「次は、どなたが来ますか」
デントの静かな問いが落ちたあと、場に少しだけ間があいた。
ベルはまだミジュマルを抱えたまま、息を整えている。
悔しさは消えていない。
でも、さっきの負け方を引きずって、そのまま空気を沈めてしまうほどでもなかった。
その沈み切らなさが、逆に次の一歩を難しくしているようにも見えた。
「僕が行く」
答えたのはチェレンだった。
声は最初から整っていた。
シンはそちらを見る。
ベルの敗北を見た直後だというのに、チェレンの表情はほとんど変わっていない。
ただ、変わっていないからこそ分かるものもあった。
目だけが、少し鋭くなっている。
「チェレン……」
ベルが小さく名前を呼ぶ。
チェレンは振り返り、いつもの調子で言った。
「何も気にしなくていいよ」
「でも」
「負けたからって、君の戦いが次の誰かの邪魔になるわけじゃない」
言い方は淡々としていた。
慰めるために柔らかくした口調ではない。
でも、余計な気遣いを混ぜないぶん、かえって真っ直ぐだった。
ベルは少しだけ目を丸くしたあと、小さく頷いた。
「……うん」
トウヤがその横で笑う。
「チェレン、そういうとこたまにちゃんとしてるよな」
「たまに、は余計だよ」
「いつもだと照れるかなって」
「照れないよ」
そう返しながらも、チェレンはわずかに息を吐いた。
緊張していないように見えて、まったく何も感じていないわけではないのだろう。
シンは壁際にもたれたまま、その背中を見る。
ベルとは違う。
チェレンはたぶん、他人の勝ち方を真似しようとはしない。
その代わり、自分のやり方で届くかどうかを厳密に測ろうとする。
それが強さでもあり、たぶん限界にもなる。
コーンが一歩前へ出た。
「じゃあ、次は僕だね」
柔らかく笑っているが、軽いだけの空気ではない。
青い髪が照明に揺れる。
デントやポッドと似た顔立ちなのに、立ったときの空気はまた別だった。
静かで、するりと距離を取るような気配がある。
「僕はコーン。よろしく」
「チェレンです。よろしくお願いします」
礼は崩さない。
そういうところもチェレンらしかった。
ポッドが横から言う。
「チェレンの相棒はポカブかな?」
「そうだよ」
「なら、相手は僕じゃない」
コーンが穏やかに続ける。
「水は炎を見ますから」
その言葉と同時に、ベルが少しだけミジュマルを抱く腕に力を入れた。
タイプ相性。
最初のジムで、避けて通れない当たり前のもの。
チェレンももちろん分かっている顔だった。
動揺した様子はない。
「望むところです」
短く返す。
シンはその言い方に、ほんの少しだけ目を細めた。
強がりではない。
でも、少しだけ言い切りすぎている気もする。
コーンが対戦位置へ向かう。
「じゃあ、始めようか」
チェレンも歩き出した。
その足取りには迷いがない。
ベルのときのような揺れは見えない。
むしろ、揺れが見えないこと自体が、チェレンの戦い方なのだと分かる。
「チェレン」
ベルが小さく呼ぶ。
チェレンは振り返らないまま、足だけを止めた。
「……勝って」
ほんの少しだけ間があってから、チェレンは答える。
「もちろん、そのつもりだよ」
その返事に感情の熱はあまりなかった。
だが、雑でもなかった。
期待を背負うというより、自分の前提として受け取った声だった。
対戦位置に立つ。
コーンがボールを軽く弄ぶように指先で回した。
「君はたぶん、よく考えるタイプだね」
「考えずに来る人もいるの?」
「いるよ」
コーンは笑う。
「でも、考える子は見てて分かる」
チェレンは答えず、ポカブのボールを構えた。
いま必要なのは会話ではない。
そういう沈黙だった。
「では、始めましょう」
デントが進行役のように告げる。
次の瞬間、二つのボールが同時に放られた。
チェレンの前へ現れたのはポカブ。
小柄な身体を低くし、最初から前のめりな気配をまとっている。
対するコーンのポケモンはヒヤップだった。
青い毛並みを揺らし、こちらを軽く覗きこむような目つき。
ヤナップよりも少し柔らかく見える。
だが、その柔らかさがそのまま隙になるとは思えなかった。
「ポカブ、先に仕掛ける。ひのこ!」
開始直後、チェレンが動く。
判断が早い。
ベルのような迷いも、シンのような探りもない。
まずは取りにいく、という一直線さだった。
ポカブの口から散った火の粉が弾ける。
ヒヤップは横へ跳んだ。
完全には避け切れず、毛先をかすめる。
「いい入りだね」
コーンが言う。
「でも、水は熱を嫌がるだけじゃないよ。みずでっぽう」
細い水流が伸びる。
ポカブは前へ出かけた勢いのまま、まともには避けきれない。
肩に受ける。
鈍い音とともに身体が揺れた。
「そのまま止まるな、たいあたり!」
チェレンの指示は的確だった。
水を受けて下がるより、勢いを切らさない。
ポカブがそのまま突っこむ。
ヒヤップも受け切らず、半歩ぶん押し込まれた。
シンは腕を組んだまま、そのやり取りを見る。
うまい。
チェレンの戦い方は無駄が少ない。
相手が水なら火は通りにくい。
それでも、ひのこを牽制として使い、その後の接近へ繋げる。
理にかなっている。
「いいね」
トウヤが小さく呟く。
「ちゃんと形になってる」
「最初から崩れないのがチェレンだろ」
シンが返すと、トウヤは「まあね」と笑った。
場ではすでに次の交換が始まっていた。
「ヒヤップ、ひっかく」
「ポカブ、左へ」
チェレンの声が落ちる。
ポカブは爪をギリギリでかわし、その脇腹へ身体を押しつけるようにぶつかった。
体格差で押し切るほどではない。
だが、位置をずらすには十分だ。
「もう一度ひのこ!」
至近距離から放たれた火がヒヤップを包む。
今度はさっきより深く入った。
水タイプだからこそ致命打にはなりにくい。
それでも、連続で受ければ軽くはない。
ベルが目を見開く。
「すごい……押してる」
「相性不利でも、やりようはあるってことだよ」
トウヤが言う。
コーンはまだ焦った様子を見せていなかった。
それどころか、ヒヤップの動きをよく見ながら、あえて急がせていない。
「ヒヤップ、離れて」
短い指示で、ヒヤップが距離を取る。
ポカブが追う。
「追わせたいんだ」
チェレンが小さく呟いたのが、シンの位置からでも分かった。
そう、見えた。
ヒヤップは押されて離れたのではない。
次の距離へ誘っている。
「止まれ、ポカブ!」
すぐに修正が入る。
ポカブは床を踏ん張って止まった。
その瞬間に、ヒヤップの水が来る。
「みずでっぽう」
「よけろ!」
完全には間に合わない。
だが直撃も避けた。
肩口を掠める程度にずれて、ポカブは体勢を保つ。
チェレンの目が細くなる。
一度誘いを見抜いた。
その読みは正しい。
だが、コーンのほうもそこで終わらない。
「じゃあ、次はこっちから行こうか」
ヒヤップの動きが少し変わる。
さっきまでより細かく揺れるように距離を測り、チェレンの指示の速さをずらしにきている。
「ひっかく」
「ひのこで牽制!」
火が飛ぶ。
ヒヤップはその手前で引いた。
「みずでっぽう」
今度は牽制返しだった。
浅い水でも、ポカブにとっては鬱陶しい。
視界と足運びを切らされる。
「たいあたり!」
ポカブが突っこむ。
その瞬間、ヒヤップが斜めへ抜けた。
正面へ受けない。
「ひっかく」
横腹に爪が入る。
ポカブが苦しそうに声を漏らした。
チェレンは顔色を変えない。
だが、その無表情の奥で、計算の組み替えが早くなっているのが見て取れた。
相手のほうが、少し柔らかい。
ヤナップが蔓で距離を作るなら、ヒヤップは流れの切れ目をずらしてくる。
同じ相性不利でも、圧の種類が違う。
「ポカブ、ひのこを散らせ」
今度の指示は少し変わった。
一点へ撃つのではなく、前方へばら撒く。
シンはそこで少しだけ感心した。
追い込みの筋が見えなくても、相手の踏み場を減らす発想へ切り替えたのだ。
ヒヤップが一歩ぶん動きを鈍らせる。
そこへポカブが距離を詰めた。
「たいあたり!」
今度は深く入った。
ヒヤップがたたらを踏む。
ベルが思わず声を上げる。
「いける……!」
けれど、シンはそこでまだ何も言わなかった。
チェレンはたしかに強い。
崩れにくい。
形もある。
でも、押した場面で相手を決め切る“もうひと押し”が、まだ見えてこない。
その感覚は、たぶんトウヤも同じだったのだろう。
横で笑っていない。
ただ静かに見ていた。
「ヒヤップ、上を取ろう」
コーンの声が変わる。
ヒヤップが跳んだ。
高くではない。
けれど、ポカブの視線を一瞬上へ向けるには十分な高さだった。
「下がって――」
チェレンの指示より、着地のほうが少し早い。
「みずでっぽう」
落下の勢いを乗せた水がまともにポカブへぶつかった。
今度は深い。
ポカブの身体が後ろへ滑る。
床を削る音がした。
「ポカブ!」
チェレンの声が初めて少し強くなる。
ポカブは倒れない。
でも、息が荒い。
ひのこを撃つたび、たいあたりで詰めるたび、水を浴びている。
相性不利という現実が、じわじわ蓄積になって効いていた。
「まだ行ける」
チェレンは自分に言うみたいに呟いた。
ポカブも応えるように鳴く。
その声に熱がある。
チェレンの手持ちは、本人ほど冷たくない。
むしろ、本人の理屈を押し上げるための熱を持っている。
それがポカブという相棒の良さでもあるのだろう。
「ひのこ!」
「受けないで、回って」
火と水。
削り合いの中で、ヒヤップのほうがなお余裕を残している。
でも、チェレンの指示はまだ冴えていた。
正面に立たず、ひのこの散り方で逃げ道を狭め、ポカブの突進で角度を切る。
見ていて気持ちのいい戦い方ではある。
けれど、気持ちよさと勝ち切ることは同じじゃない。
「チェレン、いい感じだね」
ベルが祈るような声で言う。
「……ああ」
シンは短く返した。
でも、視線は外さない。
たぶんここからだ。
届くか、届かないかが分かれるのは。
「ポカブ、今だ。たいあたりから――」
チェレンの指示が飛ぶ。
ヒヤップがわずかに遅れた。
ここだ、とシンにも見えた。
ポカブが深く踏み込む。
ぶつかる。
ヒヤップが大きく揺れる。
「ひのこで押し切る!」
判断は正しい。
正しいはずだった。
だが、コーンの声はその一歩前に来ていた。
「下へ抜けて」
ヒヤップが低く沈む。
完全には避け切れていない。
それでも、火の芯をずらした。
浅くなったひのこが毛並みを炙る。
その代わりに、ヒヤップの手がポカブの足もとへ触れた。
「ひっかく」
体勢の崩れた側へ、爪が滑る。
ポカブがぐらりと傾いた。
そこへ間を置かず、水が来る。
「みずでっぽう」
至近距離だった。
まともに受けたポカブが後ろへ吹き飛ぶ。
着地に失敗し、床へ膝をつく。
ベルが息を呑んだ。
チェレンの表情は崩れない。
でも、目だけがはっきり揺れた。
たぶん、いまので勝ち筋がひとつ細くなったと理解したのだ。
「立て、ポカブ」
声は静かだった。
ポカブは立った。
立つ。
だが、さっきまでの踏み込みはもうない。
水を受け続けた身体が、少しずつ重くなっている。
コーンはそこを見逃さない。
「もう一度いくよ」
ヒヤップの動きは最後まで柔らかいままだった。
決めに来るのに、力んでいない。
「チェレン!」
ベルが思わず名前を呼ぶ。
チェレンは答えない。
答える余裕がないわけじゃない。
全部をポカブと相手のあいだへ注いでいるのだと分かった。
「ひのこ!」
最後の牽制。
ヒヤップが避ける。
「たいあたり!」
追う。
悪くない。
でも、ほんの少しだけ足が遅い。
ほんの少しだけ、決定的な瞬間に届かない。
「みずでっぽう」
正面から入った水が、ポカブの身体を止めた。
一歩。
もう一歩が出ない。
そのまま、前のめりに膝をつく。
立ち上がろうとして、力が入らない。
チェレンの唇がわずかに結ばれる。
数秒のあと、デントが告げた。
「……そこまでです」
場が静かになった。
ベルのときみたいな取り乱しはない。
チェレンはすぐにポカブへ歩み寄り、しゃがみこんで相棒の額へ手を置いた。
「よくやった」
それだけだった。
謝りもしない。
慰めすぎもしない。
でも、その短さの中に、悔しさと信頼の両方が入っていた。
ポカブが小さく鳴く。
不満そうでもあり、納得しているようでもある声だった。
コーンがヒヤップをボールへ戻す。
「強かったよ」
その言葉は社交辞令ではなかった。
「あと少しで、こっちが崩れるところもあった」
チェレンは立ち上がる。
「でも、崩しきれなかった」
「うん」
コーンはあっさり頷いた。
「そこが今日の差だね」
きつい言い方ではない。
でも、ごまかしもなかった。
チェレンはしばらく何も言わない。
それから、ほんの少しだけ息を吐いた。
「分かってる」
その一言が、思ったより低かった。
トウヤが壁から背を離す。
「チェレンらしい負け方だったな」
「慰めのつもりなら、最悪だよ」
チェレンが返すと、トウヤは肩をすくめた。
「違うって。ちゃんと強かった。でも、最後の最後で“もう一個向こう”に届かない感じ」
ベルが不安そうにチェレンを見る。
「それ、ひどくない?」
「ひどいけど、たぶん合ってる」
言ったのはシンだった。
チェレンがこちらを見る。
シンはその視線を受けたまま続ける。
「お前、崩れなかった。でも、相手が崩れる一歩手前で止まった」
チェレンはすぐには返さなかった。
否定できないのだろう。
悔しい顔をするでもなく、ただ事実として受け止めているように見える。
でも、その無表情の奥に熱がないわけじゃない。
むしろ、こういうときのチェレンは、表に出さないぶんだけ内側でよく燃える。
ベルが小さく言う。
「でも、強かったよ」
「ありがとう」
チェレンはそう返した。
「君より先に負けなかったことだけは、安心した」
「それどういう意味!?」
ベルが反射的に言い返す。
場に少しだけ笑いが戻る。
その軽さに助けられたのか、チェレンもわずかに口元を緩めた。
本当に少しだけだったが、シンにはそれで十分だった。
デントが視線を巡らせる。
「二人とも、よい戦いでした」
ポッドも頷く。
「うん。ベルは途中で自分へ戻ろうとしてたし、チェレンは最後まで形を崩さなかった」
コーンが続ける。
「でも、ジムってね。ちゃんとしてるだけじゃ越えられないこともある」
チェレンの眉が、ほんのわずかに動く。
その言葉はたぶん、いまのこいつにいちばん刺さる。
理にかなった動き。
正しい判断。
無駄のない指示。
それで届かないなら、何が足りないのか。
考え始めたら、チェレンはきっとその先を簡単には手放さない。
「さて」
ポッドがぱん、と手を叩く。
「残るは一人、かな?」
自然と視線が集まる。
トウヤはそこでようやく、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「みんな見すぎじゃない?」
「残ったの君しかいないだろ」
シンが言う。
「そうだけどさ」
トウヤは肩を回してから、一歩前へ出た。
気負いが薄い。
なのに、逃げる感じもない。
その立ち方を見て、シンは内心で少しだけ口元を上げる。
やっぱりこいつはそうだ。
気負わないくせに、最初から場の真ん中へ立てる。
ベルとも、チェレンとも違う。
でも、たぶん自分とも違う形の強さだ。
「じゃあ、最後は俺かな」
トウヤがそう言うと、ポッドが楽しそうに笑った。
「待ってたよ」
赤い髪のジムリーダーが一歩前へ出る。
炎の気配を持つ者同士。
けれど、ただ熱いだけでは終わらないだろうと、シンはすでに分かっていた。
トウヤは対戦位置へ向かう途中、すれ違いざまにチェレンへ軽く言った。
「ちゃんと強かったよ」
チェレンは顔を上げる。
トウヤはそれ以上、慰めみたいな言葉を重ねなかった。
ただ笑う。
「でも、次は俺が勝つ」
その言い方が妙に自然で、嫌味にならないのがこいつのずるいところだとシンは思った。
ベルが小さく拳を握る。
チェレンはポカブのボールを見つめたまま、静かに息を吐いた。
二人の負けは、そこで終わりではない。
むしろ、ここからどう変わるかの始まりだ。
そして最後の一戦は、そのすぐ先にある。
サンヨウジムの空気が、また少しだけ熱を帯びはじめていた。