林の切れ目から見えた倉庫跡は、遠目にも妙だった。
古い。 たしかに古い。 壁板は黒ずみ、屋根の一部は落ち、石垣も半分ほど崩れている。使われなくなって長い建物に見えるのに、入口のまわりだけは土が踏み固められていた。草の伸び方も不自然に薄い。朽ちた場所のくせに、“いまも人が触っている形”だけがそこに残っている。
そして何より、音がした。
コツ。 コツ。
中で誰かが歩いているのか、外で荷を置いたのか、そこまではわからない。けれど鳥でも風でもない、人の手や足が出す小さな乾いた音だった。
誰もすぐには動かなかった。
シンは、喉の奥が少し張るのを感じながら、視線だけを倉庫へ固定する。ミジュマルも低く身を沈めて、こちらの緊張をそのまま真似るみたいに前を見ていた。
トウヤが、ごく小さな声で言う。
「二人以上、いるかも」
「見えたの?」
ベルが息だけで訊く。
「音の間が違う」
シンは横目でトウヤを見る。 たしかに、さっきの音は一定ではなかった。ひとりが歩く規則正しさではなく、少しずつ間の違う気配が重なっていた気がする。
チェレンがしゃがんだ姿勢のまま、小さく言う。
「ここで突っ込むのはなしだ」
「わかってる」
トウヤの返事は短いが、反発はない。
「位置だけ見る。できれば、何をしてるかも」
シンが言うと、チェレンが頷く。
「それならいい。見つかったら即引く。追うのはしない」
ベルはムンナに手を添えたまま、倉庫を見ている。ムンナの身体は小さくこわばっていた。怖がっている。けれど逃げたがっている感じとは少し違う。むしろ、近づくべきじゃないと警告しているような緊張だった。
「ムンナ」
ベルがほとんど囁くように呼ぶ。 ムンナはベルを見上げ、それからまた倉庫へ目を戻した。
「無理ならここで待っててもいいよ」
その言い方は、相変わらずベルらしかった。 できるなら来て、ではなく、無理なら無理でいい。先に逃げ道を残してやる言い方だ。
けれどムンナは動かない。 ベルの足元に寄り、そこから離れないまま、倉庫の方を見ていた。
「行けるってことかな」
シンが小さく言うと、ベルは自信なさそうに頷いた。
「たぶん」
四人は、林の中を半円を描くように移動することにした。
倉庫を真正面から見る位置は危険すぎる。だから木々を盾にしながら、少し横へ回り込み、建物の側面と裏手が見える場所を探す。トウヤが先に進く。足音がしない。後ろから見ていても、どこに重心を置いているのかわからないくらい自然に枝を避けていく。
チェレンはその少し後ろで、木の配置と建物の形を見ている。視線は忙しいのに、動き自体は抑えられていた。ベルはムンナとミジュマルの様子を見ながら進くため少し遅い。シンはそのあいだを埋めるように、前と後ろを両方意識した。
倉庫の横手まで回ると、壊れた板壁の隙間から中が少し見えた。
暗い。 だが完全な闇ではない。 天井の穴から光が落ちていて、床の一部だけが白っぽく浮いている。
中には木箱がいくつか積まれていた。 どれも古びたものだが、積み方が新しい。乱雑ではなく、出し入れしやすいように寄せてある。壁際には布で包まれた細長いものが二つ三つ。倉庫の廃れ方に対して、中の配置だけが妙に“使うため”の形をしていた。
そして、人影。
入口に近いところにひとり。 奥の木箱の陰に、もうひとり。
揃いではないが、見覚えのある白っぽい服の端が見えた。
ベルの肩が、ぴくっと揺れた。
「プラズマ団……?」
声にならないくらい小さい音だったが、シンにもわかった。 夢の跡地で見た連中と同じ、あの妙に芝居がかった白い服だ。
トウヤが壊れた壁の隙間に目を寄せたまま、低く言う。
「たぶん」
倉庫の中で、男のひとりが木箱を蹴るように押した。
「だから、今はまだ運ぶなって言われただろ」
「わかってるよ。けど、あっちが閉まる前に位置だけ合わせときたいんだよ」
もうひとりが答える。
四人は息を止めるようにして耳を澄ませた。
「あの館長、思ったより勘が鋭い。昨日の時点でこっちの気配に気づいてたら面倒だ」
「なら今夜のうちに済ませるしかないだろ。博物館の表からは無理でも、通路がまだ生きてるなら――」
そこで会話が途切れた。 男のひとりが何かを持ち上げたらしく、木が擦れるような音がする。
シンは、胸の奥が小さく沈むのを感じた。
通路は本当に使われていた。 しかも、これから使うつもりでいる。
チェレンが、ごく小さくシンの腕を叩いた。 “十分だ、戻る”という合図だった。
シンも頷きかける。 その時だった。
ムンナが、ぴくりと顔を上げた。
倉庫の中ではない。 彼らのいる右後方、林の浅い影の方だ。
シンも反射的にそちらを見る。
誰かいる。
姿までは見えない。 けれど、枝の揺れ方が自然じゃない。風もないのに、一本だけ細い枝先が戻りきらずに震えていた。
見張りだ。
そう思った瞬間、トウヤの重心が変わる。
「引くよ」
囁くというより、息で押し出すような声だった。
だが遅かった。
右後方の茂みから、ひとりの男が顔を出した。 白い服。 細い目。 見つかったことをすぐには叫ばず、むしろ確認するみたいにこちらを見てくる。
シンは先に動いた。
「ミジュマル!」
ミジュマルが飛び出す。 相手に体当たりするためではない。男と倉庫の間に割って入り、声を上げさせる前に一瞬でも意識を逸らすためだ。
だが男も速かった。
「チッ、ガキか!」
腰のボールに手がかかる。
「ベル!」
シンが叫ぶより早く、ベルの声が飛んだ。
「ムンナ、さいみんじゅつ!」
空気が揺れる。
ムンナの目が細まり、男の動きが一瞬だけ鈍る。完全に眠りへ落ちるには浅い。けれど、ボールを投げる指が止まるには十分だった。
トウヤがその半拍を逃さない。
「ツタージャ、まきつく!」
緑の身体がしなり、男の腕へ絡みつく。完全に押さえ込む形ではない。だがボールを離させるには足りた。落ちたボールが土に転がる。
「下がって!」
チェレンの声が鋭く飛ぶ。
倉庫の中のもうひとりが気づいたのだ。 中から乱暴に板を蹴る音がして、白い服の男が顔を出す。
「何だ!?」
「見つかった!」
眠りかけていた見張り役が叫び、状況が一気に動いた。
シンはミジュマルを前へ出す。
「みずでっぽう!」
一直線の水流が、倉庫の出入口の土をえぐる。相手そのものを狙うより、足場を崩して一歩遅らせる狙いだった。飛び出してきた男が舌打ちしながら身を引く。
チェレンがすぐ続ける。
「ポカブ、ひのこ!」
火の粉が板壁の手前で弾け、相手の前へ壁みたいに散る。燃やすためではなく、出にくくするための一手だ。
ベルはムンナの前に膝をつきそうになるのをこらえながら叫ぶ。
「ムンナ、大丈夫、もう一回……できる?」
ムンナは怖がっている。 それでもベルの声を聞いて、息を整えるように目を閉じた。 どわすれだ、とシンは気づく。 自分の揺れを一度鎮め、崩れないように立て直している。
その数秒で、相手の男は倉庫の中へ半歩退いた。 逃げるのか、別のポケモンを出すのか判別がつかない。
「追わないで!」
チェレンがトウヤへ飛ばす。
トウヤは前へ出かけていたが、その声で止まった。 止まった上で、視線だけは相手を切らない。
「でも逃げる」
「だからって中へ入るな!」
「……わかってる」
そのやり取りのあいだに、倉庫の奥から別の音がした。 木箱が倒れるような、重い布を引くような音。 相手は、何かを持って奥へ抜けようとしている。
「裏だ!」
シンが声を上げる。 倉庫には正面だけではなく、裏の抜け道があるのだ。
トウヤがその瞬間だけシンを見た。 言葉はいらない。 どちらへ回るかだけが決まればいい。
「シン、右!」
「うん!」
シンとトウヤは同時に駆けた。 倉庫の外周は崩れた石と雑草で回りにくい。だが正面から中へ入るよりはましだ。ミジュマルが先に飛び、ツタージャが木の根を避けるように滑る。
後ろではチェレンとベルが正面を抑えている。 ポカブのひのこが追い立て、ムンナが今度こそ深くさいみんじゅつを重ねたらしい。短く慌てた声が聞こえた。
倉庫の裏手へ回ると、小さな抜け口があった。
壊れた板を外しただけの、無理やり作ったような出口だ。その脇を、白い服の男が布包みを抱えて走ろうとしていた。
「止まれ!」
シンが叫ぶ。
男が振り返る。 その顔には焦りより苛立ちが濃かった。
「どけ、ガキ!」
ボールが投げられる。 飛び出してきたのはチョロネコだった。低く身を沈め、細い目でこちらを睨む。
シンは一瞬だけ息を詰める。 だが、迷っている暇はなかった。
「ミジュマル、たいあたり!」
真正面ではなく、横から。 布包みを抱えた男とチョロネコの線をずらすようにぶつける。チョロネコは軽く宙へ浮き、男の足が止まる。
「ツタージャ、にらみつける」
トウヤの声が低く落ちる。 一瞬の硬直。
「今だ、ミジュマル!」
「みずでっぽう!」
水流が男の手元を打つ。 布包みが滑り落ちた。男は反射的にそれを取りに屈みかけるが、その分だけ遅れる。
そこへチェレンの声が横から飛んできた。
「ポカブ、ひのこ! 足元!」
追いついたのだ。 火の粉が男の逃げ道側の草を焼き、進路を狭める。
ベルも遅れて駆けてくる。
「ムンナ、サイケこうせん!」
細く鋭い光が、チョロネコの進路を斜めに切る。 直撃ではない。だが空気を裂く圧にチョロネコが身をひるませ、その隙にミジュマルがもう一度前へ出た。
男は舌打ちして、布包みを諦めた。
「くそっ……!」
「待て!」
トウヤが一歩踏み出す。 だが今度はチェレンではなく、シンが先に言った。
「追うな!」
トウヤの足が止まる。
林の奥へ逃げる背中を追えば、たぶん追えないことはない。 でも、ここには布包みと倉庫が残っている。 何を運ぼうとしていたかがわかるなら、そっちの方が大きい。
トウヤは一瞬だけシンを見た。 それから、前ではなく地面に視線を落とし、小さく息を吐く。
「……だね」
男はそのまま林の奥へ消えた。 チョロネコも後を追う。
静けさが戻る。
ベルが膝に手をついて息を整えた。 ムンナもぐったりはしていないが、かなり消耗した様子でベルのそばへ寄る。ベルはすぐしゃがみこんで、そっと頭上に手をかざした。
「すごい、頑張った……大丈夫、もういいよ」
ムンナは小さく鳴く。 怖がっている。けれど、逃げ腰ではない。その声に、昨日のムンナにはなかった“踏みとどまり方”が混じっていた。
チェレンは逃げた方向を確認したあと、布包みへ視線を戻した。
「開ける?」
ベルが訊く。
チェレンは少し迷ったが、頷く。
「中身次第だ。何を運ぼうとしてたか見ないと」
シンがしゃがみ、布の端をほどく。 思ったより軽い。 慎重に開くと、中から出てきたのは石版の欠片のようなものだった。
完全な一枚ではない。 角が欠け、表面には古い文様の一部だけが残っている。けれど、それがただの石でないことは一目でわかった。
「これ……博物館の?」
ベルが言う。
チェレンが欠片を見つめる。
「断定はできない。でも、あの博物館にあってもおかしくない種類だ」
「ってことは、もう盗んでたの?」
シンが訊くと、チェレンは首を横に振る。
「いや、たぶん違う」
「なんで」
「包み方が雑すぎる」
チェレンは石版の縁を見ながら続ける。
「本当に重要な展示品をすでに持ち出してるなら、こんな仮運びみたいな扱いはしない。むしろこれは――」
「試してる」
トウヤが言った。
全員がそちらを見る。
トウヤは倉庫の抜け口と、林の方角と、包みを順に見ていた。
「通路がまだ使えるか、どれくらいの大きさまで運べるか、誰にも見つからずに回せるか。そういうのを試してる感じ」
シンは息を呑む。 それなら筋が通る。
古い通路。 倉庫跡。 少しずつ残る痕跡。 全部が“本番の前”の動きだったのだとしたら――
「まだ、これからなんだ」
ベルの声が細くなる。
チェレンも頷いた。
「たぶんね。本当に狙ってるのは、もっと別のものだ」
ムンナが、そこでまた小さく身体を揺らした。 さっきほど強い反応ではない。 けれど不安げに、博物館のある方角へ顔を向ける。
ベルがその視線を追い、はっとする。
「戻った方がいい」
シンも同時にそう思っていた。
いま見つけたことだけでも十分大きい。 でも、もっと重要なのは、この情報を誰より先にアロエへ返すことだ。
トウヤはもう立ち上がっている。
「急ぐ」
「うん」
シンも立ち上がる。 ミジュマルがすぐに足元へついた。
その時、チェレンが布包みを抱え上げた。
「証拠になる。持っていこう」
「重くない?」
ベルが訊く。
「大丈夫」
そう言いながらも、チェレンは抱え方をすぐ調整した。片手が塞がる形では走りにくいと判断したのだろう。
ベルはムンナを見た。
「走れる?」
ムンナは疲れている。 でもベルの声に、きちんと顔を上げた。
「無理なら戻してもいいよ」
数秒迷ってから、ベルは自分で首を振った。
「……いや、出てた方がいいかも。気配、見てほしい」
その言い方は、もう“守られるだけの新入り”として見ていない響きだった。 ムンナもそれを受け取ったように、ベルの横につく。
四人は林を戻りはじめた。
来る時より速い。 けれど無茶にはならない。 トウヤが前で足場のいい線を見つけ、シンがその後ろで全体の間を繋ぎ、ベルはムンナとミジュマルを見ながら遅れない位置を保ち、チェレンは布包みを抱えたままでも進路を見失わない。
走りながら、シンはふと気づく。
さっき倉庫裏でトウヤを止めたのは、自分だった。 追うな、と言った。 たぶん正しかったと思う。 でも、もし少し前の自分だったら、あの言葉は出なかったかもしれない。
誰かが決めるのを待っていたか、 誰かの後をそのまま追っていたか。
いまは違う。 ほんの少しだけ、自分で全体を見て選んだ。
林を抜け、町はずれが見えた時、ベルが苦しそうに息を吐きながらも笑った。
「ムンナ、ちゃんとついてきてる」
ムンナは疲れていた。 それでも遅れず、ベルのすぐ横にいた。細い身体を揺らしながら、ちゃんと“いま必要な方”へ意識を向けている。
シンはそれを見て、胸の奥が少し熱くなる。
昨日の朝、町に入ることさえ迷っていたムンナが、今はベルと一緒に“戻るべき場所”へ走っている。
それは小さい変化じゃなかった。
博物館が見えた時には、全員かなり息が上がっていた。
入口前には、アロエがいた。 待っていたのではない。ちょうど職員と話していたらしい。だが四人の様子を見た瞬間、表情が変わる。
「何かあったのね」
チェレンが抱えていた布包みを差し出す。
「林の奥の倉庫跡で、これを。あと、古い通路に繋がる痕跡もありました。人もいた」
アロエは包みの中身を見た瞬間、目の色を変えた。
「……これは」
彼女はすぐに職員へ何か指示を飛ばし、四人を中へ促す。
「詳しく聞かせて」
トウヤが短く言う。
「試してた感じです」
「試してた?」
「通路。運搬。倉庫。全部」
シンが息を整えながら続ける。
「本番の前の確認みたいでした。たぶん、本当に狙ってるのは別です」
アロエは数秒黙った。 その沈黙は重かったが、迷いの沈黙ではなかった。 何を守るべきか、何から手をつけるべきか、もう頭の中で並べはじめている沈黙だった。
やがて彼女は四人をまっすぐ見た。
「間に合ったかもしれないわね」
その言葉に、ベルが小さく息をのむ。
間に合った。 まだ、これからだ。
けれど同時に、それは“これから何か起きる”という意味でもあった。
博物館の静かな空気の中で、林で拾ってきた足音だけがまだ耳に残っている気がする。
コツ。 コツ。
見えないところで動いているものがある。 それはもう、想像や不安だけではなく、確かな形を持ちはじめていた。
シッポウシティの表側は、まだ静かなままだ。 でもその裏では、今夜にも何かが動くかもしれない。
シンはミジュマルの頭へ軽く手を置いた。 ベルはムンナを見て、小さく「ありがと」と呟いた。 チェレンは息を整えながらも次の整理を始めている顔をしていた。 トウヤはすでに、次にどこへ出るかを考えている目をしていた。
倉庫跡の足音は、まだ止んでいない。
ただ、今度はそれを追う側が、少しだけ間に合う位置に立てたのかもしれなかった。