BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第15話 震える手でも、見栄は前を向く

次の日の朝、ベルは昨日より少しだけ静かだった。

 

元気がないわけではない。ただ、口より先に頭が動いている感じがある。何かを言いかけて、やめる。歩き出しかけて、呼吸を整える。その小さな間が、昨日までのベルにはあまりなかった。

 

足もとではミジュマルが、いつものように胸を張っている。

 

相変わらず偉そうな顔だ。けれどベルが黙るたびに、気づかれないようにちらちら見上げている。そのくせ目が合うとすぐ前を向き、いかにも「わたしは最初から平気ですけど?」みたいな顔をするから、シンは少しだけ笑いそうになる。

 

「……なに」

 

ベルがすぐ気づいた。

 

「別に」

 

「今、なんか失礼なこと考えたでしょ」

 

「考えてない」

 

「シンの“考えてない”は信用できない」

 

いつもならそこで少し言い返して終わる。けれど今日は、そのあとにベルが小さく息を吐いた。

 

「でも、まあ……そうやって普通に言い合えるくらいには、大丈夫」

 

その言い方に、シンは少しだけ眉を上げた。

 

ベルはごまかさなかった。怖かったことも、悔しかったことも、たぶんなくなってはいない。なくなっていないまま、それでも前を向こうとしている。昨日の空き地で、立て直しの手応えを少しだけ掴んだからだろう。

 

隣を歩くチェレンは、ベルほどわかりやすくはなかったが、昨日より硬さが減っていた。まだ考えている顔はしている。それでも、考えること自体に飲まれてはいない。

 

トウヤだけは最初から最後までいつも通りで、そういうところがたまに腹立たしいくらい自然だった。

 

「で、行くの?」

 

トウヤが軽く聞く。

 

ベルは一瞬だけ足を止め、それから頷いた。

 

「……うん。今日、もう一回やる」

 

「ほんとに?」

 

シンが聞き返すと、ベルはむっとした顔を向けた。

 

「なに、その確認」

 

「いや、言うだけならできるだろ」

 

「やるもん。ちゃんとやる」

 

その声に、昨日までの揺れとは違う芯があった。

 

サンヨウジムの前に立ったとき、ベルの顔色はやっぱり少しだけ悪くなった。思い出すのだろう。負けたときの空気。自分の指示が遅れた瞬間。うまく噛み合わなかった感触。たぶん、扉をくぐるだけで昨日の悔しさが少し戻ってくる。

 

それでもベルは逃げなかった。

 

「行こ」

 

小さな声だったが、足は前へ出ていた。

 

中へ入ると、昨日と同じ香りがした。落ち着くようでいて、どこか緊張を誘う匂いだ。ジムの空気は変わらない。変わったかどうかを試されるのは、挑戦者のほうだった。

 

最初に出迎えたのはデントだった。

 

「おや」

 

穏やかな笑みを浮かべながら、けれど目はちゃんとベルを見ている。

 

「また来てくれたんですね」

 

「……はい」

 

ベルは少しだけ喉を鳴らしたあと、今度ははっきり言った。

 

「昨日のまま帰るの、いやだったので」

 

デントの目元が、ほんの少しだけやわらぐ。

 

「そういうお客様は、歓迎しますよ」

 

軽い調子の言葉なのに、馬鹿にした響きはなかった。昨日負けた相手へ向けるものではなく、きちんと再挑戦者へ向ける声音だった。

 

準備が整い、ベルとデントがフィールドの両端に立つ。

観戦するシンは、自分のときより妙に落ち着かなかった。

 

勝った側のくせに、と思う。

でも、仲間がもう一度立つ場面を見るのは、思ったより胸の奥が騒ぐ。

 

「それでは、もう一度いきましょう」

 

デントの声と同時に、ベルのミジュマルが前へ出た。

 

胸を張る。顎を上げる。いかにも自信満々な立ち方だった。けれどシンにはわかる。強がっている。昨日よりましだが、まだ少しだけ肩に余計な力が入っていた。

 

対するヤナップは、昨日と変わらない軽やかさで足場を確かめている。

 

始まってすぐ、ベルは昨日みたいに急がなかった。

まず相手を見る。次にミジュマルを見る。そしてようやく口を開く。

 

「……先に突っ込まなくていい。見て」

 

短い指示だった。

 

ミジュマルは一瞬だけ不満そうな顔をしたが、止まった。そこがもう、昨日と違う。ベルの声が届いているし、ベルも届く言葉を選べている。

 

ヤナップが先に動く。横へ流れ、様子を見るように間合いを探る。昨日のベルなら、その動きに慌てて追っていた。だが今日は違った。

 

「まだ。そっちから来させて」

 

ミジュマルの耳がぴくりと動く。

 

相手が踏み込みやすい位置をベルは待っていた。逃げるためじゃない。自分たちが動きやすい場所まで引きつけるためだ。正解をなぞるのではなく、昨日自分が怖くなった瞬間をちゃんと覚えているから、そこを越えない位置を自分で作っている。

 

ヤナップが前へ出る。

 

「今!」

 

ベルの声で、ミジュマルが横へずれた。

 

正面から受けない。押し返そうともしない。相手の勢いを半歩外して、その隙に体をぶつける。派手な一手ではなかったが、タイミングは昨日よりずっとよかった。

 

ヤナップがわずかによろめく。

 

ベルの目が見開かれた。

自分の指示が噛み合った実感が、たぶん今ようやく身体に落ちたのだ。

 

「いい、そのまま!」

 

声が一段はっきりする。

 

ミジュマルも変わった。さっきまでの“平気なふり”が、少しずつ本物の勢いに変わっていく。見栄っ張りな性格そのものは変わっていない。けれど今日は、その見栄が空回りしていなかった。

 

ヤナップが反撃に回る。素早く角度を変え、ベルたちのリズムを崩しにくる。

そこで一度、ミジュマルが被弾した。

 

「ミジュ!」

 

ベルの声が揺れる。

 

その揺れ方に、シンの胸がひやりとした。昨日の負け方が戻りかけている。焦って次を急げば、また噛み合わなくなる。

 

けれどベルは、そこで飲み込んだ。

 

ほんの一瞬だけだった。息を止めて、戻して、それからミジュマルを見る。

 

「……大丈夫。見せつけるのは、あと」

 

その言葉に、ミジュマルの目が丸くなる。

 

ベルは続けた。

 

「今は、一緒に立てればいい」

 

シンは思わず瞬きをした。

 

うまいことを言ったわけじゃない。綺麗にまとまった台詞でもない。たぶんベル自身、咄嗟に出た言葉だ。けれど、それが一番この二人らしかった。

 

見栄は張りたい。格好もつけたい。でも、ひとりでそうするんじゃない。

一緒に立てればいい。

 

ミジュマルの顔つきが変わる。

強がりが、ようやくベルと同じ向きを向いた。

 

次のぶつかり合いで、ヤナップがもう一度前へ出た。

今度はミジュマルが退かなかった。正面から押し返すのではなく、ぶつかる直前にわずかに軸をずらし、相手の体勢だけを崩す。その隙へ、ためらわずホタチの一撃が入る。

 

小さな音がして、ヤナップが床を滑った。

 

場の空気が一気に張る。

 

「まだ!」

 

ベルの声が飛ぶ。

 

「終わるまで、前!」

 

ミジュマルは一瞬だけ振り返り、それから頷くみたいに前を向いた。

最後の一歩は、もう強がりだけではなかった。

 

ヤナップが倒れ、審判の声が響く。

 

勝った、と理解するまで、ベルは数秒かかったらしい。

その場で固まり、目を瞬かせ、ようやく自分の足もとを見る。

 

「……勝った?」

 

あまりにも間の抜けた声で、シンは思わず吹き出しそうになる。

だがミジュマルはそんなベルに構わず、精一杯胸を張ったあと――そのまま少しふらついた。

 

「ちょっと!」

 

ベルが慌てて駆け寄る。

 

「いま倒れちゃだめ! 格好つけるなら最後までつけてよ!」

 

ミジュマルは「言われなくてもそうするつもりだった」とでも言いたげに鼻を鳴らしたが、足元は正直だった。

 

そのやり取りを見て、デントがくすりと笑う。

 

「いい勝負でした」

 

ベルが顔を上げる。

 

デントは続けた。

 

「昨日は“勝てそうな戦い”を探していました。でも今日は、“あなたとその子の戦い方”になっていた」

 

ベルはすぐには返事をしなかった。

ただ、ミジュマルの頭に手を置く。

 

「……たぶん、この子が見栄っ張りでよかったです」

 

その言葉に、ミジュマルがぴくっと反応する。

 

「こわくても、平気なふりしてくれるから。あたし、つられて前見られた」

 

デントはやわらかく頷いた。

 

「それも、立派な並び方ですよ」

 

バッジを受け取ったとき、ベルの指先は少し震えていた。

嬉しいのだろう。悔しさが消えたわけじゃなくても、その悔しさの先にちゃんと手が届いたことが、たぶん思っていたより大きい。

 

観戦席へ戻ってきたベルに、トウヤが軽く手を上げる。

 

「おめでと」

 

「……うん」

 

チェレンも短く続けた。

 

「よかった」

 

「うん」

 

それだけで、ベルの目元が少しだけ熱を帯びる。泣くほどではない。でも、昨日の自分から一歩抜けた実感が、その声だけでまた戻ってくるのかもしれない。

 

最後にシンが言った。

 

「ちゃんと並べてた」

 

ベルは一度だけ目を丸くして、それから、へにゃっと笑った。

 

「それ、あんたに言われると……ちょっとだけ、うれしい」

 

「ちょっとだけかよ」

 

「ちょっとだけで十分」

 

足もとのミジュマルは、もう完全に調子を取り戻した顔で胸を張っていた。勝ったのは当然だ、と言いたいのが丸わかりだ。けれどベルがしゃがんで視線を合わせると、その強がりの顔の奥に、ちゃんと安心した色が混じっていた。

 

勝ったから変わったんじゃない。

変わろうとして、やっと勝てたのだ。

 

シンはそのことを、自分のことみたいに少しだけ強く感じた。

 

そしてその隣で、チェレンは静かにフィールドを見つめていた。

 

ベルの勝ち方を見て、焦っているようには見えない。

ただ、自分の番が近づいていることを、きちんと受け止めている顔だった。

 

次に立つのは、自分だ。

 

そう言葉にしなくても、その横顔だけで十分だった。

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