幻想郷アウトレイジ ―白玉楼の帳簿―   作:たこ焼き 龍月

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第八章 全員悪党、流血の証明

 

北の山を降りてから三日が過ぎていた。

 

魔理沙の肩の傷はアリスの手当てと永遠亭から取り寄せた薬とによってどうにか塞がりつつあり、まだ腕を高く上げることこそできないものの、自分の足で歩けるまでには回復していた。妖夢はその三日のあいだ片時も魔理沙のそばを離れず、白玉楼へと連れ帰るその道中でも常に背後を警戒し続けた。黒幕の手先が再び現れる気配はなかったが、静けさがかえって不気味に感じられる。嵐の前の凪のような、張り詰めた静寂だった。

 

北の山中でともに戦ったアリスは、白玉楼までの道のりを半ばまで見送ったところで、ふと足を止めた。人形たちを宙に漂わせたまま、その青い瞳で魔理沙を見つめる。私はここまでよ、と静かに告げるその声には、どの勢力の集まる場へも自分は加わらぬという、孤高の者らしい線引きがあった。魔理沙が何か言おうとするのを、アリスは首を横に振って遮った。あなたが生きて帰れたのなら、それでいい。私の役目は済んだの。そう言い残すと、人形遣いは色づいた山の木々のなかへと溶けるように姿を消していった。妖夢はその後ろ姿を見送りながら、どの勢力にも属さず、ただ友のためだけに身を投じたその生き方に、この一件でいちばん濁りのない心を見た気がした。

 

白玉楼の広間には、すでに客が集まりつつあった。

 

西行寺幽々子が招いたのは、この一件に関わってきた各勢力の代表たちである。魔理沙が生き延びて真実を語ると知れ渡ったことで、それぞれが自らの立場を確かめるためにこの席へと足を運んできたのだった。妖夢は魔理沙を支えながら広間の敷居をまたいで、集まった顔ぶれを静かに見回した。

 

上座には桜色の着物をまとった幽々子が座している。

 

その右手には日傘を膝に置いた八雲紫が控え、背後には藍が影のように付き従っていた。左手の席には守矢を代表して東風谷早苗が青ざめた顔で座っており、その隣には地霊殿から遣わされた古明地さとりが第三の眼を静かに閉じたまま端座している。そして広間の中ほどには、紅魔館を代表して十六夜咲夜が背筋を伸ばして座していた。

 

その咲夜の姿を認めたとき、妖夢の胸がわずかにざわめいた。

 

紅魔館の名を騙った黒幕がこの一件の核心にいる以上、その館から遣わされた咲夜がどのような顔でこの席に臨むのか、妖夢には測りかねていた。だが咲夜の表情はいつもと変わらず氷のように静かで、その内に何を秘めているのかを窺わせなかった。ただその視線が魔理沙の巻かれた包帯へと向けられたとき、その氷の奥にかすかな揺らぎが走ったのを妖夢は見逃さなかった。霧の湖で刃を交える寸前まで対峙したあの夜から、この二人のあいだには敵とも味方ともつかぬ奇妙な絆のようなものが芽生えていた。互いに手練れと認め合った者だけが分かち合える、無言の了解だった。

 

妖夢は魔理沙を上座に近い席へと座らせてから、その斜め後ろに控えるように腰を下ろした。

 

半霊が不安げに肩のあたりで揺れているのを、妖夢は一つ息を吐いてなだめた。この広間に集まった者たちは、つい先日まで互いに魔理沙を奪い合っていた勢力の代表なのだ。守矢は口封じのために彼女を追い、八雲は荷を回収するために動き、紅魔館の名を騙った黒幕は彼女を消そうとした。その全員がいま一つの広間へと収まっているという事実そのものが、薄氷の上に成り立つ危うい均衡を物語っていた。

 

「よく集まってくれたわね」

 

幽々子が、いつもの読めぬ微笑みを浮かべて口を開いた。

 

「今日は取り立ての話ではないの。もっとも、私の稼業からすればどんな話も最後は取り立てに行き着くのだけれど。今日はこの子に――霧雨魔理沙に、その口から真実を語ってもらおうと思って」

 

その言葉に広間の視線が一斉に魔理沙へと集まった。

 

魔理沙は座ったまま、痛む肩をかばいながらも背筋を伸ばした。誰にも寄りかからずに自分の言葉で語ろうとするその構えは、山中の乱戦のときと少しも変わっていなかった。傷を負ってなお折れることを知らぬその芯が、この魔法使いをただの逃亡者ではないものにしていた。魔理沙は集まった顔ぶれをゆっくりと見回してから、掠れた声で語りはじめた。

 

「みんなが欲しがってた荷ってのは、一冊の帳簿の写しだ」

 

広間の空気が張り詰めるのを妖夢は肌で感じた。

 

「幻想郷の裏で誰がどんな汚れ仕事をしてるか、その全部が書き込まれた帳簿の写しさ。守矢の御神体が実は俺の調達品だったこと。八雲が結界の名目でどれだけの物を境界の向こうへ捨ててるか。永遠亭がどんな薬を作ってるか。博麗の賭場にどれだけの金が転がり込んでるか。そういう各勢力の不正が、余すところなく記されてる」

 

早苗が息を呑む音が聞こえた。

 

守矢の秘密がこの場で名指しされたことに、その顔からますます血の気が引いていく。早苗はもともと信仰のために人を殺めようとした神社に愛想を尽かして袂を分かった身であり、こうして守矢の名を背負ってこの席に座らされていること自体、彼女には耐えがたい苦役であったのだろう。だが魔理沙はそこで言葉を切ると、いっそう声を低めて続けた。ここからが本題だとでも言うように。

 

「だがな、みんなが本当に恐れてたのはそこじゃねえ。その帳簿にはもう一つ、別の企みの証拠が書き込まれてたんだ」

 

「別の企み」

 

紫が静かにその言葉を繰り返した。

 

飄々としたその物腰の奥で、管理者の目がわずかに鋭さを増したのを妖夢は見て取った。魔理沙は頷いて、懐から一枚の紙片を取り出した。焼け焦げて端の欠けたそれは、あの荒れた小屋から命がけで持ち出したものの一部なのだろう。

 

「紅魔館の名を騙ってる誰かが、幻想郷の利権を丸ごと作り替えようとしてる。各勢力の均衡をわざと崩して、その混乱に乗じて全部を自分の手に握ろうって企みだ。しかもそいつは、それをレミリア・スカーレットの名を借りてやろうとしてる。当のレミリアには一言も知らせずにな。……面白えのはよ、その書きぶりだ。館の内側の細けえ事情まで知り尽くしてやがる。今そこにいる連中じゃ知りようのねえ古い話までな。まるで、昔その館にいた奴が書いたみてえに」

 

その言葉が広間に落ちた瞬間、場の空気が凍りついた。

 

咲夜の表情が初めて動いたのを妖夢は正面から見た。氷の仮面に亀裂が走るように、その端整な顔が険しく強張っていく。膝の上に置かれたその手が、着物の生地をきつく握りしめていた。長く紅魔館のメイド長として館の表と裏の一切を取り仕切ってきた咲夜にとって、主の名が主の与り知らぬところで使われていたという事実は、自らの職分そのものを根底から否定される一撃であったに違いなかった。

 

「……続けて」

 

咲夜が絞り出すように言った。その声には抑えきれぬ震えが滲んでいる。

 

「その帳簿には、その企みを進めている者の正体まで書かれているのですか」

 

魔理沙は首を横に振った。

 

「名前まではっきり書かれちゃいねえ。だが、そいつがどんな奴かの手がかりは残ってる。かつて紅魔館に長く仕えながら、決して表には立てなかった者。いつも日の当たる場所を誰かに譲って、影で館を支えて――そして最後には、その館から弾き出された者。そういう奴が、追われた恨みを長い年月をかけて煮詰めて、この企みを練り上げてきたんだ。しかも今度は、どこか別の後ろ盾を手に入れてる。一人じゃ足りねえ力を、誰かが横から貸してやがるんだよ」

 

その言葉に、これまで静かに目を閉じていたさとりが、そっとその第三の眼を開いた。

 

「その像は、私が依頼の文から読み取ったものと寸分違わず重なります」

 

さとりの声は地の底で妖夢が聞いたときと同じく、どこまでも静かでありながら底知れぬ響きを帯びていた。第三の眼が広間の一同を順に見渡していく。誰の心の内をも見通すその眼の前で、集まった代表たちが一様にわずかに身を硬くしたのを妖夢は感じ取った。心を読まれるということは、隠している弱みを見透かされるということだ。この場にいる誰一人として、さとりに読まれて痛くない腹を抱えている者はいなかった。

 

「お空を動かして魔理沙を襲わせた依頼主。地霊殿の力すら知り尽くし、人の心を塗りつぶす術を心得た者。そしてその心の奥には、魔理沙への歪んだ執着が澱のように沈んでいました。長く報われずに影で生きて、そして最後には弾き出された者が抱く、捻れた独占欲です。ただ荷を奪いたいのでも、口を封じたいのでもない。あの子という存在そのものを、自分の手の内に収めたいと願っている。もしそれが叶わぬのなら、いっそ壊してしまいたいと。そういう暗く捻れた思いです」

 

さとりはそこで一度言葉を切って、第三の眼をわずかに細めた。

 

「そして、魔理沙さんが言った通りです。あの依頼主の力は、あの者一人のものではありません。心を塗りつぶす術も、地霊殿へ依頼を通す伝手も、あれほどの実働の者を集める金脈も、館を追われた一個の亡霊が独りで抱えられるものではない。背後に、それを与えている別の手があります。誰かが影から、あの者に力を貸している。その後ろ盾の輪郭までは、まだ私にも読み切れておりませんが」

 

咲夜が、弾かれたように立ち上がった。

 

「そんなはずはありません」

 

その声はもはや氷ではなく、抑えきれぬ怒りに震える炎だった。妖夢はこれまで咲夜がこれほど感情を露わにするのを見たことがなかった。霧の湖で対峙したときの、あの隙のない静けさとはまるで別人だった。所作の一つ一つが磨き上げた刃のように隙がないと評されたこのメイド長が、いま全身を震わせている。

 

「お嬢様の名を勝手に使って、そのような企みが進んでいたなど……私はメイド長として、今の館にいる者のことなら、その息遣いのひとつまで把握しているつもりでした。ですが……もしその者が、もう館にいない誰かだとしたら。私が仕えるより前に、あるいは私の知らぬ時期に弾き出された誰かだとしたら。それは、私の目の届く外の話です。私にはどうしても、遡って見張ることのできなかった影……」

 

「あなたが把握していたのは、今この館にいる者たちのことでしょう」

 

さとりが静かに告げた。その言葉に咲夜が言葉を失う。

 

「けれど黒幕が根を張っていたのは、あなたが仕えるより前の時代です。かつて館にいて、そして去っていった者の記憶のなか。あなたはその者を一度も見たことがない。だからこそ、いくら現在の館を隅々まで見張ったところで、あなたの目には映りようがなかった。あなたを責めているのではありません。ただ、そういう時の隔たりがあったというだけのことです。あの者はレミリアに切り捨てられ、館の表からも裏からも消された。消されたはずの者が、外で力を蓄えて、いま館の名を借りて戻ってきた。誰もその帰還を想定していなかった。それこそが、この企みが長く露見しなかった理由なのです」

 

咲夜はしばらく立ち尽くしたまま、拳を握りしめていた。

 

やがてその体から力が抜けるように、再び席へと腰を下ろす。だがその横顔には、これまでの職業的な冷静さとはまるで異なる、深く傷ついた者の翳りが刻まれていた。主の名を盗まれ、自らの忠義そのものを踏みにじられたことへの怒りと屈辱が、その氷の下で静かに燃えている。妖夢はその姿に、この一件が咲夜にとっても他人事ではなくなったことを悟った。

 

咲夜という刃の強さは、主への忠義を一切問わずに貫くところにあった。命令の理由を問わず、知らないほうがいいことは知らずにおく。それが彼女の職業的な線引きであり、忠義の一形態でもあった。だがその線引きは、主が自らの手で過去に切り捨てた者が牙を剥いていると知れた瞬間、意味を失う。守るべき主の名を、よりにもよってその主が追放した者が勝手に使う。それは咲夜にとって自分自身が踏みにじられること以上に許しがたい侮辱だった。ここで初めて、彼女の受け身の忠義は能動的な怒りへと変わっていた。妖夢にはそれが手に取るように分かった。

 

「ねえ、咲夜さん」

 

そのとき紫が、思いがけず柔らかな声で咲夜へと呼びかけた。

 

「レミリアは、このことを知っているのかしら」

 

咲夜はゆっくりと顔を上げて、はっきりと首を横に振った。

 

「いいえ。お嬢様は何もご存じありません。お館様の名がこのように使われていることも、館の内に別の筋が動いていることも。もしお嬢様がお知りになれば……」

 

「荒れるでしょうね」

 

紫が言葉を引き取った。その口元にかすかな笑みが浮かんだものの、その目は少しも笑っていなかった。

 

「五百年ものあいだ、自分の館は自分がすべて把握していると信じてきた者よ。館の内側なら、塵の一粒までも見張ってきたのでしょうね。でも――その館から外へ弾き出した者のことを、あの子は一度でも振り返ったかしら。切り捨てたものは終わったものと決めつけて、背中を向けたまま忘れていく。それがあの誇り高い吸血鬼のやり方。人の悪意を上から見下ろすことには長けていても、自分が踏み潰して外へ追いやった者の胸に何が育つのかを、覗き込む習慣を持たない。それがあの子の傲慢であり、同時にいちばんの死角なのだけれど」

 

紫のその言葉には、どこか他人事とは思えぬ響きがあった。

 

盤面を読み切る管理者としての自負を抱く紫自身もまた、その盤面に見えない駒が紛れ込んでいたことに気づけなかった。レミリアの死角を語る紫の言葉は、そのまま自らの死角をも撫でていたのだ。妖夢はその皮肉に気づいていたが、口には出さなかった。この管理者の言葉には常に幾重もの意味が潜んでいる。それをこの一件を通じて妖夢は学んでいた。

 

その言葉が予言のように広間へと響き渡ったちょうどそのとき、廊下のほうから足音が近づいてきた。

 

妖夢が振り返ると、開け放たれた広間の入口に、いつのまにか一人の小柄な影が立っていた。

 

深紅のドレスをまとい、背に蝙蝠の羽を畳んだその姿を、妖夢はすぐにそれと知れた。紅魔館の当主レミリア・スカーレットだった。招かれざる客の登場に広間が静まり返る。咲夜が慌てて立ち上がろうとするのを、レミリアは手で制した。

 

「そのままでいい、咲夜」

 

レミリアの声は落ち着いていた。だがその落ち着きが、かえって不穏な緊張を広間へと運んでくる。

 

「話は廊下で聞かせてもらったわ。私の名を騙って幻想郷をひっくり返そうとしている者がいる。しかもその者は、私に決してそれを悟らせぬよう立ち回っていた。私の館のことを、私と同じくらい知り尽くした手つきでね。そういうことね」

 

誰も答えなかった。

 

答える必要がなかったからだ。レミリアはゆっくりと広間の中へと歩み入って、その紅い瞳で一同を見回した。その瞳の奥にどのような感情が渦巻いているのか、妖夢には読み取れなかった。だが五百年を生きた吸血鬼が今まさに、自らの統治の前提そのものを揺るがす一撃を受け止めようとしていることだけは、痛いほどに伝わってきた。招く相手を選び、席次を決め、どの品をどの卓へ回すかを采配することで幻想郷の裏取引を格付けしてきたこの当主にとって、館の采配とは支配そのものだった。だが今その根幹を蝕んでいるのは、館の内側をすり抜けられたという話ではなかった。もっと古く、もっと深い場所からの一撃だった。かつて自らの手で切り捨て、館の外へと追いやった誰か。終わったものと決めつけて背を向けた者が、消えずに生きて、いま自分の名を握って戻ってきた。その予感がこの吸血鬼の根幹を静かに凍らせていた。

 

「レミリア」

 

幽々子が上座から静かに声をかけた。

 

「あなたが自分の足でここへ来たということは、もう半ば答えを知っているということね。その帳簿に記された影の者。あなたには、心当たりがあるのではなくて?」

 

レミリアの足が、そこで止まった。

 

その横顔から、初めて表情というものが抜け落ちていくのを妖夢は目の当たりにした。それは恐怖ではなかった。怒りでも動揺でもない。もっと根の深いところで、これまで揺らいだことのなかった何かが足元から崩れていく――そういう類の空白だった。五百年築き上げてきた自負が、いま音もなく抜け落ちていく。その感覚がその端整な顔から一切の色を奪っていた。

 

レミリアは長いあいだ、口を開かなかった。

 

その沈黙こそが何よりも雄弁だった。心当たりがない者は、こんな顔をしない。誰の顔が脳裏に浮かんだのか。かつて長く館に仕えながら決して表舞台に立たず、いつも日の当たる場所を主へと譲り続け、そして最後には館から追われていった影の者。その像に重なる誰かの顔を、レミリアは今この瞬間に思い浮かべているのだ。妖夢にはそれがはっきりと分かった。だが誰もその名を口にしなかった。名を口にした瞬間、それは確証のない断罪へと変わってしまうからだ。それに、この場でその名を言い当てられる者は限られていた。今の館しか知らぬ咲夜にも、その古い影の顔は見えていない。見えているのは、主レミリアと――そして、すべての心を読むさとりだけだった。

 

さとりだけが、その第三の眼を伏せたまま、静かに沈黙を守っていた。

 

妖夢は気づいていた。さとりはすでにその名を読み取っている。だが決して口にしようとはしない。すべての心を読めるがゆえに、この妖怪は誰よりも早く真実に辿り着きながら、それを告げることの重さをも誰より深く知っていた。その横顔には、真実を独りで抱え込む者だけが纏う、静かな孤独が滲んでいた。

 

「……名は、まだ言わないわ」

 

やがてレミリアが、絞り出すように言った。

 

「確証がない。ただの疑いだけで、名を口にするわけにはいかない。それに――もし私の思い浮かべた者がその黒幕だとしたら、責めの半分は私にあるの。あれを切り捨てたのは、ほかならぬ私だから。館のために尽くしながら、決して光の当たる場所を与えられなかった者。私はその働きを当然のものとして受け取り、用が済めば外へ追いやった。振り返りもせずにね。その者がどんな思いで館を去ったのか、私は一度も考えたことがなかった。もしその恨みがこの企みを生んだのなら……これは裏切りの話ではないのかもしれない。私が蒔いて、忘れた種の話なのかもしれない。それが……それが、私に残された最後の矜持だから。せめて、確かめるまでは名を呼ばない。あれを断罪する前に、私は自分が何を切り捨てたのかを、思い出さなければならないの」

 

その声には、これまでの傲然とした響きがまるでなかった。

 

ただ一人の、深く傷ついた者の声だった。館を統べる貴族の仮面の下から、初めてその素顔が覗いたようだった。咲夜がその主の姿を見て、こらえきれぬように顔を伏せる。長く仕えてきたメイドにとっても、主のこのような姿を見るのは初めてのことなのだろう。氷のような忠僕が、いま主の痛みを我が痛みとして噛みしめているのが、その伏せた横顔から妖夢にも伝わってきた。

 

広間に重い沈黙が降りた。

 

その沈黙のなか、妖夢はふと魔理沙のほうへと目をやった。この一件のすべての中心にいながら、魔理沙自身は驚くほど静かにその成り行きを見つめていた。自分を消そうとした者への恐れも、追い回された恨みも、その顔には浮かんでいない。ただこの幻想郷の裏側で蠢く者たちを、どこか醒めた目で眺めている。誰の駒にもならず、金にも義理にも縛られずに生きてきた魔理沙だからこそ、この権力争いの醜さを一歩引いたところから見られるのだろうと妖夢は思った。

 

その沈黙を破ったのは幽々子だった。桜色の着物の裾をさばいて、ゆっくりと一同を見渡す。その微笑みはいつもと変わらぬはずなのに、そこにはこれまでにない冷たい淵が覗いていた。幻想郷の表と裏を結ぶ金の流れのすべてを一冊の帳簿に収め、契約と筋には一切の妥協を見せぬこの金貸しの元締めが、いま静かに一同を裁こうとしていた。

 

「皆、自分の足元すら把握できていない」

 

幽々子は静かにそう告げた。

 

「レミリアは自分の館の中を。守矢は自分の信者たちを。八雲でさえ、盤面のどこかに見えない駒が紛れ込んでいたことに気づけなかった。誰もが幻想郷を動かしているつもりでいて、その実、自分のすぐ足元で何が蠢いているのかさえ知らずにいた。それがこの一件で剥き出しになった真実よ」

 

その言葉に、広間の誰もが押し黙った。

 

紫でさえ、その皮肉に反論しなかった。管理者たる自分が盤面を読み切れていなかったという事実は、この場にいる誰よりも紫自身の矜持を刺していたはずだった。だが紫は日傘の柄を指先でなぞりながら、ただ静かにその言葉を受け止めていた。早苗もまた、守矢の暴走を止められなかった己を思ってか、深くうつむいている。それぞれが幽々子の言葉のなかに、自らの足元の暗がりを見出していた。

 

「私たちは幻想郷の秩序を保っているのだと、誰もが信じている」

 

幽々子は続けた。

 

「異変を裁き、信仰を集め、境界を管理し、金を回す。それぞれがそれぞれの持ち場で、この郷を支えているのだと。けれどその秩序とやらは、しょせん悪党同士の均衡に過ぎない。誰もが誰かの弱みを握り、誰もが誰かに弱みを握られている。だからこそ、迂闊には動けない。その膠着こそが平和と呼ばれているだけのこと。今回の一件は、その均衡がいかに脆いものかを、私たち全員に思い知らせたのよ。一人の逃亡者が握った一冊の写しだけで、これだけの勢力が右往左往した。それがこの幻想郷の底の浅さというもの」

 

その言葉は広間に集まった全員の胸へと、静かに突き刺さっていった。

 

「そして」

 

幽々子は視線を魔理沙へと移した。

 

「この子は、その全員の足元を明るみに出した。誰も見たくなかったものを、その身を張って引きずり出してみせた。傷だらけになりながらね。皮肉なものよ。幻想郷でいちばん筋の通らない借金取りの逃亡者が、いちばん筋を通してみせたのだから」

 

魔理沙が、その言葉に苦笑した。

 

「褒められてんのか、けなされてんのか分かんねえな」

 

「褒めているのよ」

 

幽々子がくすりと笑った。

 

「もっとも、だからといって借金が消えるわけではないけれど」

 

その一言に、張り詰めていた広間の空気がわずかに緩んだ。

 

魔理沙が声を上げて笑い、痛む肩を押さえながらも、いつもの不敵な笑みを取り戻す。妖夢はその姿を見て、ようやく胸のうちで安堵した。あの軽口が戻ってきた限り、この魔法使いはもう大丈夫だ。山中で交わした約束が果たされようとしている。魔理沙は生きて、こうして自分の足で立っている。取り立てに来たのか助けに来たのかと問われて、両方だと答えたあの谷底の光景が、妖夢の胸に静かに甦った。

 

「なあ、幽々子さん」

 

魔理沙が笑いを収めて、ふと真顔になった。

 

「一つだけ言わせてくれ。俺はこの帳簿を、誰かを陥れるために持ち出したわけじゃねえ。金儲けのためでもねえ。ただ、俺だけが通れる抜け道があって、たまたまこいつが俺の手に転がり込んだ。それだけのことだ。中身が何なのかも、正確には知らなかった。知ってたら、こんな面倒なもの、とっとと燃やしてたかもしれねえな」

 

「けれど、燃やさなかった」

 

幽々子が静かに言った。

 

「ああ。燃やさなかった」

 

魔理沙は自分の手のなかの焼け焦げた紙片を見つめた。

 

「なんでかは、自分でもよく分からねえ。ただ、これを燃やしちまったら、この郷の連中は誰も自分の足元を見ずに済むんだろうなって、そう思ったんだ。みんな、都合の悪いものには蓋をして、何事もねえ顔で暮らしてる。だったら一度くらい、その蓋を開けてやってもいいんじゃねえかって。……まあ、そのおかげでこのざまだけどな」

 

魔理沙は包帯の巻かれた肩をひょいと持ち上げてみせて、痛みに顔をしかめた。

 

その言葉に、広間の空気が奇妙に静まった。誰の駒にもならぬこの魔法使いだけが、この場で唯一、私欲のない動機で動いていた。各勢力がそれぞれの利害のために魔理沙を奪い合っていたなか、当の魔理沙だけは、ただ蓋を開けてみたかったという、それだけの理由でこの一件の発端に立っていた。その純粋さが、かえってこの権力争いの醜さを際立たせていた。

 

「では」

 

幽々子が締めくくるように口を開いた。

 

「この一件は、ひとまずここで幕を引きましょう。魔理沙は白玉楼が預かるわ。借金を返し終えるまでね。守矢の御神体のことも、八雲の稼業のことも、この帳簿に記されたことは互いに握り合ったまま、しばらくは触れずにおく。それが均衡というものよ。誰もが弱みを握られているからこそ、誰も動けない。皮肉だけれど、それがこの幻想郷を保ってきた唯一の理屈なの」

 

一同がそれぞれの思いを胸に、静かに頷いた。

 

早苗が意を決したように口を開いた。

 

「一つ、よろしいでしょうか」

 

その声はまだ青ざめてはいたものの、芯の通った響きを取り戻していた。信仰のために人を殺めて守る神社に守る値打ちはないと言い放って袂を分かった、あの覚悟がその声には宿っていた。

 

「守矢は……いえ、私は、魔理沙さんを追った信者たちの暴走を止められませんでした。神奈子様が指示した保護は、いつのまにか口封じへと転がり落ちていた。私はそれを止めるどころか、気づくのすら遅れた。この場を借りて、魔理沙さんに謝らせてください。本当に、申し訳ありませんでした」

 

早苗が畳に手をついて深く頭を下げた。

 

その素直な謝罪に、広間の誰もが虚を突かれたようだった。この裏社会の権力者たちが集う席で、頭を下げて謝るという行為そのものが、あまりに場違いで、そしてあまりに真っ直ぐだった。魔理沙はしばらくきょとんとした顔をしていたが、やがて肩をすくめて笑った。

 

「気にすんな、早苗さん。あんたが袂を分かったってのは聞いてる。人を殺めてまで守る信仰なんざ守る値打ちがねえって、あんたはそう言ったんだろ。だったら、あんたは筋を通したんだ。頭を下げるのは、あんたじゃなくて、暴走した連中のほうさ」

 

早苗が顔を上げた。その目にわずかに涙が滲んでいた。

 

妖夢はそのやり取りを見つめながら、この早苗という娘もまた、この一件のなかで数少ない、筋を捨てなかった者の一人なのだと思った。信仰のために血を流させて隠そうとした神社を、彼女は自らの手で断ち切った。血を流させてまで隠す者と、血を流してでも筋を通す者。その対比のなかで、早苗は確かに後者の側に立っていた。

 

だが妖夢は同時に、この和やかさが一時のものに過ぎないことも知っていた。

 

これは終わりではない。館を追われたあの影は、依然としてその顔を闇の中に隠したままなのだ。魔理沙という獲物を取り逃がし、しかもその企みの一端を白日の下に晒された今、その者が黙って引き下がるはずがなかった。歪んだ執着を抱えた者は、理屈では動かない。妖夢の脳裏に、地の底で聞いたさとりの言葉が甦る。打算だけの相手なら取引の余地もあるけれど、執着に取り憑かれた相手には理屈が通じない、と。

 

会が解散へと向かうなか、妖夢はさとりのそばへと歩み寄った。

 

「さとりさん」

 

妖夢は声をひそめて問うた。

 

「あなたは、もう分かっているのではありませんか。黒幕が――かつて紅魔館を追われたその者が、誰なのか」

 

さとりはしばらく妖夢を見つめてから、静かに答えた。

 

「読めています。あの依頼の文に沈んでいた心の臭いから、その者が誰であるかを。そして、それがすでに館にいない者であることも」

 

妖夢の胸が跳ねた。

 

「では、なぜそれをこの場で明かさないのですか。名を告げれば、この一件は終わるのに」

 

「終わりはしません」

 

さとりは静かに首を振った。

 

「名を告げたところで確証にはならない。私が心を読んだというだけでは、この場の誰も納得はしないでしょう。それに――今その名を口にすれば、レミリアが自らの手であの者を裁こうとする。かつて自分が切り捨てた者を、もう一度自分の手で断つことになる。あの吸血鬼はいま、これは裏切りではなく自分が蒔いた種かもしれないと気づきはじめています。その負い目を抱えたまま名だけを突きつけられれば、あの誇り高い者は壊れてしまう。それはあまりに酷い幕切れです。だから私はまだ、誰にも教えません。時が満ちるまで」

 

妖夢はその答えに言葉を失った。

 

さとりは誰よりも先に真実へ辿り着いていながら、それを胸の内にひとり抱え込もうとしている。すべての心を読めるがゆえの重荷を、この静かな妖怪はひとりで背負おうとしているのだ。妖夢はその横顔に、これまで感じたことのない深い孤独を見た。誰の心も読めるということは、誰にも心を分かち合えぬということでもある。さとりが妖夢の隠し事のない心を珍しいと評し、ほのかな親愛を寄せたのは、おそらくこの孤独ゆえなのだろうと妖夢は思った。

 

「妖夢さん」

 

さとりがふと、その第三の眼を妖夢へと向けた。

 

「あなたの心は、相変わらず澄んでいますね。この一件でこれほど多くの血と欲を見てきたのに、その芯は少しも濁っていない。初めて人を斬ったというのに、その手応えに溺れることも、その罪に押し潰されることもなく、ただ静かに受け止めている。珍しいことです。この幻想郷では、本当に珍しいこと」

 

妖夢は静かに首を振った。

 

「濁らずにいられたのは、守るべきものがはっきりしていたからです。私が刀を抜いたのは、魔理沙さんを守るためでした。それさえ忘れなければ、迷うことも、溺れることもありません。それだけのことです」

 

「それだけのことが、いちばん難しいのですよ」

 

さとりが、かすかに微笑んだ。

 

その微笑みは、地の底で妖夢の心を珍しいと評したときと同じ、ほのかな親愛を帯びていた。すべての心を見通す妖怪が、濁りのない一つの心にだけ寄せる、静かな慈しみだった。

 

「ただ一つだけ、言っておきます」

 

さとりが表情を改めた。

 

「この一件は、まだ終わっていません。黒幕は必ずもう一度動きます。魔理沙を諦めきれないから。地霊殿という手駒を失い、企みの一端を晒された今、あの者はいっそう追い詰められている。追い詰められた執着ほど、恐ろしいものはありません。そのとき、あなたの刀はまた抜かれることになるでしょう。覚悟をしておきなさい、白玉楼の取り立て人」

 

さとりはそこで、声をいっそう低めた。

 

「それと――もう一つ。あの追放者の背後で糸を引く手のことです。あの者に力を貸している後ろ盾。私が読み切れなかったその影は、館を追われた亡霊などよりずっと厄介な相手です。おそらくは、自らは決して手を汚さず、他人の恨みや欲を駒として動かすことに長けた者。この幻想郷で、そういう真似ができる勢力は限られています。天狗の情報網か、あるいは金では曲がらぬ生死の裁定を握る者か。それとも、依頼を受けるのではなく依頼主すら選ぶ、あの花の管理者か。……いずれにせよ、追放者を斬ったところで、その後ろ盾が消えるわけではない。むしろ本当の相手は、その先にいるのかもしれません」

 

妖夢はその言葉に、背筋がひやりと冷えるのを感じた。

 

館を追われた影の、そのまた奥に潜む手。この一件は自分が思っていたよりも、はるかに根が深いのかもしれなかった。だが妖夢は静かに頷いた。どれほど根が深かろうと、守るべきものが変わらぬ限り、抜くべき刀の向きも変わらない。それだけは確かだった。

 

妖夢は静かに頷いた。刀の柄へと、そっと手を添える。

 

その手のひらには、北の山で初めて人を斬ったあの手応えが、いまなお消えずに残っていた。だがもはや妖夢はそれを恐れてはいなかった。誰を守るために刀を抜くのか。それさえ忘れなければ迷うことはない。幽々子が、さとりが教えてくれたその教えを、妖夢はもう我が身で証明していた。

 

客たちが一人また一人と白玉楼を後にしていった。

 

早苗は倒れた信者たちのその後を案じながら、深く一礼して去っていった。守矢へ戻るのか、それとも別の道を選ぶのか、その背中はまだ迷いのなかにあるように見えた。八雲紫は藍を従えて立ち上がると、去り際に妖夢へと一瞥をくれた。その飄々とした微笑みの奥に、何かを見定めるような鋭い光が宿っている。

 

「妖夢。あなたはよくやったわ」

 

紫が静かに言った。

 

「魔理沙を生きて連れ帰り、荷の在り処も知れた。私の求めていたものは、おおよそ手に入りそうよ。約束は守る。魔理沙を傷つけはしない。荷さえ戻れば、あとはあの子の好きにさせる。私は交わした約束を違えるような、安い妖怪ではないもの」

 

「感謝します」

 

妖夢は頭を下げた。

 

だが妖夢は、この管理者を全面的に信じたわけではなかった。紫はあくまで盤面を読み、利を得るために動いている。今はたまたま、その目指す先が自分と同じ方向を向いているだけだ。この一件が片づけば、いつまた敵となるか分からない。誰の味方でもないというのは、裏を返せば誰もが敵になりうるということでもある。かつて幽々子が語ったその言葉を、妖夢は忘れていなかった。

 

紫はそれ以上何も言わず、藍を伴って境界の向こうへと消えていった。

 

さとりもまた、地の底へと戻るために席を立った。去り際、その第三の眼が一度だけレミリアのほうへと向けられる。だがさとりは何も告げぬまま、静かに広間を後にした。胸の内に真実を秘めたまま、この妖怪はまた地霊殿の孤独へと帰っていくのだった。妖夢はその後ろ姿を見送りながら、いつかこの静かな妖怪の抱えるものが、少しでも軽くなる日が来ればいいと思った。

 

レミリアは咲夜を伴って去り際、魔理沙の前でふと足を止めた。

 

何か言葉をかけようとするように口を開きかけて、だが結局それを飲み込むと、ただ深く一つ頷いてから背を向けた。その背中には、館へ帰ってから自らが向き合わねばならぬものの重さがにじんでいた。かつて自らの手で切り捨て、忘れていた誰かへの疑い。もしその者が黒幕なら、恨みを育てたのは自分だという負い目。断罪への怒りと、蒔いた種への悔いと。その相克をこの吸血鬼はこれから独りで抱えていくのだ。館の内側だけを見張ってきた五百年が、外へ追いやった一つの影を見落としていた。その事実の重さが、小さな背中をいっそう小さく見せていた。

 

咲夜がその後に続きながら、一度だけ振り返って魔理沙へと視線を送った。

 

その眼差しには、憎めない子を案じる者のかすかな温もりが確かに宿っていた。かつて妖夢に、これは紅魔館のメイドとしてではなく私個人のお願いですと頭を下げ、魔理沙を生かしておいてほしいと願ったその咲夜の本心が、いまその視線に滲んでいた。組織への忠義と、一人の人間としての願い。その二つに引き裂かれながらも折れずに立ち続けることが、咲夜という刃の強さでもあり、脆さでもあった。魔理沙はその視線に気づくと、片手をひらりと上げて、いつもの調子で応えた。咲夜のその口元が、ほんのわずかに緩んだように妖夢には見えた。

 

紅魔館の主従が去ると、広間に残ったのは幽々子と妖夢、そして魔理沙だけとなった。

 

日はすでに傾いて、白玉楼の庭の夜桜が夕闇のなかにほのかに浮かんで見える。幽々子は縁側へと歩み出ると、その桜を静かに眺めた。妖夢は魔理沙を支えながら、その傍らへと立つ。冥界の名家に咲くこの桜は、季節を問わず淡い光を放ち続けている。生と死の境に咲くその花を、幽々子はいつも何を思って眺めているのか、妖夢には測りかねていた。

 

「妖夢」

 

幽々子が桜を見つめたまま口を開いた。

 

「あなたは、よく筋を通したわ。取り立て人として、そして一人の者として。魔理沙を生きて連れ帰り、その口から真実を語らせた。刀に初めて血を流させてまでね。私が最初に言った通りになったでしょう。刀がどこを斬るかは、刀自身がいちばんよく知っている」

 

妖夢は静かに頭を下げた。

 

「主の教えのおかげです。迷わずに済みました」

 

「いいえ」

 

幽々子が振り返って、いつもの読めぬ微笑みを浮かべた。

 

「迷わなかったのは、あなた自身の芯があったからよ。教えは種にすぎない。それを迷いなき刃に育てたのは、あなたの心。私はただ、その芽を少し早く見せてやっただけ。この幻想郷では、多くの者が守るべきものと奪いたいものとのあいだで揺れている。あなたのようにまっすぐな者は、そういない。だからこそ、あなたはこの汚れた盤面の上で、数少ない濁りのない刃なのよ」

 

その言葉に妖夢の胸が、静かに熱くなった。

 

幽々子はそれから、傍らで肩の傷を押さえている魔理沙へと視線を移した。夜桜を背にしたその微笑みは、亡霊のものとは思えぬほど、どこか温かなものを帯びていた。契約と筋にしか関心を持たぬはずのこの金貸しの元締めの、めったに覗かせぬ一面だった。

 

「魔理沙」

 

幽々子が呼びかけた。

 

「これで借金は、ちゃんと返してもらうわよ。あなたはたっぷりと利子を溜め込んでくれたのだから。逃げるも隠れるも、もう許さない。白玉楼の帳簿からは、誰も逃げられないの」

 

魔理沙が肩をすくめて笑った。

 

「へいへい。分かってるって。逃げも隠れもしねえよ。この体じゃ当分どこへも行けやしねえしな。それに――」

 

魔理沙はそこで言葉を切ると、傍らの妖夢をちらりと見た。

 

「こんな律儀な取り立て人が見張ってちゃ、逃げようがねえだろ。山奥まで来て利子の催促をするような奴だぞ。幻想郷の果てまで追ってきそうだ」

 

「追いますよ」

 

妖夢が静かに応じた。「あなたが借金を返し終えるまで、どこまでも」

 

その真面目な返しに、魔理沙が声を上げて笑った。傷に障ったのか途中で顔をしかめながらも、それでも楽しげに笑い続ける。その笑い声が夜桜の下へと響いていくのを、妖夢は静かに聞いていた。

 

「そうね」

 

幽々子はそう言って、ふと目を細めた。

 

その微笑みの奥に、この飄々とした亡霊がめったに見せぬ、かすかな安堵の色が覗いた。契約と筋にしか関心を持たぬはずのこの金貸しの元締めが、そのとき確かに一人の者の生還を喜んでいるように、妖夢には見えた。取り立てる前に殺されたら筋が通らない。かつてそう言って方針を変えたこの主の内にも、筋という理屈だけでは割り切れぬ何かが、静かに息づいているのかもしれなかった。

 

「生きていてくれて、よかった」

 

幽々子が、ぽつりとそう漏らした。

 

その一言は夜桜の下へと静かに溶けていった。誰への言葉とも取れぬ、独り言のようなつぶやきだった。だがその場にいた誰もが、それが確かに魔理沙へと向けられたものであることを知っていた。魔理沙はしばらくきょとんとした顔をしていたが、やがてばつが悪そうに視線を逸らして、頭をかいた。

 

「……なんだよ、柄にもねえこと言いやがって」

 

そう言いながらも、その口元にはくすぐったそうな笑みが浮かんでいた。

 

妖夢はその二人のやり取りを、傍らで静かに見守っていた。

 

夜桜が風に散って、白い花びらが縁側へと舞い落ちる。白玉楼の一日が、ようやく終わろうとしていた。魔理沙は生き延びて、真実は明るみに出て、各勢力はひとまず矛を収めた。だがその静けさの底で、幻想郷の均衡はなお揺れ続けている。館を追われた影と、その背後で糸を引く名も知れぬ後ろ盾は、その顔を闇に隠したまま、次の一手を練っているのだ。

 

妖夢は暮れゆく庭を見つめながら、そのことを思った。

 

この一件はまだ終わっていない。さとりの言葉が耳の奥で静かに響いている。黒幕は必ずもう一度動く。魔理沙を諦めきれぬその執着が、いずれまた牙を剥く。そのとき自分の刀は再び抜かれるのだろう。誰を守るために。誰を斬るために。だが妖夢はもう恐れてはいなかった。守るべきものさえ見失わなければ、その刃は迷わない。北の山中でそれを我が身で証明したのだから。

 

「妖夢」

 

魔理沙がふと、笑いを収めて呼びかけた。

 

「なあ、この先もまだ、ひと悶着ありそうだよな。紅魔館の中に潜んでる奴が、このまま黙って引っ込むとは思えねえ」

 

妖夢は静かに頷いた。魔理沙もまた、この幕引きが真の終わりではないことを察していた。

 

「ええ。おそらく、また動くでしょう。ですが今度は、私がそばにいます。あなたを一人にはしません」

 

「頼もしいねえ、白玉楼の死神さんは」

 

魔理沙が茶化すように言った。だがその声の底には、確かな信頼の響きがあった。

 

かつて妖夢を白玉楼の死神と軽口で呼びながら笑えた、幻想郷でも数少ないこの魔法使い。その軽口が戻ってきたことが、妖夢には何よりも嬉しかった。あの軽口をまた聞きたいという、ただそれだけの願いのために、妖夢は初めて人を斬ったのだ。そしてその一線を越えたことを、妖夢は少しも後悔していなかった。

 

夜が、白玉楼の庭へと降りてきた。

 

幽々子はいつのまにか広間の奥へと姿を消していた。おそらくあの決して人に見せぬ帳簿と向き合っているのだろう。幻想郷の金の流れのすべてを収めたその一冊に、今日の一件がどう書き加えられるのか、妖夢には知る由もなかった。ただ、その帳簿からは誰も逃れられないという幽々子の言葉だけが、静かに胸に残っていた。

 

妖夢は縁側に腰を下ろした魔理沙の隣に立って、夜空を見上げた。

 

冥界の空には、地上とは異なる淡い星々が瞬いている。地の底の闇を抜け、守矢の暴走をくぐり、北の山中で初めて人を斬り、そしてこの白玉楼で真実が明るみに出るのを見届けた。長い日々だった。妖夢は自分の右手をそっと見つめた。白楼剣を握り、初めて人を斬ったその手を。手のひらにはまだ、あの手応えが残っているような気がした。だがその感触は、もはや妖夢を怯えさせはしなかった。むしろそれは、守るべきものを守り抜いたという、確かな証のように感じられた。

 

「魔理沙さん」

 

妖夢は静かに口を開いた。

 

「あなたが持ち出したあの帳簿の写しは、この郷の者たちの足元を明るみに出しました。誰もが蓋をしていたものを、あなたは開けてみせた。それは、危ういことでした。あなたはそのために命を狙われ、傷を負った。ですが――私は、あなたがそれを燃やさなかったことを、間違いだとは思いません」

 

魔理沙が、意外そうに妖夢を見上げた。

 

「私たちは皆、悪党です」

 

妖夢は夜空を見つめたまま続けた。

 

「取り立て人の私も、金貸しの主も、この郷を動かすどの勢力も。誰も潔白ではなく、誰も正義ではない。ですがそのなかにも、筋を通す者と、筋を捨てる者がいる。血を流してでも筋を通す者と、血を流させてまで隠す者と。あなたは、蓋を開けることで、その違いを明るみに出した。誰が本当に筋を通しているのかを。それは、この汚れた郷にとって、必要なことだったのかもしれません」

 

魔理沙はしばらく妖夢を見つめていた。

 

それから、ふっと笑った。いつもの不敵な笑みではなく、どこか穏やかな笑みだった。

 

「お前ってやつは、本当に真面目だな。取り立て人のくせに、そんなことまで考えてんのか。……でもよ、妖夢。俺はそんな立派なことを考えて蓋を開けたわけじゃねえ。ただ、面白そうだと思っただけさ。誰も見たがらねえものを見てみたいっていう、それだけの悪趣味だ」

 

「それでも」

 

妖夢は静かに言った。「結果として、あなたは筋を通しました。それだけで、じゅうぶんです」

 

魔理沙はその言葉に、もう何も返さなかった。

 

ただ夜桜の散る庭を、妖夢と並んで静かに眺めていた。二人のあいだに、心地よい沈黙が流れる。取り立て人と債務者。本来ならば決して並び立つはずのないその二人が、いま同じ夜桜を見上げている。その奇妙な光景こそが、この一件が二人にもたらした変化の証だった。

 

北の山中での約束を、妖夢は思い返した。

 

生きていれば借金はいつか返せる。死んでしまえばそれもできなくなる。だから生きてください。それが白玉楼の取り立て人としての、私の願いです。あのとき妖夢はそう言った。そしてその願いは、確かに果たされた。魔理沙は生きて、こうして白玉楼の縁側で夜桜を眺めている。

 

だが妖夢は知っていた。これは束の間の平穏に過ぎない。

 

館を追われたあの影は、その顔を闇に隠したまま、次の一手を練っている。魔理沙への歪んだ執着を抱えたその者は、決して諦めない。いずれまた、白玉楼の夜桜の下へも、その影は――そして、その影を操る後ろ盾の手も――忍び寄ってくるだろう。そのとき自分の刀は、再び抜かれることになる。妖夢はそのことを、静かに胸へと刻んだ。

 

夜桜が、夕闇のなかで白く咲いていた。

 

その花の下で、幻想郷の新たな火種が音もなく燻りはじめている。名も知れぬ黒幕が、その顔を現す日は、もう遠くない。妖夢は魔理沙のそばに立ちながら、その来たるべき日のことを思った。だがどれほど暗い日が来ようとも、守るべきものさえ見失わなければ、自分の刃は迷わない。妖夢はそう自らに言い聞かせて、静かに刀の柄へと手を添えた。

 

全員が悪党であるこの幻想郷で、それでも筋を通す者がいる。

 

血を流してでも守るべきものを守る者が。妖夢は北の山中で、その一線を越えて、そのことを流血によって証明したのだった。対話ではなく、刃によって。この郷では、筋というものは言葉ではなく血で示されるほかない。それがこの幻想郷の裏側の、変わらぬ理屈だった。

 

夜が静かに更けていった。

 

白玉楼の庭に、夜桜だけが淡く光を放ち続けている。生と死の境に咲くその花は、この一件で流された血も、これから流されるであろう血も、すべてを静かに見下ろしていた。妖夢は最後にもう一度、隣で夜桜を眺める魔理沙の横顔を見やった。生き延びた債務者の、穏やかな横顔を。この魔法使いを守り抜くこと。それがこれから先も、取り立て人としての、そして一人の者としての、妖夢の変わらぬ務めだった。

 

散り続ける夜桜だけが、この幻想郷のすべてを見下ろすように、闇のなかで白く咲いていた。

 

そしてその花の奥で、名も知れぬ影が、静かに次の刃を研いでいた。その影の、さらに奥に立つもう一つの手が、すべてを見透かすように、静かに嗤っていた。

 

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