研究所の扉を出た瞬間、朝の光が思ったよりもまっすぐ差しこんできた。
白い壁に反射した明るさが、ほんの一瞬だけ目に痛い。さっきまでいた室内は静かで、机の上のボールや博士の声ばかりが印象に残っていたのに、外へ出た途端、世界は急に音を取り戻した。どこかの庭先でバケツが鳴り、遠くでマメパトが短くさえずり、その声に応えるように別の家からも小さな鳴き声が返る。
カノコタウンは、いつも通りの朝だった。
なのにシンには、その“いつも通り”の中に自分だけが少しずれて立っているように感じられた。
同じ町だ。同じ道だ。昨日までと変わらないはずなのに、今日はもう、どこを歩いても“出発の前”ではいられない。
足もとではミジュマルが、じっとしているのが不満だと言わんばかりに前へ出たがっていた。
腹の貝を抱えたまま、つま先だけで地面を弾くように小さく身を揺らしている。研究所の中でもそうだった。知らない場所を警戒するというより、知らないからこそ自分から確かめに行きたいという空気が強い。
「待てって」
小さく声をかけると、ミジュマルは一応こちらへ顔を向けた。
ちゃんと聞いてはいる。
ただ、聞いたうえで、急ぐ理由のほうが勝っているだけだ。
その感じが妙に自分に近い気がして、シンは少しだけ喉の奥で笑った。
ベルは研究所の前で大きく息を吸っていた。
胸をいっぱいに膨らませて、止めて、それから一気に吐き出す。気合いを入れているのか、不安を外へ逃がしているのか、その両方かもしれない。隣ではベルのミジュマルが、やたらと堂々と胸を張っていた。
落ち着いているのはどう見てもポケモンのほうだった。
「……ほんとに行くんだね」
ベルが言う。
研究所の中でも似たようなことを口にしていたのに、今度の声は少しだけ低かった。はしゃぎの勢いで出た言葉ではなく、足もとへ実感が降りてきたときの声だった。
「ここまで来てやめるのかよ」
シンが返すと、ベルはすぐに首を振る。
「やめないよ。でも、思ってたのと違うっていうか。もっと、わーって楽しくなるだけかと思ってた」
「十分わーってしてたけど」
トウヤが言う。
ベルが頬をふくらませる。
「そういうことじゃないの。なんか、ちゃんと緊張もしてる」
「それが普通だろ」
チェレンが落ち着いた声で言った。
「むしろ何も感じないほうが不自然だよ」
「チェレンって、こういうときだけちょっと優しいよね」
「“こういうときだけ”は余計だ」
「でもいつもより優しい」
「君が騒がしすぎるだけ」
言い返しながらも、チェレンの声には本気のとげがない。ベルもそれはわかっているらしく、むくれた顔のまま、すぐにふっと笑う。
そのやりとりを聞いていると、少しだけ肩の力が抜けた。
旅立ちの日だからといって、四人が急に別人みたいになるわけじゃない。ベルは相変わらず感情が先に出るし、チェレンは理屈で足場を固める。トウヤは余裕があるように振る舞って、その実まわりをよく見ている。
そしてたぶん、自分も自分のままだ。
少しだけ静かで、少しだけ先に行きたくて、でも全部を言葉にするのは得意じゃない。
「じゃあ、行こうぜ」
トウヤが先に歩き出した。
ツタージャは足もとをするりと進み、主人より一歩だけ前へ出る。出すぎはしない。けれど、遅れもしない。その距離感がもうすでにツタージャらしかった。
チェレンもポカブを連れて続く。
ベルは一歩目を出す前に、もう一度だけ研究所を振り返った。
シンもつられてそちらへ目を向ける。アララギ博士の姿は見えない。ただ、扉の向こうで今日が始まったことだけは、妙にはっきり残っていた。
ここから先は、自分たちの足で進む。
頭では簡単なことだ。けれど、その単純な事実が胸の真ん中に座ると、思ったより重い。
重いのに、不思議と嫌ではない。
むしろ、それを持ったまま歩き出したくなる。
「シン、置いてくよ」
ベルに言われて、シンは軽く鼻を鳴らした。
「置いていけるならやってみろ」
そう返して足を出すと、ミジュマルが真っ先に前へ飛び出した。
「おい、だから早いって」
言葉ほどには困っていなかった。
むしろ、その前のめりな背中に引っぱられるみたいに、自分の足も自然と前へ出た。
カノコタウンの外れはすぐだった。
家の数が減り、柵が途切れ、風の匂いが変わる。湿った土の気配に、草の青さが強く混じる。人の暮らしの音が少しずつ遠ざかり、その代わりに、風に擦れる葉音や、草むらの奥で何かが走る気配が近くなる。
一番道路だ。
広くも狭くもない土の道が、ゆるやかに先へ延びている。ところどころに背の低い木があり、脇の草は朝露をまだ残していた。整えられてはいるが、町の中みたいな安心感はない。人の手が届いている場所と、野生のものが動く場所の境目が、ここにはちゃんとある。
ベルが思わず息を漏らした。
「わあ……」
特別な景色ではない。
山がそびえているわけでも、湖が輝いているわけでもない。ただ、町の外の道があるだけだ。
なのに、その先に何があるかわからないというだけで、朝の空気が少し違って感じられる。
シンは道の先を見やった。
見通しは悪くない。カラクサタウンまではそれほど遠くないと聞いている。最初に歩く道としては短いし、危険も少ない。それでも、自分にとっては初めての“旅の道”だった。
短いとか安全だとか、そういう言葉だけではまだ片づけられない。
「まずはカラクサタウンだね」
チェレンが言う。
「距離としては大したことない。でも、最初だからこそ無駄に消耗しないほうがいい」
「最初だからこそ、もうちょっとわくわくする言い方できない?」
トウヤが笑う。
「事実を言ってるだけだよ」
「わかるけどさ。せっかくならもう少しこう……“冒険の第一歩”って感じにしてくれたらいいのに」
「それで油断したら意味ないだろ」
「うわ、ほんとにチェレンだ」
ベルが呟く。
「何その感想」
「だってそうなんだもん」
そんなやりとりの最中、シンの意識は草むらへ向いていた。
何かいる。
音は小さい。でも近い。
葉の揺れ方が風だけではない。気配がひとつ、ふたつ。こちらを警戒しながら、相手も様子をうかがっている。
その感覚に呼応するみたいに、ミジュマルも身体を低くした。
「……出るかも」
シンが言うと、ベルがびくっと肩を揺らす。
「い、いきなり?」
「野生なんだからいきなりだろ」
「わかってるけど!」
声を重ねた次の瞬間、草が大きく揺れた。
飛び出してきたのはミネズミだった。
茶色い小さな体を低く構え、前歯を見せる。目つきが妙に強気で、相手が四人と四匹いることなど気にしていない顔をしていた。
ベルが一歩下がる。
トウヤは面白そうに目を細め、チェレンは落ち着いたまま一歩分だけ前へ出た。
「誰が行く?」
その問いに、シンの答えは早かった。
「俺がやる」
「即答だな」
トウヤが笑う。
「まあ、そう言うと思った」
シンは何も返さなかった。
自分でもわかっていた。
先に行きたいのだ。
勝てるかどうかを慎重に量ってから動くより、まず一歩出てみたくなる。さっき研究所で少し動かしただけでは足りなかった。野生相手に、外の空気の中で、自分とミジュマルがどこまで噛み合うのかを試したい。
「ミジュマル」
声をかけた瞬間、相棒はもう走り出していた。
「早い!」
ベルが声を上げる。
ほんとうに早かった。
指示に従ったというより、合図だけ受け取って先に出た、という感じに近い。前へ行くことにためらいがない。ミネズミもすぐに飛びかかってきて、小さな体同士が勢いよくぶつかった。
土が跳ねる。
一瞬だけ、どちらが押すかもわからない。
「そのまま――いや、待て!」
出しかけた指示をシンは途中で変えた。
ミネズミの力は見た目ほど軽くない。正面から押し合いながら、そのまま横へ逃げるつもりだ。追えばたぶんかわされる。そう感じた瞬間、声が先に出ていた。
ミジュマルが半歩だけ引く。
ミネズミがその脇をすり抜けかける。
「みずでっぽう、足もと!」
口から吐き出された水が、逃げる先の土を叩いた。
朝露を含んだ地面がさらに濡れ、ミネズミの足が滑る。ほんの一瞬、体勢が崩れる。その小さな隙が、やけにはっきり見えた。
「今だ、押せ!」
ミジュマルが前へ出る。
体当たりが脇腹へ入った。
ミネズミの体が二度、三度と転がり、最後は草むらの縁で止まった。しばらくもがく気配もなく、そのまま大人しくなる。
静かになった道に、自分の鼓動だけが遅れて戻ってきた。
勝った。
たったそれだけのことなのに、胸の内側が熱い。
ミジュマルがこちらを振り返る。まだいける、とでも言いたげな顔だった。
「やったな」
シンが言うと、ミジュマルは得意げに鳴いた。
「すご……」
ベルがぽつりと漏らす。
「え、もうちゃんと勝った」
「“ちゃんと”って何だよ」
「だって、さっき研究所でちょっと動いたときと全然違ったし。なんか、ほんとに旅のバトルって感じだった」
「旅のバトルって何」
「うまく言えないけど……外で、知らない相手と、ちゃんと勝負してる感じ」
ベルの言い方は曖昧だったが、言いたいことはなんとなくわかった。
研究所の床の上での慣らしとは違う。
相手が何をしてくるか、どこへ動くか、こっちがどこまで通じるか、全部がその場で決まる。整っていないぶんだけ、体の奥がひりつく。そのひりつきごと前へ踏みこめた感触が、思っていた以上に気持ちよかった。
「シン、楽しそうだったよ」
ベルが続ける。
その一言に、シンは少しだけ眉を寄せた。
「そんな顔してたか?」
「してた」
ベルは迷わず頷いた。
「ちょっと怖いくらい」
「それは言いすぎだろ」
トウヤが笑う。
「でも、まあ、わかる。さっきより顔が生きてた」
「もともと死んでないけど」
「そういう意味じゃなくて」
トウヤは肩をすくめた。
「やってる最中のほうが、考えるより先に前に出る感じだった」
図星に近い。
シンはわざわざ言い返さなかった。
実際、戦っている間は変に落ち着いていた。怖さがないわけではないのに、その怖さごと頭が冴える。どこへ動くか、どの瞬間に押すか、ミジュマルがどこまで前へ出るか。全部が一本の線みたいにつながる瞬間があって、それが妙に気持ちよかった。
楽しい、と言われたらたぶんそうだ。
認めるのは少しだけ落ち着かないが、否定する気にもなれなかった。
「……ベルもやるか?」
シンが言うと、ベルがぴくっとした。
「えっ」
「どうせこの先、戦わないわけにいかないだろ」
「それはそうだけど……」
ベルは自分のミジュマルへ視線を落とす。
相棒は研究所のときと変わらず、やけに堂々としていた。むしろ今のバトルを見て、こっちもやる気になっているようにさえ見える。
「失敗したらやだなって思う」
ベルが小さく言った。
シンは少しだけ意外だった。
もっと勢いだけで飛び出すかと思っていた。けれど、楽しみなぶんだけ、うまくいかなかったときのことも考えているのだろう。
わからなくはない。
やりたい気持ちが強いほど、最初の一歩は少し重い。
「失敗したら次やればいいだろ」
口をついて出たのは、思ったよりぶっきらぼうな言葉だった。
ベルはじとっとした目を向けてくる。
「そういうの、先に勝った人が言うとちょっとむかつく」
「別に偉そうにしたつもりないけど」
「してなくてもするの」
その横で、チェレンが呆れたように息をついた。
「だったらなおさら、一回やったほうが早い。頭の中で怖がってる時間のほうが無駄だよ」
「チェレンまで……」
「事実だろ」
ベルは口をとがらせたが、それ以上は言い返さなかった。
自分でもわかっているのだろう。
迷っているだけでは始まらない。
ちょうどそのとき、別の草むらが揺れた。
飛び出してきたのはヨーテリーだった。
丸っこい体を低くして、耳を立て、最初からやる気満々の顔でこちらをにらんでいる。ミネズミよりも少し重そうで、そのぶん突っこんできたときの勢いも強そうだった。
「来たぞ」
トウヤが言う。
「うわ、ほんとに来た!」
「ベル」
チェレンが短く呼ぶ。
「やるって言っただろ」
「言ったけど、ほんとにこの流れで来ると思ってなかった!」
「野生なんだから来るときは来るよ」
ベルは半ば悲鳴みたいな声を上げながら、それでもボールへ手を伸ばした。
「ミジュマル、お願い!」
ベルのミジュマルが振り返った。
一瞬だけ、“お願いって何?”と言いたげな顔をした気がする。
それでも前へ出た。
「お前、相棒より肝据わってるな……」
シンが呟くと、トウヤが横で笑いをこらえる。
ヨーテリーが低く走った。
「どうしよう!」
「まず落ち着け!」
思わずシンが言う。
「真っすぐ来る! 横!」
「よ、横!」
ベルの指示に、ミジュマルが横へ跳ぶ。
遅くはない。動きそのものは悪くなかった。ただ、ベルの声が半拍遅れるぶん、余裕がない。ヨーテリーは着地してすぐに向きを変え、もう一度距離を詰めてくる。
「みずでっぽう!」
水は飛んだが、ヨーテリーも止まってはくれない。肩口をかすめただけで、勢いは死なない。
ベルの顔が引きつる。
「避けた!」
「相手も動くんだから当たり前だろ!」
「今それ言わないで!」
言い返しながらも、ベルは目を逸らさなかった。
焦ってはいる。
でも、逃げてはいない。
「ベル」
今度はトウヤが静かな声で言う。
「全部うまくやろうとしなくていい。一個だけ決めろ」
「一個?」
「何を通したいか」
ベルの表情が少しだけ変わった。
考えることが多いと、こいつは散る。たぶん、ひとつだけに絞ったほうが動ける。
「……前に出たい」
ベルが呟く。
「じゃあそれでいい」
トウヤが言った。
ベルが息を吸う。
「ミジュマル!」
さっきより声が通る。
「こっちも前!」
ベルのミジュマルが走った。
ヨーテリーも突っこんでくる。
正面衝突。土が跳ねる。
押し合いになって、ベルのミジュマルが少しだけ押される。けれどベルはそこで目をそらさなかった。
「みずでっぽう!」
至近距離からの一撃がまともに入った。
ヨーテリーがたたらを踏む。
「そのまま、押して!」
ベルのミジュマルが勢いごと体をぶつける。見栄っ張りな顔のまま、きっちり前へ出る。最後の一押しでヨーテリーが転がり、そのまま起き上がらなくなった。
「……勝った?」
ベルが呆然と呟く。
数拍遅れて、自分が勝ったことを理解したらしい。次の瞬間、顔が一気に明るくなる。
「勝った! 勝ったよ!」
「声大きい」
チェレンが言う。
「でも、最初にしては悪くなかった」
「その言い方!」
「事実だろ」
「もっと素直に褒めてよ!」
文句を言いながら、ベルは明らかに嬉しそうだった。
その横でベルのミジュマルは、当然の結果だと言いたげに胸を張っている。
「似た者同士かもな」
シンがぼそりと漏らす。
「えっ、わたしあんなにえらそう?」
ベルが真顔で返してきたので、トウヤが吹き出した。
「お前のほうが慌てるけどな」
「それは自分でも思った……」
四人で笑う。
その笑いの中にいると、朝から胸のどこかに残っていた硬さが少しずつほどけていくのがわかった。
旅はもう始まっている。
けれど、三人と一緒に騒いでいると、まだ“いつもの続き”みたいな感覚も残っている。
その両方があるのが、不思議と心強かった。
そのあとも一番道路を進むあいだに、四人それぞれの癖は少しずつ表に出てきた。
トウヤは、気になったものがあるとすぐ足を止める。
木の幹に残った引っかき傷、落ちていた羽、草の折れ方。ひとつひとつは小さなことなのに、トウヤはそういうものを拾うのがうまい。道の端にしゃがんで確かめている姿は、旅人というより、何かを探している観察者に近かった。
チェレンは逆に、立ち止まる理由を自分で選ぶ。
必要のない寄り道はしない。足場の悪い場所には近づきすぎず、草むらにも不用意に寄らない。進む速さは一定で、疲れる前に水分を取ることまで考えている。最初の道路だというのに、妙に隙がなかった。
ベルは目に入ったものへすぐ反応する。
花が咲いていればしゃがみこみ、木の実が落ちていれば気にし、遠くで鳴き声がすれば顔を向ける。意識の向くほうへ身体が先に引っぱられる感じで、危なっかしいが、楽しそうでもある。
シンは、その三人の中間にいる気がした。
何でもかんでも拾うわけではないし、チェレンほど計算しているわけでもない。ただ、気配が動くとそちらへ意識が向く。目の前で何かが起これば、考えるより先に身体の奥が前を向く。
足もとのミジュマルも、まったく同じとは言わないまでも、かなり近い。
「シンってさ」
休憩のとき、トウヤが水筒のふたを閉めながら言った。
「その子とちょっと似てるかもな」
「何が」
「前に出たいところ」
シンは少しだけ黙った。
図星に近いことを、軽い調子で言われると返事に困る。
「別に考えてないわけじゃない」
「うん、わかる」
トウヤはあっさり頷く。
「考えてないんじゃなくて、考えるより先に一歩出たいんだろ」
そう言われると、否定しにくい。
実際さっきのバトルでも、相手が前にいると、そこへ気持ちが引っぱられた。読みきったとか、冷静だったとか、そういう言い方もできるかもしれない。けれど根っこのところでは、目の前の一手を通したい気持ちのほうが強かった気がする。
それが悪いのかどうかは、まだわからない。
ただ、ミジュマルと同じで、そのまま走りすぎると危ない場面が来るだろうことも、なんとなくわかっていた。
昼を回るころ、一行は道の脇にある小さな水場で休憩を取った。
細く流れる水が石のあいだを抜け、周囲には低い木陰が落ちている。大きな川ではないが、足を止めるにはちょうどいい。土の上には小さな足跡がいくつも残っていて、野生のポケモンたちも水を飲みに来る場所らしかった。
ベルは座った途端、大きく息をついた。
「つ、疲れた……」
「早くない?」
シンが言う。
「早くないよ! 朝からいろいろあったんだよ!」
「まだ一番道路の途中だけど」
チェレンが平然と返す。
「この先、もっと長い道もある」
「今それ言う!?」
「先に知っておいたほうがいいだろ」
ベルが恨みがましい目を向けるが、チェレンは気にしない。
その横でポカブがのんびり鼻を鳴らしている。見た目のやわらかさに反して、ポカブは意外と落ち着いていた。騒がしいのはトレーナーたちだけで、ポケモンたちはそれぞれ自分の調子で休んでいる。
ツタージャは木陰で静かに丸まり、ベルのミジュマルは水面に映る自分の姿をしきりに気にしている。
そしてシンのミジュマルは、案の定、水へ入りたくて仕方がない顔をしていた。
「待てよ」
言ったそばから、ばしゃりと飛びこまれる。
「だから待てって」
冷たいしぶきが腕にかかり、思わず肩が上がる。
ベルが吹き出した。
「完全に遊ばれてるじゃん」
「聞いてはいるんだよ、たぶん」
「たぶんで済ませるの?」
「まだ始まったばっかだし」
そう言いながら、シンは水の中で楽しそうに向きを変えるミジュマルを眺めた。
元気だ。
勝手だ。
落ち着きもない。
でも、その勢いが嫌じゃない。
むしろ、その前のめりさに引っぱられるように、自分の中の迷いまで薄くなっていく瞬間がある。
旅に出る前、自分はもっといろいろ考えていた気がする。
うまくやれるか。
ちゃんと勝てるか。
四人で進んでいけるか。
町の外でやっていけるか。
いざ始まってみると、そういう不安が消えたわけではない。ただ、消えていないままでも足は動くのだとわかった。怖さがあることと、進めることは、同じ線の上にあるらしい。
それは少し救いだった。
午後、道の終わりが近づくにつれて、人の気配が少しずつ戻ってきた。
風の匂いが変わる。草の濃さの中に、誰かが使う木材や土壁の匂いが混じり始める。遠くに建物の屋根が見えたとき、ベルがまっさきに声を上げた。
「あっ、あれ!」
カラクサタウンだった。
大きな町ではない。けれど、カノコタウンとはちゃんと違う空気を持っている。広場の開け方も、家の並びも、道の抜け方も、少しだけよそよそしい。近い距離にあるはずなのに、“次の場所”の顔をしていた。
シンの胸がまた少しだけ熱くなる。
ここまで来た。
ただそれだけなのに、家を出た朝とは感覚が違う。たったひとつ道路を越えただけで、昨日までの自分からほんの少し離れた気がする。
「着いたな」
自分で口にして、ようやく実感が言葉に追いついた。
ミジュマルがまた先に駆ける。
「だから早いって」
同じ言葉を繰り返しながら、その後ろを追う。
けれど今度は、止める気持ちが朝より少しだけ弱かった。
前へ行きたい。
知らない場所へ足を入れたい。
その気持ちは、たぶん自分も同じだ。
町の入口へ向かいながら、シンは空を見上げた。
朝に研究所を出たときより、陽はずっと高くなっている。時間はたしかに進んでいて、そのあいだ自分たちもちゃんと歩いてきた。
旅の最初の道は、思っていたほど劇的じゃなかった。
でも、思っていたよりずっと身体に残るものがあった。
野生相手に勝った感触。
ベルが最初の一歩を踏み出したときの声。
トウヤの軽さと、その奥にある落ち着き。
チェレンの理屈っぽさと、それが妙に頼もしく感じられる瞬間。
そして、自分の足が、知らない道の上でもちゃんと前へ出たという事実。
まだ何者でもない。
強いわけでもない。
答えがあるわけでもない。
それでも、今日ひとつ越えたものが確かにある。
カラクサタウンの風が近づいてくる。
その風を胸の奥で受け止めながら、シンは次の町へ、次の出来事へ、まだ名前を持たない期待ごと足を進めた。
四人と四匹の旅は、ようやく道らしくなり始めていた。