幻想郷アウトレイジ ―白玉楼の帳簿―   作:たこ焼き 龍月

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第七章 山中の乱戦

 

 

北の山は秋の色に沈んでいた。

 

妖怪の山を越えたその先には地図にも載らぬ深い森が幾重にも折り重なっており、色づいた木々の葉が風のたびに音もなく地へ落ちていく。妖夢は八雲藍の隣を、獣道とも呼べぬ細い斜面を辿りながら登っていた。地の底の湿った闇を抜けてきた身にはこの乾いた山の冷気がかえって肌を刺すように感じられる。日はすでに西へ傾きはじめており、木々の隙間から差し込む光が長い影を斜面へと引いていた。その静けさのなかに妖夢は確かな不穏を嗅ぎ取っていた。

 

紫はこの現場までは降りてこなかった。地霊殿から地上へ戻ったのち、管理者は妖夢へこう告げて藍と橙を差し向けたのだった。現場の荒事は式に任せる、と。自らは尾根の上から盤面の全体を見ておく、と。荒事のたびに管理者が末端へ姿を見せるようでは、八雲の指揮系統が意味をなさない。紫はそう言い残して尾根の陰へと退き、妖夢のそばには藍と、その式の橙とが従っていた。

 

風がひとしきり吹くと、頭上で梢が低く鳴った。乾いた葉の擦れる音に混じって、遠くから何か別の響きが届いてくる。人の営みではありえぬ、何かが張り詰めた音だった。妖夢は歩を緩めずに、その音の出所へと耳を澄ませた。地霊殿からここまでの道のりは長く、半霊はその疲れを訴えるように、時おり妖夢の肩へと寄り添っては離れていく。妖夢はその白い影をなだめるように一つ息を吐いてから、また前へと足を進めた。少し後ろを歩く橙が、その半霊の動きを物珍しげに目で追っているのが、背中越しにも伝わってきた。

 

「近いな」

 

藍が九本の尾を低く沈めながらそう告げた。飄々とした主とは違う、実務の者らしい張り詰めた声だった。鼻先をわずかに風上へと向けながら、藍は言葉を継いだ。

 

「この先の谷筋に、いくつもの気配が集まっている。魔理沙の匂いも、そのそばにいる人形遣いの匂いもする。そして、それを狙う者たちの匂いも。さとり様の言った通りだ。ここはもう修羅場になりつつある」

 

妖夢は無言で頷いて刀の柄へと手を添えた。半霊が背後で不安げに揺れているのが、自分の胸の内をそのまま映しているようだった。谷筋へ近づくにつれ、風に乗って微かな声が届くようになる。複数の男たちが低く言葉を交わす声だった。それに応じるように鳴る、乾いた木片のはぜる音も聞こえてくる。妖夢はその音の意味をすぐに悟った。すでに戦いが始まりかけている。

 

妖夢たちは木々の陰を伝いながら、谷を見下ろす岩棚まで進み出た。

 

眼下には朽ちかけた炭焼き小屋がひとつ、斜面にへばりつくように建っていた。かつて人里の者が使っていたものが、今は打ち捨てられて久しいのだろう。屋根の一部は落ちかけ、壁板の隙間からは夕陽が漏れている。その小屋を囲むようにして十人ほどの人影が散開していた。妖夢は目を細めてその輪郭を見定めた。半数は守矢の信者らしい白装束をまとっている。残りの半数は黒ずくめであり、荒事に慣れた者たちの身のこなしを見せていた。前者は守矢の残党であり、後者はおそらく黒幕の手先だろうと妖夢は判じた。

 

「妙な取り合わせだ」

 

藍が眉をひそめて呟いた。岩棚の縁へと身を寄せながら、なお言葉を続ける。

 

「守矢の残党と、紅魔館を騙った者の手先。本来なら互いに競う立場のはずが、今は同じ小屋を囲んでいる。目の前の獲物が同じだから、ひとまず矛を収めているというところか。まったく――浅ましいことだ」

 

妖夢はその皮肉を聞き流しながら、小屋のほうへと視線を凝らした。

 

囲まれた小屋の中には二つの気配があった。一つは荒い呼吸を抑えながらもなお闘志を失っていない者のもので、もう一つはそれを静かに支えるように寄り添う者のものだった。妖夢の胸が跳ねた。魔理沙とアリス。二人はまだ生きている。手負いのまま、たった二人でこの包囲を迎え撃とうとしているのだった。

 

そのとき包囲の輪が一斉に縮まった。

 

黒ずくめの一人が短く号令を発すると、白装束の信者たちが呪符を構えて小屋へと殺到した。妖夢が声を上げる間もなかった。小屋の粗末な扉が内側から蹴り開けられて、そこから閃光がほとばしる。魔理沙の魔法だった。先頭の信者が光を浴びて後方へ吹き飛び、斜面を転がり落ちていく。それと同時に小屋の周囲の空気そのものが軋むように震えて、幾体もの人形が地の底から湧き出すように現れた。アリスの操る人形たちである。糸に吊られたそれらが四方から迫る手先へと一斉に襲いかかった。

 

「始まったな」

 

藍が低く呟いて、身を沈めた。九尾がざわりと逆立ち、臨戦の気配がその全身に満ちる。藍は妖夢のほうへと鋭く顔を向けた。

 

「あの二人だけでは、いずれ押し切られる。数が違いすぎる。妖夢、お前は正面から降りろ。私は橙を連れて回り込み、退路を断つ手先を背後から潰す。挟むぞ」

 

「わかりました」

 

妖夢が頷くと、藍はさらに言葉を継いだ。

 

「我が主は尾根の上で全体を見ておられる。ここから先、指図を待つ暇はない。おのおのの判断で動く。――行くぞ、橙」

 

「はいっ」

 

橙が緊張した声で応じて、藍の後を追った。二つの影は木々の陰へと消え、瞬く間に斜面の逆側へと回り込んでいく。

 

妖夢は頷くと、返事も待たずに岩棚を蹴った。

 

斜面を一息に駆け下りながら、妖夢は楼観剣を鞘走らせた。刃が夕陽を受けて赤く光を弾く。眼下では魔理沙とアリスが背中を合わせるようにしながら、押し寄せる手先を辛うじて捌いていた。だがその防戦は明らかに限界へと近づいている。魔理沙の動きには精彩を欠く箇所があり、肩をかばうようにして片腕の振りが鈍っていた。手負いの身を押して戦っているのが遠目にも見て取れる。妖夢は駆け下りる速度をさらに上げた。

 

妖夢は谷底へ降り立つと同時に、最も近い手先の背へと斬りかかった。

 

峰を返した一撃が黒ずくめの背中を打った。骨のきしむ鈍い音とともにその男は前のめりに倒れ伏す。峰打ちだった。妖夢の刀はまだ血を流させていない。だがその一撃の重さは、これまで人里で用心棒を打ち据えてきたどの一撃よりも明らかに殺気を帯びていた。妖夢自身それを自覚していた。地の底で聞いたさとりの言葉が、いつのまにか自分の刃へと沁み込んでいるのを感じる。

 

「白玉楼の――死神っ」

 

戦いの渦の中から聞き覚えのある声が飛んできた。

 

魔理沙だった。汗と煤に汚れた顔でありながら、それでも口の端を吊り上げるようにして笑っている。左肩から二の腕にかけて布を巻いた跡が黒ずんで見えるのは、そこに傷を負っているからだろう。だがその瞳の光は少しも衰えていなかった。

 

「なんでお前が、こんな山奥まで来やがった。取り立てにしちゃ、ずいぶん物騒な場所を選んだじゃねえか」

 

「その話は後です」

 

妖夢は短く応じながら、次の手先の刃を弾き返した。刃と刃が噛み合って火花が散る。

 

「今は生き延びることだけを考えてください。話はそれからです」

 

魔理沙が何か言い返そうとしたものの、その言葉は新たに押し寄せた信者の一団に飲み込まれた。妖夢は魔理沙とアリスのいる小屋の前へと躍り込んで、二人と背中を合わせる位置についた。三人が三角を成すようにしながら、迫る敵へと向き合う形になる。互いの背に相手の体温を感じるその近さが、妙な心強さを妖夢の胸へと運んできた。

 

「魂魄妖夢ね」

 

背後から涼やかな声がかかった。アリスだった。

 

人形を操る細い糸を指先に絡めながら、その青い瞳は油断なく周囲を見回している。魔理沙のような軽口はなく、その声はどこまでも静かでありながら芯があった。

 

「魔理沙から話は聞いているわ。あなたが取り立てに来る死神だと。でも今は違うようね。あなたが来てくれて正直助かった。二人ではそろそろ限界だったから」

 

「私が来た理由は後で説明します」

 

妖夢は前方から迫る手先を睨みながら答えた。

 

「今はただ、あなたたちをここから生かして出す。それだけを考えています。アリスさん、あなたの人形はどこまで動かせますか」

 

「見ていなさい」

 

アリスがそう言って、指先の糸を鋭く弾いた。

 

その瞬間、宙に浮いていた幾体もの人形が糸に引かれて一斉に旋回した。それらは信者たちの背後へと回り込むと、四方八方から同時に襲いかかる。関節を精密に組まれた人形の手足が鞭のようにしなって、信者たちの急所を打った。人形の指先には仕込まれた細い刃が光っており、それが白装束の袖を裂きながら腕を浅く斬り裂いていく。妖夢は横目でその光景を見て内心で舌を巻いた。人形遣いというのがこれほどの武であるとは。命を助ける義肢を作る手が同じ精密さで命を奪う暗器をも作り上げているのだと、妖夢は後になって知ることになる。

 

一体の人形が信者の胸元へと飛び込むと、その関節が音もなく組み替わって隠された刃を突き出した。信者は悲鳴を上げて後ずさり、他の者たちも人形の反撃に浮足立つ。アリスはそのあいだもほとんど表情を変えなかった。指先だけが無数の糸を寸分の狂いもなく操っている。その静けさこそがこの人形遣いの恐ろしさを物語っていた。感情を昂ぶらせることなく、ただ淡々と敵を無力化していく。妖夢はその姿に、自分とはまた別種の研ぎ澄まされた戦い方を見て取った。

 

「囲みを崩すわ」

 

アリスが冷静に告げた。糸を引く手を止めぬまま、視線だけを短く仲間へと配る。

 

「妖夢、あなたは正面を。魔理沙は無理をしないで。あなたはもうじゅうぶん戦った。あとの押し込みは、私とこの死神に任せて」

 

「はっ。誰が――」

 

魔理沙が笑いながら言い返そうとして、そこで小さく呻いた。傷が痛んだのだろう。だがそれでも箒を杖のように地へと突いて、なお立とうとする。妖夢はその姿に胸を突かれた。手負いの身でなお誰にも寄りかかろうとしない。それが霧雨魔理沙という魔法使いの生き方だった。

 

そのとき包囲の外側で異変が起こった。

 

谷の斜面のほうから黒ずくめの手先たちが次々と倒れ伏していく。何者かが包囲を外から食い破っているのだった。妖夢は一瞬で、先に回り込んだ藍と橙だと察した。斜面の木々の陰から白い獣毛をなびかせた大柄な影と、それに寄り添う小さな影とが躍り出て、手先たちを瞬く間に打ち倒していく。八雲藍とその式の橙だった。藍の放つ狐火の呪符が黒ずくめの一団を薙ぎ、燐光の縛めがその足を封じていく。二つの影は退路を断とうとしていた手先の背後を突いて、包囲の一角を鮮やかに切り崩した。

 

「退路が――開いた」

 

妖夢は鋭く声を上げた。

 

「魔理沙さん、アリスさん。今のうちに斜面の東へ。八雲の式が道を開けています」

 

だが、その言葉が終わらぬうちに状況は一変した。

 

これまで信者たちの後方で腕を組みながら戦況を眺めていた黒ずくめの頭目らしき男が、初めて前へと進み出たのだった。他の手先とは明らかに気配が違う。荒事に慣れた者に特有の、静かで研ぎ澄まされた殺気を全身にまとっていた。男は懐から抜き放った刃を無造作に下げたまま、まっすぐに魔理沙のほうへと歩み寄ってくる。

 

「その魔法使いを――生きたまま渡してもらおう」

 

男の声は低く、感情の色を欠いていた。

 

「他の連中はどうでもいい。俺の依頼はその女ひとりだ。おとなしく渡せば、そちらには手を出さん。抗えば全員まとめて始末する」

 

妖夢は男の前へと素早く体を割り込ませた。

 

「それはできません」

 

妖夢の声は静かだった。だがその静けさの底には、抜き身の刃のような冷たさがあった。

 

「この人は白玉楼の債務者です。生きて借金を返してもらわねばなりません。あなたが誰の依頼で動いているのかは知りませんが、この人を渡すわけにはいきません」

 

「白玉楼の取り立て人か」

 

男の目がわずかに細められた。刃を下げたまま、値踏みするように妖夢を見据える。

 

「面倒な相手だな。だが、金貸しの犬がそこまで身を張る義理もあるまい。退け。これはお前の飼い主が扱う筋の話ではない」

 

「筋の話をするなら」

 

妖夢は楼観剣を正眼に構え直した。刃の切っ先が男の喉元をまっすぐに指す。

 

「あなたのほうこそ筋を違えている。紅魔館の名を騙り、その主すら知らぬところで勝手に人を狩ろうとしている。それがあなたの言う筋ですか。主の名を盗んで人を害する者に、筋を説かれる覚えはありません」

 

その言葉に男の表情が初めてわずかに揺れた。

 

図星を突かれたのだろう。だがその動揺は一瞬で消え去り、代わりに冷たい殺意が男の全身を包んでいった。男は無造作に下げていた刃を静かに持ち上げる。妖夢はその挙動を見て、これが峰打ちで済む相手ではないと悟った。この男を打ち据えるだけでは必ずまた立ち上がってくる。そして今度こそ魔理沙の喉笛を掻き切るだろう。妖夢の脳裏にさとりの言葉が甦った。刀が血を流させる一線をいずれ越えることになる、と。そのときが来たら迷うな、と。

 

男が動いた。

 

その踏み込みは、これまで妖夢が相手にしてきたどの敵よりも速かった。刃が真横から妖夢の首を狙って薙がれる。妖夢は身を沈めてそれをかわしながら、返す刀で男の胴を狙った。だが男もまた手練れだった。かろうじて刃を引いて妖夢の一撃を受け止めると、二つの鋼が谷底に甲高い音を響かせる。火花が散った。妖夢は男の力の強さに腕が痺れるのを感じた。人里の用心棒とは格が違う。これは人を殺すことを生業としてきた者の剣だった。

 

二人は幾度も刃を交えた。

 

男の剣は速く、そして容赦がなかった。急所ばかりを狙って繰り出される刃を、妖夢は紙一重で捌き続ける。だがその防戦の合間にも、背後では魔理沙とアリスがなお他の手先と信者を相手取って戦っていた。妖夢は焦りを覚えた。この男との斬り合いが長引けば、その隙を突いて他の敵が魔理沙へと殺到するかもしれない。早く決着をつけねばならなかった。

 

その焦りを男は見逃さなかった。

 

黒ずくめの男の目が、獲物を追い詰めた獣のように光を帯びる。妖夢はその視線に、これまで対峙してきた者たちにはなかった昏さを見た。人を害することに慣れきった者だけが持つ、あの冷えた昏さだった。

 

妖夢の刃がわずかに泳いだ隙を突いて、男の刀が妖夢の脇腹を狙って走った。妖夢は辛うじて体を捻ったものの、刃が着物の脇を裂いて皮膚に浅い傷を刻む。灼けるような痛みが走った。妖夢が体勢を崩したその一瞬を男は逃さなかった。とどめを刺すべく、その刃を大きく振りかぶる。

 

「妖夢っ!」

 

魔理沙の悲鳴のような声が飛んだ。

 

その刹那、妖夢の心から迷いが消えた。

 

さとりの言葉が、幽々子の言葉が一つに溶け合って胸に満ちる。刀がどこを斬るかは刀自身がいちばんよく知っている。誰を守るためにその刃を抜くのか。それさえ忘れなければ迷わずに済む。妖夢は崩れた体勢のまま地を蹴った。振りかぶった男の刃の内側へと逆に踏み込んだのだった。男の刀が空を斬り、その懐ががら空きになる。

 

妖夢の白楼剣が抜かれた。

 

短いほうの刃が男の胴を深く薙いだ。

 

これまで一度も血を吸ったことのなかったその刃が、いま初めて生温かいものに濡れた。男は声もなく目を大きく見開く。その手から刃が滑り落ちて、乾いた地面へと転がった。男はよろめいて数歩後ずさると、そのまま膝から崩れ落ちる。斜面を鮮やかすぎるほどの赤が静かに染めていった。

 

妖夢は荒い息をつきながら、その光景を見下ろしていた。

 

自分の刀が初めて人を斬った。その事実が遅れて胸へと押し寄せてくる。手のひらに残る、肉を裂いた感触。それはこれまで人里で用心棒を打ち据えてきたときの、あの峰打ちの手応えとはまるで違うものだった。峰打ちは骨を打つ手応えであり、跳ね返される反発があった。だが刃が肉を裂くときには、その反発がない。ただ吸い込まれるように、鋼が体の内へと沈んでいく。妖夢はしばらくその場に立ち尽くした。だがその心には意外なほどの静けさがあった。恐れも後悔もない。ただ一つの一線を越えたという静かな自覚だけが胸を満たしている。この刃は魔理沙を守るために抜かれた。それを妖夢は忘れなかった。

 

頭目を失った手先たちの動きが目に見えて鈍った。

 

要を失った包囲はもはや崩れる寸前だった。そこへ斜面の上から藍と橙が畳みかけ、逆側からはアリスの人形が津波のように押し寄せる。信者たちは戦意を失って、われ先にと斜面を逃げ降りていった。黒ずくめの手先たちも頭目の亡骸を残して散り散りに退いていく。谷底に残ったのは倒れ伏した数人の骸と、荒い息をつく三人だけとなった。乱戦は唐突に終わりを告げた。

 

妖夢は白楼剣の血を懐紙で拭って、静かに鞘へと収めた。

 

その所作を魔理沙がじっと見つめていた。妖夢が初めて人を斬るその瞬間を、魔理沙もまた見ていたのだった。魔理沙は箒を杖にしたまま、ゆっくりと妖夢のそばへと歩み寄ってくる。その顔からはいつもの軽薄な笑みが消えていた。

 

「……お前」

 

魔理沙が掠れた声で言った。

 

「初めてだったんだろ。人を斬ったの。お前の刀は血を流させたことがないって、前にそう言ってたじゃねえか」

 

妖夢は魔理沙のほうへ静かに向き直った。

 

「ええ。初めてでした。ですが後悔はしていません。あなたを守るために抜いた刃です。刀がどこを斬るかは、そのとき刀自身がいちばんよく知っている。私の主がそう教えてくれました」

 

魔理沙はしばらく言葉を失っていた。

 

やがてその口の端に、いつもの不敵な笑みが少しずつ戻ってくる。だがその笑みにはこれまでにない何かが混じっていた。感謝とも後ろめたさともつかぬ、複雑な色だった。

 

「……なあ、妖夢」

 

魔理沙がぽつりと言った。

 

「お前、なんでこんなことまでして俺を助けたんだ。取り立てに来たのか、それとも助けに来たのか。どっちなんだよ」

 

妖夢はその問いに静かに答えた。

 

「両方です」

 

そう言って妖夢はわずかに口元を緩めた。人里で取り立てを繰り返してきた冷徹な死神には、めったに見せぬ表情だった。

 

「借金は生きていないと返せませんから。あなたに死なれては白玉楼が困るのです。だから助けに来ました。そして取り立てにも来ました。今月分の利子がまだ届いていませんでしたので」

 

魔理沙はしばらく妖夢を見つめていた。

 

それから堪えきれなくなったように、声を上げて笑いだした。手負いの体を震わせながら、涙を滲ませるほど笑う。傷が痛むのか途中で何度も顔をしかめながら、それでも笑い続けた。

 

「はは……ははっ。お前ってやつは本当に――こんな山奥まで来て利子の催促かよ。幻想郷広しといえど、こんな取り立て人はお前くらいのもんだぜ。白玉楼の死神ってのは、どこまでも死神だな」

 

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

妖夢がそう応じると、魔理沙はまた笑った。

 

その笑い声を聞きながら、妖夢は胸のうちでようやく安堵していた。魔理沙は生きている。傷は負ったものの命に別状はない。あの軽口を叩ける限り、この魔法使いはまだ大丈夫だ。妖夢はそう思って、張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。

 

「魔理沙」

 

そこへアリスが静かに歩み寄ってきた。

 

人形たちを宙に漂わせたまま、その青い瞳で魔理沙の傷を確かめている。険しかった表情が戦いの終わりとともにわずかに緩んでいた。

 

「傷を見せて。肩の血がまた滲んでいる。無理に笑うから傷口が開くのよ。まったく、あなたはいつもそう。痛いのを笑って誤魔化そうとする」

 

「アリスこそ心配しすぎだぜ」

 

魔理沙が肩をすくめて言い返した。

 

「こんな傷、唾つけときゃ治る。それより、お前の人形のほうこそだいぶやられてただろ。あの信者ども、しつこかったからな」

 

「人形は直せるわ」

 

アリスが淡々と答えた。壊れた人形の一体を糸で手繰り寄せながら、その関節をそっと確かめる。

 

「壊れてもまた組み直せばいい。それが人形のいいところ。でも、あなたはそうはいかない。あなたの体は一つしかないの。だから無茶をしないで」

 

その言葉には友を案じる静かな熱がこもっていた。

 

妖夢は二人のやり取りを傍らで見守っていた。どの勢力にも属さず、ただ友のためだけに戦った人形遣い。その心には打算も義理もなく、ただ純粋な想いだけがあった。さとりが言っていた通りだった。この一件に群がる者たちのなかで、アリスだけが打算のない心で動いていた。そしてその純粋さゆえに退くことを知らず、ここまで身を投じてきたのだった。

 

「アリスさん」

 

妖夢はアリスへと向き直った。

 

「あなたが魔理沙さんのそばにいてくれて、本当に助かりました。あなたがいなければ、私が着くまで魔理沙さんは持ちこたえられなかったでしょう。礼を言います」

 

「礼など、いらないわ」

 

アリスはそっけなく答えた。だがその声にはどこか照れたような響きがあった。

 

「私はただ、友が危ういと知って来ただけ。それだけのこと。でも、あなたがとどめを刺してくれなければ、あの頭目には私たちも押し切られていた。だから礼を言うのはこちらのほうよ。あなたは初めて人を斬ってまで私たちを守ってくれた。その重さはわかっているつもり」

 

妖夢はその言葉に静かに首を振った。

 

「私は自分の主の債務者を守っただけです。それに――」

 

妖夢は倒れた頭目の亡骸へと視線をやった。乾いた地に広がった赤が、夕陽を吸ってなお濃さを増している。

 

「あの男を斬らなければ、あなたたちが斬られていた。ならば迷う理由はありませんでした」

 

三人がそう言葉を交わしていると、逃げ散る手先を追い払った藍と橙が、谷底をこちらへと歩み寄ってきた。

 

藍は九本の尾を悠然と揺らしながら、周囲に倒れた手先たちを冷徹な目で見回している。橙はその後ろに少し緊張した面持ちで従っていた。妖夢のそばまで来た藍は、まずその太刀筋の跡へと視線を向ける。

 

「見事な太刀筋だった、白玉楼の取り立て人」

 

藍が低く落ち着いた声で言った。

 

「あの頭目は並の遣い手ではなかった。荒事を生業としてきた者の剣だ。それを、初めて人を斬るというお前が仕留めた。我が主がお前を見込んだのも頷ける」

 

「八雲様は」

 

妖夢が問うと、藍は谷を見下ろす尾根の上を顎で示した。

 

「上で盤面の全体を見ておられる。散った手先が再び集まらぬように、退路もそこから見張っておられる。だが案ずるな。もうこの谷へ戻ってくる者はおるまい。頭目を失った烏合の衆に、再び群れる度胸などない」

 

藍はそう言うと、倒れた頭目の亡骸のそばへと歩み寄った。

 

その懐を探りながら、身元を示すようなものがないかを検めている。だがしばらくして藍は小さく首を振った。

 

「何もない。名も依頼状も、身元の知れるものは何一つ持っていない。念の入ったことだ。この男が誰の手の者かは、この骸からはたどれぬようだな」

 

「予想はしていました」

 

妖夢は静かに応じた。

 

「黒幕は決して尻尾を掴ませない。手先にも身元の知れるものは持たせないでしょう。だからこそ、この一件はこれほど厄介なのです」

 

そのとき魔理沙が藍のほうへと歩み寄った。箒を杖にしながら、足を引きずるようにして距離を詰める。

 

「なあ、八雲の狐さんよ」

 

魔理沙の声には警戒の色があった。

 

「あんたら八雲が、なんで俺を助けた。あんたの主が俺の運んでた荷を狙ってるのは知ってるぜ。助けるふりして荷を取り上げようって腹じゃねえのか」

 

藍はその率直な問いに動じなかった。

 

「否定はせん。我が主は確かにお前が運んだ荷を回収したがっている。それは隠すつもりもない。だが我が主は、白玉楼の取り立て人と一つ約束を交わした。お前を傷つけぬ、と。荷さえ戻れば、あとはお前の好きにさせる、と。我が主は交わした約束を違えるような、安い妖怪ではない」

 

妖夢はその言葉を静かに聞いていた。

 

地霊殿で確かに紫はそう約束した。魔理沙を傷つけない、荷さえ手に入ればそれでいい、と。そしてさとりが、その約束に嘘はないと保証したのだった。妖夢はその保証を信じることにしていた。だがそれでも、紫という妖怪を全面的に信じたわけではない。この管理者はあくまで荷を回収するために動いている。目指す先が今はたまたま同じ方向を向いているだけだった。

 

「荷、ね」

 

魔理沙が皮肉げに笑った。

 

「みんな、その荷を欲しがる。守矢も紅魔館を騙った奴も八雲も。俺が何を運んでたのか、俺自身は正確には知らねえってのに。笑えるよな。中身も知らねえ荷のせいで、俺はこんなに追い回されてるんだ」

 

その言葉に藍の表情がわずかに動いた。

 

だが藍はそれ以上、荷については語らなかった。ただ静かにこう告げただけだった。

 

「その荷のことは、我が主から追って話があるだろう。今は傷を癒すことだ。お前はじゅうぶんに戦った。これ以上は体が持つまい」

 

魔理沙は何か言い返そうとして、そこで大きくよろめいた。

 

張り詰めていたものが切れたのだろう。戦いの緊張が解けたとたん、傷の痛みと疲労が一気に押し寄せてきたようだった。アリスが素早く駆け寄ってその体を支える。妖夢もまた反対側から手を差し伸べた。

 

「魔理沙さん、しっかりしてください」

 

「……悪ぃ。ちょっと目眩がしただけだ」

 

魔理沙が掠れた声で言った。その顔からは血の気が引いている。

 

「肩の傷、思ったより深かったのかもな。……くそっ。締まらねえな。取り立て人に助けられた挙句、こんなところでぶっ倒れるなんて」

 

「無理をしすぎたのです」

 

妖夢は魔理沙の体を支えながら静かに言った。

 

「手負いのまま、あれだけ戦えば当然です。今は休むことです。ここは私たちが見張ります。あなたは安心して体を預けてください」

 

魔理沙はその言葉に力なく頷いた。

 

いつもの軽口を叩く気力も、もう残っていないようだった。妖夢とアリスは魔理沙を炭焼き小屋の中へと運び入れて、藁の上へと横たえる。アリスが手際よく傷の手当てを始めた。人形を扱う細い指がそのまま器用に晒を巻いていく。命を助ける手と命を奪う暗器を作る手が同じ一つの手であることを、妖夢は改めて思った。

 

小屋の外では藍と橙がなお周囲の警戒を続けていた。

 

やがて斜面の上から、日傘を差した紫がゆっくりと降りてきた。

 

戦いの終わった谷底を見回しながら、紫は満足げに微笑んだ。倒れた頭目の亡骸に一瞥をくれると、それから小屋のほうへと視線を移す。

 

「上から、ずっと見ていたわ」

 

紫が藍へとねぎらいの言葉をかけた。

 

「ご苦労さま、藍。橙もよくやったわ。おかげで包囲を崩せた。魔理沙は生きているのね」

 

「はい」

 

藍が恭しく頭を下げた。

 

「手負いではありますが、命に別状はございません。今、小屋の中で人形遣いが手当てをしております。それから、白玉楼の取り立て人があの頭目を仕留めました。初めて、その刃で人を斬って」

 

その報告に紫の目が妖夢のほうへと向けられた。

 

小屋から出てきた妖夢と紫の視線が合う。紫はしばらく妖夢を見つめていた。その飄々とした微笑みの奥に、何かを見定めるような鋭い光があった。

 

「そう。とうとう越えたのね。あなたの刀が、血を流させる一線を」

 

紫は静かにそう言った。日傘の柄を軽く傾けながら、なお妖夢を見据える。

 

「どんな気分? 初めて人を斬ったのは」

 

妖夢はその問いにしばらく答えなかった。

 

自分の胸の内を確かめるように間を置く。それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……不思議と静かです。恐れも後悔もありません。ただ一つの一線を越えたという、それだけの実感があります。私はこの刃を、魔理沙さんを守るために抜きました。それを忘れなければ迷うことはないと。私の主も、地霊殿のさとりさんもそう教えてくれました。その通りにしただけです」

 

紫はその答えに感心したように目を細めた。

 

「立派な心構えね。多くの者は初めて人を斬ったとき、その手応えに心を病むものよ。あるいはその快感に溺れてしまうか。どちらにも転ばず、ただ静かに受け止められる者はそう多くない。幽々子はいい弟子を持ったこと」

 

妖夢はその言葉に深くは応じなかった。

 

ただ静かに一礼した。紫の言葉が褒め言葉なのか、それとも別の意味を含んでいるのか判じかねたからだった。この管理者の言葉には常に幾重もの意味が潜んでいる。妖夢はそれを、この一件を通じて学んでいた。

 

紫は小屋のほうへと歩み寄った。

 

だがその入口の前で足を止めて、妖夢を振り返る。

 

「妖夢。魔理沙が落ち着いたら、あの子と話をしなければならないわ。荷のことを。あの子が何を運んだのか。それがなぜこれほどの騒ぎを呼んだのか。そして紅魔館の影に潜む黒幕のことを。すべての糸があの子の運んだ荷へとつながっている。あの子から話を聞かねば、この一件の核心にはたどり着けない」

 

「わかっています」

 

妖夢は頷いた。

 

「ですが今は休ませてやってください。魔理沙さんは限界まで戦いました。話は傷が落ち着いてからで、遅くはないはずです」

 

紫はその言葉に意外そうな顔をした。

 

それから、くすりと笑う。

 

「あなたは本当に律儀な子ね。債務者をそこまで気遣う取り立て人が、どこにいるのかしら。でもいいわ。あなたの言う通りにしましょう。急いては事を仕損じる。魔理沙はもう逃げも隠れもできない身。ゆっくり話を聞けばいい」

 

紫はそう言って、小屋の入口の脇に日傘を立てかけた。

 

日はすでに山の端へと沈みかけており、谷底には夕闇が忍び寄っていた。乱戦の終わった谷は嘘のように静まり返っている。倒れた者たちの骸を、藍と橙が黙々と片付けていた。この始末もまた裏社会の作法なのだろうと妖夢は思った。血を流し、骸を残し、それを誰かが片付けて、何事もなかったように夜が更けていく。それがこの幻想郷の裏側の、変わらぬ営みだった。

 

小屋の中では、アリスが魔理沙の手当てを終えていた。

 

魔理沙は藁の上で浅く目を閉じている。荒かった呼吸も今はいくぶん落ち着いていた。アリスがその傍らに座って、じっと友の寝顔を見守っている。妖夢はその光景を入口から静かに眺めていた。手負いの魔法使いと、それを守る人形遣い。二人だけで幻想郷のすべての勢力を相手取ってきたその戦いが、ようやく一区切りついたのだった。

 

「妖夢」

 

魔理沙が目を閉じたまま掠れた声で言った。

 

眠っていたわけではなかったらしい。妖夢は小屋の中へと入って、藁のそばへと膝をついた。

 

「まだ起きていたのですか。休んでください」

 

「ああ。もう少ししたら休むさ」

 

魔理沙は薄く目を開けて天井を見上げた。壁板の隙間から差し込む最後の夕光が、その横顔をぼんやりと照らしている。

 

「なあ、妖夢。俺、お前に礼を言ってなかったよな。ありがとう。お前が来てくれなきゃ、俺は今頃あの頭目に連れ去られてた。生きたままどこかへ運ばれて、それっきりだったろうよ。……お前は俺の命の恩人だ」

 

妖夢はその言葉に静かに首を振った。

 

「礼を言われるほどのことはしていません。私は白玉楼の債務者を守っただけです。それに、あなたにはまだ借金を返してもらわねばなりません。ここで死なれては困るのです。だから助けました。それだけのことです」

 

魔理沙はその答えに力なく笑った。

 

「……お前は本当に、そういう奴だな。どこまでも取り立て人だ。でもよ、妖夢。俺は知ってるぜ。お前が借金のためだけにここまで来たんじゃないってこと。お前は俺のことを心配してくれた。だから初めて人まで斬って、助けに来てくれた。……そうだろ?」

 

妖夢はその問いには答えなかった。

 

ただわずかに口元を緩めて、視線を逸らす。その反応こそが何よりの答えだった。魔理沙はそれを見て取ると、満足げに再び目を閉じた。

 

「……ま、いいさ。答えなくても。なあ、妖夢。この借金、ちゃんと返すからな。生きて返す。だからそれまで、お前は俺のことしっかり見張っとけよ。白玉楼の死神さんよ」

 

「ええ」

 

妖夢は静かに応じた。眠りかけた魔理沙の顔を、まっすぐに見つめながら言葉を継ぐ。

 

「必ず見張ります。あなたが借金を返し終えるまで。ですから生きてください、魔理沙さん。生きていれば借金はいつか返せます。死んでしまえばそれもできなくなる。だから生きてください。それが白玉楼の取り立て人としての、私の願いです」

 

魔理沙はその言葉に小さく頷いた。

 

その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。やがてその呼吸が規則正しい寝息へと変わっていく。張り詰めていた戦いの疲れが、ようやくその体を深い眠りへと沈めていったのだった。アリスがそっと魔理沙に上着を掛けた。妖夢はその寝顔をしばらく見守っていた。

 

小屋の外では、夜の帳が静かに降りはじめていた。

 

紫が小屋の入口に立って暮れゆく谷を眺めている。その傍らには藍と橙が控えていた。乱戦の跡はあらかた片付けられている。谷底にはもう血の匂いも骸の影も残っていない。ただ夜の冷気だけが谷を静かに満たしていた。

 

「魔理沙は眠ったようね」

 

紫が小屋から出てきた妖夢にそう声をかけた。

 

「今夜はここで夜を明かしましょう。魔理沙を動かすのは傷が落ち着いてからでいい。藍、橙。今夜は交代で見張りを。散った手先が戻ってくるとは思えないけれど、念のためよ」

 

「かしこまりました」

 

藍が頭を下げた。橙もその隣でこくりと頷く。

 

妖夢は谷を見下ろす岩へと腰を下ろした。夜空を見上げると、山の稜線の上に無数の星が瞬いている。地の底の闇を抜け、乱戦をくぐり抜け、そして初めて人を斬った。長い一日だった。妖夢は自分の右手をそっと見つめた。白楼剣を握り、初めて人を斬ったその手を。手のひらにはまだ、あの手応えが残っているような気がした。冷えた夜気に指先をさらしても、その感触は消えてくれない。むしろ夜の静けさのなかでこそ、それははっきりと蘇ってくるようだった。妖夢は静かに拳を握り、そしてまた開いた。

 

「疲れたでしょう」

 

いつの間にか、紫が妖夢の隣に立っていた。

 

「初めて人を斬るというのは、体よりも心を消耗するもの。でも、あなたはよく耐えた。あの一瞬、あなたが迷っていれば斬られていたのはあなたのほうだった。あるいは魔理沙だった。あなたは迷わなかった。それが、あの二人を生かしたの」

 

妖夢は夜空を見上げたまま静かに答えた。

 

「……迷わなかったのは、守るべきものがはっきりしていたからです。あの一瞬、私の頭にあったのは、魔理沙さんを死なせてはならないということだけでした。それだけが私の刀を動かしました」

 

紫はその答えにふっと微笑んだ。

 

「守るべきものがはっきりしている。それがあなたの強さね。この幻想郷では珍しいことよ。多くの者は守るべきものと奪いたいものとのあいだで、いつも揺れている。あなたのようにまっすぐな者はそういない。だからこそ、あなたはこの汚れた盤面の上で、数少ない濁りのない駒なのかもしれないわね」

 

その言葉に妖夢はわずかに眉をひそめた。

 

駒、という言葉が胸に引っかかった。紫にとって自分もまた、盤面の上の駒の一つなのだ。だがそれを口に出すことはしなかった。今はこの管理者と歩調を合わせるより、ほかに道はない。妖夢はそう自分に言い聞かせた。

 

「八雲様」

 

妖夢は話を変えるように口を開いた。

 

「明日、魔理沙さんの傷が落ち着いたら、あの人から話を聞くのですね。荷のことを。黒幕のことを」

 

「ええ」

 

紫が頷いた。膝に置いた日傘の柄を、指先で軽くなぞりながら言葉を継ぐ。

 

「魔理沙が運んだ荷。それがこの一件のすべての始まり。あの子から話を聞けば、紅魔館の影に潜む黒幕の輪郭も、もっとはっきりと見えてくるはず。さとりが読み取った、あの黒幕の心の臭い。紅魔館の裏方として長く報われずに生きてきた者。魔理沙に歪んだ執着を抱く者。その正体へと、あと一歩のところまで私たちは近づいている」

 

妖夢はその言葉を静かに噛みしめた。

 

紅魔館の影に潜む、名も知れぬ黒幕。その手先の一人を妖夢は今日斬った。だが黒幕そのものは依然として深い闇のなかにいる。今日の乱戦はこの一件の終わりではない。むしろ真の対決への始まりに過ぎないのだった。妖夢はそのことをはっきりと悟っていた。

 

夜が更けていった。

 

炭焼き小屋の中では、魔理沙が静かな寝息を立てている。その傍らではアリスがまんじりともせず友を見守っていた。小屋の外では藍と橙が交代で夜の見張りに立っている。紫は岩に腰を下ろして、日傘を膝に置いたまま暮れた谷を眺めていた。そして妖夢は刀を抱えるようにしながら、星空の下に座っていた。

 

長い一日が終わろうとしていた。

 

魔理沙は生き延びた。手負いではあったが命は無事だった。妖夢の刀は初めて血を流させたが、その一線を妖夢は迷わずに越えた。守るべきもののために。そしてこの一件の核心へと、あと一歩のところまで彼らは近づいていた。すべての糸はいま一点へと収束しつつある。魔理沙の運んだ荷。紅魔館の影に潜む黒幕。その正体が明かされる日は、もう遠くなかった。

 

北の山の夜は深く静かだった。

 

だがその静けさの底で、幻想郷の均衡はなお崩れ続けている。今日の乱戦はその崩壊の、ほんの一場面に過ぎなかった。真の対決はこれから来る。名も知れぬ黒幕がその顔を現す日が。妖夢は星空を見上げながら、その日のことを思った。そのとき自分の刀は再び抜かれるのだろうか。誰を守るために。誰を斬るために。

 

星が山の稜線の上で静かに瞬いていた。

 

妖夢は眠る魔理沙のいる小屋のほうを、そっと振り返った。あの魔法使いを生かして白玉楼へ連れ帰る。そして借金を返させる。それが取り立て人としての自分の務めだった。だがそれ以上に妖夢は、ただ純粋に魔理沙に生きていてほしいと願っていた。あの軽口をまた聞きたかった。白玉楼の死神と笑いながら呼んでくれる、あの声を。

 

その願いのために、妖夢は初めて人を斬ったのだった。

 

そしてその一線を越えたことを妖夢は後悔していなかった。誰を守るために刀を抜くのか。それさえ忘れなければ迷うことはない。幽々子が、さとりがそう教えてくれた。妖夢はその教えを、この北の山中で確かに我が身で証明したのだった。

 

夜が静かに更けていった。

 

明日になればまた、新たな一日が始まる。魔理沙から話を聞き、荷の正体を知り、黒幕の輪郭へとさらに一歩近づいていくだろう。だが今夜だけは、妖夢はただ静かにこの一日の終わりを噛みしめていた。生き延びた魔理沙の寝息を聞きながら。初めて人を斬ったその手を見つめながら。北の山の深い夜のなかで。

 

幻想郷の闇は、なお深くその底へと続いていた。

 

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