BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第20話 優先するもの

夢の跡地を出たとき、空はもう夕暮れの色を深くしはじめていた。

 

壊れた壁の隙間から見えていた群青は、外へ出てみるともっと広く、もっと静かだった。西の空だけが細く橙を残し、その下を低い雲が流れている。昼の熱を失いはじめた風が、草の匂いと土の匂いを一緒に運んでいた。

 

四人はしばらく無言で歩いていた。

 

夢の跡地で見たものが、それぞれの中でまだきちんと片付いていないのだと、シンにはわかった。プラズマ団の言葉。ムンナの怯えた様子。ムシャーナの静かな圧。マコモ博士の曇った表情。全部がまだ胸のどこかに引っかかっている。

 

先頭を歩くトウヤは、いつも通り足が止まらない。止まらないが、何も考えていないわけではない顔だった。むしろ、ああいう時ほど彼は先へ先へと意識を向けるのだろう。

 

その少し後ろで、チェレンは何かを整理するみたいに視線を落としている。昨日までなら、きっとあの場での対応をひとつずつ検証していたはずだ。どこが遅くて、どこが甘くて、どこを詰めればよかったか。そういう考え方をする男だ。

 

ベルだけが、何度もそっと後ろを振り返っていた。

 

露骨ではない。気づかれたくないみたいに、二歩か三歩進んで、少しだけ首を向ける。何かを期待しているようにも見えるし、ただ気になっているだけにも見える。

 

シンはそれに気づいていたが、すぐには何も言わなかった。

 

少し歩いたところで、トウヤがようやく口を開く。

 

「今日はこのへんで休んだ方がいいかもね」

 

ベルが顔を上げる。

 

「え、もう?」

 

「もう暗いし」

 

トウヤは空を見上げた。「夢の跡地のこと抜きでも、この時間から無理して進く意味は薄い」

 

「珍しいね」

 

チェレンが言った。

 

「何が」

 

「君が、自分からそう言うの」

 

「別に急ぐのが好きなわけじゃないよ。必要なら急ぐだけ」

 

そう返してから、トウヤはベルの方を見た。「それに、今日はみんな少し遅い」

 

ベルがぎくっとした。

 

「わ、わたし!?」

 

「ベルだけじゃないけど」

 

シンは思わず小さく笑った。ベルが即座に「なんで笑うの!」と睨んでくる。

 

「いや、ほんとに遅いから」

 

「だって……今日は、なんか……」

 

言い淀んで、ベルはまた後ろを見た。

 

何もいない。道の向こうには暮れかけた野原が広がり、その先に木立ちが見えるだけだ。小さな虫ポケモンの鳴き声が聞こえる。風が通るたびに草が波みたいに揺れる。

 

「何か気になる?」

 

シンが訊くと、ベルは少し迷ってから頷いた。

 

「……うまく言えないんだけど」

 

「言えばいい」

 

チェレンが言う。「言葉が曖昧でも、言わないよりはましだよ」

 

ベルは唇を寄せた。たぶん、その言い方が少しだけ気に入らなかったのだろう。でも反発せず、素直に口を開いた。

 

「後ろから見られてる気がする」

 

シンの足がほんの少しだけ止まる。

 

「見られてる?」

 

「うん。怖い感じじゃないの。なんていうか……」

 

ベルはまた振り返る。「置いてかれたくない、みたいな」

 

その表現が妙にベルらしくて、でも同時に、シンの胸の内側で何かが静かに鳴った。

 

トウヤも振り返る。  チェレンも道の後方を一度だけ見た。

 

何もいない。

 

だが、シンにはベルの言いたいことが少しわかる気がした。実際に何か見えたわけではない。でも、ただの気のせいと片付けるには引っかかる。

 

「いったん休もう」

 

トウヤがそう言って、道脇の開けた場所へ入っていく。低い木が風除けになりそうな、小さな平地だった。夜営というほど大げさなことはしないにせよ、しばらく腰を落ち着けるにはちょうどいい。

 

四人は荷物を下ろし、簡単な食事の準備をはじめた。火を使うほどではない。保存のきくパンと木の実、マコモ博士に持たされた携帯食。ポケモンたちにも少しずつ分ける。

 

ミジュマルは空腹のくせに偉そうな顔で受け取り、ポカブは素直にむしゃむしゃと食べ、ツタージャは少し選り好みしながらも結局口にした。

 

そんな何気ない時間のはずなのに、ベルは落ち着かなかった。

 

木の実をひとつ食べるたびに目線が泳ぐ。何か音がすると肩が揺れる。シンは向かいに座りながら、それを見ていた。

 

「ベル」

 

「な、なに」

 

「見に行きたい?」

 

ベルは目を丸くした。

 

「え」

 

「後ろ。気になるなら」

 

ベルはすぐには頷かなかった。  怖い、のだと思う。  確認したい。でも、何もいなかったら自分がおかしいみたいだし、何かいたらそれはそれで困る。そういう種類のためらいだ。

 

チェレンが水筒の蓋を閉めながら言う。

 

「ひとりで行くのはやめた方がいい」

 

「行かないよ!」

 

ベルが反射的に言い返す。

 

「ひとりでは、だけど」

 

「行くの?」

 

「だって気になるもん……」

 

その声は細かったが、ごまかしてはいなかった。

 

トウヤが立ち上がる。

 

「じゃあ見よう」

 

「軽いなあ」

 

シンが言うと、トウヤは肩をすくめた。

 

「気になるままの方が面倒だし」

 

結局、四人で少しだけ元の道を戻ることになった。

 

夕暮れはもうほとんど夜に近くなっている。完全な暗闇ではないが、色の区別が難しくなりはじめる時間だ。草むらの影が濃い。遠くの木立ちも黒い塊にしか見えない。

 

ベルがシンの少し後ろを歩く。

 

「いたらどうしよう」

 

「いなかったら?」

 

「それはそれで恥ずかしい」

 

「じゃあ、どっちでも困るじゃん」

 

「そうだよ!」

 

思わず笑いそうになる。ベルは本当に、その場その場の気持ちを隠さない。

 

道が少しだけ曲がる、その角まで来た時だった。

 

風で揺れた草の向こう、わずかに丸い影が動いた。

 

薄桃色。

 

シンは足を止めた。  ベルも同時に止まる。

 

「……いた」

 

ベルの声は、ほとんど息みたいだった。

 

草むらの陰からこちらを見ていたのは、ムンナだった。

 

夢の跡地で見たときと同じ、やわらかそうな体。だがあの時よりも警戒は強く見える。こちらが動けばすぐ逃げられる距離を保ちながら、でも目は離さない。追ってきた、というより、見失わないようについてきた、そんな佇まいだった。

 

ベルが思わず一歩前へ出る。

 

その瞬間、ムンナの体がびくっと揺れた。逃げる寸前の気配。ベルははっとして足を止める。

 

「ご、ごめん……」

 

謝る声が、夜の草の匂いに混じる。

 

チェレンが小さく息をついた。

 

「やっぱり来てたんだね」

 

「ずっと?」

 

シンが訊く。

 

「たぶんね」

 

チェレンはムンナから視線を外さないまま答える。「ベルが気づいたときから、という意味なら」

 

トウヤは腕を組まず、ただ自然に立っていた。敵意がないことを見せるためでもあるのだろう。

 

「どうする?」

 

その問いはベルに向けられていた。

 

ベルは返事に詰まる。

 

どうする。  呼ぶのか。  近づくのか。  放っておくのか。

 

どれも違う気がして、どれも少しは正しい気がする。

 

「……わかんない」

 

正直にそう言うと、トウヤは頷いた。

 

「じゃあ、わかんないままでいいんじゃない」

 

「え」

 

「無理に今決めなくても」

 

ベルは目を瞬かせた。  シンも少し意外だった。トウヤはもっと、白か黒かを早く決める側だと思っていた。

 

でも、トウヤは続ける。

 

「こっちに来たいなら来るし、来たくないなら来ない。今の距離でついてくるなら、それがムンナの選んでる距離なんでしょ」

 

その言葉を、ベルは静かに聞いていた。

 

シンはムンナを見る。  確かに、逃げてはいない。  来るでも、逃げるでもないこの距離は、ムンナ自身がどうにか保っているものなのだろう。

 

ベルがしゃがみこんだ。  近づくためではなく、自分を低くするために。

 

「……来てもいいよ」

 

小さな声で言う。

 

「でも、無理しなくていいからね」

 

ムンナは答えない。  ただ、その丸い体を少しだけ揺らした。

 

結局、その夜はそれ以上何も起きなかった。

 

四人が休憩場所へ戻ると、ムンナはまた少し距離を置いたところで止まった。近くへ来ることはない。けれど離れすぎもしない。視界の端にいるかいないか、ぎりぎりの位置で、こちらを見失わないようにしている。

 

ベルは何度もそちらを見たが、最後まで追わなかった。

 

寝る前、シンが横になりながら空を見ると、細い月が木の枝のあいだに引っかかっていた。ミジュマルはもう半分寝ている。ポカブの寝息が少し向こうから聞こえる。ベルの方を見ると、彼女は毛布にくるまりながら、まだうっすら目を開けていた。

 

「寝ないの」

 

シンが小声で訊く。

 

「寝るよ」

 

「でも見てる」

 

「……見てる」

 

ベルは素直に認めた。「いなくなってたらどうしようって思って」

 

「いるかもしれないし、帰ってるかもしれない」

 

「そうなんだけど」

 

ベルは小さく息を吐く。「自分で“無理に決めない”って思ったくせに、気になっちゃう」

 

「それでいいんじゃない」

 

「いいのかな」

 

「たぶん」

 

ベルはしばらく黙って、それから少しだけ笑った。

 

「シンって、こういう時たまに適当だよね」

 

「たまに?」

 

「わりと」

 

言い返そうとしたが、面倒なのでやめた。

 

夜は冷えたが、穏やかだった。

 

朝になると、ムンナは見えなかった。

 

ベルが起きて最初に辺りを見回し、それから少しだけ肩を落としたのを、シンは見ていた。けれど口には出さない。

 

朝露の残る草を踏みながら、四人は再びシッポウシティへの道を進きはじめた。

 

空はよく晴れていた。昨日の重たさが嘘みたいに青い。こういう朝は、気持ちだけが取り残される気がする。世界の方は平気な顔で前へ進むのに、自分の方はまだ少し遅れている、そんな感じだ。

 

午前の道はなだらかだった。

 

小さな林を抜け、浅い川にかかる木橋を渡り、背の低い草原を進く。ベルは最初こそ後ろを気にしていたが、何度見ても何もいないものだから、だんだん振り返る回数が減っていった。

 

チェレンがそれに気づく。

 

「諦めた?」

 

「諦めたっていうか……」

 

ベルは少し考えてから言う。「来るなら来るし、来ないなら来ない、って思うことにした」

 

「昨日トウヤに言われたこと、そのままだね」

 

「うるさいなあ」

 

ベルは頬を膨らませたが、そこまで嫌そうではなかった。

 

トウヤは前を見たまま言う。

 

「でも、本当に来ないかどうかはまだわからない」

 

「どっちなの」

 

「どっちでもある」

 

シンはその会話を聞いて、少しだけ笑う。  トウヤの言葉は乱暴に聞こえることがある。でも時々、やたら本質だけを抜いてくる。

 

昼近く、四人は野生のミネズミの群れに道を塞がれた。

 

大した相手ではない。だが数が多い。しかもこちらが休憩しようとした木陰を先に取られているらしく、妙に気が立っていた。

 

「どうする?」

 

ベルが訊く。

 

「追い払うしかないかな」

 

チェレンが言う。「無理に大きな怪我をさせる必要はないけど」

 

トウヤがツタージャのボールに指をかける。  シンもミジュマルを前へ出した。

 

ベルは少しだけ迷ってから、自分のミジュマルへ視線を向けた。ミジュマルはやる気のある顔をしている。

 

「行こう。ミジュマル、みずびたし!」

 

放たれた水が先頭のミネズミを濡らす。直接倒す技ではない。だが動揺を生むには十分だった。そこへシンが重ねる。

 

「ミジュマル、みずでっぽう!」

 

水流が地面すれすれを走り、群れの前列を崩す。  チェレンのポカブが一歩前へ出る。

 

「こらえる。前に出るな、その位置でいい」

 

飛び込んできたミネズミの体当たりを受け止めさせ、動きを止める。その隙にトウヤが短く言った。

 

「ツタージャ、にらみつける」

 

空気がぴたりと張る。  相手が一瞬ためらったところへ、ポカブのひのこが弾け、ツタージャのつるのむちが脇から地面を打った。

 

まともに戦えば長引く。  だが「ここは危ない」と思わせるだけなら、今の四人でも十分だった。

 

ミネズミの群れは二、三歩下がり、それから散っていく。

 

ベルがほっと息をついた。

 

「勝った、でいいのかな」

 

「追い払えたなら十分だよ」

 

チェレンが言う。「戦う目的は、倒すことだけじゃない」

 

その言葉を聞きながら、シンは昨日の夢の跡地を思い出していた。  たぶん本当にそうなのだ。  守ること。  離すこと。  届くこと。  そのために何を優先するかで、戦い方は変わる。

 

木陰で休憩をとっている時、トウヤがふいに顔を上げた。

 

「いる」

 

三人が一斉にそちらを見る。

 

道の脇、少し離れた茂みの陰に、丸い影が見えた。

 

ムンナだった。

 

昨日の夜よりも少し近い。  でも、まだ十分遠い。  近づけば逃げる距離、けれど見える位置には必ずいる距離だった。

 

ベルの顔が、一瞬で明るくなって、それからすぐに曇る。  近づきたい。でも近づけば消える。  そのことを、もうちゃんとわかっている。

 

「来てたんだ……」

 

ベルの声は、嬉しいような困ったような、変な音だった。

 

ムンナは草の陰からこちらを見ている。  ベルを見るというより、ベルたち全体を見ている感じだ。けれど、その視線が特にベルへ長く留まることを、シンは見逃さなかった。

 

チェレンが水筒を持ち上げる。

 

「ここで詰めない方がいい」

 

「うん」

 

ベルはすぐ頷いた。  頷いたが、その声は小さい。

 

トウヤが荷物の中から木の実をひとつ取り出した。

 

「置いとく?」

 

ベルが驚いて見る。

 

「いいの?」

 

「取るかどうかはあっち次第だけど」

 

ベルは少し迷ってから、その木の実を受け取った。  そしてムンナの方へ近づくのではなく、今自分がいる場所から数歩だけ離れた、ちょうど中間くらいの地面にそっと置く。

 

「これ、いるなら」

 

言葉が届くわけではない。  でも、声の温度は届くかもしれない。

 

「無理ならいいからね」

 

そう言って戻る。

 

ムンナはすぐには動かなかった。  四人がわざとその方向を見ないようにして休憩を続けていると、しばらくして小さな気配だけが動いた。ちらりと視線を向けると、木の実はなくなっていた。

 

ベルが小さく笑う。

 

声を出さないようにしているのに、嬉しさが隠しきれていない笑いだった。

 

午後、道は少しずつ町へ近づいていった。

 

整った柵が見えはじめ、遠くに建物の屋根も覗く。シッポウシティはもうそう遠くない。ここから先は、人の気配が増える。野生のポケモンが長くうろつくには向かない場所だ。

 

ベルもそれがわかっているのか、言葉が少なくなった。

 

シンが並んで歩く。

 

「不安?」

 

「……うん」

 

「来るかどうか?」

 

「それもあるし」

 

ベルは前を見たまま言う。「ここまで来たら、あの子がどうしたいのか、ちょっと決まっちゃう気がして」

 

シンはその意味を考える。  たしかに、町の手前というのは境目だ。  ここを越えれば、人の領分が濃くなる。  野生のポケモンにとっては、ついていくか、戻るか、どちらかを選ばされるような場所でもある。

 

「怖い?」

 

「うん」

 

「何が」

 

「どっちでも」

 

ベルは苦く笑う。「来てくれても、来なくても、どっちもこわい」

 

その答えに、シンは何も返せなかった。  たぶんそれがいちばん正直なのだと思ったからだ。

 

夕方が近づく頃、四人はシッポウシティ手前の林道を抜けた。

 

視界がぱっと開ける。  前方に町の輪郭が見えた。屋根の列、木組みの建物、整えられた道。もう「次の町がある」ではなく、「あそこが次の町だ」とはっきり言える距離だった。

 

そして、その開けた場所に出た瞬間、ベルがぴたりと止まった。

 

「……ムンナ」

 

振り返った先。  林の影と夕方の光の境目に、ムンナがいた。

 

かなり近い。  今まででいちばん近い。  でもまだ、ベルの足元までは来ない。来られない。  目には迷いがある。体にも警戒が残っている。けれど、それでも林の奥へ戻ろうとはしていなかった。

 

チェレンも足を止める。

 

「ここまで来たんだね」

 

トウヤは何も言わない。  ただ、口を挟まないことを選んでいる顔だった。

 

ベルがゆっくり、ムンナの方へ向き直る。  一歩だけ前に出る。  ムンナはびくっとする。  ベルはそれ以上近づかない。

 

「……来たんだ」

 

それだけ言う。  それ以上の飾りが出てこない。

 

風が吹く。  林の葉が擦れる。  夕方の光がムンナの丸い体の縁を淡く染める。

 

「わたし、まだよくわかんない」

 

ベルは静かな声で言った。

 

「一緒にいたいって思ってる。でも、それがあの子のためかどうか、ちゃんとわかんない。だから……」

 

言葉が途中で詰まる。  シンは見ているしかできない。

 

ベルは小さく息を吸い直した。

 

「だから、わたしの方から決めたくない」

 

ムンナはじっと見ている。  逃げない。  でも来ない。

 

「帰りたいなら帰っていいよ」

 

ベルの声は震えていた。でも逸れなかった。

 

「ここまで来てくれたの、すごく嬉しい。でも、無理してほしくない。怖いなら怖いままでいいし、まだ決められないなら、それでもいい」

 

シンの胸のどこかが、静かに締まる。

 

ベルは強くない。  少なくとも、自分でそう思っている。  でも、今のこの言い方には強さがある。自分の願いを押し切らない強さ。相手の迷いを急かさない強さだ。

 

「……もし」

 

ベルが言葉を継ぐ。

 

「もし、わたしを見失いたくなくて来たんだったら。わたしも、ちゃんと見る」

 

ムンナの体が小さく揺れた。

 

前へ出る。  止まる。  また半歩、出る。

 

ベルの顔がわずかに変わる。  でも走り寄らない。  手も伸ばさない。

 

ムンナは結局、ベルのところまでは来なかった。  ただ、林の境目からは完全に出てきた。  もう「偶然そこにいた」距離ではない。見えなくならないために、はっきり自分で近づいた距離だった。

 

ベルの目が少し潤む。

 

「……ありがとう」

 

小さく、それだけ言う。

 

チェレンがごく軽く息を吐いた。

 

「今は、ここまでかな」

 

「うん」

 

シンも頷く。

 

今この瞬間を、捕まえるとか仲間にするとか、そういう言葉にしてしまうのは違う気がした。  まだそこではない。  でも、ただの野生でもなくなりつつある。

 

トウヤが先に町の方を見た。

 

「入ろう。日が落ちる」

 

ベルはすぐには動かず、ムンナを見たまま立っていた。  それからようやく、ゆっくり頷く。

 

「……うん」

 

町の方へ歩き出す。  二歩進いて、ベルは振り返らない。  振り返りたいのを、こらえているのがわかった。

 

シンは一度だけ後ろを見た。

 

ムンナはまだそこにいた。  林の縁、夕方の光と影の間で、小さく丸い影のまま、こちらを見ている。

 

追ってくるかもしれない。  戻るかもしれない。  まだ決まっていない。

 

でも、見失う気はないのだろう。  それだけは、はっきりしていた。

 

シンは前を向き直る。

 

旅の中では、何を優先するかを何度も選ばされる。  急ぐこと。  守ること。  勝つこと。  追いつくこと。

 

でも今日、ベルが選んだのは、たぶん少し違うものだった。

 

先に答えを決めないこと。  相手の選ぶ余地を残すこと。  来るなら来る、来ないなら来ない、そのどちらにも耐えること。

 

それは目立たないし、格好よくもない。  けれど、簡単な強さじゃなかった。

 

シッポウシティが少しずつ近づく。  町の輪郭が大きくなる。  四人の影が夕暮れの道に長く伸びる。

 

そのずっと後ろ、林の境目に、もうひとつ小さな影が残っていた。

 

まだ並んではいない。  でも、もう完全に別の道でもない。

 

シッポウシティ手前まで追ってきたその気持ちは、言葉にならないまま、たしかにそこにあった。

 

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