BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第22話 朝の分かれ道

シッポウシティの朝は、思ったより音が少なかった。

 

人がいないわけではない。店を開ける音もするし、道を掃く箒の擦れる音も、遠くで荷車の軋む音もする。けれど、それらが妙に静かに聞こえるのは、町全体が大きな木の器みたいに音をやわらかく受け止めているからかもしれなかった。

 

宿の窓から差す光は白く、まだ一日の熱を持っていない。

 

シンは目を覚ますと、しばらく天井を見ていた。

 

昨日のことが、朝になったからといってすぐ薄くなるわけではない。夢の跡地、プラズマ団、シッポウシティの手前で立ち止まったムンナ、そして朝の光の中でベルの手持ちになった、その一連の流れがまだ胸の奥にまとまらないまま残っている。

 

足元では、ミジュマルが丸くなって寝ていた。

 

いつものように偉そうな顔ではなく、寝顔だけは妙に無防備だ。シンは少しだけ笑って、その頭を軽く撫でた。

 

「起きろ」

 

ミジュマルが片目だけ開けて、不満そうに鼻を鳴らす。  だが完全には起き上がらない。

 

「朝だって」

 

そう言っても、ミジュマルはしばらく動かなかった。旅に出たばかりの頃よりは、だいぶシンの声に付き合うようになったとは思う。とはいえ、こういうところは相変わらず自分の都合が先だ。

 

それでも、今日はそれが少しだけ羨ましく思えた。

 

昨日から今日にかけて、いろいろなものが動いた。  ベルにムンナが加わったことだけじゃない。  旅の歩き方そのものが、少しずつ変わりはじめている気がする。

 

誰かに追いつくために走るだけの時間では、もうなくなってきているのかもしれない。

 

下の階へ降りると、すでにトウヤが朝食を食べはじめていた。

 

「遅いね」

 

「普通だよ」

 

シンが席に着くと、トウヤはパンをちぎりながら言う。

 

「ミジュマルが起きなかった?」

 

「半分そう」

 

「半分は?」

 

「俺も少しぼーっとしてた」

 

その返事に、トウヤが少しだけ笑う。

 

「珍しい」

 

「そうでもない」

 

「そうかな」

 

トウヤはそこで話を切った。  深く追わないところが、彼らしいといえば彼らしい。

 

チェレンはその少し後に来た。寝起きでも服装に乱れがないのが癪に障るくらいきっちりしている。最後にベルが階段を駆け下りてきて、三人の顔を見た瞬間、少しだけ気まずそうに足を止めた。

 

「……おはよう」

 

「おはよう」

 

シンが返すと、ベルは椅子に座りながら、抱えていたボールをそっと膝の上に置く。

 

ムンナのボールだ。

 

その扱い方だけで、昨日までと何かが変わったのがわかる。まだ慣れていない。だからこそ、妙に大事そうで、妙にぎこちない。

 

トウヤがそれを見て言った。

 

「眠れた?」

 

「んー……半分くらい」

 

「少ないね」

 

「だって気になるんだもん」

 

ベルは開き直ったように言って、それからボールを見下ろす。「ほんとに昨日のことだったのかな、って思っちゃって」

 

「出してみれば?」

 

シンが言うと、ベルは一瞬だけ目を丸くした。

 

「い、いきなり?」

 

「確認したいなら」

 

ベルは少し迷ってから頷いた。  朝食の邪魔にならないよう、宿の人にひとこと断って、隅の少し広い場所へ移る。そこでボールを開くと、やわらかな光と一緒にムンナが姿を見せた。

 

ムンナは最初、見知らぬ室内の空気に少し身体をこわばらせた。だが、ベルの足元を確認し、ミジュマルの顔を見て、シンたちの位置を確かめるように視線を巡らせると、逃げはしなかった。

 

ベルがほっと息をつく。

 

「よかった……」

 

その声に、ムンナの耳のような部分がわずかに動いた。

 

ミジュマルが腕を組むみたいな偉そうな姿勢でそれを見ている。  ベルのミジュマルも隣でやや複雑そうな顔をしていた。新入りが気になるのだろう。だが敵意を剥き出しにするほどではない。昨日の朝よりは、少しだけ落ち着いている。

 

チェレンが観察するように言う。

 

「まだ緊張はしてるね」

 

「うん。でも昨日よりは」

 

ベルはしゃがみこみ、ムンナの目線に合わせる。「大丈夫だよ。今日はすぐ無理させたりしないからね」

 

その言い方に、トウヤがさりげなく口を挟む。

 

「“すぐ”ってことは、あとではさせるつもりなんだ」

 

「そういう意味じゃないよ!」

 

「でも、旅してる以上は慣れてもらわないと困るよね」

 

「それは……そうだけど」

 

ベルが言い淀む。

 

シンには、その迷いがよくわかった。  大事にしたい。  でも、大事にするだけじゃ旅は続かない。  ベルはたぶん、その両方をもう知ってしまっている。

 

朝食のあと、四人は宿を出た。

 

シッポウシティの朝は完全に始まっていた。通りには買い物かごを持った人、掃除を終えた店主、ポケモンを連れた子どもたちの姿がある。旅人である四人はその流れの中ではまだ少しよそ者だが、昨日の夜に比べれば町との距離は縮まって見えた。

 

問題は、今日をどう使うかだった。

 

トウヤは町の中央へ視線を向ける。  チェレンはすでに案内板を見ている。  ベルはムンナの様子を気にしながら周囲の匂いや音にも意識を配っている。  シンはそんな三人を見ながら、自分の足の置き方をまだ決めきれずにいた。

 

「まずは博物館かな」

 

チェレンが言った。

 

「ジムリーダーのアロエは、博物館の館長もやってるって聞いた。会えるなら先に町の空気を知っておくのも悪くない」

 

「俺は賛成」

 

トウヤがすぐ答える。「戦う前に見ときたいし」

 

「見ときたいって、何を?」

 

ベルが訊く。

 

「町の癖」

 

トウヤの返事は短い。「どんな場所で、どんな人がいて、何を大事にしてるか。ジムってだいたい、町と無関係じゃないし」

 

シンは少し感心した。  トウヤは理屈を長く語らない。でも、戦う前に見ているものはいつも広い。

 

ベルはボールを胸元で持ち直した。

 

「わたしは……少し、ムンナと落ち着く時間ほしいかも」

 

チェレンがすぐに反応する。

 

「別行動にするってこと?」

 

「うーん、そこまでじゃないけど」

 

「でも、同じペースでは動きにくいってことだろう」

 

言い方は淡々としていたが、責める響きではなかった。

 

ベルは頷く。

 

「たぶん。昨日入ったばっかりだし、この町の音とか、人とか、まだムンナも慣れてないと思う。いきなりみんなと同じ感じで歩いたら疲れちゃうかも」

 

「正しいと思うよ」

 

シンが言うと、ベルは少し驚いた顔をした。

 

「ほんと?」

 

「うん。昨日あれだけあったし」

 

「君は?」

 

チェレンがシンを見る。

 

その問いに、シンはすぐ答えられなかった。

 

昨日までなら、たぶん反射みたいに誰かに合わせていた。  トウヤについていくか。  四人一緒でいるか。  そのどちらかを、あまり深く考えずに選んでいた気がする。

 

でも今は、少し違う。

 

シッポウシティの朝は、思ったより分かれ道みたいだった。

 

同じ町に着いたのに、同じ朝を迎えたのに、何を優先するかがそれぞれ少しずつ違っている。

 

チェレンは情報を集めたい。  トウヤは町の癖を見たい。  ベルはムンナとの距離を整えたい。

 

じゃあ自分は何だろう。

 

「……見たい」

 

気づいたら、そう言っていた。

 

「何を?」

 

トウヤが訊く。

 

「町も。みんなのことも」

 

「曖昧だね」

 

チェレンが言う。

 

「うん。でも、今はそれでいい気がする」

 

シンがそう返すと、チェレンは少しだけ考える顔をしたあと、否定はしなかった。

 

結局、午前中は二手に分かれることになった。

 

トウヤとチェレンは先に博物館へ行き、町やジムの様子を見てくる。  ベルはムンナとミジュマルを連れて、町の外れから少しずつシッポウシティに慣らす。  シンは――そのどちらにも完全には寄らず、ベルの方へ行くことにした。

 

「そっちでいいの?」

 

ベルが歩きながら訊く。

 

「いいよ」

 

「博物館とか、気にならないの?」

 

「気になる。でも、そっちはチェレンがたぶん細かく見てくる」

 

「それはそうかも」

 

ベルが苦笑する。

 

シッポウシティの外れには、小さな広場があった。石畳ではなく、土が多めに残されていて、町の子どもたちがポケモンと遊んだり、小さな訓練をしたりする場所らしい。人通りも少なく、ムンナを慣らすにはちょうどいい。

 

ベルはまずミジュマルを出した。  次にムンナを出す。

 

ムンナは少しだけ周囲を見渡し、それからベルの近くへ寄った。  昨日の今ごろとは比べものにならない変化だったが、ベルはそれを大げさに喜ばなかった。ただ、嬉しそうに笑って「うん」と小さく頷くだけにした。

 

「どうする?」

 

シンが訊く。

 

「まずは……ほんとに軽くかな」

 

ベルは少し緊張した顔で言う。「戦うっていうより、わたしの声に慣れてもらう感じ」

 

ミジュマルが「それなら任せろ」と言いたげに胸を張る。  ベルは苦笑してその頭を撫でた。

 

「ミジュマル、今日はちょっと先輩してね」

 

ミジュマルはまんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。

 

ベルはムンナの前にしゃがむ。

 

「ムンナ、できそうならでいいんだけど……サイケこうせん、見せてくれる?」

 

ムンナはすぐには動かない。  ベルの声を聞き、顔を見て、それから少しだけ上を向く。  次の瞬間、細く揺れる光が前へ伸びた。

 

強くはない。  けれど、輪郭のある超能力の波だった。

 

「わ……」

 

ベルの目が明るくなる。  シンも少し息をのんだ。

 

「ちゃんと出た」

 

「うん……!」

 

ベルは嬉しそうに笑う。でもすぐに「ごめん、急に喜びすぎた」と声を落とした。ムンナがびくつかなかったのを見て、ようやく肩の力を抜く。

 

「もう一回、できる?」

 

今度は少しだけ長く伸びた。光の筋が空気を撫でて、広場の端の木の葉を揺らす。

 

シンは見ていて思う。

 

ベルは、前よりずっと“待てる”ようになっている。  すぐ結果を欲しがらない。相手の反応を見て、ひとつずつ進めている。それはたぶんムンナ相手だからだけではなく、ミジュマルと積み重ねてきたものがあるからだ。

 

「次、さいみんじゅつってできるかな」

 

ベルが言うと、ミジュマルがむっとしたように声を上げた。  自分を差し置いて新入りばかり、という気持ちがあるのかもしれない。

 

「あっ、ごめんごめん」

 

ベルが慌てて振り返る。「ミジュマルもやるよ! みずでっぽう見せて」

 

ミジュマルは待ってましたとばかりに前へ出る。  勢いのいい水流がまっすぐ飛ぶ。見栄っ張りなくせに、こういう時は本当に綺麗に出す。

 

「うまい」

 

シンが言うと、ミジュマルは得意げな顔をした。

 

その様子を、ムンナがじっと見ていた。

 

「……見てるね」

 

ベルが小さく言う。

 

「うん」

 

「たぶん、まだ“自分がその中に入っていいのか”見てる感じ」

 

その表現が妙にしっくりきて、シンは頷いた。

 

ミジュマルが前へ出て技を見せる。  ベルがちゃんと褒める。  その輪の中へ、ムンナが少しずつ距離を測りながら近づこうとしている。

 

新しい手持ちが加わるって、こういう時間がいるのだと思った。

 

ベルは次に、少しだけ声の調子を変えた。

 

「ムンナ、無理じゃなかったら……さいみんじゅつ」

 

ムンナの目がやわらかく細められる。  空気が、ほんの少しだけ眠たくなるみたいに揺れた。

 

「……あ」

 

ベルがふらりとした。

 

「ベル?」

 

「だ、大丈夫……ちょっと、くらっとしただけ」

 

シンは思わず笑いをこらえる。  ムンナも「やりすぎた?」みたいに少し身体をすくめた。

 

「ううん、いいの。いいよ。できてる」

 

ベルは慌てて手を振る。「ただ、わたしが思ったより近かっただけだから!」

 

その言い方に、今度はシンが吹き出した。  ベルが「笑わないでよ!」と抗議する。

 

少しずつ、空気がほどけていく。

 

ムンナはまだ慎重だ。  でも、ベルの言葉に対して動く回数は確実に増えていた。どわすれで自分の呼吸を整えるみたいに静まる仕草も見せたし、つきのひかりは昼間だからか淡くしか出なかったが、それでもちゃんと回復の光として形になった。

 

「思ってたより、しっかりしてる……」

 

ベルがぽつりとこぼす。

 

「何それ」

 

「いや、もっとこう……守ってあげなきゃって思ってたんだけど」

 

ベルはムンナを見る。「もちろんそういう気持ちはあるよ? でも、ムンナはムンナで、ちゃんとできることいっぱいあるなって」

 

シンはその言葉がいいなと思った。

 

守ることと、相手を弱いもの扱いすることは違う。  ベルはたぶん、そこをちゃんと踏み外さずにいこうとしている。

 

しばらくして、広場の向こうから声がした。

 

「思ったより順調そうだね」

 

チェレンだった。トウヤも一緒にいる。  二人とも博物館の方を見てきたらしく、町の地図や資料らしきものを少し持っていた。

 

「おかえり」

 

シンが言うと、トウヤは広場の様子をひと目見て口元を緩めた。

 

「ムンナ、ちゃんとやってる」

 

「“ちゃんと”って何!」

 

ベルが言い返す。  でもその顔にはもう朝の硬さがなかった。

 

チェレンはベルのミジュマルとムンナを見比べる。

 

「二匹とも、思ったより落ち着いてる」

 

「ね!」

 

「ただし、これから先に問題が出る可能性は普通にあるけど」

 

「うれしい時にすぐそういうこと言う!」

 

「事実だから」

 

そのやり取りを聞きながら、トウヤはトウヤで別のところを見ていた。ムンナの動き、ベルの指示の出し方、ミジュマルとの距離。その全部を流すように見て、やがて短く言う。

 

「ベル」

 

「なに?」

 

「ムンナ、君に合わせようとしてるね」

 

ベルがきょとんとする。

 

「そうかな」

 

「まだ完全に慣れてるわけじゃない。でも、“一緒に動こう”とはしてる」

 

トウヤの言葉は飾りがない分だけ重い。  ベルは少し黙って、それからムンナの方を見た。

 

「……そっか」

 

嬉しそうというより、ちゃんと受け取った顔だった。

 

チェレンが持ってきた話によると、博物館では午前のうちに館内の見学ができるらしかった。アロエ本人にすぐ会えるとは限らないが、シッポウシティの成り立ちや伝承は、町の人間でなくても学べるようになっているという。

 

「行く?」

 

シンが訊くと、ベルはムンナの様子を見たあとで頷いた。

 

「うん。今なら、みんなで行ける気がする」

 

その“今なら”に、朝より進いたものが全部入っている気がした。

 

広場を出て町の中央へ向かう途中、ベルは少しだけ歩幅を調整していた。ミジュマルだけならもっと気楽に歩けただろう。けれど今は、ムンナが不安そうに立ち止まりそうになる場所で少し速度を緩める。人の多い通りでは、先に自分が振り返って「大丈夫」と目で伝える。

 

ほんの細かい変化だ。  でも、ベルがもうひとつの“自分だけの朝”を終えて、みんなと合流したのがわかる歩き方だった。

 

シンはその少し後ろを歩きながら、自分の朝を思う。

 

結局、自分は誰かの隣を選んだ。  トウヤでもチェレンでもなく、ベルの方を。  でもそれは、遅れている方に付き添ったという感覚ではなかった。違う歩幅を見たかったし、自分もそこから何か拾いたかった。

 

旅は同じ道を歩いているだけじゃ足りない。  時々こうして、同じ朝の中で別の道を見て、それでもまた合流するから、次の景色が少し変わる。

 

博物館の大きな建物が見えてきた。

 

木と石でできた重厚な外壁。静かなのに威圧感はなく、町そのものがそこへ積み重なっているみたいな佇まいだ。

 

トウヤが先に入口を見る。  チェレンは案内表示を読む。  ベルはムンナとミジュマルの位置を確かめる。  シンはその全部を見ている。

 

朝のうち、一度は分かれた。  でも今、また並んでいる。

 

完全に同じ歩幅ではない。  それでいいのだと、昨日より少しだけ自然に思えた。

 

ベルがムンナへ小さく言う。

 

「大丈夫。次は、みんな一緒だから」

 

ムンナはベルの足元で小さく鳴いた。

 

その声はまだ控えめで、町の空気にも完全には馴染んでいない。けれど、ベルが前へ進けば、ちゃんとついてくる音だった。

 

シッポウシティの朝は、もう分かれ道を過ぎていた。

 

それぞれが少し違う方向を見て、少し違うものを優先して、それでもまたここへ戻ってきた。そのことが、次に何を選ぶかの土台になる気がした。

 

博物館の扉の前で、トウヤが振り返る。

 

「行こうか」

 

「うん」

 

四人の声は揃わない。  でも、歩き出すタイミングはほとんど同じだった。

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