四人そろってジムを出たとき、サンヨウシティの空は、昨日までより少しだけ高く見えた。
同じ町のはずなのに、景色の見え方だけが変わっている。
シンはそれを不思議だとは思わなかった。町のほうが変わったわけじゃない。変わったのは、自分たちのほうだ。
ベルはバッジを何度も出してはしまい、また出していた。見せびらかしたいのか、自分でもまだ本当に手に入れたのか確かめたいのか、その両方なのだろう。
足もとのミジュマルは、当然だと言わんばかりに胸を張っている。けれどベルがちらりと見るたび、わずかに顎の角度が上がるから、こっちもかなり意識しているらしい。
チェレンは、ベルほどわかりやすくはなかったが、ポケットの中のバッジに何度か指先を触れさせていた。確認しているようにも、落ち着かせているようにも見える。表情は整っているのに、その仕草だけが妙に正直だった。
トウヤだけは最初から最後まで軽い。
勝っても負けても、その場に必要以上に熱を残さない。そういうところが、やっぱり天才っぽいとシンは思う。腹が立つほど自然で、でも目を逸らせない。
「で、これで全員だな」
トウヤが歩きながら言う。
「一応そうだね」
チェレンが頷く。
「シン、トウヤ、ベル、僕。全員トライバッジを持った」
「“一応”ってなによ」
ベルがすぐに噛みついた。
「なんか今、“ベルだけ一回負けてるけどね”みたいなの含んでなかった?」
「含んでない」
「嘘っぽい」
「でも一回負けてるのは事実だよ」
「チェレンもでしょ!?」
チェレンが咳払いをして目を逸らす。
そのやり取りを聞きながら、シンは小さく鼻を鳴らした。
昨日までより、空気が軽い。
勝ったからというより、負けたままで終わらなかったやつが二人いるからだろう。
ジム戦は終わった。
でも、それで全部が綺麗に片づくわけじゃない。
シンの中にはまだ、デントの読みの深さも残っているし、トウヤの勝ち方の眩しさも引っかかっている。ベルとチェレンだって、再挑戦で掴んだものが、そのまま明日から全部使いこなせるわけじゃないはずだ。
それでも、昨日とは違う。
“次を考えられる終わり方”だった。
ポケモンセンターへ戻る途中、四人は通りの店で軽く昼食を取ることにした。町の人たちは普段通りで、旅人がバッジを取ったくらいでは世界は止まらない。当たり前のことなのに、その普通さが少しありがたかった。
ベルはサンドイッチを持ったまま、やたらと機嫌がいい。
「なんかさあ、ジムのあとってもっとこう、すっごい特別な感じになるのかと思ってた」
「特別だったろ」
シンが言うと、ベルは口を尖らせる。
「そういう意味じゃなくて。町じゅうが“おめでとー!”みたいな」
「なるわけないでしょ」
チェレンが即座に返した。
「そんなの毎日誰かしら挑んでるかもしれないんだから」
「夢がないなあ」
「現実だよ」
その言い方がいつも通りで、ベルは少しだけ安心したようにも見えた。
トウヤは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「でも、普通なのはいいじゃん」
「なにが?」
「自分たちの勝ち負けだけで町が変わるわけじゃないってこと。そういうほうが、次に進みやすい」
シンはその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
トウヤはたまに、何でもない顔でそういうことを言う。
重くは言わない。でも、軽く流しているわけでもない。ただ、自分にとって自然なこととして口にする。シンにはまだ、その自然さが少し羨ましかった。
食事を終えてポケモンセンターへ入ると、空気がひんやりしていた。回復を終えたポケモンたちの鳴き声があちこちで重なり、町の外とは違う穏やかな騒がしさがある。
受付の近くまで来たとき、不意に聞き慣れない声がした。
「あの……すみません。あなたたち、アララギ博士から図鑑を受け取ったトレーナー、ですよね?」
振り向くと、白衣を着た女性が立っていた。年上ではあるけれど、研究者という肩書きの堅さより、どこか眠たげで柔らかい雰囲気のほうが先に目につく。けれど、その目はちゃんとこちらを見ていた。
「そうですけど」
チェレンが先に応じる。
女性はほっとしたように息をついた。
「よかったぁ……。探してたんです、ちょうど」
それから少しだけ背筋を伸ばして、言い直す。
「わたし、マコモといいます。アララギ博士とは研究つながりで」
アララギ博士の知り合い。
その一言で、四人の注意が自然とそろう。マコモ博士はそれを確認するように微笑んでから、少しだけ声を潜めた。
「お願いしたいことがあるんです。少し、時間もらえますか?」
案内されたのは、町はずれにある研究施設だった。
外から見れば普通の建物だが、中へ入ると空気が違う。薬品と紙の匂い、積み上がった資料、机の上に放置されたメモや器具。きちんと整理しようとした形跡はあるのに、途中で別のことが気になって手が止まったような部屋だと、シンは思った。
ベルが小声で呟く。
「なんか、アララギ博士の研究所と似てるけど、もっと眠そう」
「えへへ、よく言われます」
マコモ博士はあっさり認めた。
「でも散らかってるのは、ちゃんと意味がある……はずです。たぶん」
「たぶんなんだ」
シンがぼそりと言うと、トウヤが肩を揺らした。
けれど、マコモ博士が話し始めた途端、その場の空気は少し変わった。
「みなさんに頼みたいのは、“夢の跡地”に行ってもらうことなんです」
「夢の跡地?」
ベルが聞き返す。
その名前だけで、少しだけ不思議な響きがあった。
「サンヨウシティの外れにある古い建物です。今はほとんど使われていないんですけど、そこにムンナが現れることがあるんです」
マコモ博士は机の上の資料を一枚めくる。
「ムンナは“ゆめのけむり”って呼ばれるものを出すことがあります。夢や記憶、心の動きに関わる、とても珍しい現象で……わたし、その研究をしてるんです」
ベルが少しだけ身を乗り出した。
「夢のけむり……」
「もちろん、無理に傷つけたり捕まえたりしたいわけじゃありません」
マコモ博士は慌てたように付け加える。
「できれば安全に観察したいんです。もし出会えたら、その様子を見てもらって、どんな状態だったか教えてほしいんです」
シンはその説明を聞きながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
研究のため。
ポケモンのため。
夢のため。
言葉だけ聞けば穏やかだ。マコモ博士の口調に押しつけがましさはないし、利用しようとする冷たさとも違う。それでも、前に広場で聞いた“ポケモンのため”という言葉が、頭の片隅に残っていた。
N。
ポケモンの声。
解放。
あれと今の話は別物だと頭ではわかる。けれど、ポケモンに人が関わる理由について、前より少し敏感になっている自分がいた。
「シン?」
ベルに呼ばれて顔を上げる。
「どうしたの」
「……いや、なんでもない」
そう返しながら、なんでもなくはないと自分でも思う。ただ、まだうまく言葉にできない。
トウヤが先に聞いた。
「そのムンナって、最近も出てるの?」
「ええ。少なくとも痕跡はあります」
マコモ博士が頷く。
「ただ、わたしひとりで行くと警戒されちゃうこともあって……。もし同年代くらいのトレーナーがいたら、空気が変わるかなって思ったんです」
「なんで同年代」
シンが聞くと、マコモ博士は少し考えてから答えた。
「なんとなく、です」
「研究者の答えじゃないな」
「こういうのは、理屈だけじゃないんですよ」
その返しに、トウヤがくすっと笑った。
チェレンは資料に視線を落としながら、すでに夢の跡地までの位置関係を頭に入れている顔をしていた。ベルは興味と不安が半分ずつといった様子で、ミジュマルはそんなベルの足もとで、なぜかやたらと偉そうにしている。
シンは少しだけ黙ってから、口を開いた。
「……行く」
三人がこちらを見る。
自分でも、思ったより早く返事が出たと思った。
「気になるから」
「ムンナが?」
ベルが聞く。
シンは一瞬だけ迷ってから、肩をすくめた。
「それもある。でも……それだけじゃない」
Nのことも、広場のことも、ちゃんと説明する気にはまだなれなかった。説明したところで、自分の中でもまだまとまりきっていないものは、そのまま曖昧にしか出てこない気がした。
ただ、行って見ておきたかった。
ムンナというポケモンを。
夢の跡地という場所を。
そこにある空気を。
そして、自分が何を感じるのかを。
「僕も行くよ」
チェレンが迷いなく言う。
「サンヨウシティで起きていることなら、知っておくべきだと思う」
「じゃあ、あたしも」
ベルも続いた。
「ちょっと怖いけど、なんか放っとけないし」
最後にトウヤが、当たり前みたいに頷く。
「四人で行くなら、そのほうが早い」
そうして決まると、あとは早かった。
マコモ博士から場所の詳しい説明を受け、簡単な準備だけ済ませて、四人は研究所を出る。
外へ出ると、昼の光が少しだけ傾き始めていた。すぐ暗くなるほどではないが、長居できる時間でもない。夢の跡地へ向かう道は、町の中にあるのに、どこか町の外れらしい薄さがあった。人の気配が減り、建物の並びもまばらになる。
ベルが小さく言う。
「……なんか、急に静かになったね」
「町の端だからでしょ」
チェレンはそう返したが、自分でも少し警戒しているのが声でわかった。
足もとのミジュマルたちも、さっきまでとは少し違う歩き方をしていた。ベルのミジュマルは相変わらず堂々としているが、耳だけは周囲の音を拾っている。シンのミジュマルは、前へ出たがるくせに今日はむやみに駆けない。空気を探るように、半歩先で止まることが増えていた。
角をひとつ曲がると、古びた建物が見えてきた。
壁はところどころ崩れ、窓は割れたまま放置されている。人が使わなくなった時間が、そのまま形になったみたいな場所だった。けれど、不思議と完全に死んだ感じはしない。風が抜けるたび、どこか奥のほうでまだ何かが息をしているような気配があった。
「ここが……」
ベルが小さく呟く。
「夢の跡地」
チェレンが地図と見比べ、確認するように頷いた。
シンは建物の入口を見ながら、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
怖いわけではない。わくわくとも少し違う。何かが起こる前の、じわじわした落ち着かなさだ。
足もとでミジュマルが、短く鳴く。
「……行くぞ」
シンが言うと、三人もそれぞれ頷いた。
四人と四匹は、崩れた入口の前でわずかに足を止める。
外の光と中の影の境目は思ったより濃く、半歩踏み込むだけで空気の温度が変わりそうだった。
そのとき。
建物の奥のほうから、ほんのかすかに、やわらかい音がした。
風ではない。
瓦礫の崩れる音でもない。
何かが、そこにいる。
ベルが息を呑む。
チェレンの視線が鋭くなる。
トウヤの口元から、いつもの軽い笑みが少しだけ消える。
シンは入口の暗がりを見つめたまま、静かに息を吸った。
ジム戦は終わった。
でも、旅はそこで一区切りになるほど単純じゃない。
バッジの次に来るものは、きっとまた、答えのない何かだ。
その気配を胸の奥で受け止めながら、シンは最初の一歩を踏み出した。