BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第18話 やわらかい気配の奥で

夢の跡地の中は、外から見たよりもずっと静かだった。

 

崩れた壁の隙間から昼の光は差し込んでいるのに、その明るさがまっすぐ届かない。途中で砕けた柱や剥がれた床に遮られて、光の筋は何本にも分かれ、薄い埃の中で止まっている。空気は湿っていて、古い木と石の匂いに、どこか甘いものが混じっていた。

 

シンは入口から数歩入ったところで、一度だけ足を止めた。

 

足もとではミジュマルも、珍しくすぐ先へ出ようとしない。警戒しているというより、ここでは勢いだけで走るのが違うと、なんとなくわかっているような顔だった。

 

「思ったより……ちゃんと怖いね」

 

ベルが小さく言った。

 

声を潜めたつもりなのだろうが、静かなせいで余計によく響く。ベルのミジュマルはその足もとで胸を張っていたものの、耳だけは落ち着きなく動いていた。平気なふりをしているのは、どうやら今日も変わらないらしい。

 

「大声は出さないほうがいい」

 

チェレンが周囲を見回しながら言う。

 

「驚かせたら、ムンナが逃げるかもしれない」

 

「そういう言い方すると余計緊張するんだけど」

 

「緊張してるのは事実でしょ」

 

ベルが口を尖らせる。

だが言い返す声も、いつもより一段小さい。

 

トウヤは少し先へ進き、崩れた壁際を見上げた。

 

「奥、まだ続いてるな」

 

「分かれてる」

 

シンも視線を先へ向ける。

 

たしかに通路のように見える部分がいくつかあった。壁が抜けて、部屋と部屋の境界が曖昧になっている。人の手で作られたはずの場所なのに、長いあいだ放っておかれたせいで、もう半分くらいは野生のものに戻りかけていた。

 

そのとき、鼻先をかすめるように、さっきより少し濃い甘さが流れた。

 

「……これ」

 

シンが呟くと、チェレンも気づいたらしく眉を寄せる。

 

「匂い?」

 

「たぶん」

 

「夢のけむり、と関係あるのかな」

 

ベルがそう言った瞬間、足もとのミジュマルたちがほとんど同時に耳を動かした。

 

シンは反射的に息を止める。

 

何かいる。

 

音はしない。けれど、空気のどこかが微かに揺れた。光の届きにくい奥の一角、崩れた柱の影あたりに、やわらかな丸い輪郭のようなものが一瞬見えた気がした。

 

「いた」

 

トウヤの声は低かった。

 

四人の視線が自然とそこへ集まる。シンはボールに手をかけたまま、すぐには出さなかった。相手が敵だと決まったわけじゃない。むしろ、ここで急にポケモンを出すほうがまずい気がした。

 

影の奥で、何かが小さく動く。

 

やがてその姿が、少しずつ光の届く位置へ出てきた。

 

桃色だった。

 

丸みを帯びた小さな体。ふわりと浮いたような動き。耳のように見える部分がかすかに揺れ、その下の大きな目が、じっとこちらを見ている。

 

「ムンナ……」

 

ベルが、ほとんど息だけの声で言った。

 

ムンナは逃げなかった。けれど近づいてもこない。ただ、距離を測るように浮かんだまま止まっている。警戒しているのは間違いない。でも、それだけでもない気がした。

 

シンはその目を見返した。

 

大人しくて、やわらかそうで、弱そうにも見える。

でも、ただ無防備なわけじゃない。怯えたまま固まっているのではなく、相手を見るために動かずにいる目だった。

 

「どうする?」

 

トウヤが小さく聞く。

シンはすぐには答えなかった。

 

ここで近づけば逃げるかもしれない。声をかけても、意味があるかはわからない。だからといって、このまま見ているだけでも同じだ。妙に繊細な均衡の上にいる感じがした。

 

そのとき、ベルがそっと一歩だけ前へ出た。

 

「ベル」

 

チェレンが制止しかける。

だがベルは振り返らなかった。

 

「大丈夫。たぶん……大丈夫じゃないと困る」

 

その言い方は、自分に言い聞かせているみたいでもあった。足もとのミジュマルは一瞬だけ顔を上げ、何か言いたげにベルを見る。けれど止めはしなかった。代わりに、いつでも飛び出せるような位置にさりげなく動く。

 

ベルは両手を少しだけ前に出し、できるだけ何も持っていないことがわかるようにした。

 

「……取ったりしないよ」

 

ムンナに向けた声は、驚くほどやわらかかった。

 

「怖がらせたいわけじゃないの」

 

ムンナの目がわずかに揺れる。

 

ベルの言葉が通じたのかどうか、シンにはわからない。ただ、少なくともムンナはその場から消えなかった。耳のような部分をほんの少し動かし、それから視線をベルの足もとへ落とす。

 

見られているのは、ミジュマルのほうだった。

 

ベルのミジュマルは気づいて、ぴんと背筋を伸ばした。緊張しているくせに、そういうときほど堂々と見せる。だが今日は、それが空回りしていなかった。見栄の張り方が、昨日までと少し違う。

 

「ミジュ」

 

短く鳴く。

 

威嚇ではない。かといって媚びてもいない。

ここにいる、というだけの声だった。

 

ムンナはその鳴き声を聞いて、少しだけ体の力を抜いたように見えた。

 

シンはその変化を見逃さなかった。

 

ベルは相手に合わせるのがうまいわけじゃない。むしろ不器用だ。けれど、不器用だからこそ変に取り繕わない。怖いなら怖いまま、でも逃げずに立っている。その感じが、ムンナには悪くなかったのかもしれない。

 

「……来る」

 

トウヤが低く言った。

 

ムンナが、ほんの少しだけ前へ出たのだ。

 

浮かぶ高さは低いまま。すぐ逃げられる距離を残している。それでも、自分から近づくというだけで大きな変化だった。ベルは息を呑んだが、そこで余計な声を出さなかった。じっと待つ。

 

ムンナはさらに半歩ぶんだけ距離を詰め、ベルの前で止まった。

 

甘い匂いが、さっきよりはっきりした。

同時に、空気の輪郭が少しぼやけるような感覚がした。眩しいわけでも眠いわけでもないのに、頭の奥に薄い膜が一枚かかるみたいな、不思議な感じ。

 

「これ……」

 

チェレンが呟く。

 

「ゆめのけむり、かもしれない」

 

ムンナのまわりに、ごく薄い桃色の靄が生まれていた。煙というほど濃くはない。けれど確かに、何かが滲むみたいに空気へ溶け出している。

 

シンはその匂いを吸いこんだ瞬間、胸の奥が妙にざわついた。

 

何か思い出しそうになる。

 

カノコタウンの朝。

旅立つ前の家の匂い。

研究所の白い机。

広場でNがこちらを見たときの、あの静かすぎる目。

 

ひとつひとつは繋がっていないはずなのに、境目が曖昧になる。自分の中の記憶が、薄く水に溶けたみたいに広がっていく感覚。

 

「シン?」

 

ベルの声で、はっとした。

 

目の前の景色は変わっていない。夢を見ていたわけではない。ただ一瞬だけ、自分の意識が深いところへ沈みかけていた。

 

「……平気」

 

そう答えたものの、声は少し掠れていた。

ミジュマルがこちらを見上げる。心配しているというより、ちゃんと戻ってこいと言いたげな目だった。その視線に、シンはほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

「今の、みんな感じた?」

 

チェレンが聞く。

トウヤが短く頷いた。

 

「なんか、思い出す感じ」

 

「わたしも……ちょっとだけ」

 

ベルはムンナを驚かせないようにしながら答える。

 

「でも、嫌な感じじゃない」

 

嫌ではない。

たしかにシンも、そう思った。

 

不安定ではある。でも、無理やり引きずり込まれるような気味悪さではない。むしろ、こぼれそうになっているものが自然に滲んでくるような感覚だった。マコモ博士が研究したがる理由も、少しだけわかる気がする。

 

そのとき、ムンナがふっと顔を上げた。

 

空気が変わる。

 

さっきまでの静けさとは違う、張りつめたものが奥のほうから流れてきた。シンのミジュマルがすぐに身を低くする。ベルのミジュマルも、今度は見栄ではなく本気の警戒でベルの前へ出た。

 

「……誰かいる」

 

シンが言うのと、ほとんど同時だった。

 

建物のさらに奥。

壊れた壁の向こう側で、何かが擦れる音がした。人の足音にしては慎重すぎる。でも野生ポケモンの動きとも少し違う。息を潜めているくせに、完全には隠れきれていない気配。

 

トウヤの目が細くなる。

チェレンも、もう完全に戦う側の顔になっていた。

 

「ベル、下がれる?」

 

シンが聞くと、ベルは迷わず頷いた。

 

「うん。でもムンナは」

 

ムンナはその場から動かない。いや、動けないのかもしれない。警戒しているのは自分たちに対してではなく、奥から来る何かへ向いていた。

 

それを見て、シンの中で答えがひとつ決まる。

 

まだ何者かは見えていない。

でも、もしあれがムンナを狙う類のものなら、ここで引くわけにはいかない。

 

「ミジュマル」

 

短く呼ぶ。

相棒はすぐ前へ出た。

 

勢いのまま飛び出すのではなく、シンの半歩前で止まる。前に出たがるやつが、ちゃんと止まれるようになっている。そのことが、こんな場面なのに少しだけ心強かった。

 

ベルのミジュマルも隣へ並ぶ。さっきまでムンナの前で気を張っていたぶん、今はかなり本気らしい。耳も尻尾もぴんと張っている。

 

チェレンとトウヤも、それぞれいつでも動ける位置を取る。

誰も大きな声は出さない。ここで驚かせるべきじゃない相手が、まだ近くにいるからだ。

 

やがて、壊れた壁の向こうから、低い話し声がひとつ漏れた。

 

「……いたぞ」

 

人の声だった。

 

その瞬間、ベルの顔から色が引く。

シンの胸の奥には、冷たいものと熱いものが同時に走った。

 

人がいる。

しかも、ただ通りがかった様子じゃない。

 

ムンナが小さく鳴く。

その声はさっきまでよりはっきり怯えていた。

 

シンは暗がりの奥を見据えたまま、静かに息を吸う。

 

ジム戦を越えて、少しだけ前へ進んでいたつもりでいた。

けれど、次に来るのはまた別の形の厄介ごとらしい。

 

それでも、今はもう迷っている場合じゃなかった。

 

「来るぞ」

 

シンが言った。

 

壊れた壁の向こうで、複数の影が動く。

夢の跡地の甘い匂いの中に、場違いな人の気配が濃く混じり始めていた。

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