サンヨウシティの朝は、昨日までと同じように明るかった。
けれど、シンには少しだけ違って見えた。街の空気が変わったわけじゃない。変わったのは、並んで歩く四人のほうだ。
トウヤはいつも通りだった。勝ったから浮かれているわけでも、負けた二人に気を遣って妙に静かになるわけでもない。ただ自然に前を歩いて、気になったものがあれば立ち止まる。その軽さが、今日は少しだけ眩しく見える。
ベルは口数が少なかった。完全に落ち込んでいるというより、自分の中で何かを何度も反芻している顔だ。隣ではミジュマルが、いつもみたいに偉そうに胸を張って歩いている。だが、ベルが黙るたびにちらちらと見上げているあたり、本当に平気なわけではないのだろう。
チェレンはもっと分かりやすかった。静かに見えて、頭の中では昨日の戦いを何度も組み直している。歩幅は乱れていないし、表情も崩れていない。それでも、考えすぎているときの癖みたいな硬さが肩に出ていた。
シンはその二人を横目で見ながら、どう声をかけるべきか少し迷っていた。
勝った側の言葉は、だいたい余計だ。
わかっているつもりでも、実際に口を開くと違う。励ましたくて言ったことが、相手にはただの正論や慰めにしか聞こえないことがある。
それは昨日、自分がジム戦のあとに受け取った視線の重さを思い返せば、なんとなくわかった。
だからシンは、しばらく何も言わなかった。
先に口を開いたのはベルだった。
「……あたし、昨日さ」
前を向いたまま、ぽつりと落ちる。
「シンの真似、してた」
その言葉に、チェレンが一度だけ視線を動かす。トウヤは振り返らない。
ベルは続けた。
「いや、真似っていうか……たぶん、自分ではそういうつもりじゃなかったんだけど。シンがやってたこと見て、ああしたら勝てるのかなって思って。で、気づいたら、相手じゃなくて“正解っぽい動き”のほう見てた」
足もとのミジュマルが、小さく「ミジュ」と鳴いた。
ベルは苦く笑う。
「ね。たぶん、あなたもやりにくかったよね」
ミジュマルはすぐには顔を上げなかった。ふん、と鼻を鳴らして少し先へ出る。そのくせ完全には離れない。その半端な距離が、逆にベルには答えみたいだったらしい。
「でも、どうしたらよかったのかなあ……」
その弱いこぼし方に、シンは胸の奥が少しざらついた。
昨日のベルは、ちゃんと戦っていた。怖がっていたし、迷っていた。でも、逃げたわけじゃなかった。なのに本人の中では、“足りなかった”感触ばかりが強く残っているのだろう。
「焦りすぎたんだろ」
言ってから、少しぶっきらぼうすぎたかと思った。
だがベルは怒らなかった。代わりに、素直にこくりと頷く。
「うん。たぶんそう」
「おまえ、相手が何してくるかより先に、自分がうまくやれるか気にしてた」
「……それ、やっぱ見えてた?」
「見える」
ベルが顔をしかめる。
「やだなあ」
「でも、直せるってことだろ」
シンがそう言うと、ベルは少しだけ黙った。慰めではなく、普通のことみたいに言われたのが、かえってよかったのかもしれない。
一方でチェレンは、ずっと口を閉じたままだった。
街外れの空き地まで来たところで、トウヤがようやく足を止める。昨日までシンがミジュマルと動き方を合わせていた場所だ。石がいくつか転がっていて、地面には細かい段差もある。真っ平らじゃないからこそ、練習にはちょうどいい。
「やるなら、ここでいいんじゃない」
トウヤがそう言うと、ベルが少し目を丸くした。
「え、やるの?」
「やらないで落ち込んで終わるなら、朝から外出てこないでしょ」
あまりにも当然みたいに言われて、ベルは返事に詰まる。だが、その横でチェレンが小さく息を吐いた。
「……そうだね」
そこで初めて、チェレンが自分から前へ出る。
「僕も、整理したい」
「整理?」
ベルが聞き返すと、チェレンは地面の一点を見ながら言った。
「負けた理由はわかってるつもりなんだ。届きそうなところまでは行けていた。でも、あと半歩が届かなかった」
「うん」
「問題は、その“あと半歩”を、僕がまだ理屈でしか見ていないことだ」
シンは少しだけ目を細めた。
チェレンの言い方はいつも通り理屈っぽい。けれど昨日よりも、自分の負け方を真正面から見ている感じがした。言い訳をしていない。だからこそ、余計に悔しいのだろう。
「知ってるだけじゃ足りないってこと?」
ベルの問いに、チェレンは頷いた。
「たぶん。組み立てることはできても、その場で踏み込む判断がまだ遅い。安全に寄せすぎると、最後の一手が鈍る」
「それ、チェレンっぽいな」
トウヤが軽く言う。
嫌味ではない。ただの事実として置かれたその言葉に、チェレンは一瞬だけ口元を引き結んだあと、否定しなかった。
「そうだね。僕っぽい。だからたぶん、そこを変えないといけない」
シンは少し意外だった。
チェレンは、自分の長所を伸ばす方向で考えることはあっても、短所をそのまま認めるのはあまり得意ではない。崩れるのが嫌いだからだ。けれど今日は違う。負けたことを、そのまま次の材料にしようとしている。
空気が止まりそうになる前に、トウヤが両手を軽く叩いた。
「じゃ、ベルからやる?」
「えっ、あたし!?」
「迷ってる時間長いし」
「ひどくない!?」
「長いのはほんとでしょ」
ベルがむうっと頬を膨らませる。その反応を見て、さっきまで張っていた空気が少しだけゆるんだ。
結局、最初はベルからになった。
相手役はシンのミジュマル。ベルのミジュマルは最初こそ堂々としていたが、いざ向かい合うと昨日の負け方を思い出したのか、ほんの少しだけ足の置き方が硬い。
ベルもそれに気づいていた。
「……えっと、まず」
言いかけて、止まる。
たぶん昨日までのベルなら、その空白を埋めたくて急いで次の指示を出していた。だが今日は違った。ベルは一度息を吸って、ミジュマルを見た。
「ごめん。今のなし。あなたの動き見てから決める」
その言い直しに、シンは少しだけ眉を上げる。
ベルのミジュマルも、ぱちりと目を瞬かせたあと、ほんの少しだけ姿勢をやわらげた。待たされることより、見てもらえないことのほうが嫌なのかもしれない。
「いくよ、ミジュマル」
シンの声で、二匹が同時に動く。
最初の一手は軽いぶつかり合いだった。シンのミジュマルは前へ出たがる。ベルのミジュマルはそれを正面から受けるのではなく、一歩横へずれた。昨日なら焦って押し返しにいっていた場面だ。
「いい、そのまま!」
ベルの声はまだ少し硬い。でも、相手ではなく自分のミジュマルを見ていた。
横へ流し、間を取る。相手がもう一度踏み込む。そこでベルのミジュマルは今度こそ前へ出た。真っ向からの押し合いじゃなく、相手が体勢を移す瞬間を狙ったぶつけ方だった。
シンのミジュマルがたたらを踏む。
「……へえ」
思わず漏らすと、ベルがこっちを見る。
「なに」
「いや、ちゃんと見てるなって」
「見てるもん!」
「さっきまで見てなかったみたいな言い方するなよ」
「したのそっちでしょ!」
言い返しながらも、ベルの頬には少しだけ赤みが戻っていた。悔しさだけじゃなく、手応えが混ざり始めている。
そのあとも何度かやり取りを重ね、ベルは無理に綺麗な正解を追わないようにしていた。まだ迷う。まだ遅れる。けれど、その遅れを焦って誤魔化さなくなったぶん、ミジュマルとの噛み合い方は昨日よりよく見えた。
最後にベルのミジュマルが、少し得意げに胸を張る。
「……あ」
ベルが目を丸くする。
「今の顔、ちょっと昨日よりむかつく」
ミジュマルは「当然でしょ」と言いたげに顎を上げた。
でもそれは、いつもの見栄っ張りな顔だった。ようやくそこまで戻ってきたのだと、ベルもわかっているらしい。苦笑しながら、その頭を軽く撫でた。
「ありがと」
その言葉に、ミジュマルは一瞬だけ目を逸らした。
次はチェレンだった。
チェレンは最初から、自分の課題をはっきり決めていた。組み立てることではなく、踏み切ること。だから相手役にはトウヤが出た。
「僕がやるの?」
「そのほうが嫌でしょ」
トウヤの言い方は軽い。だが、チェレンは小さく頷いた。
「うん。たぶんそのほうがいい」
勝てる流れを早く嗅ぎ取るトウヤ相手に、迷っている暇はない。安全に寄せすぎれば、その時点で置いていかれる。
対面した瞬間から、空気が少し変わる。
ベルのときとは違う種類の静けさだった。チェレンは無駄を削るように相手を見て、トウヤはその視線ごと楽しむみたいに立っている。
最初の数手は、ほとんどチェレンの形だった。距離を測り、逃げ道を見て、相手の出方を限定する。丁寧で、正確だ。けれどその正確さが整うほど、最後の踏み込みだけが遅れる。
「そこ」
トウヤが軽く動く。
それだけで、チェレンの組んだ形が半歩ずれる。崩されたというより、置いていかれる感じだった。
チェレンは唇を噛む。だが、止まらない。
もう一度組み立てる。今度は少しだけ早く。まだ安全圏に寄っている。でも、その寄せ方を自分で嫌っているのが見えた。
「チェレン!」
思わずベルが声を上げる。
「いま行けたんじゃない!?」
チェレンははっとしたように目を上げた。
たぶん、本人もわかっていたのだ。行けた。でも、確信が一段足りなくて踏み切れなかった。
トウヤは追撃しない。ただ待つ。
その待ち方が、かえって嫌だったのかもしれない。チェレンは一度だけ息を吐き、それから次の一手で、今までより半歩深く入った。
危ない角度だった。きれいではない。けれど遅くない。
その踏み込みに、トウヤの目が少しだけ細くなる。
「……それ」
トウヤが笑う。
「そっちのほうがいい」
最終的に勝ち負けだけ見れば、まだトウヤのほうが上だった。だがチェレンの中では、昨日よりはっきりしたものが残っていたらしい。終わったあと、乱れた呼吸を整えながら、それでも目は死んでいなかった。
「わかった気がする」
「なにが?」
ベルが聞くと、チェレンは少し考えてから答える。
「完璧に見えてから動くんじゃ遅いんだ。たぶん僕は、“外してもいいから先に行く一手”を持たないといけない」
「それ、めちゃくちゃ勇気いるやつじゃん」
「いるね」
そう言って、チェレンは珍しく少しだけ笑った。
シンはその顔を見ながら、自分の胸の奥にも小さく何かが触れるのを感じていた。
ベルはベルで、自分のミジュマルをちゃんと見る必要がある。
チェレンはチェレンで、整えるだけじゃ届かない場所へ踏み込まなければならない。
それぞれの負け方は違う。だから立て直し方も違う。
昨日の時点では、負けた二人と勝った二人で線が引かれたように見えた。けれど今は少し違う。ただ遅れているだけではない。それぞれ別の形で、次へ進もうとしている。
トウヤが地面の石をひとつ蹴る。
「じゃ、今日はこんなもんでいいんじゃない」
「え、もう?」
ベルが不満そうに言う。
「まだやれるよ?」
「やれるのと、ここでやりすぎないのは別」
その言い方が妙に大人びていて、ベルは少しだけむっとした。だがチェレンは同意するように頷いた。
「今日は、手応えを持ったまま終わったほうがいい」
「……それはそうかも」
ベルは自分のミジュマルを見る。ミジュマルもまだやる気はある顔だったが、ベルが覗き込むと、少しだけ肩を落とした。強がっていても、疲れてはいるらしい。
シンはその様子を見て、なんとなく笑った。
「ちゃんと見てるじゃん」
「だから見てるって言ってるでしょ」
「昨日よりな」
ベルは言い返しかけて、やめた。代わりに、悔しそうでも照れくさそうでもある顔で鼻を鳴らす。
空き地を出るころには、朝の硬さは少し薄れていた。
負けたことそのものは消えていない。たぶん簡単には消えない。思い出せばまだ悔しいし、噛み合わなかった瞬間を考えれば胸の奥もざらつく。
でも、そのざらつきの向こう側に、昨日よりちゃんと次が見える。
ベルが前を向いて言った。
「次は、もっとちゃんと並ぶ」
誰に向けた言葉かはわからない。自分のミジュマルかもしれないし、負けた相手かもしれないし、勝ったまま先へ行こうとしている仲間たちかもしれない。
チェレンも小さく続ける。
「僕も、次は届かせる」
トウヤは振り返らず、ただ片手を上げた。
シンはその背中を見ながら、少しだけ息を吐く。
昨日の勝ちで終わりじゃない。
今日の立て直しも、たぶんまだ途中だ。
それでも、負けたまま立ち止まる二人ではないことだけは、もうはっきりしていた。
足もとでミジュマルが、いつものように半歩だけ先へ出る。
その背中を見て、シンも歩き出す。
同じ道を進いていても、並び方はきっと毎回変わる。
それでもまた並ぶために、今日みたいな一日は必要なのだと、今は少しだけ思えた。