次の日の朝、ベルは昨日より少しだけ静かだった。
元気がないわけではない。ただ、口より先に頭が動いている感じがある。何かを言いかけて、やめる。歩き出しかけて、呼吸を整える。その小さな間が、昨日までのベルにはあまりなかった。
足もとではミジュマルが、いつものように胸を張っている。
相変わらず偉そうな顔だ。けれどベルが黙るたびに、気づかれないようにちらちら見上げている。そのくせ目が合うとすぐ前を向き、いかにも「わたしは最初から平気ですけど?」みたいな顔をするから、シンは少しだけ笑いそうになる。
「……なに」
ベルがすぐ気づいた。
「別に」
「今、なんか失礼なこと考えたでしょ」
「考えてない」
「シンの“考えてない”は信用できない」
いつもならそこで少し言い返して終わる。けれど今日は、そのあとにベルが小さく息を吐いた。
「でも、まあ……そうやって普通に言い合えるくらいには、大丈夫」
その言い方に、シンは少しだけ眉を上げた。
ベルはごまかさなかった。怖かったことも、悔しかったことも、たぶんなくなってはいない。なくなっていないまま、それでも前を向こうとしている。昨日の空き地で、立て直しの手応えを少しだけ掴んだからだろう。
隣を歩くチェレンは、ベルほどわかりやすくはなかったが、昨日より硬さが減っていた。まだ考えている顔はしている。それでも、考えること自体に飲まれてはいない。
トウヤだけは最初から最後までいつも通りで、そういうところがたまに腹立たしいくらい自然だった。
「で、行くの?」
トウヤが軽く聞く。
ベルは一瞬だけ足を止め、それから頷いた。
「……うん。今日、もう一回やる」
「ほんとに?」
シンが聞き返すと、ベルはむっとした顔を向けた。
「なに、その確認」
「いや、言うだけならできるだろ」
「やるもん。ちゃんとやる」
その声に、昨日までの揺れとは違う芯があった。
サンヨウジムの前に立ったとき、ベルの顔色はやっぱり少しだけ悪くなった。思い出すのだろう。負けたときの空気。自分の指示が遅れた瞬間。うまく噛み合わなかった感触。たぶん、扉をくぐるだけで昨日の悔しさが少し戻ってくる。
それでもベルは逃げなかった。
「行こ」
小さな声だったが、足は前へ出ていた。
中へ入ると、昨日と同じ香りがした。落ち着くようでいて、どこか緊張を誘う匂いだ。ジムの空気は変わらない。変わったかどうかを試されるのは、挑戦者のほうだった。
最初に出迎えたのはデントだった。
「おや」
穏やかな笑みを浮かべながら、けれど目はちゃんとベルを見ている。
「また来てくれたんですね」
「……はい」
ベルは少しだけ喉を鳴らしたあと、今度ははっきり言った。
「昨日のまま帰るの、いやだったので」
デントの目元が、ほんの少しだけやわらぐ。
「そういうお客様は、歓迎しますよ」
軽い調子の言葉なのに、馬鹿にした響きはなかった。昨日負けた相手へ向けるものではなく、きちんと再挑戦者へ向ける声音だった。
準備が整い、ベルとデントがフィールドの両端に立つ。
観戦するシンは、自分のときより妙に落ち着かなかった。
勝った側のくせに、と思う。
でも、仲間がもう一度立つ場面を見るのは、思ったより胸の奥が騒ぐ。
「それでは、もう一度いきましょう」
デントの声と同時に、ベルのミジュマルが前へ出た。
胸を張る。顎を上げる。いかにも自信満々な立ち方だった。けれどシンにはわかる。強がっている。昨日よりましだが、まだ少しだけ肩に余計な力が入っていた。
対するヤナップは、昨日と変わらない軽やかさで足場を確かめている。
始まってすぐ、ベルは昨日みたいに急がなかった。
まず相手を見る。次にミジュマルを見る。そしてようやく口を開く。
「……先に突っ込まなくていい。見て」
短い指示だった。
ミジュマルは一瞬だけ不満そうな顔をしたが、止まった。そこがもう、昨日と違う。ベルの声が届いているし、ベルも届く言葉を選べている。
ヤナップが先に動く。横へ流れ、様子を見るように間合いを探る。昨日のベルなら、その動きに慌てて追っていた。だが今日は違った。
「まだ。そっちから来させて」
ミジュマルの耳がぴくりと動く。
相手が踏み込みやすい位置をベルは待っていた。逃げるためじゃない。自分たちが動きやすい場所まで引きつけるためだ。正解をなぞるのではなく、昨日自分が怖くなった瞬間をちゃんと覚えているから、そこを越えない位置を自分で作っている。
ヤナップが前へ出る。
「今!」
ベルの声で、ミジュマルが横へずれた。
正面から受けない。押し返そうともしない。相手の勢いを半歩外して、その隙に体をぶつける。派手な一手ではなかったが、タイミングは昨日よりずっとよかった。
ヤナップがわずかによろめく。
ベルの目が見開かれた。
自分の指示が噛み合った実感が、たぶん今ようやく身体に落ちたのだ。
「いい、そのまま!」
声が一段はっきりする。
ミジュマルも変わった。さっきまでの“平気なふり”が、少しずつ本物の勢いに変わっていく。見栄っ張りな性格そのものは変わっていない。けれど今日は、その見栄が空回りしていなかった。
ヤナップが反撃に回る。素早く角度を変え、ベルたちのリズムを崩しにくる。
そこで一度、ミジュマルが被弾した。
「ミジュ!」
ベルの声が揺れる。
その揺れ方に、シンの胸がひやりとした。昨日の負け方が戻りかけている。焦って次を急げば、また噛み合わなくなる。
けれどベルは、そこで飲み込んだ。
ほんの一瞬だけだった。息を止めて、戻して、それからミジュマルを見る。
「……大丈夫。見せつけるのは、あと」
その言葉に、ミジュマルの目が丸くなる。
ベルは続けた。
「今は、一緒に立てればいい」
シンは思わず瞬きをした。
うまいことを言ったわけじゃない。綺麗にまとまった台詞でもない。たぶんベル自身、咄嗟に出た言葉だ。けれど、それが一番この二人らしかった。
見栄は張りたい。格好もつけたい。でも、ひとりでそうするんじゃない。
一緒に立てればいい。
ミジュマルの顔つきが変わる。
強がりが、ようやくベルと同じ向きを向いた。
次のぶつかり合いで、ヤナップがもう一度前へ出た。
今度はミジュマルが退かなかった。正面から押し返すのではなく、ぶつかる直前にわずかに軸をずらし、相手の体勢だけを崩す。その隙へ、ためらわずホタチの一撃が入る。
小さな音がして、ヤナップが床を滑った。
場の空気が一気に張る。
「まだ!」
ベルの声が飛ぶ。
「終わるまで、前!」
ミジュマルは一瞬だけ振り返り、それから頷くみたいに前を向いた。
最後の一歩は、もう強がりだけではなかった。
ヤナップが倒れ、審判の声が響く。
勝った、と理解するまで、ベルは数秒かかったらしい。
その場で固まり、目を瞬かせ、ようやく自分の足もとを見る。
「……勝った?」
あまりにも間の抜けた声で、シンは思わず吹き出しそうになる。
だがミジュマルはそんなベルに構わず、精一杯胸を張ったあと――そのまま少しふらついた。
「ちょっと!」
ベルが慌てて駆け寄る。
「いま倒れちゃだめ! 格好つけるなら最後までつけてよ!」
ミジュマルは「言われなくてもそうするつもりだった」とでも言いたげに鼻を鳴らしたが、足元は正直だった。
そのやり取りを見て、デントがくすりと笑う。
「いい勝負でした」
ベルが顔を上げる。
デントは続けた。
「昨日は“勝てそうな戦い”を探していました。でも今日は、“あなたとその子の戦い方”になっていた」
ベルはすぐには返事をしなかった。
ただ、ミジュマルの頭に手を置く。
「……たぶん、この子が見栄っ張りでよかったです」
その言葉に、ミジュマルがぴくっと反応する。
「こわくても、平気なふりしてくれるから。あたし、つられて前見られた」
デントはやわらかく頷いた。
「それも、立派な並び方ですよ」
バッジを受け取ったとき、ベルの指先は少し震えていた。
嬉しいのだろう。悔しさが消えたわけじゃなくても、その悔しさの先にちゃんと手が届いたことが、たぶん思っていたより大きい。
観戦席へ戻ってきたベルに、トウヤが軽く手を上げる。
「おめでと」
「……うん」
チェレンも短く続けた。
「よかった」
「うん」
それだけで、ベルの目元が少しだけ熱を帯びる。泣くほどではない。でも、昨日の自分から一歩抜けた実感が、その声だけでまた戻ってくるのかもしれない。
最後にシンが言った。
「ちゃんと並べてた」
ベルは一度だけ目を丸くして、それから、へにゃっと笑った。
「それ、あんたに言われると……ちょっとだけ、うれしい」
「ちょっとだけかよ」
「ちょっとだけで十分」
足もとのミジュマルは、もう完全に調子を取り戻した顔で胸を張っていた。勝ったのは当然だ、と言いたいのが丸わかりだ。けれどベルがしゃがんで視線を合わせると、その強がりの顔の奥に、ちゃんと安心した色が混じっていた。
勝ったから変わったんじゃない。
変わろうとして、やっと勝てたのだ。
シンはそのことを、自分のことみたいに少しだけ強く感じた。
そしてその隣で、チェレンは静かにフィールドを見つめていた。
ベルの勝ち方を見て、焦っているようには見えない。
ただ、自分の番が近づいていることを、きちんと受け止めている顔だった。
次に立つのは、自分だ。
そう言葉にしなくても、その横顔だけで十分だった。