博物館の表通路へ戻ってきても、さっき裏側で見たものは、四人の足から完全には離れなかった。
磨かれた床。整えられた展示。高い天井から落ちてくる静かな光。 そのどれもが数分前までと同じはずなのに、一度“うらがわ”を見てしまうと、見え方が変わる。あの骨格の展示も、古い記録の棚も、ただ綺麗に並んでいるだけではなく、その裏で誰かが守り、迷い、選んできた結果なのだとわかってしまったからだ。
アロエは四人を、館内の片隅にある小さな応接室へ案内した。
表の見学者から少し離れた、簡素だが落ち着いた部屋だった。木の机と椅子が四脚、壁際に低い棚。窓の外にはシッポウシティの並木道が見える。町の音はかすかに届くが、ここまで入ると不思議なくらい静かだった。
「座って」
アロエに促され、四人はそれぞれ席につく。 ベルは座る前に、ムンナをどうするか一瞬迷ったが、アロエが「その子もそのままでいいわ」と微笑んだので、少し安心したように足元へ視線を落とした。ムンナはベルの靴のそばに寄り、周囲を気にしながらも逃げる様子はない。ミジュマルはシンの横で腕を組むように立ち、ポカブは椅子の脚のそばに丸まり、ツタージャは窓辺の光が届く位置へ静かに身体を伸ばしていた。
アロエは椅子に座らず、机の向こうに立ったまま言った。
「まず、さっき見た通路と足跡のことだけれど」
声の調子が変わる。 館長としての柔らかさを残しつつも、その奥に、状況を見誤らないための張りがある。
「現時点では、まだ断定はしないわ。職員の誰かが古い通路を確認しただけ、という可能性もゼロではないから」
「でも、可能性は低い」
チェレンがすぐに言う。
「そう思うわ」
アロエは頷いた。「だからこそ、騒ぎを大きくする前に確かめたいの。博物館の中をひっくり返すような真似をすれば、町にも来館者にも余計な不安を与えるし、相手が本当にいるなら、こちらが気づいたことを教えるだけになる」
トウヤが椅子にもたれずに訊く。
「じゃあ、どうするんですか」
「町はずれの林を見たいの」
アロエは窓の外ではなく、その向こうにあるものを見ているような目で言った。
「さっきの古い通路は、昔の搬入経路の一部だった可能性が高いわ。だとすれば、外へ繋がる先がある。いま使われていない道でも、構造を知っている人間なら出入り口を利用できる」
シンは自然と背筋を伸ばした。 裏通路の足跡と、町の外。 そこが線になる。
「つまり、林の中に出口があるかもしれないってことですか」
「ええ。あるいは、入口ね」
アロエはそこで初めて少し笑った。「どちら向きに見るかで意味が変わるでしょう?」
ベルが小さく息をつく。
「なんか……急に事件っぽい」
「事件かどうかを、これから確かめるのよ」
アロエはそう返し、それから四人を順に見た。
「さっき、“次はジムリーダーとしてあなたたちを見る番”って言ったでしょう」
シンはその言葉を思い出す。 たしかに、そう言っていた。
「戦うだけがジムじゃないわ。目の前の状況をどう見るか、何を優先するか、誰とどう動くか。そういうものも、私は見ている」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
トウヤの目が静かに細くなり、チェレンは眼鏡に触れ、ベルは無意識にムンナの方を見る。シン自身も、心の中で何かがひとつ位置を変えるのを感じた。
これは単なるおつかいじゃない。 アロエは、彼らに「見てこい」と言っている。 何を見て、何を拾って、どう持ち帰るかを。
「もちろん、無理に危ないことをしてほしいわけじゃない」
アロエは続ける。
「林の中を見て、外側の痕跡を探して、何か不自然なものがあれば戻ってきて報告して。相手がいると決めつけて動く必要はないし、勝手に踏み込みすぎる必要もないわ」
「調べるだけ」
シンが言うと、アロエは頷いた。
「ええ。まずはそれで十分」
トウヤが短く息を吐く。
「わかりました」
「僕も異論はありません」
チェレンがすぐに続く。
ベルは一瞬だけ迷う顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「ムンナが無理そうなら途中で引くけど……行きたいです」
アロエの表情がほんの少しやわらぐ。
「そう言えるなら十分よ」
応接室を出る前に、アロエは簡単な町の地図を一枚持たせてくれた。シッポウシティの外縁、博物館の位置、町はずれの林、おおまかな古道の痕跡。細かくはないが、見当をつけるには十分な図だ。
「私は博物館へ戻って職員の確認をするわ。あなたたちは林を見て、何かあればすぐ戻ること。いいわね」
四人が頷くと、アロエは最後にトウヤへ視線を向け、次にベル、チェレン、シンを見る。
「急ぐべき時と、急がない方がいい時の見極めも、ちゃんとね」
その言葉は特定の誰かに向けたものではなかった。 だからこそ、全員に刺さった。
シッポウシティの外れへ出ると、昼前の光はもう朝の白さを失いはじめていた。
町の中の整った空気から一歩外へ出るだけで、匂いが変わる。土と草と、少し湿った木の皮の匂い。道も石畳から土へ移り、足裏の感触が急に柔らかくなる。
林は町のすぐそばにあるのに、入り口に立つと別の場所みたいだった。
木々の背はそれほど高くない。けれど葉が重なり、奥の方は薄暗く見える。下草はところどころ踏まれているが、はっきりした道というほどではない。自然のままに近いようで、人の手が少しだけ入っている。そんな中途半端さが、かえって足跡を紛らわせているようにも思えた。
チェレンが地図を開く。
「博物館の裏通路の向きから考えると、この辺りがいちばん怪しい」
「怪しいって言い方、好きだね」
ベルが言うと、チェレンは顔も上げずに返す。
「状況が怪しいんだから当然だろう」
トウヤはすでに林の端を見ている。
「“向き”はたぶん合ってる。でも、道として真っ直ぐ繋がってたなら、もっと踏まれてると思う」
「つまり?」
シンが訊く。
「隠してるか、使う頻度が低いか」
「両方かもしれないわね」
ベルが言うと、珍しくトウヤがすぐ頷いた。
「うん。たぶんそう」
そこでベル自身が少し驚いた顔をする。 当たっていたことより、トウヤが何のひねりもなく同意したことの方に驚いたらしい。
「……なにその顔」
「いや、普通に返ってくると思わなくて」
「普通に返しただけだけど」
トウヤはそう言いながら、林の入口の土へしゃがみこんだ。
シンも隣にしゃがむ。 土は乾いているようで、表面は案外柔らかい。小さな足跡や枝の擦れた跡はいくらでもあるが、人の靴底らしい形はすぐには判別できない。
チェレンが後ろから言う。
「踏み荒らさないでね。見てるものを自分たちで消したら意味がない」
「わかってる」
シンが言い返すと、チェレンは「ならいい」と淡々と返す。
ベルは少し離れた位置でムンナの様子を見ていた。 ムンナは町中よりは落ち着くのか、林の空気に入ってから呼吸がわずかにやわらいでいる。けれど、完全に安心しているわけでもない。耳のような部分がぴくぴくと揺れ、何かを探るように視線をあちこちへ向けていた。
「ムンナ?」
ベルが小さく呼ぶ。
ムンナはベルの方を見たあと、林の右奥へ視線を戻す。 ただ見ているというより、気になる方角がある、そんな反応だった。
「どうしたの」
ベルが一歩近づく。 ムンナは逃げずに、そのまま右奥を向く。
シンは立ち上がった。
「そっち?」
ベルが頷く。
「たぶん。でも、怖がってる感じでもある」
「怖がってるのに見るってことは、何かあるんだろうね」
トウヤが言う。
チェレンは地図をたたみ、周囲の木の並びを見る。
「町の外れからこの角度で入ると、ちょうど博物館の裏手と線が合う」
「じゃあ行こう」
トウヤがすぐに歩き出そうとするのを、ベルが止めた。
「ちょっと待って」
全員が振り返る。
ベルはムンナの前にしゃがみこんでいた。
「ムンナ、無理なら言ってね」
もちろん返事は言葉にならない。 でもムンナは、ベルの声を聞いてから少しだけ身体の力を抜いた。 それを見てベルも頷き、立ち上がる。
「行ける」
「了解」
トウヤはそれだけ言って、今度は急がずに先へ進いた。
林の中は、外から見たより足場が悪かった。倒木こそないが、根が浅く張り出していて歩きにくい。下草も膝ほどの高さで絡みやすく、少し進くだけでも速度が落ちる。
こういう道だと、四人の歩き方の違いがよく見えた。
トウヤは足場の悪い場所をほとんど迷わず選ぶ。 チェレンは一歩ずつ確認しながらも、全体の位置を見失わない。 ベルはムンナに合わせて時々立ち止まり、ミジュマルと一緒に後ろを気にする。 シンはその間を埋めるように、前も後ろも見ながら進く。
十分ほど歩いたところで、トウヤが突然立ち止まった。
「ここ」
指さした先には、一見なんでもない地面があるだけだった。 だが近づいて見ると、草の倒れ方が不自然だった。上から押さえつけられたように、一列だけ向きが揃っている。
チェレンがしゃがみこみ、指先で土の表面を崩す。
「最近だ」
「わかるの?」
ベルが訊く。
「完全には。でも、古い倒れ方ならもう少し戻ってる。これはまだ癖が残ってる」
シンも横から見る。 たしかに、風で倒れたというより、人が通ったあとに踏み起こしきれなかった感じがある。
「こっちへ誰か歩いたんだ」
「少なくとも何かはね」
チェレンが立ち上がる。
その線を辿るように進むと、木々の密度が少し増した。外からだとただの茂みにしか見えない場所だ。だが中へ踏み込むと、古い石積みの一部が半分土に埋もれているのが見えた。
「……人工物だ」
シンが呟く。
石は自然に転がっているのではなく、並べられていたものが崩れた形をしている。壁か、道の縁か、何かの基礎か。時代まではわからないが、ここに昔、人の手が入っていたのは間違いない。
トウヤが蔦を払う。 その奥に、斜めに地面へ沈むような窪みがあった。
「穴?」
ベルが身を乗り出しかける。 チェレンがすぐに止める。
「不用意に近づかないで」
「わ、わかってる!」
シンはしゃがんで、窪みの縁を見た。 完全な穴ではない。石の枠があり、その先へ暗がりが続いている。埋まりかけた入口――そう見えた。
「古い通路だ」
言ったのはトウヤだった。
チェレンも頷く。
「博物館の下で見た構造と似てる。おそらく外側の出入口のひとつだ」
ベルの足元で、ムンナが小さく鳴いた。 警戒と不安が混ざった、短い声だった。
「大丈夫、大丈夫」
ベルがなだめるように言う。 けれどその視線は入口から離れない。
「ここ、使われてるのかな」
シンが訊くと、チェレンは無言で入口脇の石に触れた。 その指先に、薄い茶色の粉がつく。
「……土の付き方が新しい。完全に放置されてる感じじゃない」
「つまり?」
「出入りしたやつがいる」
短く言ったトウヤの声に、林の空気が少しだけ冷える。
その時、ミジュマルが低く声を上げた。
シンはすぐに振り返る。 後ろの茂みが、かすかに揺れた。
「誰かいる?」
ベルの声が硬くなる。
トウヤが身体の向きを変える。 チェレンも一歩下がって全体を見た。 シンはミジュマルの前へ半歩出る。
だが、飛び出してきたのは人ではなかった。 小さなモグリューが一匹、驚いたように顔を出し、こちらを見てから慌てて土の中へ潜っていく。
全員が一拍遅れて息を吐く。
「びっくりした……」
ベルが膝から力を抜きかける。 けれどその直後、ムンナがまた違う方角へ顔を向けた。
今度は入口ではない。 そこからさらに林の奥、左寄りの方向だ。
「また?」
シンが言う。
ムンナは視線を逸らさない。 ただ怖がるだけではなく、何かを感じている顔だった。
ベルがその反応を見て、少し迷ってから口を開く。
「ムンナ、よちむ……っていうほど、はっきり見えてるわけじゃないよね」
たしかめるような言い方だった。 ムンナは答えない。 けれど、そのまま同じ方向へ意識を向け続ける。
チェレンが低く言う。
「入口そのものより、その先の“気配”に反応してるのかもしれない」
「追う?」
トウヤが訊く。
早い。 けれど無茶な声ではない。 判断を委ねるための一言だ。
シンは林の奥を見る。 何も見えない。 ただ、何かがあってもおかしくないだけの深さがある。
ベルはムンナと、自分の足元と、入口と、奥の暗がりを順番に見た。 昨日までのベルなら、ここで完全に引きたくなっていたかもしれない。あるいは逆に、気持ちだけで前へ出ていたかもしれない。
でも、今のベルは違った。
「……少しだけ」
静かに言う。
「少しだけ見たい。でも、ムンナが崩れそうなら戻る」
チェレンがすぐ頷く。
「それでいい」
「賛成」
シンも言う。
トウヤはすでに頷いていた。
四人は古い入口から離れ、ムンナが反応した方向へ足を向けた。
林の奥は、さらに人の通った痕跡が薄いはずだった。 だが数分も進かないうちに、今度ははっきりした形で“人の残り方”が現れた。
折れた細枝。 靴底の角が残った土のへこみ。 そして何より、木の幹に浅く擦れた跡。
何かを抱えて急いだ人間が、狭い間を無理に抜けた時につくような傷だった。
「……運んでる」
トウヤが呟く。
「何かを?」
シンが訊くと、トウヤは頷いた。
「手ぶらなら、こんな当たり方しない」
チェレンも幹を見て言う。
「しかも一度じゃない。何回か通ってる可能性がある」
ベルの顔がこわばる。
「じゃあ、博物館から何か……」
「まだ決めつけるな」
チェレンが言うが、その声には自分自身へ向けた制止も混じっていた。
その時だった。
林のさらに向こう、木々の切れ目の先から、かすかに乾いた音がした。
コツ、という、小さな靴音のような。 あるいは木片がぶつかるような。
全員が同時に動きを止める。
風はない。 鳥ポケモンの鳴き声も、今は遠い。
音は一度きりではなかった。 少し間を置いて、また鳴る。
コツ。 コツ。
シンの喉が小さく上下する。 人だ。 たぶん。
トウヤが振り返らずに言う。
「戻るか、見るか」
選択肢は二つだけだった。
アロエは“調べるだけでいい”と言った。 無理に踏み込む必要はない。 でも、ここで引けば、この音の正体はわからないままになる。
ベルの足元で、ムンナが緊張したように身体を寄せる。 ミジュマルも、今度はふざけた様子を見せずに前を向いていた。
シンは、音のした方角を見たまま言う。
「近づきすぎないで、位置だけ見るのは?」
チェレンがすぐ反応する。
「ありだね。確認だけなら」
「うん」
トウヤが短く答える。
ベルも一拍遅れて頷いた。
四人はできるだけ足音を殺して、木々の切れ目へ近づいた。
そこから先は、林が少し開けていた。 草の低い空き地。 崩れた石垣。 そして、その向こうに見えたのは――古びた倉庫跡だった。
屋根は半分落ち、壁板も一部剥がれている。だが完全な廃墟ではない。朽ちているわりに、入口まわりだけ妙に踏み固められていた。
そして、倉庫の影に、誰かがいる。
姿ははっきり見えない。 けれど、人の気配だけは確かだった。
ベルが息をのむ。 チェレンがわずかに目を細める。 トウヤの重心が前へ寄る。 シンは無意識にミジュマルの前へ手を出していた。
古い通路は、ここへ繋がっている。 そう思うには十分だった。
林の匂いの奥で、また足音が鳴る。
四人は言葉を交わさないまま、その倉庫跡を見つめていた。
表には見えない通路。 町の外から博物館へ伸びる気配。 そして、その先にある人の出入り。
“うらがわ”は、まだ終わっていなかった。