、内部の別の筋――」
紫は低く呟いた。
「レミリアの知らぬところで、何者かが地霊殿に依頼を出していた。あの子の名を、あの子の紋を勝手に使ってね。それはつまり」
さとりが後を継いだ。
「ええ。この一件は紅魔館という勢力の仕業ではありません。紅魔館の内部にいる誰か個人の仕業です。レミリア・スカーレットの与り知らぬところでその名を騙り、その利権に乗じて魔理沙を追い詰めようとしている。そういう第三者の仕業なのです」
妖夢は背筋が冷えるのを感じた。
紅魔館の中に主すら知らぬ別の意志が蠢いている。それは勢力同士の抗争などよりも、はるかに厄介な事態だった。敵は組織ではなく、組織の陰に隠れた一人の個人だ。その顔も名も知れぬまま各勢力を裏から操り、魔理沙という獲物を静かに追い詰めている。
「なぜ、レミリアの名を騙るのでしょう」
妖夢が問うと、さとりが答えた。
「隠れ蓑にするためです。紅魔館ほどの勢力の名を使えば、地霊殿も他の者もそう簡単には手出しできません。もし依頼が露見しても、疑いはレミリアへ向かう。真の黒幕はその陰に身を潜めていられるのです。狡猾なやり方でしょう。自分の手を汚さず、他人の名を盾にして獲物を追う」
紫が、苦々しげに言った。
「レミリアもいい面の皮ね。自分の屋敷の中で自分の名を使って、こんな企みが進んでいたなんて。あの子は気づいているのかしら」
「気づいていないでしょう」
さとりが即座に答えた。
「もしレミリアが気づいていれば、これほど巧妙には隠せません。あの吸血鬼は誇り高い方です。自分の屋敷で自分の預かり知らぬ企みが動いているなど、耐えられるはずがない。知れば必ず荒れる。だから黒幕はレミリアにだけは決して悟らせぬよう動いているのです。主の目を盗み、主の耳を欺いて、その足元で静かに糸を引いている」
妖夢の脳裏に、ある光景が浮かんだ。あの豪奢な紅魔館の明るい表の顔の裏で、誰かが暗い企みの糸を一本ずつ手繰り寄せている。主の笑い声が響く広間の、すぐ下の物陰で。その情景はこの幻想郷そのものの縮図のように思えた。表向きの秩序の裏で、誰かが常に別の意志を巡らせている。
妖夢は、前に紅魔館の名を知ったときのことを思い返した。あの館は幻想郷でも指折りの危険な闇を抱えているという。優雅な夜会の裏では口にするのも憚られる取引が交わされ、その帳簿は決して表に出ない。だがそれはあくまで館という組織がレミリアという主のもとで営む闇だった。ところが今明らかになったのは、それとは別のもう一枚奥の闇だ。組織の闇のさらに裏側で蠢く、個人の闇。主すら知らぬ影の意志。それは妖夢がこれまで追ってきたどの糸よりも細く、そして暗かった。
「さとりさん。その黒幕が紅魔館の中の誰なのか――心当たりはないのですか」
妖夢が問うと、さとりはしばらく沈黙した。第三の眼が、遠くを見つめるように揺れた。
「……はっきりとはわかりません。依頼の文からは、依頼主の心が巧妙に塗りつぶされていましたから。ただ一つだけ言えることがあります。その者は紅魔館に長く仕えながら、決して表舞台には立てなかった。日の当たる場所をいつも他の誰かに譲ってきた。そういう影の中で生きてきた者の屈折した心の臭いが、微かにしました」
「影の中で、生きてきた者」
妖夢は、その言葉を繰り返した。
紅魔館の表に立たぬ者。主の華やかな夜会をいつも裏方として支えてきた者。その名も知れぬ誰かが、長い年月をかけて暗い企みを育ててきた。妖夢はその輪郭を掴もうとしたが、その顔は依然として深い闇の中に沈んでいた。
さとりは静かに続けた。
「そしてもう一つ。前にもお話ししましたが、その者は魔理沙に歪んだ執着を抱いています。ただ荷を奪いたいのでも口を封じたいのでもない。あの子という存在そのものに捻れた思いを募らせている。自分のものにならないなら、いっそ壊してしまいたい。そういう暗い独占欲を抱えているのです」
その言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。
紫が、腕を組んで考え込んだ。
「歪んだ執着、ね。それはこの一件を、ただの利権争いから遠ざけるわ。もしそれが本当なら黒幕の狙いは荷の回収だけではない。魔理沙という存在を自分の手中に収めること、そのものが目的になっている。だとすれば話は厄介よ。打算だけの相手なら取引の余地もあるけれど、執着に取り憑かれた相手には理屈が通じないもの」
妖夢は刀の柄に、そっと手を添えた。
理屈の通じぬ相手。魔理沙をただ壊したいと願う歪んだ心。そんな者の手にあの魔法使いが落ちればどうなるか。想像するだけで妖夢の胸は冷えた。何としてもその前に、魔理沙を見つけ出さねばならない。黒幕の手が届く前に。
「さとりさん」
妖夢は顔を上げた。
「その黒幕は次にどう動くと思われますか。あなたが依頼を断った以上、地霊殿の力はもう使えない。ならば黒幕は別の手を打ってくるはずです」
さとりは頷いた。
「ええ。おそらくそうなるでしょう。地霊殿という追跡の手駒を失った以上、黒幕は自らの手先を直接動かすはず。紅魔館の名を騙って集めた実働の者たちをね。それはもう証拠を消すための後始末ではありません。魔理沙を生きたまま確保するための、直接の狩りです」
「狩り」
妖夢は、その言葉を噛みしめた。
「魔理沙さんは今、どこに」
さとりは目を閉じた。地の底の力を、遠くまで伸ばすように。それからゆっくりと目を開いて言った。
「北の山中です。手負いのまま身を潜めている。けれど――一人ではありません。誰かがあの子のそばにいます。魔理沙をかばい、ともに戦おうとしている、もう一人の魔法使いが」
妖夢の胸が、跳ねた。
「もう一人の、魔法使い」
「アリス・マーガトロイド」
さとりが、その名を告げた。
「人形遣いのアリスが、魔理沙のそばに駆けつけています。あの子はどの勢力にも属さず、ただ友のためだけに動いている。魔理沙を守るために初めて自分から争いに身を投じようとしているのです。めったにないことですよ。あの孤高の人形遣いが誰かのためにそこまでするなど」
妖夢は、その光景を思い浮かべた。
手負いの魔理沙と、そのそばに寄り添う人形遣い。二人だけで幻想郷のすべての勢力の思惑を相手取りながら、身を潜めている。それは孤独で危うい構図だった。だが同時に、そこには確かな熱があった。誰の駒にもならぬ二人の魔法使いが、ただ互いのためだけに立とうとしている。妖夢はその姿に胸を打たれた。
さとりが、遠くを見るような目で続けた。
「アリスの心を私は直接には読めません。ここからでは遠すぎますから。でも、お空が魔理沙を襲ったあの夜のことを思い返せば、あの人形遣いの立ち位置が見えてきます。アリスはどの勢力の依頼も受けていない。金でも義理でもなく、ただ魔理沙が危ういと知って駆けつけた。それだけです。この一件に群がる者たちの中で、あの人形遣いだけが打算のない心で動いている。だからこそ危ういのです」
「打算がないことが、危うい、と」
妖夢が問い返すと、さとりは頷いた。
「ええ。打算で動く者は引き際を知っています。損だと見れば退く。でも友のために動く者は退きません。魔理沙が倒れるまで、あるいは自分が倒れるまで戦い続ける。それは尊いことですが、あまりに危うい。黒幕の手先が非情な狩人であればあるほど、その純粋さは狙われて利用されてしまう。妖夢さん、あなたが急がねばならないのはそのためでもあるのです」
妖夢は、その言葉の重みを噛みしめた。純粋であるがゆえに退けない。その危うさを妖夢は痛いほど理解した。
「ならば、急がねばなりません」
妖夢は立ち上がった。
「黒幕の手先が北の山中へ向かえば、魔理沙さんとアリスさんは二人だけでそれを迎え撃つことになります。手負いの身では危うすぎます。私が駆けつけねば」
紫も、静かに立ち上がった。
「ええ。それがいいでしょうね。私も藍と橙を動かすわ。あの荷を回収するためにも、魔理沙を黒幕の手に渡すわけにはいかない。利害は一致しているようね、妖夢」
妖夢は紫を見た。
利害の一致。それは味方ということとは違う。紫はあくまで荷を回収するために動き、妖夢は魔理沙を救うために動く。目指す先がたまたま同じ方向を向いているだけだ。この管理者を心から信じたわけではない。だがさとりが黒幕でないと断じた以上、この一件においては手を組める相手ではあった。
「――八雲様」
妖夢はまっすぐに紫を見て言った。
「一つ、約束していただきたいことがあります。魔理沙さんを見つけたとき、あなたは荷を回収するでしょう。それは構いません。ですがその際、魔理沙さんに危害を加えないでください。あの人は白玉楼の大切な債務者です。生きて借金を返してもらわねばなりません」
紫は、その率直な言葉にくすりと笑った。
「まあ、律儀な子。――いいわ、約束する。私も魔理沙を傷つけるつもりはないの。あの子が持っているものを返してもらえれば、それでいい。荷さえ手に入れば、あとはあなたたちの好きにすればいいわ。取り立てでも何でもね」
その答えに、妖夢はひとまず頷いた。紫の言葉をどこまで信じてよいものか、まだ判じかねてはいた。だが今はこの管理者と歩調を合わせるより、ほかに道はなかった。
さとりが、二人のやり取りを静かに見つめていた。その第三の眼が紫の心をもう一度だけ覗いたようだった。やがてさとりは、小さく頷いた。
「――八雲紫。今の約束に嘘はないようね。あなたは魔理沙を傷つけるつもりはない。荷さえ戻ればそれでいいと本当に思っている。心の底まで、そう書いてあります。魂魄さん、この点についてはこの方を信じてよいでしょう」
妖夢は、その言葉にいくぶん安堵した。心を読むさとりが紫の約束を真実だと保証した。それは口約束よりもはるかに確かな担保だった。紫はさとりのその言葉に、苦笑を浮かべた。
「まったく。心を読まれるというのは商売あがったりね。腹の探り合いがまるでできないんだから」
「探り合いなど、しなければよいのです」
さとりは、澄ました顔で答えた。
「隠し事のない者ほど、私の前では強い。魂魄さんをご覧なさい。この方は心を何も隠さない。だから私はこの方を疑いようがないのです。あなたも少しは見習ってはいかが、八雲紫」
紫は、声を立てて笑った。
「ご忠告、痛み入るわ。でもこの歳になって生き方は変えられないのよ。隠し事は私の数少ない趣味なの」
その軽妙なやり取りに、張り詰めていた部屋の空気がわずかに緩んだ。心を読む者と、心を読ませぬ者。その対峙はいつしか、奇妙な信頼のようなものへと姿を変えつつあった。妖夢はその様子を眺めながら、少しだけ肩の力を抜いた。
さとりが、二人を見上げて言った。
「私からも一つ。北の山中にはすでに複数の勢力の手が伸びています。黒幕の手先だけではありません。守矢の残党も、荷の噂を聞きつけた者たちも。魔理沙のいる場所へいくつもの思惑が同時に収束しつつある。あなたたちが着く頃にはそこは――修羅場になっているかもしれません」
その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
複数の勢力の手が一人の魔法使いのもとへ同時に伸びていく。それはもはや追跡ではなく、乱戦の予兆だった。それぞれの思惑を抱えた者たちが北の山中の一点でぶつかり合おうとしている。妖夢はその修羅場の中心に手負いの魔理沙とたった一人の人形遣いがいることを思って、胸を締めつけられた。
「なおのこと、急がねば」
妖夢は刀の柄を握り直した。
「さとりさん。あなたの助けに感謝します。おかげで黒幕の輪郭が少しずつ見えてきました」
さとりは、静かに首を振った。
「輪郭が見えただけで、顔はまだ見えていません。紅魔館の内部の影の中に生きてきた誰か。魔理沙に歪んだ執着を抱く誰か。その名を突き止めるまでは油断なさらぬよう。あなたが味方だと思っている者の中にその者がいる可能性も、まだ消えていないのですから」
妖夢の胸に、その言葉が再び棘のように刺さった。
味方だと思っている者の中に、黒幕がいるかもしれない。前に地霊殿を訪れたときに聞いたあの言葉を、今またさとりは繰り返した。妖夢は隣に立つ紫を横目で窺った。さとりは紫を黒幕ではないと断じた。だがそれ以外の――咲夜は。守矢の誰かは。あるいはまだ姿を見せていない別の誰かは。妖夢はその疑いの網を、完全には畳めずにいた。
さとりが、その心を読んだように微笑んだ。
「案じずともいいのです。疑うことは悪いことではありません。この幻想郷では誰もが心を隠している。疑いながら進むのが身を守る術です。ただ、疑いに心を食い尽くされてはなりません。あなたには信じるべきものがちゃんとある。あなたの刀、あなたの主、そして救いたいと願うその気持ち。それだけは疑わなくていいのです」
その言葉に、妖夢は深く頭を下げた。
心を読む妖怪はまた、妖夢自身も気づかなかった心の揺れをそっと整えてくれた。疑いながらも信じるべきものを見失わない。それが地の底の掃除屋が妖夢に授けた、二度目の贈り物だった。
「ありがとうございます、さとりさん。この恩は忘れません」
さとりは、柔らかく笑った。
「恩などと。私はただ心を読んで、見えたものをお話ししただけです。それより魂魄さん、前に約束してくれたでしょう。この一件が終わったら、また話しに来てくれると。あれを覚えていてくれるなら、それで十分です」
妖夢は、はっとした。
前に地霊殿を辞すとき、確かにそう約束した。この一件が終わったらまた来てもいいか、と。さとりはそれを覚えていてくれた。すべての心を読み、誰からも遠ざけられてきたこの妖怪が、妖夢との約束をこんなにも大切にしていた。妖夢の胸が温かくなった。
「もちろん覚えています。必ずまた参ります。この一件が終わったら、そのときはゆっくりお話ししましょう。今度はお茶でも持って」
その言葉に、さとりの顔がこれまでで一番、柔らかくほころんだ。
「……ええ。楽しみにしています」
お燐が、そのやり取りを傍らで見ていた。地霊殿の主がこれほど嬉しそうに笑うのを、久しく見ていなかったのだろう。お燐の顔にもふと、優しい笑みが浮かんだ。地の底の孤独な暮らしにほんの少しだけ明るいものが差し込んだような、そんな表情だった。
紫が、その光景を眺めながら日傘をそっと開いた。
「さて。名残惜しいところだけれど、そろそろ行きましょうか、妖夢。北の山中で修羅場が待っているのなら、一刻も無駄にはできないわ」
「はい」
妖夢は頷いて、さとりに最後の一礼をした。
「さとりさん、お燐さん。お世話になりました」
「お気をつけて」
さとりは、二人を見送りながら言った。その第三の眼がふと、遠くを見るように揺れた。
「――魂魄さん。最後にもう一つだけ。北へ向かう道で、あなたは恐ろしいものを目にするかもしれません。刃と血と、そして人が人を害するその醜さを。あなたの刀はこれまで血を流させたことがないと聞きます。でもこの一件はいずれ、あなたにその一線を越えさせるでしょう。そのときが来たら、迷わないで。あなたの刀が誰を守るために抜かれるのか。それを忘れなければいいのです」
妖夢は、その言葉を静かに受け止めた。
刀が血を流させる、その一線。幽々子もまたこの一件の初めに、それを予言していた。刀がどこを斬るかはそのとき刀自身がいちばんよく知っている、と。そして今、さとりもまた同じことを告げている。この一件はいずれ妖夢に血を流させる。妖夢はその予感をもう否定しなかった。ただ、さとりの言葉を胸に刻んだ。誰を守るために刀を抜くのか。それさえ忘れなければ迷わずに済む。
「……肝に、銘じます」
妖夢はそう答えて、紫とともに部屋を後にした。
二人が去ったあと、地霊殿の一室にはさとりとお燐だけが残された。
さとりはしばらく、二人が去った扉を見つめていた。その第三の眼がゆらりと揺れて、やがて静かに閉じられた。お燐がそっと主に近づいた。
「さとり様。よかったんですか、あの二人にあそこまで話して。地霊殿は中立が流儀でしょう」
さとりは、微笑んだ。
「ええ、中立よ。でもあの黒幕は、地霊殿を悪意の道具にしようとしたの。私はそれが許せなかった。だからあの二人に手がかりを渡した。黒幕の正体を暴くのはあの子たちの役目で、私はただ地の底からそれを見守るだけ。それでも私なりの筋は、通したつもりよ」
お燐は頷いた。それからふと、心配そうに主を見上げた。
「でも、さとり様。あの黒幕の正体、本当はもっとわかってるんじゃないですか。あたし、さっきさとり様の顔を見てそう思ったんです。あの二人に話したこと以上に、何か掴んでるんじゃないかって」
さとりは、その問いにすぐには答えなかった。
長い沈黙が、部屋に落ちた。地の底の静寂の中で、第三の眼だけがかすかに光を宿していた。やがてさとりは、ぽつりと呟いた。
「……お燐。心を読むというのは、時に残酷なことなの。読みたくないものまで読んでしまう。知りたくないことまで知ってしまう。あの黒幕の心を私は一度だけ深く覗いたことがある。依頼の文に込められた、心の残り香からね。そのとき私が見たものは――」
さとりは、そこで言葉を切った。
その横顔には、これまで妖夢の前では見せなかった苦い翳りが浮かんでいた。すべての心を読む者だけが背負う重い翳り。知ってしまったがゆえの孤独。さとりはその正体を、まだ誰にも告げていなかった。妖夢にも紫にも。ただ一人、胸の奥にその名をしまい込んでいた。
「……いえ。今はまだよ。確証がないうちに名を告げれば、要らぬ災いを招くかもしれない。それに――」
さとりは、そっと目を伏せた。
「それに、もしあの心の正体が私の思う通りの者なら。それはあまりにも哀しい話になる。長く影の中で生き、報われずに歪んでいった心。その者もまたこの幻想郷という仕組みが生み出した犠牲者の一人なのかもしれない。悪党の一人であると同時に、ね」
お燐は、その言葉を黙って聞いていた。主が何を思っているのか、お燐にはすべては分からなかった。だがさとりがその黒幕にただの憎しみだけを抱いているのではないことは、伝わってきた。心を読む者は悪党の悪意だけでなく、その悪意が生まれた哀しみまで見てしまう。それがさとりの抱える孤独だった。
「さとり様は、優しすぎます」
お燐が、ぽつりと言った。
さとりは、寂しげに笑った。
「優しいのではないわ。ただ見えてしまうだけなの。悪党の心の底に沈んだ小さな哀しみまで。それが見えてしまうから、私はどんな相手のことも単純には憎めない。それは優しさではなくて、呪いのようなものよ」
お燐は、しばらく黙っていた。それからそっと、主のそばに身を寄せた。
「あたしには心は読めません。だから黒幕がどんな哀しみを抱えてるのかもわかりません。でも、さとり様。一つだけ言わせてください。たとえその黒幕がどんなに哀しい心を抱えていても、あの魔理沙って魔法使いを追い詰めてなぶろうとしてるのは事実です。哀しいことと許されることは別だと、あたしは思います」
さとりは、その言葉にはっとしたようにお燐を見た。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、お燐。哀しみは悪意の言い訳にはならない。私は心が見えすぎるあまり、その当たり前のことを時々忘れてしまう。ありがとう。あなたがいてくれてよかった」
お燐は、照れくさそうに猫の耳をぴくりと動かした。
「あたしなんて、ただの掃除屋ですよ。難しいことはわかりません。ただ、さとり様が変な方へ心を持っていかれないように。それだけは見張ってるつもりです」
さとりは、その言葉に柔らかく微笑んだ。地の底の孤独な暮らしの中で、この赤い髪の少女だけがさとりの心の危うい傾きをそっと支えてくれている。心を読めぬ者だからこそ見える真実というものが、確かにあるのだった。
部屋に、再び静寂が落ちた。
地の底の闇の中で、地霊殿の主は一人、遠い地上のことを思っていた。北の山中へ向かうあの生真面目な取り立て人のこと。手負いのまま逃げる魔法使いのこと。そして紅魔館の影の中で歪んだ執着を育て続ける、名も知れぬ哀しい黒幕のこと。それらすべての心がさとりには見えていた。見えているからこそ、さとりは地の底から動かずにただ見守ることしかできなかった。
一方、地上へと続く縦穴を、妖夢と紫は上へ上へと登っていた。
地の底の闇が徐々に遠ざかっていく。妖夢の胸には、さとりの言葉がいくつも折り重なって残っていた。紅魔館の内部の別の筋。影の中に生きる名も知れぬ黒幕。魔理沙への歪んだ執着。そしていずれ妖夢に血を流させるという予言。それらを抱えて、妖夢は地上を目指した。
「妖夢」
紫が、登りながらふと口を開いた。
「さとりはまだ、何かを隠していたわね。あの子は黒幕の正体をもっと深いところで掴んでいる。でもそれをあえて言わなかった。なぜだと思う?」
妖夢は、少し驚いた。紫もまたそれを感じ取っていたのだ。心を読ませぬ術に長けたこの管理者は、逆に他人の隠し事を読むことにも長けているのかもしれなかった。
「……わかりません。ですがさとりさんには、さとりさんの考えがあるのでしょう。今それを語らぬのが、あの人なりの筋の通し方なのかもしれません」
紫は、くすりと笑った。
「そうね。あの子もなかなか食えない。でもいいわ、急ぐことはない。黒幕の顔はいずれ向こうから現れる。魔理沙を狩ろうとその手先が動き出せば、その糸をたぐって必ず本体にたどり着く。今はただ北へ急ぎましょう」
妖夢は、頷いた。
縦穴を登りきると、二人は久しぶりの地上の光の中へと出た。地の底のよどんだ空気の後では、地上の風はひどく清々しく感じられた。だがその爽やかさの下にどれほどの闇が潜んでいるかを、妖夢はもう知っていた。この明るく見える地上こそが本当の闇なのだ。さとりのあの言葉が、また胸によみがえった。
妖夢は、北の空を見上げた。
遠く妖怪の山を越えたその先の山中に、魔理沙がいる。手負いのまま、たった一人の人形遣いとともに身を潜めている。そこへいくつもの勢力の手が収束しつつある。黒幕の手先も、荷を狙う者たちも。妖夢はその修羅場の予感に、胸を引き締めた。
「参りましょう、八雲様」
妖夢は、刀の柄に手を添えてそう告げた。
「魔理沙さんが独りで戦う前に。あの人を迎えに」
紫は、日傘を差したまま微笑んだ。
「ええ、行きましょう。さあ、この一件もいよいよ佳境ね。血の匂いがしてきたわ」
二人は、北へと歩き出した。
日はまだ高かった。だがその明るい空の下で、幻想郷の闇は確実にその濃度を増していた。名も知れぬ黒幕は依然として深い影の中にいる。だがその手先はもう動き出している。北の山中へと。手負いの魔法使いのもとへと。
妖夢の刀は、まだ血を知らない。
だがその一線を越える日が、もうすぐそこまで迫っていた。妖夢はそれを予感していた。そして――その予感をもう恐れてはいなかった。誰を守るために刀を抜くのか。それだけを胸にしっかりと刻んでいたから。
北の空の下で、風が鳴った。
その風は、遠い山中で始まろうとしている乱戦の匂いをかすかに運んでくるようだった。妖夢と紫の姿はやがて、北へと続く道の彼方へと小さくなって消えていった。地の底では、さとりがその二人の行く末を静かに見守り続けていた。
幻想郷の均衡は、今まさに崩れかけていた。
そしてその崩壊の中心には、一人の手負いの魔法使いと、その存在に歪んだ執着を抱く名も知れぬ黒幕がいた。すべての糸は北の山中のその一点へと収束しつつある。刃と血と、そして真実とが、そこで交わろうとしていた。