BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第10話 苦い葉

「では――始めましょう」

 

デントの声が落ちた瞬間、空気が静かに切り替わった。

 

レストランみたいな匂いの残るジムの奥で、シンはミジュマルの背中を見る。

 

相棒の耳がぴんと立っていた。

 

緊張していないわけではない。

 

でも、逃げ腰でもない。

 

それだけで、少しだけ呼吸が整う。

 

「ヤナップ、様子を見ますよ」

 

デントの最初の指示は、拍子抜けするほど静かだった。

 

けれど、その静けさがかえって嫌だった。

 

様子を見る、という言葉の中に、こっちを測る意図がはっきり入っている。

 

「ミジュマル、先に触れろ。みずでっぽう!」

 

開始と同時に、ミジュマルが口を開く。

 

一直線に飛んだ水は、けれどヤナップに届く寸前で逸らされた。

 

避けた、というより、流した。

 

ヤナップは半歩だけ位置を変え、細い身体をしならせるようにして水の筋から外れていた。

 

「つるのムチ」

 

短い声と同時に、緑の蔓がしなる。

 

速い。

 

ミジュマルが身をひねって一本は避けたが、もう一本が肩を打った。

 

乾いた音が鳴る。

 

「っ……!」

 

大きな一撃ではない。

 

だが、軽くはない。

 

シンはすぐに気づく。

 

これは力で押すタイプの攻撃じゃない。

 

距離と角度を握るための鞭だ。

 

「ミジュマル、近づけ!」

 

言うと同時に、相棒が床を蹴る。

 

だがヤナップはそこで下がらない。

 

むしろこちらが詰めてくるのを待っていたみたいに、横へ弾む。

 

再び蔓。

 

今度は足もとを払う軌道だった。

 

ミジュマルの体勢がわずかに崩れる。

 

「ひっかく」

 

ヤナップが滑りこむ。

 

小さな爪が胸元を掠め、ミジュマルが後ろへ押される。

 

「戻れ!」

 

シンの声で相棒が跳ね退く。

 

間一髪だった。

 

もう一拍遅れていたら、もっと深く入られていた。

 

外で見ているベルが、小さく息を呑む気配がした。

 

だが、シンは振り向かない。

 

見るべきなのは目の前だ。

 

ヤナップは強い。

 

タイプ相性が不利なのは分かっていた。

 

でも、やりにくいのはそれだけじゃない。

 

あいつは攻め急がない。

 

こちらの踏み方に合わせて、気持ちよく動ける距離を与えない。

 

「焦らなくていいですよ」

 

デントの声は穏やかだった。

 

腹が立つくらい穏やかに聞こえる。

 

「相性が悪いときほど、見えるものがあります」

 

「説教しながら戦うのかよ」

 

シンが返すと、デントはわずかに笑った。

 

「ええ。味わいながら、ですね」

 

意味の分からない返しだった。

 

でも、その余裕がこっちの苛立ちを煽る。

 

ミジュマルが低く鳴いた。

 

まだ行ける、と言っている。

 

シンは短く息を吸った。

 

苛立ったまま突っこんでも、この相手にはたぶん噛み合わない。

 

「……もう一回だ」

 

自分に言い聞かせるみたいに呟く。

 

昨日までの自分なら、たぶん勢いで押し返そうとしていた。

 

でも今は、そうじゃない。

 

見ろ。

 

どこで蔓が出る。

 

どこで足が止まる。

 

どこで相手が一瞬だけ次の動きへ移る。

 

「ミジュマル、すぐ撃つな。動きを見ろ」

 

相棒がわずかに姿勢を落とす。

 

ヤナップもまた、軽く身構えた。

 

先に仕掛けたのは向こうだった。

 

「つるのムチ」

 

二本の蔓が、今度は上下から来る。

 

肩と足もと。

 

さっきと似ている。

 

だが、完全に同じではない。

 

上の一本がわずかに遅い。

 

「下だけ避けろ!」

 

ミジュマルが床を滑るように身体をずらす。

 

足もとを薙いだ蔓は空を切り、遅れてきたもう一本が肩へ来る――その瞬間、ミジュマルは貝の刃を持ち上げた。

 

ぱし、と硬い音。

 

完全には受け切れない。

 

それでも、まともには入らない。

 

「そのままみずでっぽう!」

 

至近距離から放たれた水がヤナップを叩く。

 

草タイプに大きな痛手にはなりにくい。

 

分かっている。

 

けれど、怯ませるには十分だった。

 

ヤナップが一歩だけ引く。

 

その一歩を見て、シンの頭の中で何かが繋がった。

 

こいつは攻撃のあと、必ず片足を引き直す。

 

次の動きへ移るための癖だ。

 

速いから見えにくい。

 

でも、ないわけじゃない。

 

「ミジュマル、次は詰めるぞ」

 

相棒が短く鳴く。

 

「ヤナップ、距離を保ちなさい」

 

デントの指示も早い。

 

当然だ。

 

癖に気づかれたまま、同じ間合いで続けるような相手じゃない。

 

ヤナップが大きく円を描くように横へ回る。

 

ミジュマルも追う。

 

ただ追うだけでは蔓に払われる。

 

それはもう分かっている。

 

だからシンは、追う角度を変えさせた。

 

「真正面じゃない、右から寄れ!」

 

ミジュマルが小さく弧を描く。

 

ヤナップの蔓は長い。

 

でも、長いぶん、狙いを切り替えるときにわずかな余白が生まれる。

 

「今です、つるのムチ!」

 

蔓がしなる。

 

右から来たミジュマルに合わせて、斜めに振り抜かれる。

 

「止まるな、くぐれ!」

 

難しい指示だった。

 

それでもミジュマルは一瞬だけ迷い、次の瞬間には低く沈んだ。

 

頭上を緑の鞭が唸って抜ける。

 

掠った風が耳を揺らす。

 

「当てろ!」

 

体当たり。

 

今度は真正面からぶつかった。

 

ヤナップの身体がわずかに揺れる。

 

大きくは飛ばない。

 

だが、初めて明確にこちらの形で触れた。

 

ベルが外で小さく声を上げたのが聞こえた。

 

シンはその声を遠くで聞きながら、目だけは外さない。

 

まだだ。

 

これで終わる相手じゃない。

 

デントの表情も崩れていなかった。

 

「いい動きです」

 

その声には本当に感心している響きがあった。

 

「ですが、こちらも同じ味では終わりませんよ」

 

ヤナップがすぐに体勢を戻す。

 

さっきまでより目が鋭い。

 

デントも、もう“様子見”を終えたのだと分かった。

 

「ヤナップ、つるのムチからひっかくへ繋げて」

 

蔓が来る。

 

今度は一本。

 

だが、一本だからこそ速い。

 

ミジュマルが貝で受ける。

 

その瞬間、ヤナップ自身が低く飛びこんできた。

 

「しまっ――」

 

蔓は囮だった。

 

爪が横から走る。

 

ミジュマルの頬を掠め、浅くない傷が入る。

 

さらに身体ごとぶつかられ、相棒が床へ転がった。

 

「ミジュマル!」

 

シンの声が響く。

 

相棒はすぐには起き上がれない。

 

ヤナップが追撃に入る。

 

「ひっかく!」

 

「転がれ!」

 

命令というより反射だった。

 

ミジュマルが床を転がる。

 

爪がさっきまでいた場所を裂いた。

 

ぎりぎりだ。

 

あと少し遅れていたら、まともに入っていた。

 

ミジュマルがようやく起き上がる。

 

呼吸が少し荒い。

 

頬の傷も目立つ。

 

外からベルの心配そうな声がしたが、今度も内容までは聞き取れなかった。

 

代わりに、トウヤでもチェレンでもない、ミジュマルの短い鳴き声だけがはっきり届く。

 

まだやれる。

 

シンは唇を噛みそうになるのをこらえた。

 

強い。

 

デントは強い。

 

タイプ相性以前に、こっちの思考をずらしてくる。

 

でも、それで終わるならここへ来た意味がない。

 

「……なあ、ミジュマル」

 

シンが低く呼ぶ。

 

相棒がこちらを見る。

 

「あと一回、思いきり噛み合わせるぞ」

 

言葉の意味を全部理解しているわけじゃないだろう。

 

それでもミジュマルは、妙に真っ直ぐな目で鳴いた。

 

その返事で十分だった。

 

シンはヤナップの足もとを見る。

 

軽い。

 

速い。

 

床の上での切り返しもいい。

 

なら、その軽さを少し狂わせればいい。

 

「ミジュマル、床だ!」

 

デントの眉がほんのわずかに動く。

 

みずでっぽうはヤナップではなく、その手前の床へ叩きつけられた。

 

木の表面が一気に濡れる。

 

ヤナップがすぐに横へ飛ぶ。

 

だが、さっきまでと同じ感覚では踏み切れない。

 

足裏が、ほんの少しだけずれた。

 

その“ほんの少し”が欲しかった。

 

「今!」

 

ミジュマルが一気に詰める。

 

ヤナップは蔓で迎えようとする。

 

「貝で押さえろ!」

 

貝の刃と蔓がぶつかる。

 

受けるだけじゃない。

 

押さえる。

 

巻きつく前に、横へ弾く。

 

ヤナップの腕が開いた。

 

「体当たり!」

 

距離はもうない。

 

小柄な身体がそのままぶつかる。

 

ヤナップが後ろへよろめいた。

 

でも、まだ倒れない。

 

デントの目が鋭くなる。

 

「立て直して、ひっか――」

 

最後まで言わせなかった。

 

「もう一発、みずでっぽう!」

 

至近距離。

 

避ける余地の少ない角度。

 

水がまともに顔と胸へ当たる。

 

ヤナップの身体が大きく揺れ、そのまま床へ尻もちをついた。

 

数秒。

 

誰も動かない。

 

ヤナップは立ち上がろうとした。

 

けれど腕に力が入らず、途中で止まる。

 

もう一度踏ん張ろうとして、やっぱり身体が持ち上がらない。

 

デントはその様子を見つめ、それから静かに息を吐いた。

 

「……そこまでです」

 

場の空気が、ようやくほどけた。

 

ベルが息を吐く音がする。

 

トウヤの「すげえな」が少し遅れて聞こえた。

 

チェレンは何も言わなかったが、黙ったまま見ている気配があった。

 

シンはすぐには返事ができなかった。

 

勝った。

 

その実感が来るより先に、膝から力が抜けそうになる。

 

ミジュマルがふらつきながらも胸を張る。

 

その姿を見て、ようやくシンは息をついた。

 

「……よくやった」

 

しゃがんで頭へ手を伸ばすと、相棒は少しだけ誇らしげに鳴いた。

 

デントがヤナップをボールへ戻す。

 

その動作は丁寧だった。

 

負けた悔しさがないわけじゃないだろう。

 

それでも、敗れた相棒への信頼が態度に残っている。

 

「見事でした」

 

デントが言う。

 

さっきまでの戦いの緊張を引きずらない、澄んだ声だった。

 

「不利な相性を無理にひっくり返そうとせず、どこなら噛み合うのかを最後まで探していた」

 

その言葉に、シンは少しだけ目を細める。

 

腹が立たないわけではない。

 

でも、もう最初ほどではなかった。

 

「そっちがそういう戦い方させたんだろ」

 

「ええ」

 

デントはあっさり認めた。

 

「そのためのジムですから」

 

ポッドが外から身を乗り出す。

 

「いやあ、いい勝負だったね」

 

コーンも穏やかに笑った。

 

「最初のジム戦で、あそこまで相手の癖を見て変えられるのは立派だよ」

 

ベルがようやく中へ駆け寄ってくる。

 

「シン! ミジュマル! すごかった!」

 

声が大きい。

 

でも、いまはそれが少しだけ心地よかった。

 

「最後の床ぬらしたの、あれ考えてたの?」

 

「途中で思いついた」

 

「途中で!?」

 

「うるさいな」

 

ベルはうるさかったが、目は本気で嬉しそうだった。

 

トウヤは肩をすくめる。

 

「やっぱり似合うよ、一番手」

 

「だからその言い方やめろって」

 

チェレンはミジュマルの傷を見てから、静かに言った。

 

「でも、無理を通した勝ち方じゃなかった。そこはよかったと思う」

 

それはチェレンなりのかなり高い評価なのだと、シンにも分かった。

 

デントが小さなケースを取り出す。

 

中には、三つの突起を持つバッジが収められていた。

 

「トライバッジです」

 

差し出されたそれを見た瞬間、シンは一瞬だけ言葉を失う。

 

旅に出る前から、バッジは知っていた。

 

でも、知っているのと自分の手へ渡されるのでは、重みがまるで違う。

 

「サンヨウジムを越えた証として、これをあなたに」

 

シンはゆっくり受け取った。

 

冷たい金属の感触が、指先からじわりと伝わる。

 

軽いはずなのに、妙に存在感があった。

 

最初の一個。

 

それだけで、昨日までの道と今日からの道の境目が少し変わる気がした。

 

「……ありがと」

 

短く言うと、デントは穏やかに頷いた。

 

「こちらこそ」

 

そして少しだけ笑う。

 

「最初の味は、少し苦かったでしょう?」

 

シンは手の中のバッジを見る。

 

ヤナップの蔓。

 

足を取られそうになった床。

 

何度もずらされた間合い。

 

思い返せば、たしかに楽な味じゃなかった。

 

でも、不味かったかと言われれば違う。

 

「……まあな」

 

そう返してから、少しだけ口元が緩む。

 

「でも、悪くなかった」

 

デントの目が細くなる。

 

「それなら何よりです」

 

ジムの奥には、まだベルたちの挑戦が残っている。

 

けれど、シンにとってはまず、この一戦だった。

 

最初の相性不利。

 

最初のジムリーダー。

 

最初のバッジ。

 

そして、最初にちゃんと“自分とミジュマルで掴んだ”と思える勝利。

 

ミジュマルがもう一度鳴く。

 

その声は、さっきまでよりずっと晴れていた。

 

シンはバッジを握り直す。

 

最初の皿は、もう運ばれた。

 

そこに乗っていた苦さごと、ちゃんと飲み込めた気がした。

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