「では――始めましょう」
デントの声が落ちた瞬間、空気が静かに切り替わった。
レストランみたいな匂いの残るジムの奥で、シンはミジュマルの背中を見る。
相棒の耳がぴんと立っていた。
緊張していないわけではない。
でも、逃げ腰でもない。
それだけで、少しだけ呼吸が整う。
「ヤナップ、様子を見ますよ」
デントの最初の指示は、拍子抜けするほど静かだった。
けれど、その静けさがかえって嫌だった。
様子を見る、という言葉の中に、こっちを測る意図がはっきり入っている。
「ミジュマル、先に触れろ。みずでっぽう!」
開始と同時に、ミジュマルが口を開く。
一直線に飛んだ水は、けれどヤナップに届く寸前で逸らされた。
避けた、というより、流した。
ヤナップは半歩だけ位置を変え、細い身体をしならせるようにして水の筋から外れていた。
「つるのムチ」
短い声と同時に、緑の蔓がしなる。
速い。
ミジュマルが身をひねって一本は避けたが、もう一本が肩を打った。
乾いた音が鳴る。
「っ……!」
大きな一撃ではない。
だが、軽くはない。
シンはすぐに気づく。
これは力で押すタイプの攻撃じゃない。
距離と角度を握るための鞭だ。
「ミジュマル、近づけ!」
言うと同時に、相棒が床を蹴る。
だがヤナップはそこで下がらない。
むしろこちらが詰めてくるのを待っていたみたいに、横へ弾む。
再び蔓。
今度は足もとを払う軌道だった。
ミジュマルの体勢がわずかに崩れる。
「ひっかく」
ヤナップが滑りこむ。
小さな爪が胸元を掠め、ミジュマルが後ろへ押される。
「戻れ!」
シンの声で相棒が跳ね退く。
間一髪だった。
もう一拍遅れていたら、もっと深く入られていた。
外で見ているベルが、小さく息を呑む気配がした。
だが、シンは振り向かない。
見るべきなのは目の前だ。
ヤナップは強い。
タイプ相性が不利なのは分かっていた。
でも、やりにくいのはそれだけじゃない。
あいつは攻め急がない。
こちらの踏み方に合わせて、気持ちよく動ける距離を与えない。
「焦らなくていいですよ」
デントの声は穏やかだった。
腹が立つくらい穏やかに聞こえる。
「相性が悪いときほど、見えるものがあります」
「説教しながら戦うのかよ」
シンが返すと、デントはわずかに笑った。
「ええ。味わいながら、ですね」
意味の分からない返しだった。
でも、その余裕がこっちの苛立ちを煽る。
ミジュマルが低く鳴いた。
まだ行ける、と言っている。
シンは短く息を吸った。
苛立ったまま突っこんでも、この相手にはたぶん噛み合わない。
「……もう一回だ」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
昨日までの自分なら、たぶん勢いで押し返そうとしていた。
でも今は、そうじゃない。
見ろ。
どこで蔓が出る。
どこで足が止まる。
どこで相手が一瞬だけ次の動きへ移る。
「ミジュマル、すぐ撃つな。動きを見ろ」
相棒がわずかに姿勢を落とす。
ヤナップもまた、軽く身構えた。
先に仕掛けたのは向こうだった。
「つるのムチ」
二本の蔓が、今度は上下から来る。
肩と足もと。
さっきと似ている。
だが、完全に同じではない。
上の一本がわずかに遅い。
「下だけ避けろ!」
ミジュマルが床を滑るように身体をずらす。
足もとを薙いだ蔓は空を切り、遅れてきたもう一本が肩へ来る――その瞬間、ミジュマルは貝の刃を持ち上げた。
ぱし、と硬い音。
完全には受け切れない。
それでも、まともには入らない。
「そのままみずでっぽう!」
至近距離から放たれた水がヤナップを叩く。
草タイプに大きな痛手にはなりにくい。
分かっている。
けれど、怯ませるには十分だった。
ヤナップが一歩だけ引く。
その一歩を見て、シンの頭の中で何かが繋がった。
こいつは攻撃のあと、必ず片足を引き直す。
次の動きへ移るための癖だ。
速いから見えにくい。
でも、ないわけじゃない。
「ミジュマル、次は詰めるぞ」
相棒が短く鳴く。
「ヤナップ、距離を保ちなさい」
デントの指示も早い。
当然だ。
癖に気づかれたまま、同じ間合いで続けるような相手じゃない。
ヤナップが大きく円を描くように横へ回る。
ミジュマルも追う。
ただ追うだけでは蔓に払われる。
それはもう分かっている。
だからシンは、追う角度を変えさせた。
「真正面じゃない、右から寄れ!」
ミジュマルが小さく弧を描く。
ヤナップの蔓は長い。
でも、長いぶん、狙いを切り替えるときにわずかな余白が生まれる。
「今です、つるのムチ!」
蔓がしなる。
右から来たミジュマルに合わせて、斜めに振り抜かれる。
「止まるな、くぐれ!」
難しい指示だった。
それでもミジュマルは一瞬だけ迷い、次の瞬間には低く沈んだ。
頭上を緑の鞭が唸って抜ける。
掠った風が耳を揺らす。
「当てろ!」
体当たり。
今度は真正面からぶつかった。
ヤナップの身体がわずかに揺れる。
大きくは飛ばない。
だが、初めて明確にこちらの形で触れた。
ベルが外で小さく声を上げたのが聞こえた。
シンはその声を遠くで聞きながら、目だけは外さない。
まだだ。
これで終わる相手じゃない。
デントの表情も崩れていなかった。
「いい動きです」
その声には本当に感心している響きがあった。
「ですが、こちらも同じ味では終わりませんよ」
ヤナップがすぐに体勢を戻す。
さっきまでより目が鋭い。
デントも、もう“様子見”を終えたのだと分かった。
「ヤナップ、つるのムチからひっかくへ繋げて」
蔓が来る。
今度は一本。
だが、一本だからこそ速い。
ミジュマルが貝で受ける。
その瞬間、ヤナップ自身が低く飛びこんできた。
「しまっ――」
蔓は囮だった。
爪が横から走る。
ミジュマルの頬を掠め、浅くない傷が入る。
さらに身体ごとぶつかられ、相棒が床へ転がった。
「ミジュマル!」
シンの声が響く。
相棒はすぐには起き上がれない。
ヤナップが追撃に入る。
「ひっかく!」
「転がれ!」
命令というより反射だった。
ミジュマルが床を転がる。
爪がさっきまでいた場所を裂いた。
ぎりぎりだ。
あと少し遅れていたら、まともに入っていた。
ミジュマルがようやく起き上がる。
呼吸が少し荒い。
頬の傷も目立つ。
外からベルの心配そうな声がしたが、今度も内容までは聞き取れなかった。
代わりに、トウヤでもチェレンでもない、ミジュマルの短い鳴き声だけがはっきり届く。
まだやれる。
シンは唇を噛みそうになるのをこらえた。
強い。
デントは強い。
タイプ相性以前に、こっちの思考をずらしてくる。
でも、それで終わるならここへ来た意味がない。
「……なあ、ミジュマル」
シンが低く呼ぶ。
相棒がこちらを見る。
「あと一回、思いきり噛み合わせるぞ」
言葉の意味を全部理解しているわけじゃないだろう。
それでもミジュマルは、妙に真っ直ぐな目で鳴いた。
その返事で十分だった。
シンはヤナップの足もとを見る。
軽い。
速い。
床の上での切り返しもいい。
なら、その軽さを少し狂わせればいい。
「ミジュマル、床だ!」
デントの眉がほんのわずかに動く。
みずでっぽうはヤナップではなく、その手前の床へ叩きつけられた。
木の表面が一気に濡れる。
ヤナップがすぐに横へ飛ぶ。
だが、さっきまでと同じ感覚では踏み切れない。
足裏が、ほんの少しだけずれた。
その“ほんの少し”が欲しかった。
「今!」
ミジュマルが一気に詰める。
ヤナップは蔓で迎えようとする。
「貝で押さえろ!」
貝の刃と蔓がぶつかる。
受けるだけじゃない。
押さえる。
巻きつく前に、横へ弾く。
ヤナップの腕が開いた。
「体当たり!」
距離はもうない。
小柄な身体がそのままぶつかる。
ヤナップが後ろへよろめいた。
でも、まだ倒れない。
デントの目が鋭くなる。
「立て直して、ひっか――」
最後まで言わせなかった。
「もう一発、みずでっぽう!」
至近距離。
避ける余地の少ない角度。
水がまともに顔と胸へ当たる。
ヤナップの身体が大きく揺れ、そのまま床へ尻もちをついた。
数秒。
誰も動かない。
ヤナップは立ち上がろうとした。
けれど腕に力が入らず、途中で止まる。
もう一度踏ん張ろうとして、やっぱり身体が持ち上がらない。
デントはその様子を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「……そこまでです」
場の空気が、ようやくほどけた。
ベルが息を吐く音がする。
トウヤの「すげえな」が少し遅れて聞こえた。
チェレンは何も言わなかったが、黙ったまま見ている気配があった。
シンはすぐには返事ができなかった。
勝った。
その実感が来るより先に、膝から力が抜けそうになる。
ミジュマルがふらつきながらも胸を張る。
その姿を見て、ようやくシンは息をついた。
「……よくやった」
しゃがんで頭へ手を伸ばすと、相棒は少しだけ誇らしげに鳴いた。
デントがヤナップをボールへ戻す。
その動作は丁寧だった。
負けた悔しさがないわけじゃないだろう。
それでも、敗れた相棒への信頼が態度に残っている。
「見事でした」
デントが言う。
さっきまでの戦いの緊張を引きずらない、澄んだ声だった。
「不利な相性を無理にひっくり返そうとせず、どこなら噛み合うのかを最後まで探していた」
その言葉に、シンは少しだけ目を細める。
腹が立たないわけではない。
でも、もう最初ほどではなかった。
「そっちがそういう戦い方させたんだろ」
「ええ」
デントはあっさり認めた。
「そのためのジムですから」
ポッドが外から身を乗り出す。
「いやあ、いい勝負だったね」
コーンも穏やかに笑った。
「最初のジム戦で、あそこまで相手の癖を見て変えられるのは立派だよ」
ベルがようやく中へ駆け寄ってくる。
「シン! ミジュマル! すごかった!」
声が大きい。
でも、いまはそれが少しだけ心地よかった。
「最後の床ぬらしたの、あれ考えてたの?」
「途中で思いついた」
「途中で!?」
「うるさいな」
ベルはうるさかったが、目は本気で嬉しそうだった。
トウヤは肩をすくめる。
「やっぱり似合うよ、一番手」
「だからその言い方やめろって」
チェレンはミジュマルの傷を見てから、静かに言った。
「でも、無理を通した勝ち方じゃなかった。そこはよかったと思う」
それはチェレンなりのかなり高い評価なのだと、シンにも分かった。
デントが小さなケースを取り出す。
中には、三つの突起を持つバッジが収められていた。
「トライバッジです」
差し出されたそれを見た瞬間、シンは一瞬だけ言葉を失う。
旅に出る前から、バッジは知っていた。
でも、知っているのと自分の手へ渡されるのでは、重みがまるで違う。
「サンヨウジムを越えた証として、これをあなたに」
シンはゆっくり受け取った。
冷たい金属の感触が、指先からじわりと伝わる。
軽いはずなのに、妙に存在感があった。
最初の一個。
それだけで、昨日までの道と今日からの道の境目が少し変わる気がした。
「……ありがと」
短く言うと、デントは穏やかに頷いた。
「こちらこそ」
そして少しだけ笑う。
「最初の味は、少し苦かったでしょう?」
シンは手の中のバッジを見る。
ヤナップの蔓。
足を取られそうになった床。
何度もずらされた間合い。
思い返せば、たしかに楽な味じゃなかった。
でも、不味かったかと言われれば違う。
「……まあな」
そう返してから、少しだけ口元が緩む。
「でも、悪くなかった」
デントの目が細くなる。
「それなら何よりです」
ジムの奥には、まだベルたちの挑戦が残っている。
けれど、シンにとってはまず、この一戦だった。
最初の相性不利。
最初のジムリーダー。
最初のバッジ。
そして、最初にちゃんと“自分とミジュマルで掴んだ”と思える勝利。
ミジュマルがもう一度鳴く。
その声は、さっきまでよりずっと晴れていた。
シンはバッジを握り直す。
最初の皿は、もう運ばれた。
そこに乗っていた苦さごと、ちゃんと飲み込めた気がした。