夢の跡地の奥は、外から見た廃墟よりもずっと静かだった。
崩れた壁の隙間から差し込む夕方の光が、床に長い帯をつくっている。そのあいだを、白く淡い靄のようなものがゆっくり流れていた。風ではない。けれど、息を吸うたびに胸の奥へやわらかく入り込んでくる、不思議な気配だった。
ベルが小さく息をのむ。
「……これ、もしかして」
「ゆめのけむり、かもしれないな」
チェレンが周囲を見渡しながら答える。その声は低いが、慎重すぎるほど固くはなかった。再挑戦を終えてから、彼の張りつめ方は少しだけ変わっていた。以前のように、すべてを整えてから動こうとするのではなく、揺れの中で考えることを覚えはじめている。
シンは足元の割れた床を見ながら、ミジュマルの頭を軽く撫でた。ミジュマルもまた、耳を澄ますように周囲を見ている。
「何かいる」
短く言うと、トウヤがすぐに視線を上げた。
「前だな」
その言葉どおり、崩れた柱の向こう、暗がりの中に丸い影があった。小さくて、やわらかそうで、けれど近づこうとするとすぐに身を引く。薄桃色の体。額の花のような模様。ムンナだ。
ベルの顔がぱっと明るくなる。
「いた……!」
けれど一歩踏み出しかけたベルを、チェレンが手で制した。
「待って。怯えてる」
ムンナは四人を見ているのではなかった。四人のさらに向こう。壊れた壁の影、そのもっと奥を見て、小さく震えていた。
次の瞬間、足音がした。
乾いた瓦礫を踏む、無遠慮な音だった。ひとつではない。二つ、三つ。人の気配が、こちらへ真っ直ぐ近づいてくる。
「いたぞ!」
「ムンナだ!」
揃いの服を着た男たちが、瓦礫の陰から現れた。胸元の紋章。どこか芝居がかった口調。ベルが眉をひそめる。
「……あの人たち」
「プラズマ団」
トウヤが、ほとんど反射のように言った。
男たちは四人の存在を見ると、一瞬だけ足を止めたが、すぐに薄く笑った。
「子どもか。邪魔をするな。我々はポケモンを解放するためにここへ来た」
「そのムンナが出す夢の煙は、ポケモンの未来のために必要なのだ!」
声だけは立派だった。けれど、ムンナに向ける手つきには、奪う者の雑さしかない。
シンの奥歯がきしむ。
ポケモンのため。解放のため。そう言いながら、怯えている相手を追い詰める。言葉とやっていることが、噛み合っていない。
トウヤは一歩前へ出た。迷いのない足取りだった。
「嫌がってるだろ」
「なに?」
「それで通ると思ってるなら、雑すぎる」
挑発でも断罪でもなく、ただ事実を突きつけるような言い方だった。その温度の低さが、かえって相手を逆なでした。
「生意気な……!」
男のひとりがボールを投げる。飛び出してきたのはミネズミ。もうひとりの手からはチョロネコが現れ、低く身を沈めた。
「来るよ!」
ベルの声と同時に、シンは前へ出ていた。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
青い水流が、崩れた床すれすれを走る。真っ直ぐではない。床の傾きを使って角度を変え、ミネズミの進路を削るように撃ち込む。まともに倒すためではなく、まず足を止めるための一手だった。
「トウヤ!」
「わかってる。ツタージャ、まきつく!」
動きが鈍ったミネズミへ、しなるように伸びた体が巻きつく。完全に締め上げるには浅い。だがそれでいい。足場の悪い場所で自由を奪われれば、それだけで十分な隙になる。
チョロネコが横から跳び込んできた。ベルがびくりと肩を震わせる。けれど次の瞬間には、もう逃げていなかった。
「ミジュマル、みずびたし!」
ベルのミジュマルが勢いよく飛び出し、丸い体をひねる。放たれた水がチョロネコの全身にまとわりつき、毛並みを重く濡らした。
ベル自身も、出した指示の意味をすぐ理解していた。これは倒す技じゃない。でも――変えられる。
「トウヤ、今!」
「ツタージャ、つるのむち!」
緑の鞭が空気を裂く。濡れたチョロネコの体を正面から打ち、吹き飛ばした。壁にぶつかった相手が呻く。
ベルが目を見開いた。
「……できた」
ただ言われた通りに動いたんじゃない。自分で考えた一手が、ちゃんと誰かの動きに繋がった。その実感が、声に混じっていた。
だが、相手も終わらない。巻きつきを振りほどいたミネズミが、ポカブへ向かって突っ込む。
「チェレン!」
「ああ。ポカブ、こらえる!」
体勢の悪い場所で無理に打ち返さない。正面からぶつかり、踏みとどまる。ミネズミの体当たりでポカブの足が瓦礫に沈む。けれど倒れない。息を詰め、押し返されながらも一瞬だけ耐えきる。
「そのまま、ひのこ!」
至近距離だった。逃げる間合いはない。火の粉が真正面から弾け、ミネズミのひげ先を焦がす。悲鳴のような鳴き声が響き、相手がたじろいだ。
チェレンはすぐに次を重ねない。代わりに一歩、位置をずらした。壊れた柱と壁のあいだ、狭い通路を塞ぐ角度に入る。
シンはそれを見て、すぐ意図を読んだ。
「ミジュマル、たいあたり!」
ミジュマルが低く駆ける。まともに吹き飛ばすのではなく、横からぶつけて、逃げ道のない方向へ押し込む。そこへトウヤの声が重なる。
「ツタージャ、にらみつける!」
一瞬の硬直。ほんの半拍だが、それで十分だった。ポカブの火の粉がもう一度走り、ミネズミはついに膝をつく。
残るチョロネコは、じり、と後ろへ下がった。
男たちの顔色が変わる。数の上では有利なはずだった。けれど、狭い足場で、互いの動きを繋げてくる相手は思ったより面倒だったのだろう。
シンは息を整えながら、視線だけを動かした。
トウヤは前を見ていた。ベルはもう怯えていない。チェレンは次の動きのために足先をわずかに開いている。
同じ場所に立っているのに、見ているものは少しずつ違うのだと思った。
トウヤは勝てる流れを嗅ぎ取っている。
チェレンは崩れた形の中で最適を探している。
ベルは怖さを抱えたまま、それでも置いていかれないよう前を見ている。
そして自分は、その全部を見て、自分の一手を選ぼうとしている。
同じ道を歩いているのに、景色は同じじゃない。
けれど――だからこそ、並べる瞬間がある。
「まだやるの?」
シンが一歩出ると、男たちは露骨に顔をしかめた。そのときだった。
ムンナが高く鳴いた。
白い煙が、さっきまでより濃く広がる。光を含んだような柔らかな霧が、瓦礫のあいだを満たしていく。男たちが思わず目を細めた。
「な、なんだ……!」
その奥から、もうひとつ大きな影が現れる。ゆるやかな弧を描くように漂う、夢そのものみたいな姿。ムシャーナだった。
ムシャーナはムンナの前へ滑るように出ると、プラズマ団の男たちへ向けて静かに念を放った。派手な衝撃ではない。ただ、そこに立っていられなくなるような圧だけが広がる。
男たちは数歩よろめき、そのまま後ずさった。
「くっ……覚えていろ!」
ありがちな捨て台詞を残して、彼らは逃げていく。瓦礫を踏む音が遠ざかると、跡地の中にはまた静けさが戻った。
ベルが大きく息を吐いた。
「……終わった?」
「たぶんね」
トウヤはそう答えたが、目はまだ奥を見ていた。逃げた男たちの背中ではなく、その先にあるものを考えている顔だった。
ムシャーナは四人をしばらく見つめ、それからムンナの体をそっと包むように寄り添った。淡い煙が、ふたたびゆるやかに流れ出す。今度のそれは、さっきの緊張をほどくような、ぬるい息みたいな気配だった。
シンの視界が、ほんの一瞬だけ揺れる。
走る背中が見えた。
追いつきたいと思った。
追いつけないかもしれないと思った。
それでも走るしかない、と胸のどこかが知っていた。
「……シン?」
ベルの声で我に返る。どうやらベルも、チェレンも、トウヤも、それぞれ少しだけ遠い顔をしていた。
「今の、見えた?」
ベルがおそるおそる訊く。
「少しだけ」
チェレンが答える。
「夢、みたいなものかもしれない」
トウヤは短く笑った。
「同じ煙でも、見えるものは違うらしい」
その言葉に、シンは小さく頷いた。
同じ煙。
同じ道。
同じ旅。
でも、見えている景色はきっと、ひとりずつ違う。
それでいいのだと思った。
違うまま並ぶから、誰かの見えないものを別の誰かが拾える。
同じ形じゃないから、一緒に進める。
やがて、跡地の入口のほうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「みんな、大丈夫!?」
駆け込んできたのはマコモ博士だった。白衣の裾を揺らしながら、ムンナとムシャーナ、それから四人の顔を順番に見て、あからさまに胸を撫で下ろす。
「よかった……。ゆめのけむりの反応が急に強くなったから、何かあったのかと思って」
「何かあった、どころじゃなかったよぉ……」
ベルがへなへなとその場にしゃがみこむ。けれど声には、さっきまでの震えだけじゃなく、ちゃんとやりきったあとの力の抜け方が混じっていた。
マコモ博士はムシャーナが残した淡い煙を慎重に採取しながら、四人に何があったのかを尋ねた。プラズマ団の名前を口にしたとき、彼女の表情が一瞬だけ曇る。
「そう……。やっぱり、動いてるのね」
「知ってるんですか」
シンが訊くと、マコモ博士はすぐには答えなかった。
「詳しいことはまだわからないわ。でも、あの人たちが掲げてる言葉と、実際にしてることが同じとは限らない。今日のことは、ちゃんとアララギ博士にも伝えておく」
トウヤが静かに目を細める。
「限らない、じゃなくて。たぶん、もうズレてる」
その言い方に、誰もすぐには返事をしなかった。
外へ出ると、空はもう夕焼けから群青へ変わりはじめていた。壊れた建物の向こうに伸びる道が、薄暗い中でかすかに白く見える。
ベルがその道を見ながら、小さく言う。
「同じところ歩いてるのに、みんなぜんぜん違うこと考えてるんだね」
「今さらかい?」
チェレンが言う。けれどその声は、以前ほど刺々しくなかった。
「でも、それでいいんじゃない?」
ベルは少し笑った。
「違うから、話せることもあるし」
シンはその言葉を聞きながら、ミジュマルを抱え直した。腕の中で、ミジュマルがふんと鼻を鳴らす。お前はお前で、たぶん自分なりの景色を見ているのだろう。
トウヤが先に歩き出す。
「行こう。止まってても、次は来ない」
その背中を見て、シンも歩き出した。
追うためじゃない。
並ぶためでもない。
ただ、自分の景色を見失わないために。
四人の足音が、夕暮れの道に重なる。
同じ道の上で、少しずつ違う速さと違う思いを抱えたまま、それでも確かに、次の町へ向かっていた。