トライバッジを受け取ったあとも、シンはしばらく手の中の感触をうまく離せなかった。
冷たい金属の重みは小さい。
それなのに、旅へ出る前に思っていたよりずっと、指先へ残るものがある。
ミジュマルもまだ少し息が上がっていたが、顔つきは明らかに誇らしげだった。
ベルがその相棒を見て、何か言いたそうに口を開きかける。
でも、すぐには言葉にならなかった。
ポッドがそんな空気を軽くほぐすみたいに、手をひらひら振った。
「さて、と。感心してるのは本当だけど、ジム戦はまだ終わりじゃないよ」
コーンも頷く。
「次に挑む子はいる?」
その問いに、場が少しだけ静まる。
さっきまではシンの一戦を見ることに集中していた。
けれど、見終えた今、次に立つ側へ回る現実が急にはっきりしてくる。
ベルは目を伏せた。
チェレンは表情を動かさない。
トウヤはいつもの軽い顔つきのままだが、何も考えていないわけではないのが分かる。
シンはその空気を横目に見ながら、壁際へ少し下がった。
勝ったからといって、他人の番まで自分の熱の中にいたくはない。
ここからは、それぞれの勝負だ。
「……わたし、行く」
最初にそう言ったのはベルだった。
声は大きくなかった。
でも、聞き返す必要はない程度にはっきりしていた。
シンが顔を上げる。
ベルは自分でも驚いたみたいに一度だけ瞬きをして、それから今度は少しだけ強く言い直した。
「わたしが次、行く」
トウヤが少し目を丸くする。
「お、意外と早かったな」
「待ってたらもっと怖くなりそうだから」
ベルは苦笑いした。
「あと……見たばっかりのうちに行きたい」
その言葉に、シンはわずかに眉を寄せる。
意味は分かった。
自分の戦いを見た直後の勢いの中で、ということだろう。
でも、それがいい方向へ働くとは限らない。
チェレンが静かにベルを見る。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、行く」
「矛盾してるよ」
「知ってる」
それでもベルは下がらなかった。
デントが穏やかな目でそのやり取りを見ていた。
「では、次はベルさんですね」
「……はい」
返事は少しだけかすれた。
ポッドが笑う。
「怖がってる顔だね」
「言わないでください!」
ベルがほとんど反射みたいに返すと、コーンがくすりと笑った。
「でも、怖いまま来る子は嫌いじゃないよ」
その言い方は、からかい半分ではなかった。
ベルもそれを感じたのか、少しだけ息を吐いてから頷く。
「……よろしくお願いします」
ベルが対戦位置へ向かう間、シンはミジュマルを抱き上げて壁際に寄った。
相棒はまだ少し疲れているが、すでに次を見たがっているような顔をしている。
「落ち着けよ」
小さく言うと、ミジュマルは不服そうに鳴いた。
お前が言うな、みたいな顔だった。
「ベル、頑張れ」
トウヤが気負いのない声で言う。
「焦るなよ」
チェレンは短く、それだけ告げた。
ベルは一度振り返り、ぎこちなく笑う。
「う、うん」
シンは何も言わなかった。
言えなかったわけではない。
ただ、いま下手に言葉を足すと、かえって余計なものを背負わせる気がした。
ベルはベルでやるしかない。
自分と同じようにはならないし、なる必要もない。
頭ではそう分かっていた。
けれど、さっきのベルの「見たばっかりのうちに」という言葉が、少しだけ引っかかっていた。
デントが定位置へ立つ。
「先ほどと同じく、一対一で行います」
ベルもボールを握りしめた。
「はい」
「準備はいいですか?」
「……はいっ」
今度は少しだけ声が上ずった。
その緊張が伝わったのか、ベルのミジュマルも落ち着かなさそうに足を動かす。
シンはそれを見て、やはり嫌な予感を覚えた。
ベルは緊張すると、言葉が先に増える。
そのぶん、相手より自分の焦りに振り回されやすい。
「では、始めましょう」
デントのヤナップが場へ出る。
ベルのミジュマルも続いた。
同じ組み合わせ。
同じジムリーダー。
ほんの少し前にシンがやったばかりの構図だ。
それが、ベルにとって助けになるか、重しになるか。
答えはすぐに出た。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
開始と同時に、ベルは先に技を選んだ。
迷わないこと自体は悪くない。
だが、そのタイミングと口調に、見たままをなぞっている硬さがあった。
ミジュマルの水はまっすぐ飛ぶ。
ヤナップは半歩で外した。
そしてほとんど間を置かずに蔓がしなる。
「つるのムチ」
「か、かわして!」
ベルの声が半拍遅れる。
ミジュマルは避けきれず、肩を打たれた。
大きくはない。
でも、受けた瞬間にベルの表情が目に見えて強張る。
「だ、大丈夫!? ミジュマル!」
その呼びかけで、相棒の意識が一瞬だけベルへ向いた。
そこへヤナップが横から滑りこむ。
「ひっかく」
「危ないっ」
ベルの指示は今度も少し遅い。
ミジュマルは無理に身をひねって爪を浅く受けたが、体勢を崩して床へ尻もちをついた。
シンは小さく息を吐く。
やっぱりだ。
ベルは今、相手を見ていないわけじゃない。
でも、自分の不安と、ミジュマルが傷つくことへの怖さのほうを強く見すぎている。
「ベル、落ち着いて見ろ」
思わず口に出すと、ベルは一瞬だけこちらを見た。
その一瞬がまずかった。
ヤナップは止まらない。
「距離を取って、つるのムチ」
蔓が足もとを払う。
ミジュマルが転がる。
「ミジュマル!」
ベルの声が高くなる。
デントの動きは変わらない。
急かしも、追い込みすぎる感じもない。
ただ、ベルが乱れた分だけ、きちんと形を取りにきている。
それがなおさら厄介だった。
「立って、みずでっぽう、えっと、右から――」
指示が途中でほどける。
ベルのミジュマルも、どの動きを優先すべきか迷った。
撃つのか、ずれるのか、近づくのか。
その迷いの隙へ、ヤナップがまた触れる。
「ひっかく」
今度は頬へ浅い傷が入った。
ベルが唇を噛む。
その顔を見た瞬間、シンははっきり分かった。
こいつはいま、自分が勝てるかどうかより、ミジュマルに痛い思いをさせていることに足を取られている。
優しいのが悪いわけじゃない。
でも、怖がり方の向きがずれると、戦いではそのまま遅れになる。
トウヤが横で小さく呟く。
「硬いな」
チェレンは短く返した。
「シンのやり方をなぞろうとしてる」
その言葉に、シンは何も言わなかった。
否定できなかったからだ。
ベルはもう一度水を撃たせた。
今度はタイミング自体は悪くなかった。
けれど、ヤナップはそれも読んでいる。
「受けずに流しなさい」
デントの声に合わせ、ヤナップが身体をひねる。
まともに食らわない。
そしてすぐ、間合いを詰め返す。
「ベルさん」
戦いの最中だというのに、デントの声は静かだった。
「いま、誰の戦いを見ていますか」
ベルの目が揺れる。
「え……」
「ヤナップですか。ミジュマルですか。それとも、少し前のシンさんですか」
その問いは、優しいようでいて容赦がなかった。
ベルが息を止める。
ミジュマルもまた、次の指示を待ちながら不安そうにこちらを見ていた。
シンは眉をひそめる。
きつい言い方だと思った。
でも、外れてはいない。
ベルはさっきから、目の前のヤナップと自分のミジュマルのあいだに、自分が見たシンの勝ち方を差しこんでしまっている。
だから遅れる。
だから迷う。
「ミジュマル……」
ベルの声が小さくなる。
そこでヤナップは追撃に来なかった。
デントがわざと待たせたのだと分かった。
ベルに考える間を与えている。
あるいは、ここで立て直せるかも含めて見ているのかもしれない。
ベルは一度だけ目を閉じた。
それから、深く息を吸う。
「……ごめん」
誰に向けたのか、最初は分からなかった。
でも次の言葉で、はっきりした。
「シンの真似しようとしてた」
ミジュマルが小さく鳴く。
ベルはその声を聞いて、ようやく相棒だけを見る顔になった。
怖さが消えたわけではない。
でも、視線の置き場が戻ってきた。
「ミジュマル、いっしょにやろ」
その一言は、さっきまでの指示よりずっと短かった。
けれど、不思議なくらいぶれがなかった。
デントの目が少しだけ細くなる。
「いいですね」
ベルのミジュマルが姿勢を立て直す。
まだ傷はある。
呼吸も乱れている。
それでも、目だけはさっきよりずっとはっきりしていた。
「ヤナップ、つるのムチ」
蔓が来る。
ベルは今度、無理に全部を避けさせなかった。
「受けていい、でも止まらないで!」
ミジュマルは貝で蔓を受け、少し押されながらも踏ん張る。
完全には防げない。
でも、そこで硬直しない。
「そのまま、左!」
ベルの指示で相棒がずれる。
ヤナップの追いの爪が空を切った。
シンはそこで少しだけ目を見開く。
細かさはない。
でも、ベルの指示はようやく自分のミジュマルの動きとひとつに繋がり始めていた。
「みずでっぽう!」
今度の水は威力より牽制だった。
ヤナップが避ける方向へ、ベルはすぐ次を足した。
「近づいて、たいあたり!」
ミジュマルが真正面からぶつかる。
ヤナップも完全には受けきれず、少しだけ体勢を崩した。
初めてベルの形で触れた一撃だった。
トウヤが小さく「お」と声を漏らす。
チェレンも黙って見ていた。
ベルの顔には、さっきまでとは違う種類の緊張があった。
怖いままではある。
でも、いまは怖さに引きずられてはいない。
「そのままもう――」
言いかけた瞬間、デントが動く。
「下がって、つるのムチ」
ヤナップは崩れた体勢をすぐ立て直した。
蔓が下から跳ね上がる。
ミジュマルの足が浮く。
「きゃっ……!」
ベルの声が漏れた。
その一瞬で、また指示が遅れる。
ヤナップは待ってくれない。
「ひっかく」
着地際を取られ、ミジュマルが大きくよろめく。
膝をつく。
ベルが息を呑んだ。
「立って、ミジュマル!」
相棒は立とうとした。
でも、足が少しもつれる。
蔓での削りと、さっきまでの細かい被弾が効いていた。
無理もない。
ベルの顔が青くなる。
「もう一回、いける? いけるよね、だいじょうぶだよね」
その問いかけは、励ましというより、自分の不安を押し戻すための言葉だった。
ミジュマルは鳴いた。
まだやると言っている。
けれど、その気持ちと、もう一歩の身体は別だ。
デントはそこを見逃さなかった。
「最後です。ヤナップ」
ヤナップが駆ける。
ベルは咄嗟に声を上げた。
「みずでっぽ――」
間に合わない。
シンにも分かった。
ミジュマルにも、もう少し早い段でそう見えていたはずだ。
それでも相棒は口を開いた。
水は出る。
でも、浅い。
ヤナップは真正面から抜けてくる。
「ひっかく」
最後の一撃が決まる。
ミジュマルの身体が後ろへ倒れ、そのまま起き上がれなかった。
場が静まる。
ベルは数秒、何も言えなかった。
デントがヤナップを見てから、静かに告げる。
「……そこまでです」
ベルの肩が小さく震えた。
泣くかと思った。
でも、ベルは唇を強く結んで、すぐには涙を落とさなかった。
その代わり、ミジュマルのところへ駆け寄る。
「ごめん……」
しゃがみこんで、最初に出た言葉がそれだった。
「ごめん、ミジュマル」
相棒は薄く目を開け、かすかに鳴く。
責めている声ではなかった。
その鳴き声が余計にベルの胸へ刺さったのか、今度こそ目の端が赤くなる。
デントがヤナップをボールへ戻しながら歩み寄った。
「謝らなくていい、とまでは言いません」
ベルが顔を上げる。
きついことを言われるのかと思ったのかもしれない。
けれどデントの声は、やはり静かだった。
「でも、謝るだけで終わらせるのは違います」
ベルは黙って聞く。
「あなたは途中で、ちゃんと自分の戦いへ戻りかけました」
「……戻りかけ、です」
小さな声だった。
「はい」
デントは頷く。
「戻れたところもあった。でも、最後まで信じ切る前に、また不安へ引かれた」
その言葉に、ベルは俯いた。
否定できないのだろう。
シンにも、それはよく分かった。
さっきの中盤、ベルは確かに一度だけ良くなった。
自分のミジュマルを見て、自分の言葉で動かしていた。
でも、押し返された瞬間にまた怖さへ戻った。
そこが今の差なのだ。
「ベル」
トウヤが近づいてくる。
「さっきのたいあたりのとこ、よかったよ」
ベルは驚いたように顔を上げた。
「……でも負けた」
「うん。でも、よかったとこはよかった」
トウヤはあっさり言う。
「全部だめだったわけじゃないだろ」
チェレンもその横で立ち止まる。
「途中で持ち直したのは事実だよ」
「チェレン……」
「ただ、そこから崩れたのも事実だ」
慰め切らない言い方だった。
でも、それがチェレンなりの誠実さだと、今のベルにも分かったらしい。
ベルは少しだけ鼻をすすり、ゆっくり頷く。
シンは壁際から離れ、ベルの近くまで来た。
ベルがこちらを見る。
その目に、さっきよりずっとはっきりした悔しさがあった。
「……シン、ごめん」
「何で俺に」
「だって、なんか真似しようとして」
「別にそれはいいだろ」
シンは言った。
本当は、最初にそれを見て少し苛ついた。
でも今は、そこだけを責める気にはなれなかった。
「真似しても勝てるなら、みんなそうしてる」
ベルが少しだけ目を瞬く。
シンはミジュマルを見た。
「でもお前のミジュマル、俺のと同じじゃないだろ」
ベルの相棒は、まだ床に座ったまま荒い息をしている。
シンのミジュマルとは似ているところもある。
でも、違うところもたくさんある。
ベルが相手を思いすぎて迷うように、あのミジュマルもまた、ベルの声色や躊躇いに敏感だった。
たぶん、シンの相棒みたいに強引に引っぱるだけでは噛み合わない。
「だから、お前がやるしかねえよ」
ベルはしばらく何も言わなかった。
やがて、目の端をこすってから、少しだけ笑う。
「……それ、励ましてる?」
「知らねえ」
「たぶん、そういうことにしとく」
涙の残る笑い方だった。
でも、さっきの“ごめん”だけの顔よりはずっとましだった。
ポッドが明るく手を叩く。
「いいねえ、悔しい顔」
「えっ」
ベルが固まる。
コーンがその横で苦笑した。
「言い方は雑だけど、本心だよ」
デントも頷く。
「悔しいということは、終わらせたくないということです」
ベルはその言葉をゆっくり受け取るみたいに、何度か瞬きをした。
「……もう一回、挑めますか」
静かな問いだった。
すぐにでも、という勢いではない。
自分がまだ足りないことを分かったうえでの声だ。
デントは即答しなかった。
一度、ベルとミジュマルを見てから答える。
「もちろん」
それから少しだけ微笑む。
「ただし、次は“いま見た誰か”ではなく、“あなたたち”として来てください」
ベルは、今度こそしっかり頷いた。
「はい」
その返事には、最初に対戦位置へ向かったときより少し重みがあった。
負けた直後なのに、不思議と前より空っぽではない。
負けて、悔しくて、でも何が足りないかが少し見えた。
そういう顔だった。
シンはそれを見て、壁にもたれたまま小さく息を吐く。
四人の中で一番弱い。
それはたぶん、事実だ。
でも、弱いことと、ここで止まることは同じじゃない。
ベルはその違いを、いまようやく自分の実感として掴み始めたのかもしれない。
トライバッジを持つ手の中で、冷たい感触がまだ残っていた。
ひとつ先に越えた側から見ると、同じジムでも景色は少し違う。
けれど、その違いがあるからこそ、次に何を越えるべきかも見えてくる。
ベルはミジュマルを抱き上げる。
相棒もまた、負けたまま終わる顔はしていなかった。
デントが視線を巡らせる。
「さて」
その穏やかな声に、今度はチェレンがわずかに姿勢を正した。
トウヤは相変わらず軽い顔のままだったが、目だけは少し細まっている。
「次は、どなたが来ますか」
ベルの悔しさがまだ場に残っている。
けれど、ジム戦は待ってくれない。
誰かの勝ちも、誰かの負けも、そのまま次の皿へ続いていく。
シンは視線を上げた。
次に立つやつが、どんな味を選ぶのか。
それを見る番が、また来ていた。