魔理沙の傷が塞がりきってから、さらに半月が過ぎていた。
その半月のあいだ、幻想郷の裏側は不気味なほど静かだった。北の山中で頭目を失った手先たちが再び群れる気配もなく、守矢の信者組もすっかり鳴りを潜めている。だがその静けさこそが、妖夢にはかえって不吉に思われてならなかった。嵐が来る前の海がそうであるように、あまりに凪いだ水面の下では、見えぬ何かが静かに力を溜めているものだ。妖夢はその半月のあいだ、片時も刀を手元から離さなかった。
そして幽々子が、ついに動いた。
白玉楼の主が各勢力へと文を回したのは、月がもっとも大きく見える夜のことである。文にはただ一言、「取り立ての宴を開く」とだけ記されていた。表向きは、この一件で擦れ合った勢力どうしの手打ちの席という体裁である。魔理沙が真実を語り終え、各々の足元が明るみに出たいま、これ以上の無用な流血を避けるための和解の宴なのだと、文を受け取った者たちは受け取った。だが妖夢は、主がその宴に別の意図を込めていることを察していた。
「なぜ、わざわざ宴なのですか」
その問いを妖夢が口にしたのは、宴の前夜のことだった。幽々子は白玉楼の広間で桜色の袖を畳へと流しながら、いつもの読めぬ微笑みを浮かべている。
「手打ちならば、静かに使者を交わせば済みます。それをあえて宴の形にして、皆を一つ所へ集める。危うくはありませんか。あの黒幕はまだ捕らえられていません。魔理沙さんを一所へ晒すことは、あの者に狙う隙を与えることにもなりましょう」
「その通りよ、妖夢」
幽々子は少しも表情を変えずに答えた。むしろ、その言葉を待っていたかのような口ぶりだった。
「隙を与える。それがこの宴の目的なの。あの影は決して尻尾を掴ませない。館を追われ、外の勢力の懐に潜み、手先にすら身元を持たせない。こちらから探しても、影はいつまでも影のまま。ならば、向こうから出てくるように仕向けるほかないでしょう。魔理沙という餌を庭に据えて、あの者が再び刃を伸ばしてくるのを待つ。そのとき初めて、影は形を持つのよ」
妖夢は主の言葉に背筋の冷えるのを覚えた。
魔理沙を餌にする。半月にわたって守り抜いてきたその魔法使いを、みずから危地へと据える。それが白玉楼の主の描いた筋だった。だがその冷徹さの底に、妖夢は別のものも見て取っていた。幽々子は決して魔理沙を見殺しにする気ではない。庭には妖夢がいる。八雲の式がいる。そして幽々子自身がいる。餌を据えると同時に、その餌を守る網もまた張り巡らせてある。影を釣り上げるための、周到な罠だった。
「魔理沙さんは、それを承知しているのですか」
「あの子には話してあるわ」
幽々子は袖の内で扇を弄びながら言った。
「餌になれと言ったら、あの子は笑ったわ。上等だ、と。いつまでも影に怯えて暮らすくらいなら、いっそ引きずり出して片をつけたほうがいい、と。あの子はそういう子でしょう。誰かの駒になるのは嫌うけれど、自分から罠の餌になるのは面白がる。魔理沙は、私の描いた筋に自分の意思で乗ったの。だからあなたも、心配は要らないわ」
妖夢はしばらく黙っていた。
やがて、静かに一礼した。主の描いた筋に異を唱えるつもりはなかった。ただ妖夢は胸のうちで一つだけ、固く決めていた。何が起ころうとも、この宴で魔理沙を死なせはしない。餌であろうとなかろうと、あの魔法使いを守り抜く。それだけが自分の務めだった。
宴の夜が来た。
白玉楼の庭には、季節を違えて夜桜が咲き誇っていた。冥界の桜は現世の理に縛られず、いつでも主の望むままに花を開く。淡い月の光を浴びた無数の花びらが、まるで雪のように音もなく庭へと降り注いでいる。その桜の下に緋毛氈が敷かれ、酒肴の膳が整えられていた。生と死の境に咲く花の下で開かれる宴は、この上なく美しく、そしてどこか現世のものとは思えぬ凄みを湛えていた。
集まった顔ぶれは、あの手打ちの席とほぼ同じである。
上座には幽々子が座し、その右手に日傘を膝へ置いた八雲紫が控えている。紫の背後には藍が影のように付き従い、そのさらに後ろに橙が緊張した面持ちで座していた。左手の席には守矢を代表して東風谷早苗が、いくぶん落ち着きを取り戻した顔で座っている。その隣には地霊殿から遣わされた古明地さとりが、第三の眼を静かに閉じたまま端座していた。そして庭の中ほどには、紅魔館を代表して十六夜咲夜が背筋を伸ばして座している。
魔理沙は上座に近い緋毛氈の上に、片膝を立てるようにして座っていた。
肩の傷はもうほとんど塞がっており、その顔にはいつもの不敵な笑みが戻っている。だが妖夢は知っていた。あの余裕そうな笑みの下で、魔理沙は誰よりも張り詰めている。自分が餌であることを承知して、この夜桜の下に座っているのだ。妖夢はその斜め後ろに、いつでも刀を抜ける姿勢で控えていた。半霊が肩のあたりで落ち着きなく揺れているのを、一つ息を吐いてなだめる。
「よく集まってくれたわね」
幽々子が扇を開いて、静かに口を開いた。
「今宵は取り立ての宴。もっとも、和解の席というのが表向きの名目よ。この一件で、皆それぞれに擦れ合った。守矢は口を封じようとし、八雲は荷を追い、紅魔館の名を騙る何者かは、この子の命を狙った。そのすべての糸が、この霧雨魔理沙という一人の魔法使いに絡んでいたの。今宵はその糸を、一度この庭でほどいてしまいましょう。誰が何を望み、誰が筋を通し、誰が筋を捨てたのか。夜桜の下で、はっきりさせてしまいましょう」
その言葉に、庭の空気がわずかに張り詰めた。
酒を注ぐ手が止まり、それぞれの視線が上座の幽々子へと集まる。守矢の早苗はうつむきがちに膝の上で手を握り、紅魔館の咲夜は氷のような無表情を保ったまま、まっすぐに前を見据えていた。地霊殿のさとりだけが、閉じた第三の眼の奥で、この場の全員の心の内をひそやかに読み取っているのだろう。妖夢はそう思って、さとりの静かな横顔をちらと見やった。
「まずは、この子の話を聞きましょう」
幽々子が扇の先で、魔理沙のほうを軽く示した。
魔理沙はその合図を受けて、片膝を立てたまま集まった顔ぶれをぐるりと見回した。それから、口の端を吊り上げるようにして笑う。
「さて、と。改めてこうして顔を揃えると、壮観だな。俺一人を追い回してた連中が、こうやって仲良く酒を酌み交わしてるんだからよ。笑えるぜ。まあいい。話せってんなら話してやる。俺が運んでた荷のこと。誰も知りたがって、誰も見たがらなかった、あの帳簿の写しのことをな」
魔理沙が語りはじめると、庭は水を打ったように静まり返った。
魔理沙の運んだ裏帳簿の写しには、幻想郷のあらゆる勢力の不正が記されていた。守矢の御神体の出処、八雲の境界を使った密輸と産廃、紅魔館の夜会の裏で動く人身と臓器の商い。そのどれもが、蓋をされてきた闇だった。だが魔理沙が語りを進めるにつれ、その帳簿にはもう一つ、別の筋の記録が混じっていたことが明らかになっていく。紅魔館の名を使いながら、その主レミリアのあずかり知らぬところで、独自に幻想郷の利権再編を狙う何者かの動き。その何者かの名は帳簿にも記されておらず、ただ「館の名を騙る別の筋」としてのみ、その痕跡が残されていた。
「――で、その別の筋ってやつが」
魔理沙は肩をすくめた。
「俺を消そうとしたわけだ。帳簿に自分の動きが残ってるのがまずかったんだろうよ。だから俺を、生きたまま連れ去って、それっきりにしようとした。北の山で、危うくそうなるところだった。そこの死神が来てくれなきゃ、今頃俺はどこかの花畑の下で肥やしになってたぜ」
その軽口に、庭の何人かがわずかに身じろぎした。
花畑の下、という言葉が誰の縄張りを指すのかを、この場の者たちは皆知っている。妖夢は魔理沙の言葉を聞きながら、あの北の山中で斬った頭目のことを思い返していた。あの男は最後まで身元を明かさなかった。誰の依頼で動いていたのかも語らずに、白楼剣の刃の下で息絶えた。あの男を差し向けた者こそが、いまこの庭に釣り出そうとしている影なのだった。
「話は、それだけかしら」
幽々子が静かに問うた。
「ああ。俺が知ってるのはそこまでだ」
魔理沙が答えた。「その別の筋が誰なのかまでは、俺にもわからねえ。帳簿にも名は載ってなかった。ただ、紅魔館の名を騙ってるってことだけは確かだ。それ以上は――」
魔理沙の言葉が、そこで途切れた。
夜桜の花びらが、ふいに乱れたのだった。
音もなく降り注いでいた花びらの帳が、庭の一角で不自然に渦を巻いた。まるで何かがその花の帳を切り裂いて進んできたかのように。妖夢はその異変を、肌が粟立つよりも早く察知していた。半月のあいだ研ぎ澄ましてきた勘が、鋭く警鐘を鳴らす。妖夢は魔理沙のほうへと体を割り込ませながら、楼観剣の柄へと手をかけた。
「――来ます!」
妖夢が鋭く声を放ったのと、桜の帳を裂いて黒い影が躍り出たのとは、ほとんど同時だった。
その影は、驚くべき速さで魔理沙の喉元めがけて刃を突き出してきた。北の山で斬った頭目とはまた違う、しなやかで無駄のない身のこなしである。純白の花びらのなかを、その一刀だけが黒々と閃いた。魔理沙が反射的に身を反らしたものの、その動きだけでは到底かわしきれぬ速さだった。刃が魔理沙の喉笛へと迫る。
だが、その刃は魔理沙には届かなかった。
妖夢の楼観剣が、刺客の一刀を横合いから叩き落としていたのだった。鋼と鋼が噛み合い、夜桜の下に甲高い音が響き渡る。火花が散り、乱れた花びらがその火花を浴びて一瞬だけ緋色に染まった。妖夢は刺客の刃を弾き返すと同時に、魔理沙を庇うようにしてその前へと立ちはだかる。
「魔理沙さんの前へは、一歩も通しません」
妖夢の声は静かだった。だがその静けさの底には、抜き身の刃のような冷たさが凝っている。
刺客は弾かれた刃を引いて、音もなく数歩を退いた。
月の光がその姿を照らし出す。全身を黒い装束で包み、顔の下半分を布で覆っている。露わになった双眸だけが、感情の色を欠いた冷たい光を湛えていた。北の山の頭目と同じ、人を害することを生業としてきた者に特有の、あの昏さである。刺客は妖夢を値踏みするように見据えると、覆面の下でかすかに笑ったようだった。
「白玉楼の取り立て人か」
刺客の声は低く、性別すら判じかねる響きだった。
「北で我が同輩を斬ったのは、貴様だな。なるほど、聞いた通りの腕らしい。だが、退いてもらおう。俺の相手はその魔法使いだ。貴様に用はない」
「退きません」
妖夢は楼観剣を正眼に構え直した。切っ先が刺客の喉元をまっすぐに指す。
「あなたが誰の依頼で動いているのかは知りません。ですが、この人を渡すわけにはいかない。それが白玉楼の取り立て人としての、私の筋です」
「筋、か」
刺客は嗤った。「金貸しの犬が、筋を語るか。面白い。ならば、その筋ごと斬り伏せてやろう」
刺客が地を蹴った。
その踏み込みは、北の山の頭目よりもさらに速かった。妖夢は辛うじてその一刀を受け止めたものの、腕に走る痺れの重さに、これが尋常な遣い手でないことを悟る。刺客の剣は変幻自在だった。真正面から斬りかかったかと思えば、次の瞬間には花びらの帳を利用して視界を撹乱し、思わぬ角度から刃を送り込んでくる。妖夢はその一刀ごとを紙一重で捌きながら、じりじりと魔理沙の前から離れぬよう位置を保ち続けた。
「妖夢!」
魔理沙が声を上げて、箒を構えようとした。
だがその肩を、妖夢が背中越しに鋭く制した。「動かないでください。あなたは下がっていて。この者は私が」
言葉の途中で、刺客の刃が妖夢の肩口を狙って走った。妖夢は身を沈めてそれをかわし、返す刀で刺客の胴を薙ごうとする。だが刺客もまた手練れだった。かろうじて刃を引いてその一撃を受け流すと、後方へと跳んで間合いを取る。夜桜の下で、二つの影が目まぐるしく交錯した。花びらが二人の激しい動きに巻き上げられ、渦を巻いて舞い散っていく。
「――加勢するわ」
そのとき、涼やかな声が庭の一角から響いた。
咲夜だった。いつのまにか席を立ち、その手には銀色の刃が幾条も握られている。紅魔館のメイド長は、氷のような無表情のまま、刺客のほうへと鋭い視線を注いでいた。
「妙ね。その身のこなし、その太刀筋。どこかで見た覚えがあるわ。紅魔館の匂いがする。……あなた、館の者ね。それも、ずいぶん昔にいた」
咲夜の言葉に、刺客の動きがわずかに止まった。
その一瞬の隙を、妖夢は見逃さなかった。踏み込んで刺客の刃を巻き上げにかかる。だが刺客は舌打ちとともに後方へと跳び退き、咲夜と妖夢の双方から等しく間合いを取った。二人の手練れを同時に相手取ることの不利を、瞬時に悟ったのだろう。
「十六夜咲夜」
刺客が覆面の下で呟いた。その声に、初めてわずかな感情の揺れが混じった。
「メイド長どのが、まさか俺の邪魔をするとはな。館のためを思うなら、貴様こそ退くべきだろうに。俺のしていることは、突き詰めれば館のためなのだぞ」
「館のため?」
咲夜の眉が、初めてぴくりと動いた。その氷の表情に、抑えきれぬ怒りの色がにじむ。
「主の名を勝手に騙り、その与り知らぬところで人を狩る。それが館のためだと? 笑わせないで。あなたのしていることは、お嬢様の名を泥で塗ることに他ならない。館のためを騙るその口が、いちばん館を汚しているのよ」
咲夜が銀の刃を放った。
時を操るその一投は、放たれた瞬間に幾条もの軌道へと分かたれ、四方から刺客を襲う。刺客は身をよじってそのことごとくを回避したものの、一条だけがその肩をかすめて、黒い装束を裂いた。刺客がわずかに顔をしかめる。妖夢はその隙を逃さず、咲夜と呼吸を合わせるように踏み込んだ。霧の湖で刃を交える寸前まで対峙したあの夜以来、この二人のあいだには言葉を超えた了解があった。互いに手練れと認め合った者だけが分かち合える、無言の連携だった。
刺客は、その二人の連携の前に急速に追い詰められていった。
だが、この刺客もまた並の手練れではない。二人がかりの攻めを凌ぎながら、なお隙あらば魔理沙のほうへと刃を伸ばそうとする。その執念は、ただ依頼を果たさんとする刺客のものというより、何か別の、もっと歪んだ執着に突き動かされているかのようだった。妖夢はその執念に、地霊殿でさとりが語った言葉を重ねていた。黒幕は魔理沙へ歪んだ執着を抱いている、と。この刺客を差し向けた者の、その執着の澱が、いま刃を通じて伝わってくるようだった。
「――逃がさないわ」
そのとき、それまで席で静観していた紫が、静かに立ち上がった。
日傘を軽く傾けると、その足元の空間が裂けるように歪む。境界が開いたのだった。夜桜の庭のそこかしこに、無数の目と手を覗かせた隙間が口を開けていく。刺客がどの方向へ逃れようとしても、その退路には必ず紫の隙間が待ち構えている形になった。管理者は自ら手を汚すことこそ稀だが、いざ盤面の駒を仕留めると決めたときの網の張り方には、一切の隙がなかった。
「あなたの逃げ道は、すべて私が閉じたわ」
紫が飄々とした微笑みを浮かべたまま告げた。
「もう、どこへも行けない。観念なさい。あなたを差し向けた者の名を、この場で聞かせてもらいましょう」
刺客は、四方を閉ざされたことを悟った。
その双眸に、初めて追い詰められた獣のような色が走る。だがそれは恐怖の色ではなかった。むしろ、覚悟を決めた者の昏い光だった。刺客は妖夢と咲夜の攻めを大きく跳んでかわすと、二人から等しく間合いを取った位置で刃を逆手に持ち替えた。その切っ先が、魔理沙ではなく、自らの喉元へと向けられる。
「言うわけがなかろう」
刺客が嗤った。
「俺が口を割ると思うか。俺の役目は、その魔法使いを消すこと。それが叶わぬのなら――せめて、俺の口だけは永遠に閉ざしておくまでよ。あの御方の名は、俺とともに闇へ還る」
刺客が、自らの喉へと刃を突き立てようとした。
「――させません!」
妖夢が叫んで踏み込んだが、間に合わぬかに見えた。刺客の刃が、その喉笛へと迫る。だがその刹那、庭の一角から、それまで一言も発していなかった者の、静かな声が響いた。
「もう、遅いわ」
古明地さとりだった。
いつのまにか、その閉じられていた第三の眼が、かっと見開かれている。血のような紅の瞳が、刺客の全身をまっすぐに射抜いていた。さとりは端座したまま、動きもせずに、ただその眼だけで刺客の心を捉えている。刺客の刃が、喉のすぐ手前で、ぴたりと止まった。まるで見えぬ手に押さえられたかのように、その腕が動かなくなる。
「読ませてもらったわ。あなたの心の、いちばん奥まで」
さとりの声は静かだった。だがその静けさの底には、揺るがぬ確信が満ちている。
「あなたは、自らの命を絶つことで秘密を守ろうとした。けれど、その決意を固めた瞬間にこそ、心はいちばん無防備になるもの。死を覚悟した者の心は、堰を切るように溢れ出す。私はそれを、余さず読んだわ。あなたを差し向けた者の名も。その者の顔も。その者が、なぜこれほど魔理沙に執着するのかも」
庭の全員の視線が、さとりへと集まった。
刺客の顔から、みるみる血の気が引いていく。喉元で止まったその刃が、かたかたと震えはじめた。心を読まれることの恐怖が、この闇の刺客の覚悟すらも上回ったのだった。妖夢はその隙を逃さず、刺客の腕を刀の峰で打ち据えた。刃が刺客の手から離れ、緋毛氈の上へと落ちる。妖夢はすかさず刺客を組み伏せ、その動きを封じた。
「さとりさん」
妖夢は刺客を押さえつけたまま、さとりのほうを振り返った。「黒幕の正体を、読んだのですか」
さとりは、すぐには答えなかった。
その紅の瞳に、深い翳りが差している。読んではならぬものを読んでしまった者の、あの重い沈黙だった。さとりはしばらく虚空を見つめたのち、ゆっくりと視線を庭の一角へと向けた。それは紅魔館を代表して座す咲夜のほう、いや、その咲夜の背後にある紅魔館そのものの闇へと注がれていた。
「ええ。読んだわ」
さとりは静かに口を開いた。
「この刺客を差し向けた者は――かつて、紅魔館に仕えていた者よ。それも、ずいぶん長いあいだ。館の裏方として、決して表舞台には立たず、日の当たる場所をいつも他の誰かに譲りながら、ひたすら影に徹して生きてきた者。その者の心には、報われなかった長い年月の澱が、どす黒く沈んでいた」
その言葉に、庭の空気が凍りついた。
咲夜の氷の表情が、初めて崩れた。「館の、裏方……? そんな者が、なぜ今になって」
「その者は、もう館にはいないわ」
さとりの言葉が、静かに庭へと落ちた。
「ずっと昔に、切り捨てられたの。館を追われ、その存在すら忘れられた。あなたたちが、いま館の内側を隅から隅まで見張っても、その者の姿は見つからない。なぜなら、その者はとうに館の外へと去った者だから。切り捨てられた影が、外の勢力の懐に潜り込み、その力を借りて、いま牙を剥いた。あなたたちが疑うべきだったのは、館の中ではなく、館が過去に切り捨てた者のほうだったのよ」
咲夜が、言葉を失った。
その瞳が、大きく見開かれている。館の中に裏切り者がいるのではないかと疑い、警戒し続けてきたその半月が、根本から覆されたのだった。敵は内にはいなかった。とうに外へ追いやられ、忘れられた過去の影だった。咲夜のなかで、その事実が急速に像を結んでいく。そしてその像が結ばれた瞬間、咲夜の顔から血の気が引いた。
「……まさか。あの者が」
咲夜の唇が、一つの名を紡ごうとした。
だが、さとりがそれを静かに制した。「名を言うのはお待ちなさい、咲夜。ここで名を明かせば、また新たな血が流れる。それに――」
さとりは言葉を切って、上座のほうへと視線を移した。
そこには、桜色の着物をまとった幽々子と、日傘を膝に置いた紫が座している。二人の主は、さとりの言葉をじっと待っていた。さとりはその二人を見据えながら、なお言葉を継いだ。
「その者の背後には、もう一つ、別の力があるのよ」
その一言に、庭がざわめいた。
「この追放者ひとりでは、これほどのことはできないわ。心を塗りつぶす術。地霊殿へ依頼を通す伝手。手先を雇う金脈。そのすべてを、この者は自分の力で手にしたのではない。背後にいる、別の勢力から与えられたものよ。追放された影に力を貸し、館の名を騙らせ、幻想郷の利権再編を陰から進めようとする、大きな後ろ盾。この一件の本当の黒幕は――その、後ろ盾のほうなのかもしれない」
さとりの言葉が、庭の全員の胸へと重く沈んでいった。
追放者は、駒に過ぎなかった。その背後に、もっと大きな手がある。その手が切り捨てられた影を拾い上げて力を与え、館の名を騙らせて幻想郷全体を裏から動かそうとしている。妖夢は組み伏せた刺客の下で、その事実の重さに息を呑んだ。北の山で斬った頭目も、いま組み伏せているこの刺客も、そのさらに奥にいる追放者すらも、すべては末端の駒でしかなかったのだった。
「後ろ盾とは、誰なのですか」
妖夢が問うた。「さとりさん、あなたはそれも読んだのですか」
さとりは、しばらく答えなかった。
その紅の瞳に、これまでにない深い葛藤が浮かんでいる。読み取った真実の重さと、それを明かすことの危うさとのあいだで、さとりは静かに揺れているのだった。やがてさとりは、ゆっくりと首を横に振った。
「……読んだわ。けれど、言わない」
さとりの声は、絞り出すようだった。
「この刺客の心に映っていたのは、追放者の姿までよ。その追放者が誰の懐にいるのか、後ろ盾が誰なのか、そこまでは、この者自身もはっきりとは知らされていなかった。ただ、いくつかの影が、心の底にちらついていた。天狗の翼。閻魔の帳簿。花の匂い。そのどれもが、後ろ盾の候補として、この者の心にわずかに残されていた。けれど、どれが本当の後ろ盾なのか――それは、まだ断定できない」
天狗、閻魔、花。
その三つの言葉に、庭の何人かが微かに身じろぎした。天狗の射命丸文、閻魔庁の四季映姫、そして太陽の畑の風見幽香。そのいずれもが、この場には姿を見せていない勢力である。だがそのいずれもが、幻想郷の裏側で、手を汚さずに他勢力を動かしうる力を持っていた。さとりが読み取った後ろ盾の像は、まだそのいずれとも断じきれぬ、朧げな影のままだった。
「ならば、なおのこと」
紫が、静かに口を開いた。
その飄々とした微笑みの奥に、これまでになく鋭い光が宿っている。管理者の目が、盤面に紛れ込んだ見えぬ駒を、いま初めて捉えようとしていた。
「その後ろ盾の正体は、軽々しく口にすべきではないわね。断定せぬまま名を挙げれば、あらぬ疑いが新たな争いを呼ぶ。さとりの言う通り、ここは伏せておきましょう。だけれど――」
紫は日傘の柄を、指先で軽くなぞった。
「これで、はっきりしたことが一つあるわ。この一件は、まだ終わっていないということ。館を追われた影と、その背後に立つ大きな手。それがこの幻想郷の均衡を、根から揺るがそうとしている。私たちは、その入口に立ったに過ぎない。さとり、あなたが抱えたその真実は、いずれ幻想郷全体を揺るがすことになるでしょうね」
さとりは、その言葉に静かに目を伏せた。
読み取ってしまった真実の重さが、その細い肩へとのしかかっている。後ろ盾の正体を、さとりはおそらく、もうほとんど見抜いていた。だがそれを口にすれば、幻想郷はさらなる流血へと突き進む。だからさとりは、その重荷をひとり、胸の奥へと抱え込むことを選んだのだった。すべての心を読める者の孤独が、その沈黙のなかに滲んでいた。
組み伏せられた刺客が、ふいに低く笑った。
「……無駄なことだ」
刺客が、覆面の下で掠れた声を漏らした。
「後ろ盾の正体を知ったところで、貴様らに何ができる。あの御方の手は、すでに幻想郷の隅々にまで伸びている。この宴の顔ぶれのなかにも、あるいは――」
その言葉が、そこで途切れた。
刺客の体から、すっと力が抜けたのだった。妖夢が慌ててその様子を確かめると、刺客はいつのまにか、口中に仕込んでいた何かを噛み砕いていた。毒だった。心を読まれ、名を暴かれる寸前にすら口を割らなかったこの刺客は、最後の最後で、自らの命をもって秘密を闇へと葬ったのだった。妖夢の腕のなかで、刺客の体が静かに冷たくなっていく。
「……逃げられたわね」
さとりが、静かに呟いた。
「最後の力で、心に蓋をして逝ったわ。もう、この者から読めるものは何もない。後ろ盾へと至る糸は、ここで一度、断たれてしまった」
庭に、重い沈黙が降りた。
夜桜だけが、その静寂の上に、なお音もなく花びらを降らせ続けている。妖夢は冷たくなった刺客の体をそっと緋毛氈の上へと横たえて、ゆっくりと立ち上がった。魔理沙は無事だった。刺客の刃は、その喉笛には届かなかった。だがこの宴で釣り上げようとした影は、その正体の一端だけを覗かせて、再び闇の底へと沈んでいったのだった。
「魔理沙さん、お怪我は」
妖夢が問うと、魔理沙は片膝を立てたまま、ふうと長い息を吐いた。
「ああ、無事だ。お前のおかげでな。……くそっ。あと少しで、あの世行きだったぜ。餌になるってのは、思ってた以上に肝が冷えるもんだな」
そう言って魔理沙は、いつもの不敵な笑みを浮かべようとした。
だがその笑みは、どこかぎこちなかった。喉元まで迫った刃の記憶が、まだその体に生々しく残っているのだろう。魔理沙は自分の喉へとそっと手をやると、そこに傷のないことを確かめるように、幾度か撫でた。妖夢はその姿を見て、改めて胸のうちで安堵していた。餌を据える主の筋書きに、妖夢は最後まで異を唱えなかった。だが何が起ころうとも魔理沙を死なせはしないという、その一点の決意だけは、確かに果たされたのだった。
上座から、幽々子が静かに立ち上がった。
桜色の袖を夜風になびかせながら、白玉楼の主は倒れた刺客のほうへと歩み寄る。冷たくなったその体を、幽々子はしばし黙って見下ろしていた。それから、ゆっくりと庭の一同を見回す。その読めぬ微笑みの奥に、いつもの飄々とした気配はなく、代わりに冷たく澄んだ何かが宿っていた。
「これで、わかったでしょう」
幽々子が、静かに告げた。
「皆、自分の足元すら把握できていなかった。紅魔館は、自らが切り捨てた影が牙を剥くことを知らなかった。八雲は、盤面に見えぬ駒が紛れていたことに気づかなかった。守矢は、口封じという安易な手が、かえって事を大きくすることに思い至らなかった。そして私たちは皆、その影の背後に、さらに大きな手があることを、今宵ようやく知ったのよ」
幽々子は扇を閉じて、それを胸の前へと収めた。
「全員が悪党よ。この幻想郷に、潔白な者などひとりもいない。誰も正義ではなく、誰も清くはない。けれど――」
幽々子の視線が、庭の中ほどに横たわる刺客の骸から、生き延びた魔理沙のほうへと移った。
「そのなかにも、筋を通す者と、筋を捨てる者がいる。血を流してでも守るべきものを守る者と、血を流させてまで己の望みを隠す者と。今宵、この庭で、その違いがはっきりしたわね。誰が本当に筋を通したのか。それは、言葉ではなく、流れた血が証明したの」
その言葉に、庭の全員が静かに目を伏せた。
咲夜は、主の名を騙られたことへの怒りと、その騙った者が館の切り捨てた過去の影であったという事実の重さとを、氷の表情の下で噛みしめていた。守矢の早苗は、口封じという道を選んだ神への複雑な思いを胸に、うつむいている。紫と藍は、盤面に紛れた見えぬ手の存在を、管理者としての矜持とともに受け止めていた。そしてさとりは、ひとり読み取ってしまった後ろ盾の真実を、その細い胸の奥へと深く沈めていた。
夜桜が、なお静かに降り続けている。
妖夢は魔理沙のそばに立ちながら、この庭に集まった悪党たちの顔を、一人ずつ見回した。誰も潔白ではない。誰も正義ではない。だがその全員が、この幻想郷という仕組みには、確かに必要とされている。均衡とは、善意ではなく、悪党どうしの睨み合いによって保たれてきた。今宵の流血もまた、その均衡が崩れゆく過程の、ほんの一場面に過ぎないのだった。
「妖夢」
魔理沙が、隣で静かに言った。
「お前、また俺を助けてくれたな。北の山に続いて、二度目だ。俺はよ、こんなに誰かに助けられたことなんて、これまでなかったんだ。誰の駒にもならず、誰にも寄りかからず、ずっと一人で生きてきた。それが、いつのまにかお前に、二度も命を救われてる。……なんだか、締まらねえよな」
妖夢は、その言葉に静かに首を振った。
「締まらなくはありません。あなたは今、生きています。それがすべてです。北の山で私はこう言いました。生きていれば借金はいつか返せる、と。あなたはそれを、今宵また証明してくれた。生きて、この夜桜の下に立っている。それだけで、じゅうぶんです」
魔理沙は、その言葉にしばらく黙っていた。
やがて、その口の端に、いつもの不敵な笑みが戻ってくる。今度は、少しもぎこちなくなかった。魔理沙は箒を杖のように地へと突いて、ゆっくりと立ち上がった。肩の傷はもう痛まぬのか、その動きにはいつもの軽やかさが戻っている。
「わかったよ、死神さん。借金は、ちゃんと返す。生きて返す。だからそれまで、お前は俺のことをしっかり見張っとけよ。今宵みたいに、俺が誰かに殺されそうになったら、また助けに来い。それが取り立て人の務めってもんだろ」
「ええ」
妖夢は、静かに応じた。
「必ず見張ります。あなたが借金を返し終えるまで。そして、あなたを狙う影が再び現れたなら、そのときも私が刀を抜きます。誰を守るために抜くのか。それさえ忘れなければ、私の刃は迷いません」
上座から、幽々子がその二人のやり取りを、読めぬ微笑みで眺めていた。
「よい心がけね、妖夢」
幽々子が、扇を袖の内へと収めながら言った。
「これで、借金はちゃんと返してもらえそうよ。魔理沙、あなたには長く生きて、たっぷりと利子をつけて返してもらわなければ。生きていてくれて、よかったわ。……本当に」
その最後の一言に、白玉楼の主のいつもの飄々とした気配が、ふと和らいだ。
金貸しの元締めとして冷徹に契約と筋を通してきた幽々子の、その氷の淵の奥に、ほんのわずかな温もりがよぎったようだった。魔理沙という最大の債務者が、幾度もの危地をくぐり抜けて、こうして生きて庭に立っている。その事実に、幽々子もまた、金勘定を超えた何かを感じているのかもしれなかった。妖夢はその主の横顔を、静かに見つめた。
「さて、宴はこれでお開きにしましょう」
幽々子が、庭の一同へと告げた。
「今宵、皆それぞれに、多くのものを持ち帰ることになったわね。誰が筋を通し、誰が筋を捨てたのか。そして、この一件がまだ終わっていないということを。館を追われた影と、その背後に立つ大きな手。それがこれから、幻想郷全体を揺るがすことになるでしょう。だけれど、それはまた別の夜の話。今宵はもう、刃を収めて、それぞれの家路につきなさい」
その言葉を潮に、集まった勢力の代表たちが、静かに腰を上げはじめた。
守矢の早苗は、深く一礼して庭を去っていく。紅魔館の咲夜は、倒れた刺客の骸へと最後にもう一度、複雑な視線を投げてから、氷の表情のまま席を立った。その背には、主の名を騙った過去の影を、これから館へ持ち帰って報告せねばならぬ者の、重い覚悟が漂っていた。八雲の紫と藍と橙は、管理者一行らしく音もなく夜桜の帳のなかへと溶けていく。庭には、やがて白玉楼の主従と、生き延びた魔理沙と、そして地霊殿のさとりだけが残された。
さとりは、去りゆく者たちの背を見送ってから、静かに立ち上がった。
その紅の瞳には、なお深い翳りが差している。妖夢はそのさとりのそばへと歩み寄った。地の底で、そして北の山への道で、幾度もこの心を読む妖怪に助けられてきた。そのさとりが、いま一人で重い真実を抱えていることを、妖夢は察していた。
「さとりさん」
妖夢は、静かに声をかけた。
「あなたは、後ろ盾の正体を、本当はもう見抜いているのですね。それでも、言わないことを選んだ。その重荷を、あなたひとりで背負おうとしている」
さとりは、しばらく妖夢を見つめていた。
その眼が、妖夢の心の内を静かに読んでいるのが伝わってくる。だがさとりは、いつものように妖夢の心を「珍しい」と評することもなく、ただ静かに微笑んだ。それは、これまで妖夢が見たことのない、深く疲れた微笑みだった。
「あなたの心は、いつ読んでも澄んでいるわね、妖夢」
さとりが、静かに言った。
「隠し事のない、まっすぐな心。この幻想郷では、本当に珍しいものよ。……ええ。あなたの言う通り。私は、見抜いてしまった。この一件の、本当の黒幕を。けれど、それを口にすることは、まだできない。名を告げれば、幻想郷は、いま以上の血で染まる。だから私は、この真実を、ひとり抱えていくことにしたの。誰にも告げず、胸の奥に沈めて」
「それは、あまりに重い荷ではありませんか」
妖夢が問うと、さとりは静かに首を振った。
「重いわ。とても。けれど、これが私の役目なの。すべての心を読める者の。私は、読んではならぬものまで読んでしまう。だから、抱えてはならぬものまで、抱えることになる。……いいのよ、妖夢。あなたは、あなたの筋を通しなさい。魔理沙を守り、借金を取り立て、あなたの刀が誰を守るために抜かれるのかを、忘れずにいなさい。真実の重荷は、私が持つわ」
そう言うと、さとりは静かに背を向けた。
夜桜の花びらが、その細い後ろ姿へと降り注ぐ。地の底へと還っていくその背に、妖夢は深く一礼した。この心を読む妖怪が、いま幻想郷でもっとも重い秘密を、たった一人で抱えて闇の底へと降りていく。その孤独の深さを思うと、妖夢の胸は静かに痛んだ。だがさとりの言う通りだった。それがこの妖怪の役目であり、そして妖夢には妖夢の筋がある。互いの筋を通すことでしか、この汚れた幻想郷では立っていられないのだった。
さとりの姿が、夜桜の帳の向こうへと消えた。
庭には、白玉楼の主従と、生き延びた魔理沙だけが残された。月は中天へと昇り、冥界の桜は、その淡い光を浴びて、なお音もなく花びらを降らせ続けている。生と死の境に咲くその花は、今宵この庭で流された血も、そして地霊殿のさとりが抱えて去った真実も、すべてを静かに見下ろしていた。
「終わったのですね。ひとまずは」
妖夢が呟くと、幽々子が静かに首を振った。
「ひとまずは、ね。だけれど、始まったとも言えるわ。館を追われた影が牙を剥き、その背後に大きな手が控えている。この幻想郷の均衡は、もう元には戻らない。今宵の宴は、その新しい戦いの、始まりを告げる鐘だったのよ。妖夢、あなたの刀は、これからも幾度となく抜かれることになるでしょうね」
妖夢は、その言葉を静かに受け止めた。
自分の右手を、そっと見つめる。北の山で初めて人を斬り、そして今宵、また一つ刃を交えたその手を。手のひらには、まだあの手応えが残っているような気がした。だが妖夢の心は、不思議と静かだった。守るべきものさえ見失わなければ、この刃は迷わない。その一点を、妖夢はこの一件を通じて、確かに我が身で学んだのだった。
「望むところです」
妖夢は、静かに答えた。
「あなたを狙う影が現れるたびに、私は刀を抜きます。魔理沙さんを守るために。そして白玉楼の筋を通すために。その影がどれほど深い闇に潜んでいようとも、いつか必ず、その顔を明るみに引きずり出してみせます。それが、白玉楼の取り立て人としての、私の務めですから」
魔理沙が、その言葉を聞いて、ふっと笑った。
「頼もしいねえ、死神さん。ま、せいぜい頼りにさせてもらうぜ。……なあ、妖夢。この夜桜、綺麗だな。生と死の境に咲くってのは、こういうことか。血の匂いのすぐそばで、こんなに白く咲いてやがる。まるで、この幻想郷そのものみたいだ」
妖夢は、その言葉に静かに頷いた。
血の匂いのすぐそばで、白く咲き誇る夜桜。それは確かに、この幻想郷そのものの姿だった。美しさと醜さ、救いと殺意、筋を通す者と筋を捨てる者。そのすべてが、同じ一つの庭に、分かちがたく咲いている。全員が悪党であるこの郷で、それでも筋を通す者がいる。血を流してでも守るべきものを守る者が。妖夢はその一線を、北の山で越え、そして今宵また、この夜桜の下で守り抜いたのだった。
夜が、静かに更けていった。
白玉楼の庭に、夜桜だけが淡く光を放ち続けている。地の底では、さとりがひとり、幻想郷でもっとも重い秘密を抱えて、その眼を静かに閉じているだろう。館を追われた影は、その顔を闇に隠したまま、次の一手を練っているだろう。そしてその影の、さらに奥に立つ大きな手は、すべてを見透かすように、静かに嗤っているだろう。
だがそれは、また別の夜の物語である。
今宵はただ、生き延びた魔理沙が、白玉楼の夜桜の下に立っている。その傍らには、初めて人を斬り、そしてその一線を越えたことを後悔しなかった取り立て人が、静かに刀を抱えて控えている。二人の頭上を、冥界の桜が、雪のように音もなく舞い落ちていく。全員が悪党であるこの幻想郷で、それでも確かに、筋を通した者たちがいた。その証を、散り続ける夜桜だけが、静かに見下ろしていた。
散り続ける夜桜だけが、この幻想郷のすべてを見下ろすように、闇のなかで白く咲いていた。
そしてその花の、さらに奥の奥で名も知れぬ後ろ盾が次の刃を研ぐ音を、地霊殿のさとりだけがひとり静かに聞いていた。