BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第16話 届く前に、踏み込め

ベルの再挑戦が終わったあと、ジムの空気は少しだけやわらかくなっていた。

 

勝った直後の熱がまだ残っている。けれど、それは浮ついた明るさではなかった。ひとつ越えたあとの静かな熱だ。

 

ベルはバッジを何度も見返して、そのたびにミジュマルへ目をやって、また少しだけ照れくさそうな顔をする。ミジュマルのほうは、当然の結果だと言わんばかりに胸を張っていたが、褒められるたびに耳の先が落ち着かなく揺れていた。

 

そのやり取りを、チェレンは少し離れたところから見ていた。

 

無表情に見えたが、シンにはわかる。見ているだけではない。頭の中で整理している。ベルが何を変えたのか。どう立て直したのか。自分はそこから何を拾うべきか。たぶん、そういうことをひとつずつ並べている。

 

でも今日は、それだけでは終わらない。

 

チェレン自身も、もう一度立つつもりでここにいる。

 

「……行くのか」

 

シンが低く聞くと、チェレンは視線を前に向けたまま頷いた。

 

「行くよ」

 

「整理、終わった?」

 

「終わったわけじゃない」

 

チェレンはそこで一度だけ息を吐く。

 

「でも、終わるのを待っていたら、たぶんまた遅れる」

 

その答えに、シンは少しだけ目を細めた。

 

昨日の空き地で、チェレンは自分の課題をちゃんと見ていた。完璧に見えてから動くのでは遅い。外すかもしれなくても、先に踏み込む一手が必要だと。言葉にするだけなら簡単だ。けれど、実際にそれをやるのは、チェレンみたいなタイプほど難しい。

 

それでも今日は、その難しいほうを選ぶ気でいるらしい。

 

「……無理はするなよ」

 

言ってから、少し変なことを言った気がした。挑戦する相手に向かって、無理をするなというのも妙だ。

 

だがチェレンは意味を取り違えなかった。

 

「無理と無茶は違うよ」

 

小さく返してから、ほんの少しだけ口元を緩める。

 

「その違いくらいは、見失わないつもりだ」

 

フィールドへ向かう背中は、昨日よりもずっと静かだった。

 

ベルの再挑戦が“怖さごと前へ出る”なら、チェレンの再挑戦は“整えた上でなお踏み込む”に近い。焦っているようには見えない。けれど、慎重さの内側でちゃんと熱を持っているのがわかる。

 

向かい合うのはコーンだった。

 

昨日と変わらない柔らかな物腰。だがその穏やかさの中に、相手の状態を測る目がある。チェレンはその視線を避けず、まっすぐ受け止めた。

 

「もう一度、お願いできますか」

 

礼儀正しい言い方だった。けれど声は細くなかった。

 

コーンは静かに頷く。

 

「もちろんです。あなたがもう一杯ぶん、答えを淹れ直したいというのなら」

 

その比喩めいた言い方に、ベルが観戦席で「やっぱりこの人たち独特だよね……」と小さく呟く。トウヤが横で肩を揺らし、シンは返事の代わりに視線をフィールドへ戻した。

 

始まる。

 

チェレンがボールを構える動きに、無駄はなかった。

けれど、無機質でもなかった。

 

「行くよ」

 

短い声で繰り出された相棒は、昨日と同じだ。見慣れた姿でフィールドへ立つ。その立ち上がりひとつにも、今日は迷いが少ないように見えた。

 

対するコーンのポケモンも、軽やかに足場を確かめる。昨日チェレンを苦しめた、あの“あと半歩外される感じ”が、もう空気の中にある。

 

最初の応酬は静かだった。

 

派手な打ち合いではない。位置を取り、間を測り、どちらが先に相手の癖へ触れるかを探っている。チェレンは昨日と同じように、相手の動きを狭める形を作っていく。外から見れば、やはり丁寧で、無理がない。堅実だ。崩れない。

 

――昨日と同じだ。

 

シンがそう思いかけた瞬間、チェレンの指示が少しだけ早く飛んだ。

 

「そこ、深く入って」

 

相棒が半歩前へ出る。

 

まだ確信に満ちた一手ではない。だが昨日なら選ばなかった角度だった。危険がある。反撃もある。けれど、届く可能性もちゃんとある。その“可能性が見えているうちに踏む”ことを、チェレンは今日、最初から捨てていなかった。

 

コーンの目がわずかに細くなる。

 

「いいですね」

 

軽く言いながら、すぐに切り返してくる。

 

チェレンの形はやはり一度崩される。安全に組んだ線の上には戻れない。そこで一瞬、昨日までのチェレンなら立て直しに回っていたはずだった。崩れたぶんを補って、元の正しさへ戻ろうとしていたはずだ。

 

だが今日は違う。

 

「戻らなくていい、そのまま」

 

シンは思わず息を止めた。

 

ベルも小さく目を見開く。

トウヤだけが、少しだけ楽しそうに口元を上げた。

 

戻らない。

 

それは、チェレンにとってかなり大きな選択だった。整っていた形が崩れたなら、普通は組み直したくなる。精度を重んじるタイプほどそうだ。けれどチェレンは、崩れたままでも届く道があるなら、そちらを選んだ。

 

相棒が一気に踏み込む。

 

きれいな形ではない。だが速い。迷っていないわけではない。それでも、迷いを抱えたまま止まらなかった。

 

攻防がぶつかる。

 

コーンのポケモンがかわしきれず、わずかに体勢を崩した。

ほんの小さなほころびだった。昨日のチェレンなら、見えても取り切れなかった類のものだ。

 

「今だ」

 

その声は、普段のチェレンより少し低かった。

 

相棒がためらわずに追う。

重ねる。

押し込む。

 

完璧な一手ではない。だが、“届きそうな場所”で止まらず、その先へ腕を伸ばした一連の流れは、昨日とはまるで違った。

 

ベルが思わず立ち上がる。

 

「行ける……!」

 

その声が届いたかどうかはわからない。けれどチェレンは、最後までフィールドから目を逸らさなかった。

 

相手も簡単には崩れない。コーンの返しはやはり巧い。ひとつの優勢で試合が決まるほど甘くはなく、すぐに角度を変え、また“半歩外す”展開へ持ち込もうとする。

 

そこでチェレンは、また同じ選択をした。

 

安全に整え直すのではなく、危うさごと踏み込む。

 

ひとつ。

もうひとつ。

小さくても、明らかに昨日より早い。

 

その積み重ねが、少しずつ流れを変えた。

 

観戦しているシンの胸の中で、ざらついたものが少し熱へ変わっていく。

わかるからだ。

 

チェレンは別に、トウヤみたいな天才の戦い方を真似しているわけじゃない。ベルみたいに感情で押し切っているわけでもない。ただ、自分の長所を捨てずに、自分の足りない半歩だけを埋めようとしている。そこが、たぶんいちばん難しい。

 

「チェレン……」

 

ベルが小さく名前をこぼす。

 

チェレンはもう返事をしない。

返す余裕がないのではなく、全部をそこへ使っている顔だった。

 

終盤、コーンのポケモンが再び大きく動く。

誘いだ。昨日ならそこでチェレンは一度様子を見た。相手の出方を確かめ、確実な答えを探した。

 

今日は違う。

 

「見えたなら、行く」

 

誰に言ったのかも曖昧な独り言みたいな声だった。

でもその一言で、相棒は迷わず踏み込んだ。

 

相手の誘いを承知で、その内側へ入る。

受けるのではなく、崩しながら前へ出る。

読み勝ったというより、読み切る前に届かせた。

 

次の瞬間、場の空気が止まる。

 

決まった、とわかったのはシンだけじゃなかった。

ベルも、トウヤも、たぶんコーン自身も、同じようにそれを見た。

 

審判の声が響く。

 

チェレンはすぐには動かなかった。

勝ったからではない。たぶん、いま自分が何をやったのか、頭より先に身体のほうが確かめている。

 

相棒がゆっくり振り返る。

 

その姿を見て、チェレンの肩からようやく力が抜けた。

 

「……届いた」

 

かすかな声だった。

でも、それは誰に聞かせるでもなく、本当に自分へ落とした言葉に聞こえた。

 

コーンは静かに微笑む。

 

「ええ。今日は、ちゃんとあなたの手で届かせましたね」

 

チェレンは一度、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

礼を言う声音はいつも通り整っていたが、その整い方の奥に、まだ熱が残っている。

 

バッジを受け取って観戦席へ戻ってきたとき、ベルが真っ先に駆け寄った。

 

「チェレン! やったじゃん!」

 

「うん」

 

「“うん”じゃないでしょ!」

 

ベルは半分怒っているみたいな顔で、でも笑っていた。

 

チェレンも、いつものようにそれを理屈で受け流さなかった。

 

「……嬉しいよ。ちゃんと」

 

その一言に、ベルが一瞬だけ黙る。

それから、なぜか自分のことみたいに大きく頷いた。

 

「だよね」

 

トウヤはいつもの軽さで言う。

 

「昨日よりよかった」

 

「昨日より、は余計じゃない?」

 

「でも昨日よりよかったでしょ」

 

「それはそうだけど」

 

珍しく少しだけ言い返すチェレンに、トウヤが笑う。

 

最後にシンが口を開いた。

 

「半歩、早かったな」

 

チェレンはその言葉に、少しだけ目を見開いた。

それから小さく頷く。

 

「たぶん、それだけだったんだ」

 

「それだけ、が難しいんだろ」

 

「……うん」

 

短いやり取りだった。

でも、それで十分だった。

 

昨日のチェレンは、届く場所まで行って届かなかった。

今日のチェレンは、届く前に踏み込んだ。

違いはほんの半歩ぶんかもしれない。けれど、その半歩を自分で選んだことが大きい。

 

四人はジムの外へ出る。

 

光が少し眩しい。

ベルはバッジを見せびらかすみたいに何度も出して、チェレンは最初こそ呆れた顔をしていたが、途中から自分も同じようにポケットへ手を入れていた。トウヤはそれを見て笑っている。シンはその横で、昨日までより少し軽くなった空気を感じていた。

 

勝った負けたで並びが決まるわけじゃない。

勝ったあとにどう立つか、負けたあとにどう戻るか、その積み重ねで少しずつ並び方が変わっていく。

 

足もとでミジュマルが、いつものように半歩先へ出た。

ベルのミジュマルも負けじと並ぶ。

その少し後ろで、チェレンの相棒が落ち着いた足取りで続く。

 

同じ道を進むのに、昨日とは少しだけ歩幅が違う。

 

でもその違いは、離れるためのものじゃない。

ちゃんとそれぞれの足で並ぶための違いだと、今なら思えた。

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